三日坊主日記

本を読んだり、映画を見たり、宗教を考えたり、死刑や厳罰化を危惧したり。

芥川龍之介『孤独地獄』と山村暮鳥『いのり』

2004年11月24日 | 

芥川龍之介の母親の大伯父は津藤という大通人で、河竹黙阿弥らのパトロンだった。
母が津藤から聞いたという話が『孤独地獄』である。

津藤が吉原の店で禅寺の住職と知り合いになる。
この禅僧、大酒飲みで、持ち物に贅を尽くし、女色にのめりこんでいる。
ある時、禅僧がこういうことを津藤にもらす。

孤独地獄は忽然として現れる。自分は二、三年前からこの地獄に堕ちた。それ以来、その日その日の苦しみを忘れるような生活をしている。しまいには死んでしまうよりほかない。

芥川龍之介は小説の最後に、

ある意味では自分もまた孤独地獄に苦しめられている一人である。

と書いている。『孤独地獄』は芥川龍之介24歳の時の小説。
そして35歳で自ら命を絶っている。
「助けてくれ」という声も出ないほどの絶望とはどういうものなのだろうか。

山村暮鳥は牧師だったが、結核を病んでからは仏教に親しんだそうだ。
「いのり」という詩がある。

つりばりぞ そらよりたれつ
まぼろしの こがねのうをら
さみしさに
さみしさに
そのはりをのみ

釣られてしまうことがわかっていても、孤独に耐えきれずに釣り針を飲み込む魚。
ここではもはや救いはないのだろうか。
あるHPで、クリスチャンである詩人の方が、「いのり」についてこう書いている。

信仰者とはいえ、神の釣り針に喰らいつきたくなるような、やりきれない蕭条感が、色濃く描かれている。

そうか、神の釣り針だったのか。
この詩は救いが書かれているのか。
山村暮鳥は牧師だったし、「いのり」という題だしねえ。

私が「いのり」という詩を知ったのは、上村一夫のマンガによってである。
ホステスがマンションの一室でガス自殺する。
取り調べの刑事が主人公(やはりホステス)にこういうことを言う。

ガス自殺する人は助けを求めている。
ガスは臭いが外に漏れる。
誰か臭いに気づいて私を助けてください。
そう思いながら自殺をするんだ。

そして、「いのり」という詩があると主人公に話す。
この刑事によれば、釣り針とはガスである。
この釣り針は救いの手を与えるかもしれないし、わが身を滅ぼすかもしれない。
釣り針を飲み込むことはそういう賭をすることである。

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論理のジャンプ

2004年11月13日 | 問題のある考え

あるお宅に総戒名と称する位牌があった。
総戒名というのは霊友会、立正佼成会などに入信したら、まずもらうことができる、先祖供養をする際の礼拝対象である。

梅原正紀『ふおるく叢書7 救い』によると、法華行者の西田無学はうかばれないもろもろの霊を供養しなければ不幸の根源は断てないと考え、戒名写しの行が発展して、「総戒名」と「法名送り」の秘儀があみだされた。
これが霊友会の創始者である久保角太郎に伝えられたのである。

霊友会系の教団では、入信すると近親者で亡くなった者の戒名をできるだけ多く集め、改めて法名をつけ直して過去帳にしるし、総戒名とともに供養する。先祖といっても一般の家庭では、三,四代前の先祖の名しか知らず、その範囲内で供養しているが、霊友会系の教団では、十代、二十代前の先祖が霊界でさ迷っている状態をシャーマンをとおして知らせ、新たに法名を送って供養する。さ迷っている先祖がいれば、それは霊のさわりとなって病気など悪しき現象を起こすことで、子孫に知らせるのだという。先祖だけでなく、生きている人間の思いである生き霊や動植物の霊で成仏していない場合にも、霊のさわりがあるという。したがってそのような霊にまで戒名をおくって成仏を期することが、信者のつとめになる。この秘儀を「法名送り」と呼んでいるのである。(梅原正紀『ふおるく叢書7 救い』)


で、そのお宅の奥さんに尋ねてみると、知り合いに誘われて入ったとのこと。
その方は実家の面倒も見なければならず、家の先祖と実家の先祖の両方を供養すると聞いて、ホッとしたそうだ。

でも、なぜ菩提寺ではなくて新興宗教なのか。
知人が

どうしていきなり新興宗教に入るのか不思議な気がしますね。新興宗教もいいかもしれないけど、まず自分の宗派ぐらいちゃんと知っておいて、それがおかしいと思ったら行くべきじゃないかと思うんです。

 と話していたけど、どうして新興宗教なのか。
菩提寺よりも新興宗教のほうが敷居が低いのだろうか。

で、考えたこと。 
仏教の本を読んだり、話を聞いたりして最初に思ったのは、どこかで論理がジャンプしているということである。
これこれこうだからこうなると話が進み、なるほどと思っていたら、急に話がぽーんとジャンプしてしまい、あれ、なんで、と思ったわけです。

たとえば、人間というものは罪を作らなくては生きてはいけない存在であるということが論じられる。
そこは納得。
その次に、そういう身を生きているものも、念仏一つで救われるんだ、となると、えっ、どうして、と思いますよね。

これは極端(でもないか)な例ではあるが、念仏とは、救われるとは、といったことをきちんとおさえて話が進んでいても、やはりどこかでジャンプする。 
1+1+1+1・・・というふうにいくら続けても無限にはならない。
宗教は無限への信仰だから、どこかで有限から無限にジャンプしなければならない。
だから、論理のジャンプは宗教において必然である。
違和感を感じつつも論理のジャンプに納得するということが、信仰ということになるのだろうか。

でも、
論理のジャンプにもいろいろあって、中にはトンデモと思えるジャンプがある。
前に書いた浅井昭衛「日蓮大聖人に背く日本は必ず亡ぶ」は、地球の環境破壊とか日本の大借金といったことは邪教を信じるからだというジャンプは、こじつけと言ったら失礼か。
血液型と性格や相性が関係あるというのも一種の論理のジャンプで、これまたこじつけである。
あるいは、地球に生物が誕生したことは本当に奇跡的なことだが、そこに神の創造を説くのは、私には論理のジャンプ、しかも安易なジャンプのように思う。
そして、西田無学の考えもそうだし、新興宗教に入信する人も。

また話は飛び、某氏より野田正彰さんの講演テープをいただいた。
講演の中で、オウム信者のグルへの絶対的帰依は天皇への帰依と同じだという話の流れで、戦時中の仏教者の大政翼賛的言動、アジテーションが批判されている。
たとえば、敵を殺すことが大乗の大慈悲心である、殺人即活人剣、一殺多生などということ。
戦時中にそういうアホなことをえらい坊さんたちが言っていたわけですよ。
 敵を殺す=大乗の大慈悲心
これも論理のジャンプである。

驚いたのは、金子大栄が「仏教奉還論」ということを言っていたそうで、恥ずかしながら初耳であり、ショックだった。
天皇への信仰に帰依しているからもはや仏教はいらない、仏教は天皇にお返しすべきだ、ということである。

「ホウカン」という言葉、「幇間」のことかと思った。
坊主は天皇の幇間なわけです。 

野田正彰さんは、日本人は矛盾しているものを同じだとし、異質なものを聖なるものに変えていく、すなわち西田幾多郎の絶対矛盾の自己同一という論理、即の論理、はっきり言えばトリックが好きだと言う。

論理のジャンプに対して、「なんでそうなるの」と違和感をおぼえることは大切で、思考を深めるし、インチキを見分ける目を育てることになると思う。 

おまけですが、野田正彰さんが講演の中で、河合隼雄さんや山折哲雄さんの悪口を言っていた。
嫌いなやつの悪口を聞くことほど楽しいものはない。
うふふ。 

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青草民人「セルフ」

2004年11月06日 | 青草民人のコラム

最近、車で町を走っていると目につくのが、セルフという看板だ。ガソリンスタンドのほぼ半数はセルフサービスになってきている。私はまだ自分でガソリンを入れることに抵抗があるので、セルフのスタンドには消極的である。

父親が昔、タンクローリーの運転手をしていた時、誇らし気に危険物取扱者の免許証を見せて、これがないとガソリンスタンドはできないんだと話していたことを思い出す。

しかし、バイトのお兄ちゃんがガソリンを給油していることを思えば、自分にもできるのだろう。でも、もしも失敗してまき散らしたり、引火でもするようなことがあったらどうしようと考えてしまう。以前に、洗車機のセルフができて、それもまちがったらどうしようと躊躇していた。今では、ガソリン代が馬鹿にならないので、少しでも安いセルフスタンドを探して入れる主婦も多い。

話は変わるが、ファミレスでもセルフのサラダバーやドリンクバーが目立つようになった。バイキング形式のファミレスや回転寿司の店もまさにセルフそのものだ。コストダウンするためには、セルフがもっとも人件費のかからない商売の仕方なのだろうが、どうしても味気なさが先に立つ。

セルフは、人に気兼ねなく、何でもほしいものを自分がほしい分だけ、しかも安く手に入れることができるという便利さはある。しかし、選択したものに対する責任は自分が負わなければならないということも出てくる。

インターネットが社会の中で大きな役割を担うようになり、通販の会社がプロ野球球団を経営するまでにいたった。セルフによる自己選択と自己責任という構図は、世界のグローバル化とともに人間社会に急速に伸張しつつある。そのもっとも最たるものがセルフキル=自殺である。年間3万人の自殺者が出る。人間は自分の死をもセルフするようになったのか。

セルフという言葉には大きな落とし穴がある。それは自立と孤立の問題である。本来のセルフとは自立を促すものだと思う。しかし、人間同士が関わるデメリットをできるだけ排除していこうとするセルフの考え方は、無駄を省き、効率をよくすることにはちがいないが、社会を分断し、人間を自立から孤立へと追いやっている。

自分でできるようになることと、一人で何でもすることとは微妙にちがう。人間の社会の中で、人が関わり合う場面が少なくなればなるほど、世の中は不安定になっていくように思える。今日もまた、セルフの看板を避けて走ってしまう。

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『笑いの大学』と死語

2004年11月05日 | 映画

星護『笑いの大学』は昭和15年が舞台の映画。
死語ではないかと思われる言葉が出てくる。

劇団「笑いの大学」の座長は青空貫太、略して「アオカン」。
その瞬間、あまり笑いが起きなかった。
しょうもないギャグだからかもしれないが、アオカンの意味がわからない人が多かったのかもしれない。

座長の得意ギャグ「猿股失敬」もどうか。
映画の中でも白けるギャグとされているが、「失敬」と言ってあやまることはなくなったように思う。
そして「猿股」である。
辞書を引くと「腰から股のあたりをおおうズボン形の男子用下着」とある。
私も言葉は知っていても、実物はよくわからない。
妻が使用しているババパンツみたいなものか。

それと「お国のために」と「あくび」のだじゃれ。
三谷幸喜としては、ほんとは「あくび」ではなく「おくび」にしたかったのではなかろうか。
しかし、「おくび」だとどういう意味かわからない観客が多いだろうから、「あくび」にしたという気がする。
かくいう私自身、「あくび」=「おくび」と思っていた。
ところが辞書で調べると、「おくび」は「ゲップ」の意味だった。
いささか赤面してしまった。

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青草民人「サプリメント」

2004年11月03日 | 青草民人のコラム

数年前からコンビニの店頭に見なれないコーナーができていることに気づいた。口臭を予防するガムやのど飴を売っている棚の近くに、半透明のプラスチックの瓶が並んでいる。見るからに“薬”のイメージである。棚にはサプリメントの文字がある。

一体これは何だろうと思っていたところ、職場の同僚がその瓶をもっていた。一体何なのかと質問したところ、「ああこれかい。これはビタミンCだよ」という答えだった。これを飲むと風邪をひきにくくなるという。

ビタミンCといえば栄養素の一つで、たしかに身体に良いことはよく知っている。彼は1日何回か、疲れた時に3錠ほど飲むと調子が良いと言う。

サプリメントとは、英語でDietary Supplement、栄養を補助する食品という意味だそうだ。サプリメントにはさまざまな種類がある。ビタミンC、B、Eをはじめ、カルシウム、鉄分、亜鉛、アミノ酸、DHA、コラーゲン、グルコサミン、プロテイン、プロポリスなど、人間の生活に必要な栄養に関わる成分のほとんどといっていいほど、いろいろなものが開発されてきている。

人間の細胞はお母さんのお腹の中で60兆個にもなっ て生まれてくる。その60兆個の細胞が毎日タンパク質を作り、そして、私たちの身体を構成していく。

しかし私たちの身体は新陳代謝を繰り返し、3年もたてばほとんど新しい身体に生まれ変わるという。つまり私たちの身体は、その間に口から食べた物によって作られているというわけだ。そこで、偏りが起きないようにと、サプリメントが必要になるという発想が生まれてきた。健康ブームとも重なって、こうした栄養補助食品は飛ぶように売れている。

かくいう私も、サプリメントまではいかないが、身体に良いからと野菜ジュースとヨーグルト、緑茶とウコン茶を毎朝とっている。しかし、これが義務のようになるといささかつらい。

仕事でストレスをため、やけ酒をのみ、愚痴を言っている反面、身体に良いものをといって飲んでいるサプリメント。

我が身を振り返って考えた時に思い出した親鸞聖人のお言葉がある。
「くすりあればとて、毒をこのむべからず」
これは、悪人が救われるというのなら悪いことをしたほうがいいではないか、という考えをいましめたお言葉であるが、現代に生きる私のあからさまな姿をぴったり言い当てられた言葉に聞こえた。あなたはいかが。

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田口ランディ、河合隼雄・中沢新一とニューエイジ

2004年11月01日 | 問題のある考え

熊切和嘉『アンテナ』に出てくる主人公の母親があまりにも普通のオバサンで、そこがすごくよく、どういう俳優かいなと思ってたら、なんと麻丘めぐみだった。
ほら「わたしの、わたしの彼は~左きき~♪」の。
いやはや、驚きました。

で、『アンテナ』の原作者は田口ランディ。
原作は読んでいないが、「プレミア」の映画評に、

田口ランディの小説は神秘体験が過度に強調され、特権化されうる危うさをはらんでもいる。

とある。
「特権化」とは田口ランディの本質をズバリ言い当ててる。
家族の問題を小説にしていても、姫野カオルコは好きだが、田口ランディは何となくいやな感じがする。
それは「特権化」ということかもしれない。
映画評での「特権化」という言葉は、神秘体験を経験する者が特権者意識を持つという意味ではないかと思う。

田口ランディはニューエイジ信奉者である。
ニューエイジは、人間の認識できないことがあると言う(これはもっとも)。
では、その認識できないことをどのようにして認識するか。
神秘体験によってである。
神秘体験で経験したことを意味づけし、理論づける。
たとえば臨死体験を死後の世界をかいまみたとし、死後の世界を描き出す。(
認識できないことを認識できると言っているのは矛盾なのだが)

神秘体験をする者は自己の意識を変革していく。
自己意識を変革した少数者が高次の意識を持つことで、人類全体のステージが上がる。
そんなことをニューエイジは説く。
そういう「特権化」というエリート臭さが田口ランディにはする。

ついでと言ってはなんですけど、河合隼雄・中沢新一の悪口も。
河合隼雄と中沢新一の対談『仏教が好き!』は「神秘主義が好き!」という題名にしたらしっくりとくる。

たいがいの宗教は順調に発達すると、最後に神秘主義という段階に辿りつきます。

と話してるんですからね。

なるほどと思うことも言ってる。
たとえば、「幸福」というのはよくわからない概念で、「楽」とか「安心」のほうがずっと正確だ、「ハッピー」ではなく「リラックス」というのなど。

しかし、

日本仏教の本質を、僕は縄文時代の仏教(つまりアニミズム)と呼んでいるのですよ。

とか

心というわけのわからないものがこの世をつくっている。それがどういうものかは瞑想によって体得するしかないのです。

と言ってるわけで、やっぱり仏教のニューエイジ的解釈だと思わざるを得ない。

それと、ニューエイジの人はすぐに量子論をもってくる。
考え方に似た点があるからというので、簡単にイコールで結びつける。
科学的迷信というか、科学で宗教を権威づけるのはニューエイジの特徴である。

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