三日坊主日記

本を読んだり、映画を見たり、宗教を考えたり、死刑や厳罰化を危惧したり。

内田樹・福島みずほ『「意地悪」化する日本』

2019年02月27日 | 

財務省の文書捏造、失踪した外国人技能実習生調査の集計ミス、厚労省の勤労統計不正など、次々と問題が発覚しています。
ところが、大臣も政治家も官僚も、不祥事や不正がばれたり、どんな失言・暴言をしても、頭を下げておしまい。
なのに、内閣支持率は40%前後を保っています。
働き方改革や入管法改正、カジノ法案などが強引に採決されましたが、一つひとつの法案は反対の人のほうが多いのにもかかわらず。
そんなんだから、国民はどうせすぐ忘れるんだと、政府はなめきっているのか、誰も責任を取らないし、誰も辞めない。

安倍首相が自民党大会で「自衛隊の新規隊員募集に対し、都道府県の6割以上が協力を拒否している」と演説しましたが、岩屋毅防衛相はそれ以上の自治体から情報提供を受けていることを認めました。
どうも日本会議のチラシを鵜呑みにしたらしいですが、意図的に嘘をついたのか、勘違いなのか、資料が間違っていたのか、そこらの検証はなし。
https://news.yahoo.co.jp/byline/yamaguchikazuomi/20190216-00115067/

『「意地悪」化する日本』は2015年の4月から9月にかけて4回行われた対談。
内田樹さんの発言をご紹介します。

僕の知る限り、過去にこんな政治家はいませんでした。嘘をついたり、詭弁を弄したり、人を侮ったりするという行為を意図的に行って政治的基盤をより強固にしてゆくという政治家は前代未聞じゃないですか。

ボロクソですが、実際、国会審議を見てたら、質問とは関係のないことを長々話す、突っ込まれたらムキになる、キレる、質問にヤジを飛ばす……。
こんなのを見ても支持する人の気が知れません。

個別の政策は支持しないが、内閣は支持するというのは、この支持者たちが政策ではなくて、安倍晋三というキャラクターに対して「何か」を期待しているということだと思うんです。彼の中の「何か」が有権者たちにアピールしている。

https://news.yahoo.co.jp/byline/yamaguchikazuomi/20190216-00115067/
「何か」とは何でしょうか。

安倍晋三首相や橋下徹市長(当時)は「常識が通用しない人」。

二人(安倍首相と橋下徹氏)とも、幼児的で攻撃的で不寛容、中学生的基準での「悪い子」なんです。食言をいとわない点もよく似ている。あの人たち、首尾一貫性を維持しなければ自分の知的誠実さが疑われると思っていない。言葉なんか、ただのその場しのぎでいいんだと思っている。

総理大臣も市長も、平気で嘘をつく。呼吸をするように嘘をつく。あまりに嘘をつき続けるので、検証が追いつかない。

安倍さんや橋下さんは、別に言うことに首尾一貫性がないと指摘されても痛くもかゆくもない。

たぶん三カ月後に聞いても覚えていないですよ。安倍さんは、彼は確信犯的に首尾一貫性のないことを言っているんですから。論理的整合性がないということをいくら指摘しても、気にならない。(略)
たぶん安倍さんにとっては、言った言葉のもたらす政治的効果だけが問題で、真偽には関心がないんです。「まったく問題ありません」と言い切って、それでその場がおさまるなら、そのあとどれほど問題が噴出してきても興味はない。その問題はまたそのときに適当な嘘を言えばおさまると思っているから。

平気で嘘をつく人は誰からも相手にされなくなるのが普通なのだが、今の日本はそうではなくなっている。

彼ら(安倍、橋下、石原慎太郎)は嘘でも平気で断定する。そうすると聴くほうはこれほど自信たっぷりに言うからには何か自分たちの知らない根拠があるんだろうと、つい気後れしてしまう。

こういう人とはまともな議論できない。

嘘をついても、データをごまかしても、前後に言うことに矛盾があっても、とにかく相手を黙らせば「勝った」と思っているような相手とは議論にならない。この二人は異論と対話する気がない点ではほんとうによく似ています。

彼らのような確信犯的な反知性主義者たちを前にすると、ロジカルに語ること、エビデンスのないことは断定しないこと、できるだけ相手に理解してもらえるように情理を尽くして語ること、そういったことを対話の基本ルールだと思ってきた人たちは勝負にならないんです(略)。「自分だけがしゃべって、相手には話させない」「質問には答えない」「自説の論拠として嘘のデータをあげる」「自分がほんとうに思っていることは言わない」ということを基本戦略とする人が相手では対話の成り立ちようがない。

そして、こう思う人が出てくる。

この「どうしても対話が成り立たず、あっけにとられている」人の困惑ぶりを見て、「論破された」とか「一蹴された」とかいうふうに判断する人もいる。

日本人の感性が変わったのかもしれない。

今では政治家には一般人と同等の徳性しか要求されない。むしろ、一般人以下的に不道徳である人間のほうが、場合によっては「親しみが持てる」として高く評価されたりする。
公人に対するこの期待の変化、自分たちを統治する人間に特段の教養も見識も人格も求めないという人心の変化が、こういう政治家たちを権力の座に押し上げたんだと思います。
彼らは平気で嘘をつき、口汚く人の罵倒し、自分の権力を利用して個人的な恨みを晴らすといったことを「当然のこと」としてどんどん実践した。そして、その「ルール破り」が橋下徹をいっそう人気者にした。安倍さんは橋下さんのこの成功例を学んだのだと思います。

国会をも軽視している。

安倍さんには、自分が何をしたいのかを情理を尽くして伝えたいという気持ちはない。にもかかわらずというか、それゆえに、政治的には成功している。彼があれだけ国会を愚弄して、何の論理性もない滅茶苦茶な答弁をしていても、それが総理大臣の答弁として通用してしまうという事実そのものが、立法府がもはや国権の最高機関ではないということを満天下に周知させているからです。

国会軽視の一例が、安倍首相は立法者ではないにもかかわらず、アメリカの議会で「夏までには法案を成立させます」と、国会に上程してもいない法案の制定を約束するという、自分が法の制定者であるかのような発言をしたことです。

法の制定者と法の執行者が同一である政体を「独裁」と呼びます。その定義に従えば、国会への法案上程に先立って制定を既成事実であるかのように語ったとき、安倍首相は「独裁」を宣言したことになります。
その後実際に安倍総理は、法の制定者たる国会にはもう立法者としての実力がないことを、あらゆる手段を尽くして国民に周知徹底させ、それに成功しました。

どうして与党の議員が反発しないのか不思議です。

本来であれば、一度口にしたことはそのあと人間を拘束する。それが人倫の基礎だと思うんです。みんなが平気で前言を翻し続けていたら、人間社会は成り立ちませんよ。特に頽廃を感じるのは、平然と約束を破り、嘘をつく人たちが、そういうことをしても処罰されないというという事実そのものを彼らの権力の確かさの証拠として誇示していることです。一度権力の座についた人間は「どれほどルール違反をしても罰されない」ということを、彼らは彼らの言動を通じて日々アナウンスしている。
権力というのは、ただ権力があるというだけでは機能しないんです。理不尽な行動をしても誰もそれを制したり処罰したりすることができないという事実によって初めて人々は「この人は権力者だ」と理解する。


実際、何をしようが支持率は下がらないし、議席も減らない。
内田樹さんは「こんな不条理なこと、いつまでも続かないですよ。盛者必衰の理です。安倍さんはいくら何でも図に乗りすぎです」と言い、シールズの活動を例に上げ、若者たちや母親たちに期待しています。

しかし、2016年の参議院選挙では若い世代の多くが自民党に投票しました。
今も若い世代の安倍政権支持率は高いです。
https://webronza.asahi.com/journalism/articles/2018121100002.html
もしも戦争になったら自分たちが戦場に行くかもしれないことがわかっているのかと思います。

内田樹さんは、安倍首相は戦後の対米従属を否定して、大日本帝国と同じような国家に作り直そうと思っていると言ってますが、それはどうでしょうか。
トランプ大統領のご機嫌を取ってばかりで、トランプに頼まれてノーベル平和賞に推薦しています。
このごろはプーチン大統領にも何も言えない(言わない)ようです。

「忖度」という言葉がこの対談に何度も出てきます。
森友・加計問題で話題になる以前から官僚は忖度しているわけです。

この本が出版されてから3年以上経ちましたが、ひどくなっています。
安倍政権・自民党に不満を持つ人も自民党に投票します。
自民党政権が続く限り、このやりたい放題の政治状況は変わりようがないのだから、少しでも変えなければと思うのなら、与党以外の政党に投票して議席を減らすべきだと思うのですが。

アマゾンのレビューを見ますと、☆1つは福島みずほさんへの非難ばかりで、内田樹さんの安倍評価には触れていません。
☆1つの人でも安倍首相は嘘つきだと思ってるんでしょうか。

コメント (13)
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2018年キネマ旬報ベスト・テン

2019年02月19日 | 映画

「キネマ旬報ベストテン発表特別号」を買いました。
日本映画です。

1位『万引き家族』225
2位『菊とギロチン』218
3位『きみの鳥はうたえる』212
4位『寝ても覚めても』205
5位『孤狼の血』126
6位『鈴木家の嘘』118
7位『斬、』113
8位『友罪』106
9位『日日是好日』103
10位『教誨師』88

11位『モリのいる場所』83
12位『愛しのアイリーン』76
13位『素敵なダイナマイトスキャンダル』74
14位『ニッポン国vs泉南石綿村』73
15位『霊的ボルシェビキ』67
16位『止められるか、俺たちを』64
17位『カメラを止めるな!』58
18位『空飛ぶタイヤ』57
19位『パンク侍、斬られて候』54
20位『来る』53

公開された日本映画は約600本で、票が入ったのは112本。
私の予想が当たったのは、ベスト10は7本、20位までだと14本です。

ヨコハマ映画祭のベストテン
1位『寝ても覚めても』
2位『孤狼の血』
3位『万引き家族』
4位『花筐 /HANAGATAMI』
5位『カメラを止めるな!』
6位『菊とギロチン』
7位『止められるか、俺たちを』
8位『きみの鳥はうたえる』
9位『鈴木家の嘘』
10位『モリのいる場所』
10位『日日是好日』
すべてキネマ旬報ベストテンの20位以内に入っています。

外国映画です。
1位『スリー・ビルボード』377
2位『ペンタゴン・ペーパーズ/最高機密文書』245
3位『シェイプ・オブ・ウォーター』167
4位『ファントム・スレッド』132
5位『ボヘミアン・ラプソディ』123
6位『15時17分、パリ行き』86
7位『顔たち、ところどころ』82
8位『1987、ある闘いの真実』81
9位『ニューヨーク、ジャクソンハイツへようこそ』77
10位『判決、ふたつの希望』74

11位『女は二度決断する』72
12位『デトロイト』65
13位『苦い銭』62
14位『アンダー・ザ・シルバーレイク』55
14位『タクシー運転手 約束は海を越えて』55
16位『ラブレス』54
17位『犬ヶ島』52
17位『ウインド・リバー』52
19位『ザ・スクエア 思いやりの聖域』51
20位『アイ,トーニャ 史上最大のスキャンダル』48
ハネケもオゾンも、アカデミー外国語映画賞もありません。
予想は、ベストテンが6本、20位までが12本当たりました。

24位『レディ・バード』
25位『君の名前で僕を呼んで』
29位『心と体と』
31位『アリー/ スター誕生』
35位『フロリダ・プロジェクト 真夏の魔法』
38位『運命は踊る』
40位『ラッキー』
41位『グレイテスト・ショーマン』
41位『リメンバー・ミ-』
44位『ワンダー 君は太陽』
47位『華氏119』
52位『ハッピーエンド』
54位『ブラックパンサー』
64位『2重螺旋の恋人』
69位『ウィンストン・チャーチル/ヒトラーから世界を救った男』
111位『ナチュラルウーマン』

公開された外国映画は約500本で、そのうち198本に票を入れています。
そのうち1点は15本ありました。
1人だけ10点にした『The Witch/魔女』は89位です。

スクリーン誌のベストテン
1位『スリー・ビルボード』
2位『シェイプ・オブ・ウォーター』
3位『ボヘミアン・ラプソディ』
4位『君の名前で僕を呼んで』
5位『ペンタゴン・ペーパーズ/最高機密文書』
6位『アイ,トーニャ 史上最大のスキャンダル』
6位『ファントム・スレッド』
8位『タクシー運転手 約束は海を越えて』
9位『グレイテスト・ショーマン』
10位『フロリダ・プロジェクト 真夏の魔法』

11位『アリー/ スター誕生』
11位『リメンバー・ミ-』
13位『犬ヶ島』
13位『ブラックパンサー』
15位『判決、ふたつの希望』
16位『15時17分、パリ行き』
17位『ウィンストン・チャーチル/ヒトラーから世界を救った男』
18位『運命は踊る』
18位『ワンダー 君は太陽』
20位『女は二度決断する』
20位『華氏119』
20位『ラッキー』
いつものようにほとんどがアメリカ映画。
10位まででキネマ旬報とダブったのは5本、20位までだと11本。

23位『へレディタリー/継承』
24位『アンダー・ザ・シルバーレイク』
28位『ラブレス』
32位『デトロイト』
45位『ウインド・リバー』
47位『顔たち、ところどころ』
57位『ニューヨーク、ジャクソンハイツへようこそ』
63位『1987、ある闘いの真実』
『ザ・スクエア 思いやりの聖域』1人だけ
『苦い銭』1人だけ

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たばこ総合研究センター編『現代社会再考』(3)

2019年02月13日 | 

たばこ総合研究センター編『現代社会再考』には、れれれと思う論説はいろいろあるけれども、帯津良一「守りの養生から攻めの養生へ 健康とは「自由」のことである」のトンデモさには兜を脱がざるを得ません。
たばこ総合研究センターはどうしてこんな人に原稿を依頼したのかと思います。
こんな感じです。

20世紀は、外に目を向ければ、常にどこかで紛争が起こっているし、内に目を向ければ従来の価値観が随所で崩れて、いささか殺伐たる様相を呈している。
一言でいえば地球という「場」のエネルギーが低下している。
『場』の養生塾」を発足させ、養生を果たしていく人材を一人でも多く輩出することによって地球という場のエネルギーを高めよう。

21世紀は生命の時代です。焦点を合わせるのは身体ではなくて、内なる生命場です。生命場のエネルギーを日々勝ち取っていくという、より積極的で「攻め」の養生です。
攻めの養生の原動力はときどき起こる生命場の小爆発です。小爆発によってエネルギー値が一気に上昇するのです。そして、この小爆発の引き金は心のときめきです。だから、心のときめきは攻めの養生になくてはならないものなのです。
そして、死ぬ日を最高にもっていき、その勢いを駆って死後の世界に突入するのです。攻めの養生に終わりはありません。


目標の一つは青雲の志。
青雲の志とは、本来は聖賢の人になろうとする志。

中国の古代では、立身出世をする人は、すなわち聖賢の人だったのではないでしょうか。私自身は聖賢の人とは、まず行住坐臥、いつでも内なる生命場のエネルギー、つまり生命が溢れ出ている人ではないかと考えました。
どういうことかというと、私たちが攻めの養生を果たして向上していくときの推進力は前述したように時に起こる内なる生命場の小爆発です。小爆発をして体外に溢れ出る。これによって、一気に生命場のエネルギーが高まる。いってみれば物理学でいう「励起」の状態が起こるのではないでしょうか。
その小爆発がいつも起こって生命が常時溢れ出ている人を聖賢の人としたわけです。(略)
私たちは、たとえ病のなかにあっても、攻めの養生を果たしていくわけなのですから、向上していくことを忘れてはならないのです。しかも病は一つのストレス、一つの困難ですから、これを克服するために、健康な日常以上の努力をしなければなりません。それだけに得られる位置取りも健康な日常で得られるものよりはるかに高いものとなります。
こうして病のたびに位置取りを上げて行って、最終に死に直面したときは、死と同じ地平に立つ。同じ地平に立てば、もはや、死は怖いものではなく、まったくの平常心で死後の世界に入っていくことができるようになるのではないでしょうか。ここに病の本来の意味があるような気がしてきました。だから、生老病死という順序になっているのではないでしょうか。


この手の話が好きな人は物理学の用語を使いたがります。

私たちの体内には電磁場もあれば重力場もありますが、その上に、より生命に直結した物理量も存在して、全体として一つの生命場を形成していることは十分に予想されることです。
その生命場のエネルギーが「生命」。なんらかの理由で、そのエネルギーが低下したとき、これを回復すべく本来的に生命場の備わった能力が「自然治癒力」。そして、生命と自然治癒力が統合されたものが「生命力」とこれまで考えてきました。
つまり、自然治癒力とは「場」があれば必ずそこに存在するのです。人間の独占物ではありません。これで、自然治癒力の在り処はわかりました。あとはその本体です。


ここまでは、ああそうですかですむ話ですが、問題はこの次です。

場があればそこには必ず自然治癒力が在るとして、生命力の一番高い場はどこか? それは「浄土」ではないかと突然閃いたのです。浄土は何処に? 浄土を探せば自然治癒力が見えてくるのではないかとばかり浄土を探しました。
そして行き着いた処。それは畏友本多弘之さん(親鸞佛教センター所長)の浄土でした。浄土とは「本願」の場である、と本多さんはいいます。そうか、浄土とは一切の衆生を救おうとする阿弥陀さまの願いの満ちみちている場だったのです。そして、阿弥陀さまは決して依怙贔屓をしないでしょうから、今ここが浄土だったのです。
そして、何よりも自然治癒力とは阿弥陀さまの本願のことだったとすると、これは科学で明らかにできるものではなく、当分は信じていくしかないものだとわかりました。

こんなところで本多弘之氏の名前を目にするとは。

本願の場に身をまかせながら、内なるかなしみで慈しみ育てていくことが自然治癒力を喚起していくことだとすると、これはまさに他力と自力の統合ではないでしょうか。そうです。自然治癒力とは他力と自力の統合のなかで育まれていくものなのでしょう。
さらに、他力と自力の統合を考えるとき、心のときめきを感じるのは私だけでしょうか。心のときめきは必ず内なる生命場の小爆発を惹き起こします。攻めの養生を果たしていく上での大いなる推進力です。がん治療の現場での長い経験のなかで、心のときめきこそ医療と養生の要諦であると思うようになってきました。


私には妄言としか思えません。
こんな親鸞理解をする帯津良一氏を親鸞仏教センターの講師などに招くことは、帯津良一氏の考えに東本願寺がお墨付きを与えることになります。
本多弘之氏は帯津良一氏の本願理解、浄土理解をどのように説明するのか、ぜひお聞きしたいものです。

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たばこ総合研究センター編『現代社会再考』(2)

2019年02月07日 | 

たばこ総合研究センター編『現代社会再考』の論考の中には、れれれっと思うものもあります。

武田邦彦「持続可能社会と嗜好品」
石油や石炭などの化石燃料がなくなるのは一万年後、ほとんどの鉱物資源は千年はもつ。
地球の温暖化はまったくのうそ。
仮にそうだとしても、資源をいくら消費してもいいということにはなりませんが。

奥村康「不良長寿のすすめ」

コレステロールは肝臓と脳でつくられます。全体の20%は脳の細胞でつくられ、脳で使われている。だからコレステロールが低い人は脳の回転が悪いかもしれません。また、すべてのホルモンはコレステロールからできている。セックスに関するホルモンもそうですから、コレステロールが高い人はスケベです。スケベなやつは頭の回転が速く、仕事もできる。それは確実に比例します。

女性は閉経後に必ずコレステロールが上がるから、コレステロール降下薬の7割は女性が飲まされている。
ということは、閉経後の女性はコレステロールが高くなってスケベになり、頭の回転が速くなるのでしょうか。

たばこは体にいい点がいろいろあるそうです。
脳細胞のネットワークづくりを促進するのがニコチン。
だから、たばこを吸うと記憶がよくなるし、たばこを吸う人はボケが少ない。
そして、たばこが気管支に悪いというのはウソで、たばこを吸う人は風邪を引きにくい。
たばこが適当な刺激になって、免疫が上がっている。
自殺者2000人くらいを調べたところ、たばこを吸う人が1人もいなかった。

たばこは自殺防止にも役立つのではないか。


スギ花粉症は、非常に精神・神経状態の影響を受けやすい。
重罪犯の刑務所の医師に、花粉症はいないだろうと聞いてみたら、「受刑者には少ない。でも看守にはたくさんいます」との返事。
テレビに映るとアドレナリンが出るので、鼻水もくしゃみも止まってしまう。
重罪犯もアドレナリンが出やすい人たち。

気合いが入っていたら、あんなものはぶっとばせるんです。ゴルフでも、ドライバーを打つ最中はくしゃみは出ないでしょう。

アドレナリンが出っぱなしというのは体にいいとは思えないんですが。
言いたい放題という感じがします。

春日武彦「中腰という生き方」
精神科に入院している患者はたばこを許される。
しかし、安いたばこを1日100本吸っている患者が肺がんになったという話は聞いたことがない。

私の個人的な仮説ですけれど、もしかしたら統合失調症はがんを阻止するなんらかの要素があるんじゃないか。

ネットで調べると、1909年に統合失調症の患者のガンの罹患率は一般の人より低いと報告されているそうですが、逆に高いという研究もあります。
https://www.carenet.com/news/general/carenet/43212 

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たばこ総合研究センター編『現代社会再考』(1)

2019年02月04日 | 

『現代社会再考』は、健康とリスク、あるいは自由と管理・規制などについての23人の論考。
一般常識に文句をつけるへそ曲がりとも思える論には、なるほどとうなずくものが多々ありました。
いくつか紹介します。

清水雅彦「強まる監視と管理、何が問題なのか」
安心と安全は別概念。
安全は反対語が危険であるように、客観的な概念。
安心は反対語が不安・心配であるように、主観的概念だから、人によって感じ方が違う。
ところが警察は不安感を煽り、安心を追求するように言う。
防犯カメラというが、実際は監視カメラで、実際の機能は犯罪抑止効果よりも犯罪解決効果のほうが高い。

監視強化の背景にあるのは何か。警察には、すべての国民の情報を収集して監視したいという欲求がある。セキュリティー業界は、監視社会化が進めば進むほど儲かるので、マスコミや警察を使って不安感を煽っている。(略)警察、セキュリティー業界、それにマスコミが一体となって今の監視社会がつくられているわけです。

あいさつ運動は不審者の発見のためだそうで、これは知りませんでした。
挨拶を返さなかったら不審者と思われるのでしょうか。

個人情報についてうるさくなっており、マンションの集合ポストに名前を出さない人が多い。
ところが、自ら個人情報を垂れ流している。
クレジットカードやポイントカードなどを使って買い物をすると、どこで何をいつ購入したかという情報が記録される。
携帯電話は位置情報を発信している。
高速道路の料金所を車が通過するたびにナンバーが撮影される。
そうしたことには無頓着。

佐藤卓己「世論に流されず、輿論を担う」
輿論(パブリック・オピニオン) 意見
世論(ポピュラー・センチメンツ) 感情

以前、世論調査は、何週間も前に質問票を送り、あらかじめよく考えてもらい、調査員が足を運んで聞き取りをしていた。
今はコンピューターがランダムに選んだ電話番号に電話をかけ、その場で答えてもらう。
急に質問されて、自分の考えなど言えるはずがない。
昔は2~3000件の回答を集めるのに数千万円かかったが、現在は数百万円ですむ。

JT関係から出版されているので、たばこを吸う自由、喫煙と健康との関係とかを言いたいのだと感じるものもあります。

瀬戸山晃一「法政策について考える」
人にはバイアスがあって、これが正しいとか間違っているとか、合理的な判断をしていると思っていることも、今までの自分の経験だったり、メディアの影響だったり、環境から影響を受けるなどしているから、事実をありのまま受け取らない。

リバタリアン 自由至上主義者。個人の自由を尊重する。規制をしない。アメリカの保守派。
パターナリズム 個人の選択や行動を規制する。
リバタリアン・パターナリズム 選択肢の余地を残して、最終的には本人に自己決定させる。

たばこの喫煙がこれにあたるそうです。
喫煙するかどうかは本人の自己決定だと言われても、受動喫煙とかどうなのかと思います。
リスクについての論考も喫煙とガンのリスクを言いたいように感じます。

宮本太郎「分断社会の処方箋」
1995年は阪神淡路大震災、そして地下鉄サリン事件があった。
そして、単身者世帯が1000万世帯を突破し、共働き世帯が片働き世帯を追い抜き、生産年齢人口が減少した年でもある。
30台前半の男女の未婚率が急激に上昇するのも1995年。
生活を成り立たせている仕組み、その根幹のところが崩壊を始めるターニング・ポイントだった。
それは「新しい社会的リスク(従来の制度が前提としたライフスタイルの転換に起因する想定外のリスクのこと)」の出現を意味する。
それまで典型とされてきた生活の仕組みが変わることによって新たなリスクが生じた。

松永和紀「安全か危険かではなくリスク管理を」
食品に関して、昔は安全だったと考えがちだが、現代は見えている悪いものが、昔は見えなかった。
リスクの要因を科学は見えるようにした。
新しいリスクの要因となりうる技術はきびしく管理され、全体として安全性は向上している。
しかし、すべてにリスクがあり、決してゼロにならない。
科学は必ず不確実性を伴い、100%正しい答えはない。
安全か危険か、白か黒かとはっきり言えない。
たとえば、水道水には放射性物質のリスクがある。
しかし、ミネラルウォーターのヒ素含量などの基準は水道水よりも緩い。
ミネラルウォーターを買うとして、子供を家に置いて買いに出かける、もしくは乳児を抱いてスーパーで長時間並ぶというリスクがある。
何が適切な行動か決めるのは非常に難しい。

佐藤純一「健康言説を解体する」

近代医学は「リスク」に対する考え方が非常にいいかげんです。そもそもリスクというのは、さまざまな要素が相互に関連し合って一体となって初めて「リスク」となるのであって、単一の「リスク」が疾病を引き起こすことはあり得ない。

たばこだけがガンの原因ではないということでしょうか。
健康についての論はもっともと思いました。

健康というのは定義できない。
病気がない状態が健康ではない。
医療技術が発達し、検査精度が細かくなれば、どんどん異常を見つけるようになり、健康な人はいなくなってしまう。
優生学的発想から、日本では1910年代から、障害者が生まれないように中絶を強要し、ハンセン病患者は隔離収容された。
健康増進運動は優生政策が形を変えたもの。

ヘルシズム(健康至上主義)とは、人々が健康の達成を自ら進んで心がけ、実践すること。
何のために健康が大事なのか。
戦前までは、健康でないと生活できない、子供を養うことができないなど、生活のため、よりよく生きるための手段として健康が大事だと答えた。
ところが、戦後は多くの人が「健康それ自体が大事だ」と答える。
これがヘルシズムの特徴。
今のヘルシズムは、誰から強制されるでもなく、自ら進んで実践する。
さらに、健康より大切なものはないと、健康が至上の価値になる。
健康のためなら何でも犠牲にして、健康を追求する。

以前、ある人が「健康でなければ幸せではない」と言ってて、健康でなければ生きている価値がないのか、死んだほうがいいのかと疑問に感じたことを思い出しました。

上杉正幸「現代日本社会における健康の価値再考」
2003年、国民に健康増進を責務として課する「健康増進法」が施行された。
1981年、生活の中での不安として「自分の健康」と「家族の健康」を挙げている人が37%。
2009年では、「老後の生活」が55%、「自分の健康」が49%と増えている。
自分の健康が不安だという人は多いが、現在は「健康」「どちらかといえば健康」と答えた人が85%で、病気を抱えているわけではない。
健康の不安は体感治安の悪化みたいです。
何が健康で、何が異常かがわからなくなっている。
異常がないことが健康だとすると、健康を求めてすべての異常を排除しようとする動きに巻き込まれ、健康不安から逃れることができず、生きる意味、やりたいことが見えなくなる。

もっともです。

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