スティーヴン・T・デイヴィス編『神は悪の問題に答えられるか』は、もし神が悪を防ぐことができ、しかも防ぎたいと思うのならば、なぜ悪は存在するのかという問いに、5人の神学者がそれぞれの悪の問題についての考えを論じ、そして他の4人がそれを批判し、さらに批判への反論が書かれています。
有神論とは、「世界は全能かつ完全に善なる一個の存在によって創造されたのだ、という信念」です。
有神論はキリスト教だけでなく、ユダヤ教やイスラム教もそうです。
有神論はキリスト教だけでなく、ユダヤ教やイスラム教もそうです。
スティーヴン・T・デイヴィス「自由意志と悪」
スティーヴン・T・デイヴィスは自由意志論者だそうです。
神が宇宙を作った主な目的は2つある。
①有り得る限り最高の宇宙を作ること。
道徳の善と自然の善が道徳悪と自然悪とに有り得る限り最善のバランスで勝っている宇宙を作ること。
②神に造られた人間が神を愛し神に従う決心をするような宇宙を作ること。
スティーヴン・T・デイヴィスは自由意志論者だそうです。
神が宇宙を作った主な目的は2つある。
①有り得る限り最高の宇宙を作ること。
道徳の善と自然の善が道徳悪と自然悪とに有り得る限り最善のバランスで勝っている宇宙を作ること。
②神に造られた人間が神を愛し神に従う決心をするような宇宙を作ること。
神はもともと悪のない世界を作り、人間を、自由な道徳的選択ができる仕組みを備えて、自由意志論者の自由をもつように作った。
人間は神に従うこともできた。
自由に善を行う可能性には、必然的に、自由に悪を行う可能性が伴う。
しかし、人間は罪に堕ちてしまった。
道徳悪の存在についてとがめられるべきは神ではない。
私たちを自由にした神の政策決定は賢いのです。私たちが自由に行為できるということは結局は、たとえ私たちが時に誤るとしても、私たちがいつでも良いことばかりをするようにプログラムされた無実の自動人形として作られたよりも、良い結果を生むからです。神の決断は、賢かったことが判明するでしょう。最終的にそこから生まれる善がきっと、そこから生まれる悪を凌駕するからです。終末には、神が最良の道を選んだことが明らかになるでしょう。
自由意志論の弁護者が主張しなければならないことは2つ
①最終的に存在するだろう悪の量は最終的な善の量に凌駕されるだろうということ。
②善が悪を上まわるという好ましいバランスが神によって得られるには、これが唯一の道であったということ。
世界に存在するすべての道徳悪は神が創造した自由な道徳的行為者の選択による。そして、神が創造し得たいかなる他の世界も、この現実世界に実現されるだろう善と悪の釣り合いよりも良い善悪のバランスをもつことはなかっただろう。
反対意見
①なぜ全能の創造主が常に自由に善を選ぶ自由な生き物を作れなかったのか。
②人間が創造された時には、道徳的に完全に善だったなら、人が罪を犯すという事実をどう説明するか。
③道徳悪の存在を説明できたとしても、自然悪については説明できない。
これらの反論に対するデイヴィスの説明は、ある命題が論理的に正しいか正しくないかを論じているだけのように感じます。
自然悪への神の介入は頻繁にあってはならない。
人間が楽しい経験しかしない世界では、物事には善いものと悪いものがあるという道徳意識はほとんどか全くない。
他の人に対する同情や、他の人を助ける機会もなくなる。
神を愛し神に従う理由もほとんど感じなくなる。
苦難を通しての成長もなくなる。
自然悪―病気の痛み、自然災害の突発的で予測不可能な破壊、老齢による衰弱、差し迫った死―は人間の自己満足を取り去ります。自然悪は人間を謙遜にし、自分の弱さを認識させ、現世の物質のはかなさを考えさせ、彼の愛情をこの世のものから離し来世のものに向けさせます。
このエレオノーア・スタンプの言葉をスティーヴン・T・デイヴィスは引用し、こう説明しています。神の創造の目的のためには、いくらかの自然悪が存在しなければならないということです。
何万人もが死亡する地震がありますが、これは「いくらかの自然悪」なのでしょうか。アルヴィン・プランティンガのように、サタンのせいにしたほうがましです。
サタンが神に反抗して、できる限りの破壊行為をしてきた。その結果が自然悪である。
災害や伝染病といった自然悪を生き延びた人なら、自然悪から教訓を学ぶかもしれません。
では、死んでしまった人はどうなのか。
終末で神の御心が明らかとなり、天国で贖われるそうです。
悪の力は依然として世界に存在します。その最終的敗北は、キリストの再来まで起こらないでしょう。それで、私たちは、悪がはびこる時代に生きて、私たちの最終的な贖いを待ち望んでいるのです。
贖いの道は2つある。
①悪の中には、神の御国の偉大な善を生み出す契機として神に用いられるものもあるでしょう。
②神の御国では、すべての悪が克服され、超越され、霞んで些細に見えるようになるでしょう。
第二について、人々は神の御国の視点から振り返って、過去の苦しみはすべて、どれほどそれが厳しく長く不当に課せられたものであろうとも、克服され、もはら問題ではないとわかるでしょう。
パウロ「ローマの信徒への手紙」
現在の苦しみは、将来わたしたちに現されるはずの栄光に比べると、取るに足りないとわたしは思います。
D・Z・フィリップスは反論に、『ヨブ記』のヨブは最後には多くの子供を持つからといって、めでたしだとは言えないと書いています。
子供が取り替え可能な部品のように考えるのは、精神的には、機械的で野蛮です。
戦争や環境破壊で人類が滅亡しても、天国で贖われたら、それでめでたしということかもしれません。
しかし、地獄が実在するとしたら、いくら神の御心に背いた人が堕ちているとしても、そこは悪が偏在しているように思います。