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三日坊主日記

本を読んだり、映画を見たり、宗教を考えたり、死刑や厳罰化を危惧したり。

林博史『華僑虐殺』

2022年01月19日 | 戦争

1942年2月、日本軍によるシンガポール占領後、シンガポールやマライ半島で華僑(中国系住民)が虐殺されました。
シンガポールでは4~5万人、マラヤ全土では10万人が殺されたといわれています。
まったく知りませんでした。

林博史『華僑虐殺』(1992年刊)は、主に1942年3月のネグリセンビラン州での虐殺について詳しく書かれています。

非武装で無抵抗の一般住民約3千人(女性、子供、老人を含む)が殺戮された。
日本が降伏した後もマラッカなどで民間人の虐殺がなされた。
日本兵が赤ん坊を放り投げて銃剣で突き刺すのを見た人が何人もいる。
『華僑虐殺』には生き残った人たちの証言が延々と書かれていて、なんとも言えぬ気持ちになりました。

日本軍が戦争裁判対策に作成した「極秘 新嘉坡に於ける華僑処断状況調書」に、シンガポールの粛清、マレー半島での粛清について次の主張がされている。
①マレー作戦中の華僑の妨害活動
②占領後、華僑がゲリラ戦に出ようとしたことによる治安の悪化
③日本軍主力の転用による警備兵力の減少
④殺害は交戦中にやむなくおこなったもの

また、処断したのは好日義勇軍華僑連合会幹部、マラヤ共産党員の「通敵行為者を主体」とした約5000名であり、一般市民を殺害したのではないと強弁している。

しかし、マレーシアでの華僑虐殺の事実は、日本軍の公文書である陣中日誌でも、日本兵の証言によっても裏付けられている。
シンガポールでの虐殺も、将校を含めた日本軍関係者も事実そのものを認めている。

粛清をおこなった理由、その背景について林博史さんはこのように論じています。

日本の中国への侵略の延長上に東南アジアへの侵略戦争があった。
資源を求めてマラヤなど東南アジアを占領し、日本の領土にしようとした日本軍や政府には「アジアの開放」という考えはなかった。

侵略軍の常として、被占領者から反発を受けると、住民一般を敵視し、住民すべてが反対者のように見えてしまう。
マラヤの場合、とりわけ中国人がそのように見られていた。

住民の武装抵抗はゲリラという形をとる。
ゲリラは住民の支持をうけ、しばしば住民のなかにもぐりこんで活動する。
占領軍はゲリラと住民の区別がつかないため、住民はすべてゲリラの支持者・同調者に見えてくる。
その結果、ゲリラを掃蕩するという名のもとに住民を無差別に殺戮する。

日本軍による「現地処分」「厳重処分」が一般におこなわれるようになったのは、満州事変の時からである。
匪賊討伐の際にとられた方法が臨陣格殺、すなわち「討伐にあたり状況によってはその場の高級警察官の判断により即座に相手を殺害できる」というものだった。
抗日ゲリラなどの粛清にあたって、捕らえた者はその場で殺害してもよいという法律である。

ゲリラだけでなく、一般住民まで無差別に殺害していたことは日本軍が認めている。
この「厳重処分」は中国全土に適用され、当然のことと考えられるようになった。
その経験が東南アジア各地にも適用された。

マレー半島の大部分の粛清を担当した第五師団は、盧溝橋事件が勃発すると華北に派遣され、1940年末まで中国の北から南、ベトナムまで激戦地に投入された。
第五師団は占領地の警備にあたり、掃蕩戦・治安粛清作戦をくりかえし、略奪や放火は当たり前のこととしておこなわれた。
中国戦線での経験はマレー半島での粛清にも持ち込まれた。

中国本土での残虐行為、マラヤでの華僑虐殺の根底に中国人に対する差別観、蔑視観がある。
長年にわたって日本の侵略に耐え、抵抗してきた中国人の力を警戒し無視できない。
中国人を日本人より下だと見下しながら、同時に日本に対して抵抗する力を恐れた。
見下している者が逆らうからこそ、徹底的に痛めつけ、時には虐殺をおこなう。

マレー人に対する差別観はマレー人に対してだけでなく、東南アジア各地の諸民族に対して共通のものである。
徹底して蔑視し、マレー人は無気力で、日本に歯向かう意志も力もないとバカにした。

竹田光次陸軍中佐『南方の軍政』は、「南方原住民の性格」について、「本能と欲望のまにまに生活してゆくだけで、これを制する意志能力も薄弱である」などと決めつけている。

日本人の東南アジアに対する差別観は、ヨーロッパ人のアフリカ人観と共通していると思います。
『改訂新版 新書アフリカ史』に松田素二さんはこう書いています。

ヨーロッパが主導する近代世界システムにからめとられたアフリカは、ヨーロッパの帝国主義と植民地主義によって一方的に蹂躙され、深い傷を負わされた。

現代世界の精神と制度の基礎を形作った理性と啓蒙の18世紀は、人類史上最悪の奴隷売買の世紀だった。
アフリカ西海岸から送り出された奴隷の数は、18世紀だけで560万人を超える。

イギリスの王立アフリカ会社の外科医ジェイムズ・ふーとソンは1722年にシエラレオネを訪れた際の黒人の印象を、「黒人の習慣は同じこの地で仲よく暮らしている生き物にそっくりである。つまり猿である」とまとめている。

カルル・リンネは『自然の体系』(1735年)の中で、人類をホモ・サピエンスとホモ・モンストロスス(怪異なヒト)の二種に区別し、アフリカ人ら「原始的な人間」を後者に分類した。

アメリカ大統領トーマス・ジェファーソンは『バージニア覚書』(1785年)で、黒人の人種的劣等性を強調し、その劣等性ゆえに黒人は奴隷制を受容したのであり、アメリカ国民(白人)の責任ではないと述べた。

フランスの人類学者ジョゼフ・アルテュール・ド・ゴビノー伯爵(1816年~1882年)は『人種不平等論』で、アフリカ人の劣等性を直截に「黒色人種は最低であり、人種序列の階段の下に立っている。受胎したときから、動物的な特徴がニグロに刻印され、その知能は常にきわめて狭い枠の中から出ることはないだろう」と語る。

医師であり宣教師であるデイビッド・リビングストン(1813年~1873年)は「我々は、彼ら(アフリカ人)のもとへ優等人種の一員として来たのであり、人類のうちでもっとも堕落した部分を向上させようと欲している政府に対する奉仕者として来た。私は神の化身、もしくはそうなりたい。神聖で慈悲深い宗教の力で、いまだ混乱し、破滅に瀕した人種のための平和の告知者となりたい」と述べている。

松田素二さんは次のように指摘しています。

誰が見ても明らかな「人道に対する重大な罪」に対して、これまで加害者であるヨーロッパが被害者であるアフリカに「謝罪」を表明したことはない。ましてや「被害の補償」などはされていない。
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福沢諭吉『脱亜論』

2021年04月08日 | 戦争

永江朗『私は本屋が好きでした』の続きとして福沢諭吉『脱亜論』について書こうと思ってて忘れてました。
というのが、嫌韓嫌中本の元祖は『脱亜論』(『時事新報』明治18年3月16日)ではないかと思うからです。

『脱亜論』の現代語訳はネットで読むことができます。
https://ja.wikisource.org/wiki/%E8%84%B1%E4%BA%9C%E8%AB%96
後半にこんな主張がなされています。

わが日本の国土はアジアの東端に位置するのであるが、国民の精神は既にアジアの旧習を脱し、西洋の文明に移っている。しかしここに不幸なのは、隣国があり、その一を支那といい、一を朝鮮という。(略)
人種の由来が特別なのか、または同様の政治・宗教・風俗のなかにいながら、遺伝した教育に違うものがあるためか、日・支・韓の三国を並べれば、日本に比べれば支那・韓国はよほど似ているのである。この二国の者たちは、自分の身の上についても、また自分の国に関しても、改革や進歩の道を知らない。(略)
その古くさい慣習にしがみつくありさまは、百千年の昔とおなじである。現在の、文明日に日に新たな活劇の場に、教育を論じれば儒教主義といい、学校で教えるべきは仁義礼智といい、一から十まで外見の虚飾ばかりにこだわり、実際においては真理や原則をわきまえることがない。そればかりか、道徳さえ地を掃いたように消えはてて残酷破廉恥を極め、なお傲然として自省の念など持たない者のようだ。(略)
今の支那朝鮮はわが日本のために髪一本ほどの役にも立たない。のみならず、西洋文明人の眼から見れば、三国が地理的に近接しているため、時には三国を同一視し、支那・韓国の評価で、わが日本を判断するということもありえるのだ。例えば、支那、朝鮮の政府が昔どおり専制で、法律は信頼できなければ、西洋の人は、日本もまた無法律の国かと疑うだろう。支那、朝鮮の人が迷信深く、科学の何かを知らなければ、西洋の学者は日本もまた陰陽五行の国かと思うに違いない。支那人が卑屈で恥を知らなければ、日本人の義侠もその影に隠れ、朝鮮国に残酷な刑罰があれば、日本人もまた無情と推量されるのだ。事例をかぞえれば、枚挙にいとまがない。喩えるならば、軒を並べたある村や町内の者たちが、愚かで無法、しかも残忍で無情なときは、たまたまその町村内の、ある家の人が正当に振るまおうと注意しても、他人の悪行に隠れて埋没するようなものだ。(略)
支那、朝鮮に接する方法も、隣国だからと特別の配慮をすることなく、まさに西洋人がこれに接するように処置すべきである。悪友と親しく交わる者も、また悪名を免れない。筆者は心の中で、東アジアの悪友を謝絶するものである。


日本が初めて外国と戦争をしたのは日清戦争(明治27年8月1日~明治28年4月17日)です。
甲午農民戦争(東学農民戦争)をきっかけに日本は6月2日に朝鮮に軍隊派遣を決定、7月23日に王宮を占拠、25日に清国軍と豊島沖海戦、8月1日に宣戦布告をします。

福沢諭吉は朝鮮の内政問題、日清戦争などに対する強硬論を「時事新報」に書いています。
記事の題名をいくつかあげてみます。

6月5日「速かに出兵す可し」
6月9日「支那人の大風呂敷」
6月19日「日本兵容易に撤兵す可らず」
7月3日「大使を清国に派遣するの必要なし」
7月4日「兵力を用るの必要」
7月20日「牙山の支那兵を一掃す可し」
7月27日「支那朝鮮の両国に向て直に戦を開く可し」
8月1日「満清政府の滅亡遠きに非ず」
8月5日「直に北京を衝く可し」
8月9日「必ずしも北京の占領に限らず」
8月11日「取り敢へず満州の三省を略す可し」

「日本臣民の覚悟」(明治27年8月28日)

今度の戦争は根本より性質を殊にし、日本国中一人も残らず一身同体の味方にして、目差す敵は支那国なり。我国中の兄弟姉妹四千万の者は同心協力してあらん限りの忠義を尽し、外に在る軍人は勇気を奮て戦ひ、内に留主する吾々は先づ身分相応の義捐金するなど差向きの勤めなる可けれど、事切迫に至れば財産を挙げて之を擲つは勿論、老少の別なく切死して人の種の尽きるまでも戦ふの覚悟を以て遂に敵国を降伏せしめざる可らず。


9月15日「半途にして講和の機会を得せしむ可らず」
9月23日「支那の大なるは恐るゝに足らず」
12月14日「旅順の殺戮の流言」
明治28年
1月9日「戦勝の大利益」
1月17日「容易に和す可らず」
3月12日「償金は何十億にても苦しからず」
3月29日「平和の機会未だ熟せず」

福沢諭吉は明治34年に亡くなっています。
明治37年に起きた日露戦争、韓国併合(明治43年)、さらには満州事変(昭和6年)からの中国侵略、対米戦争も、それ行けどんどんと対外強硬論を訴えたでしょうか。

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清水寛『日本帝国陸軍と精神障害兵士』

2021年03月24日 | 戦争

イラクやアフガニスタンから帰還して精神を病むアメリカ軍兵士は少なくありません。
『光あれ』(1946年)はジョン・ヒューストン監督のドキュメンタリー映画ですが、町山智浩『最も危険なアメリカ映画』によると、冒頭の字幕に「負傷兵の二割が精神に問題を抱えた」と出ているそうです。
軍の映画であり、本物の兵士を記録しているので実際のことなのでしょう。
第二次世界大戦においても大勢の帰還兵が精神的に病んでいたとは知りませんでした。

では、日本軍兵士はどうなのかと思い、清水寛『日本帝国陸軍と精神障害兵士』を読みました。
陸軍の精神障害兵士(知的障害兵士も含む)を対象とする専門病院である国府台陸軍病院の『病床日誌』(カルテ)約8000人分が残されており、そのうち知的障害および精神神経症の患者約1300人分について症例を分析・考察しています。

傷痍軍人精神療養所は1940年に開設され、2004年には84人が入院している。

知的障害など兵役不適合の壮丁が徴集された。
日清戦争以前の1891年、「読書算術ヲ知ラダル者」が受検壮丁17919人中4766人、26.6%おり、「稍読書算術ヲ為シ得ル者」を加えるなら全体の60.7%となる。

日露戦争直後の1906年では、「読書算術ヲ知ラザル者」は受検壮丁399393人中33564人、9.9%、「稍読書算術ヲ為シ得ル者」を加えると27.6%を占めている。

軍隊において軍紀等違犯を繰り返し、通常の処罰をしても効果がない者などを対象として、1902年に陸軍懲治隊(1923年に陸軍教化隊と改称)が作られ、少なからぬ知的障害兵士が陸軍懲治隊に編入された。

1911年、陸軍懲治隊に収容されていた兵士50人に対し、医学の立場から調査が実施された。
それによると、44人が病的異常者であり、そのうち17人が痴愚、9人が魯鈍で、その26人のうち、20人は家庭環境が劣悪である。
人形と赤児の区別がわかりませんと答える者、1円以上の勘定ができない者、従兄弟の意味を知らない者、2月が何日あるか知らない者など。
彼らは私的制裁という暴力によって状態が悪化している。

戦争の拡大は陸海軍兵力の急速な拡大をもたらした。
1931年には27万8000人、1937年は130万人を超え、1941年には240万人を上まわり、敗戦時には716万5000人にもなっていた。

現役徴集範囲も急速に増加し、1933年の現役徴集率は徴兵検査受検人員の20%だったが、1938年には40%を超え、1939年には50%となった。

1944年には徴兵適齢が満20歳から満19歳に引き下げられ、徴兵検査受検者は倍増し、徴集率は77%に達した。
敗戦時、満17歳以上45歳以下の男子総数は約1740万人だから、4割以上が軍に動員されていた。

さらに、1945年6月、義勇兵役法が制定され、男子15歳から60歳、女子17歳から40歳の全員が義勇兵役の対象にくみ込まれた。

現役兵の徴集率の増加は、予備・後備役・補充兵役の動員の増加によるものであって、軍隊内の現役兵の占める比率は1944年末で40%、1945年には15%だった。
徴集率の増大は軍隊に劣弱兵士を混入させる要因となった。

軍隊内の精神障害には、戦争のために発生するものと、入営以前から精神障害があったが、徴兵検査では判明しなかったものとがある。

諏訪敬三郎(国府台陸軍病院長)「戦争後期に在隊兵の精神検査を実施し、累計54157名に及んだが、その約2%に広義の精神異常を発見した。然もその一部、総人員に対する比率0.62%は要入院或は兵業に堪えない程度の者であった」

浅井利勇(国府台陸軍病院軍医)「比較的選ばれたものを集めた部隊、補充兵を主にした部隊で差があり、精神薄弱は3~4%に達するところが多く、防空部隊では非常に少なく0.73%に過ぎない。(略)昭和19年には壮丁について日本人81282名について実施した結果50点満点中平均30.7点、15点以下6258名全壮丁の7.9%において智能の低いものが発見された。特にこの成績で特記することは、みかけ上の体格のよい甲種合格グループに智能の低いものの含まれる比率の大なることである」


『病床日誌』の知的障害患者484人を入院年度で見ると、1937年度が4人、1941年度が48人、1944年度が157人、1945年度が81人と、戦争の激化にともなって増えている。
精神年齢は3歳3か月から12歳7か月まで。

症例を読むと、九九ができる、ある程度漢字が読める人もいるし、生年月日を知らない、自分の名前が書けない人もいる。
理解力が劣る、言語が不明瞭、動作が鈍い、表情に乏しいなど。
本来なら徴集されるべきではなかった知的障害をもつ壮丁が、特に戦争末期において兵員としてかなり動員されており、中には甲種合格の者もいる。

戦争神経症は、戦時に軍隊内に発生した神経症の総称である。
戦争神経症が注目されたのは、第一次世界大戦で軍隊内で多数のヒステリー患者が発生したことによる。

第二次世界大戦での精神障害の中で戦争神経症の占める割合は、日本21%、ドイツ23%、アメリカ63%である。
この差は、社会文化的な背景、軍隊のあり方、戦闘様式などが関係している。

『病床日誌』戦争神経症のヒステリー患者374人中、罪責感は31人。
戦争神経症の分類
①戦闘行為での恐怖・不安によるもの
②戦闘行為での疲労によるもの
③軍隊生活への不適応によるもの
④軍隊生活での私的制裁によるもの
⑤軍事行動に対する自責感によるもの
自分の采配ミスから部下を死なせてしまった、不注意で戦友が撃たれた、銃器をなくしたなど。
⑥加害行為に対する罪責感によるもの

山東省デ部隊長命令デ民ヲ殺セルコトガ最モ脳裏ニ残ッテイル
特ニ幼児ヲモ一緒ニ殺セシコトハ自分ニモ同ジ様ナ子供ガアッタノデ余計嫌ナ気ガシタ


国府台陸軍病院に収容された患者は症状の重いごく一部の患者にすぎず、数字に現れない多数の戦争神経症患者がいたはずである。
日露戦争以来、軍隊と知的障害兵士との関係は、主として非行・犯罪問題の面からとらえられ、懲罰の対象として取り上げられることが多かった。

戦後も戦傷病者特別援護法に基づいて入院している精神障害者が大勢いることに驚きました。

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NHKスペシャル取材班『戦慄の記憶インパール』

2020年05月01日 | 戦争

吉田裕『日本軍兵士』によると、第二次世界大戦での戦没者は軍人・軍属が230万人、民間人が80万人、合計310万人。
1944年1月以降の総戦死者は281万人と推測される。
戦争の終結が遅れたために、多くの人命が犠牲になった。
ちなみに、日露戦争の戦死者が約9万人。

近代の戦争では、戦病死者が戦死者をはるかに上まわったが、次第に戦病死者が減少し、日露戦争では日本陸軍の戦病死者の占める割合は26.3%に低下した。
ところが、日中戦争では、1941年の時点で戦病死者の占める割合は50.4%だった。

藤原彰さんによると、栄養失調による餓死者と、栄養失調に伴う体力の消耗の結果、マラリアなどに感染して病死した広義の餓死者の合計は140万人(全体の61%)。
秦郁彦さんは37%という推定餓死率を提示している。

海没者(艦船の沈没に伴う死者)は軍人・軍属が35万8千人。
船舶による軍隊輸送では、熱帯地では坪当たり2.5人が理想だが、5人になることがあった。
船倉に詰め込まれ、甲板の出入り口には古参兵がたむろしていたので、新兵は自由に甲板に出られなくて、熱射病などで多くの兵士が死亡した。

還送戦病患者(内地の病院に送還された患者)に占める精神疾患患者の割合は、1937年が0.93%、1940年が2.90%、1943年が10.14%、1944年が22.32%と、急激に増えている。

郵便検閲で摘発された兵士の手紙に、「戦地に三年三ヶ月もいれば故郷へ帰りたい気持ちばかりです」と書かれている。
そんな状態ですから、1940年の宜昌作戦では、第34師団歩兵第216連隊において38名の自殺者を出したのも当然なのかもしれません。

9万人のうち3万人が死亡したといわれているインパール作戦(1944年3月開始)のドキュメンタリーを書籍化したNHKスペシャル取材班『戦慄の記憶インパール』に、元少尉がこんなことを語っています。

牟田口廉也司令官が作戦会議で「どのくらいの損害があるか」と質問すると、ある参謀が「5千人殺せば陣地を取れると思います」と答えた。
敵を5千人殺すのではなく、味方の損害が5千人ということだった。
つまりは兵士はモノ扱いにし、部下の命よりも自分の手柄のことしか考えていなかったわけです。

インパールまでの距離は400km。
与えられた食糧は3週間分。
3週間で攻略するとすれば、武器、弾薬、食糧を40kg背負って、峻険な山道を1日19kmを進まなければいけない。

牟田口廉也司令官は「インパールは天長節(4月29日)までには必ず占領してご覧にいれます」と言っていた。
天長節までだったら6週間から7週間だから、3週間分の食糧では足りない。
食料や武器の補給は最初から考えていなかった。

兵站とは「軍隊の戦闘力を維持し、作戦を支援するために、戦闘部隊の後方にあって、人員・兵器・食料などの整備・補給・修理などにあたり、また後方連絡線の確保などにあたる機能」(『日本国語大辞典』)ということ。

日本軍は兵站を軽視していた。
インパール作戦が始まる1年前の1943年4月、小畑信良少将は、戦闘の支援が困難であり、部隊が孤立するとして、「実施せざるを可とする」と報告して更迭された。

戦後、牟田口廉也はこう語っている。

補給が至難なる作戦においては特に糧秣、弾薬、兵器等のいわゆる〝敵の糧による〟ということが絶対に必要である。放胆な作戦であればあるほど危険はつきものである。

「敵の糧による」とは、村から食糧を徴発し、イギリス軍から武器を奪うこと。

ジンギスカン作戦を牟田口廉也司令官は発案した。
村から徴発した牛や羊などを引き連れて行軍し、食料にあてるというものである。

食糧そのものが歩いてくれるものが欲しいと思いまして、私、各師団に一万頭ずつ羊と山羊と牛を携行させてやったのでございますが、それが実は途中でその動物が倒れまして、実際にはあまり役に立ちませんでありました。

牛や馬は川を船で渡るのを怖がって、川に落ちて流されたものが多かった。
牛に荷物を運ばせようとしても、背中がコブのように突き出ていて、乗せるのが難しく、悪路を進むのも嫌がった。
そのため、渡河から一週間で牛を放棄した部隊が多かった。

日本軍は糧秣・弾薬等の手配を軽視し、精神論に頼っていた。
それに対し、イギリス軍は万全の補給策を練っていた。
武器や食糧、医薬品など、一日250トンもの物資を前線に投下できる体制を整えており、連日100機もの輸送機を飛ばして、一日100トンを超える軍需品を空輸した。

『日本軍兵士』にこんなことが書かれています。
戦場では歯磨きをする余裕がなかったので、非常に多くの将兵が虫歯にかかっていた。ところが、歯科医が少ないために治療を受けることができなかった。
兵士の7~8割が虫歯や歯槽膿漏だったとされている。
行軍中は靴を履きっぱなしだから、水虫も蔓延した。
軍服や軍靴はぼろぼろで、裸足の兵士もいた。
軍装も不足し、小銃を持たない兵士もいた。

『日本軍兵士』には、他にも唖然とすることがたくさん書かれています。
こんな状態で戦争したものだと、ある意味、感心します。

インパール作戦についての感想。
目の前のことしか考えず、全体を見てない。
根拠のない楽観論を振りかざす。
人間をモノとしか考えない。
相手(イギリス軍)を軽視する。
現場の報告を無視する。
精神論で解決すると思っている。
上官の思いつきに部下の多くは反対しない。
反対した部下は左遷させられる。
責任の所在が曖昧。
現在の政治状況と似ている部分が少なくないと思いました。

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『エリア・カザン自伝』

2019年09月16日 | 戦争

演出家で映画監督のエリア・カザンは米軍慰問のため、1944年末か1945年初にニューギニアとフィリピンに行きました。
『エリア・カザン自伝』にはその時に見聞したことも書かれています。

わたしは日本軍の残虐行為の話を延々と聞かされた。彼らが親指だけで人を吊るし、その腹を切り裂いて、中にガソリンを注ぎ、火をつけた、というような話を。我が軍も黙ってはいなかった。四十九人の日本兵を捕虜にして、全体が小さな輪になるよう縛り上げ、そこに航空燃料をぶちまけて、全員を焼き殺した。ガソリンはふんだんに供給されていた。日本兵捕虜を尋問のためにC-47で移送するときには、機体横の貨物用の扉を開けっ放しにしておいた。そして、機内でめいめいに対する尋問が終わると、目的地に着く前に蹴飛ばして外に放り出した。双方とも捕虜を残さなかった。


フィリピンに行く途中、ピアク島に着きます。
ある砲兵がしてくれた日本兵の捕虜の話。

やつらを捕虜にすると、おれたちの仲間から守ってやらなきゃならなかった。何しろ、見たとたんに殺っちまうんだからな。ほんとにあっという間に。


タクロバンの海軍基地で話題になった、同盟軍フィリピン軍の蛮行。

ここの南のレイテで日本艦隊の背後を衝いたときのことですが、何千もの日本の水兵が海に放り出されて、岸に向かって泳ぎ始めたんです。で、うちの陸軍の部隊が現地に出向くよう命令されました。G-2が尋問するから何人か捕虜にしてこいというわけです。部隊が日本兵の目指していた海岸に着いてみると、海はフィリピン人の小舟でいっぱいでした――カヌーだの丸木船だので。フィリピン人たちは日本人どもを殺してはいませんでした。連中は山刀を持ってて、それで日本兵の片腕を、次にもう一方の腕を切り落とし、生きたままで放り出して鮫の餌にしたんです。

「それを語る口吻には、軽蔑だけでなく称讃が入り交じっていた」と書いています。
これはエリア・カザンが聞いた話ですから、実際にあったことかどうかはわかりません。

吉田裕『日本軍兵士』によると、ジュネーブ条約で認められている傷病兵が捕虜になることを、日本軍は禁じた。
傷病兵の残置を認めないため、傷病兵を軍医や衛生兵が殺害するか、自殺を促すことが常態化した。
ガダルカナル島撤収部隊の実情を視察した参謀次長が東京に発信した報告電にこうある。

単独歩行不可能者は各隊とも最後まで現陣地に残置し、射撃可能者は射撃を以て敵を拒止し、敵至近距離に進撃せば自決する如く各人昇汞錠二錠宛を分配す。(「ガダルカナル作戦の考察」)

どっちもどっちだと思いました。

もう一つ、こんなことも書いています。
タクロバンでは、米陸軍が郊外に売春宿を開設していると聞き、連れ立って様子を見にいった。

そこはMPが管理していた。女を買おうとする兵士たちは、食べ物を買うのと同じように行列していた。その長い列は、六軒の小さな小屋へと続いていた。料金は十ペソ、約五ドルだった。私の見るところ、軍は利益を上げているようだった。女たちの素性もわからなかったし、一人も見ることはできなかったが、料金からすると、そう遠くから連れてこられたとは思えなかった。(略)兵士たちは、あたふたと小屋を通り抜けていった。中にいる時間は平均して四、五分というところだっただろう。彼らは小屋から出ると、近くの軍の性病予防センターに直行した。


日本陸軍が中国で慰安所を開設したのは性病防止と強姦防止のためです。
アメリカ軍も性病防止に苦慮していたようです。
それにしても、どうやって女たちを集めたのでしょうか。

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ミキ・デザキ『主戦場』

2019年07月30日 | 戦争

『主戦場』は、櫻井よしこ、杉田水脈、ケント・ギルバート、藤岡信勝、山本優美子、渡辺美奈、吉見義明といった人たちがミキ・デザキ監督のインタビューに応じ、慰安婦問題について語ります。

テキサス親父のトニー・マラーノ氏は風呂敷かぶせてなんとかのアメリカ版を楽しそうにしゃべってるし、マネージャーの藤木俊一氏は「フェミニズムを始めたのは不細工な人たち」と平気で言い切るし、カメラの前でそんなあからさまも女性差別を口にしていいのかと心配になるほどです、 https://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2019/06/vs-23_3.php

加瀬英明氏が最後に出てきますが、あまりにもおバカなのにびっくり。
人の本は読まないと言うんですから。
吉見義明氏を知らないし、秦郁彦氏の本も読んでいない。
それでどうやって慰安婦問題を語ることができるのかと思います。
これだけホンネをよくもまあ引き出したもんだと、出崎監督の手腕には感心しました。

櫻井よしこ氏の後継者と言われていたケネディ日砂恵という女性の発言は重みがありました。
「花田編集長の右向け右!」には、ケネディ日砂恵氏のプロフィールに「慰安婦問題など歴史を素材にした反日言説・行動に疑問を持ち、日米文化の狭間で生きるなかでうまれた思索をフェイスブックで発信し、反響を呼んでいる」と書かれています。
https://www.genron.tv/ch/hanada/archives/live?id=130

ところが、そのケネディ日砂恵氏が肯定派に変わります。
それは秦郁彦氏の本(たぶん『南京事件』)を読み、南京で日本軍による虐殺が実際にあり、2~4万人は殺されていると思うようになったと語っています。
そうして、慰安婦問題についても考えが変わったというわけです。
ちなみに、デザキ監督は秦郁彦氏に出演依頼をしたけど断られたそうです。

ケネディ日砂恵氏は、あるジャーナリストが慰安婦問題の記事を書いたり調査をするために6万ドル渡したと語っています。
最初2万ドル、翌月2万ドルを要求され、というふうに。(交通費、宿泊費などは含まない)

さらには、このジャーナリストはブログに、櫻井よしこ氏から金をもらっていると書いているとケネディ日砂恵氏は話します。
このことの真偽をデザキ監督に問われた櫻井よしこ氏は「微妙な問題なので」とかわします。
この場面を見て、あまりにも言葉の軽い杉田水脈氏は櫻井よしこ氏の後継者にはなれないと思いました。 
 

藤木俊一氏たち5人が上映中止を求めて訴訟を起こしております。
慰安婦問題否定派が主張を述べた後に、反対側による反論で彼らの主張が間違っていることにされてしまい、しかも否定派の再反論の機会を与えていないという批判はたしかにその通り。
「月刊Hanadaプラス」に山岡鉄秀「従軍慰安婦映画『主戦場』の悪辣な手口」という記事があります。
ケネディ日砂恵氏の発言にも反論がなされています。
https://hanada-plus.jp/posts/1974

しかし、否定派の再反論には、当然肯定派も再再反論するだろうし、これではいつまで経っても終わらない。 ドキュメンタリーは中立ではあり得ないと思います。

性奴隷という言葉はおかしいんじゃないかと、私は思ってました。
奴隷というと、鎖につながれ、鞭で打たれているようなイメージがあったので。
しかし、「奴隷制というのは、人が別の人によって全的支配を受けることをいう。元慰安婦が高額の支払いを受けていても、外出をしていても、それは全体的な支配のもとで許可を得てそれができていたのだから、奴隷制ということになるんです」という説明に納得。
もちろん、別の定義をする人もいるでしょうが。

慰安婦像をあちこちに設置するのはやりすぎではとも感じていました。
これも、すべての性被害者を象徴するものであるなら、それもありかなと。

渡辺美奈さん(「女たちの戦争と平和資料館」事務局長)は「大きな人権団体などが、慰安婦問題についてレポートを書く、と。そのとき相談をされれば、20万人という数字は使わずにもう少しアバウトな数を使うことを勧めます。40万人と聞けば、40万人という数字を使おうと思うんです。わざわざどれが一番いいかと考えずに、多いほうを使うということも多分あると思うんですね」と言っています。
8歳から10歳の慰安婦がいたと演説する人の映像も出てきます。
どちらもが極論と誇張した話をしていたのでは、双方が折り合うことはないでしょう。

ケネディ日砂恵氏は次のように指摘します。

ナショナリストは、日本が弾圧されることで、自分の名誉を傷つけられたと感じる。だから自尊心を守るために、日本を擁護する。

 https://mainichi.jp/articles/20190426/mog/00m/040/004000c?pid=14509

ネット上では韓国へのむき出しの憎悪が目に余るほどです。
しかし、昭和天皇は1984年、全斗煥大統領を迎えての宮中晩餐会で、「今世紀の一時期において、両国の間に不幸な過去が存したことは誠に遺憾であり、再び繰り返されてはならないと思います」と遺憾の意を表しています。
1990年、宮中晩餐会で平成天皇は盧泰愚大統領に、「我が国によってもたらされたこの不幸な時期に、貴国の人々が味わわれた苦しみを思い、私は痛惜の念を禁じえません」と謝罪しました。
1996年、平成天皇は金大中大統領歓迎の宮中晩餐会のおことばで、「一時期、わが国が朝鮮半島の人々に大きな苦しみをもたらした時代がありました。そのことに対する深い悲しみは、常に、私の記憶にとどめられております」と述べています。
抽象的な言い方ですし、慰安婦問題に触れているわけではありませんが、過去の日本の罪を天皇は認めているわけです。

ハンス・ロスリング『ファクトフルネス』にこんなことが書かれています。

歴史を美化すればするほど、わたしたちや次の世代の人たちが、真実にたどり着けなくなってしまう。悲惨な過去について学ぶのは気が滅入るかもしれないが、真実を知るためには避けて通れない。 過去をきちんと学べば、昔に比べたら、いまがどれだけ恵まれているかに気づくこともできる。そして次の世代はきっと、前の世代と同じように、たまには一歩後退しても、長い目で見れば平和、繁栄、問題解決の道を歩むことができるはずだ。

 もちろん、慰安婦問題について論じた文章ではありません。
しかし、日本のマイナス面を語ることを自虐史観だと非難する人への批判としても使えるように思います。

もう一つハンス・ロスリングの言葉をご紹介。
1990年に、子供が命を落とす原因の7%がはしかだったが、現在は1%になった。
しかし、アメリカでは親の4%が子供への予防接種は大事ではないと考えている。
67カ国を対象にした調査でも、13%が予防接種に懐疑的で、フランスでは35%以上。

「どんな証拠を見せられたら、わたしの考えが変わるだろう?」と自分に聞いてみよう。「どんな証拠を見せられても、ワクチンに対する考え方は変わらない」と思うだろうか? もしそうだとしたら、それは批判的思考とはいえない。

 ワクチンを慰安婦問題と置き換えると、ぴたりと当てはまるように思います。

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イスラエルとパレスチナへの旅(4)

2018年09月08日 | 戦争

東エルサレムのある難民地区は、1k㎡に5万人が住んでいます。
そこの公民館のような施設2個所でパレスチナ人の子供たちと遊びました。
子供たちはすごく元気でした。

子供たちのダンス。


青い服の女の子はすごく上手。



子供たちの多くは父親や伯父さんが殺されています。
イスラエル兵士もおびえているから、何か見えると反射的に銃を撃つそうです。
3日前にも、15~17歳の少年を逮捕され、そのうちの1人(15歳)が射殺されたと聞きました。

子供たちの世話をしている女性がこういうことを話されました。
夜、イスラエル兵がやって来て、銃を撃ったりするので、日が昇ると、まだ生きていることにほっとする。
そんな毎日だ。
子供たちは安全な状態ではないので、こうしてみなさんと安心して遊べることにすごく喜んでいる。
子供たちに安全な場所を与えたい。

安全ということでは、福島の子供たちが保養に行くのと似ていると思いました。
これがパレスチナ人の生活です。
70年間、この状態にあるわけです。

イスラエルの人口868万人のうち、ユダヤ人が75%、アラブ人その他が25%です(2017年)。
もっとも、ローマ帝国によって国を追われたユダヤ人の子孫が現在のユダヤ人というわけではありません。

1970年に改正された帰還法によると、ユダヤ人の定義は「ユダヤ人の母から産まれた者、もしくはユダヤ教に改宗し他の宗教を一切信じない者」です。
ユダヤ人という人種がいるわけではなく、ユダヤ教を信じる人がユダヤ人なんだそうです。
私がユダヤ教に改宗したら、私もユダヤ人だということになります。

イスラエルでは、子供たちは学校で「この土地は神から与えられたものだ」と教えられ、神の民だと刷り込まれています。
そして、ユダヤ人はパレスチナ人を恐れているので、強硬派が支持を集めています。
まるで「神国日本」みたいなお話です。

民族意識なんて、血やDNAの問題じゃなくて、教育や環境によって簡単に作られるんだ。民族的憎しみもね。まるで歴史的事実で、人の力ではどうにもならないもののように思われている。だから、世界のどこかで民族紛争が起きると、壁を作るとか、国をふたつに分けるとか、ふたつの民族を引き離すことしか考えない。
民族紛争解決のポイントは、「憎しみや恨みを忘れて、テロと報復の連鎖を断ち切ること」と、「隔離や分離をしないで多民族が平和に融合した社会を目指すこと」だ。(山井教雄『まんがパレスチナ問題』)

私はイスラエルで「チャイニーズ?」と聞かれることがしばしばありました。
中国人と韓国人と日本人の区別がつかないんだそうです。

私もユダヤ人とアラブ人とを見分けることができません。
ユダヤ人の男性は頭にキッパという帽子をのせてるし、イスラム教徒の女性はスカーフをかぶっているので、それで「この人はユダヤ人だな」とか「ムスリムなのか」とわかるぐらいです。


しかし、イスラム教徒の女性でもスカーフをしていない人はいるし、キリスト教徒のアラブ人女性はスカーフをしません。

そういえばロレーヌ・レヴィ『もうひとりの息子』は生まれたときに病院で取り違えられたユダヤ人とパレスチナ人の話だし、ジョン・ル・カレ『リトル・ドラマー・ガール』はアラブ人かと思ってた人がイスラエルの諜報員でした。
ユダヤ人やパレスチナ人だって間違えるわけです。



そもそもパレスチナの土地にずっと住んできたパレスチナ人こそ、ダビデやソロモンの末裔のはずです。
人種、民族の違いとは何なのかと思います。

死海に行った時、イスラエルの若者(20歳)から日本語で声をかけられました。
日本語が上手なので、どこで学んだのかと聞いたら、ネットでの独学だそうです。
今は軍隊に入っている、除隊したら日本の大学に留学したいとのことでした。

パレスチナ問題についてどう思うか聞いたら、私の言ってることが理解できなかったのか、とまどったような顔をして「アラブ人の友達が2人いる」と答えました。
お父さんも一緒に来ていて、「両方の主張が食い違っているから難しい」と話してたそうです。

おそらくこの一家は世俗派の知識人だと思います。
それでも、軍人だから、パレスチナ人にいやがらせをしたり、暴力を振るったりすることもあるかもしれません。
上官や同僚から命令されたらイヤとは言えないでしょう。

イスラエルでは、除隊したあとに世界中を旅行する若者が多いそうです。
世界、そして日本を知ることで、これはおかしいと気づいてくれたら、と思いました。

変化がないわけではありません。
屋上で野菜を作って販売している女性グループや、農産物、工芸品、石鹸などを作っている女性グループの話を聞きました。


黒いタンクは水の貯水用。
ここで野菜を作っています。



少しずつ変わっていくことを期待したいです。

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イスラエルとパレスチナへの旅(3)

2018年09月02日 | 戦争

パレスチナ人の置かれている状況は教えてもらわないと見えてきません。
イエスが生まれたベツレヘムは観光客で賑わい、若者たちは明るく元気そうだし、人々は普通に生活しているようです。
どこが入植地で、どこにパレスチナ人が住んでいる村か、通りすがりの観光客には見分けがつきません。
分離壁もだんだんと見慣れてきます。

しかし、パレスチナ人は追い詰められた生活をしています。
パレスチナ人の問題の一つは住居だそうです。

家屋の建設はイスラエル政府の許可が必要ですが、まず認められることがないので、自分の土地でも家を建てることができません。
許可なく家を建てると、罰金が科せられたり、家は壊されたりします。
昔からある家でも、土地の権利証がないからというので立ち退かされます。

そうして、イスラエルは住居や農地を破壊し、土地を没収して、入植地を作ります。




http://www.afpbb.com/articles/-/2550165?pid=3617349

入植地の中にはアメリカの企業が作ったもの、アメリカ人の入植地もあるそうです。
満州の日本人開拓村は、初期には中国人を追い出して作られたことを思い出しました。

アースキャラバンの日程に井戸の浄化作業があります。
これは、井戸に土を入れて使えなくされるので、その土を除去する作業です。
https://taosangha.com/2017/09/14/j-20170914/

アースキャラバンの旅行は今回で4年目ですが、以前行った村への道路に岩を置いて通行できなくされたので、その村に行けなくなったと聞きました。
そういういやがらせをパレスチナ人は日常的に受けているわけです。

東エルサレムのパレスチナ人地区では、パレスチナ人を家から追い出し、その家にユダヤ人が住んでしまうこともあります。
家を追い出されようとしている男性の話を聞きました。
向かいの家は、もともとパレスチナ人が住んでいたのを追い出し、今はユダヤ人が住んでいます。
その家の壁にはヘブライ語で「自分たちの土地に帰れ」と書いてありました。

https://satoshi-suzuki.com/palestine-east-jerusalem/

ある村は、1948年に完全に破壊され、その後、村人の一部が戻ってきました。
現在の人口は2千人ですが、もとは2万5千人いたそうです。
村は90%がC地区で、分離壁、すなわち入植地に囲まれています。

ほとんど住民が許可なく家を建てましたが、98%の家が家屋の破壊を宣告されています。
3回破壊され、3回再建し、また壊されて家もあります。(家の再建は村人や支援者たちの寄付による)


同じ場所からまわりの景色を眺めると、フェンスの分離壁はあるものの、普通の農村風景です。
説明を聞かないと、この家がなぜ壊れているのか、この村で何が起きているのかがわかりません。



いつでも壊せるんだという無言の脅しに村人はさらされています。

南ヘブロンの村に行きました。






ここの村では、家を壊され、家を建てる許可が下りないので、洞窟を家にしています。
入り口です。


中はこんな感じ。


完成するとこうなります。


便所が離れたとこにありますが、この便所が無許可建築として破壊すると宣告されているそうです。(便所の写真を撮っておけばよかったと反省)
そこまでしても村にとどまるのは、とどまることが抵抗になるからだと話されていました。

パレスチナ人の住んでいる地区・村は水道、電気、ガス、道路などのインフラが整備されていません。
ヨルダン川西岸地区は水の豊富な土地だそうです。
それなのに、水道は月に1回とか、給水車が週に1回来るとか、そういう状態です。
もちろん、入植地にはそういう制限はありません。

パレスチナ人は家の屋上にタンクを設置し、そこに水をためています。


屋上にある黒いタンクがそうです。




屋根を見れば、その家はユダヤ人のものか、パレスチナ人が住んでいるかがわかるわけです。
入植地の家です。

https://blog.goo.ne.jp/azianokaze/e/24147e1e135a0c2d2596e1ea8ef46d67

飲み水はペットボトルを買うので、収入の3分の1が水代なんだそうです。
家を追い出されようとしているおばあさん(孫が4人いる)は、私たちにその貴重なペットボトルをくれようとしました。



パレスチナ人は、これは自分のものだという意識があまりないそうです。

道路が悪くても、整備が許されていません。
勝手に道路を補修すると逮捕されます。

エルサレム旧市街はきれいにされてゴミはあまり見かけませんが、イスラム教徒地区だけは道にゴミが落ちていて、他の地区とはちょっと違った雰囲気です。
聞くところによると、行政はパレスチナ人の住む地区のゴミを回収しないそうです。
たしかにゴミが多い。
旧市街はさすがにゴミの収集をしてるかもしれませんが、回数は少ないでしょう。

それと、男の人がおしゃべりに興じている姿をよく見かけます。
男性がぶらぶらしているように見えるのは仕事がないからです。
説明をしてくれた人に、失業率はどれくらいかと聞いたら、8割ぐらいではないかという返事でした。
パレスチナ中央統計局によれば、2017年の青年(15~29歳)の失業率は2007年の30・5%から41%に増大しています。
ヨルダン川西岸では25.6%から27.2%の増加、ガザ地区では39.8%から61.2%へと悪化しました。
http://blog.livedoor.jp/abu_mustafa/archives/5399251.html
ちなみに、イスラエルの失業率は4.8%です(2016年)。
賃金もユダヤ人とパレスチナ人とでは格差があるそうで、ネットで調べると半分から3分の1です。
http://www.afpbb.com/articles/-/2683688?pid=5153216

壁の中での生活は、夢も希望も、そして仕事もありません。
イスラエル政府は、パレスチナ人の生活を困難にし、圧力を与えることで、パレスチナから出ていかせようとしています。

ただし、パレスチナ人がパスポートをもらうのは難しい。
パスポートがあれば、外国に出ても戻ってくるからです。
そうしたことを多くのユダヤ人は知らないし、気にもかけないそうです。

テロリストを作るのは貧困じゃないんだよ。絶望なんだ。将来に希望があれば貧乏だって耐えられるし、人を愛することだってできるんだ。(『まんがパレスチナ問題』)

エルサレム旧市街では銃を持つ軍人たちをあちこちで見かけました。


野菜を売る女性たちという日常と、武器を持つ軍人(=暴力)という非日常が同居しているわけです。

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イスラエルとパレスチナへの旅(2)

2018年08月29日 | 戦争

1993年、ノルウェーの仲介によってオスロ合意が成立、PLO(パレスチナ解放機構)とイスラエルとの間で暫定自治協定が調印されます。
そして1996年、ヨルダン川西岸地区とガザ地区からなるパレスチナ暫定自治政府が発足しました。

パレスチナ自治政府ができたとはいえ、パレスチナはイスラエルによって実質的に占領されています。
パレスチナ自治区はA地区、B地区、C地区に分けられています。


A地区 濃い茶色の部分。行政権と警察権はパレスチナ自治政府・自治警察が担っている。18%を占める。
B地区 薄い茶色の部分。行政権はパレスチナ自治政府が担い、警察権はパレスチナ自治警察とイスラエル軍が権限を持っている。22%を占める。
C地区 白い部分。イスラエル軍が管理する。つまりイスラエルの完全占領下にある。60%を占める。
http://seichi-no-kodomo.org/2017/02/21/blog-170221/

C地区は軍政下にあるので、普通の法律が適用されません。
軍人がパレスチナ人を殺しても、軍法会議で数か月の刑期ですんでしまうそうです。
ところがパレスチナ人だと、石を投げただけで、16歳以上は懲役1年、16歳以下は懲役6カ月。
案内をしてくれたパレスチナ人の一人は、軍の車に足を轢かれて骨折したそうで、今も足を引きずっていました。
イスラエル軍は、いつでも何でもできることを誇示しています。

ユダヤ人入植地のほとんどはC地区にあり、40万人(東エルサレムを除く)のユダヤ人が住んでいます(2014年)。
C地区はA地区とB地区を取り囲むように設定されており、西岸地区を細かく分断しています。

パレスチナで目につくのが分離壁です。

2002年、イスラエル政府はヨルダン川西岸地区に、入植地とヨルダン川西岸地区を取り囲むように高さ5~8mのコンクリートやフェンスの分離壁の建設を開始しました。
国際司法裁判所は占領地での壁の建設は違法との判断を下していますが、現在も分離壁は建設中で、2017年時点では460kmが完成しています。
http://palestine-heiwa.org/wall/wall.html


http://altertrade.jp/archives/11771

イスラエル政府の説明は「テロリストから入植地を守る」であり、安全保障壁と言っています。
ある場所では、フェンスの分離壁が途中まで建設されていました。
入植地を作る予定だそうです。

分離壁の検問所には、「イスラエル人は生命の危険があるから入らないように」と書かれてあるそうです。
分離壁は自分達を守ってくれていると、ユダヤ人は思っています。
入植者が守られることで、さらに入植者が増えることになります。

手前がフェンスの分離壁。
向こうの丘の上にあるのが入植地の住宅。
丘の下には動物園があり、車がたくさん停まっていました。

分離壁の手前で昼食をとりました。

ここは以前、木がたくさん生えていて、子供たちの遊び場だったそうです。

分離壁の一部が門になっているところがあります。



この向こうにはパレスチナ人の家が1軒だけあり、イスラエルはこの家を壊そうとしたのですが、国際的な注目を浴びて家を破壊できなかったので、門を作り、カメラで監視して、その家の人だけが通ることができるようにしました。

パレスチナ人の村を分断するように分離壁が作られたところもあり、家と畑が分離壁で二分された人、学校や職場に行けなくなった人たちが大勢います。
今まで道路があったところに分離壁ができたので、向こう側に行くためには検問所まで遠回りをしないといけません。
しかし、検問所は通行制限が厳しく、パレスチナ人が通過するのは面倒です。
そんな簡単に行き来はできません。

分離壁をハシゴやロープで越える人もいるそうです。
ハニ・アブ・アサド『オマールの壁』に、分離壁を越えるシーンが何度か出てきます。


分離壁のすぐ横にザ・ウォールド・オフ・ホテル(世界一眺めの悪いホテル)があります。
バンクシーや多くの人が分離壁に絵を描いている場所です。
https://www.huffingtonpost.jp/2017/03/04/banksy_n_15150968.html




ホテルから北に8分ぐらいのところに検問所があるので行ってみました。
ここは車と歩行者との検問所が別になっています。


歩行者はここを通ります。


歩行者の検問所から出てくる人。


歩行者の検問所の前はタクシーがたくさんいて、野菜や果物の売ってて、バザールのようです。

イスラム教徒の女性は外に出ることがあまりなく、買い物は男性の仕事だそうですから、お父さんが仕事から帰りに晩ご飯のおかずをここで買うのでしょうか。

私は、ヨルダン川西岸地区のベツレヘムに行くときは検問所を通らなかったと思いますが、帰りはパスポートのチェックがありました。



この若い軍人はパレスチナ人にはいじわるをするのか、と思いました。

外国の空港に入国するとき、パスポートに入国スタンプを押してもらいますが、イスラエルではそれはありません。
イスラエルでは青色の入国(滞在)許可証をもらいます。
http://eurasia-walk.sub.jp/abroad/2015israel/2015israel01.html
パスポートにイスラエルのスタンプを押されると、イスラエル入国履歴が残り、入国を認めない国があるからだそうです。

帰国する前日、食事をしながらみんなと話していると、入国許可証の話になり、「これがないと出国できない」と言われました。
しかし、私はもらった記憶がないし、そんなものが必要だとも聞いていませんでした。
あせってスーツケースやバッグを調べましたが見つからない。
うわ~、どうしようと必死になって何度も調べたら、スーツケースからやっと発見。
助かったと思いました。
入国許可証の存在を知らないままだったら、この軍人にいじわるされるどころの話ではなかったでしょう。
ああ、よかった。

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イスラエルとパレスチナへの旅(1)

2018年08月24日 | 戦争

アースキャラバンのツアーに参加して、イスラエルとパレスチナ(ヨルダン川西岸地区)に行ってきました。(全日程の半分の参加)
https://www.earthcaravan.jp/ec2018/ec2018_MEtour.php
エルサレム旧市街や死海などを観光しましたが、目的はパレスチナ人の話を聞き、パレスチナの現状を見ることです。

一緒に行った人がブログを書いています。
https://satoshi-suzuki.com/palestine-east-jerusalem/

イスラエル政府・軍人・入植者たちがパレスチナ人に対して弾圧・迫害・いやがらせなどをしていと聞いて、最初は、なんぼなんでもそこまでは、と感じました。
しかし、何人ものパレスチナ人から話を聞き、実態を目にすると、こりゃひどい、なんとかできないものかと思いました。
じゃ、私は何ができるのか。

パレスチナ問題に関する本やドキュメンタリーはたくさん作られているし、ネットでも多くの記事を読むことができます。
みんながよく知っていることなら、今さら私が書くこともないかもしれません。
しかし、あるパレスチナ人の「自分たちのことを1人でも多くの人に伝えてほしい」という言葉を聞いた者の責任として、私の見聞したことをご紹介したいと思います。

パレスチナはどこにあるのか、パレスチナ人は誰のことなのか、今までの経緯は、といったことを私自身もよく知らなかったので、まずはそこらあたりから。
岡真理さんの話がわかりやすいと思います。
 

山井教雄『まんがパレスチナ問題』やネットなどを参考にして、私なりにまとめてみました。
パレスチナとは、ヨルダン川以西のイスラエルを含む地域を指します。
近代以降、世界各地から移住してきたユダヤ人(ユダヤ教徒)に対して、パレスチナに在住するアラブ人がパレスチナ人と呼ばれます。

パレスチナの人口は495万人、ヨルダン川西岸地区が約300万人、ガザ地区が約194万人です(2017年)。
パレスチナ難民は国内外に約587万人います(2017年)。

19世紀になり、ユダヤ人の中からパレスチナにユダヤ人国家を建設しようというシオニズム運動が起こり、19世紀末からユダヤ人のパレスチナ入植が始まりました。
1917年、イギリスはパレスチナにユダヤ人のホームランド(ユダヤ人の国)建設を認めます。
当時、パレスチナには70万人くらいのアラブ人が住んでおり、6万人程度のユダヤ人と共存していました。
第一次世界大戦後の1922年から、パレスチナの委任統治をしたイギリスは、ユダヤ人を無制限に移民させ、国造りの準備をしました。

そして、1948年にイスラエルが建国されます。
当時の人口は197万人で、そのうちユダヤ人は60万人でした。
パレスチナ人との間で内乱状態になり、70万人以上のパレスチナ人が逃げ出して難民となりました。
パレスチナ難民は70年も不安定な生活を強いられているのです。

1949年、第1次中東戦争後の休戦調停で、エルサレムは東西に分割、西エルサレムを含む地域はイスラエルが、東エルサレムを含むヨルダン川西岸地区はヨルダンが統治することになりました。
聖地がある旧市街は、東エルサレムの中にあります。
といっても、東西エルサレムの間に境界があるわけではありません。



https://www.ngo-jvc.net/jp/projects/palestine/health-education.html

1967年の第3次中東戦争で勝ったイスラエルは、東エルサレムを含むヨルダン川西岸、ゴラン高原、ガザ地区、シナイ半島を占領しました(1982年にシナイ半島からは撤退)。
この戦争でも100万人が難民となっています。


http://ccp-ngo.jp/palestine/

イスラエルとパレスチナは何度も和平交渉を行い、合意することもありました。
しかし、イスラエルは「神がユダヤ人に約束をした土地だ」「昔からそこに住んでいる」と言い張り、アラブ人は「7世紀以来、アラブ人が住んでいる」と主張、どちらも妥協しません。

『まんがパレスチナ問題』の中で、山井教雄氏は少年にこのように言わせています。

宗教は人間の最善の部分を引き出すように作られてるはずだけど、時として、人間の一番邪悪な部分、「憎しみ」を引き出す。経済が原因の戦争なら、大損すれば戦争をやめるのだが、宗教がらみで「聖戦」となってしまうと、損をしようが、自分が滅んでしまおうが戦いをやめない。


圧倒的な軍事力を持つイスラエルは、パレスチナ人から土地を取り上げ、ユダヤ人入植地をどんどん建設し、東エルサレムやヨルダン川西岸地区の支配を既成事実化しようとしています。
しかし、それは国際法上の違法行為です。
国連安全保障理事会は、ヨルダン川西岸地区と東エルサレムでイスラエルが進める入植地建設を違法だと非難しています。
https://www.bbc.com/japanese/38425927
にもかかわらず、現在も入植地は新しく作られ、それにともないパレスチナ人は迫害され、追い出されているのです。

http://palestine-heiwa.org/map/s-note/

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