三日坊主日記

本を読んだり、映画を見たり、宗教を考えたり、死刑や厳罰化を危惧したり。

松沢裕作『生きづらい明治社会』(1)

2019年11月25日 | 

司馬遼太郎さんの影響なのか、明治の日本を美化する人がいます。
しかし、松沢裕作『生きづらい明治社会』を読むと、貧しい暮らしを強いられている人が大勢いることがわかります。

大隈重信によるインフレ政策で、農家のなかには土地を担保にして借金し、経営規模を拡大しようとした人たちがいた。
ところが、明治14年(1881年)、大隈重信が失脚して松方正義が大蔵卿に任命されると、緊縮財政を行い、間接税の導入や増税を行なった。
松方デフレで繭の価格や米の価格などの農産物価格が下落し、農村の窮乏を招いた。
繭の価格の下落は激しく、借金を返せなくなった農家は土地を失ってしまった。

江戸時代は年貢の村請制度があった。
年貢は村単位で納めなければならないので、年貢を払えない人がいた場合、豊かな人がその人の分を肩代わりしなくてはいけなかった。
もちろん、豊かな人が喜んで他人の年貢を払ったわけではありません。
仕方なしであっても、ある程度の相互扶助がなされていたそうです。

明治になると、地租改正によって村請制度は廃止され、人びとを無理に助け合わせる仕組みが消滅した。
しかも、金がない政府は貧困に陥った人を助けるための予算がない。
それで秩父困民党のような、借金の返済を延ばすか借金の額を減らしてほしいという負債農民騒擾が各地で起きた。
土地を失った農民は小作農となったが、一部は都市に流入し、日雇い労働や人力車夫などに従事し、貧民窟で暮らすことになる。

貧富の差はきわめて大きいです。
明治10年(1877年)、修史館に勤めた塚本明毅は年給1800円で、それまでの月給250円から減額した。(塚本学『塚本明毅』)
川田剛一等編修官は月に150円あまりで、家の食費と僕婢の雇賃が75円、川田剛の小遣いが30円だと、依田学海の『学海日録』にあるそうです。
明治8年(1875年)の府県巡査の初任給は4円。 4円が現在の16万円だとしても、川田剛のこずかいは月に120万円です。
http://sirakawa.b.la9.jp/Coin/J077.htm

湯沢雍彦『明治の結婚 明治の離婚』によると、明治20年(1887年)ごろは、遊郭に売られた女性の前借金は80円ないし100円前後で、平成17年の65万円ないし80万円程度だそうです。
しかし、巡査の初任給が明治18年(1885年)に6円、明治23年(1890年)に大工の手間賃が1日50銭、大卒の初任給が18円、国家公務員の初任給が50円ですから、現在はその1~3万倍とすると、庶民の金銭感覚では、娘を売った金額は2~300万円となります。
お金の価値が金持ちと貧乏人とでは全然違うということでしょう。

日清戦争(明治27年~28年)以前、日本政府の財政規模は年8千万円前後だった。
日清戦争の戦費は国家歳入の3倍以上。
清国から日本に約3億円の賠償金が支払われたが、その賠償金を国民の生活のために使ったわけではない。
軍備の増強を最優先し、賠償金の84.7%は軍事費に回され、軍事産業や交通・通信網の整備が進められた。
そのため、明治29年(1896)からの歳出額は3倍に膨れ上がった。
間接消費税が導入され、物価が急上昇した。
明治26年(1893年)を100とした労働賃金は明治31年(1898年)には147に上昇したが、白米の小売価格は100から193へと跳ね上がり、物価の値上がりには追いつかなかった。

明治31年(1898年)、汽車製造会社の職工の賃金は、最高日給が1円10銭、平均50銭。(老川慶喜『井上勝』)
あるサイトによると、明治30年頃の物価と今の物価を比べると3800倍ぐらいだが、小学校の教員や巡査の初任給は月に8~9円ぐらい、大工や工場のベテラン技術者で月20円ぐらいなので、庶民にとっての1円は現在の2万円ぐらいとあります。
https://manabow.com/zatsugaku/column06/

明治45年(1912年)、ある農家は家族5人が働いても年に8円の赤字になる。
小作だと、年に70円の赤字。
地主から5円や10円の金を借りるが、借金が貯まったところで担保となっている土地を取り上げられる。

教育はどうでしょうか。
『明治の結婚 明治の離婚』によると、江戸時代は寺小屋に通う子供が多かったので識字率が高かったと言われるが、自分の名前を書けない者が、明治15年(1882年)に群馬県では男20%、女80%、明治20年(1887年)の岡山県では男34%、女58%もいた。
就学率は、明治6年(1873年)が29%、明治18年(1885年)が50%に達した。
もっとも、これには水増し報告が含まれていたといわれる。
進級・卒業試験が行われており、学年ごとの卒業試験の合格率は平均40%程度。
中途で退学する児童が少なくなく、明治13年(1880年)に小学4年生を卒業できた者は20%程度で、公表されていた就学率40%の半分だった。

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日本の自殺

2019年11月17日 | 日記
消防現場で横行するパワハラ・セクハラ 厳しい上下関係、閉鎖的環境が影響か
神戸市の市立小学校で教諭4人が同僚教諭に激しい「いじめ」を加えたことが社会問題化する中、今度は消防署を舞台にした陰湿な事案が明るみに出た。大阪府茨木市消防本部は12日、血圧計で後輩の首を強く圧迫したり消防車に逆さづりにしたりしたとして、33~47歳の男性救急救命士3人を懲戒免職処分にした。消防職場ではパワハラやセクハラが相次ぎ、総務省消防庁が2年前から対策を本格化させているところだった。
2016年に千葉県消防学校で体罰が続いたことなどで、消防庁は17年2月から検討会を開いて対策に乗り出した。実態を調査する4000人対象のアンケートでは、16年に「無視される」「殴られる」などの被害に遭った男性隊員が17.5%に上るなど、パワハラが横行。検討会では、上下関係が他の職場より厳しく、閉鎖的な職場環境であること▽24時間同じ隊員と過ごすこと――などの要因から「ハラスメントが起こりやすい環境」であると結論付けていた。(毎日新聞2019年11月13日)

会社などでのパワハラという暴力、学校のクラブ活動などでの体罰という暴力、これは指導のために暴力を振るうという日本軍の悪しき体質が今も生きているように感じます。

吉田裕『日本軍兵士』に、憲兵司令部「最近における軍人軍属の自殺について」(1938年)が引用されています。
陸海軍の軍人・軍属の自殺者は毎年120人内外、最近10年で1230人が自殺している。
軍人、軍属10万人に対して30人強に当り、一般国民の自殺率よりやや高い。

日本国民の自殺率は世界一であるから、日本の軍隊が世界で一番自殺率が高いということになる。

軍隊で自殺が多いのは、内務班(兵営の中で兵士が起居する区画)での古参兵や下士官による私的制裁という暴力が常態化していたことがある。

1938年以降、どれだけの日本兵が自殺したかはわからないが、数多くの兵士が自ら命を絶ったことは間違いない。
硫黄島では戦死者の6割が自殺だったと想われる。
1940年には、徴兵検査の基準が大幅に引き下げられた。
身体的だけでなく精神的な問題を抱えている青年(知的障害者など)も徴集された。
知的障害は3~4%に達した。
軍務に適応できない彼らは脱走や自殺が多かった。
このように吉田裕さんは書いています。

ウィキペディアによると、大正14年から昭和12年まで10万人中の自殺率は20人以上が続き、昭和11年(1936年)が一番高く22人です。
世界一ではないですが、かなり高い。
自殺者数が一番多かった平成15年(2003年)は自殺率27人。

https://honkawa2.sakura.ne.jp/2774.html

昭和30年代前半は自殺者が3万人を超えた2000年代と自殺率はほぼ同じ。
不景気だと自殺者が多いそうです。

https://www.sbbit.jp/article/cont1/35182
平成30年(2018年)は16.5人でした。
戦前の日本がそんなよかったわけでもないし、現代日本の状況は軍隊とさほど変わらないのかもしれません。

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門田隆将『オウム死刑囚 魂の遍歴 井上嘉浩すべての罪はわが身にあり』

2019年11月09日 | 

「週刊新潮」は河野義行さんを松本サリン事件の犯人扱いし、ボロクソ書きました。
他のマスコミは謝罪したのに、新潮社は謝罪していません。
1995年に門田隆将氏は週刊新潮の特集部デスクだったそうです。
『オウム死刑囚 魂の遍歴』は松本サリン事件についても触れていますが、「週刊新潮」が河野義行さんを誹謗中傷したこと、いまだに謝罪していないことは書かれていません。
そんな門田隆将氏にオウム真理教について書く資格があるのかと思います。

井上嘉浩さんが逮捕されてしばらくして、公安の警部補から門田隆将氏に電話があり、取調中の井上嘉浩さんのことを警部補から聞いたと、『オウム死刑囚 魂の遍歴』の冒頭に書いています。
警察がマスコミに内部情報をもらしたわけです。
いくら警部補が死んでいるからといって、実名を出すのは職業倫理にもとるのではないかと思います。

坂本弁護士一家が行方不明になった際の捜査がおざなりだったこと、オウム真理教への捜査が遅れたために地下鉄サリン事件が起きたことなど、警察批判も書かれてはいます。

気になったのが、井上嘉浩さんを美化しすぎているように感じたこと。
麻原彰晃に疑問を持ち、批判的だった。
教団の地位はさほど高くなく、影響力もない。
多くの事件について知らなかった、など。

本当だろうかと思ってしまいます。
というのも、裁判における井上嘉浩さんと他の被告の証言に食い違いがありました。
みんなが嘘を言い、井上嘉浩さんだけが真実を語ったのでしょうか。
ウィキペディアを見ると、井上嘉浩さんに批判的なことが書かれています。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%95%E4%B8%8A%E5%98%89%E6%B5%A9

門田隆将氏は井上嘉浩さんが罪を悔い、償おうとしたことを強調しています。
他の死刑囚は自分の罪を悔いていないのかと思ってしまいますが、そんなことはありません。

それと、井上嘉浩さんは真宗に帰依したそうですが、瞑想などがやっぱり好きなようで、念仏一つだとは思えません。

文句ばかり書きましたが、そうなのかと思ったことが一つあります。
1988年(昭和63年)、麻原彰晃たちがカーギュ派のカール・リンポチェと会った時のことが書かれています。
上祐史浩氏の話。

麻原がリンポチェ師に質問するわけです。自分はこういう体験をした、こんな瞑想体験をした、と。すると、リンポチェ師はそれに対して、すばらしい体験だと称賛するんじゃなくて、体験は解脱ではないんだ、というわけです。体験をコントロールできることが解脱なんだと、くり返し言うわけです。
それに対して、麻原は非常に不服そうでした。麻原オウムというのは、神秘体験中心主義みたいなところがあって、そういうところで麻原は自分の体験を認めてもらいたい、その価値を確認したいという気持ちがあったんだと思うんです。しかし、リンポチェ師に話したら、それは解脱じゃないんだよ、ということで、諭すように言ったわけです。

麻原彰晃が神秘体験を重要視していたことがわかる話です。
同時に、神秘体験と覚りとは別だということもわかります。

それにしても、麻原彰晃は片目が見えず、もう片方が弱視なのに、ヨガなどについてどうやって学び、修行法を編み出したのか不思議です。

コメント (7)
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