三日坊主日記

本を読んだり、映画を見たり、宗教を考えたり、死刑や厳罰化を危惧したり。

悪はなぜ存在するか(3)

2024年08月09日 | キリスト教
神義論における悪がなぜ存在するのかという説明を、本多峰子「悪の問題にむかう 神学と文学における考察に関する試論」では6つあげています。
https://core.ac.uk/download/pdf/229742825.pdf

スティーヴン・T・デイヴィス編『神は悪の問題に答えられるか』などを参考にして、それらの説明します。

①神の罰「われわれの苦しみは、神の罰である」
三宅威仁「神義論の諸相」にこのように書かれています。
file:///C:/Users/enkoj/Downloads/003081020001-2.pdf

旧約聖書に、災難(軍事的敗北や自然災害など)は人間の犯した罪に対するヤハウェの罰であるという考えがあり、人々はそれを多かれ少なかれ受け入れていた。
災難は神の試練であるとか、前世からの因縁であるとか、成仏していない霊の障りであるなどとして説明されてきた。
病気を人間の犯した罪に対する神の罰として説明する場合を考えると、この説明では、どういう原因で病気になったのかという疑問に対する答えと、「なぜ他ならぬこの私が病気に罹らなければならなかったのか」という答えが一致していた。

しかし、近代においては、なぜ私がウイルスに感染しなければならなかったのかは説明してくれない。
偶然としか言いようがないが、それでは苦難の「必然性」「当然性」を求める心理を満たしてくれない。

昔は宗教は科学でした。
災害や病気の原因を教え、災害から免れ、病気を治す方法を宗教は教えてくれました。
災厄は自分のせいだ、バチが当たったと考えるのが普通だったのです。
自分の過去の行いだけでなく、前世や先祖の行いもバチの対象でした。
しかし、現代では病気は細菌やウィルスが原因であり、ほとんどの人は神のバチだとは考えません。

本多峰子さんは、われわれの苦しみは神の罰であるという見方は、苦難にあう者は罪があるという偏見につながる可能性があり、取るべきではないと否定します。
ドストエフスキー『カラマゾフの兄弟』でイヴァンが言うように、大人だったらバチが当たることをしているかもしれませんが、子供がなぜ神によって罰せられなければいけないのかと思います。

②神の摂理「すべては神の神秘であり、人間の知の及ぶものではない。すべてに神の摂理があると信じて受け入れるべきである」
摂理とは、神の計画であり、その計画によって目標に導くことです。
神の考えは私たちにはわかりませんが、終末に明らかとなるとされます。

スティーヴン・T・デイヴィス編『神は悪の問題に答えられるか』に、神の摂理について書かれています。
我々は全体の中のごく一部しか見ることができないから、なぜという疑問を生じる。
しかし、私たちには説明がつかないことも、神には説明ができる。
終末には苦しみの意味がすべてが明らかになり、苦しんだ人たちも些細に思えるようになる。
今は完成に至る道の途中にすぎない。

わたしは、今は一部しか知らなくとも、その時には、はっきりと知られているようにはっきりと知ることになる。(『コリントの信徒への手紙』)
現在の苦しみは、将来わたしたちに現されるはずの栄光に比べると、取るに足りないとわたしは思います。(『ローマの信徒への手紙』)

ドナルド・B・クレイビル、スティーブン・M・ノルト、デヴィッド・L・ウィーバー-ザーカー『アーミッシュの赦し』にこうあります。
神は人に選択の自由を与えているが、最終的な支配者は神であり、特定の目的のために何かを起こしたり、起こるのを許したりすることがある。
神が描く全体像をもし見られるならば、現時点で現れた悪は、やがてより大きな善に取り込まれるはずである。
神が司る世界では、悪が起こる理由を知りえない。

ジェフリー・S・ローゼンタール『それはあくまで偶然です 運と迷信の統計学』はそうした考えを批判しています。
神は私たちに自由意志を与えた。だから、戦争や殺人や迫害といった、人間によって引き起こされた悲劇は説明がつくと言う人もいる。けれど、人間ではなく自然の力によって引き起こされた悲劇はどうなのか? 全知全能で、無限の慈悲心を持つ神がいるのなら、そのような悲劇はどうすれば説明がつくのか? 悪魔の仕業だとか、私たちを試す神のやり方だとか、神は私たちにはとうてい理解できない奇妙で謎めいた形で振る舞うといか主張する人もいるかもしれない。けれど、こうした返答のどれ一つとして、あまり説得力があるようには思えない。むしろその逆で、良いことはすべて神のおかげとしながら、悪いことはいっさい神のせいではないとする、「バイアスのかかった観察」の運の罠という欠陥を抱えている。

運の罠とは、間違った結論を引き出させかねない状況のことです。

永井隆『長崎の鐘』(昭和24年刊)に、長崎への原爆投下は神の摂理だと書かれているそうです。
米軍の飛行士は浦上を狙つたのではなく、神の摂理によつて爆弾がこの地にもち来たらされたものと解釈されないこともありますまい。(略)これまで幾度も終戦の機会はあつたし、全滅した都市も少なくありませんでしたが、それは犠牲としてふさわしくなかつたから神は未だこれを善しと容れ給わなかつたのでありましよう。然るに浦上が屠られた瞬間始めて神はこれを受け納め給い、人間の詫びをきき、忽ち天皇陛下に天啓を垂れ終戦の聖断を下させ給うたのであります。

ジェフリー・S・ローゼンタールが言うように、なぜ災害で大勢が死亡するのか、なぜ戦争で大勢が殺されるのか、そうしたことの理由が終末ですべてが明らかになるという説明は説得力がないように思います。
コメント
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