三日坊主日記

本を読んだり、映画を見たり、インチキ宗教を考えたり、死刑や厳罰化を危惧したり、そしてそのことを日記にまとめてみたり。

イスラエルとパレスチナへの旅(4)

2018年09月08日 | 戦争

東エルサレムのある難民地区は、1k㎡に5万人が住んでいます。
そこの公民館のような施設2個所でパレスチナ人の子供たちと遊びました。
子供たちはすごく元気でした。

子供たちのダンス。


青い服の女の子はすごく上手。



子供たちの多くは父親や伯父さんが殺されています。
イスラエル兵士もおびえているから、何か見えると反射的に銃を撃つそうです。
3日前にも、15~17歳の少年を逮捕され、そのうちの1人(15歳)が射殺されたと聞きました。

子供たちの世話をしている女性がこういうことを話されました。
夜、イスラエル兵がやって来て、銃を撃ったりするので、日が昇ると、まだ生きていることにほっとする。
そんな毎日だ。
子供たちは安全な状態ではないので、こうしてみなさんと安心して遊べることにすごく喜んでいる。
子供たちに安全な場所を与えたい。

安全ということでは、福島の子供たちが保養に行くのと似ていると思いました。
これがパレスチナ人の生活です。
70年間、この状態にあるわけです。

イスラエルの人口868万人のうち、ユダヤ人が75%、アラブ人その他が25%です(2017年)。
もっとも、ローマ帝国によって国を追われたユダヤ人の子孫が現在のユダヤ人というわけではありません。

1970年に改正された帰還法によると、ユダヤ人の定義は「ユダヤ人の母から産まれた者、もしくはユダヤ教に改宗し他の宗教を一切信じない者」です。
ユダヤ人という人種がいるわけではなく、ユダヤ教を信じる人がユダヤ人なんだそうです。
私がユダヤ教に改宗したら、私もユダヤ人だということになります。

イスラエルでは、子供たちは学校で「この土地は神から与えられたものだ」と教えられ、神の民だと刷り込まれています。
そして、ユダヤ人はパレスチナ人を恐れているので、強硬派が支持を集めています。
まるで「神国日本」みたいなお話です。

民族意識なんて、血やDNAの問題じゃなくて、教育や環境によって簡単に作られるんだ。民族的憎しみもね。まるで歴史的事実で、人の力ではどうにもならないもののように思われている。だから、世界のどこかで民族紛争が起きると、壁を作るとか、国をふたつに分けるとか、ふたつの民族を引き離すことしか考えない。
民族紛争解決のポイントは、「憎しみや恨みを忘れて、テロと報復の連鎖を断ち切ること」と、「隔離や分離をしないで多民族が平和に融合した社会を目指すこと」だ。(山井教雄『まんがパレスチナ問題』)

私はイスラエルで「チャイニーズ?」と聞かれることがしばしばありました。
中国人と韓国人と日本人の区別がつかないんだそうです。

私もユダヤ人とアラブ人とを見分けることができません。
ユダヤ人の男性は頭にキッパという帽子をのせてるし、イスラム教徒の女性はスカーフをかぶっているので、それで「この人はユダヤ人だな」とか「ムスリムなのか」とわかるぐらいです。


しかし、イスラム教徒の女性でもスカーフをしていない人はいるし、キリスト教徒のアラブ人女性はスカーフをしません。

そういえばロレーヌ・レヴィ『もうひとりの息子』は生まれたときに病院で取り違えられたユダヤ人とパレスチナ人の話だし、ジョン・ル・カレ『リトル・ドラマー・ガール』はアラブ人かと思ってた人がイスラエルの諜報員でした。
ユダヤ人やパレスチナ人だって間違えるわけです。



そもそもパレスチナの土地にずっと住んできたパレスチナ人こそ、ダビデやソロモンの末裔のはずです。
人種、民族の違いとは何なのかと思います。

死海に行った時、イスラエルの若者(20歳)から日本語で声をかけられました。
日本語が上手なので、どこで学んだのかと聞いたら、ネットでの独学だそうです。
今は軍隊に入っている、除隊したら日本の大学に留学したいとのことでした。

パレスチナ問題についてどう思うか聞いたら、私の言ってることが理解できなかったのか、とまどったような顔をして「アラブ人の友達が2人いる」と答えました。
お父さんも一緒に来ていて、「両方の主張が食い違っているから難しい」と話してたそうです。

おそらくこの一家は世俗派の知識人だと思います。
それでも、軍人だから、パレスチナ人にいやがらせをしたり、暴力を振るったりすることもあるかもしれません。
上官や同僚から命令されたらイヤとは言えないでしょう。

イスラエルでは、除隊したあとに世界中を旅行する若者が多いそうです。
世界、そして日本を知ることで、これはおかしいと気づいてくれたら、と思いました。

変化がないわけではありません。
屋上で野菜を作って販売している女性グループや、農産物、工芸品、石鹸などを作っている女性グループの話を聞きました。


黒いタンクは水の貯水用。
ここで野菜を作っています。



少しずつ変わっていくことを期待したいです。

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イスラエルとパレスチナへの旅(3)

2018年09月02日 | 戦争

パレスチナ人の置かれている状況は教えてもらわないと見えてきません。
イエスが生まれたベツレヘムは観光客で賑わい、若者たちは明るく元気そうだし、人々は普通に生活しているようです。
どこが入植地で、どこにパレスチナ人が住んでいる村か、通りすがりの観光客には見分けがつきません。
分離壁もだんだんと見慣れてきます。

しかし、パレスチナ人は追い詰められた生活をしています。
パレスチナ人の問題の一つは住居だそうです。

家屋の建設はイスラエル政府の許可が必要ですが、まず認められることがないので、自分の土地でも家を建てることができません。
許可なく家を建てると、罰金が科せられたり、家は壊されたりします。
昔からある家でも、土地の権利証がないからというので立ち退かされます。

そうして、イスラエルは住居や農地を破壊し、土地を没収して、入植地を作ります。




http://www.afpbb.com/articles/-/2550165?pid=3617349

入植地の中にはアメリカの企業が作ったもの、アメリカ人の入植地もあるそうです。
満州の日本人開拓村は、初期には中国人を追い出して作られたことを思い出しました。

アースキャラバンの日程に井戸の浄化作業があります。
これは、井戸に土を入れて使えなくされるので、その土を除去する作業です。
https://taosangha.com/2017/09/14/j-20170914/

アースキャラバンの旅行は今回で4年目ですが、以前行った村への道路に岩を置いて通行できなくされたので、その村に行けなくなったと聞きました。
そういういやがらせをパレスチナ人は日常的に受けているわけです。

東エルサレムのパレスチナ人地区では、パレスチナ人を家から追い出し、その家にユダヤ人が住んでしまうこともあります。
家を追い出されようとしている男性の話を聞きました。
向かいの家は、もともとパレスチナ人が住んでいたのを追い出し、今はユダヤ人が住んでいます。
その家の壁にはヘブライ語で「自分たちの土地に帰れ」と書いてありました。

https://satoshi-suzuki.com/palestine-east-jerusalem/

ある村は、1948年に完全に破壊され、その後、村人の一部が戻ってきました。
現在の人口は2千人ですが、もとは2万5千人いたそうです。
村は90%がC地区で、分離壁、すなわち入植地に囲まれています。

ほとんど住民が許可なく家を建てましたが、98%の家が家屋の破壊を宣告されています。
3回破壊され、3回再建し、また壊されて家もあります。(家の再建は村人や支援者たちの寄付による)


同じ場所からまわりの景色を眺めると、フェンスの分離壁はあるものの、普通の農村風景です。
説明を聞かないと、この家がなぜ壊れているのか、この村で何が起きているのかがわかりません。



いつでも壊せるんだという無言の脅しに村人はさらされています。

南ヘブロンの村に行きました。






ここの村では、家を壊され、家を建てる許可が下りないので、洞窟を家にしています。
入り口です。


中はこんな感じ。


完成するとこうなります。


便所が離れたとこにありますが、この便所が無許可建築として破壊すると宣告されているそうです。(便所の写真を撮っておけばよかったと反省)
そこまでしても村にとどまるのは、とどまることが抵抗になるからだと話されていました。

パレスチナ人の住んでいる地区・村は水道、電気、ガス、道路などのインフラが整備されていません。
ヨルダン川西岸地区は水の豊富な土地だそうです。
それなのに、水道は月に1回とか、給水車が週に1回来るとか、そういう状態です。
もちろん、入植地にはそういう制限はありません。

パレスチナ人は家の屋上にタンクを設置し、そこに水をためています。


屋上にある黒いタンクがそうです。




屋根を見れば、その家はユダヤ人のものか、パレスチナ人が住んでいるかがわかるわけです。
入植地の家です。

https://blog.goo.ne.jp/azianokaze/e/24147e1e135a0c2d2596e1ea8ef46d67

飲み水はペットボトルを買うので、収入の3分の1が水代なんだそうです。
家を追い出されようとしているおばあさん(孫が4人いる)は、私たちにその貴重なペットボトルをくれようとしました。



パレスチナ人は、これは自分のものだという意識があまりないそうです。

道路が悪くても、整備が許されていません。
勝手に道路を補修すると逮捕されます。

エルサレム旧市街はきれいにされてゴミはあまり見かけませんが、イスラム教徒地区だけは道にゴミが落ちていて、他の地区とはちょっと違った雰囲気です。
聞くところによると、行政はパレスチナ人の住む地区のゴミを回収しないそうです。
たしかにゴミが多い。
旧市街はさすがにゴミの収集をしてるかもしれませんが、回数は少ないでしょう。

それと、男の人がおしゃべりに興じている姿をよく見かけます。
男性がぶらぶらしているように見えるのは仕事がないからです。
説明をしてくれた人に、失業率はどれくらいかと聞いたら、8割ぐらいではないかという返事でした。
パレスチナ中央統計局によれば、2017年の青年(15~29歳)の失業率は2007年の30・5%から41%に増大しています。
ヨルダン川西岸では25.6%から27.2%の増加、ガザ地区では39.8%から61.2%へと悪化しました。
http://blog.livedoor.jp/abu_mustafa/archives/5399251.html
ちなみに、イスラエルの失業率は4.8%です(2016年)。
賃金もユダヤ人とパレスチナ人とでは格差があるそうで、ネットで調べると半分から3分の1です。
http://www.afpbb.com/articles/-/2683688?pid=5153216

壁の中での生活は、夢も希望も、そして仕事もありません。
イスラエル政府は、パレスチナ人の生活を困難にし、圧力を与えることで、パレスチナから出ていかせようとしています。

ただし、パレスチナ人がパスポートをもらうのは難しい。
パスポートがあれば、外国に出ても戻ってくるからです。
そうしたことを多くのユダヤ人は知らないし、気にもかけないそうです。

テロリストを作るのは貧困じゃないんだよ。絶望なんだ。将来に希望があれば貧乏だって耐えられるし、人を愛することだってできるんだ。(『まんがパレスチナ問題』)

エルサレム旧市街では銃を持つ軍人たちをあちこちで見かけました。


野菜を売る女性たちという日常と、武器を持つ軍人(=暴力)という非日常が同居しているわけです。

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イスラエルとパレスチナへの旅(2)

2018年08月29日 | 戦争

1993年、ノルウェーの仲介によってオスロ合意が成立、PLO(パレスチナ解放機構)とイスラエルとの間で暫定自治協定が調印されます。
そして1996年、ヨルダン川西岸地区とガザ地区からなるパレスチナ暫定自治政府が発足しました。

パレスチナ自治政府ができたとはいえ、パレスチナはイスラエルによって実質的に占領されています。
パレスチナ自治区はA地区、B地区、C地区に分けられています。


A地区 濃い茶色の部分。行政権と警察権はパレスチナ自治政府・自治警察が担っている。18%を占める。
B地区 薄い茶色の部分。行政権はパレスチナ自治政府が担い、警察権はパレスチナ自治警察とイスラエル軍が権限を持っている。22%を占める。
C地区 白い部分。イスラエル軍が管理する。つまりイスラエルの完全占領下にある。60%を占める。
http://seichi-no-kodomo.org/2017/02/21/blog-170221/

C地区は軍政下にあるので、普通の法律が適用されません。
軍人がパレスチナ人を殺しても、軍法会議で数か月の刑期ですんでしまうそうです。
ところがパレスチナ人だと、石を投げただけで、16歳以上は懲役1年、16歳以下は懲役6カ月。
案内をしてくれたパレスチナ人の一人は、軍の車に足を轢かれて骨折したそうで、今も足を引きずっていました。
イスラエル軍は、いつでも何でもできることを誇示しています。

ユダヤ人入植地のほとんどはC地区にあり、40万人(東エルサレムを除く)のユダヤ人が住んでいます(2014年)。
C地区はA地区とB地区を取り囲むように設定されており、西岸地区を細かく分断しています。

パレスチナで目につくのが分離壁です。

2002年、イスラエル政府はヨルダン川西岸地区に、入植地とヨルダン川西岸地区を取り囲むように高さ5~8mのコンクリートやフェンスの分離壁の建設を開始しました。
国際司法裁判所は占領地での壁の建設は違法との判断を下していますが、現在も分離壁は建設中で、2017年時点では460kmが完成しています。
http://palestine-heiwa.org/wall/wall.html


http://altertrade.jp/archives/11771

イスラエル政府の説明は「テロリストから入植地を守る」であり、安全保障壁と言っています。
ある場所では、フェンスの分離壁が途中まで建設されていました。
入植地を作る予定だそうです。

分離壁の検問所には、「イスラエル人は生命の危険があるから入らないように」と書かれてあるそうです。
分離壁は自分達を守ってくれていると、ユダヤ人は思っています。
入植者が守られることで、さらに入植者が増えることになります。

手前がフェンスの分離壁。
向こうの丘の上にあるのが入植地の住宅。
丘の下には動物園があり、車がたくさん停まっていました。

分離壁の手前で昼食をとりました。

ここは以前、木がたくさん生えていて、子供たちの遊び場だったそうです。

分離壁の一部が門になっているところがあります。



この向こうにはパレスチナ人の家が1軒だけあり、イスラエルはこの家を壊そうとしたのですが、国際的な注目を浴びて家を破壊できなかったので、門を作り、カメラで監視して、その家の人だけが通ることができるようにしました。

パレスチナ人の村を分断するように分離壁が作られたところもあり、家と畑が分離壁で二分された人、学校や職場に行けなくなった人たちが大勢います。
今まで道路があったところに分離壁ができたので、向こう側に行くためには検問所まで遠回りをしないといけません。
しかし、検問所は通行制限が厳しく、パレスチナ人が通過するのは面倒です。
そんな簡単に行き来はできません。

分離壁をハシゴやロープで越える人もいるそうです。
ハニ・アブ・アサド『オマールの壁』に、分離壁を越えるシーンが何度か出てきます。


分離壁のすぐ横にザ・ウォールド・オフ・ホテル(世界一眺めの悪いホテル)があります。
バンクシーや多くの人が分離壁に絵を描いている場所です。
https://www.huffingtonpost.jp/2017/03/04/banksy_n_15150968.html




ホテルから北に8分ぐらいのところに検問所があるので行ってみました。
ここは車と歩行者との検問所が別になっています。


歩行者はここを通ります。


歩行者の検問所から出てくる人。


歩行者の検問所の前はタクシーがたくさんいて、野菜や果物の売ってて、バザールのようです。

イスラム教徒の女性は外に出ることがあまりなく、買い物は男性の仕事だそうですから、お父さんが仕事から帰りに晩ご飯のおかずをここで買うのでしょうか。

私は、ヨルダン川西岸地区のベツレヘムに行くときは検問所を通らなかったと思いますが、帰りはパスポートのチェックがありました。



この若い軍人はパレスチナ人にはいじわるをするのか、と思いました。

外国の空港に入国するとき、パスポートに入国スタンプを押してもらいますが、イスラエルではそれはありません。
イスラエルでは青色の入国(滞在)許可証をもらいます。
http://eurasia-walk.sub.jp/abroad/2015israel/2015israel01.html
パスポートにイスラエルのスタンプを押されると、イスラエル入国履歴が残り、入国を認めない国があるからだそうです。

帰国する前日、食事をしながらみんなと話していると、入国許可証の話になり、「これがないと出国できない」と言われました。
しかし、私はもらった記憶がないし、そんなものが必要だとも聞いていませんでした。
あせってスーツケースやバッグを調べましたが見つからない。
うわ~、どうしようと必死になって何度も調べたら、スーツケースからやっと発見。
助かったと思いました。
入国許可証の存在を知らないままだったら、この軍人にいじわるされるどころの話ではなかったでしょう。
ああ、よかった。

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イスラエルとパレスチナへの旅(1)

2018年08月24日 | 戦争

アースキャラバンのツアーに参加して、イスラエルとパレスチナ(ヨルダン川西岸地区)に行ってきました。(全日程の半分の参加)
https://www.earthcaravan.jp/ec2018/ec2018_MEtour.php
エルサレム旧市街や死海などを観光しましたが、目的はパレスチナ人の話を聞き、パレスチナの現状を見ることです。

一緒に行った人がブログを書いています。
https://satoshi-suzuki.com/palestine-east-jerusalem/

イスラエル政府・軍人・入植者たちがパレスチナ人に対して弾圧・迫害・いやがらせなどをしていと聞いて、最初は、なんぼなんでもそこまでは、と感じました。
しかし、何人ものパレスチナ人から話を聞き、実態を目にすると、こりゃひどい、なんとかできないものかと思いました。
じゃ、私は何ができるのか。

パレスチナ問題に関する本やドキュメンタリーはたくさん作られているし、ネットでも多くの記事を読むことができます。
みんながよく知っていることなら、今さら私が書くこともないかもしれません。
しかし、あるパレスチナ人の「自分たちのことを1人でも多くの人に伝えてほしい」という言葉を聞いた者の責任として、私の見聞したことをご紹介したいと思います。

パレスチナはどこにあるのか、パレスチナ人は誰のことなのか、今までの経緯は、といったことを私自身もよく知らなかったので、まずはそこらあたりから。
岡真理さんの話がわかりやすいと思います。
 

山井教雄『まんがパレスチナ問題』やネットなどを参考にして、私なりにまとめてみました。
パレスチナとは、ヨルダン川以西のイスラエルを含む地域を指します。
近代以降、世界各地から移住してきたユダヤ人(ユダヤ教徒)に対して、パレスチナに在住するアラブ人がパレスチナ人と呼ばれます。

パレスチナの人口は495万人、ヨルダン川西岸地区が約300万人、ガザ地区が約194万人です(2017年)。
パレスチナ難民は国内外に約587万人います(2017年)。

19世紀になり、ユダヤ人の中からパレスチナにユダヤ人国家を建設しようというシオニズム運動が起こり、19世紀末からユダヤ人のパレスチナ入植が始まりました。
1917年、イギリスはパレスチナにユダヤ人のホームランド(ユダヤ人の国)建設を認めます。
当時、パレスチナには70万人くらいのアラブ人が住んでおり、6万人程度のユダヤ人と共存していました。
第一次世界大戦後の1922年から、パレスチナの委任統治をしたイギリスは、ユダヤ人を無制限に移民させ、国造りの準備をしました。

そして、1948年にイスラエルが建国されます。
当時の人口は197万人で、そのうちユダヤ人は60万人でした。
パレスチナ人との間で内乱状態になり、70万人以上のパレスチナ人が逃げ出して難民となりました。
パレスチナ難民は70年も不安定な生活を強いられているのです。

1949年、第1次中東戦争後の休戦調停で、エルサレムは東西に分割、西エルサレムを含む地域はイスラエルが、東エルサレムを含むヨルダン川西岸地区はヨルダンが統治することになりました。
聖地がある旧市街は、東エルサレムの中にあります。
といっても、東西エルサレムの間に境界があるわけではありません。



https://www.ngo-jvc.net/jp/projects/palestine/health-education.html

1967年の第3次中東戦争で勝ったイスラエルは、東エルサレムを含むヨルダン川西岸、ゴラン高原、ガザ地区、シナイ半島を占領しました(1982年にシナイ半島からは撤退)。
この戦争でも100万人が難民となっています。


http://ccp-ngo.jp/palestine/

イスラエルとパレスチナは何度も和平交渉を行い、合意することもありました。
しかし、イスラエルは「神がユダヤ人に約束をした土地だ」「昔からそこに住んでいる」と言い張り、アラブ人は「7世紀以来、アラブ人が住んでいる」と主張、どちらも妥協しません。

『まんがパレスチナ問題』の中で、山井教雄氏は少年にこのように言わせています。

宗教は人間の最善の部分を引き出すように作られてるはずだけど、時として、人間の一番邪悪な部分、「憎しみ」を引き出す。経済が原因の戦争なら、大損すれば戦争をやめるのだが、宗教がらみで「聖戦」となってしまうと、損をしようが、自分が滅んでしまおうが戦いをやめない。


圧倒的な軍事力を持つイスラエルは、パレスチナ人から土地を取り上げ、ユダヤ人入植地をどんどん建設し、東エルサレムやヨルダン川西岸地区の支配を既成事実化しようとしています。
しかし、それは国際法上の違法行為です。
国連安全保障理事会は、ヨルダン川西岸地区と東エルサレムでイスラエルが進める入植地建設を違法だと非難しています。
https://www.bbc.com/japanese/38425927
にもかかわらず、現在も入植地は新しく作られ、それにともないパレスチナ人は迫害され、追い出されているのです。

http://palestine-heiwa.org/map/s-note/

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旗手啓介『告白 あるPKO隊員の死・23年目の真実』

2018年08月20日 | 戦争

1992年、国連カンボジア暫定統治機構(UNTAC)に、自衛隊と75名の警察官が派遣されました。
文民警察官としてPKOに従事していた岡山県警の高田晴行さん(33歳)は、1993年5月4日に「正体不明の武装勢力」(おそらくポル・ポト派)に襲撃され、殺害されます。
旗手啓介『告白 あるPKO隊員の死・23年目の真実』はNHKスペシャルで放送されたものを基に、加筆して書籍化した本です。
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/54154

1991年10月、パリ和平協定が締結し、内戦を続けてきた四派が和平協定に調印し、20年以上続いたカンボジア内戦が終結した。
1992年3月、UNTACが活動を開始。
1992年6月、PKO協力法案が成立。
ポル・ポト派は武装解除を拒否、ポル・ポト派抜きで武装解除を進めることをUNTACは表明。
1992年7月、政府調査団がカンボジアに向かう。
1992年9月、警察庁が先遣隊を派遣し、情報収集を行う。

各国の文民警察隊を束ねるオランダ人の本部長は、治安情勢について説明し、最も危険な地域の一つがタイ国境に近いアンピルだ、と語った。
「アンピルは無法地帯というべき地域です。毎日のように殺人事件が起こっていますが、捜査はされておらず、訴追されることもなければ、罰も与えられてもいません」
高田晴行さんたちはアンピルに派遣されています。

1992年10月、75名の隊員は成田を出発した。
勤務は9か月。

自衛隊にはメディアは関心を持ったが、文民警察はあまり注目されていない。
自衛隊の活動地域であるタケオはカンボジアでも安全な地域の一つだった。
タケオの自衛隊宿営地は、プレハブの宿舎の中にレクリエーション施設があり、自動販売機で日本製のビールが購入でき、自前の風呂も作られるという、参加各国の中でも最も恵まれた宿営地という評判だった。

その一方、文民警察官は任務地さえも決まっていなかった。
日本の文民警察官は、32カ国の中で31番目に現地入りをしているから、配置場所のいいところは各国にとられていた。

文民警察官の実際の任務は選挙のために村や町に赴き、住民たちに選挙とは何かを教え、有権者登録用の顔写真を撮影するなどの業務を支援する役割だった。

1992年10月27日、アンピル班10名の任務がスタートした。
アンピルはタイとの国境に近く、プノンペン政府の力が及ばない場所だった。
カンボジア全体に大量の地雷が埋設されており、アンピルのあたりもポル・ポト派が地雷を埋めていた。

ポル・ポト派は停戦違反をし、各地で他派や国連を攻撃した。
内戦状態のため、自動小銃を一般市民も持ち歩き、簡単に人が殺され、死体がゴロゴロしている。
目の前で起きていることは戦争そのものだった。

元隊員の日記やビデオには、「戦闘が起こると防空壕に身を潜めるしかなかった」「市街戦そのものの戦場」とある。
ところが、パリ和平協定によって停戦合意が成立し、それを前提としてPKO協力法が可決され、自衛隊や警察から派遣されている。

日本政府としては「紛争地域に行くわけではない」という前提だった。
文民警察官は特別な装備や銃を携行しておらず、丸腰の状態で、隊員のほとんどは海外勤務の経験がなく、事前準備もなかった。

班長だった川野邊寛さんはこう語ります。
「PKO協力法の根底にあるのが、紛争地域に行くのではない、和平条項が締結されて安全なところに行くんだと。だから自衛隊も緊急避難の際に使用する機関銃は一丁でいいじゃないかと、二丁はダメだと、そういう議論になっていたわけですよね。文民警察はあくまで文民なんだ、平和なところへ行くんだ、(略)そういう根底からの雰囲気ですよね」

1993年1月13日、カンボジア北西部のアンクロン村にある日本人文民警察官の宿舎などが武装集団に襲撃された。
文民警察官は防空壕を作り、砲撃があると、防空壕へ逃げ込んだ。
1993年4月8日、国連ボランティアの中田厚仁さんが殺害された。

そして、1993年5月4日、ポル・ポト派の襲撃により、高田晴行さんが殺害、日本人2人が重傷、2人が軽傷。
停戦の合意が崩れていないことにするために、襲撃は正体不明の武装勢力によるものとされた。

スウェーデンやオランダではカンボジアPKOに関する検証がなされているのに、日本は検証を行なっていないそうです。
高田晴行さんが殺害された責任は曖昧なままなのでしょう。

2016年7月11日、菅義偉官房長官は南スーダンの情勢について「PKO法における武力紛争発生とは考えておらず、参加5原則が崩れたとは考えていない」と述べています。
ところが、廃棄していたと言っていた日報には「戦車や迫撃砲を使用した激しい戦闘が確認される等、緊張は継続」などと書かれてあることが判明しました。
https://mainichi.jp/articles/20170208/k00/00m/010/154000c
カンボジアPKOから何も学ばないまま20年以上が経ち、政府は相変わらずウソをついてごますという点では少しも変わっていません。

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本願寺の戦争協力

2018年01月31日 | 戦争

某氏より「非戦平和を願う真宗門徒の会会報 5号」をいただきました。
西本願寺の方が何人か寄稿してます。
本願寺の戦争協力について知らないことがたくさんあるもんだと、あらためて思いました。

藤本信隆「門信徒との課題の共有」

本願寺教団の戦争協力はアジア太平洋戦争からではない。
西南戦争に始まり、日清戦争を経て、日露戦争でほぼ形ができ上がった。
根拠となる教学は西本願寺門主の大谷光尊(1850~1903)の「後の世は 弥陀の教えに まかせつゝ いのちをやすく 君にさゝげよ」という真俗二諦だった。
死んだらのことは阿弥陀仏にまかせ、現世は国家の方針に従うという生き方である。

松橋哲成「浄土真宗と教育勅語」

真俗二諦とは、近代の本願寺教団が天皇絶対主義体制に順応するために生み出した論理である。
浄土往生のための信心と、日常生活のための世俗倫理を二分化させ、この世はその場の状況に合わせるという生き方であり、俗諦の具体的内容こそが教育勅語だった。
教育勅語に対する方針は、天皇陛下の意を一日中、心にとどめ、これを永遠に伝えることと規定した。(1891年)

大谷派の暁烏敏は「お勅語を飛行機で運んでいこう。お勅語を軍艦で運んでいこう。大砲でお勅語を打ち込もう。重爆でお勅語をひろめよう」(『臣民道を行く』)と書いている。


藤本信隆「門信徒との課題の共有」

大谷光瑞(1876~1948)は「出征軍人の門徒に告ぐ」という小冊子と懐中名号を約44万人の将兵に贈呈した。

小冊子の内容は、平和を求めるためという戦争の正当性、命の無常と意義ある戦死、阿弥陀の救いがあるという安心、天皇の心の理解と報恩の実践などである。

正義の戦争では殺生戒を犯したことにはならない。
戦闘中に恐怖心が起きても、阿弥陀仏の慈悲を思い出して念仏を称えたら、戦死しても極楽往生できる。
戦死は天皇のために命を捧げ、靖国神社に祀られる名誉であり、身に余ることである。

旅順攻撃の時、称名念仏しながら突撃することがあり、石川、富山、福井の連隊で構成された第九師団の中には、多くの戦死者を出して「念仏大隊」と賞賛された大隊があった。


松林英水「戦時中の仏教界のスタンス」

日本の仏教界では、各教団が組織を挙げて報国運動をおこなった。
しかし、中国の仏教界では、全国の仏教徒に抗日救国を訴え、抗日運動を展開した。

中心となった圓瑛法師は1931年、9.18事件(満州事変)の時に日本の仏教界へ「日本仏教界への書」というアピールを出し、戦争停止の呼びかけを行なった。


満州事変での呼びかけは次のような内容だった。

わが釈迦牟尼仏は慈悲平等をもって世を救うことを願われ、われら仏教徒は共にこの仏の素懐を体し、仏の教えを宣揚すべきであります。日本は仏教を信奉する国であり、国際的に慈悲平等の精神を実践し、東アジアに平和をもたらし、世界平和をさらに進めるよう尽力すべきであります。しかしながら、日本の軍隊が侵略政策をもって中国領土を占領し、中国人を惨殺するとはどういうことでありましょうか。これは日本政府の主張でもなく、日本人の意志でもありますまい。軍を掌握し、私利を図り、国家の名誉を顧みない少数の野心家たちの犠牲になったのであります。皆様が出広大舌相して共に無畏の精神を奮って全国民を喚醒せしむるよう努力し、日本政府に陳情書を提出して、中国における軍閥の暴行をやめさせ、国連の事案を遵守し、即日撤退されるよう切に望むものであります。


1937年の7.7事件(蘆溝橋事件)の時にも、圓瑛法師は「日本仏教徒に告げる」を発表している。

これに対して日本の明和会(仏教各派の代表者や有識者によって組織されていた)が「全支那仏教徒に誨(おし)ふ」という反論の文書を出し、このたびの戦争を「道の戦」であるとし、「真に人道正義国権擁護の為に億兆一心の生命威力を発揮するに至った」ものであると唱えた。

そして、「東亜永遠の平和を確立せむが為に仏教の大慈悲発して摂受となり又折伏となる。この已むに已むを得ざるの大悲折伏一殺多生はこれ大乗仏教の厳粛に容認する処である」と断じている。
さらには「皇国日本」の行う戦争を仏教の名において支持した。

太虚法師の日本仏教界への呼びかけは日本の敗戦まで計9回に及んでいる。

満州事変の時の呼びかけには、台湾・朝鮮・日本の仏教徒が速やかに連合し、日本の軍閥・政客の非法な行動を制止させるよう訴えた。

蘆溝橋事件の後に出した「全日本仏教徒に告げる」では、日本は軍事行動を停止すべきであり、日本の仏教徒は慈悲の心と智慧の眼を開いて自らを救い、人を救うべきであると訴えている。

これに対して、日本仏教連合会は、今日の情勢は中国が日本に恨みや憎しみをいだいたためにもたらされたものであり、太虚法師こそ迷蒙の人々を覚醒せしめ、抗日の心理を対日提携の心理に変えてゆくべきであると返答をしている。

仏教を学び、教えに従って修行をしていても、こんな体たらくとは。
仏道の実践は至難の業ということでしょうか。

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真俗二諦と戦争協力

2018年01月26日 | 戦争

浄土真宗には真俗二諦という考えがあります。
WikiDharmaの説明です。

仏法を真諦、王法を俗諦とし、広くいえば成仏道を真諦、世俗生活を俗諦とよび、この両者の関係について別体説にたって関係を論じたり、真諦より流出する俗諦として説いたりしてきた。

http://urx.blue/IekU

中島岳志『親鸞と日本主義』に、真俗二諦についてこのように書かれてあります。

王法(天皇への絶対的帰依)が仏法(浄土真宗の信仰)と相反するとき、仏法に立って王法を否定すると、権力から弾圧を受けることになるので、真宗教団は日常の世俗レベルで王法を受け入れることで、仏法を守ってきた。
教団は国体の論理を俗諦(王法)として受け入れたが、真諦(仏法)を俗諦である国体より上位に置くことは、天皇の大御心よりも崇敬すべき存在を認めることになる。
文部省は真俗二諦論を問題視し、是正を求めた。
そこで、1941年2月13日、大谷派は真宗教学懇談会を開き、戦時体制にいかに対応すべきか、教学のあり方についての討議を行なった。

前にも書きましたが、大谷派の著名な先生方がトホホすぎるの発言をしています。

http://blog.goo.ne.jp/a1214/e/6d4a2f7d267ca715f51b011a9fb9b108

座長の挨拶でこんなことを言ってます。

政府も近来宗門の教義に対してその内容を検討し、国体の本義と国策に矛盾するものはこれからどしどし廃して聖戦に邁進しようとする意図があるのであります。だから吾宗門に於ても来る四月には新宗憲発布にあたり教義を新解釈して高度国防国家に資せんと致して居ります。

つまり、つまり時代に合わせて経典の解釈や教学の内容を変更しようということです。

真俗二諦に関係する先生方の発言をご紹介します。

曽我量深「死ぬときはみな仏になるのだ。国家のために死んだ人なら神となるのだ。神になるなら仏にもなれる。弥陀の本願と天皇の本願と一致してゐる」

竹中茂丸「どうしても宗門の上で阿弥陀と天皇と一緒にしなければならぬのか、それでなければ真宗は成り立たぬのか、別でもよいか、はつきり云つて欲しい」


金子大栄「阿弥陀の本願そのまま神の本願なり。(略)仏法は神の云ふことを仏が云つたと見てよい。(略)仏の御国が神の御国となることは間違ひない。(略)浄土の念仏がそのまま神の国への奉仕である」


曽我量深「教行信証の総序こそは教育勅語に対する仏教徒の領解である」


長谷得静「西派の人が文部省に行つたとき俗諦に就いての質問があつて、真諦即ち安心より流れるものが俗諦門であると説明したが、それならば二つ並べて書かなくてもよいのではないか(略)、といはれた。それで西派では真俗二諦を削除したといふ」


暁烏敏「今日のやうな時に王法を俗諦とすれば問題がある。仏法の教が大事か天皇の教が大事か、山﨑闇斎の話のやうに孔孟が日本をせめよせる話の通りで、今日では仏教に同様の問題が起つてゐる」


暁烏敏「皇法は大御心で、皇法のなかに仏道と臣道とがある。皇法は絶対でそのなかから仏法と臣道がある」

皇法とは王法のことです。

暁烏敏「職域奉公は臣道であるから、その意味では仏道即臣道である。皇道の中に臣民道と仏道とがあるといふが、仏道の中に臣道もあるでせう」


大須賀秀道「皇道を本とすべきか、真宗精神を本とすべきか(略)。皇道精神と真宗精神と一致で天皇に向へば皇道となり、仏に向へば真宗精神となることになれば簡単である」


津田賢「皇道精神と真宗精神の問題が出る。今は皇道精神でいかねばならぬ」


津田賢「吾々は指令あれば死力を尽してやる覚悟がある。宗門は単なる私的団体でなく、死を尽して国家に奉公する団体である」


木津無庵「金光教本部では、文部省との相違は私の方では元々丑寅の金神であつたが文部省に届けるとき天地金ノ神としたが、天地の金神は神社名簿にないからといふことでその結果月の大神、日の大御神、金の大神としたのであるといふ。教祖の御承知のない神が祭神となつてゐる」


木津無庵「天理教の祭神も最近宗教局の警告で、改めて目下教義の改造中である」


河崎顕了「真俗二諦は余り狭く説かれてゐたと思ふ。教育勅語を説く教へでなければならぬ」


木津無庵「石山合戦のとき、此の戦ひに参加するものは浄土往生すると証如上人がいはれたと云ふが、今日それが必要である。皆が安心して爆弾のもとに死ぬ覚悟を与へねばならぬ。(略)爆弾が落ちても安心できる。それは浄土往生が出来るとの信念である。(略)あやまれるものを正しくするのが聖戦である。それが仏行だ。されば此の戦ひに従事するものは菩薩行なり、此の菩薩行に参加するものが浄土往生してすぐ還相回向の働きをするものと思ふ」


金子大栄「仏教とか真宗とかの立場を捨てると、それは怪しからぬことと思ふが、元々仏教は立場を持たぬことと思ふ。(略)十年前は私も立場をもつてゐたため、皆さんに御迷惑をかけました」

10年前に迷惑をかけたというのは、1925年に『浄土の観念』の内容が異安心とされ、1928年に大谷大学教授を辞任したことだと思います。

金光教は、文部省が許可しなかったので、教祖の知らない神を祭神としたり、天理教は教義を変更しようとしたとは驚きです。

大谷派だって、さすがに本尊を変えることはしてませんが、似たり寄ったり。
どうしてこんなことになったのでしょうか。

東晋の時代(4世紀)、沙門不敬王者論といって、桓玄が沙門に帝王への拝礼を強要したのに対して、廬山慧遠は沙門は帝王に拝礼しなくてもよいと説きました。

慧遠のような僧侶がいないということかもしれません。

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テロと死刑

2018年01月09日 | 戦争

去年、ジッロ・ポンテコルヴォ『アルジェの戦い』(1966年)を見ました。

1956年から1957年にかけての、アルジェリア民族解放戦線(FLN)の独立闘争とフランスの弾圧をドキュメンタリータッチで描いた映画です。
警察や軍隊とFLNとの市街戦、テロに巻き込まれる一般市民がリアルに描かれています。

映画の背景を滋野辰彦氏はこのように説明しています。

第二次世界大戦が終結してアルジェリア独立運動が始まると、フランスは軍隊を介入し、アルジェリア人4万人が殺されて、反乱は鎮圧された。
1954年にカスバで暴動が起き、ヨーロッパにまでテロが拡大し、1957年にフランス軍が侵攻した。

『アルジェの戦い』は1967年キネマ旬報ベストテンで、301点のダントツの1位でした。

37人の選者のうち、1位にした人が15人、2位にした人が9人、3位にした人が3人、選外が2人(読者(女)を含む)です。
2位の『欲望』が181点、3位の『戦争は終った』が180点ですから、圧倒的に支持されたわけです。

品田雄吉氏は『キネマ旬報ベストテン』に、「アルジェ独立をめぐるすさまじい内戦を描いた内容が、学園紛争の時代にアピールしたといえるだろう」と書いています。
しかし、現在の視点で見れば、アルジェリア民族解放戦線のしていることは一般市民を狙った無差別テロです。

たとえば、チャドルを来た女性たちがレストランに置いた時限爆弾が爆破し、子供を含む多くの市民が殺傷されます。

テロに対する警察の厳しい取り締まりや拷問もやむを得ないのではと思うほどです。
滋野辰彦氏によると、当時、フランス共産党も機関誌に「爆破者を鎮圧すべし」と書いているそうです。

FLNのテロリストたちはカスバに隠れ、カスバから出てはテロを行い、またカスバに戻る。

フランス軍はFLNの隠れ家を急襲し、カスバに爆弾を仕掛ける。
双方が報復を繰り返し、憎悪が拡大する。
ドゴールがアルジェリアの独立を認めようとして、アルジェリア独立阻止する組織OASに何度も暗殺されそうになる。
どうすればよかったのか、まさに悲劇です。

FLNやフランスのマチュー中佐の言い分はどちらももっともですが、しかしテロや武力による弾圧を美化すべきではありません、

永山則夫裁判の控訴審での裁判官だった櫛渕理氏は、三島由紀夫の切腹事件で起訴された盾の会会員3人の裁判での裁判長を務めています。

堀川惠子『死刑の基準』に櫛渕理氏のこんな発言が引用されています。

どうも日本人は異常なことをやる人に、拍手喝采する傾向が見えるようですなあ。ぼくはこれが日本人の大きな欠点だと思うんですよ。異常なことに情緒的に肩入れするのは悪い癖ですよ。(略)
明治維新のときもそうです。志士と称する法律的には殺人犯が革命をした結果、『勝てば官軍』でいっさいが許されてしまった。もし、その考えを推し進めていくと、人間対人間が文字通り血みどろな闘争をする時代へもどってしまう。人間が長い間、築いてきた文化はどこへ行ったといいたいですね。近代的な法治国家において、クーデターは許されません、絶対にね。(「文藝春秋」1972年7月号)

ちなみに、三島由紀夫は浅沼稲次郎を刺殺した山口二矢をほめていました。

香山リカ『「悩み」の正体』に、

死刑を国家が行使する暴力と考えれば、国家の暴力に対して国民は寛容になっている。いや、むしろ国家の暴力を待望している。

とあります。
「死刑」を「戦争」に置き換えてもいい。

アレハンドロ・モンテベルデ『リトルボーイ』では、父が志願して戦争に行くが、日本軍の捕虜になります。

父のために少年が念力を太平洋のかなたに送りつづけてたら、広島に原爆が落ちて、町の人は大喜び。
喜ぶのはわかりますが、日系人と親しくなっている少年や町の人は原爆という国家の暴力が大勢の一般人を無惨に殺したことをどう思ったのか、『リトルボーイ』はそのことに触れません。

世界貿易センターの崩壊に中東の人は喝采し、ビンラディンの暗殺にアメリカ人が称賛するのと同じように、暴力を待望することは他者の傷みに無神経だということです。
安保法制が成立し、改憲の日程まで決まりつつあり、また北朝鮮に対するネットの意見を考えれば、香山リカ氏の指摘はそのとおりだと思わざるを得ません。

辻邦生『背教者ユリアヌス』は、キリスト教を公認したコンスタンティヌス大帝の次の皇帝ユリアヌスが主人公です。
キリスト教の公認を改め、優遇措置を廃止したユリアヌスを、辻邦生氏は排他的なキリスト教徒に比べて寛容な人間として描いています。
ユリアヌスがキリスト教司教に語ります。

真理がなんで自らの手を血で汚す必要があろう。正義がなんで自らを不正な手段でまもる必要があろう。(略)私は人間を自由のなかに放置する。私は人間を強制しようとは思わない。百年たっても人間は愚かであるかもしれない。五百年たっても人間は自発的に正義を実現しようとはしないかもしれない。千年の後にもなお絶望が支配しているかもしれない。しかし人間が人間を自由な存在としたこと自体が、すでに正義の観念を実現したことなのだ。

真実や正義を主張するのなら、人の血を流すことや、不正を働くことは矛盾です。
しかし、正義のイスに座り込んだら、そのことに気づかないのでしょう。

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増田弘『石橋湛山』

2018年01月04日 | 戦争

石橋湛山は1884年(明治17年)生まれ、1911年(明治44年)に東洋経済新報社に入社、1924年(大正13年)主幹になります。
増田弘『石橋湛山』によって、石橋湛山は戦争についてどんな考えを持っていたかを見てみると、先見の明があったことに驚きます。

1905年、早大生だった石橋湛山は、日露戦争の従軍布教師として満州に派遣されていた養父に送った手紙に、「従軍布教なるものに何等の意味をも発見し能はず」と、国に命を捧げることを美徳とする風潮を批判しています。

東洋経済新報社は「小日本主義」を提唱し、領土拡張や保護政策に反対でした。

石橋湛山は東洋経済新報社に入社してまもなくの1912年9月(明治45年・大正元年)には、

輩は日清戦争の当時、一人の非戦論がなかったことを今に遺憾に思う。日露戦前にあたり、十分に反対論の挙らなかったことを強く残念に思う。

と書いています。

・アメリカの日本移民排斥問題

1913年、カリフォルニア州で「排日土地法」が成立し、日本政府は抗議、メディアはアメリカを攻撃した。
ところが、湛山は日本の対米移民の必要性を否定した。
アメリカの排日運動は理屈ではなく、人種の相違に基づく〝感情〟問題である。
この問題は日米二国間だけでなく、一般的問題だから、受け入れるアメリカ側の立場も考慮すべきである。
当時の常識とされた人口過剰に伴う移民必要論を斥け、相手側の感情を害する移民奨励に警鐘を鳴らした。

1919年の国際連盟規約委員会で日本代表は、アメリカやカナダなどで日本移民が差別されている現状を捉え、「人種差別待遇撤廃」を提言したが、湛山はその非を論じる。

人種差別待遇の撤去に異議はないが、「差別待遇を、我国自身が内外に対して行い居る」ことを忘れてはならないと強調し、中国人労働者への入国差別、台湾人や朝鮮人への内地入国や土地所有などに対する差別を挙げる。
そのような差別をしている日本人が白色人種の有色人種に対する差別待遇の廃止を訴えたところで、何の権威があろうと皮肉っている。

・第一次世界大戦

第一次世界大戦の日本参戦は我が国の利益にならないと、反対を唱えた。

戦争は総ての場合に於いて利益を生む者にあらず。然るに之れに費す処は巨額の軍費と生霊あるのみならず、更に世界の信用制度を破壊し、自国民の生活をも、他国民の生活とも困難に陥るること、現に欧州の戦乱が我が国に及ぼせる影響に依っても知るを得べし。

第一次世界大戦の終結後は、ドイツの利権を奪うことを批判した。

亜細亜大陸に領土を拡張すべからず。満州も宜く早きに迨(およ)んで之れを放棄すべし。

湛山は帝国主義的な利権獲得政策はもはや時勢に合致しないと、帝国主義の限界を説いた。
ベルサイユ条約の内容について、戦勝国のドイツに対する領土割譲、軍備制限、賠償金請求が不公平、苛酷だと論じた。

シベリア出兵の意義を認めず、早期撤退と、ソビエト政権の即時承認を求めた。

十個師団の駐兵は月々数千万円の軍費に加え、輸送に多数の艦船を必要とし、金利は暴騰して有価証券は暴落すると、軍事的、経済的見地からも批判した。

・中国、朝鮮

1915年(大正4年)、中国に対する二十一カ条要求にも反対し、中国の反日感情が勃興し、これに日本側が反発することで日中関係が緊迫すると説いた。

隣り同士が互に親善でなければならぬ。礼節を守らなければならぬと云うは、決して個人間のみの事ではない。

国内外での中国人や朝鮮人差別に対しても厳しく批判した。

1919年の、朝鮮独立を求める三・一運動について、朝鮮民族が独立を回復するまで抵抗を止めないと予想し、朝鮮の独立を認めるべきであると主張した。

・満州問題、中国での利権

1910年代初頭以来、小日本主義を提唱し、満州放棄と植民地全廃論を掲げてきたが、石橋湛山は1920年代に満州放棄論を論じている。

満州は中国領土の一部であり、中国人を主権者とする外国の地である。
満州を併合しようとすることは、対日感情を激化させ、諸外国から非難を被ることになる。
また、日本が植民地を領有しても、期待するほどの利益を日本にもたらさない。
日本は海外領土を持つだけの国内資本に恵まれていない上に、植民地領有は軍事支出を増し、国家財政を圧迫する。
ところが、日本では「戦争は儲かるもの」「領土や賠償金を獲得できるもの」という戦争観に固執している。
そのような帝国主義路線は、日中関係ばかりでなく、日本の国際的孤立をもたらし、日米間の軍拡競争を復活させ、日米開戦という最悪のシナリオを予感させる。
満州や山東その他の在中国利権を日本がすべて放棄して開放するよう主張した。

1921年のワシントン会議に向け、軍備撤廃論を提言した。

対米戦争を避けるためには、日本が全植民地を放棄し、日米両国が軍備を撤廃し、日米が協力してイギリス勢力を極東から排除すべきだと説いた。
満州事変、満州国建国も批判している。

・日独伊三国軍事同盟

自由主義・個人主義の思想を擁護し、全体主義の思想を斥けた石橋湛山は、日本外交は対独伊接近策ではなく、米英両国との関係改善策に重点を置くべきであり、それが現状打開につながると主張した。
ドイツに媚びる日本の態度は「卑屈で正視に堪えぬ」と批判。

石橋湛山は戦時中も所信を貫いており、非戦論がぶれることはありませんでした。

よく逮捕されなかったものです。

1956年(昭和31年)に首相に指名された石橋湛山が閣僚名簿を昭和天皇に内奏すると、天皇は「どうして岸を外務大臣にしたか。彼は先般の戦争に於て責任がある。その重大さは東条以上であると自分は思う」と発言した。


脳血栓で2カ月で退陣しますが、任期を全うしていたら、岸信介とは政策、特に対米、対中政策は大きく違ってたでしょう。

残念至極です。
石橋湛山の主張は今こそ耳を傾けなければいけないと、『石橋湛山』を読んで思いました。

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東学農民戦争での日本軍の虐殺

2017年12月04日 | 戦争

伊藤智永『忘却された支配』は、東学農民戦争での日本軍の虐殺について触れています。
日清戦争では日本と清が朝鮮で戦い、朝鮮国民はひどい目に遭ったと世界史で習った記憶がありますが、それは正確ではありませんでした。
また、東学党の乱とは東学党という新興宗教の信者が起した反乱かと思ってたら、現在は「東学農民戦争」「甲午農民戦争」と呼ばれており、第一次と第二次蜂起があったことも知りませんでした。

そこで、中塚明、井上勝生、朴孟洙『東学農民戦争と日本』を読みました。
「東学党」という党はないし、「東学党の乱」という呼び方は、農民の決起を反乱だと見なした政府や役人の呼び方である。
第一次蜂起は朝鮮政府への蜂起だったが、第二次蜂起は日本軍と朝鮮の傀儡政権を相手にした戦争だった。
1894年(明治27年)春、圧政に反対する農民の反乱があった。
この第一次蜂起は農民軍が27か条の要求を提出して政府と和解した。

7月23日、日本軍は王宮の景福宮を襲って国王をとりこにし、ソウル城内の軍事施設を占領して朝鮮軍を武装解除、日本の言いなりになる政府に入れ換えた。
清とは、25日に豊島沖海戦、29日に成歓の戦いが行われ、8月1日に日清両国が宣戦布告をした。
清と戦争をする前に、まず国王を押さえたわけです。

戦史には、王宮から朝鮮兵に撃たれたので、やむを得ず応戦し、国王を保護したとなっています。
しかし、日清戦争開始直前の朝鮮王宮占領について、陸軍参謀本部の記録が残されています。
このことは公刊されている陸軍の日清戦史には書かれてないのです。
なぜなら、「清国が朝鮮の独立をないがしろにしている。日本は朝鮮の独立のために戦う」というのが日本の大義名分だったのに、まず最初に王宮を占領しているのはまずいからです。

そもそも日清戦争は、伊藤博文たちが反対していたにもかかわらず、陸奥宗光の策略によって起きました。
朝鮮政府を「狡猾手段」で脅し、清国兵の撤退を日本に依頼させるよう仕向けたのです。

10月、日本軍の王宮占領と国王の拘束に、全土の半分で農民が再び一斉蜂起した。
しかし、火縄銃とライフル銃、農民ばかりの軍と近代的な訓練を受けた軍隊との戦いのため、農民軍は敗退し、日本政府・朝鮮政府軍の方針で皆殺しの目に遭った。

朝鮮全体では約4千名の日本軍が動員された。
農民軍の参加者は数十万人、死者は3万~5万人と推定される。
日清戦争の死者は、日本が約1万3千人、清が約3万5千人だから、もっとも犠牲が大きかったのが朝鮮人で、その大半は日本軍に殺された。

1894年10月27日、参謀次長兼兵站総監だった川上操六少将は「東学党に対する処置は厳烈なるを要す。向後悉く殺戮すべし」という命令電報を現地司令部に送っていると、仁川兵站監部の日誌「南部兵站監部陣中日誌」に記録されている。
現地では川上操六の「悉く殺戮」という命令が実行された。

農民軍の死者は戦闘中だけでなく、捕まった後に殺されている者も多い。
朝鮮は日本の交戦国ではなかったし、仮に交戦国であったとしても、敵国の捕虜は国際法の捕虜取り扱いの慣行によって、将校であっても殺害されることはない。
しかし、東学農民軍に対して、日本政府と日本軍は国際法を意に介さなかった。

東学農民軍討滅専門部隊は後備第十九大隊三中隊で、大隊長は南小四郎少佐。
3つの街道を三中隊が南下し、「党類を撃破し、その禍根を剿滅し、もって再興、後患を遺さしめざるを要す」と命令された。
後備第十九大隊は全軍約600名は数十万名の農民軍を追い詰めて殺傷した。

南小四郎大隊長は「東学党征討略記」という記録に「長興、康津付近の戦い以後は、多く匪徒を殺すの方針を取れり」、「真の東学党は、捕ふるにしたがってこれを殺したり」と、農民兵を殺害する方針をとっている。
そして、「これ小官(南大隊長)の考案のみならず、他日、再起のおそれを除くためには、多少、殺伐の策を取るべしとは、公使(井上馨)ならびに指揮官(仁川兵站監)の命令なりしなり」と補足している。

徳島県出身の後備第十九大隊上等兵の陣中日誌が保存されている。

12月3日「六里間、民家に人無く、また数百戸を焼き失せり、かつ死体多く路傍に斃れ、犬鳥の喰ふ所となる」
1月9日「我が隊は、西南方に追敵し、打殺せし者四十八名、負傷の生捕拾名、しかして日没にあいなり、両隊共凱陣す。帰舎後、生捕は、拷問の上、焼殺せり」
1月31日「東徒(東学農民軍)の残者、七名を捕え来り、これを城外の畑中に一列に並べ、銃に剣を着け、森田近通一等軍曹の号令にて、一斉の動作、これを殺せり、見物せし韓人及び統営兵等、驚愕最も甚し」
2月4日「南門より四丁計(ばか)り去る所に小き山有り、人骸累重、実に山を為せり……彼の民兵、或は、我が隊兵に捕獲せられ、責門の上、重罪人を殺し、日々拾二名以上、百三名に登り、依てこの所に屍を捨てし者、六百八十名に達せり。近方臭気強く、土地は白銀の如く、人油結氷せり」


第十九大隊の戦死者は杉野虎吉1人。
12月10日に戦死しているのに、『靖国神社忠魂史』(1935年)には7月19日に清国軍との成歓の戦いで戦死したと記載されている。
どうしてかというと、朝鮮農民兵の殲滅作戦が隠蔽されたからです。

日清戦争では旅順でも日本軍は虐殺を行なっています。
http://blog.goo.ne.jp/a1214/s/%E6%97%85%E9%A0%86

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