三日坊主日記

本を読んだり、映画を見たり、宗教を考えたり、死刑や厳罰化を危惧したり。

2017年キネマ旬報ベスト・テン予想

2017年12月31日 | 映画

毎年恒例のキネマ旬報ベストテンの予想です。
選出対象は、2016年12月16日から2017年12月31日までの公開作品となっています。
年によって期間が異なるのも変な話ではあります。

邦画のベストテン
『幼な子われらに生まれ』
『あゝ、荒野』
『彼女がその名を知らない鳥たち』
『散歩する侵略者』
『映画 夜空はいつでも最高密度の青色だ』
『三度目の殺人』
『光』(河瀬直美)
『愚行録』
『ビジランテ』
『花筐/HANAGATAMI』

11位から20位
『彼女の人生は間違いじゃない』
『彼らが本気で編むときは、』
『光』(大森立嗣)
『美しい星』
『アウトレイジ 最終章』
『バンコクナイツ』
『夜は短し歩けよ乙女』
『牝猫たち』
『風に濡れた女』
『奥田民生になりたいボーイと出会う男すべて狂わせるガール』

洋画のベストテン
『沈黙 サイレンス』(日本を舞台にした外国映画は評価が高い)
『ラ・ラ・ランド』
『ムーンライト』(アカデミー作品賞)
『ドリーム』
『マンチェスター・バイ・ザ・シー』
『わたしは、ダニエル・ブレイク』(カンヌ映画祭パルムドール)
『ダンケルク』
『パターソン』(ジャームッシュなので)
『希望のかなた』(カウリスマキなので)
『ハクソー・リッジ』
ほとんどアメリカ映画になってしまいました。

11位から20位
『残像』(ワイダの遺作だからベストテン入りか)
『エンドレス・ポエトリー』(ホドロフスキーなので)
『オン・ザ・ミルキー・ロード』(クストリッツァなので)
『メッセージ』
『ベイビー・ドライバー』
『ノクターナル・アニマルズ』
『エル ELLE』
『女神の見えざる手』
『哭声/コクソン』
『立ち去った女』
『セールスマン』(アカデミー賞外国映画賞だけど・・・)
こちらはなるべくアメリカ映画以外のものを。


他にも
キム・ギドクの『The NET 網に囚われた男』
ダルデンヌ兄弟の『午後8時の訪問者』
ジャファル・パナヒの『人生タクシー』
『ブレードランナー 2049』
『ゲットアウト』

『新感染 ファイナル・エクスプレス』
『ローガン・ラッキー』
『MERU/メルー』
などもいいとこに行くんじゃないかと思います。

私のベストワンは『夜は短し歩けよ乙女』と『私の少女時代』(現在のシーンはガッカリだったが)です。

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伊藤整『日本文壇史 3』

2017年12月27日 | 

伊藤整『日本文壇史』は仮名垣魯文から大逆事件までの文壇の動きを描いた評論で、小説的なとこもあります。

第三巻は明治24年(1891年)から28年(1895年)まで。
伊藤整は「明治文壇のうちの最も青春の匂の高い時期に当たる」と書いていますが、みんな若い。(年齢は数え。計算が合わない人がいる)

・明治24年

第一高等中学の教師だった内村鑑三(31歳)は勅語を礼拝しなかったとして攻撃され、職を退いた。
明治23年に東京専門学校文学科が新設され、明治24年、機関雑誌「早稲田文学」が創刊された。
1冊9銭、第4号は4500部ほど売れた。
東京専門学校の哲学の専任教師として招かれた大西祝は28歳。
没理想論争をした坪内逍遙(33歳)と森鷗外(30歳)が当代の二大文学論家だった。
山田美妙(24歳)は2年前から芸者上がりの女を妾にしていた。

・明治25年

正岡子規(26歳)は同い年の幸田露伴に小説を見てもらう。
幸田露伴は「国会」の小説担当の記者をしており、月給は60円だった。
内閣印刷局にいた二葉亭四迷の月給の倍である。(他の個所に、明治24年、5円昇給して35円になったと書いてある)
二葉亭四迷は明治22年、26歳で作家として生きることをあきらめた。
樋口一葉(20歳)の母や妹が針仕事をして、3人が月7円でかつかつの生活していた。
小説が「都の花」に載ることになった。
原稿料は1枚25銭、40枚で10円もらう。
田山花袋(21歳)も「都の花」に小説を載せてもらい、1枚30銭、25枚で7円50銭を得た。
「都の花」は発行部数が2500部で、文芸雑誌の王座にあった。
「女学雑誌」のために翻訳をして毎月9円の収入を得ていた島崎藤村(21歳)は明治女学校の英語教師となり、月給10円をもらう。
22歳で上京した国木田独歩は「青年文学」を手伝う。
明治21年に山田美妙の小説批評で文壇に登場した内田魯庵(25歳)は英訳の『罪と罰』を翻訳、出版した。
内田魯庵は文芸評論家として坪内逍遙、森鷗外、石橋忍月に次いでの存在だった、
東京帝国大学英文科で最も優秀な学生だった夏目漱石(26歳)は月7円の奨学資金をもらっていた。
黒岩涙香(31歳)は「都新聞」をやめ、「萬朝報」を創刊した。
町田忠治(33歳)によって東洋経済新報社が創設、「東洋経済新報」は1500部程度の販売部数。
ちなみに、1929年は6000部、1938年は19000部の
東洋経済新報社の初任給は1911年が18円、1934年が55円(大学出は70円が相場)だった。

・明治26年
河竹黙阿弥が78歳で死ぬ。
正岡子規(27歳)は大学を中退し、月給18円(すぐあとに10円とある)で「日本」の社員となり、松山から母と妹を呼び寄せた。
第一高等中学の教授をしていた落合直文(33歳)は和歌や新体詩の結社を起こす。
尾崎紅葉の内弟子だった泉鏡花(22歳)は小遣いを月50銭もらっていたが、煙草を買うと、紙や筆を買うのに金が足りなくなった。
明治女学校をやめて放浪していた島崎藤村は7銭で木賃宿に泊まり、3銭で朝飯を得た。
辞職した島崎藤村の後を受けて北村透谷(26歳)が明治女学校の教師となる(月給15円)。
斎藤秀三郎が28歳で第一高等中学の教授となる。
国木田独歩(23歳)は自由新聞社に入社するが、月給が3円で、下宿料にも足りなかった。
東京帝国大学を卒業した夏目漱石(27歳)は高等師範学校の教授になる(年俸450円)。
田山花袋はトルストイ『コサック兵』を3カ月かけて英訳から翻訳し(600枚)、博文館から出版されて30円をもらう。
当時、小家族の1カ月の生活費が10円から15円ぐらいだった。
樋口一葉は竜泉寺町に敷金3円、家賃が月1円50銭の家を借り、雑貨と駄菓子を売る店を開いた。
日に100人ぐらいの客があり、1日の売り上げが多い日で60銭、少ない日は40銭ぐらいだった。

・明治27年
明治女学校の卒業生は普通科20余名、高等科4名だった。
北村透谷が縊死した(27歳)。
読売新聞が歴史小説を募集し、高山樗牛(23歳)が2等に当選する(1等はなし)。
徳富蘆花は27歳で結婚、月8円の食費を父母に払った。
民友社の月給は11円、小学校教師の妻の月給が12円で、紡績株の配当が月10円ぐらい入った。
樋口一葉は店をやめて引っ越したが、その家の家賃は3円だった。
日清戦争のころ、「萬朝報」5万部、「東京朝日新聞」2万5千部、「報知新聞」と「東京日日新聞」1万5千部、「読売新聞」1万2千部、「中央新聞」1万部、「時事新報」「都新聞」「国民新聞」「日本」6千~8千部だった。
仮名垣魯文が66歳で死んだ。

・明治28年
夏目漱石は外人教師の代わりに松山中学の教師になる。
月給は外人教師と同じ80円で、校長の60円よりも高い。

20代で文壇をリードしたり、大学教授になったりしているわけです。
でも、『日本文壇史 3』に名前が出てくる小説で今も読まれているのは露伴『五重塔』、一葉『大つもごり』『たけくらべ』ぐらいです。
文学や学問のレベルが低かったというわけではないでしょうが。

樋口一葉の家は3人家族で月7円、一般家庭が月10~15万円で生活していたということは、1円が2万円ぐらい、1銭が200円でしょうか。

となると、木賃宿は一泊1400円、漱石の月給は160万円。
雑誌の発行部数がせいぜい2千500部、新聞が1万部ぐらいでは、作家に原稿料をたくさん払っては経営が成り立たないように思いますが、どうなんでしょうか。

もう一つ気づいたのは、結核で死ぬ人が多いこと。

島崎藤村が好きだった佐藤輔子、北村透谷の教え子の富井松子や斎藤冬子など。

坂の上に向かって歩いている時代だったんだなと思いました。

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事故物件の損害賠償

2017年12月23日 | 問題のある考え

精神科医の野田正彰氏が講演でこんな話をしています。

アパートで自死すると、膨大なお金を請求されることがあります。葬儀の席に管理会社がやって来て、「お祓い料を払え」「部屋と隣の部屋に人が入らなくなったから家賃三年分を払え」「入り手がいなくなったので家を建て替えないといけない。建築費を払え」などと、遺族に執拗に請求します。多くの家族は自死したことを隠そうとしますので、泣き寝入りして、黙って払います。私たちの社会が自死対策を言いながら、いかに残酷な社会かということです。

家族が突然死んでただでさえつらいのに、金をむしり取る大家や不動産屋はひどい、と思いました。

不動産屋のニュースレターが郵便受けに入ってて、それに事故物件について書かれてて、大家や不動産を責めればいいという、そんな単純な話ではないことを知りました。
入居者が殺害されたり、自殺や孤独死したりした建物や部屋は「事故物件」と呼ばれます。


不動産を取引する場合には、物件の重要事項を客に説明する義務がある。
雨漏りの有無、白アリ被害、地中埋設物などを告知書で買い主に伝える仕組みになっている。
「物理的」「法律的」な問題が隠れていた場合の責任の取り方について、契約書の条文で取り決めている。

判定が難しいのが「心理的瑕疵」の問題。
その物件で殺人事件があったとか、自殺した人がいる場合は、心理的な問題が瑕疵となる。
自殺があると、現場を跡形もなく修繕し、リフォームを行うなどしても、「告知」をしなければ、後から自殺があったことを知った借り主(買い主)に損害賠償請求をされてしまうリスクがある。
事故物件のある土地を売却し、建物を取り壊して新築しても、敷地内であったことなので、不動産売買する際にはきちんと事件や事故があったことを告知しなければいけない。
「告知」をすれば、借りたい(買いたい)人が少ないので、賃料や価格を安くして取引をすることになる。
建物を壊して更地で売る場合の価格は、通常であれば5~7割下がる。

では、いつまで告知しなければならないのか。

この告知義務は曖昧で、何人目まで告知する義務があるのか、告知義務は何年間なのかといったことは法令では定められていない。
「5年は告知したほうがいい」「10年は必要だ」「1人、入れ替わればいい」など、いろんな話が伝えられる。
しかし、告知義務が必要でなくなる期間は法律で定められているわけではなく、裁判例も地域性やその時の状況で事例が異なる。
50年前に起きた殺人事件現場の物件でも、告知すべき瑕疵があるとした判決例もある。

大家は借り主の相続人である遺族に、以下の支払いを請求することになる。

①残置物撤去・消毒費用
②貸室の原状回復費用
③賃料減額分の損害賠償
とてもつらい交渉であることに例外はない。
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20171102-00006894-bengocom-soci
これは日本人の宗教観(霊信仰)と関係する問題です。

「大島てる事故物件公示サイト」といって、大島てるという不動産屋が自殺、孤独死、事故死などで死亡者の出た物件の住所や部屋番号、元入居者の死因を公開していました。

不動産業界の関係者はこのサイトを活用している人が多いそうです。

鈴木信行『宝くじで1億円当たった人の末路』に、大島てる氏へのインタビューが載ってます。

「大島てる事故物件公示サイト」にはマンション名だけでなく、部屋番号まで載っているのはなぜか。
告知義務があるのは事故があった部屋だけとされ、隣室や階下で事故があった部屋に、何も知らずに住んでいるということはある。
殺人事件などがあった場合、マンション名だけがひとり歩きしてしまうと、関係ない部屋の持ち主まで風評被害を受けかねない。

「事故があったのに何事もなかったかのように振る舞い、通常どおりの家賃で入居者を募集する業者も存在します。そんな悪徳業者や悪徳大家から、消費者を守るのも当サイトの重要な役割の一つです」

こんなことを大島てる氏は言ってますが、何から「消費者を守る」のでしょうか。
小野不由美『残穢』のように、怨みを残して死んだ人間の地縛霊がいつまでも災いをもたらすからでしょうか。
しかし大島てる氏によると、事故物件では事故が連鎖的に起きる場合があるが、それは『残穢』のような心霊現象ではなく、ほとんどが合理的な説明ができるそうです。

たしかに、自殺や殺人があった部屋は気色悪いという気持ちは理解できます。
しかし、そうした不安が生じるのは、成仏していない霊で脅す霊視商法、霊感商法に惑わされているからです。
祟りなどないのであれば、わざわざ騒ぎ立てる必要はありません。

「大島てる事故物件公示サイト」では「孤独死」も事故物件と定義しています。

「入居者の立場からすれば「孤独死は事故にあらず」という理屈は通らないと思うんです。そもそも、「すぐ死体が発見されたから事故ではない」と言いますが、なぜ施錠された部屋の中の死体がすぐ発見されたのか考えてみてください。それだけひどい悪臭がもれ出ていたからです」
大島てる氏の説明にうなずくわけにはいきません。
だからどうしたというのでしょうか。

部屋をきれいにすればすむ話です。

とはいえ、この事故物件の告知義務や遺族への弁償請求といった問題はそんな簡単には片付かないでしょう。

何が、どのように、なぜイヤなのかはよくわからないけど、とにかくイヤだという、理屈じゃ納得できないところにこの問題の難しさがあります。

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柿田睦夫『霊・因縁・たたり』とM・ラマー・キーン『サイキック・マフィア』(2)

2017年12月18日 | 問題のある考え

ニセの霊媒が有害なのは、仕事上の決断、家族の問題などを霊媒に相談して決めることで、霊媒に自分の人生をゆだねてしまうことと、『サイキック・マフィア』にあります。
『サイキック・マフィア』は、1960年代に霊媒として大金を稼いでいたM・ラマー・キーンの告白録です。

キーンは心霊主義の教会で行われている交霊会に参加して、講習会に参加するようになる。
「心霊主義」とは、死後の生や霊魂などの実在を信じ、霊媒を通して死者の霊のメッセージを受け取ったり、交信できるとする思想です。
キーンは最初のころ、霊媒たちが心霊的なメッセージを受けとることができ、基本的に善意で行動していて、心霊主義への信仰を強めることを望んでいると本気で思い、自分たちも霊媒として開業することに決める。
物理的な現象をでっちあげるつもりはなかったが、人々は、霊の姿や直接談話現象、心霊写真といった奇跡を求めていると気づき、次第にイカサマに手を染める。

キーンは心霊主義教会をひきつぎ、世界心霊主義者協会の理事にもなります。

教会を設立して、自分を「師」と名乗る法律的な権利を得るのは簡単で、弁護士に教会の定款を作ってもらい、8名の理事を集めて、州務長官が承認すれば、自分にどんな権限や肩書きを与えていい。
他の者を心霊主義の聖職者に叙任し、宗教学校を経営して自分に学位を与えることもできるそうです。

アメリカには各地に心霊キャンプがあり、インディアナ州チェスターフィールドには、毎年、夏になると数千、数万もの人が愛する故人と話をするためにやって来て、毎年の収益は百万ドルになる。

人々は亡くなった愛する人と交信するためなら、いくらでも金を出す。
キャンプ・チェスターフィールドに数十万ドルを遺贈した人、50万ドル以上を残した人もいる。

キーンの主催する集団交霊会の参加費は3ドルから10ドル。

毎日25回の交霊会を開き、1日あたり千ドルを稼いだ。
キーンの教会(信者300人)でも、一晩の礼拝で1万から2万ドルを集めたことがある。
1960年の10ドルは、2016年だと82.33ドルだそうですから、1~2万ドルは現在の10万ドルということでしょうか。
https://westegg.com/inflation/

キーンは交霊会のトリックを暴露しています。

交霊室は真っ暗なので、霊媒が何をしているか列席者にはわからない。
そして、キャビネット(仕切り部屋)が交霊室にあり、秘密の出入り口や隠し場所として使われる。

・参加者の個人情報(家族の名前、社会保障番号など)を伝える

交霊会の列席者の情報を集めるための手段。
霊媒は交霊会に来た人たちのファイルを作っていて、それを霊媒師たちが共有する。
この情報交換によって、未知の人が来ても、彼らや亡くなった人についての情報を言い当てることができる。
カードの符丁は、名前の横の×はその人が死んでいること、○は生きていること、ハート・マークは参加者が愛していた人。
「父は目の手術をしたが、失明した」「父方の祖母はウィルバーという名前」などが書かれている。
ある霊媒は個人名のカードを数万枚も持っており、今度来たときに物品引寄で返す私物をクリップで留めていた。
教会の礼拝前に、マジックミラーや盗聴器を使って誰が来ているかを確かめ、霊からのメッセージを用意する。
あるいは、交霊会の時にハンドバッグや財布を盗み、社会保障番号や銀行通帳などのデータを得る。

・物品引寄現象(アポーツ)

何もないところから物品を取り出したり、参加者が紛失したものを取り出す。
交霊会のときに、こっそり私物を手に入れ、しばらく経ってから、本人がなくしたと思っていたその私物を物品引寄で取り出す。
たとえば、指輪を探してほしいと頼まれた霊媒は、指輪は自宅の冷蔵庫の角氷の中に氷漬けになっていると告げた。

・トランペットを使って霊の声を伝える

小さな赤い電球しかついていない暗闇のなかで、蛍光塗料をつけたトランペット(楽器ではなくメガホンのことらしい)が室内を飛びまわり、いくつもの声を発した。
その声は腹話術によるものだった。
トランペットが宙に浮かぶのは、トランペットは組み立て式で、120cmまで伸ばすことができるから。

・エクトプラズムの身体からの放出

エクトプラズムはシフォン(薄く柔らかい織物)を使う。
闇の中で見えないように黒いソックスとパンツをはき、シフォンでできた霊の衣裳を身につける。
そして、キャビネットから姿を現す。
霊の衣裳は霊媒のパンツや身体の穴に隠す。

・空中浮揚

黒装束で見えない霊媒と共犯者が椅子を持ち上げる。

つまりは、霊のしわざではなく、手品にすぎないわけです。

『霊・因縁・たたり』に、本覚寺の教師が名前を書いたお札をコップの水に浸すと、水は黒くなり、教師が「水の黒さは先祖の因縁の深さのあらわれ。先祖供養をもっとしなければならない」と言ったとあります。
墨で書いた紙を浸せば水が黒くなるのは当たり前で、キーンに比べると、ずいぶんちゃちな手口を使っているものです。

霊媒が死んだ配偶者や恋人の肉体を呼び出せると信じる人たちは、交霊室での死者とのセックスを求めた。

要望に応えてセックスする霊媒もいたし、霊媒のほうから交霊セックスを仕掛けることもあった。

人をだますという仕事をしている霊媒は常に大きな重圧にさらされていながら、秘密を家族にも言えず、親しい友人関係を築くことはできないために孤独である。

耐えきれなくなったキーンは教会の評議員に、霊媒能力はすべてインチキだと告白し、イカサマをやめるよう訴えた。
ところが、ほとんどのメンバーが信じなかった。

霊媒が愛する人々からの言葉を伝えてくれると信じ、そう信じることで心の安らぎを得ている交霊会の列席者は、霊媒があからさまなイカサマをしても、それを見ようとしないし、見たくない。

「認知的不協和理論」が説明するように、心霊主義者はインチキを認めず、正当化する意見だけ耳をかたむけるわけです。
https://psychoterm.jp/basic/society/06.html

キーンはこのように言っています。

人々に嘘を信じこませるのがいかに簡単かは知っていたが、同じ人々が、嘘をつきつけられたとき、真実よりも嘘を選ぶとは予想していなかった。(略)
まったく正気の人間が、幻想やペテンに夢中になるがあまり、真実が白日のもとにさらされたあともなお、それにしがみつこうとするのはなぜか。(略)
いくら論理をつくしたところで、嘘とわかっていながら信じる気持ちを打ち砕くことはできない。

 キーンはFBIや州法務長官のところを訪れ、イカサマについて告白しました。
しかし、警察は一人の霊媒も取り調べようとしなかったし、内国歳入庁が霊媒の帳簿を調査した形跡もないそうです。

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柿田睦夫『霊・因縁・たたり』とM・ラマー・キーン『サイキック・マフィア』(1)

2017年12月14日 | 問題のある考え

柿田睦夫『霊・因縁・たたり』とM・ラマー・キーン『サイキック・マフィア』を再読。

霊能者や霊媒が、死者がどうのこうのというインチキでだますという点では同じですが、日米の違いがあります。
日本の場合は霊障、霊のたたりで脅し、不安にさせます。
ところが、アメリカでは霊媒が死者との交信をしても、死者の霊が迷っているなどの脅しはないようです。

『霊・因縁・たたり』には、本覚寺の霊視商法、阿含宗の霊視鑑定、統一協会の霊感商法、コスモメイトの除霊・救霊、細木数子の墓相を取り上げています。

それらの共通点
 1 はじめに恐怖あり
相談者が悩みを相談すると、原因を霊視鑑定によってつきとめるのだが、必ず「水子のたたり」や「先祖の不成仏霊」といったことになる。
霊障(たたり)がいかに恐ろしいかを強調し、いま何とかしないといっそう悪くなると脅す。

本覚寺で説く不幸の原因

・犠牲霊 あなたの家系の御先祖を何代も辿っていくと、悪い因縁による犠牲霊が数え切れない程あるはずなのです。
・不成仏霊 この世に何の未練も残さず、大往生できる人が何人いるでしょうか。事故死・自殺・他殺・病死・災害による死など、ほとんどの人がこの世に執着を持ちながら死んでいるのです。
・水子霊 様々な事情で水子にしてしまった人はもちろん、全く身に覚えのない人でも、身内・親戚などに水子がいた場合、心優しいあなたに取り憑く事があるのです。
・変死霊 御家族や親戚・縁者に、不可解な亡くなり方をした人はいませんか?・・・のまま放っておくと、あなたやあなたの御家族にも必ず災いが起こるし、将来あなたの子供、孫、曽孫と永遠にその霊障は受け継がれ、災いを起こし続けるのです。

2 救いの方法を教える
「先祖が霊界で苦しんでいる。この因縁を切らないと、あなたや子供が不幸になる」などと脅し、供養、除霊、仏像の購入などといった救い(アメ)をさしのべる。

不安の原因がなぜ霊障なのか、その説明はない。

桐山靖雄「あるからある、というよりほかにない」
本覚寺「体験によってのみ知ることができる」
霊能者といっても、実際にそんな能力があるわけではなく、説教のマニュアル(手引き書)に書かれてあるとおりに演技をし、暗記したセリフをしゃべるだけのこと。

「本覚寺=明覚寺の「霊視鑑定」マニュアル」から一部引用 

Ⅰ 受け込み
「この部屋には、あなたと私と仏様だけだから、安心してなんでもお話しなさい」
質問事項
・今日はどういうご相談で来ましたか?
・そのような状態になる原因に心当たりは?
・家系、親類に、自殺、事故死、行方不明は?
・家系、親類に病死、若死にした人は?
・時々いやな気配を感じないか?
・家の中で寒々しい感じ、重苦しい感じがしないか?
・家は持ち家?敷地内に何か祀っていないか、それはキチンと供養されているか?
・先祖供養はどのようにしているか?
・水子供養は?
Ⅱ 確認
何をどうしたいのか明確にさせる。
「今の・・・の状態を・・・したいのネ!」
Ⅲ 霊示を聞く
Ⅳ 抑え
※ゆっくり、かんで含めるように、権威を持って、断言していく。
(1)ご託宣(霊示を受ける)
「うーん、良いもの素晴らしいものを一杯持っているね」
「例えば・・・(良いところを話す)」
「しかし、守りが弱く、邪魔が強いね」
「このままじゃどうしようもないネェ。まだ良いほうだよ、今の状態は・・・」
Ⅴ 切り返し、決定
(1)結論的今後の運命の断言
「このままにして置くと・・・こうなるよ」
「修行と祭祀、やるしかないね」
「まぁ、決めるのはあんただが、重い因縁背負って、霊障がすぐに出だしている状況で、このまま悪くなる一方の悲惨な人生を歩むなんて馬鹿げているもんな!」
「昔からお祀りとか仏事とかは女の役目、一々ご主人に相談してやっていないよね。ご主人や子供、家族の幸福のためにあなたが頑張らなくっちゃ」
「わかっていてやらない、知らん顔するのが何と言ってもご先祖さまや水子にたいして一番罪作りだからね」
「今、あなたは試されているんだよ。ご先祖様に、神仏に」

「統一協会の「霊感商法」マニュアル」から

お客様のウイーク・ポイントをつかむために
・自殺者はいないか
・精神病者はいないか
・どういう病死か(ガン、心臓病、脳障害等)
・事故因縁(水死、転落死、交通事故等)はないか
・水子がないか
・家庭不和はないか
・女系の家系ではないか
・直系の中に養子縁組がないか
・短命の家系ではないか
・親子関係は良いか(嫁と姑も)
・武士(殺傷)の因縁はないか
・離婚、再婚はないか
・高齢独身者はいないか

もちろん、祈禱や供養によって問題が解決するわけはない。
コスモメイト「私たちには、種々の霊が複雑に絡み合っているので、なかなか一回や二回の除霊(救霊)では救い切れません」
こんな無責任なことを言って、何度も祈禱や供養をするよう仕向ける。

相談料は3千~1万円程度だが、祈禱・供養は別料金で、しかもだんだん高くなる。
供養の金を出せない人には、新たな相談者を連れてくるように指示し、その人数に応じて供養金に換算するというシステムもある。
関連企業を持ってて、仏壇、仏具類の販売、出版、旅行社、医療法人などによっても稼ぐ。

供養金を出さないと、「信仰を捨てたら地獄におちる」「罰(ばち)があたる」と脅して恐怖を植えつけるので、だまされていたと気づきながらもやめられないし、やめても不安にさいなまれ、霊のたたりの世界から逃げ切れない。


『霊・因縁・たたり』に載っている霊・因縁・霊障を教えの基本におく教団です。

真如苑、霊波之光教会、白光真宏会、法の華三法行、大山ねずの命神示教会、日本聖道教団、弁天宗、念法真教、解脱会、生長の家、創価学会、PL教団、霊友会、立正佼成会、妙智会、仏所護念会

霊のたたりなどを説くのは既成仏教も同じことで、以前にも書きましたが、京都仏教会HPには「全ての宗教がその教義において先祖の因縁やたたり等を説いているわけではないと思われるが、宗教の中には、その教義・理念として輪廻や罰などを説いている場合もある」とあり、霊のたたりを否定してはいません。

http://blog.goo.ne.jp/a1214/e/e59a76eaf968a4d8e87bf16ba8bea1de

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江戸時代に寺院は増えたのか

2017年12月10日 | 仏教

日本の寺院は400年以上の歴史を持つか、150年未満の寺に大別できる。
それは、1631年(寛永8年)と1692年(元禄5年)、幕府によって「新寺建立禁止令」が出たことによって、250年の間、まったく寺が建てられなかった。
廃仏毀釈が終わる1877年(明治10年)から新寺が建立されるようになる。
このように鵜飼秀徳『寺院消滅』に書かれてあります。

1632年(寛永9年)に幕府が提出させた、各宗派の本山に所属する寺の一覧表(末寺帳)によると、全国に1万2080ヵ寺あるそうです。

全国にある寺院のうち約10%が明治以降の寺だと『寺院消滅』に書いてありますが、現在は7万ヵ寺以上ありますから、計算が合いません。

松浦静山『甲子夜話』には全国の寺院数が40万ヵ寺以上と記されていて、浄土宗が12万ヵ寺、東本願寺が8万ヵ寺、西本願寺が4万5千ヵ寺とのことです。
http://repo.komazawa-u.ac.jp/opac/repository/all/18471/KJ00005090886.pdf#search=%27%E7%94%B2%E5%AD%90%E5%A4%9C%E8%A9%B1++%E5%AE%89%E6%B0%B8%EF%BC%96%E5%B9%B4+%E5%AF%BA%E9%99%A2%E6%95%B0%27
別の論文には10万ヵ寺程度ともあります。
https://system.jpaa.or.jp/patents_files_old/201205/jpaapatent201205_063-072.pdf#search=%27%E5%AE%89%E6%B0%B8%EF%BC%96%E5%B9%B4++%E5%AF%BA%E9%99%A2%E6%95%B0%27
この論文に指摘してありますが、人口3千万人で寺院が40万ヵ寺以上もあるとなると、70人が一つのお寺を維持していくことになるわけで、この数字には無理があると思います。

国立公文書館デジタルアーカイブで「諸宗末寺帳」を見ることができます。
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/pickup/view/category/categoryArchives/0400000000/0407000000/00
そこには「天台と浄土真宗は除く」とありますから、
寛永年間の寺院数は末寺帳に載っている1万2千ヵ寺よりも多かったことは間違いないでしょう。

千葉乗隆『真宗の組織と制度』によると、江戸時代に西本願寺の末寺が増えています。

天文年間(1532年~1555年)259ヵ寺(本願寺の東西分派前)
元和9年(1623年)1,000ヵ寺
元禄7年(1694年)8,337ヵ寺(西本願寺の末寺のみ)
文化3年(1806年)9,699ヵ寺
嘉永7年(1854年)10,264ヵ寺
新寺の建立が禁止された元禄以降も寺院が増えています。
とはいえ、『甲子夜話』にある数字ほどではありません。


寛永年間に道場の寺院化が急増したのは各宗共通の傾向であると、千葉乗隆師は説明しています。

惣道場・寄合道場・下道場・兼帯道場を、所属の寺または門徒から委任されて管理する僧を看坊または看主という。
個人建立の道場、または看坊道場が道場主の私有化を認められた場合、これを自庵(道場)と称する。
道場のまま寺号を許されたものもあるが、自庵化することで寺院として本山の末寺になったものが多い。

末寺帳の作製が看坊の自庵化、寺院化の大きな理由の一つである。
いったん末寺帳に登載されると、本山の直参化への動きが強くなる。
しかも、寛永の末寺帳は不備な点が多くあり、いずれ再調査される可能性が多分に予想されたので慶安年間にかけて本末の争いが多く生じている。
それに加えて、東西両本願寺の分派問題がからんでいる。

それとともに、キリシタン禁制に伴う宗門改めが普及し、寺請制による檀那寺の需要が寺院数の増加を要請した。
こうして道場の寺院化、看坊の自庵化、新寺創設が促進されることになった。

寺院数の増加についてネットを調べたら、「『福井県史』通史編3 近世一」にこのように書かれていました。

たび重なる新寺建立の禁止令にもかかわらず、一向宗道場の寺院化は減少しなかった。これらの新寺は、本山から寺号を下付されても藩庁ではこれを寺院として認めず道場格であった。このような寺号は「本山限りの寺号」、または「呼寺号」と呼ばれた。(略)
江戸中期以降になると、主として天台宗・真言宗などの旧仏教系寺院のなかには、「浮寺号」として台帳に寺号のみ残る廃寺が目立つようになった。呼寺号では満足できない一向宗の道場のなかには、これらの浮寺号を買得することによって、藩庁の寺院台帳上の寺号移動という形で古寺になろうとする道場が現れた。

http://www.archives.pref.fukui.jp/fukui/07/kenshi/T3/T3-5-01-02-03-02.htm

末寺帳には記載されていないけど、本願寺の末寺として認められている寺がかなりあるということでしょう。

そして、廃寺になった他宗の寺の寺号を買い取ること行われたとあります。
現在、宗教法人が売買されていることが問題となっていますが、江戸時代にも同じことが行われていたわけです。

森岡清美『真宗教団における家の構造』に、明治5年の真宗各宗派の末寺数が載っています。
西本願寺末 11,331か寺(興正寺末約3000か寺を含む)
東本願寺末 11,200か寺
専修寺末  808か寺
仏光寺末  379か寺

ちなみに、現在、西本願寺(浄土真宗本願寺派)の末寺は10183ヵ寺ですから、幕末よりも寺院が減っていることになります。
廃仏毀釈で多くの寺院が廃寺になっています。
鹿児島県では千ヵ寺ちょっとあった寺院がゼロになりました。

平成27年の仏教の寺院数は77,254ヵ寺。
明治10年は72,599ヵ寺ですから、あまり変わりません。
http://www.bunka.go.jp/tokei_hakusho_shuppan/tokeichosa/shumu_kanrentokei/pdf/h26_chosa.pdf

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東学農民戦争での日本軍の虐殺

2017年12月04日 | 戦争

伊藤智永『忘却された支配』は、東学農民戦争での日本軍の虐殺について触れています。
日清戦争では日本と清が朝鮮で戦い、朝鮮国民はひどい目に遭ったと世界史で習った記憶がありますが、それは正確ではありませんでした。
また、東学党の乱とは東学党という新興宗教の信者が起した反乱かと思ってたら、現在は「東学農民戦争」「甲午農民戦争」と呼ばれており、第一次と第二次蜂起があったことも知りませんでした。

そこで、中塚明、井上勝生、朴孟洙『東学農民戦争と日本』を読みました。
「東学党」という党はないし、「東学党の乱」という呼び方は、農民の決起を反乱だと見なした政府や役人の呼び方である。
第一次蜂起は朝鮮政府への蜂起だったが、第二次蜂起は日本軍と朝鮮の傀儡政権を相手にした戦争だった。
1894年(明治27年)春、圧政に反対する農民の反乱があった。
この第一次蜂起は農民軍が27か条の要求を提出して政府と和解した。

7月23日、日本軍は王宮の景福宮を襲って国王をとりこにし、ソウル城内の軍事施設を占領して朝鮮軍を武装解除、日本の言いなりになる政府に入れ換えた。
清とは、25日に豊島沖海戦、29日に成歓の戦いが行われ、8月1日に日清両国が宣戦布告をした。
清と戦争をする前に、まず国王を押さえたわけです。

戦史には、王宮から朝鮮兵に撃たれたので、やむを得ず応戦し、国王を保護したとなっています。
しかし、日清戦争開始直前の朝鮮王宮占領について、陸軍参謀本部の記録が残されています。
このことは公刊されている陸軍の日清戦史には書かれてないのです。
なぜなら、「清国が朝鮮の独立をないがしろにしている。日本は朝鮮の独立のために戦う」というのが日本の大義名分だったのに、まず最初に王宮を占領しているのはまずいからです。

そもそも日清戦争は、伊藤博文たちが反対していたにもかかわらず、陸奥宗光の策略によって起きました。
朝鮮政府を「狡猾手段」で脅し、清国兵の撤退を日本に依頼させるよう仕向けたのです。

10月、日本軍の王宮占領と国王の拘束に、全土の半分で農民が再び一斉蜂起した。
しかし、火縄銃とライフル銃、農民ばかりの軍と近代的な訓練を受けた軍隊との戦いのため、農民軍は敗退し、日本政府・朝鮮政府軍の方針で皆殺しの目に遭った。

朝鮮全体では約4千名の日本軍が動員された。
農民軍の参加者は数十万人、死者は3万~5万人と推定される。
日清戦争の死者は、日本が約1万3千人、清が約3万5千人だから、もっとも犠牲が大きかったのが朝鮮人で、その大半は日本軍に殺された。

1894年10月27日、参謀次長兼兵站総監だった川上操六少将は「東学党に対する処置は厳烈なるを要す。向後悉く殺戮すべし」という命令電報を現地司令部に送っていると、仁川兵站監部の日誌「南部兵站監部陣中日誌」に記録されている。
現地では川上操六の「悉く殺戮」という命令が実行された。

農民軍の死者は戦闘中だけでなく、捕まった後に殺されている者も多い。
朝鮮は日本の交戦国ではなかったし、仮に交戦国であったとしても、敵国の捕虜は国際法の捕虜取り扱いの慣行によって、将校であっても殺害されることはない。
しかし、東学農民軍に対して、日本政府と日本軍は国際法を意に介さなかった。

東学農民軍討滅専門部隊は後備第十九大隊三中隊で、大隊長は南小四郎少佐。
3つの街道を三中隊が南下し、「党類を撃破し、その禍根を剿滅し、もって再興、後患を遺さしめざるを要す」と命令された。
後備第十九大隊は全軍約600名は数十万名の農民軍を追い詰めて殺傷した。

南小四郎大隊長は「東学党征討略記」という記録に「長興、康津付近の戦い以後は、多く匪徒を殺すの方針を取れり」、「真の東学党は、捕ふるにしたがってこれを殺したり」と、農民兵を殺害する方針をとっている。
そして、「これ小官(南大隊長)の考案のみならず、他日、再起のおそれを除くためには、多少、殺伐の策を取るべしとは、公使(井上馨)ならびに指揮官(仁川兵站監)の命令なりしなり」と補足している。

徳島県出身の後備第十九大隊上等兵の陣中日誌が保存されている。

12月3日「六里間、民家に人無く、また数百戸を焼き失せり、かつ死体多く路傍に斃れ、犬鳥の喰ふ所となる」
1月9日「我が隊は、西南方に追敵し、打殺せし者四十八名、負傷の生捕拾名、しかして日没にあいなり、両隊共凱陣す。帰舎後、生捕は、拷問の上、焼殺せり」
1月31日「東徒(東学農民軍)の残者、七名を捕え来り、これを城外の畑中に一列に並べ、銃に剣を着け、森田近通一等軍曹の号令にて、一斉の動作、これを殺せり、見物せし韓人及び統営兵等、驚愕最も甚し」
2月4日「南門より四丁計(ばか)り去る所に小き山有り、人骸累重、実に山を為せり……彼の民兵、或は、我が隊兵に捕獲せられ、責門の上、重罪人を殺し、日々拾二名以上、百三名に登り、依てこの所に屍を捨てし者、六百八十名に達せり。近方臭気強く、土地は白銀の如く、人油結氷せり」


第十九大隊の戦死者は杉野虎吉1人。
12月10日に戦死しているのに、『靖国神社忠魂史』(1935年)には7月19日に清国軍との成歓の戦いで戦死したと記載されている。
どうしてかというと、朝鮮農民兵の殲滅作戦が隠蔽されたからです。

日清戦争では旅順でも日本軍は虐殺を行なっています。
http://blog.goo.ne.jp/a1214/s/%E6%97%85%E9%A0%86

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