三日坊主日記

本を読んだり、映画を見たり、宗教を考えたり、死刑や厳罰化を危惧したり。

「座間事件「実名報道はやめて!」黙殺された遺族たちの嘆願」

2017年11月30日 | 厳罰化

「女性自身」の記事です。
https://jisin.jp/serial/%E7%A4%BE%E4%BC%9A%E3%82%B9%E3%83%9D%E3%83%BC%E3%83%84/crime/31342

「座間事件「実名報道はやめて!」黙殺された遺族たちの嘆願」
11月10日未明、座間市のアパートで切断された9人の遺体が見つかった事件で、警視庁は新たに8人の身元を確認したと発表した。これを機に、大手テレビ局、新聞社はこぞって被害者たちの実名報道に踏み切った。だが、全国紙の社会部記者は次のように語った。
「いちはやく身元が特定された東京都の23歳女性については、11月6日の時点で、遺族が警視庁を通じて、各報道機関に文面を送っています。それは《亡くなった娘の氏名報道はお断りするとともに……》という一文で始まるものでした」
そんな要請があったにも関わらず、23歳女性の実名は報じられ続けたのだ。
「10日未明に、残り8人の身元が判明したことを警視庁は会見で発表しました。そして遺族たちからの文面を報道各社に配布したのです」
それは8人の被害者たちの遺族や、遺族が依頼した弁護士たちによる9枚の“要請書”だった。冒頭で紹介した福島県の17歳高校3年生の母親による直筆書面も、そのうちの1枚だ。遺族たちが求めていたのは取材の自粛と、顔写真や実名報道をやめることだった。(略)
このように被害者遺族たちが団結して強く要請したにも関わらず、実名・顔写真報道は続けられたのだ。
「遺族に配慮して匿名報道を続けたのは一部のスポーツ紙ぐらいでした。遺族たちがここまで強く要請した背景には、座間事件が抱える2つの特別な事情があります。1つは、“死にたい”などと語っていた被害者たちがいたこと。もう1つは、白石容疑者が被害者女性たちに性的暴行を加えていたと、供述していることです」(前出・社会部記者)
埼玉県の17歳高校2年生の遺族の依頼を受けた弁護士は、本誌にこう語った。
「ネットで騒がれるぶんには、遺族も見ないようにするという対抗策がありますが、大メディアが報じている場合、避けることが難しくなります。テレビをつければ、亡くなった子や、自分たち家族のことが報じられているわけですからね。朝も夜もなく、遺族たちは苦しみ続けているのです」


「遺族に配慮して匿名報道を続けたのは一部のスポーツ紙ぐらいでした」ということに笑ってしまいました。
犯罪報道では、怪我をした人は匿名だし、性犯罪や未成年の被害者は必ず匿名です。
ところが、殺人事件となると、なぜか写真入りの実名報道となります。

おそらく全国紙やキー局の報道ニュース担当の人たちはスポーツ紙や女性週刊誌を軽く考えているでしょうけど、「一部のスポーツ紙」、そして女性週刊誌に人の痛みを知る人間らしさがありました。

今や加害者やその家族だけでなく、被害者の私生活を暴き出すことも珍しいことではありません。
犯罪被害者にも、匿名でのいやがらせの手紙や電話、ネットへの書き込みをする人がいます。
被害者が損害賠償の請求をすると、「子どもの命を金で売るのか」といった誹謗中傷を受けることがあります。
家族にとってみれば、死んだということに加えて、さらし者にされるわけですから、二度殺されるようなものです。

メディアがわざわざ実名報道をしなくても、知っている人は知っているし、第三者が名前や顔を知る必要性はないはずです。
第三者である我々が名前や顔を知りたがるのは単なる好奇心であり、野次馬根性、のぞき趣味にすぎません。

川名壮志『謝るなら、いつでもおいで』に、佐世保12歳同級生殺害事件の被害女児の父親である御手洗恭二さんへのインタビューが載っています。
御手洗恭二さんは毎日新聞に勤めています。

取材を受けなかったらどういうことが起こるか、それをまず考えた。
もし断った場合、メディアがどういう風に動くかというのを考えたら、家族に向かうんですよ、やっぱり。(略)
遺族が取材にさらされるつらさは、逆に僕自身が求めてきた側だから、よくわかる。大変だということがね。
たしかに記者じゃない仕事に就いてたら、まあアッサリ会見は蹴っ飛ばせただろうな、拒否できただろうな、っていう気持ちはある。

福岡に転勤してから、二度ほど知らない人から声をかけられます。
テレビに顔が映ったからです。

僕自身が知られてるわけじゃない? すると、仕事でもプライベートでも、これまで普通にできてたことが普通にできなくなる。(略)
極端なことをいえば「人前で笑えるか」ということなんですよ。それはもう、考える。「何であんなことがあったのに、ニコニコしてるの」って思う人がいるかもしれない。(略)

田舎だから外を歩けば人に会うでしょ。それであの事件の遺族だってわかるわけじゃない。近所のスーパーに行ったら、女性にハッと目を見開かれたり。「視線が痛い」というのはこういうことなのか、と思った。

ただでさえ好奇の目にさらされるわけですから、なるべく実名報道は避けるべきです。
浅野健一『犯罪報道の犯罪』を読み、当然のことだと思っていた実名報道が、多くの人の生活を壊し、時には自殺にまで追い込んでいることを教えられました。
スウェーデンでは、被害者はもちろん、加害者であっても匿名報道が原則(政治家の汚職など権力者の犯罪は別)だそうです。
犯罪報道では被害者はもちろん、被疑者も基本的には匿名にすべきだと思います。

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政治の宗教利用

2017年11月26日 | 戦争

大昔になりますが、2004年4月7日、小泉首相の靖国参拝は違憲であるという福岡地裁の判決について、「産経抄」には次のように書かれていました。

裁判官に対する不信を強く感じた。一体、死者の慰霊や鎮魂ということへの日本の伝統文化をどう考えているのか、常識を疑ったからである。
国のために死んだ人々は英霊となり、靖国神社にまつられて“神”となる。おまいりすることはいわゆる宗教活動ではない。先祖をうやまう人間的で自然な儀礼なのだ。

毎日新聞でも岩見隆夫「粗雑すぎる靖国・違憲判決」と題したコラムに、「首相参拝がなぜ宗教的意義を持つかわからない」とありました。
神道は宗教ではないという国家神道の亡霊が今も生きているわけです。

慰霊や鎮魂、そして死者を神として祀ること、そして宗教法人に参ることが伝統文化であり、宗教とは別物だという主張に、神道関係者は抗議したのでしょうか。
靖国神社に参拝することは「宗教活動」ではなく、「宗教的意義」がないという新聞記者の無知は、宗教教育をおろそかにした戦後教育のせいかもしれません。

戦死者が靖国神社や護国神社に神として祀られることによって遺族が安心するという心情を政治が利用し、国のために死ぬ人を再生産する役割を靖国神社ははたしてきました。

島薗進氏は中島岳志氏との対談でこういうことを話しています。

大正デモクラシーの時代というのは立憲政治が整っていく一方で、社会史的に見ると結局天皇と一体感を持つ臣民を育てて、いわば下からの国家神道がどんどん育っている時代でもあった。(略)
とくに戦争が始まると、我が身を犠牲にするような軍人・兵士をマスコミは褒め称え、さらに民衆が喝采を送り、軍人・兵士も帰隊されたように振る舞うという循環構造になっていったわけですよね。(『愛国と信仰の構造』)

宗教を利用して国民の心を支配してきたわけです。
英霊は靖国に祀られると言って特攻に送り出すことと、殉教者は天国に生まれると教えられて自爆テロをする人とどう違うのか。

井上亮『天皇の戦争宝庫』は、皇居にある御府(ぎょふ)について書かれた本です。
日清戦争、北清事変(義和団の乱)、日露戦争、第一次世界大戦・シベリア出兵、済南事件・満州事変・上海事変・太平洋戦争の戦利品や戦死・戦病死者の写真・名簿を収蔵した5つの建物が皇居内にあり、天皇が英霊に祈りを捧げていると伝えられていました。

井上亮氏は小川勇『全国大社詣』(1944年)から引用しています。

苟しくも殉国した者に対しては其(その)霊は神として靖国神社へ合祀せらるゝのみならず、一々生前の写真を一室に保存し随時陛下に親しく玉歩を其(その)室に御運び遊されて、写真の傍に附記してある説明と引合はせて其(その)者の勲功を嘉し給ふと云ふ真に勿体ない事実を拝聞し、此でこそ吾々日本国民は国に殉ぜんとする際、必ず天皇陛下万歳を絶叫して死ぬ事が出来わけであると実感した。

御府は明治天皇の思し召しによって作られました。
天皇は臣民のことを常に考えている、ありがたいことだ、だから天皇のために尽くさなければならないという宣伝をしていたわけです。

一身を大君に捧げまつることは、もとより私ども臣民の本分である。更に、武人として戦場の華と散ることは、この上ない栄誉といはなければならない。しかも皇恩のありがたさ臣下の霊を神として靖国神社にまつらせたまひ、その遺影をさへ、高く御府に掲げたまうてゐるのである。この事を思ふ時、私どもは、たゞ感涙にむせぶほか、全く言ふべきすべを知らない。(1944年の高等科修身教科書)

戦没者が靖国神社に合祀された後、遺族は御府を拝観していました。
御府は「皇居の靖国」だったのです。

井上亮氏はこのように書いています。

天皇のために死ぬことが栄誉であるとかつてないほど強調されたアジア・太平洋戦争期、戦没者の霊は靖国神社に祀られ、遺影は御府に納められることがその栄誉の裏付けだと教育されていた。御府は靖国神社とセットで国民を戦争へ動員する装置になった。

敗戦になると、写真や戦利品は処分され、御府は廃止されました。
現存している建物は倉庫として利用されているそうですが、御府地区には立ち入ることはできません。

「戦争犠牲者は戦後の平和と繁栄の礎だ」という考えを、一ノ瀬俊也氏は「礎論」と名づけて批判しています(伊藤智永『忘却された支配』)。
戦争で命を落とした人たちは、自分がこの業苦を受忍すれば、日本は平和に栄えるはずと信じて死んだのか。
「礎論」は、生き残った者たちがやましさを取り繕い、因果をすり替えて唱和しているのではないか。
そこには、罪と責任から逃げたい心理が潜んでいる。
これは靖国神社に対する心情と同じだと思います。

追悼と謝罪は、折り合いが良くない。純粋に死者を悼む、その気持ちだけでは、謝らねば、という心境までたどり着かない。祈るなら、まず謝るべきだ、という主張は、往々にして素朴に悼む人たちを遠ざける。追悼は大衆の俗情で、謝罪は思想が陥る過剰な倫理なのか。どちらも和解への手順なのに、互いの道筋が交わらず、日本の中で分裂している。さらに和解の相手が、どちらが「正しい」かを言い出すと、反発が起き、分裂は過熱する。


村山富市首相は戦後五十年談話を出す前、文案を橋本龍太郎通産相に届けると、橋本龍太郎氏は「これでいい」と即答し、一つだけ、文中に「敗戦」と「終戦」が交じっていたのを、「潔く敗戦に統一したほうがいい」と注文したそうです。

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『宗教年鑑 平成28年版』

2017年11月23日 | 仏教

『宗教年鑑 平成28年版』に、宗教法人と信者の数が載っています。
http://www.bunka.go.jp/tokei_hakusho_shuppan/hakusho_nenjihokokusho/shukyo_nenkan/pdf/h28nenkan.pdf#search=%27%E5%AE%97%E6%95%99%E5%B9%B4%E9%91%91+%E5%B9%B3%E6%88%90%EF%BC%92%EF%BC%98%E5%B9%B4%E7%89%88+%E4%BF%A1%E8%80%85%E6%95%B0%27
信者数が100万人を超える教団、宗派です。

神社本庁 77,240,643人(宗教法人の数は一番多い)
出雲大社教 1,262,503人
天台宗 1,363,553人
高野山真言宗 3,831,300人
真言宗豊山派 1,419,052人
浄土宗 6,021,900人
浄土真宗本願寺派 7,922,823人(寺院・教会数は浄土真宗本願寺派HPとは違う)
真宗大谷派 7,918,939人
曹洞宗 3,511,798人(仏教教団の中で寺院数が一番多い)
日蓮宗 3,486,041人
霊友会 1,295,497人
佛所護念会教団 1,145,826人
立正佼成会 2,705,319人
天理教 1,191,422人(2番目に宗教法人が多い)

キリスト教の信者数です。

カトリック中央協議会 443,721人
新教系 514,827人
カトリックとプロテスタントを合わせて100万人ぐらいです。

信者数が100人未満の教団もあげておきます。

大日の本教 38人
日の本教 22人
大自然教 63人
祖神道本庁 80人
真言宗鳳閣寺派 7人(寺院・教会数は7)
現證宗日蓮主義佛立講 70人
霊照教団 81人
彦山修験道 55人
カルバリキリスト教団 20人

ただし、以上の数字は文部科学大臣所轄包括宗教法人のものであって、幸福の科学や創価学会のような文部科学大臣所轄単位宗教法人は含まれていません。


文部科学大臣所轄単位宗教法人で、信者数が100万人以上のものです。

幸福の科学 1100万人
この数は公称で、ピーク時の実数は13万5000人だそうです。
2017年衆議院選挙で立憲民主党は11,084,890の得票で37議席を獲得していますから、信者が1千万人以上であれば、幸福実現党は30議席以上になっているはずです。

創価学会 827万世帯
1世帯3人としても2500万人ということになりますが、実際は250~300万人ぐらいだそうです。

顕正会 167万人

顕正会は日蓮正宗の信者の団体ですが、日蓮正宗は信者数は668,000人です。
http://www.news-postseven.com/archives/20141227_291384.html

宗教法人と信者の数が『宗教年鑑』に載ってます。
おそらく文部科学大臣所轄単位宗教法人の信者数はこの数字には含まれていないと思います。

平成18年 208,845,429人
平成27年 188,892,506人
宗教法人の数はあまり変わらないのに、信者数は10年間で2千万人、1割も減っています。

宗教離れはかなりのものです。

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テッド・チャン『あなたの人生の物語』(2)

2017年11月14日 | 

「地獄とは神の不在なり」
たまに、天使が降臨する世界。
何のために天使が降臨するのかはわからない。
天使が降臨すると、病気が治るなどの奇蹟がある一方、死傷者も大勢出る。
主人公の妻は天使が降臨した際に、割れたガラスに当たって失血死する。
妻は天国に行くが、夫は神を信じていないから地獄に落ちるしかない。
地獄といっても、神と永遠に縁がなくなる以外、人間界と変わらない。
しかし、夫は妻と再会するために天国に行こうとする。
天国の光を見た者は必ず天国に迎えられるので、夫は天国の光を見るために旅をする。
ところが、夫は天国の光で作り直されたにもかかわらず、結局は地獄に落ちる。
地獄に落ちるかどうかは、その人がしたことの結果ではなく、何の理由もない。

この世界の論理は、天国に行くか地獄に落ちるかは神があらかじめ定めていて、本人の信仰や努力は一切関係ない、しかも神の意思を人間が知ることはできないという、カルヴァンの予定説と同じです。

救われるかどうかは決まっていて、善行が意味を持たないのなら、何をしてもいいではないかということになります。

しかし、救われると定められた人間は神のお心にかなう行動をするはずだ、それでプロテスタントは禁欲的に自分の与えられた仕事を勤勉にはげむ。
このようにマックス・ヴェーバーは説明しているそうです。

人生、さまざまな不条理で理不尽な出来事がふりかかります。

真面目にしたからといって報われるとはかぎりません。
宗教とは、不条理な事柄に物語で意味を与えることにより、納得させ、受けとめさせるものだと思います。

カルヴァンの予定説によって人生の理不尽さがなくなるならば、それはそれでOKです。

私はそういう物語を信じようとは思いませんが。

『はじめて読む聖書』で、内田樹氏が哲学者のエマニュエル・レヴィナスについて語っています。

ナチスのユダヤ人虐殺を生きのびたレヴィナスは、なぜ死んだのは他の人で自分ではなかったのか、生き残ったものの責務は何かと問うた。
生き残った人間が「自分が生き残ったことには理由がある」ということを自分自身に納得させるためには、「死者たちがやり残した仕事をやり遂げる」しかない。
そして、仕事を託されたがために自分は生き残ったと思うしかない。

レヴィナスはユダヤ教の宗教文化を再構築することが自分の責務だと考えた。
ナチスによるホロコーストの後、多くのユダヤ人がユダヤ教から離れていった。
レヴィナスは若いユダヤ人たちにこう説いた。

人間が善行をすれば報奨を与え、邪な行いをすれば罰を与える。神というのはそのような単純な勧善懲悪の機能にすぎないというのか。もし、そうだとしたら、神は人間によってコントロール可能な存在だということになる。人間が自分の意思によって、好きなように左右することができるようなものであるとしたら、どうしてそのようなものを信仰の対象となしえようか。神は地上の出来事には介入してこない。神が真にその威徳にふさわしいものであるのだとすれば、それは神が不在のときでも、神の支援がなくても、それでもなお地上に正義を実現しうるほどの霊的成熟を果たし得る存在を創造したこと以外にありえない。神なしでも神が臨在するときと変わらぬほどに粛々と神の計画を実現できる存在を創造したという事実だけが、神の存在を証しだてる。


レヴィナスの考えはすごく説得力があると思いましたが、しかし神の不在、もしくは神が何もしないことをこのような形で意味づけしているようにも感じます。
神は世界を創造した後はほったらかしなのでしょうか。

田川建三氏が国際基督教大学で講師をしていたとき、毎週行われる礼拝でこんな説教したそうです。(『はじめて読む聖書』)

神は存在しない。神が存在するなぞと思うな。ただ、古代や中世で神を信ぜざるをえなかった人たちの心は理解しようではないか。
クリスチャンが考えている神は人によって全然違う。
神とはそれぞれの人間が勝手にでっちあげるイメージだから、それならむしろ、神なんぞ存在しないと言い切る方がクリスチャンらしいじゃないかということです。


田川建三氏は無神論というより不可知論だそうです。

私が不可知論と言うのは、知らないことについては、とことんまで何も言うな、ということです。少なくともその方が謙虚だと思います。わからない巨大な無限なものが向こうに広がっているというんだったら、正直に、その先はわからないのです、と言って、あとは黙って頭を下げればいいじゃないですか。

意味づけをしないということだと、勝手に解釈しました。

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テッド・チャン『あなたの人生の物語』(1)

2017年11月10日 | 


フィリップ・K・ディックの小説には、他の人がはたして人間なのか、それともアンドロイドなのか、さらには自分もアンドロイドで、記憶を植えつけられて人間だと思っているのではないか、ということをテーマにしたものがあります。

フィリップ・K・ディックの小説が原作の『ブレードランナー』も、人間とは何か、アンドロイドとの違いは何かという実存的な問題提起がなされています。
『ブレードランナー 2049』はレプリカントと人間の違いがもっと曖昧になっていて、もし続編が作られるとしたら『ターミネーター』の未来の世界のようになるんじゃないかと思います。

『ブレードランナー 2049』の監督であるドゥニ・ヴィルヌーヴの作品はいずれも哲学的な問題がテーマとなっています。

『メッセージ』もそうで、原作はどんなんだろうと思い、テッド・チャン『あなたの人生の物語』を図書館で借りました。
9篇の中短編は、いずれも哲学的、宗教的です。
3篇をご紹介。

「顔の美醜について」

カリーという美醜失認処置をつければ、美人とブスの違いがわからなくなる。
容姿よりも人間性や知性が大切にされる世界です。

ある大学で、新入生は恵まれない顔立ちの人びとに対する偏見、容貌差別への対応としてカリーをつけなければいけないという議案が提唱される。
この議案には過半数の生徒が支持していたが、化粧品業界が後ろにいる団体のスピーチの影響で、議案は否決される。
このスピーチはデジタル操作が行われており、視聴者の感情的反応を最大化し、効果を増大するために、声の抑揚、顔の表情などを調整するソフトが使われていた。

まず問題となるのはメディアによる情報操作、洗脳ということです。
たとえば、ロシアがツイッターやフェイスブックを利用してアメリカの大統領選挙に介入したことによってトランプが当選したという疑惑。
あるいは、ネトウヨのコメントには自民党からお金が出るという話。
http://tocana.jp/2017/09/post_13806_entry.html

会社の新入教育でも、社是を大声で言わせ、「声が小さい」と怒鳴っては何度も繰り返させるそうですが、これは一種のマインドコントロールです。

長時間のサービス残業をしたり、上司からパワハラを受けたり、さらには会社のために法律に触れることもしても、それがおかしいとは思わなくなるのも洗脳の一種です。

そして、美醜についての偏見、差別という問題。

ユニリーバがFacebookで公開した、黒人女性が着替えると白人女性に変身するという「Dove(ダブ)」の動画が炎上したので、削除して謝罪しています。
http://nlab.itmedia.co.jp/nl/articles/1710/10/news118.html



考えてみると、ロゼット化粧品のCM「白子さんと黒子さん」だって似たようなもんです。


https://rosette.jp/u/cafe/story03.php

私たちは人や物事を偏見なしに見ることができません。

見た目で判断しがちで、美人だったら欠点を見逃すこともあります。
顔に自信のない人は行動にも自信のなさが表れます。

グレアム・グリーン『情事の終り』に、生まれつき顔に赤アザがある男が出てきますが、カリーがあれば誰もアザを気にしないわけで、この男が無神論者になることもなかったでしょう。

差別、偏見をなくすためには美醜が分からないほうがいいような気がします。

でも、美人画を見ても何とも思わなかったり、マリリン・モンローがセックスシンボルでなくなるというのも寂しい話です。

「あなたの人生の物語」
ネタバレになるんですが、
宇宙人の言語を学んだ主人公は過去や未来を現在と同じように体験することができるようになる。

秋吉輝雄氏(『はじめて読む聖書』)によると、ヘブライ語は過去・現在・未来の区別がない、時制のない言葉だそうです。

ユダヤ教の時間では、起こったことは全部、起こったことであると同時に起こりつつあることで、天地創造の物語も、神のなさった過去の偉大なる御わざというよりは、いままさに眼前で行われている感じだとのこと。
「あなたの人生の物語」の時間論というか、宇宙人の感覚はこれなのではないかと思いました。

主人公は娘が生まれ、そして25歳で死ぬことを知っている。

死ぬことが分かっていながら、子供を産む。

主人公は子供がいない現在と子供がいる過去を同時に生きているので、この選択はありです。

しかし、そういう芸当のできない私たちが、未来がどうなるか分かって、その未来の中には子供が死ぬというようなこともあって、それでもその未来を選ぶかどうか。
これは、子供との25年間を選ぶか、子供そのものが存在しない世界を選ぶか、ということでもあります。
これまた難問です。

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強制連行

2017年11月07日 | 日記

在日は勝手に日本に来たんだから、日本が嫌いならさっさと帰れと、ネットに書き込む人がいます。

1910年の朝鮮併合のあと、1910年から1918年にかけて朝鮮総督府は土地調査による土地所有権の確認を行い、届け出のなかったことを理由に、村の共有地や全耕作地の半分以上、山林を官有地として接収しました。
そして、その一部を東洋拓殖会社(1908年設立)や日本人などに安い値段で払い下げています。
そのため、1919年には農民の約77%が自小作農・小作農になり、土地を奪われた朝鮮人の中には、職を求めて満州や日本に移る者が増えました。

強制連行によって日本に連れて来られた人も大勢います。

伊藤智永『忘却された支配』は、戦時中、日本各地の鉱山、発電所、鉄道、港湾、軍事施設の工事・作業現場に、朝鮮から強制連行して働かされた現地をレポートしたものです。

朝鮮から約80万人の朝鮮人が強制動員された。

軍人・軍属は約36万人。

朝鮮人が自分から応募した「募集」は1939年に始まった。

募集の実態は、日本政府が時期・地方ごとに「調達人数」を決め、各企業の労務担当者が現地に出張し、各地の警察組織を通じて、表向きには朝鮮人役職者たちが、集落ごとの指名や割り当てといった形で頭数をそろえ、強圧的に出頭させ、集団で内地に連れ帰った。
1940年には過酷さが知られて集まらなくなり、行政と警察が強圧的に集めた。

1942年から、朝鮮総督府が動員を受け持つ「官斡旋」という制度に切り替わり、老人や病弱者まで連行された。

1944年からが「徴用」、法律に基づく強制連行がなされた。

中国人の強制連行は1944年から本格化した。

3万8935人が連行され、鉱山、土木建設、造船、港湾荷役などで労役を課せられ、6830人が死亡した。
具体的数字が明らかなのは、敗戦後、連合国側からの追及に備え、詳細な実態調査を行なったからである。
1993年、NHKの取材で報告書が世に出たことによって、損害賠償請求訴訟が提起された。

戦後、「徴用」「雇傭」ではなく、あえて「強制連行」と呼ぶのは、有無を言わさず行かされた実態を表すためである。


国の「募集」「斡旋」とはいえ、民間会社が雇用した形だった。

民間業者が労働者を大がかりに移動させ、使い回していた。

炭坑では、女は男より賃金が安く、朝鮮人は女よりさらに安かった。

逃亡は数知れず、ほとんどは捕まって半死半生、時には殺された。

北海道の炭坑から鹿児島の万世に移動させられた朝鮮人は、一度に750人が貨車に詰め込まれ、5日がかりで運ばれた。

すし詰め状態だったため、万世駅に着いた時は、貨車から降ろされてもほとんどの人がすぐには歩けなかった。
低劣な環境で長距離を移動させられた飢えと疲労が、犠牲者を多く出した原因になった。
まるでナチスの強制収容所に送られるユダヤ人のようです。

ただし、朝鮮人戦時動員のすべてが強制連行だというわけではないそうです。

無理強いされたと思っていなかった人、日本での生活はおもしろかったと回想する人、仕方なかったと語る人もいるとのことです。
とはいっても、なぜ多くの朝鮮・韓国人が日本にやって来たのか、その歴史を知らずに「帰れ」と言うのは何なのかと思います。

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チャイタニヤ・タームハネー『裁き』

2017年11月01日 | 映画

チャイタニヤ・タームハネー『裁き』は最初に、野外の舞台で老いた歌手が政治批判の歌を歌っていると、警察官がやって来て逮捕します。
丁々発止の裁判劇になるのかと思ってたら、弁護士や女検事の日常が長々映し出され、それが伏線というわけでもありません。

チャイタニヤ・タームハネー監督はインタビューでこう語っています。

カーストは目に見えない無意識の力として、この映画全体に作用している。インドのカースト制度は、この場で説明するにはあまりにも複雑過ぎるので言及を控えるけど、映画の中に人の姓を読むシーンをたくさん入れたということだけ言っておく。この映画の登場人物の姓は社会階層を表しているんだ。(略)食べ物もカーストや階級を表現する重要なメタファーになった。その人がどこに住み、何を食べるかは、社会におけるその人の場所を理解するための重要なツールになると思う。

http://eiga.com/news/20170707/16/

『裁き』は、裁判を通してインド社会、カースト制度や民族・言語の違い、職業差別などを描いているのでしょう。
でも、どうもよくわからないので、インドに詳しい人の解説が聞きたいと思ってたら、「アジア映画巡礼」というブログがあり、すごく詳しく説明してありました。
http://blog.goo.ne.jp/cinemaasia/s/%E8%A3%81%E3%81%8D

65歳の歌手カンブレが「ワドガオン虐殺抗議集会」(字幕での説明はない)で、「社会はこんなにも混乱し、矛盾している」「その中で重圧は最下層にいる我らへ押し寄せる」「立て、反乱の時はきた」「己の敵を知る時だ」と歌っている途中で逮捕されます。


舞台の横断幕の左右に写真が貼ってあり、この写真で被差別カースト、つまり「ダリト」(「抑圧された者」という意味、指定カースト)の集会だとわかるそうです。

左側の写真がアンベードカル(インド憲法の父)で、右側が被差別カースト出身のアンナーバーウー・サーテー)とムスリムのアマルシェークという民衆詩人。
http://blog.goo.ne.jp/cinemaasia/e/4049790e00217c1567bdede6eb365cee

弁護士とスボードが警察(?)で尋ねると、自殺幇助罪の容疑だと言われます。

カンブレが歌う「下水清掃人は下水道で窒息しろ」という趣旨の歌を聴いた下水清掃人が自殺したからだと言うのです。

カンブレの裁判で、弁護士がマラーティー語ではなく英語かヒンディー語で話してほしいと裁判長に頼みます。

ムンバイに住んでいるのにマラーティー語が聞き取れないわけです。
弁護士のヴォーラーという姓は、パンフレットの石田英明先生の説明によると、グジャラート州の商人カーストに多い名前だそうです。
http://blog.goo.ne.jp/cinemaasia/e/e740bb6826325fdb838d7aa2e6593ebc

この弁護士は父がマンションの所有者で、裕福な家庭です。

高級食品スーパーで買い物をしたり、ナイトライフを楽しむ独身貴族でもあります。
http://blog.goo.ne.jp/cinemaasia/e/ae0ffd23aa514882e106ea9ebc8b874c

それに対して、女性検事は中流(の下ぐらい)家庭だそうで、つつましい生活を送っています。

休日に検事一家4人は食堂でランチを食べます。
弁護士一家4人が食べる場所はレストラン。
食堂とレストランの違いは、真っ白なテーブルクロスが敷かれているかどうかだそうです。
http://blog.goo.ne.jp/cinemaasia/e/93e7a7452dfbcbc973365530b39b6f9d

食事の後、検事一家は芝居を見にいきます。

どんな内容かというと、娘が北インドからムンバイに来た男と結婚したいと連れてきますが、父親は男を追い出し、移民は出て行け、マハーラーシュトラ州はマラーター人のものだみたいなことを言っておしまい、観客は拍手喝采。

移民といっても外国人ではなく、国内の他の州から移ってきた人のことです。

検事にとって、グジャラート州出身の弁護士は追い出されるべき移民なわけです。

カーストのことに話は戻って、スボードは弁護士の助手かと思ってたら、依頼人で、ダリト(不可触民)だそうです。

弁護士の家に行くと、弁護士の両親から「テーブルに座って一緒に食べて」と言われ、スボードは断るのですが、結局は母親に押し切られてテーブルにつきます。

「アジア映画巡礼」には、この場面は冷や汗シーンだとあります。

カースト制度を厳格に守っている人にとって、ダリトの人と同じテーブルで食事をするのは何よりも避けたいことだからです。

しかし、監督のインタビューを読むと、インドの観客は名前や言葉でこの人はどのカーストで、どの出身で、職業は何かが分かるんじゃないかと思います。

ですから、弁護士の両親はスボートに名前や出身地などを聞いているので、スボードがダリトだとバレてるんじゃないでしょうか。
http://blog.goo.ne.jp/cinemaasia/e/85b67de6cf31127b3d8596dba2dcef32

インドにはジャーティと呼ばれる職業別の身分差別があり、ジャーティの数は数千にも分類されているそうです。

汚れを扱う洗濯屋やごみ拾い、清掃人などは特に汚い存在として差別されています。

検事は、下水清掃人は下水道で発生するガスの危険性を熟知しているため、装備なしに入ることはない、安全装備を身につけていなかったから自殺だと主張します。

しかし弁護士は故人の妻から、夫が普段から安全装備なしで清掃作業をしていた、毎日酒を飲んで下水に入っていったが、においをごまかすためだという証言を引き出します。

大場正明氏によると、チャイタニヤ・タームハネー監督は下水清掃人の過酷な環境について書いた記事に触発されたそうです。

2007年の時点で、インド全土で毎年少なくとも22,327人の男女が公衆衛生に関わる仕事で命を落としており、マンホールで毎日少なくとも2~3人の労働者が死亡している。
http://www.newsweekjapan.jp/ooba/2017/07/post-40_1.php
『裁き』の裁判では、下水清掃人の置かれた状況が明らかにされますが、裁判ではまったく問題にされていません。

裁判は毎回、短時間の審理で、「次は1カ月後に」でおしまい。

検事はカンブレが100年前の禁書を持っていることを問題にするし、目撃証人は1人だけで、しかも他の裁判でも証人になっている、いわばプロ証人。
検事は同僚との会話で、「(カンブレは)懲役20年でいいのよ」と無茶なことを言う。
弁護士が被告は病を抱えているので保釈してほしいと願い出ても、裁判官はカンブレが支払うことのできない高額の保釈金を宣告します。

下水清掃人の妻がやっと裁判に出廷し、夫は自殺するようには見えなかったと証言。

カンブレは無罪になったのか、保釈で出たのか、そこらはよくわかりませんが、冊子を印刷する工場から警察に再び連行されます。

映画の初めのほうで、弁護士がムンバイ報道協会での講演で、警察によるでっち上げ事件と、別件を口実にした再逮捕の連鎖について語りますが、カンブレも同じ。
カンブレの逮捕は反体制派への不当弾圧なわけです。

今度の罪状はテロ活動をしているという容疑です。

長々とどうでもいいことを読み上げる検事に対して、弁護士が「どこに爆弾や殺人兵器があるんですか」とか質問すると、検事は「爆弾や兵器を含む全てのものです」とか、わけの分からない説明(忘れた)をします。

裁判官は地裁は1カ月の休暇だと宣言し、人々が法廷から出て、電気が消されます。

これで映画が終わるのかと思ったら、休暇をリゾート地で過ごす裁判官の話になります。
若い父親に子供のことを裁判官が聞くと、男性は子供がしゃべることができない、療法士に期待していると答え、裁判官は「いい占い師に相談して名前を変えなさい」と言い、そして中指に黄瑪瑙(だったと思う)の指輪をしなさいと勧めます。

「アジア映画巡礼」によると、インドのほとんどの人は占星術を使う占い師に何かにつけて頼るのが常で
、どの石をどの指にはめるかも占い師に教えてもらうそうです。
http://blog.goo.ne.jp/cinemaasia/e/15d94d9d7d0058cfc6c744a363ba89a5
こんな脱力シーンで『裁き』は終わります。

先日、初めて裁判の傍聴に行きました。

判決の言い渡しが3件、いずれも判決文を読み上げ、被告に説明して、5分程度でおしまい。
部屋が明るくて、映画で見る法廷とは印象が違ってました。

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