三日坊主日記

本を読んだり、映画を見たり、インチキ宗教を考えたり、死刑や厳罰化を危惧したり、そしてそのことを日記にまとめてみたり。

ルドルフォ・アナヤ『ウルティマ、ぼくに大地の教えを』と旧約聖書(2)

2018年06月18日 | 

加藤隆『集中講義 旧約聖書』を読むと、ユダヤ人もフロレンスと同じ疑問を持っていたようです。

紀元前13世紀、エジプトで奴隷状態にあった人々が集団で逃亡した「出エジプト」において、ヤーヴェを神とする集団が成立して、イスラエル民族、ユダヤ民族の核となった。
エジプトを脱走した集団はカナンと呼ばれる地域に侵入し、仲間になった先住民と定住生活をすることになる。

旧約聖書は、紀元前13世紀から紀元後1世紀くらいまでの時代について書かれた文書を集めたもので、紀元前5~4世紀に編纂され始め、一応完結するまで500年くらいかかっている。
いくつかの文書を集め、それをいわば「切り貼り細工」のようにしてつくられているので、矛盾や難点がある。

6日間の天地創造とエデンの園の物語という2つの創造物語が創世記に書かれてあり、この2つには矛盾がある。
最初の物語ではさまざまなものがつくられ、最後に人がつくられるが、第二の物語では人がつくられた後で植物がつくられる。
最初の物語では男女が同時につくられたようになっているが、第二の物語ではまず男(アダム)がつくられ、それから女(イブ)がつくられる。
「聖書に書かれていることはすべて真実だ」といった単純な立場を否定するべきだということが、聖書の冒頭に記されていることになる。

神はモーセに名前を名乗ることを2度にわたって行う。
2度目には「わたしは、有るところの者だ」「私は、有るように有る者」と訳すべき名を述べる。
つまり、「神は、自分が動きたいように動く者」ということ。神がどのような存在なのかは人間には理解できない。
「神は全知全能だ」と言うが、全知全能ではない人間が想定しているにすぎない。
少なくとも分かるのは、「神は全知全能だ」と主張する者は、神について「実は分かっていないのに、分かったようなことを言おうとしている者だ」ということくらいだ。
「全知全能だ」「恵み深い」などというのは、人間の側の勝手なレッテル貼りである。

紀元前10世紀後半に、南のユダ王国と北のイスラエル王国に分裂し、約200年後に北王国がアッシリアに滅ぼされる。
北王国の滅亡によって、「ヤーヴェは民を必ずしも守らない神だ」ということが事実として示される。
ヤーヴェを「頼りにならない神」と否定しないために、南王国の者たちは、民がダメなのだ、罪の状態にあると考えることにした。

加藤隆氏はこういうたとえで説明します。

ヤーヴェが何もしてくれないという状態は、結婚している夫婦において、夫がどこかに消えてしまったような状態です。強盗がきて家の半分を破壊しても(北王国の滅亡)、夫は姿を現しません。そうこうするうちに家の残り半分も破壊されます(南王国の滅亡)。しかし妻は、夫と離婚せず、結婚関係を存続させます。夫は消えてしまい、何もしてくれないけれども、彼は正式には夫であり続けます。ひとりの男性だけが夫です(一神教)。
夫が消えてしまったこと、夫が何もしてくれないことについて、妻は、「不適切な女だからだ」と考えます(罪)。自分が「不適切」であり、夫は「正しい」ので、彼女が夫を責めることはありません。彼女が夫に何か要求することもあり得ません。夫がいないのだから、他の男性と彼女が関係をもつ可能性があるかのようですが、彼女は「不適切な女」なので、他の男性と新たな関係をもつための条件が整っていません(多神教的傾向の消滅)。


民にどんな不幸が生じても、それは「神のせい」でなく、「民が罪の状態にある」という立場が、「神の沈黙」を正当化する構造をつくり出している。
そのため、何が起こっても、民が神を見捨てることはない。

しかし、神の行動に理由をつけ、「民の罪」が「神の沈黙」の理由だということは、ユダヤ民族の思い込みかもしれない。
民が罪の状態にあるから、神は沈黙したということなら、人間の側の態度によって、人間が神を動かすことができることになる。
この考えは、神を操ることができるという前提が隠されている。
しかし、「民は罪の状態にあるという考え方」はユダヤ教において支配的な立場になっていく。

神はかつて「希望のメッセージ」を述べるが、状況の改善は生じておらず、神は実質的なことはしていないので、いつまでも希望にとどまっている。
聖書全体を読むと、神はほとんど何もしないということが書かれてあると言ってもいいくらい。
人間の側が罪の状態にあるのでは、「救われていない」という状態にいつまでも留まっているということになる。
「罪」の状態にあるということは、人間の判断や行為は、神との関係を修復する上で何の価値もない。
人間の側にどんな変化があったにしても、その者が「正しい」となる余地はない。

しかし、その者の状態を正しいものにすればよいという考えが生じ、「神の前での正当化」を行う人がいる。
何が正しいかを知っていて、しかも実践できる、それが救いの道だという態度が、「信仰」や「敬虔」の態度である。
「敬虔主義」は、自分の態度によって神を左右できるという人間中心的態度に依拠している。
「自分は正しい」と思い込んで安心したいので、自分と同じようにしない者たちは救われないのだと自分に言い聞かせることで、安心を補強する。
「信仰」は神への信仰であり、神に忠実であることだが、「神に忠実であるとはどのようなことか」を自分の人間的判断で決定している。
だから、絶えず「信仰」が強調されねばならない。

ギリシアの支配(紀元前4世紀~前1世紀)以降、「律法」が絶対的な権威をもつ「律法主義」が支配的になる。
「律法」の掟を完璧に守るなら、神の前の義が実現して救われることになるとされる。
しかし「律法」を完璧に理解し、完璧に遵守することは不可能で、誰も救われないことになる。
「律法主義」においては、「人が罪の状態であること」、「神が動かないままであること」が前提となっており、「律法」を介しての救いは実現しない。

紀元前3世紀~前2世紀になると、黙示思想が目立ってくる。
人間の試みはすべて無駄で、神が一方的に「この世」を滅ぼすとされる「終末」が考えられた。
しかし、「終末」は実現しない。
「救い」に関してユダヤ教は八方塞がりの状態になっている。

旧約聖書では、「人が何をしても救われない」「神の介入を待つしかない」ということが確認されている。
イエスの立場は、「罪」の状態にあるはずの者に対して、神が一方的に介入して、神とその者の間に生き生きした関係が生じるようになったと考える。

この説明ではフロレンスが納得しないでしょう。
もっとも、ルドルフォ・アナヤ『ウルティマ、ぼくに大地の教えを』はキリスト教を否定しているわけではないように思います。

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ルドルフォ・アナヤ『ウルティマ、ぼくに大地の教えを』と旧約聖書(1)

2018年06月06日 | 

『ウルティマ、ぼくに大地の教えを』はメキシコ系アメリカ人のルドルフォ・アナヤが1972年に書いた小説です。

1945年ごろのニューメキシコ州を舞台に、7歳の少年アントニオのまわりに起きる出来事をめぐる物語。
父親の家系はヤノ(大草原)で馬に乗って牛飼いをしていた。
農家に生まれた母親はアントニオが神父になるのが夢。
家族はスペイン語を話す。
町の人たちはほとんどがカトリックで、子供たちもカトリックでなければ地獄に堕ちると信じている。

年老いた呪術師のウルティマはアントニオ一家と一緒に住むようになる。
母方の伯父たちは、呪いをかけられて死にかけた弟を助けてもらったのに、ウルティマが襲われた時に助けようとしない。
人々を救うにもかかわらず非難されるウルティマはイエスを連想させます。

アントニオは黄金の鯉を見に行き、友達からこんな話を聞く。
大地がまだ若いころ、鯉を食べることが禁じられていたのに、飢えに襲われた人々は鯉をつかまえて食べた。
神々は罪を犯した人間達をすべて殺そうとしたが、人間を愛していた神が反対し、人間達を鯉に変え、川の中で暮らすように決めた。
人間を愛していた神はとても大きく金色の鯉に姿を変え、人間達の世話をすることにした。

唯一神のキリスト教とは違う神様です。
もし古い宗教が、その信者の疑問に答えられなくなったら、それはその宗教が変わるべき時がきたということなのかもしれない、とアントニオは考えます。

同級生のフロレンスは神を信じていない。
フロレンス「母さんが死んだとき、ぼくは三歳だった。父さんは飲み過ぎて死んで、それで。姉さん達は売春をやってて、ロージーの店で働いているんだ……。
それで自分で考えたんだ。幼い子供にこんなつらい思いをさせて、神様は平気なんだろうかって。ぼくはこの世に生んで下さいなんて頼んだわけじゃない。神様が勝手にこの世に送りだし、魂を吹きこみ、ぼくを罰する。なんでだ? ぼくが神様に何をした。なんでこんな目に合わなくちゃいけないんだ、ええ?」
ぼく「もしかしたら、神父様のいったとおりなのかも。神様はぼくたちの前に、乗り越えるべき障害をお置きになったのかもしれない。そしてぼく達が、そのつらくて苦しい障害を乗り越えたとき、良きカトリック教徒になり、天国で神様とともにいる権利を与えられるのかも」
フロレンス「それも考えてみたんだ。だけどやっぱり、こうなるんじゃないかなあ。つまり、もし神父様のいうように神様が賢いのなら、ぼく達が良きカトリックかどうかなんて試す必要はないはずだ。それにさあ、まだ何も知らない三歳の子供を試してどうするんだよ。神様は全知全能だということになってる。それはそれでいい。だけど、じゃあなんで、悪いものやいやなものなしでこの地球を作らなかったんだろう? なんでたがいにいつも親切でいられるようにぼく達を作らなかったんだろう?(略)泳ぎにいくと何人かは小児麻痺になって、死ぬまで体が自由に動かなくなってしまう! それって正しいことなのか?」
ぼく「わからないよ。昔はすべてがうまくいっていたんだ。エデンの園では罪もなく、人間は幸せだった。だけど、ぼく達人間が罪を犯してしまったから……」
フロレンス「ぼく達が罪を犯したって? ばかばかしい。罪を犯したのはイヴだろ。イヴが掟を破ったからって、なぜぼく達が苦しまなくちゃいけないんだよ、ええ?」
ぼく「ただ掟を破っただけじゃないんだ。ふたりは神様のようになろうと思ったんだ! 覚えてないかい、ほら、神父様がいってたじゃないか。あのリンゴには知恵が詰まっていて、それを食べると、いろんなことがわかってしまうって。そして神様みたいに、善と悪について知ってしまったんだよ。だから神様はふたりを罰した。それはふたりが知恵を欲したからなんだ」
フロレンス「それもおかしくないか? なぜ知恵を求めることが人を苦しめることになるんだ? ぼく達が学校にいくのだって、勉強をして知識を得るためだし、公教要理に通うのだって、知識を……」
ぼく「もしぼく達が知識なんか持ってなかったら、どうだろう?」
フロレンス「野原にいるばかな動物達と同じになっちゃうんじゃないか」

神の沈黙ということです。
恵み深い全知全能の神がどうして幼い子供を罰するのか、どうして神は不幸や災厄に何もしないのか。
フロレンスの疑問にアントニオは答えることができません。

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『ひっつきもっつき』

2018年05月29日 | 日記

娘が幼稚園の参観に行き、孫(娘の娘)と「ひっつきもっつき」をしたと、歌と身ぶり付き話してくれました。



(「ひっつきもっつき」は1分55秒から)

どんな歌なんじゃろうと思ってネットで調べると、まず「ひっつきもっつき」は方言だと出てきます。
さらに調べると、岡山、広島、山口、福岡で使われているようです。(山口、福岡はちょっと違う言い方もある)
いやはや、方言だとは知らなんだ。

オナモミのように服などにひっつく植物の名前が「ひっつきもっつき」で、それが転じて、子供が親にひっついて離れなかったり、仲が良くていつも一緒にいる人たちのことを「あんたら、ひっつきもっつきじゃねえ」と言います。
私は後者の意味しか知りませんでした。

「ひっつきもっつき」を作詞したケロポンズの平田明子さん(左の人)は広島育ち。
平田明子さんは「ひっつきもっつき」が広島弁だとは知らなかったのではないでしょうか。
これで「ひっつきもっつき」という言葉が全国で使われるようになればちょっとうれしい。

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夜這いの不思議

2018年05月21日 | 日記

江馬修『山の民』は、明治2年、高山で起きた「梅村騒動」と呼ばれる農民一揆を描いた小説(1938~1950年)です。
江馬修は小説を書くにあたり、古老に聞き取りをするのですが、夜這いについても聞き、小説の中に取り入れています。

飛騨の村々では、この時代にはまだ、よばいの習俗が若い独身者の特権のように思われていた。いわば結婚前に於ける青年男女はその性的自由を一般に公認されていたのである。そしてやや誇張して云えば、部落の若連中は、おなじ部落内の未婚の娘たちを、いわば共同的に管理していた。彼らは毎夜のように、気のむくままに、各自が好きな女のもとへかよっていたし、頬かぶり小屋はまたおのずとそうしたばあいの本拠地ともなっていた。(略)
いったい農家ではどこでも戸締りというものがなく、夜間の出入りはまったく自由だったし、物を盗まないかぎり、よばいどに対してあとから故障や苦情が出ることもなかった。しかし、どうかすると、家によっては頑固なおやじや年寄がいて、けっして若いものを寄せつけぬ所があった。そういう家のものは、当然若連中の憎しみの的となって、いろいろな仕方で制裁や復讐をうけることになる。(略)
もし拒否するものが親たちでなく、娘自身であるばあいには、彼女は若連中から一せいにハチブのあつかいをうける。だから彼女はおぼこ(処女)として嫁入りができるわけではあるが、「村の若い衆から誰にも相手にされなかった」という不名誉を甘受しなければならぬというわけだった。


赤松啓介氏(1909~2000)は夜這いの実体験と見聞を『夜這いの民俗学』などに書いています。

昔の夜這いでは、年上の娘、嬶、後家などがそのアジワイを若衆に教育し、壮年の男たちは水揚げした娘たちを訓練したのである。(略)
僕などの経験した結果からいえば遊郭や売春業者たちから手ほどきされるより、はるかに懇篤、かつ貴重な訓練であったというほかはない。

若衆入りは13歳か15歳、夜這いは若衆入りと同時にはじまる。
若衆入りの際の相手はどこでも後家さんが主体で、後家さんが足りないと40歳以上の嬶が相手をしてくれることになる。
娘は月経があってからというところがあるし、陰毛が生えてからというムラもある。
年長者による性教育というわけで、獅子文六『てんやわんや』に出てくる夜這いはこれですね。

当時、小作農の家は、だいたいが四間程度で、娘は奥に寝かされていた。
親も自分たちが夜這いしてきたから、娘のところに夜這いが来るのは当たり前と思っている。
娘の気に入っている男には、昼間、娘から誘うこともあったが、気に入らない男の足音がすると、戸を閉めてしまう。

やり方、相手などは字(あざ)ごとに多様である。
ムラの女なら誰に夜這いしてもいいところもあるし、未婚の娘と後家、女中だけを開放しているムラもある。
よそのムラの者はだめだとか、よその若衆なら嫁は許されないが、後家や娘はかまわないとか、字(あざ)ごとにならわしが違う。

戦前まで、一部では戦後しばらくまで夜這いは一般的に行われており、昭和30年代には神戸市の北部でまだ残っていたそうです。
赤松啓介氏は10歳で近所のオバハンとコタツで性交、11歳で射精。
「もう十一、十二になったら性交をやらせる教育しないとほんま子供がかわいそうだ」と過激なことを言っています。

ところが、山下惣一『一寸の村にも、五分の意地。』を読むと、そんな簡単なものではない。
山下惣一氏は1936年生まれ、中学を卒業してすぐに農業をついでいるので、昭和20年代のことでしょう。
先輩が娘の家に忍びこみ、一定時間がすぎると、かならず親父さんに追われて脱兎のごとく飛び出してきた。
一度だけ、侵入に同行した。

抜き足、さし足で娘のところに近づいて、すすけた天井にぶら下がっている二燭光の薄ぼんやりした光の中で目をこらしてみると、蚊帳の中で父親と母親の間にはさまれて、川の字になって眠っているのが当の娘なのだから、なにかができるわけがない。個室なんて夢のまた夢の時代なのである。
先輩は、じつに辛抱強く、父親のいびきや母親の寝息の変化に息を止め、動きを止めて長い時間をかけて目的地へ近づいていった。(略)
ところがいけない。娘さんのズロースを少しずつおろしはじめて、やっと股間の繁みがのぞけるほどになった時、なぜか、父親が大きなくしゃみをした。(略)その時、父親は一瞬目ざめたらしく「ん?」というようにつぶやいて頭をもたげた。
先輩は娘さんの足元の布団にはりついて息を殺していたが、何を思ったのか、あるいは思わずやったのか、「ニャーオ」と猫の鳴きまねをした。じつにうまくやった。
「なんだ、猫か」と父親がつぶやくのに、馬鹿な先輩は「はい」と返事してしまって、追われた。

なるほど、親と一緒に寝ているのに、娘の布団に入るのはたしかに難しい。

その時からぼくは、この労多くして実益の少ない夜這いなるものに幻滅した。先輩たちから伝わってくる話はかなり脚色されたものだと考えるようになった。
だから、ぼくらの世代になると、夜這いはすたれた。もっと効率のよい方法を考え出したのである。公民館でフォークダンスをはじめたのだ。娘たちは、夜の外出を許さない親の反対を押しきって、一人残らず集まってきた。
ダンスをやりながら「どう、今夜」と個別に交渉した方がはるかに効率的だし確率は高い。


今東光『好色夜話』にはこんな説明があります。

昔から夜這いというのは、まった見ず知らずの女の許へは容易に這い込めないものと言われている。中にはそういう勇敢な奴が冒険心に駆り立てられて決行するのもないではないが、それには幾多の難関を越えなければならなかったのだ。先ず吠え立てる犬を手なずけ、雨戸をはずすという、まるで泥棒みたいな方法を取らなければならない。そして漸く辿りついた女は見知らぬ男を痴漢と心得て声を立てたり騒ぎ立てる。それを鎮めるには一方ならぬ手段を要するのだ。しかもおおむね失敗に終るのだ。まして家人に気づかれたが最後、下手にまごつくと大怪我をしなければならない。殴られるくらいは覚悟の前で、袋叩きにあって戸板でかつがれて戻ることさえあるのだ。こんな器量の悪い話があるだろうか。
そこで大方の夜這いというのはあらかじめ女と示し合せ、門の鍵をはずし、雨戸も開き易くしておいてもらうので、うまうまと成功するのだ。女の手引きなくして成功することは困難なのである。

夜這いは簡単にできるものかどうか、赤松啓介説と今東光説、どちらが真実なのでしょうか。

ずっと以前、明治か大正生まれの人に「夜這いをしたことがありますか」と聞こうと思ったことがありますが、その勇気がありませんでした。
今から思うと聞けばよかった。

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平安時代から明治時代までの結婚(3)

2018年05月13日 | 日記

・独身
結婚と同棲はどう違うか、通い婚と夜這いは同じか、これは結婚という制度があるかないかということではないかと思います。

平安時代の摂関期や院政期には、正式な結婚をしなかった、あるいは、できなかった男女が多い。
貴族層の女性は、父母から家屋や財産を相続したから、結婚しなくても生活でき、兄弟の援助を受けられたため、一生独身で暮らした貴族女性は結構いた。
女房勤めをする女性たちも、正式な結婚をしない人が多かった。
独身といっても、まったく男性と交渉がなかったわけではなく、男を通わせたこともあっただろうが、社会的に公認された妻ではない。

京都の庶民層の男女や、地方の在地領主の従者や下人層には、結婚して家庭を持つことができなかった人々が多くいたにちがいない。

江戸時代、結婚しない男は、武士、商人、職人を問わず、非常に多く、結婚しなくても普通くらいだった。
13歳くらいで中小店に丁稚で入り、独立するまで十数年以上かかる。
棒手振り(物売り)ではその日暮らしだから、妻帯は難しい。
商家の奉公人は大店で40歳を過ぎ、中小店だと39歳過ぎて結婚したが、大店のほとんどは京都に本店があり、結婚が許されても、妻は出身地に居住していて、夫が妻に会えるのは数年に1度くらいだった。

独身者の受け皿として妾や遊郭が多かった。
妾にも、二月縛りで金5両から2両くらいまであった。
江戸後期になると、下級武士や小商人までもが妾を囲うようになった。
数人の男が金を出しあって1人の女を共通の妾とすることもあった。

・離婚と再婚
男が女のところに通ったり、一緒に住むことが結婚したことになるかどうか、その時代や階層によって違ってくると思いますが、離婚ということは結婚という制度があってのことなのでしょう。

中世においては、婚姻に婚姻届が必要とされず、離婚も届けを出す慣行も規則もなかった。
戦国期には、「離縁状(去状)」の有無によって、たしかに離婚しているかどうかの判定が戦国大名によってなされる。

鎌倉期・戦国期は武士、百姓どちらの階級においても、離婚権は夫側にあった。
妻側から離婚しようとすれば、妻が家を出て、その後、夫側の承認が必要だった。

離婚、死別による再婚、再々婚は一般的だった。
曾我兄弟の母親は3度結婚している。
毛利興元(元就の兄)の娘は4人の夫をもっていた。
フロイス「ヨーロッパでは、罪悪については別としても、妻を離別することは最大の不名誉である。日本では意のままにいつでも離別する。妻はそのことによって、名誉も失わないし、また結婚もできる」

江戸時代も離婚・再婚は多く、武士の離婚率は11.23%、再婚率(夫死亡後、離婚後、婚約破棄後、婚約者死亡後を含む)も58.65%。
男は45歳以前、女は30歳以前に離・死別した場合、8割以上が再婚した。

武家の場合、男子を産んだ女は、夫が若死にしても再婚することはほとんどなかったが、子供が女子だけの場合は、身を引いて再婚するのが一般的。
農村では、女性の多くは実家に戻ったまま再婚しないのがほとんどで、男の再婚率のほうが高い。
また、女性は36歳を過ぎれば再婚はしないが、男は40歳以上でも再婚する場合があった。

結婚の妻に多額の持参金を払い、多くの道具、衣裳を持ってきた。
離婚に際して、夫は持参金を妻に戻し、妻が持ってきた道具や衣裳などは持ち帰ることになった。
慰謝料の支払いや持参金の返還では男女平等だった。

大名の結婚にあって、持参金等の経済的負担を軽減するために、娘は自分の家より若干低い家格の家と縁組する傾向があり、再婚となるとさらに低い家が選ばれる。
妻の多くは夫の家格より高い実家を後ろ盾にして家庭内で夫に優位を保っていた。

江戸時代は男尊女卑の時代といわれているが、庶民の女性は生き生きとしており、夫が勝手気ままに妻を離婚していたわけではない。
他に女ができ、その女と結婚するために妻を離婚することは認められなかった。

妻から離婚したい場合は駆け込み寺があった。
3年間、寺に入る場合は、生活費として5、6両を払った。
夫がすぐに離婚を承知しても、関係者への謝礼金が必要だった。

離婚を請求した者が慰謝料を支払った。
数十両から100両を持っている女性でないと、妻からの離婚請求はできなかった。

庶民、特に農民の妻は重要な働き手であり、糸繰りや機織りによる現金収入によって生活を支える技術と能力を持っていた。
夫からの離婚状の受け取りを拒否する女房や、嫌いな夫のもとを飛び出す女房もいた。

高木侃『三くだり半と縁切り寺』によれば、男尊女卑の傾向は明治中期以降に強められ、作り出されたものだそうです。
「女房と畳は新しいがよい」ということわざは、江戸時代にはあまり口にされず、男尊女卑が強制された明治中期以降に男性にもてはやされた。
「女の一人や二人は男の甲斐性」といった言葉も、明治以降に人口に膾炙されたものである。

昔からの伝統だと言いますが、明治中期以降からの伝統が多いのではないかと思います。

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平安時代と明治時代の結婚(2)

2018年05月08日 | 日記

・家の成立
学者によって違いがありますが、家という概念が芽生えるのは10世紀前後か、10世紀以降のようです。
まず中央貴族や地方豪族層から、官職を父から息子へ伝えることが大きな理由となって生まれた。

11世紀(摂関期)になると、父系の家柄や家格が決まってきて、母方の血縁はたいして問題にならなくなる。
女性の出自が問題にならなくなることは、女性の社会的地位の低下の結果である。
そして、父子継承は11世紀末(院政期)に成立した。

家がどの階層にも浸透したのは院政期(11世紀)という説と、武士層の代々継承される家の形成は鎌倉期からであり、庶民層の家意識はそれよりもう少し後のことだという説があります。

もっとも、それは身分、階層がある程度上の話だと思います。
鎌倉時代、領主の家の下人が他の領主の下人の子供を産んだ場合、生まれた子供が男なら父に、女なら母につける。
そして、下人の家庭生活がどちらの領主の屋敷で営まれていたか、子供はどちらの家で養育されていたかが基準となる。
主人が必要となれば、下人の妻が妊娠中であっても、夫の下人は売却された。
産まれた子供の帰属が本主と買主との間で相論の対象とされ、産まれた子供が父に付すとされることもあった。
家といっても、下人の場合はあってないようなわけです。

家が成立すると、家政全般の切り盛りが女性の役割となり、同居する妻がこの役割をはたす。
応仁の乱後、妻の役割の一つが祖先祭祀で、家の祖先の追善仏事が自邸で行われるようになり、妻が自邸の祭祀空間に僧を招き、堂荘厳、斎食の手配をした。
正忌・月忌は父母を中心に、祖父母、曾祖父まで行われた。

・婿取婚と嫁入婚
男が女のもとに嫁す婿取婚が、女が男に嫁す嫁取婚へと次第に変わっていきます。
「嫁入り」は本来、婚姻の後、妻が婿の家に初めてはいることを指し、その意義も、夫の家に対する挨拶以上のものではなく、二人の新居または妻の家に帰ってきた。
したがって、夫婦生活の基礎がまだ夫の家になかった。

ところが、婚姻後、夫の家の仕事を手伝ったりすることが重なるにつれて、嫁はしだいに夫の家の一員と見なされるようになる。
その後、夫婦は夫の家に移り、嫁が夫の母親にかわってその家の家政をとりしきることになる。

夫の家に夫婦ともに同居する習俗が進むと、短期間のうちに夫家に移り住み、やがては嫁が直接、夫家に入るかたちに変化する方向に向かう。
こうして次第に「嫁取婚」へと移行する。
嫁取婚が始まるのは、高群逸枝は室町期、田端泰子氏は鎌倉期から始まったとします。

もっとも、娘が他家へ嫁ぐということは、労働力が移ることを意味したから、江戸時代でも、働き手として重要な存在である娘をすぐに嫁がせるわけではなく、子供が産まれるまで、里方から通わせる形をとったところも多い。

中世のはじめ(平安末期?)には、夫婦別居、母子同居が普通だった。
夫婦は別姓だったが、居住形態が母子同居であっても、子供のうち、女子は母方の、男子は父方の姓を名乗った。
母子同居から夫婦同居へと変化するのは、鎌倉期に入ってからのこと。
鎌倉中期以降、武士階級では嫁取婚が普及しはじめた。

結婚儀式は10世紀ころから娘に婿を取る形態で行われるが、一夫多妻であり、どの妻とも儀式を挙げることが多かった。
11世紀中ごろまでは、結婚当初は夫が婿入りをして妻の両親と同居するが、一定期間たつと、妻の両親が未婚の子供たちを連れて別の邸宅に移住したり、子供の夫婦が別の邸宅に移住する。

貴族層の家が12世紀前半(院政期)に成立すると、婚姻形態は婿取婚であり、一夫多妻であるが、夫と同居した妻が正妻とされる。
妻の両親とは同居しなくなり、結婚当初から子供の夫婦だけの居住となるが、夫の両親と同じ屋敷内に同居することは一般的ではない。

貴族の家では、鎌倉期までは夫方居住婚になっても、息子夫婦が夫の両親と同一屋敷に居住することは一般的になかったが、徐々に婿取婚から嫁取婚の傾向を持ちはじめる。

南北朝期になると、居住形態に変化があらわれ、父夫婦と息子たち夫婦が同一屋敷にそれぞれ別棟で居住するようになる。
息子たちの婚姻形態は嫁取婚である。
兄弟が同一屋敷に居住し、息子たちはそれぞれの住居に妻を迎え、それぞれに膳所があるので食事部分は独立している。
妻が死去すると再婚し、その時々で一夫一妻となっている。

室町期になると、嫡子夫婦だけが父と同一屋敷に別棟居住し、他の息子夫婦は父の屋敷の隣接地に居住するようになる。
つまり、嫡子以外の息子は、結婚すると父の屋敷から出る。

戦国期は、公家は嫡子一人を残して男子は僧侶になるか、他家の養子となり、一子相続が主流になる。
嫡子が妻を迎えるときには嫁娶の儀式を行うようになる。

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平安時代から明治時代までの結婚(1)

2018年05月04日 | 日記

平安時代と明治時代の結婚に関する本を読むと、早婚である、離婚が多い、仲人の存在など、共通する点がけっこうあります。
明治中期まで、結婚や性的倫理は平安時代の考えが続いていたかもしれないと思って、中世と近世の結婚についても本を斜め読みしました。
続いていると思われることもあれば、家の成立と婿取婚から嫁取婚へといった変化もあります。

中世とは、鎌倉室町時代だと思ってましたが、田端泰子氏によると、鳥羽院政期から戦国期の終わりまでで、院政期から鎌倉後期までを中世前期、それ以降が中世後期だそうです。

・早婚
「養老令」では、男は15歳、女は13歳以上になれば結婚でき、平安時代には13~17歳の年齢でたいていの女性が性的体験を1回、ないし持続的にもっており、処女性は重んじられなかった。
江戸時代の女の適齢期は16~18歳。
東北地方は平均初婚年齢がきわだって低く、明治15年に岩手県では、夫17.07歳、妻14.09歳。
全国平均が夫22歳10月、妻19歳4月で、現在と比べると全国的に早婚だった。
東京下町の商家でも、娘盛りは14歳から17歳までとみなされた。

赤松啓介氏によると、少年が若衆入りして夜這いをするのは13歳か15歳、娘は月経があってからというところがあるし、陰毛が生えてからというムラもある。
赤松啓介氏は1909年生まれですから、大正から昭和にかけてのことでしょう。

湯沢雍彦氏は、明治では離婚・再婚が多かった理由の一つとして、処女性が求められなかったということがあるからだと書いています。
フロイス(1532~1597)「日本の女性は、処女の純潔をなんら重んじない。それらを欠いても、栄誉も結婚(する資格)も失いはしない」

女性でも離婚再婚を繰り返すことが多く、一人の夫と生涯をともにすることが女性にとって幸福だとか、道徳的であるとかの倫理が確立していない、女性にとって性的には後世より自由であり、貞操観念が未成立だったこともあると、服藤早苗氏は書いてます。
しかし、後世でも性的に自由であり、貞操観念もあまりなかったようです。

・身分内婚
平安時代の結婚は、基本的に身分内婚で、庶民は共稼ぎだった。
相手をどうやって見つけていたかというと、恋と結婚の区別は上層貴族以外はそれほどなかったと思われ、お互いに気に入って通っているうちに、夫が住みつくようになった場合も多かった。

鎌倉、室町時代は、婚姻は家の問題で、血縁関係と姻戚関係が重要な結束の紐帯だと考えられ、幕府が介入したり、大名が介入したりした事例はごく少数だった。

政略結婚が戦国時代から顕著になり、家臣掌握の手段として家臣の婚姻を規制した。
家の存続にプラスとなるかどうかを検討し、慎重に相手選びをしていた。

近世の農村女性の結婚は中世から引き続き、家と家の結びつきを主な目的にし、後継者づくりを結婚に期待した。
武士の結婚と違って、幕府や領主の許可は必要でなかったが、領主の異なる村や町の間の農民の結婚の場合は、相手の領主や村名主に届け出ることが必要だった。

上層農女性の場合、正式な結婚は仲人が必要であり、親族による縁談相手の家格や経済力、その他の調査をし、本人はその決定に従った。

農村では同じ村で顔なじみなので、自由な恋愛がしやすかった。
婚姻は家が同格なのが基本だが、家格が合わないと反対されたとき、若者組が嫁盗みをして応援した。
夜這いを重ねていたからこそではないでしょうか。

江戸時代、武家の結婚は命令で、商家は親が決めた。
長屋に住む庶民はまわりから勧められる。
明治の東京の下層階級では、婚約や仲人はなしで同居するという結婚は、昭和30年代の高度経済成長期直前まで続いていた。
下に行くほど自分の意思が通りやすくなるわけです。

・仲人
平安時代には男女がどこで知り合ったかというと、貴族から庶民まで、祭や寺社・辻が男女の出会いの場だったと、服藤早苗氏は言います。

森下みさ子氏によると、江戸時代の見合いは、水茶屋で男が座ってお茶を飲んでいるところに女が通りかかるという形で、見初めるが見合い。

男女を結びつける媒(なかだち)・仲人という役割が平安時代に生まれてくる。
村落内のように、日ごろから当人同士が知り合っている場合は、見合いは必要ない。

農村でも婚姻圏の拡大にともない遠方婚が起こった。
その理由のひとつに、政治的な意図から婚姻すべく、遠方からの嫁入りを進めた武家の婚姻の影響がある。
遠方婚から要請されてくるのが、両家をとりもつ仲人という存在である。
雑多な人間の集まる都市でも、誰かの世話がないと縁談には進めないので、仲人の役割が大きくなる。

仲人は持参金の十分の一の礼金を取り、商売として成り立った。
近世から昭和初期くらいまでの農民の婚姻は、仲人を立てるのが普通だった。
仲人は嘘やだましもあり、年を10歳ごまかしたり、見合いには瓜ざね顔の妹を見せ、祝言にはかぼちゃ顔の姉が嫁いだりした。

引用した本です。
服藤早苗『平安朝の母と子』
田端泰子『日本中世の社会と女性』
田端泰子、細川涼一『日本の中世4 女人、老人、子ども』
後藤みち子『中世公家の家と女性』
保立道久『中世の女の一生』
菊地ひと美『お江戸の結婚』
森下みさ子『江戸の花嫁』
増田淑美「農村女性の結婚(『日本の近世15』)
高木侃『三くだり半と縁切り寺』
湯沢雍彦『明治の結婚 明治の離婚』
赤松啓介『夜這いの民俗学』

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湯沢雍彦『明治の結婚 明治の離婚』

2018年04月24日 | 

徳川夢声の母親は男ができて夫と離婚してるし、徳川夢声の恋人だった伊沢蘭奢も夫と息子を捨てています。
結婚しても妊娠するまでは籍を入れなかったり、子供を赤の他人に養子に出すこともあったそうです。
明治時代は離婚率が高かったというし、結婚観が今とは違っていたのかと思って、湯沢雍彦『明治の結婚 明治の離婚』を読みました。

全国離婚件数がが集計されるようになったのは明治13年からで、年間を通じての統計は明治15年から始まった。
明治15年 婚姻率 8.42 離婚率 2.62
明治20年 婚姻率 8.55 離婚率 2.84
明治25年 婚姻率 8.51 離婚率 2.76
明治30年 婚姻率 8.45 離婚率 2.87
明治35年 婚姻率 8.77 離婚率 1.43
明治40年 婚姻率 9.13 離婚率 1.29
明治45年 婚姻率 8.51 離婚率 1.17

明治中期(16~30年)のころの離婚率(人口千人あたりの年間離婚件数の比)は2.5ないし3.4の高さ。
江戸時代後半の離婚率もほぼ同じ高さだった。

東京府の明治12年の統計によると、結婚した男6339人、女8667人、離婚した男3406人、女4203人。
男女の差が大きすぎるので信用しがたいが、離婚の割合が高いことは事実であろう。

明治10年代、20年代の離婚は、都市住民ではなく、農山漁村の住民が多い。
明治16年から20年にかけての離婚率は、西日本より東日本のほうが高い。

嫁が労働力として期待されながら、同居の家族の意にそわないと、簡単に追い出し離婚されるという傾向は、明治末期まで盛んにあった。

離婚が多かった背景
① 庶民の意識の根底に、結婚は生涯続けなければならないものという認識が乏しかった。
②  親、とくに姑が離婚を迫ることが多く、息子である夫は親の意向に反対できなかった。
③ 離婚の理由は不要だった。
④ 離婚の手続きがルーズで、届出を必要としないところが多かった。

追い出し離婚、逃げ出し離婚が多い、処女性より労働力が求められた、再婚についての違和感がほとんどない、などが背景にある。

明治32年(1899)以降、離婚率は急激に低下している。
離婚数は31年が前年度より2万5千件、20%近く少なくなり、離婚率は2.87から2.27に、32年が3万3千件、33%も減少し、離婚率は1.50と下がり、32年は30年の半分近くにまで落ち込んだ。
といっても、明治33年(1900年)の離婚率は、アメリカ0.70、フランス0.25、ドイツ0.15と、日本に比べるとずっと低い。

離婚後の暮らしの見通しが立たなくなり、夫婦を続けるほかなかったことも、離婚が減った理由としてある。
そして、明治31年に民法と戸籍法が成立し、戸籍の管理が厳格になったということも、離婚率を下げた原因だった。
25歳未満の者が離婚するには、結婚を同意する親などの同意が必要となった。

庶民は婚姻届を出さない手段によって、早期に離別できる道をとるようになった。
大正9年(1920)、届出していない配偶者がいると答えた者は全夫婦の17%だった。
明治30年代には20%以上あったのではないかと思われる。
婚姻届を出さないまま離婚する夫婦もいただろうから、離婚率はもっと高くなります。

明治末の婚姻率は8ないし9で、年ごろになった者はほとんど全員が結婚した。
ふつうの男女は親のすすめる縁談に従い、生活の場や金銭の保障を考える生活手段として結婚した。
その理由は、女性は食べていくためであり(就職・収入の道がほかになかった)、男性は家庭雑務を任せ、家を継ぎ、あとつぎを得るためだった。

2014年の報告書によると、アメリカでは25歳以上の男女で結婚したことのない人の割合は、1960年から約50年間で、男性は10%から23%に、女性は8%から17%に倍増しており、その数は約4200万人だと、金成隆一『ルポ トランプ王国』にあります。

初婚同士の両親(異性婚)のもとで育つ子どもの割合は、1960年の73%から、2014年の46%に減少し、シングル・ペアレント(一人親)の家庭の子どもは9%から26%に増加したそうです。
結婚に関して考え方が大きく変わっているわけです。

女性が経済的に男に頼らなくてもよくなった現在の日本では、生活の手段として結婚する女性はほとんどいないでしょう。
濱野智史「ワンチャンという価値観」(「更生保護」2014年3月号)にこんなことが書かれています。

若者たちの間でいま蔓延しつつある価値観の一つが「ワンチャン」である。「ワン・チャンス」、文字通り「一回きりのチャンス」という意味。アイドルオタクの若者たちからこの言葉を聞く。
今のアイドルオタクは多様になり、一見、アイドルなどにはハマりそうにない、モテそうだし、恋愛にも不自由しなさそうなイケメンの若者もたくさんいる。
なぜアイドルにハマるのかというと、「アイドルの子たちと「ワンチャン」でつながりたい」、つまり「アイドルの子と本当の恋愛関係になりたい」と考えているからだ。
なぜか。
いまの若者たちにとって、現実の恋愛は「つまらない」、というより「する意味が見いだせない」のである。
なぜなら、いまの日本社会の将来は絶望的だからである。
どうせ子供も満足に産めなさそうなら、結婚する意味もないし、ということは恋愛をする意味もないのである。
その代わりに台頭するのが、アイドルとの疑似恋愛ゲームなのである。
「ワンチャン」を巡る心理は、非常に「刹那主義」的な現代若者の価値観から出てきたものである。どうせ(長期的な目で見て)結婚も恋愛もする意味がないなら、(いま目の前にいるかわいいアイドルとの)疑似恋愛にハマるほうが楽しい。「いまさえ良ければいい」という発想なのである。

日本人の結婚観、家庭観はこれからもっと変わっていくんでしょう。

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平安時代の結婚

2018年04月19日 | 日記

『源氏物語』では、男が女に歌を送り、女が返し、歌のやり取りをして、そうして女の部屋に夜這いをすることが多いです。
なので、平安時代の結婚とは一夫多妻、通い婚だと思っていました。
しかし、婚礼の儀式があったり、夫婦が同居していたりで、実際はどうだったのかと思い、工藤重矩『源氏物語の結婚』、服藤早苗『平安朝の母と子』『平安朝の父と子』を読んで、その疑問はある程度氷解しました。

・平安時代の婚姻制度は一夫一妻制であった。

平安時代、結婚成立の条件は律令(養老律令)の中の戸令(こりょう)に定められている。そこには婚姻許可の年齢、婚主(保証人)のこと、婚約・婚姻解消の条件、棄妻の条件、その手続き等々が規定されている。また罰則規定である戸婚律には、重婚を犯せば男は懲役一年、女は杖刑一百とも定められていた。それゆえ、法的に妻として扱われるのは一人のみであった。

工藤重矩氏によると、平安貴族の婚姻状況の実態は、一夫一妻多妾の状態でした。
法的な妻は一人だが、妾がいても世間的には容認されるという意味であり、妾が必ずいるとか、多くいるという意味ではない。

配偶者を有する男が複数の女性と夫婦的関係を継続していても、複数の婚姻届を出さなければ重婚として罰せられることはないし、子供も男が認知すれば子としての権利が生じる。
継嗣や遺財処分等に関して、妾やその子の存在を認めた運用規定が存在していた。
その点では現在も平安時代と似ており、平安時代の婚姻制度が現代にまでつながっている。

工藤重矩氏はこのように説明しますが、服藤早苗氏によると「正式に結婚する妻は、道長のように二、三人であることが多い」し、律令の規定が実際に適用されたわけではないそうです。
一夫一妻と一夫多妻、どっちだったんでしょうか。

・最上流貴族の男の最初の結婚は、特別の事情がなければ、親が決める。
親同士が決める正式な結婚は家と家との関係になるので、離婚はきわめて困難だった。
妻は離婚されないかぎり、子の有無や夫の愛情いかんによってその座が左右されることはない。
また離婚しないまま妻が妾に落とされたり、妾が妻に昇格したりすることもない。
妾はあくまでも妾であって妻ではない。

・正式に結婚した妻とそれ以外の女性たちとの間には、妻としての立場、社会的待遇等において大きな差があった。

律令的な意味での妻とそれ以外の女性たちとの間には社会的待遇に明確な区別があり、とくにその子の扱いには、昇進速度や結婚相手等に大きな差があった。

男親の娘に対する扱いの差は、正妻の娘はより重く、妾等の娘はより軽く扱われるのが常である。
父親が気を配って結婚させる場合でも、妾等の娘は一段軽く扱われる。

同居の正妻の子供と、次妻・妾の子供とは、父親としての対応が違っていた。
藤原行成の日記である『権記』に、正妻が出産した子供たちは見えるが、他の女との間に生まれた子供は出てこない。
平安中期の貴族層にあっては、妾や数度の関係しかもたなかった女性が出産した場合、女性が強い意思表示をしないかぎり、男性は父としての自覚をもたず、認知さえしなかった。
天皇の孫でも、母の出自・血統が低いと、貴族の正式の妻になるこさえ難しかった。

・夫婦は同居し、妻以外の女性とは同居しないのが原則である。
貴族は夫が正妻の両親に婿取られ、一定期間、妻の両親と同居する「婿取婚」で、女が嫁として男の両親に嫁取られることはほとんどなかった。

ただし、「婿取婚」とは生涯にわたって夫が妻方に住み、妻の一族として生活することを指すが、平安時代の婿取婚はそのような婚姻形態ではない。
妻のほうに住んでいても、子供は父の姓を名乗る。

同居慣習が広がり、平安中期には貴族層でも夫婦同居が一般的になる。
同居といっても、夫の家にではなく、新婚当初は夫が妻の両親家に住み、一定期間たつと妻の両親と別居する。
あるいは、最初から妻の両親の援助で新婚夫婦が独立して居住する。
家屋の提供者が夫方の父母でも、同居は妻の両親とであり、夫の両親と同一屋敷で同居することは、一般的にない。
夫は妻の実家から援助を受け、妻が死んだ場合、子供は妻の実家で育てることが多かった。
その一方、妻ではない女性には、男の訪れを待つ以外に男と逢う手段がない。

『源氏物語の結婚』は、『源氏物語』など平安時代の恋愛物語の構造を説明しています。
ヒロインの母親がいかなる立場にあると設定するかで、物語の構想は制約を受ける。
妻以外の女性たちと男との関係が、恋愛物語や日記文学の主たる対象となっている。
男親の庇護がないという状態が恋愛物語のヒロインの条件。
なぜなら、両親のもとで大事に養育されている娘には、若い男が容易に近づけない。
正妻の娘を恋の相手として恋愛物語を構想するのはきわめて難しい。
だから、男の恋の相手は正妻ではなく、男親の庇護のない娘という設定になる。
そして、正妻は男に理解のない冷たい女と設定されざるを得ない。
現代の恋愛小説も同じで、相手が家族持ちというような障害があるほうが面白いです。

ちなみに、「妻」は差別語だ、「さしみのつま」は「端っこ」という意味だと言う人がいます。
しかし、「つま」という日本語は、男女を問わす「連れ合い」「パートナー」を意味する古語なんだそうです。

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再審請求と冤罪

2018年04月08日 | 死刑

裁判官だった原田國男氏が『裁判の非情と人情』で死刑について書いています。

私がかかわった死刑囚の死刑が執行されたと後日報道で知ると、心からその冥福を祈る。被害者遺族の方々からすれば、被害者の冥福こそ祈るべきで、死刑囚の冥福を祈るなどけしからんと思われるであろう。死刑の言渡しは、正当な刑罰の適用であって、国家による殺人などではないということはよくわかるが、やはり、心情としては、殺人そのものである。法律上許されるとはいっても、殺害行為には違いはない。
目の前にいる被告人の、首に脈打つ血管を絞めることになるのかと思うと、気持ちが重くなるのも事実である。言渡しの前の晩は、よく眠れないことがある。

そして、このように言い切ります。

自信たっぷりの死刑判決など本来ないのである。

ところが、死刑執行後の法務大臣のコメントはいつも自信たっぷりのように感じられます。

2017年7月13日、西川正勝死刑囚が再審請求中だったにもかかわらず死刑を執行されたことについて、安田好弘氏がフォーラム90の集会で話をしています。(「フォーラム90」Vol.154「死刑が緩和される方向に向けて」)

金田法務大臣「法務大臣臨時記者会見の概要」

一般論として、仮に再審請求の手続中はすべて執行命令を発しない取扱いとした場合には、死刑確定者が再審請求を繰り返す限り、永久に死刑執行をなしえないということになり、刑事裁判の実現を期することは不可能となるものといわなければなりません。したがって死刑確定者が再審請求中であったとしても、当然に棄却されることを予想せざるをえないような場合は、死刑の執行を命ずることもやむを得ないと考えています。


1999年、小野照男死刑囚が再審請求中の執行があった。参議院法務委員会での質問に対する臼井法務大臣の答弁もほぼ一緒。

もし再審請求の手続き中はすべて執行命令を発しない取り扱いをするものということであるならば、死刑確定者が再審請求を繰り返す限り、永久に刑の執行をなしえないというということになりまして、刑事裁判の実現を期するということは不可能になるものと言わなければならないところでございます。従いまして、死刑確定者が再審請求中であったと致しましても、当然、棄却されることを予想せざるをえないような場合におきましては、執行を命ずることもやむを得ないと考えております。

法務官僚の作文が17年後にも生きている。
つまり、死刑執行は政治家が決断しているのではなく、法務官僚が行っており、執行の説明さえも彼らが考え、大臣が記者会見で話す言葉さえも用意している。

「再審請求中に執行できないならば永久にできない」
「再審が棄却されることが明らかな場合は執行できる」

三権分立のもと、再審は裁判所だけが判断することになっているのであり、行政が判断することは許されていない。
なのに、再審が認められるかどうかを法務大臣、あるいは法務官僚が判断して執行するのは越権行為である。

免田栄さんの再審は第6次再審で認められた。
赤堀政夫さんは第4次再審。
奥西勝さんは第7次再審でいったん再審開始決定が出ている。
徳島ラジオ商事件は第6次再審。
こういうことが再審の実態で、再審請求を繰り返さないと再審は実現できない。
にもかかわらず、法務省は「理由もなく繰り返す」と非難している。

原田國男氏は「それにつけても、最近不思議だと思うことがある」と、冤罪事件についてこのような疑問を呈しています。

氷見事件、足利事件、東電OL殺害事件において再審が認められて、被告人はいずれも無罪となり、真犯人が別に存在することまで明らかになった。
ところが、裁判所は知らん顔を決め込んでいる。
法務検察と裁判所において、再発防止策を具体的に検討したふしはない。

結局、裁判所が最終的に再審無罪を確定させたのであるから、自浄作用は、まさに、正常に働いており、問題はないという見方がされているのかもしれない。しかし、それも弁護団等の多大な尽力があったからこそ、実現したのである。


冤罪について法曹にはこんな考えがあるそうです。
・冤罪は存在しない。再審にしろ、通常の裁判にしろ、無罪となったのであるから、裁判所の判断は、最終的に正しかった。裁判所が無罪としている事件は、その意味で、冤罪とはいえない。
・冤罪とされる事件の多くは、判断が分かれ、微妙なものであって、被告人が真犯人である可能性は残っているから、冤罪とはいいきれない。
・冤罪が生じるのは、刑事裁判制度の不可避の現象であって、これを少なくすべきなのは、当然であっても、制度自体を廃止できない以上、限界がある。
・我が国はこれまで無実の者を死刑にした例はない。
・冤罪は、死刑に特有なことではなく、あらゆる犯罪に起こりうることだから、冤罪を理由に死刑を廃止すべきだというなら、他の刑罰も廃止すべきではないか。

そもそも、我が国の刑訴法学者の多くは、冤罪不存在論か冤罪不可避論に立ち、冤罪問題について、実に冷淡であり、これは世界的にみても特異な傾向であろうと、原田國男氏は言います。

一般国民は、冤罪事件といえば、強盗殺人や殺人で、しょせん、裁判官が判断することであり、自分には関係がないと考えてきたであろう。

たしかに、国民の多くは冤罪問題についてさほど関心があるようには思えません。
冤罪事件があれば、最高裁や法務省に抗議デモがあってよさそうなものです。

平川宗信氏は「国民に主権意識がなさすぎます」と断じます。
主権者として、自分たちが死刑を存置し、自分たちが殺しているのだという自覚がない。
主権者意識がないという根底には、社会を支え、国を支えている個人という意識がない。

私は、死刑囚の首にかかっている縄は、その端が一億本余に分かれていて、私たち一人一人がその端を引っ張っているのだという話をします。(「フォーラム90」Vol.150)


鎌仲ひとみ氏の話の中に「あなたの家のコンセントの先は原発につながっている」ということがありましたが、死刑も原発も私と無関係な事柄ではないわけです。

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