三日坊主日記

本を読んだり、映画を見たり、宗教を考えたり、死刑や厳罰化を危惧したり。

共依存チェックリスト

2013年11月29日 | 日記

ギリシャの伝説にプロクルステスという強盗の話がある。
プロクルステスは「引き延ばす男」という意味の名前で、旅人を捕えては寝台に寝かせ、身長がベッドより短いと重しをつけて引き延ばし、長いとベッドからはみ出た足を切り落とした。
そこから、杓子定規、容赦ない強制という意味の「プロクルステスの寝台」という言葉が生まれた。

我々だってプロクルステスと同じことをしているわけで、人間の足は左右の大きさが違うにもかかわらず、大きすぎたり、小さすぎたりする靴をはいて靴ずれになる。
我々は人をも型にはめようとする。
子育てがそうですね。

加藤力『家族を依存症から救う本』に共依存とは何か書かれてあり、共依存とは「プロクルステスの寝台」じゃなかろうかと思った。

加藤力氏の説明をご紹介します。

共依存の人は、自分を必要とする他人の存在なしには、自分がかけがえのない大切な存在だと確信できないので、誰かを支えたり世話を焼いたりすることで、人から必要とされることを求める。

そして、自分と他人の境界線があいまいなため、他者の領域に侵入し、他人の考え方や行動に干渉したり、本来その人が果たすべき責任や課題を引き受けたりする。
周りに問題がなくなったり、世話焼きの対象がいなくなったりすると、空虚に感じ、自分は何をしたいのか、どんな人生を望んでいるのかがわからず、抑うつ的な気分や不安が高まる。

ということは、お節介焼きや仕切りたがりといったコントローラーは共依存の傾向があるということか。

私もその一人ですが。
共依存傾向のセルフ・チェックを『家族を依存症から救う本』から無断引用。

1 私は自分のことは二の次にして、家族や親しい人の世話を焼く。
2 私は家族や親しい人の考え方や振る舞いに干渉し、それを正そうとすることが多い。
3 私の家族や親しい人は、事件に巻き込まれたり、問題を起こしたり、病気を繰り返したりすることが多いので、私はいつも忙しい。
4 私はすぐに片付けなければならない問題がないとき、退屈でたまらなくなったり、憂うつになったりする。
5 私は誰かに頼られていないと、自分が役立たずのように感じて憂うつになる。
6 私の家庭には病気などの問題を抱えた人がいるが、どこの家もこんなものだろうと思うので、深刻に悩んだりしない。
7 人に頼まれたり、誘われたりしたとき、私ははっきりと断れない。
8 私はときどき他人の問題を自分のことのように感じる。
9 私は世間の動きや季節の移り変わりに無頓着である。
10 私は自分の体の不調に気づかないで頑張りすぎてしまうことがよくある。
11 私はいつも肩こり、頭痛、息苦しさなどに悩まされている。
12 私は自分の悲しみや怒りをその場で表現するのが怖い。
13 私は人に叱られ、怒鳴られると,すくんでしまい、自分の意見が言えなくなる。
14 私は自分の恨みや愚痴を聞いてくれる人をいつも求めている。
15 私はひとりになったとき、寂しくてたまらない。
16 私は他人の期待にそえなくて、申し訳ないと感じることが多い。
17 私は自分の本音を他人に知られるのが怖い。
18 私はときどき自分を不器用で,愚かで、生きるに値しないように感じる。
19 私は今、自分に必要なものや、自分が本当に望んでいることがはっきりわからない。
20 私は自分の要求を人にはっきり伝えることができない。

まったくその通り→2点

その傾向があるかもしれない→1点
まったく当てはまらない→0点
合計して20点以上になった場合は、共依存の傾向が強いと判断していいそうです。

相手に対する過大な期待や過剰なコントロールは、対人関係に緊張をもたらすのでご用心。

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日本語は難しいか

2013年11月24日 | 日記

日本語ペラペラのアメリカ人と話していて、英語より日本語のほうが難しいと言うので、高校のころ英語がまったくダメだった私は賛成できなかった。
そのアメリカ人は4歳の時に新聞のスポーツ欄を読んでいたという。
日本語は平仮名と漢字が混じっていて、両方を覚えないといけないから大変だと言われ、なるほどと思った。

そういえば、全盲の人が、点字だけでなく漢字の読みも覚えないといけないと言われたことがある。
漢字の読みにしてもいくつもあり、文章の流れでどう読むか判断するわけだが、たとえば「臭い臭い」を「くさいにおい」とは日本人でも読めないかもしれない。
「いつも学校に通っている道を通っている」は、最初の「通って」は「かよって」、後のは「とおって」。

辛い(つらい・からい)

覆った(おおった・くつがえった)
そっちの方(かた・ほう)
行った(いった・おこなった)
などは、読みによって意味が全然違ってくる。

抱く(だく・いだく)

描く(えがく・かく)
酷い(ひどい・むごい)
止める(とめる・やめる)
違わぬ(たがわぬ・ちがわぬ)
塗れた(まみれた・ぬれた)
注ぐ(そそぐ・つぐ)
堪える(たえる・こたえる・こらえる)
下に(したに・もとに)
出そう(でそう・だそう)
入れる(いれる・はいれる)
疑った(うたがった・うたぐった)
吐く(はく・つく)
大事(だいじ・おおごと)
今日(きょう・こんにち)
外面(がいめん・そとづら)
など、意味は似かよっているだけに、かえってどう読むのか頭を悩ます。

平仮名にしたら読み間違いがないかというと、そうでもない。

なくなる(無くなる・亡くなる)
とまる(泊まる・止まる・停まる)
かえす(返す・帰す・孵す)
かえる(帰る・変える・代える・買える)
きる(着る・斬る・切る・伐る)
つく(着く・付く・突く)

平仮名だと、「私ははいれなかった」のように読みづらくなることもある。

「お父さんはなくなっていませんね」は二つの読み方がある。
たしかに難しいものだと納得しました。

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吉田恵輔『ばしゃ馬さんとビッグマウス』

2013年11月20日 | 映画

吉田恵輔監督の映画は、能力がないのに、自分には能力があると思い込む主人公が巻き起こす混乱を描いていて、話としてはおもしろいのだが、主人公にまったく共感できなくて、見ていて不愉快になる。
『さんかく』の主人公なんて、信じられないくらいうぬぼれが強いし、同棲している女がこんなだめ男に惚れ込んでいて、見ていて腹が立つ。

その点、『ばしゃ馬さんとビッグマウス』はうまくできている。
脚本家を目指して十年以上も頑張っているものの、コンクールに応募しても第一次選考にも通ったことがないという34歳が主人公。
もう一人は、自称天才で、映画の歴史を変えると自信たっぷりに大言壮語しているが、脚本を書いたことがない男。

大森望・豊崎由美『文学賞メッタ斬り!』(2004年刊)を読んでたら、小説家を目指す若い人の中には「大真面目に大風呂敷広げる」人が少なくないとあった。
豊崎由美氏が

まだなにもしれないうちから、じぶんに大物感を抱いてる。根拠のない自信がある。そういうのって今の若い人たちの一部に共通する感覚なのかも。世界のとらえかたがそうなのかな。

と言うと、大森望氏がこう答える。

RPGの主人公的な全能感を無根拠に持ってるとか。最初から選ばれた人間であることに慣れている。

そうか、ドラクエか。
自分には神が与えた使命があるから、どんな困難も乗り越えることができ、そうして優れた人間になることができる、という夢は気持ちがいい。

『ばしゃ馬さんとビッグマウス』の名言。

夢を叶えることが難しいことはわかっていたけど、夢をあきらめることがこんなにつらいなんて知らなかった。

正確にはこのとおりではないが、そうだなあと思いました。
夢というと聞こえがいいけど、要は妄想。
妄想に耽るのが好きなんですよ。

 

 

 

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愛と神について

2013年11月16日 | 日記

福永武彦『草の花』に、恋人同士のこんな会話がある。

「ねえ汐見さん、本当の愛というものは、神の愛を通してしかないのよ」
「僕はそうは思わない。愛するということは最も人間的なことだよ。神を知らない人間だって、愛することは出来るんだよ」
「でも、神を知っていれば、愛することがもっと悦ばしい、美しいものになるのよ」


これを読み、ウラジミール・ナボコフ『ロシア文学講義』に引用されているアントーノフ『大いなる心』(1957年)を思い出した。

オリガは沈黙した。
「ああ」とヴラジーミルは叫んだ。「こんなに愛しているのに、どうしてきみは愛してくれないんだ」
「私は国を愛してるもの」とオリガは言った。
「それはぼくだって同じだ」ヴラジーミルは力をこめて言った。
「それに、もっと強く愛してるものがあるの、私には」青年の抱擁から身をふりほどいて、オリガは言葉をつづけた。
「というと、何だろう」青年はふしぎそうに訊ねた。
オリガは澄んだ青い目でヴラジーミルを見つめ、即座に答えた。「党よ」

このやりとりには思わず笑ってしまうでしょ。
アントーノフ『大いなる心』という小説はナボコフがでっち上げたんじゃないかという気がします。
私が大学のころ、共産主義はキリスト教の裏返しだと聞き、意味がわからないくせに納得したもんです。
「神」を何か別のものに置き換えることは可能なわけで、共産主義も鰯の頭も信心になるわけです。

(追記)
生き仏や生き神、たとえば天皇、法主、教祖などへの信者の愛情は切ないものがあります。

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苦しみをどのように受け止めるか

2013年11月12日 | キリスト教

加賀乙彦『雲の都』の語り手である悠太、そして母や妻、妹、叔母一家たちはカトリックの信者なので、『雲の都』は神について何度も触れている。

悠太は大学紛争の時に、クギが打ちこんである角材で頭を殴られて入院する。
痛みに耐えながら、このように悠太は考える。

神の痛みはどうか。まず明らかなことは、イエス・キリストが十字架上で人間から被った痛みこそ、あらゆる痛みのなかでもっとも激烈なものであった。そして、彼が人間から受けた軽蔑、差別、裏切りの精神的痛みこそは、さらに究極の痛みであった。


自分が苦しい目に遭った時に十字架上のイエスを思うのはキリスト教徒の常らしく、エリザベス・ギャスケル「ベン・モーファの泉」(『ギャスケル短編集』1850年)にもこんなエピソードが書かれてある。
エレナの一人娘が転倒して半身不随になり、婚約者が去ってしまい、メソジスト派の説教師であるデイヴィッドにエレナは訴える。

この世には嫌気が差しました。我が子を見る影もなく悲嘆に暮れさせたままにしておきながら、私は死んで安らぎを見出すことなんかできるでしょうか?

デイヴィッドはこのように答える。

エレナよ。おまえが行く所では、すべてが明らかにされるであろうし、おまえが今とても耐えられないと思っている、そういった悲しく重苦しいことが終わったと分かり、神に感謝するようになるだろう。おまえの苦悩は、あの花園における恐ろしい主の苦悩よりも大きいと思っているのかね。

イエスに比べると、これくらい大したことがないから我慢しろ、というわけである。

松家仁之『火山のふもとで』に、世界が美しいのは神が創造したからというやりとりがある。

彼女はね、分子生物学を研究するようになって、はじめてゴッドがいるって思うようになったそうよ。こんなに精緻で合理的で、しかも美しいかたちは、神でもいなければとてもつくりだせるはずがないって。

へそ曲がりの私は、だったら醜いものは誰が作ったのかと思う。

『雲の都』でも、悠太の叔母と娘が浅間山を見ながらこんな会話をする。

娘「ねえ、ママ。自然てのは美しいのね。その美は神様の傑作なのね。逆に言えば神様は傑作しかお作りにならない。わたしなんかの絵は、いつも失敗して醜くなるのに、神様は醜い作品はお作りにならない。それがわたしは不思議でならない」
母「ほんとだね。(略)もし神様がおられなければ、美はこの世に現れなかった。わたしは絶対にそう思う」
娘「(略)どんな山でも美しいのはなぜかという話になった。(悠太)先生の言うには、自然の山で醜いのに出会ったことがないんだって。(略)驚いたことに、あらゆる方向から浅間は美しく見えたんですって。子供が砂山で浅間山を作ろうとしない理由もわかる。それは子供には神の作った浅間山は再現できないからなんですって」

どうして神は浅間山を噴火させ、多くの人を殺したのか、と私は思う。

阪神大震災でボランティアとしてしばらく滞在した悠太は、ある少女が焼け死んでいく姿を想像する。

体は動かない。「助けてえ」と必死に叫ぶ所に炎が入り込んできた。「熱いよう」と少女は泣いたけれども、物凄いヘリコプターの爆音に消されてしまい、誰も助けに来てくれない。少女の体はじりじりと焼かれていった。少女はついに叫びもがきながら、焼かれていった。

こういう想像力があるのに、その痛みをもたらした神への疑問は出てこないのが不思議である。
というか、都合よすぎるんじゃなかろうか。

デイヴィッド・ロッジ『どこまで行けるか』は、神への異議をはっきりと述べている。

洪水による土砂崩れが小学校を呑み込み、教師と百十余名の児童が死ぬという事件(実際の事件)が起きる。
ブライアリー神父はこの事件について次のような説教をする。

(このような災害を)人間の罪深さに対する一種の罰と見なしたり、神の御意として何の疑いも差し挟まず受け入れたりするのがキリスト教の伝統的な反応だ。その二つの反応はどちらも不十分である。なぜなら、もし罰せられるのが人類の罪深さとすれば、あの子供たちや家族が罰を蒙るのは完全に不当だ。そして、もしそれが神の御意ならば、なぜわれわれは、それに疑問を呈してはいけないのか?キリスト教徒が信じているように、もし神が宇宙に遍在しているのなら、神は宇宙の中の一切のことに責任をもち、こういうときに人間の心に掻き立てられた怒りと敵意を甘受する用意がなければならない。

そして、神に不平をぶちまけ、苦しみを率直に語った『ヨブ記』を引用する。

グレアム・グリーン『事件の核心』では、子供の死について神に問う。

遭難した船から逃れた人たちが乗ったボートが40日間漂流し、女の子は助けられたものの、すぐに死ぬ。
主人公である警察副署長はこう感じる。

自ら創り出したものを愛するほどの人間性を持たぬものとしての神も信ずることは出来なかった。


グレアム・グリーンやデイヴィッド・ロッジはカトリック作家である。

彼らの小説に登場する人物は、神に異議を唱えても、信仰を捨てず、神に無関心でもない。
疑問を持ちながらもカトリックにこだわり続ける。
そこらがキリスト教徒ではない私にも共感できるわけです。

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加賀乙彦『雲の都』・『加賀乙彦自伝』

2013年11月08日 | 

加賀乙彦『永遠の都』は小説を読む楽しさを満喫させてくれた大河小説だった。
『雲の都』は『永遠の都』の続編。
セツルメント、血のメーデー、大学紛争、阪神大震災などの記述は興味深いが、主人公の悠太(作者の分身)が結婚し、大学をやめて小説家になるあたりから俄然つまらなくなる。
大金持ち・芸術家の自慢話(ひがみ、嫉妬かもしれないけど)が延々と続くので。

ピアニストで大金持ちの妻は炊事・掃除・洗濯がまったくできない。
結婚するときに、20年間使っている女中に家事をいっさいまかせたいと妻が言うと、悠太は「ぼくは構わないよ。君はピアニストだ。包丁なんか使って、手を怪我したら大変だし、家事に時間をとられて、練習の時間を取られたら困るだろう」と答える。

1971年、妻が信濃追分に別荘地として約2万坪の土地を購入する(坪1万5千円)。
悠太の処女作がかなり売れ、印税で悠太も隣に400坪ほど買う。
1974年、印税でマンションの借金を大分返し、別荘を建てる。

2000年、風呂場を直して、二階に作った。
「室内を檜造りの風呂場にして張り出したベランダに浅間石の露天風呂の浴槽を作って生垣で囲む」
露天風呂のほかに湯の人工滝を作る。
「湯は地下の小ボイラーで温め電動ポンプで室内の風呂場と露天風呂に出させるようにした」

もちろん『雲の都』はフィクションである。
どこまでが加賀乙彦の実体験なのか、モデルはどういう人物なのか知りたくなって、『加賀乙彦自伝』を読む。

『永遠の都』では母親の浮気が描かれるのだが、事実がもとになっているそうだ。

「母の不倫相手は、小説では悠太の従兄にしてありますが、実際は私の小学校の先生です」
私の知り合いに小説家がいなくてよかったと思う。

それとか、家族が病気になると、悠太は親しい医者に連絡して、日曜日でも入院させてもらう。
『加賀乙彦自伝』には、母親がクモ膜下出血で倒れたときのことが書かれている。
「前の晩、満床で断られたといいますが、大きな病院には必ず特別な患者のための予備のベッドがあるんです。友人はそれを都合してくれたのです。(略)もし、前の晩に私が友人の医者に連絡を取っていれば……」
コネがあったのに、と悔やまれてもねえ。

加賀乙彦氏の妻が急死し、菩提寺(曹洞宗)にある墓に妻の骨を納めたいと頼むと、「当寺は仏教の寺でキリスト教徒はいっさいお断りです」と断られる。
「父の死後、父母の供養年には法事を頼んで読経してもらっているという顔見知りの住職なのですが、キリスト教への敵意は確固としていました」
金沢の菩提寺(天台宗)の住職に電話で事情を話し、キリスト者の妻の墓をそちらに造りたいと申し出ると、「うちは、どんな宗派の方でもお墓に入っていただいてかまいません」という返事をもらう。
そこで、東京の菩提寺にある墓石を金沢に運ぶ。

このことはよほど腹に据えかねたらしく、『雲の都』にもこのエピソードを書いている。
しかし、寺院の境内にある墓地は、たいていの場合は共同墓地ではなく、その寺院の檀家のための墓地である。
ところが、加賀乙彦氏の母親は洗礼を受けており、教会で葬儀をしている。
たぶん妻も仏式の葬式ではないと思う。

住職に葬儀をしてもらわないのだから、住職が納骨を拒むのもわからないわけではない。

でも、加賀乙彦はその寺でキリスト教徒の母親の法事をしているし、家には仏壇があって、イエス・キリストの十字架と阿弥陀様がある。
「我が家ではキリスト教と仏教が共存しているのです」
妻と父母の位牌も仏壇の中にある。
どういうことのなんでしょうね。

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校條剛『ザ・流行作家』2

2013年11月04日 | 

校條剛氏は『ザ・流行作家』でこんな指摘もしている。

捕物帳と股旅物は、大衆時代小説の二大ジャンルである。この二つには明確な差異がある。捕物帳は「定住者のお話」であるのに対して、股旅物は「住所不定者のお話」である。そして、定住者は住所不定者に対して温かく接したりしないものである。住所不定者は、渡世人であり、人別帳から外れた無宿人である。捕物帳は、いわば警察の物語であり、股旅物は、犯人のほうの小説といっていい。追うものが主体となって語られるものと追われるものが主体となった物語というまるで正反対の方向性を持つのである。
決して日本人だけの特性ではないが、読者というものは、警察の物語が大好きだということである。追うほうの、取り締まる側の位置に立つのが好きなのだ。


「鬼平」や「剣客」が継続的に多くの読者を長年にわたり獲得してきたのに対し、「紋次郎」の低迷の原因の一つは、日本の読者の警察好きにあるのではないだろうか。


捕物帳と股旅物についてのこの指摘は一種の日本人論だと思う。
「定住者のお話」を好むということを、風が吹けば桶屋のヘリクツでこじつけると、よそ者を嫌うムラ社会が好む話が捕物帳である。
あれこれあったけど、結局はメデタシ、秩序は回復されました、ということで安心するわけである。
秩序を回復するのは権力によってということになると、水戸黄門は捕物帳と似た構成の物語ということか。

で、校條剛氏は新潮社出身なのにもかかわらず、『ザ・流行作家』は講談社から出版されている。
たぶん新潮ジャーナリズムについて批判しているからだと思う。

校條剛氏によると、新潮ジャーナリズムとは「週刊新潮の論調をつくり、八十歳を過ぎても最高決定権を握っていた斎藤十一という編集者・役員の思想」である。
「色、欲、金、他人の不幸」
「調子に乗っている人間を叩くのは面白い」
これが斎藤イズム。

斎藤が、小さな犠牲者を見つける天才であったことは間違いない。自分は安全地帯から動かないで、犠牲者の蟻ん子たちが右往左往する様を悦に入って眺めているという姿勢である。自分は、他人を裁く権利があると理由もなく信じている。いつも偉そうにしていられるのだから、プライド高く、コンプレックスなお強い編集者や記者にはなんとも魅力のある思想ではないか。

「小さな犠牲者」とは言い得て妙である。

斎藤イズムは小さな犠牲者を叩くだけではなく、持ち上げもする。

一度、池に落としてから、今度は逆に手を差し伸べて救助してやれば、恐れと感謝が同居することになり、以後、いかようにも便利使いができるという計算


斎藤イズムは「週刊新潮」だけではなく、マスコミ全般に共通する。
スキャンダリズムを基調としたマスコミの病の特徴を、校條剛氏は次のようにあげている。

一つには、正義感から発している告発に見せながら、正義の下敷はないということ。編集者の価値基準は、正義ではなく、順法精神でもなく、話題性=スキャンダリズムであること。倫理的な物差しは探すべくもない。皆無なのである。結果として、他人が苦しもうが、没落しようが、破滅しようが知ったことではない。要は、「色、欲、金、他人の不幸」にしか興味のない大衆が満足すればそれでいいという考えである。大衆というのは、もちろん、マスコミ人たちが口にする言い訳に過ぎず、実は、自分たちが満足感を味わいたいのだ。
筆者も実はそうした無神経なマスコミ人の一員であった。

こうした正義感は捕物帳を喜ぶ気持ちと同じではないかと思う。

一方でまた、校條剛氏は次のように言う。

大衆は実際の警察が嫌いなのである。少なくとも、好きではないだろう。大衆が好んでいるのは、こうあって欲しいという想像上の警察である。つまり、警察に関しても、読者は集団的な幻想を抱いているのだ。

権力をも嫌うのである。
だからこそ、週刊誌は雅子妃の悪口を毎号掲載するわけである。
自分は正義の立場に立ち、被害者に共感しているつもりでいても、実際には安全な立場で楽しんでいるにすぎない。

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校條剛『ザ・流行作家』1

2013年11月01日 | 

昔読んだ文庫本の解説に、大衆小説は作者の死とともに忘れられていく、例外は中里介山『大菩薩峠』と山本周五郎だ、とあった。
吉川英治はどうなんだ、ということはさておき、校條剛『ザ・流行作家』を読んでそのことを思い出した。

2012年、校條剛氏は講師を務めている日本大学芸術学部文芸学科の受講生62人に、戦前戦後の流行作家30人の知名度を調査した。
笹沢左保の名前を知っていたのは2人、川上宗薫は5人だけ。
他の流行作家はどんな人たちか、知名度はどうなのか知りたいけど、『ザ・流行作家』には書いていない。

校條剛氏は1973年に新潮社に入社、「小説新潮」の編集部に入る。

川上宗薫の担当になったのは1980~1985年、笹沢左保の担当は1973~1993年。

いつのことかわからないが、川上宗薫と笹沢左保の最盛期の原稿料は一枚4千円~5千円だったそうだ。

1985年当時、川上宗薫の原稿料は一枚7千円ぐらいだともあり、1998年の笹沢左保の原稿料は9500円。

川上宗薫と笹沢左保は毎月千枚の原稿を書いていたという。
笹沢左保は原稿の直しをしなかったそうだが、毎日30枚以上の原稿を何も考えずに書き写すだけでも大変なのに、アイデア、プロットを考え、資料読みをしなくてはいけないのだから、よくもまあそんなに書けたものである。

で、原稿一枚4千円で、千枚書いたとして月に4百万円、年間で4800万円。

校條剛氏の初任給は6万数千円で、平均よりはいい給料だったというから、今なら4倍ぐらいか。
となると、原稿料は一枚1万6千円~2万円で、年収2億円弱となる。
すごい金額のように思うが、雑誌や新聞に書くマガジンライターは原稿料だけが収入なので、原稿の依頼がないとたちまち収入がなくなる。
そこが本を売った印税が入るブックライターとの違いで、マガジンライターは自転車操業なのである。

1982年ごろ、角川文庫は初版10万部を保証していた。

一冊300円とすると、10万部の印税は300万円である。

川上宗薫や笹沢左保も本を何冊も出しているが、あまり売れなかった。

川上宗薫が新潮社から出した本は多くて初版1万部、すべて初版止まり。
宇能鴻一はもっと売れている。
『ためいき』初版3万部、15刷11万6000部。
『わななき』初版3万部、9刷7万3000部。
『すすりなき』初版3万部、初版止まり。

私は中学生の時に川上宗薫の名前を知り、本を買いたかったが、立ち読みする度胸すらなかったものでした。

オジサンになってから、ふと川上宗薫を思いだして、図書館で二、三冊借りて読んだが、欲情をそそるエロ小説とは思えなかった。
「読者は正直である。宇能鴻一は、本になっても買うが、川上宗薫の本には魅力を感じなかったのである」との校條剛氏の指摘はもっともである。

笹沢左保にしても、「木枯し紋次郎」シリーズはテレビでブームになったのに、本はあまり売れていないそうだ。

最初の「紋次郎」本である『赦免花は散った』(講談社刊)は、初版6千部、7刷6万6千部、実売4万部で、4割返品だった。
「紋次郎本の初版部数は、とうとう一万部を超えることがなかったどころか、唯一の長編の『奥州路・七日の疾走』はたったの四千部であった」
「紋次郎」本は講談社文庫には入らず、他の文庫で発売されている。

それに対して、池波正太郎「鬼平犯科帳」シリーズの部数は、第1巻~第24巻の総計で約2千万部。

「剣客商売」シリーズは19冊のうち、ミリオン超えが3冊、一番部数が少ないものも56万部で、総計は1500万部。
「紋次郎」光文社文庫版全15巻は累計部数が53万3千部で、「剣客商売」一冊にも及ばない。
「木枯らし紋次郎」シリーズに比べて、池波作品の人気は高く、今でも本が売れているのはなぜか。

校條剛氏は次のように説明する。

剣客商売シリーズでは常連が顔を出すし、同じ人物が別の回に登場して、読者に「あの人」と思い出させようとする。
紋次郎シリーズでは、話の舞台は回ごとに変わり、紋次郎以外の登場人物も入れ替わる。
剣客商売シリーズは、脇役の描き方にも深みがあり、人生や人物の味わいを出そうとしている。
紋次郎シリーズでは、ドンデン返しに目的があるので、脇役が無個性で、造形が甘い。

だけど、紋次郎シリーズにかぎらず、私が読んだ笹沢左保の小説はどの作品もおもしろかったように思うのだけれども。
一番印象が強いのは「少年マガジン」の芳谷圭児『六本木心中』です。

(追記)
『文学賞メッタ斬り!』(2004年刊)で、大森望氏はこう語っている。

乱歩賞作品は確実に売れる。ちょっと話題になると、だいたい五万部以上は出るみたいですね。新人の本としては破格の部数ですよ。少数の人気作家を別にすると、エンターテインメント系の四六判単行本って、今はふつう初刷六千部から八千部くらい、それで返品率五割とかも珍しくない。

1600円の本が3千部売れたとして、印税代は50万円弱。
ブックライターも大変なわけです。

(さらに追記) 『文学賞メッタ斬り! ファイナル』によると、北野勇作氏の奥さんが『年収150万円一家』という本を出していて、作家の夫とイラストレーターの妻との二人の年収が150万円。
大森望氏の話

年に一冊か二冊、書き下ろしで小説出してるふつうの作家の収入って、誰でもそんなもんなんですよ。純文だって、赤字の文芸誌が払ってる過大な原稿料や、対談とか座談会、講演会とかのいろんな副収入がなくなって、本の印税だけで暮らしなさいって言われたら、みんなその程度の収入のはずなんですよ。

兼業しないと食えないそうです。

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