三日坊主日記

本を読んだり、映画を見たり、宗教を考えたり、死刑や厳罰化を危惧したり。

受刑者の生活

2020年11月29日 | 日記

受刑者は税金で優雅な刑務所暮らしをしていると思っている人がいるようです。
受刑者一人あたり、どれくらいのお金がかかっているのでしょうか。

ネットで調べると、年間約300万円だそうです。
ただし、刑務官の人件費などを含む金額です。

『犯罪白書』には、「平成31年度の刑事施設の被収容者一人一日当たりの収容に直接に必要な費用(予算額)は、1、924円である」とあります。
この金額には人件費などはおそらく含まれていないと思います。
http://hakusyo1.moj.go.jp/jp/65/nfm/n65_2_2_4_3_2.html

1924円×365日=702,260円
つまり受刑者一人当たりの経費は一年に約70万円です。
平成30年末の受刑者は44,186人なので、
702,260円×44,186人=310億3006万360円
全受刑者にかかる経費は約310億円。

ちなみに、ニューヨーク市では受刑者1人当りにかかる経費が年々増加し、2019年は「受刑者にかかる費用は1日当り約925ドル(約10万円)と過去最高だった。また、受刑者1人当たりの年間費用も33万7524ドル(約3670万円)と、499ドル(約5万4200円)だった2014年から85%増加していた。同会計監査官は、職員の残業代や人件費の増加が経費増大につながったと分析している」と、ネットの記事にありました。
https://www.dailysunny.com/2019/12/10/nynews1191210-5/
日本と計算の仕方が違うのかもしれませんが、日本の約10倍かかっているわけです。

日本では、受刑者は刑務作業を行なっており、その収入は国庫に入ります。
平成29年度の刑務所作業収入は約39億円です。
http://www.moj.go.jp/kyousei1/kyousei_kyouse10.html
受刑者は国の財政に寄与しているわけです。

・作業報奨金
作業に就いた受刑者には作業報奨金が支給されます。
作業報奨金について知人に教えてもらったり、ネットで調べたりしました。

作業報奨金とは、その人の等工の基準額に作業時間をかけて計算する。
それに作業態度や作業成績、危険手当、延長作業などの増加分が加算される。

等工は十等工から一等工まで10段階ある。
最初は十等工から始まる。
順調に昇等しても、一等工まで3年以上、三等工には22か月かかる。

作業はA、B、Cに区分される。
特別な理由がなければ、B作業(一般工場の機械を使わない作業や座業)は三等工が上限、C作業(居室内の作業)は五等工が上限となっている。

基準額(時給)は十等工から、7.3円、9.4円、12.3円、15.5円、19.9円、22.4円、27.8円、33.7円、41、7円、そして一等工の52、9円となっている。

基準額は毎年4月に更新される。(平成27年以降は増減していない)
施設や作業の内容が違っていても、同じ等工なら基準額は同じ。
紙折りも金属工場も洗濯や内掃も、五等工なら22.4円が1時間の計算額になる。

この基準額に割増が上乗せされる。
等工の基準額プラス割増分に作業時間をかけた金額が作業報奨金となる。
十等工だと、月に800~900円くらい。

懲罰を受けて他工場に転業すれば、十等工に落ちるのが原則。
一等工の人が十等工になれば、作業報奨金は10分の1以下になる。

作業報奨金は全国の全受刑者平均で月4000円ぐらい。
長期の刑務所は作業報奨金の平均額は5000円程度になる。
長期刑務所の場合、一等工が多く、割増も短期よりもらっている(無事故が多いことと、同じ作業を数年しているから)ので、作業報奨金の平均額が高くなる。

刑の確定から無事故で進んだ人で、月に1回集会に出れば、丸一年で約2万円、丸二年で5万円弱、丸三年で10万円ほど貯まる。

・制限区分
制限の緩和とは、生活や行動の制限を緩和していく制度。1種から4種までの制限区分がある。

1種は、舎房に鍵をかけなくていい、刑務官の同行なしで移動できる、面会は刑務官の立会いなし、外部に電話ができ、外出ができるなど。
3種は、舎房に鍵をかける、移動は刑務官の同行が必要、面会は刑務官の立会い必要など。
4種は、舎房に鍵をかける、基本的に舎房から出れない、面会はできないなど。
http://prisonfile.info/yugu.html

・外部通勤作業、外出及び外泊
1種は外部通勤や外泊などが認められる。

外部通勤作業・外出及び外泊の制度は、開放的施設で処遇を受けている受刑者や、仮釈放を許す決定がされている受刑者などに対して、社会復帰のために必要があると認める場合には、刑事施設の職員の同行なしに、刑事施設外の事業所に通勤、業務の従事、職業訓練を受けさせたり、刑事施設の外に外出や外泊することを許可したりする制度。
http://www.moj.go.jp/kyousei1/kyousei_kyouse03.html
長期の施設では外部通勤作業はほぼ認められない。

作業報奨金は基準額が決まっていて、割増が加算されるが、外部通勤も例外ではなく、基本月額の100分の100を超えない金額を加算することができる。
業種にもよるが、溶接などで500円ちょっとを切るぐらい。
最高でも1時間で529円の手当ということになる。
事業所が国に支払う金額は不明。

・優遇措置
優遇措置とは、受刑者を1類から5類までの優遇区分に指定し、その優遇区分に応じて、手紙の発信通数、嗜好品の購入、テレビの視聴などの待遇を与えること。

1類は、テレビは自由視聴、お菓子は月2回自費購入可、集会に出席してビデオを視聴、手紙は月に10通、面会は月に7回などで、手紙と面会は随時。
月1回お弁当(ホカ弁やコンビニのおにぎり、麺類)が自費で購入可という施設もある。

3類は、テレビは平日が18時~21時、休日が8時~10時、18時~21時、手紙は月に5通、面会は3回など。

5類はお菓子の購入、集会の出席はできない、手紙は月に4通、面会は月に2回など。
http://prisonfile.info/yugu.html
もっとも、知人によると、手紙や面会は施設によってことなる。

テレビの視聴もそうで、ある施設では平日19時~21時、休日9時~11時半、14時半~16時、19時~21時で、相撲の時は休日17時~18時で番組指定となっている。
テレビの自由視聴とは、おそらく刑務所長の裁量によるものではないかとのこと。

面会や手紙の回数は下限なので、それ以上ということもある。
大規模の刑務所では、面会が多いので面会時間は短いし、手紙の中身を確認するので発信も下限に近い。

面会は一日に2回してもかまわない。
たとえば、5類で月2回しか面会できなくても、月末に午前と午後に違う人と面会し、翌日(翌月)に前日と同じように面会することは可能。
2類以下の手紙の発信は工場によって発信の曜日が決まっている。

平成31年、受刑者の優遇区分別人員は、第1類852人(2.0%)、第2類6、767人(15.6%)、第3類1万8、450人(42.5%)、第4類3、753人(8.7%)、第5類4、025人(9.3%)、指定なし9、520人(22.0%)。
http://hakusyo1.moj.go.jp/jp/66/nfm/n66_2_3_1_4_3.html

調査・懲罰になると、優遇措置は、たとえば2類が5類になり、制限区分は2種が3種になり、作業報奨金は15分の1ぐらいになる。
さらに、クラブ活動は退会。


施設によって優遇措置は基準が大きく異なる。
制限区分も施設によってかなり基準が異なる。
等工や作業報奨金と関係する施設もある。
たとえば、2類になるのに継続無事故が必要となる。

刑務所は気楽だったという自分の体験を書いた記事をネットで時折見かけますが、優雅なものではないようです。
たとえば、舎房にはエアコンがないので、夏の暑さは特に大変だと思います。
具合が悪くなっても、すぐに医者に診てもらえるわけではないようですし。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『開けられたパンドラの箱 やまゆり園障害者殺傷事件』(4)

2020年11月21日 | 

月刊『創』編集部編『開けられたパンドラの箱』で篠田博之さんはこのように危惧します。

弱者を排除しようとする排外主義的な気運が世界中に広がっていることと無縁ではないような気がする。


植松聖死刑囚の手紙(2017年10月)

トランプ大統領は事実を勇敢に話しており、これからは真実を伝える時代が来ると直観致しました。


「相模原事件 死刑確定でなにが失われてしまったのか」(「FORUM90」VOL.173)で、篠田博之さんはこのように語っています。

今の社会風潮の影響を強く受けていることは確かです。植松氏が施設の中でも障害者を否定する発言が目につくようになる2016年初めには、アメリカ大統領選挙を控えてトランプが連日のようにテレビに映されており、植松氏自身がそれに大きな影響を受けたと自分で言っているんですね。(略)今までの福祉重視みたいな社会とか、世界の在り方にトランプは暴力的に挑戦した。差別的な考えを隠さずに口にすることが許されるのだという風潮で、植松氏は世直しのためにそれが必要で、自分も社会のための救世主になるんだと論理を飛躍させていくんですね。(略)
そうやって彼が変わっていく半年なり1年というのは、世界中にある種の排外主義が広がっていった。彼はそれを自分の思想形成の中に取り入れていくんです。


渡辺一史さんの発言です。

もう一つあるのは「自己責任社会」です。とにかく助け合いや支え合いということにはコストがかかるだけで、最終的には自己責任で野垂れ死にするような人はすればいい、命の選別もやむなしというような風潮が高まる一方ですよね。(略)公の席ではなかなか口にしづらいようなことでも、あけすけに語ってしまうことが正しいことなんだというような、ポリティカル・コレクトネス批判というんでしょうか、簡単に言うと「キレイゴト批判」ですね。「障害者なんていらなくね?」「あいつら生きてる意味なくね?」というような、身もフタもないことを口にすることこそが正しいことだというような価値観。それらが2016年という時期に、色濃く植松氏の中でクロスして犯行に結びついたんじゃないかと思います。


『開けられたパンドラの箱』に、海老原宏美さんが談話を寄せています。
海老原宏美さんは脊髄性筋萎縮症Ⅱ型の障害があり、移動には車椅子を使い、人工呼吸器を日常的に使用しているそうです。

なぜその命が大事なのか。命が大事だということは、学校の道徳とかで習うけれども、なぜ大事なのかは習わないんですよね。そんなものは一緒に生きていくなかで感じとることだけれども、共に生きる環境がないから感じとれないし、誰も教えてくれない。その中で起きた事件なので、背景には複雑な環境があるのだろうけど、起こるべくして起きた事件なのかなと私は思っています。(略)
植松被告が本当に狂った人で、あんな危ない人を野放しにしておけないから、精神科病や刑務所に早く入れてほしいと思う人が多いんでしょうね。危ない人、よくわからない怖い人をどこかに隔離しておいてほしいというのは、重度障害者の人は接し方もわからないし、ケアも大変なので施設に入れておいてほしい、という考え方と全く一緒なんです。(略)
私が当事者として感じることは、良かれと思ってやってくれることがだいたい差別なんです。特別支援学校とかもそうですよね。送迎をつけて、保護者の負担を減らして、人手も増やして、学校の中で手厚く見てもらえる。
あたかもその子のためになっている感じがしますが、学校の中ではそれでよいかもしれないけれど、社会に一歩出たら障害を持った人のペースで社会は動いていないんです。あっという間に取り残されていくわけで、それをフォローする仕組みは社会にはないんです。
確かに同じペースの子しかいない環境ではいじめもないと思いますが、社会に出たらいじめられるんです。トロいとか、仕事ができないとか、挙げ句の果てに殺されたりするわけじゃないですか。それに対応する力は、特別支援学校では身につかないんですね。
そういうふうに良かれと思ってやってくれることが大概差別だという思いが私の中にあって、行政っていつもそういうところを勘違いしているなと思います。

海老原宏美さんの指摘にはうなずくばかりです。


新自由主義政策によって格差が拡大して貧困層が増え、弱者が切り捨てられています。
そんな中、死ぬ権利を主張する人は、イジメやパワハラ、経済問題などで「自殺したい」と本人が望むのなら認めるのでしょうか。
死にたいんだったら殺してあげようというのは間違っています。
安心して生きていける社会にするなどして、「生きる権利」を大切にすべきです。

海老原宏美さんはこのようにも語っています。

当事者として生きていて思うのは、周りが思っているほど私は大変じゃないんですよ。大変なことも多いですけど、結構面白いんですね。目の前に障害が治る薬があったら飲みますかと言われたら、私は多分飲まないと思うんです。障害と生きるって大変なことがありすぎて面白いんです。別に強がりではなくて、障害があることで、健常者にはない喜びを得られる機会がもの凄くたくさんあって、色んな人に出会えたり、指が動く、手が動くことをすごく幸せに感じられたりだとか、世の中の一個一個の現象に対してすごく敏感になるんです。
私は進行性の障害なので、いつどう死んでいくかわからない、いつまで生きられるか、いつまで体が動くかわからないという状態に置かれている。死ぬことが身近にあるんですね。だから逆に今やれることをやらなくちゃとか、生に対する、生きることに対する意識が健常者に比べると日常的に自分の中に湧き上がる機会も多い。1日1日を面白く楽しく生きていこうという思いがすごくあって、障害者として生きるってすごく面白いなと思うんですね。


最首悟さんの談話です。

今はまだ訪問介護などもお願いせず私たち夫婦で星子を見ていますが、もうそろそろそれも終わりかもしれません。心配はしていません。頼りになる人たちがいますから。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『開けられたパンドラの箱 やまゆり園障害者殺傷事件』(3)

2020年11月12日 | 

月刊『創』編集部編『開けられたパンドラの箱』刊行までの動きを、篠田博之さんが書いています。

ひとつは旧優生保護法のもとで、障害者に対して強制不妊手術が行われていた事実が、手術を受けた人たちの告発によって、次々と暴かれていったことだ。優生思想が背景にあるという意味では、相模原事件とも根はつながっているように見える。強制的不妊手術が、戦前といった昔の話でなく、20~30年前まで行われていたというのは、衝撃的なことだった。


植松聖死刑囚の手記には、優生思想と思われることが書かれています。

人間は「優れた遺伝子」に勝る価値はありません。


障害者の生きる権利を認めず、安楽死という名の虐殺をすべきだという考えは、強制的不妊手術の延長線上にあります。
渡部昇一は「神聖な義務」(『週刊文春』1980年10月2日号)で、血友病の息子を二人持つ大西巨人を名指しして、遺伝性疾患のある子供を産まないようにすることは「神聖な義務」であると主張し、ヒトラーの精神病患者、ジプシーたちの虐殺について肯定的な発言を引用しています。
http://www.livingroom.ne.jp/d/h003.htm

「ホロコースト百科事典」というサイトに、ヒトラーの「安楽死プログラム」について説明されています。
https://encyclopedia.ushmm.org/content/ja/article/euthanasia-program

1939年、ヒトラーは「安楽死センター」で治る見込みのないとみなされた病人に「慈悲による死」(Gnadentod)を与える命令を下した。
ナチスにとって「安楽死」とは、心身障害患者の組織的な殺害を目的とした秘密の殺人プログラムを意味する。
優生学者とその支持者が「生きるに値しない命」と考えた、重度の精神、神経、身体の障害を持つために、ドイツの社会と国家に遺伝子的・経済的に負担となる個人を排除する試みだった。
ヒトラーは安楽死作戦の企てを「T4」と呼んだ。
T4作戦員は6つのガス施設を設置し、1940年1月、安楽死プログラムに選ばれた患者を集中ガス施設に移送した。
安楽死プログラムは第二次世界大戦末期まで続き、高齢患者、爆撃犠牲者、および外国人強制労働者などにまで拡大され、20万人の命が奪われたと推定される。

「朝鮮人を殺せ」とヘイトスピーチをする人たちは安楽死プログラムを支持しそうです。
もっとも、植松聖死刑囚は優生思想を否定しています。

手紙(2017年8月2日付)

第二次大戦前のドイツはひどい貧困に苦しんでおり貧富の差がユダヤ人を抹消することにつながったと思いますが、心ある人間も殺す優生思想と私の主張はまるで違います。


篠田博之さんとの面会でも同じことを言っています。

植松「ヒトラーと自分の考えは違います。ユダヤ人虐殺は間違っていたと思っていますから」
篠田「じゃあナチスが障害者を殺害したことについてはどう思うの?」
植松「それはよいと思います。ただ、よく自分のことを障害者差別と言われるのですが、差別とは違うと思うんですね」

篠田博之さんによると、植松聖死刑囚には韓国人や中国人とか、障害者以外に対する差別意識はないそうです。

渡辺一史さんは「相模原事件 死刑確定でなにが失われてしまったのか」(「FORUM90」VOL.173)で次のように語っています。

彼(植松聖)はやまゆり園の入所者の人たちのことを、よく「犬猫」に例えるんですね。「ご飯だよ」と言えば、ご飯だとわかるけれども、それ以上の意思疎通は取れないから「人ではない」と。(略)
結局、植松氏は目の前の人たちを簡単に「意思疎通が取れない」と決めつけて、コスパですね、コストがどうこういうことをずっと考えていただけだという感じがします。


安楽死を行う理由は、社会にお金(医療費)と労力(介護)が無駄にかかるからです。
麻生太郎大臣の発言です。

政府のお金で(高額医療を)やってもらっていると思うと、ますます寝覚めが悪い。さっさと死ねるようにしてもらうなど、いろいろ考えないと解決しない。(略)
(延命治療には)月に1千何百万だ、1千500万かかるという現実を厚生省が一番よく知っているはず。(しんぶん赤旗2013年1月22日)

http://www.jcp.or.jp/akahata/aik12/2013-01-22/2013012201_02_1.html

2013年の麻生太郎財務相の発言は、社会にとって不要な人間は抹殺すべきだという植松聖死刑囚の考えと同じです。
植松聖死刑囚は個人の考えですが、麻生太郎さんは大臣として法律を作る立場にいますから、麻生太郎さんの発言のほうが怖いです。

渡辺一史さんはこのようにも話しています。

今の日本の財政状況は非常にひっ迫していて「大変らしい」というのは、今では小学生でも何となく感じていることだと思います。だからこし、社会のお荷物に思えるような〝犯人〟を見つけだしてバッシングする。それがある時は公務員だったり、ある時は生活保護受給者だったり高齢者だったりするわけですが、植松氏の場合は障害者だった。障害のある人たちがいることが財政難の元凶ではないかと考え始めたわけですね。


一人ひとりの命が粗末に扱われ、命の選別がなされるなら、植松聖死刑囚のような行動を取る人が再び現れるかもしれません。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『開けられたパンドラの箱 やまゆり園障害者殺傷事件』(2)

2020年11月01日 | 

最首悟さんの41歳になる重複障害者の娘さんは、障害1級で、目が見えず、しゃべらず、自分で食べず、噛まず、排泄は無関心、動くことをあまり好まない。
『開けられたパンドラの箱』の談話で、最首悟さんは次の指摘をしています。

オランダの安楽死が日本で紹介された時、非常に印象的だったのが、家庭医の苦しみでした。60ほどある段取りを一つでも抜かすと刑事罰、訴訟の致傷になるので、そのことだけでも大変だということはわかるのだけれど、それに加えて、人の死に携わるということ、自分が最終的に死を与えなくちゃいけないというのは非常に厳粛なことで、ふざけてはいられない。家庭や友達と楽しむことができない、いやそういう集いから外される。安楽死の患者を年間3人もつとしたら、本当にひとりぼっちになってしまう。(略)
植松青年の問題提起の先にあるものを考えれば、与死法ができて、お医者さんが条件を満たした意識のない人たちに死を与えていくということになるけれども、果たして若者はそういう職業に就きたいのか。


松村外志張さんが提案した与死とは、社会が一定の基準を満たした人に死を受容させるというもの。
守田憲二さんの「死体からの臓器摘出に麻酔?」というサイトに、「移植学会 脳死概念を放棄か 松村氏の「与死許容の原則」を紹介“社会存続・臓器獲得のため、社会の規律で生きていても死を与えよ”」という記事がありました。
http://www6.plala.or.jp/brainx/2005-4.htm#20050410

松村外志張「臓器提供に思う-直接本人の医療に関わらない人体組織等の取り扱いルールのたたき台提案」(2005年)という論文について書かれたものです。
松村外志張さんは医者の負担なんて考えていないようです。

臓器移植法が制定されたが、脳死者からの臓器移植が伸び悩んでいるので、死者の生前の意思表示より、遺族や親密な関係者の意志を優先して尊重すべき。
ドナーカードで拒否している死者からの移植臓器の摘出もありえる。
臓器移植といった課題に対応するために、三回忌が済んでからでは間に合わない。
緊急の場に悔いない判断をするためには、日常的な訓練によって冷静な判断に到達する時間を短縮できる。

生きていても死んだものとなんら区別なく平気で扱うこともまた、人間を対象とした場合にはともかく、動物を対象とした場合には、少なくとも私にとっては、しばしばあるのが日常である。
 飛び跳ねている魚や蝦を見て「うまそう!」と口走る者がいてもあまり驚かないだろう。その時これらの生物は、脳の中では生命が無視された存在であり、なんの感情もなく殺せる「虫けらのごとき」存在ということとなる。(略)
与死は殺害と類似して、本人以外の者(あるいは社会)がある者に対して死を求めるものであるが、ここで殺害と異なるのは、本人がその死を受け入れていることが条件であるという点である。与死が尊厳死とは異なるのは、尊厳死は、死を選択するという本人の意志を尊重するという考え方であるに対して、与死は、社会の規律によって与えられる死を本人が受容する形でなされる。(略)
「殺」意を完全に非倫理的な観念として否定することはできず、限定した条件においては 、現在においても生きたその必然性があるもの(と)見るのが冷静な判断なのではなかろうか。


死を「与える」なんて究極の上から目線です。
本人の承諾がない、あるいは本人が拒否していても、臓器提供すべきだと主張する松村外志張さんにとって、人間は「虫けらごとき」のものかもしれません。
江崎玲於奈さんの優生思想的教育論もそうですが、頭のいい人の言っていることが正しいとは限らないといういい例です。

守田憲二さんは以下のように批判しています。

・臓器提供意思表示カードの所持者が脳死ではないにもかかわらず臓器摘出にむけた処置を開始され、臓器獲得目的で法的脳死以前にドナー管理を推奨する医師が多数いるため、与死の許容が現実には臓器獲得目的の 一層の殺人奨励となることに認識がない。
・時代に合わせて国民が決める条件で与死を許容するならば、脳不全(脳死)患者だけでく、臓器不全患者(移植待機患者)も「高額な医療費がかかる」として与死が許容されるだけでなく、脳不全患者がさらされているのと同じ生命を短縮される環境におきかねない。


最首悟さんの批判です。

問題は、人間の条件というのを自分でつくっていること。そしてその条件にかなわない場合、その人を抹殺する、廃棄するというところまで行ってしまう。


冲永隆子さんも「「安楽死」問題にみられる日本人の死生観 自己決定権をめぐる一考察」(2004年)も問題点を指摘しています。

もし、この医師の手による「慈悲殺」が認められたとすれば、患者と利害対立が生じる可能性のある家族に患者の生死を判断する権利を認め、結果として「安楽死」は、格好な殺人の手段となってしまうのではないだろうか。この点は、「安楽死」反対派が最も恐れる問題点でもある。なお、容認派は「厳しい条件付け」を主張している。

https://appsv.main.teikyo-u.ac.jp/tosho/tokinaga24.pdf

ジョセフ・フレッチャー、太田典礼、松村外志張たちは、障害者、認知症・寝たきりの人たちへの安楽死(殺人)を主張しています。
結局のところ、社会の負担を減らすための手段としての安楽死であり、個々の人より社会の利害を優先しています。
このことは優生思想につながります。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする