明治維新前後の神道国教化政策により、神仏分離と廃仏毀釈が強行されました。
それに加えて、キリスト教の影響力についての不安と恐怖が既成仏教教団にあり、そのため既成教団は明治政府に媚びたのです。
たとえば明治4年(1871年)の東本願寺の上奏文案です。
こうした動きに危機感を持った島地黙雷が伊藤博文たちに働きかけ、神道を非宗教化し、祭祀のみを行うものにしたのが国家神道だと、葦津珍彦『国家神道とは何だったか』は主張しています。
国家神道とは神道の国教化ではない。
国家神道体制のもと、神社は保護され、仏教やキリスト教などが抑圧されたと考えるのは間違いであり、逆に神社は国からの保護、助成は削られ、淫祠邪教とされた。
維新直後、熱烈な神道人が神道精神を国の基礎として固めようとして、政府を動かした。
慶応3年(1868年)12月、王政復古の大号令で「神武創業の始めに原つく」との宣言を発し、次いで「神仏分離令」が太政官から発せられた。
明治元年(1868年)3月、太政官布達で「祭政一致の制に復し、天下の諸神社を神祗官に所属せしむべき件」が出された。
しかしまもなく、権力の主流の中に「神道的維新コースは、文明開化の妨げとなり、国際外交上も著しく不利となる」との思想が強大となる。
仏教、とくに真宗のブレーンは権力(長州系権力者のほとんどが真宗の盟友)との結合を固め、神道の無精神化、空洞化の政策を進めた。
そのために、新政府の開明実力派と対決した神道的第一級人士は、明治4年(1871年)には追放され、次々に検挙されて監禁された。
明治4年8月に神祇官が廃せられ、神祇省が設置された。
明治5年(1872年)3月、神祇省も廃止され、人事や教義講説、神社行政等は仏教ととも教部省に移る。
明治6年(1873年)、島地黙雷は海外視察から帰国すると、教部省、大教院の現状が神道偏重であると反対を表明した。
島地黙雷「建言 教導職治教、宗教混同改正ニツキ」を葦津珍彦さんはこのように要約しています。
島地黙雷は、皇室の神道と神社や神道信仰とを無縁のものとした。
皇室が神宮神社への官幣を供されるのは非宗教的礼典とすればいい。
民間人の排仏的神道説は皇室国家の神道とはまったく別の、一私人の偏見として対抗すればいい。
皇室と無縁の地方神社はアニミズム、シャーマニズムで、邪教迷信の類にすぎない。
「祭政一致」の尊重を力説しつつ、「政教分離」の理論を利用しながら、神道の祭典を「宗教に非ざるもの」だと理論づけした。
明治8年(1875年)、真宗の大教院からの脱退を公認させる。
明治10年(1877年)、教部省そのものも廃止に追いこまれ、内務省社寺局内の一小課の行政下に移された。
明治12年(1879年)、府県社以下の神職の身分は寺の住職と同様とされた。
政府は神社の99.9%を政教分離によって国家と切り離した。
明治17年(1884年)、神仏の教導職という国の制度を廃した。
明治33年(1900年)、内務省の社寺局を廃して、神社局を創設し、神社を「国家の宗祀」として、一般諸宗教の行政と区別した。
政府は国家精神高揚の拠点として、新設の神社局の行政に力を入れていいはずであるが、政府はほとんどなにもしていない。
明治6年以降は、府県社以下の神社に対して一文の補助金もあたえられていたわけではなく、神社にとって経済的には少しもプラスではなかった。
逆に、戦後の国家神道の解消は、経済的には神社にとって有利になった。
しかも、政府の「神社非宗教」は伝統的な神主の宗教的活動を制約する必要を示している。
宗教真理を解しなかった明治以来の政府は西欧的合理科学主義を第一にし、非科学的な宗教を好まなかった。
「宗教による吉凶禍福の祈り」「病気治療」は、科学思想を妨げる邪教迷信として禁圧するのが当然だとの法思想が有力な情況下では、神社の大多数が淫祠邪教であると断定された。
戦前の諸宗教が国家神道の重圧下にあったかのように誤認しているが、それは真相に遠く、むしろ神道が、「国家の正しい合理的教義」に反する迷信として、重圧を加えられている。
国家神道は宗教ではなく、祭祀だとされることによって、生き生きとした宗教性を著しく制限された。
内務官僚の統制によって神社合祀などの変容を強いられ、仏教界からの圧力によって宗教活動を制限された。
国家の財政的支えも、とりわけ明治期にはたいへん薄弱なものだった。
宗教的生命を奪われた神社神道は、国民を侵略戦争に駆り立てるような力はとても持ち得なかった。
葦津珍彦さんは、まるで神社神道が国家神道政策の被害者であるかのように論じています。
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