永山則夫事件の第二審の裁判長だった船田三雄氏が、退官後に弁護士会で行なった死刑の勉強会での話を、堀川惠子『死刑の基準』は紹介しています。
船田三雄氏は、若いころに担当した二件の裁判で、死刑事件に対する裁判所のあり方に大きな疑念を抱くという経験をしていた。
1953年に起きたバー・メッカ殺人事件の加害者は、裁判で罪を全面的に認め、キリスト教に帰依し、贖罪の日々を送るようになった。
しかし、一審で死刑、最高裁で死刑が確定した。
1954年のカービン銃事件では、会社社長を呼び出し、小切手を奪って殺害し、一審では死刑判決だったが、二審で無期懲役。
どちらの事件でも左陪席だった船田三雄氏は、バー・メッカ殺人事件は無期懲役が相当(初犯であること、被害人数が1人であること、犯行後に更生(『死刑の基準』ではすべて「更正」となっている)に向けて生きようとしている姿があること)で、カービン銃事件は死刑相当と思ったという。
船田三雄氏が疑念を抱いたのは、もし自分が裁判長であれば、それぞれの裁判は結果が逆になっただろうことにである。
つまり、裁判所で同じ事件を審議するのに、死刑になるか否かが問われるときに、裁く人(裁判官)によって結果が違うような状態でいいのか、ということだ。
船田裁判官が若き日に直面した二つの裁判は、「死刑」か「無期懲役」かを争う裁判だった。
人間の命がかかった裁判なのに、ある裁判官だと処刑、別の裁判官だったら生きることを許される。
これは、運が良いとか悪いとかで片づけられる次元の話ではない。
船田三雄氏は、永山事件控訴審で無期懲役判決を出したため、「もともと死刑廃止論者だった」「ハト派だった」と評される向きもあった。
しかし、1973年、水俣病被害の補償についてチッソ社長への面接を求めて社内に立ち入ろうとした被告人らを阻止しようとした社員に、被告人が怪我を負わせたという水俣病自主交渉チッソ本社事件で、弁護団と被告人が裁判長の命令を無視して許可なく法定外に出ていったので、船田裁判長は法廷に内側から鍵をかけ、弁護団と被告人の再入廷を認めず、弁護人と被告人が不在のまま審理を続行している。
『裁判官紳士録』(1981年刊)には、船田三雄氏について「被告人の実態像と取組もうとする姿勢がない。訴訟進行が事務処理的。(略)判決は紋切り型」と記述されている。
この船田三雄氏が、1980年から始まった控訴審の裁判長だったのである。
堀川惠子氏はなぜ永山則夫に関心を持ったのか。
2009年、光市母子殺害事件の差し戻し審の判決が出たとき、記者が大きな声で「主文は後回しです。死刑判決が濃厚です!」と繰り返したら、広島高裁の外で判決を待っていた市民たちから拍手と歓声があがった。
このことを知った堀川惠子氏は、一体どういうことかと耳を疑い、「死刑」に対して拍手と歓声があがったことに戦慄を覚えた。
二審の広島高裁(無期懲役)の判決文にも、差し戻し審の広島高裁(死刑)の判決文にも永山裁判の判決文を引用されているが、判断を分けた。
そこで、堀川惠子氏は永山則夫を調べてみようと決心したという。
こうした経緯があるためか、『死刑の基準』(2009年刊)は永山則夫のことを語りながら、光市母子殺害事件の被告と重ね合わせている部分があるように感じます。
永山事件控訴審の判決文の一部。
永山則夫の無期懲役の判決に対し、週刊誌などは、連日、船田判決を批判したそうです。
永山裁判の一審で1976年から死刑判決が下される1979年まで右陪席を務めた豊吉彬氏は、最近の死刑判決やマスコミの動向には危惧を感じていると語っています。
マスコミにもきちんと役割を果たしてほしいですね。最近は反対のことが目立つ感じがします。刑事裁判というのはあだ討ちの場ではないのですから、被害者がこういっているから死刑というのはね、本来は正面からいうべきことじゃないと思うんです。国家が被害者に代わってあだ討ちをするようなことになってはいけないと思います。
「社会を明るくする運動」の作文コンテスト法務大臣賞の作文がすばらしいです。
柴田嘉那子さん(小学校6年)「大切な魔法の言葉」
柴田さんの両親は児童自立支援施設で寮舎運営を担当していた。
家庭環境に恵まれず、非行に走ったり、虐待を受けたりして、人間不信、大人不信をもつお兄ちゃんたちは、家庭裁判所の審判の結果、入所し、柴田さんの両親がお父さんがわり、お母さんがわりをしていた。
入所前まで、「おかえり」と言われたこともなければ、誕生日を祝ってもらったことのないお兄ちゃんもいた。
お兄ちゃんたちは、柴田さんの誕生を楽しみに待ち、成長の変化に両親よりも早く気づき、一番喜んでくれた。
「おかえり。」
と言葉をかけてくれるよき理解者がいるのだろうか。安心・安全な居場所を、現在、もてているのだろうか。
金澤寿靖さん(中学校3年)「笑顔で挨拶まずはそこから」
金澤さんの祖父は農作業の帰りに、駅でタバコの吸い殻を拾い、道端におかれている空き缶やペットボトルを拾っていた。
金澤さんが小学生のとき、いつものように駅を通りかかると、タバコを吸っている茶髪の高校生たちがいた。
祖父は吸い殻を拾い、「こんにちは」と笑顔で声をかけた。
次の日、同じように駅を通りかかると、タバコを吸っていた高校生が祖父の顔を見るなり、あわててタバコを消し、吸い殻を隠した。
祖父は「こんにちは」と声をかけたら、彼らはぺこりと頭を下げた。
驚いた金澤さんが祖父にたずねると、祖父はこのように答えた。
以前はタバコを吸ったり、ゴミを平気で捨てる高校生には厳しく注意をしていたが、注意すればするほどいたずらや迷惑行為が増えていった。
祖父が保護司をしている旧友に愚痴をこぼすと、旧友はこんな話をしてくれた。
祖父は、みんなが嫌う子たちを見たら、受け止めてあげよう、居場所を作ってあげたいと思う、と語った。
中学生になった金澤さんがあらためて考えると、居場所を作ってもらっているのは祖父のほうではないか。
二人の文章を読み、永山則夫のまわりにも、こんな人たちがいたらと思いました。
それにしても、犯罪や非行を犯した人を地域が受け入れ、立ち直りに協力するという「社会を明るくする運動」を主唱している法務省が、その一方で、社会から究極的に排除する死刑制度を維持しているのはどういうことかと思います。