芥川龍之介の母親の大伯父は津藤という大通人で、河竹黙阿弥らのパトロンだった。
母が津藤から聞いたという話が『孤独地獄』である。
津藤が吉原の店で禅寺の住職と知り合いになる。
この禅僧、大酒飲みで、持ち物に贅を尽くし、女色にのめりこんでいる。
ある時、禅僧がこういうことを津藤にもらす。
芥川龍之介は小説の最後に、
と書いている。『孤独地獄』は芥川龍之介24歳の時の小説。
そして35歳で自ら命を絶っている。
「助けてくれ」という声も出ないほどの絶望とはどういうものなのだろうか。
山村暮鳥は牧師だったが、結核を病んでからは仏教に親しんだそうだ。
「いのり」という詩がある。
まぼろしの こがねのうをら
さみしさに
さみしさに
そのはりをのみ
釣られてしまうことがわかっていても、孤独に耐えきれずに釣り針を飲み込む魚。
ここではもはや救いはないのだろうか。
あるHPで、クリスチャンである詩人の方が、「いのり」についてこう書いている。
そうか、神の釣り針だったのか。
この詩は救いが書かれているのか。
山村暮鳥は牧師だったし、「いのり」という題だしねえ。
私が「いのり」という詩を知ったのは、上村一夫のマンガによってである。
ホステスがマンションの一室でガス自殺する。
取り調べの刑事が主人公(やはりホステス)にこういうことを言う。
ガス自殺する人は助けを求めている。
ガスは臭いが外に漏れる。
誰か臭いに気づいて私を助けてください。
そう思いながら自殺をするんだ。
そして、「いのり」という詩があると主人公に話す。
この刑事によれば、釣り針とはガスである。
この釣り針は救いの手を与えるかもしれないし、わが身を滅ぼすかもしれない。
釣り針を飲み込むことはそういう賭をすることである。