三日坊主日記

本を読んだり、映画を見たり、宗教を考えたり、死刑や厳罰化を危惧したり。

『現代日本人の意識構造』

2007年02月27日 | 

『現代日本人の意識構造』は、NHKが1973年から5年に一度行っているアンケート調査をまとめたものである。
いろんな事柄についての質問があり、なかなか面白い。


「権利についての知識」という質問
「リストには、いろいろなことがらが並んでいますが、この中で、憲法によって、義務ではなく、国民の権利ときめられているのはどれだと思いますか。いくつでもあげてください」
リストとそれが国民の権利だと答えた人の率は次の通り。

                                             73年   88年   03年
ア.思っていることを世間に発表する  49.4   43.4 36.2
イ.税金を納める                        33.9   7.2  42.2
ウ.目上の人に従う                     5.6   7.7  6.6
エ.道路の右側を歩く                    19.9 16.5  14.6
オ.人間らしい暮らしをする              69.6  76.3 75.5
カ.労働組合をつくる                   39.4   27.1 20.4
キ.わからない、無回答                  7.8    6.0  5.0

憲法で定められている国民の権利は、アとオとカである。
正答は1点として、
    73年  88年  03年
3点  18%  13%  10%
2点  22%  21%  17%
1点  23%  27%  29%
0点  37%  39%  44%

本文の見出しが「低下した権利知識」とあるように、権利が何かをわからない人が増えている。
「税金を納める」ことが権利だと思っている人がぐんぐん増えているのに、「思っていることを世間に発表する」権利や、「労働組合をつくる」権利が、憲法で認められていることを知っている人が少ないことには驚きである。

最近の人は権利ばかり主張して義務を果たそうとしない、と言われ、権利を制限すべきだとまで主張する人がいる。
しかし、権利とは何かを、私も含めて多くの人が知らない。
まずは、国民にはどういう権利があるのか、基本的人権とは何かを教えることが先ではないかと思う。

『現代日本人の意識構造』には「結婚観」についての質問もある。
 甲 人は結婚するのが当たり前だ
 乙 必ずしも結婚する必要はない
      93年     03年
甲に近い 44.6%   35.9%
乙に近い 50.5%   59.4%

 甲 結婚しても、必ずしも子どもを持たなくてもよい
 乙 結婚したら、子どもを持つのが当たり前だ
           93年     03年
甲に近い 40.2%   49.8%
乙に近い 53.5%   43.9%

別に結婚なんてしなくって、という人が半分以上いて、しかも増えている。
そして、子供がいなくても、と考える人のほうが多くなっているのが現状である。
どうしてなのかはこれだけではわからないが、30歳で結婚していない人が、男は4割、女は3割らしい。

結婚観、家族観が変われば、宗教観も変わるのか。
「信仰・信心」についての質問を見てみましょう。

「宗教とかに関係すると思われることがらで、あなたが信じているものがありますか。もしあれば、リストの中からいくつでもあげてください」
                                 73年    88年   03年
ア、神                          32.5%  36.0  30.9
イ、仏                          41.6     44.6  38.6
ウ、聖書や経典などの教え 9.7       7.5   6.4
エ、あの世、来世                6.6      11.9  10.9
オ、奇跡                         12.8        14.4  15.3
カ、お守りやおふだなどの力   13.6  14.4  15.3
キ、易や占い                    6.0    7.0   7.4
ク、宗教とか信仰に関係していると思われることがらは、何も信じていない
                                 30.4         25.8   25.6
ケ、その他                     0.2          0.4   0.9
コ、わからない、無回答     5.3       5.4   8.0

5年ごとの変化をみると、「聖書や経典などの教え」以外は増えたり減ったりである。
今のところ日本人の宗教観は急激な変化はしていないと思う。
しかし、葬式を近所の人や親戚に知らせない人が増えている。
家制度や地域共同体がさらに崩れていけば、これからは先祖崇拝・祖霊信仰という日本教も衰退するだろう。

それにしても、「聖書や経典などの教え」を信じる人が着実に減っているのが、やはり悲しい。

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五木寛之・鎌田東二『霊の発見』

2007年02月24日 | 問題のある考え

私は五木寛之の熱心なファンではないが、『大河の一滴』を読み、これは大したものだと思った。
ところが、『霊の発見』はスピリチュアリティ礼賛だったので、がっかり。

五木寛之はこんな問題提起をする。

今の(霊能者)ブームの主役である霊能者さんたちの多くは、日本古来の宗教である神道の影響を、どこかで強く受けているようにも見うけられますが。
話題のテレビ番組「オーラの泉」の江原啓之さんも、神道の修行をしてらしたようですね。霊ブーム、スピリチュアル・ブームの底流には、これまで日本人の心の深くに潜んでいた、神道的な日本人の霊性が、ふっと表にあらわれ出てきたような気がしているんですが。

五木寛之は梅原猛らと同じ日本教信者なのかと納得した。

鎌田東二はぶっ飛んだ発言をしまくる。

秋田で小学生の女の子が自分の母親に殺されるという事件が報道されていますが、警察のずさんな捜査より、直接イタコさんに聞いてみたほうが早いかもしれません。

冗談にしてはタチが悪い。

五木寛之はいまだに交通安全のお札をもらう」そうだ、

そのお札を捨てるというときに、屑籠へポイというわけには、どうしてもいかないんですね。ポイ捨てできないというところに、なにかがあると、私は考えるんですが。

そしたら、鎌田東二は「話は飛びますが」と、こんなことを言いだす。

霊的なものにたいする関心とハレー彗星の到来とは、相関関係があると。ハレー彗星が地球に近づくとき、霊能力者ブームが起きるという仮説をたてているんです。


五木寛之は「人を殺してなぜいけないか」と子供に問われたとき、「人を殺すとバチがあたるよ。呪われるよ」と答えることにしている、「そういう怖ろしさが根底にないと、人間にブレーキはかけられないと思うんです」と言う。
鎌田東二はまたトンデモないことを言う。

怨霊ばかりでなく、生霊も祟ります。生霊は、場合によっては、死霊、怨霊よりたちが悪いことがありますから。


鎌田東二がこんな人とは思わなかった。
こうした発言を五木寛之はどう思っているのだろうか。

五木寛之の仏教理解はおかしい。
幽霊を見たこともなければ、霊の気配を感じたこともないと言い、そして、

仏教では元来、霊視というようなことは、特別なことじゃない。しかし、それにとらわれてはいけないと。

さらには、

それでも私自身、聖地と呼ばれるような場所で、なにか不思議な感覚にとらわれた体験は、これまでに三、四回くらいありましたね。

と、ささやかな神秘体験を五木寛之は語る。

二人の話は盛り上がる。

鎌田東二「霊がもつ力は、一つが無意識の底にあるエネルギー、もう一つは無意識の底にある情報だと、ぼくは思うんです」
五木寛之「ああ。そう考えると解りやすい」

何がわかりやすいのやら。

五木寛之はガイア説を紹介する。

私はこういう考えかたが、ひょっとしたら二十一世紀の環境問題に大きなインパクトを与えるんじゃないかと思うんですね。そうすると神道は、二十一世紀に大きくたちあらわれてくる宗教ではないか。このごろそんな気がしてくるんです。

そして二人してアニミズム賛歌。

地球にも、生き物の呼吸点とか、ツボとか、下腹部にあたるとか、そういう所がきっとあるのだろうと思えるんですよ。心臓の鼓動の聞こえる場所とか。


こういう話は本気にしなくても、どこか魅かれ、影響を与えている、と五木寛之は言うが、二人の対談を読んで、影響を受ける人もいるだろう。

新幹線に乗ると、関ヶ原から京都のあたりで、左右に集落が点在しているのが目につきます。集落の中で、お寺は瓦屋根がちょっと高い。それがかならず集落に一寺ずつある。その風景を見ていると、日本という国は、類い稀なる宗教国家、霊魂を大切にする国家だったんだなあということが、よくわかってきますね。

あるいは、

蓮如は、「本願誇り」というのを、いちばん戒めていました。自分が念仏者だということを、人に言うなといっているんです。ということは、蓮如はほんらい、本来の意味で隠し念仏なんですね。

といった五木寛之の発言を読むと、結局のところ、この程度の真宗理解だったのかとタメイキが出る。
本願寺の関係者が五木寛之に講演を依頼するのはやめたほうがいいと思う。

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阿満利麿『法然の衝撃』

2007年02月11日 | 仏教

阿満利麿『法然の衝撃』を読む。
いつもながらの平明な文章、明快な論旨、目からウロコの指摘に、頭はすっきり。(すぐに曇ってしまうが)
内容のご紹介。

 1,法然・親鸞と一遍との違い
日本浄土教の流れは、法然→親鸞→一遍、という理解があるが、それは間違い。

柳田国男は、日本に定着した仏教には、二種類があることを強調していた。一つは、死者の鎮魂慰霊に役立つ仏教であり、他は、生きている自己自身の安心のための仏教である。


・死者の鎮魂慰霊 葬式仏教
  先祖祭祀
  横死者など祟りをなす霊魂に対する鎮魂慰霊 空也・一遍
・自己自身の安心 法然・親鸞

法然と一遍の違いはもう一つあり、法然は苦行主義・作善主義を否定したが、一遍は苦行主義だということ。
といって、一遍たちが行なった鎮魂慰霊の念仏が法然の念仏より低レベルだということではない。

当時の人々が信奉していた神々は、氏の血縁、ないしは氏の支配する地縁の人々を庇護するにとどまっていた。(略)
死者祭祀と結びつつ受容された仏教ではあるが、仏教は、単に従来の呪術と同じレベルにとどまっていたのではなかった。そこには、あきらかに今までの死者祭祀とは異なる様相が生じていた。それは、死者、とくに横死者をふくめて、一切の衆生の得脱をはかるという精神の誕生である。


迷って祟りをなす横死者の霊を鎮魂慰霊して成仏させるのは慈悲の心である。
空也や一遍たちは自らの生活を犠牲にし(苦行)、念仏という善を積んだ(作善)。

 2,仏像と依代との関係
日本の宗教観として、守りガミは常在ではなく、祭りの季節にだけ訪れるが、祟りガミは身辺に常在する。
たまに訪れる神は岩や木といった依代に宿る。

それに対して、仏は法身常住、つねに存在する。
仏像は法身のシンボルである。

基本的に仏は常在だが、時によっては留守をすることもある。
たとえば法要の際に、仏を法要の場に招く儀礼を行い、仏像の「ショウネ」を抜いたり、入れたりすることがある。
このような事例では、仏像も、実際は神の依代に類するものとして扱われている。

なるほど、仏壇を買ったからショウネを入れてくれとか、墓を移すからショウネを抜いてくれと頼まれることはあるが、それは仏壇や墓が依代とされるからなのか。
死者の霊が何かを依代としてこの世にやって来ると考えれば、その依代が仏壇だったり墓になるわけだ。

 3,道徳と宗教の違い
阿満利麿によると、法然の新しさは宗教的価値の絶対化である。

日本人は、法然の本願念仏によってはじめて、道徳、倫理など世俗の一切の価値から超越した、「宗教」というものを手にすることになったのである。


宗教的価値の絶対化から二つの重要な結果が生み出された。
① 道徳的抑圧からの解放
② 呪術からの解放

法然はそれまであいまいであった道徳と宗教の違いを明確にした。

本願念仏においては、本願を信じるかどうかだけが問われるのであり、それ以外のことは、一切問題とされることはない。

ここから悪人正機が出てくる。

 4,呪術

呪術は、人間の欲望の投影である。


・欲望が生でそのうえ個別的であること。
・その実現をめぐる神仏との取引は、商取引のように、ギブアンドテイクがはっきりしていること。
・つぎつぎと欲望を紡ぎ出す自己のありかたに疑問をもち、そのような自己を否定する契機をほとんどもたないこと。
・呪術的思考は、人間の欲望の直接的な投影であることにおいて、限りない不安を生みつづけるということ。

これらは呪術とニューエイジ・スピリチュアルの共通点であることから、ニューエイジ・スピリチュアルが欲望肯定、ご利益信仰だとあらためて確信した。

さえない日常、平凡な自分という現実を受け入れることができない人の、こうあってほしいという妄想(本当の自分はもっと違った存在なんだ、自分は特別な人間なんだ、選ばれた存在なんだ)を肯定する物語がニューエイジ・スピリチュアルである。

ニューエイジにはまっている人にとって、「本当の世界」という虚構のほうが楽しいから、自分自身や自分が生きている社会、環境を見ることをせず、事実を曲げてまでもニューエイジの与えてくれる物語を信じるのである。

 5,自然法爾
親鸞の自然法爾ということは、あるがままに現実を受け入れていくということだと思われがちだが、阿満利麿は違うと言う。

自然法爾論は、運命論であったり、人為を排した自然や成行きを重視する人生論を決して意味してはいない。ましてや、すべてをそのままにうけいれるという、現状の絶対肯定論であるわけがない。


森三樹三郎『老子・荘子』によると、「自然」とは「自己の努力によらず、かえってはからいを捨てる」「人為・人力を排除する」ということであり、「法爾」は「定められた法則のままにそうなる」である。
そして、「自然必然の法則に抵抗する私意のはからいを否定し、自然のままに生死を迎えようとするのが親鸞の立場であったといえよう」と説く。
さらに、「自然必然の法則」を「運命」とよぶのがよりふさわしく、「自然法爾ということは、この運命の必然のままに生き、そして死ぬことを意味するのではないか」と説明する。

しかし、こうした自然法爾についての森三樹三郎の考えを阿満利麿は否定する。

阿弥陀仏の誓願によって実現する凡夫の往生の様子が、「自然」であり、「法爾」なのである。


自然法爾とは、阿弥陀の名号の徳によって自ずからしからしめられる往生のさまのことであり、そこには、念仏者の処世術や、人生観のあり方はどこにも説かれていない。

「自然」も「法爾」も、凡夫と阿弥陀仏の関係にのみ限定して使用されているのではないか。この言葉によって、親鸞は、決して念仏者の現世の生き方を説いたのではなかったのだ。


よく「おまかせ」ということを言うが、下手すると「運命の必然のままに生き、そして死ぬ」ということになり、それじゃ犬や魚のほうがいいということになる。

問題は、従来の「自然法爾」論が、このような信者の主体的選択の道を閉ざす方向にはたらいてきたことであろう。つまり、阿弥陀仏の誓願を信じることによって我が身の往生を確信し、なにものにもさえぎられることのない精神の自由を手にしたものが、現実社会でどのように生きていくか。そこに生じる筈の主体的選択を、いままでの「自然法爾」論は、殺してきたのではないか。

この視点から「行動する仏教」が生まれるんだろうと思う。

池田勇諦先生はこのような話をされている。

仏道を開くとは問題を見出していくことです。「生かされている」ということは結論じゃない。「生かされている」は出発点。自分の現実、社会の現実が見えてくる。自己と社会を問うていく歩みが始まる。それが仏道です。

「ありがたい、ありがたい」で終わってはいけないということだ。

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周防正行『それでもボクはやってない』

2007年02月06日 | 映画

毎年の私のささやかな楽しみは、「キネマ旬報」ベストテン特集号を買うことぐらい。
2006年のベストテンは、『時をかける少女』が17位、『パプリカ』は41位、あまりにも低いとか、ベストテン採点表を眺めながら、しばし快楽を味わう。

今年のキネ旬ベスト1は周防正行『それでもボクはやってない』で決まり。
山根貞男「日本映画時評」の『それでもボクはやってない』について論じた文章の最後に、「そういえば、周防正行は、わたしの目に触れたかぎり、文章でもインタビューでも、主人公の無罪=冤罪ということは断言していない。この映画の真に驚くべきところは、そこにある」と書いてあった。
周防正行監督は、冤罪を問題にするだけではなく、裁判そのものを考えようとしており、主人公が有罪であってもかまわないのかもしれない。

妻が知人に、『それでもボクはやってない』は面白かったですよ、と勧めたところ、「あれは重たそうだから」という返事だったそうだ。
そりゃ、なんだかわからないうちに痴漢にされ、警察に連れて行かれ、頭ごなしにどなりつけられ、拘留されetcという不条理の連続、意味不明の言葉が飛びかうシュールな雰囲気の中で進行していく裁判、そして題名から予想していたとおりの結末なんだから、気分良く映画館を出ることはない。
だけど、これが現実である。

本来、裁判とは「疑わしきは罰せず」だから、検事が有罪を証明するはずなのに、実際は被告が無罪を証明しないといけない。
だけど、個人の力で警察、検察に対抗して無罪を証明することはきわめて難しい。
刑事裁判の有罪率は99.9%、被告が否認している場合でも99%が有罪。(『それでもボクはやってない』では3%が無罪と言っていた)
有罪判決のうち、冤罪がどれだけあるのだろうか。

それはともかく、「重い」話は嫌われる。
『それでもボクはやってない』にしても、周防正行監督11年ぶりの新作なんだから、もっとヒットしてもいいのに。
社会問題の話は重たくなりがちだから受けないのだろうか。

だけど、妻は社会問題に関心のないし、映画を見ると頭が痛くなるから嫌いだという人間だが、『それでもボクはやってない』は見てよかったと言ってる。
一人でも多くの人に『それでもボクはやってない』を見に行ってもらいたいです。

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忘れられた人々

2007年02月03日 | 日記

人類が進歩しているとして、進歩の実例の一つは、障害者、老人、病人といった社会的弱者を切り捨てていたのが、家族だけが世話をするのではなく、地域・社会が援助し、受け入れるようになったという歴史だと思う。

大昔なら、身体障害者が生まれると、おそらく放っておかれたか、殺されただろう。
姥捨て伝説ではないが、ある程度までしか老人や病人の面倒を見なかったと思う。
今は、犯罪者を刑務所に入れて隔離するだけでなく、更生、社会復帰への支援がなされている。

ところが、飽食の現代日本では、弱者をかまっていたのではやっていけないというので、弱者切り捨ての政策が着々と進んでいる。
まずは人件費の削減のため、正社員を減らし、契約社員、派遣社員を増やす。
公務員ですら非正規化が進んでいる。
自己責任を声高に叫んで、社会保障を減らそうとする。
母子家庭は収入が減り、子供が進学できず、格差はどんどん広がることになる。

障害者自立支援法ができ、介護保険制度が見直しとなり、障害者や介護が必要な人は自分で何とかしろ、ということになった。
当分は国や県が補助をいくらか出すらしいが、負担は大きい。
母親を施設に預けている方の話だと、月5万円の負担が16万円になったそうだ。

身体障害者を預かる養護施設や障害者支援をする施設も、国からの補助金が減り、利用者に負担がかかるようになった。
たとえば、障害のある子供を毎日、支援施設にあずけて、夫婦共稼ぎしていたのが、負担増で週に三回になると、妻は子供の面倒を見るために仕事を辞めないといけない。

障害を持ったのも、年をとるのも、病気になるのも、すべて自分責任だから自分でなんとかしろ、国は面倒を見ませんということになっていくのか。

厳罰化も結局は切り捨てることで、「飲酒運転で死亡事故を起こした者も死刑にしろ」と言う人がいれば、「光市母子殺人事件の加害者は裁判にかける必要はない。さっさと殺せ」などと裁判を否定する意見がマスコミでも当たり前のように言われている。

60歳以上の受刑者は10%を越している。
彼らのほとんどは刑務所を出ても行くところがない。
だから、無銭飲食や万引きをして刑務所に戻ることになる。
ということで、刑務所は老人ホーム化し、刑務官が寝たきり受刑者のオムツを交換する。

いじめた生徒は出席停止にするという提案がなされているそうだ。
気持ちとしてはわかるが、では彼らはどこに行けばいいのか。
児童相談所に勤めていた人が、いじめる側も家庭や勉強などの問題を抱えていて、その状態をそのままにして、いじめたからと断罪するだけではマイナスにしかならないと言ってた。

ホームレス襲撃事件があるが、ホームレスを襲う子供は、どちらかというと成績はあまりよくないとか、いじめられてたりして、弱い立場にいる子供が多く、だから逆に弱い者をいじめるんだそうだ。
学校や家庭でしんどい思いをしてる子供たちが、しんどい生活をしているホームレスを襲撃するという図式である。
彼らには行き場がないのに、教育から切り捨てられたらどうなるのか。

余計者、邪魔者、お荷物だとしてを切り捨てるのでは、歴史の逆戻りである。
政府やマスコミの口車に乗せられ、「自己責任だ」「勉強できないのは、勉強しない自分が悪い」「あんな奴は殺せ」の大合唱をしていたら、結局は自分が泣くことになる。

(追記)
新型コロナウイルスによる感染症が広がり、日本の医療体制が万全とはいえないことが明らかになりました。

保健所は1990年度に850カ所あったのが、1994年に保健所法が地域保健法に改正されると、おおむね人口10万人当たりに1カ所設置するとしていた指針が廃止され、統廃合が進み、2019年度は472カ所です。
大阪府では1990年度に53カ所あった保健所が18カ所に減少、常勤の医師や保健師は20年間で6割に減っています。

橋下徹はツイッターでこんなことを言っています。

病院の数、ベッド数も減少しています。
人口あたりのICUのベッド数も少ない。

日本ではICUの多くに専従医/専門医が配置されていないそうです。
日本は二流国になったのでしょうか。

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