三日坊主日記

本を読んだり、映画を見たり、宗教を考えたり、死刑や厳罰化を危惧したり。

本願寺の戦争協力

2018年01月31日 | 戦争

某氏より「非戦平和を願う真宗門徒の会会報 5号」をいただきました。
西本願寺の方が何人か寄稿してます。
本願寺の戦争協力について知らないことがたくさんあるもんだと、あらためて思いました。

藤本信隆「門信徒との課題の共有」

本願寺教団の戦争協力はアジア太平洋戦争からではない。
西南戦争に始まり、日清戦争を経て、日露戦争でほぼ形ができ上がった。
根拠となる教学は西本願寺門主の大谷光尊(1850~1903)の「後の世は 弥陀の教えに まかせつゝ いのちをやすく 君にさゝげよ」という真俗二諦だった。
死んだらのことは阿弥陀仏にまかせ、現世は国家の方針に従うという生き方である。

松橋哲成「浄土真宗と教育勅語」

真俗二諦とは、近代の本願寺教団が天皇絶対主義体制に順応するために生み出した論理である。
浄土往生のための信心と、日常生活のための世俗倫理を二分化させ、この世はその場の状況に合わせるという生き方であり、俗諦の具体的内容こそが教育勅語だった。
教育勅語に対する方針は、天皇陛下の意を一日中、心にとどめ、これを永遠に伝えることと規定した。(1891年)

大谷派の暁烏敏は「お勅語を飛行機で運んでいこう。お勅語を軍艦で運んでいこう。大砲でお勅語を打ち込もう。重爆でお勅語をひろめよう」(『臣民道を行く』)と書いている。


藤本信隆「門信徒との課題の共有」

大谷光瑞(1876~1948)は「出征軍人の門徒に告ぐ」という小冊子と懐中名号を約44万人の将兵に贈呈した。

小冊子の内容は、平和を求めるためという戦争の正当性、命の無常と意義ある戦死、阿弥陀の救いがあるという安心、天皇の心の理解と報恩の実践などである。

正義の戦争では殺生戒を犯したことにはならない。
戦闘中に恐怖心が起きても、阿弥陀仏の慈悲を思い出して念仏を称えたら、戦死しても極楽往生できる。
戦死は天皇のために命を捧げ、靖国神社に祀られる名誉であり、身に余ることである。

旅順攻撃の時、称名念仏しながら突撃することがあり、石川、富山、福井の連隊で構成された第九師団の中には、多くの戦死者を出して「念仏大隊」と賞賛された大隊があった。


松林英水「戦時中の仏教界のスタンス」

日本の仏教界では、各教団が組織を挙げて報国運動をおこなった。
しかし、中国の仏教界では、全国の仏教徒に抗日救国を訴え、抗日運動を展開した。

中心となった圓瑛法師は1931年、9.18事件(満州事変)の時に日本の仏教界へ「日本仏教界への書」というアピールを出し、戦争停止の呼びかけを行なった。


満州事変での呼びかけは次のような内容だった。

わが釈迦牟尼仏は慈悲平等をもって世を救うことを願われ、われら仏教徒は共にこの仏の素懐を体し、仏の教えを宣揚すべきであります。日本は仏教を信奉する国であり、国際的に慈悲平等の精神を実践し、東アジアに平和をもたらし、世界平和をさらに進めるよう尽力すべきであります。しかしながら、日本の軍隊が侵略政策をもって中国領土を占領し、中国人を惨殺するとはどういうことでありましょうか。これは日本政府の主張でもなく、日本人の意志でもありますまい。軍を掌握し、私利を図り、国家の名誉を顧みない少数の野心家たちの犠牲になったのであります。皆様が出広大舌相して共に無畏の精神を奮って全国民を喚醒せしむるよう努力し、日本政府に陳情書を提出して、中国における軍閥の暴行をやめさせ、国連の事案を遵守し、即日撤退されるよう切に望むものであります。


1937年の7.7事件(蘆溝橋事件)の時にも、圓瑛法師は「日本仏教徒に告げる」を発表している。

これに対して日本の明和会(仏教各派の代表者や有識者によって組織されていた)が「全支那仏教徒に誨(おし)ふ」という反論の文書を出し、このたびの戦争を「道の戦」であるとし、「真に人道正義国権擁護の為に億兆一心の生命威力を発揮するに至った」ものであると唱えた。

そして、「東亜永遠の平和を確立せむが為に仏教の大慈悲発して摂受となり又折伏となる。この已むに已むを得ざるの大悲折伏一殺多生はこれ大乗仏教の厳粛に容認する処である」と断じている。
さらには「皇国日本」の行う戦争を仏教の名において支持した。

太虚法師の日本仏教界への呼びかけは日本の敗戦まで計9回に及んでいる。

満州事変の時の呼びかけには、台湾・朝鮮・日本の仏教徒が速やかに連合し、日本の軍閥・政客の非法な行動を制止させるよう訴えた。

蘆溝橋事件の後に出した「全日本仏教徒に告げる」では、日本は軍事行動を停止すべきであり、日本の仏教徒は慈悲の心と智慧の眼を開いて自らを救い、人を救うべきであると訴えている。

これに対して、日本仏教連合会は、今日の情勢は中国が日本に恨みや憎しみをいだいたためにもたらされたものであり、太虚法師こそ迷蒙の人々を覚醒せしめ、抗日の心理を対日提携の心理に変えてゆくべきであると返答をしている。

仏教を学び、教えに従って修行をしていても、こんな体たらくとは。
仏道の実践は至難の業ということでしょうか。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

真俗二諦と戦争協力

2018年01月26日 | 戦争

浄土真宗には真俗二諦という考えがあります。
WikiDharmaの説明です。

仏法を真諦、王法を俗諦とし、広くいえば成仏道を真諦、世俗生活を俗諦とよび、この両者の関係について別体説にたって関係を論じたり、真諦より流出する俗諦として説いたりしてきた。

http://urx.blue/IekU

中島岳志『親鸞と日本主義』に、真俗二諦についてこのように書かれてあります。

王法(天皇への絶対的帰依)が仏法(浄土真宗の信仰)と相反するとき、仏法に立って王法を否定すると、権力から弾圧を受けることになるので、真宗教団は日常の世俗レベルで王法を受け入れることで、仏法を守ってきた。
教団は国体の論理を俗諦(王法)として受け入れたが、真諦(仏法)を俗諦である国体より上位に置くことは、天皇の大御心よりも崇敬すべき存在を認めることになる。
文部省は真俗二諦論を問題視し、是正を求めた。
そこで、1941年2月13日、大谷派は真宗教学懇談会を開き、戦時体制にいかに対応すべきか、教学のあり方についての討議を行なった。

前にも書きましたが、大谷派の著名な先生方がトホホすぎるの発言をしています。

http://blog.goo.ne.jp/a1214/e/6d4a2f7d267ca715f51b011a9fb9b108

座長の挨拶でこんなことを言ってます。

政府も近来宗門の教義に対してその内容を検討し、国体の本義と国策に矛盾するものはこれからどしどし廃して聖戦に邁進しようとする意図があるのであります。だから吾宗門に於ても来る四月には新宗憲発布にあたり教義を新解釈して高度国防国家に資せんと致して居ります。

つまり、つまり時代に合わせて経典の解釈や教学の内容を変更しようということです。

真俗二諦に関係する先生方の発言をご紹介します。

曽我量深「死ぬときはみな仏になるのだ。国家のために死んだ人なら神となるのだ。神になるなら仏にもなれる。弥陀の本願と天皇の本願と一致してゐる」

竹中茂丸「どうしても宗門の上で阿弥陀と天皇と一緒にしなければならぬのか、それでなければ真宗は成り立たぬのか、別でもよいか、はつきり云つて欲しい」


金子大栄「阿弥陀の本願そのまま神の本願なり。(略)仏法は神の云ふことを仏が云つたと見てよい。(略)仏の御国が神の御国となることは間違ひない。(略)浄土の念仏がそのまま神の国への奉仕である」


曽我量深「教行信証の総序こそは教育勅語に対する仏教徒の領解である」


長谷得静「西派の人が文部省に行つたとき俗諦に就いての質問があつて、真諦即ち安心より流れるものが俗諦門であると説明したが、それならば二つ並べて書かなくてもよいのではないか(略)、といはれた。それで西派では真俗二諦を削除したといふ」


暁烏敏「今日のやうな時に王法を俗諦とすれば問題がある。仏法の教が大事か天皇の教が大事か、山﨑闇斎の話のやうに孔孟が日本をせめよせる話の通りで、今日では仏教に同様の問題が起つてゐる」


暁烏敏「皇法は大御心で、皇法のなかに仏道と臣道とがある。皇法は絶対でそのなかから仏法と臣道がある」

皇法とは王法のことです。

暁烏敏「職域奉公は臣道であるから、その意味では仏道即臣道である。皇道の中に臣民道と仏道とがあるといふが、仏道の中に臣道もあるでせう」


大須賀秀道「皇道を本とすべきか、真宗精神を本とすべきか(略)。皇道精神と真宗精神と一致で天皇に向へば皇道となり、仏に向へば真宗精神となることになれば簡単である」


津田賢「皇道精神と真宗精神の問題が出る。今は皇道精神でいかねばならぬ」


津田賢「吾々は指令あれば死力を尽してやる覚悟がある。宗門は単なる私的団体でなく、死を尽して国家に奉公する団体である」


木津無庵「金光教本部では、文部省との相違は私の方では元々丑寅の金神であつたが文部省に届けるとき天地金ノ神としたが、天地の金神は神社名簿にないからといふことでその結果月の大神、日の大御神、金の大神としたのであるといふ。教祖の御承知のない神が祭神となつてゐる」


木津無庵「天理教の祭神も最近宗教局の警告で、改めて目下教義の改造中である」


河崎顕了「真俗二諦は余り狭く説かれてゐたと思ふ。教育勅語を説く教へでなければならぬ」


木津無庵「石山合戦のとき、此の戦ひに参加するものは浄土往生すると証如上人がいはれたと云ふが、今日それが必要である。皆が安心して爆弾のもとに死ぬ覚悟を与へねばならぬ。(略)爆弾が落ちても安心できる。それは浄土往生が出来るとの信念である。(略)あやまれるものを正しくするのが聖戦である。それが仏行だ。されば此の戦ひに従事するものは菩薩行なり、此の菩薩行に参加するものが浄土往生してすぐ還相回向の働きをするものと思ふ」


金子大栄「仏教とか真宗とかの立場を捨てると、それは怪しからぬことと思ふが、元々仏教は立場を持たぬことと思ふ。(略)十年前は私も立場をもつてゐたため、皆さんに御迷惑をかけました」

10年前に迷惑をかけたというのは、1925年に『浄土の観念』の内容が異安心とされ、1928年に大谷大学教授を辞任したことだと思います。

金光教は、文部省が許可しなかったので、教祖の知らない神を祭神としたり、天理教は教義を変更しようとしたとは驚きです。

大谷派だって、さすがに本尊を変えることはしてませんが、似たり寄ったり。
どうしてこんなことになったのでしょうか。

東晋の時代(4世紀)、沙門不敬王者論といって、桓玄が沙門に帝王への拝礼を強要したのに対して、廬山慧遠は沙門は帝王に拝礼しなくてもよいと説きました。

慧遠のような僧侶がいないということかもしれません。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

北方領土が返還されたとして

2018年01月18日 | 日記

「北方領土が返還されたとして、インフラが整備されていないところに誰が住むんだ」と北海道の人が言ってて、ええっと思いましたが、北海道だって過疎化が進み、人口が減っています。

現在、北方四島にどれくらいのインフラ整備がなされているか知りませんが、水道、電気、道路、空港、港湾などを日本並みに整備しようと思えば莫大なお金がかかるし、農地や工場を誘致するとすれば補助金が支払われることになるでしょう。
はたしてそれだけのことをして元が取れるのかと思います。

蓮池透さんは、安倍晋三首相は「拉致問題は最重要課題」と繰り返すが、1ミリも動かないと批判しています。

https://mainichi.jp/articles/20180117/dde/012/040/003000c
北方領土返還もホンネではやりたくないのかもしれません。

吉田一郎『国マニア』(2005年刊)は、香港の中国返還にともなう一国二制度について説明しながら、北方領土についても触れています。

日本がロシアに北方領土の返還を本気で要求するなら、返還後の統治形態やロシア系住民の扱いについて、具体的なビジョンを示す必要がある。


①北方領土に一国二制度を導入し、「北方領土特別自治県」に高度な自治権を与える。

②ロシア系住民の永住権や土地所有権を認める。
③日本語とロシア語を公用語とし、教育言語は日本語とロシア語の選択制とする。
④日本国憲法と抵触しない限りにおいて、現行のロシアの法律・条令を引き続き適用する。
⑤北方領土の議会は独自の立法権を有し、ロシア系住民の議席枠を設ける。
⑥北方領土は独自の入国審査を行い、日本人の移住はビザを必要とする。
⑦北方領土の公務員、警官は島民によって構成される。
⑧ロシアの医師免許、弁護士や会計士の資格、教員免許、運転免許などを認める。
こういった具体的な提案がないと、いつまで経っても現実的な交渉はできないはずだと、吉田一郎氏は書いています。

北方四島に住んでいるロシア人のことなど考えていなかったので、この提案にはびっくりしました。

無人の状態で日本に返還されるものと思っていましたから。
2016年の人口は、択捉島が約6000人、国後島約7800人、色丹島約3000人、歯舞群島0人、合計16668人だそうです。
http://www2.ttcn.ne.jp/honkawa/7230a.html
北方四島で生活しているロシア人には何らかの保障が必要です。

それと、北方四島にあるロシア軍基地は、沖縄の米軍基地のように、そのままにしておくのでしょうか。

アフリカでは独立とともに白人を追放し、農地や企業を国有化して経済を壊滅させてしまうケースが多かった。

しかし、ジンバブエでは、ムガベは首相に就任すると、白人の土地を黒人に分け与える農地改革の実施の凍結し、野党と連立政権を組み、白人を大臣に起用し、軍の司令官に白人を留任させるなどして、経済成長を続けた。
ところが、政権協定が切れると、ムガベは独裁色を強め、白人の農地を接収し、白人が激減し、経済は疲弊した。
このように吉田一郎氏は書いています。

仮に北方四島が返還され、吉田一郎案が実現されたとしても、ロシア人と日本人が共存していくのは大変でしょう。

反中デモや反政府デモが起きているように、香港の一国二制度も揺らいでいますし。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

週刊金曜日編『検証産経新聞報道』

2018年01月13日 | 

週刊金曜日編『検証産経新聞報道』によると、産経新聞の2017年3月期連結決算では、売り上げが10年間で4割も減っています。
上半期は営業利益、経常利益、中間純利益はいずれも赤字。
フジ系列局の保有株式を売却することで何とか取り繕った。

産経新聞単体では、2017年3月期決算は、売上高が前期比3.1%減、営業利益は前期比88.7%減、経常利益は前期比79.8%減。
フジテレビが業績不振なので、産経新聞への援助が減っている。

産経新聞は社債を発行するようになり、借金を返すためにまた借金をするという自転車操業状態に陥っている。

地方の支局からほとんど撤退しており、九州は福岡県北部に最近進出した程度だし、北海道、石川・福井、山陰などではほとんど存在感がない。
全国紙最低の労働条件、最低の賃金という状況。

何年前かはわかりませんが、「産経新聞」の部長クラスで年収800万円、フジテレビ系列の関西テレビは1500万円だったそうです。

他の新聞社の給料が高いのは、基本給と同額ぐらいの残業手当が出るから。
しかし、産経新聞は取材費はほとんどないし、夜回りや朝駆けはサービス残業になる。
産経新聞は「北海タイムス」化(増田俊也『北海タイムス物語』)しているわけです。

おまけに、読売新聞が「財界の機関紙」になっているので、産経新聞の利用価値が薄れている。

販売部数は朝刊が約160万部、夕刊は約47万部(東京本社は夕刊をやめている)。
ブロック紙の中日新聞グループ(東京新聞などを含む)が朝刊約309万部、夕刊約60万部だから、それより少ない。
そういう状態なのに、ネット上では産経新聞の影響力は大きいように思います。

さて、産経新聞は2014年4月からスタートさせた「歴史戦」シリーズで、「戦後の日本は相手の宣伝工作に有効な反撃を加えるどころか、自ら進んでそのわなにはまってきた。その象徴が強制連行を示す文書・資料も日本側証言もないまま「強制性」を認定した河野談話だ。世界に日本政府が公式に強制連行を認めたと誤解され、既成事実化してしまった」と、河野談話を批判しました。

http://www.sankei.com/politics/news/140401/plt1404010025-n2.html

1993年8月5日、全国紙はそろって河野談話を一面で報じた。

見出しは以下の通り。
朝日新聞「慰安婦「強制」認め謝罪」
読売新聞「政府、強制連行を謝罪」
産経新聞「強制連行認める」
河野談話には「強制性」という単語は用いられても、「強制連行」という単語はないのに、河野談話と「強制連行」を結びつける報道をしたのは、朝日新聞をバッシングした読売新聞、産経新聞だった。

産経新聞も人身取引や就業詐欺で慰安婦にされた女性が多かったことは認めている。

しかし、それは民間業者が行なったことで、政府には責任がないというわけである。
慰安所は軍の発意により、軍の施設として設置されたもので、慰安婦がどうやって集められたかは知らなかった、ではすまない。

南京事件や慰安婦問題の記憶遺産への登録申請を「ユネスコの政治利用」と非難している一方、シベリア抑留関連資料の登録は正当化する。

戦争における被害体験を記憶することに反対しているわけではないが、日本の加害については反日の策謀だと決めつける。
ダブル・スタンダードである。

「歴史戦」では植村隆元朝日新聞記者も非難していますが、
それに対する植村隆氏の反論が『検証産経新聞報道』に載っています。

1991年8月14日、慰安婦だったと最初に名乗り出た金学順さんの記者会見があった。
阿比留瑠比編集委員は「産経新聞」2012年8月30日付のコラムに、「1991年8月11日付の朝日新聞に、植村隆記者が「従軍慰安婦」を名乗る韓国人女性の記事を書いたことが始まりです。あたかも日本軍に強制連行されたかのように紹介して慰安婦問題を捏造しました。今日の日韓関係の惨状を招いた植村記者は今、どう思っているのでしょうか」と書いている。

久保田るり子編集委員も「朝日が最も検証すべきは、1991年夏の「初めて慰安婦名乗り出る」と報じた植村隆・元記者の大誤報だ。記事は挺身隊と慰安婦を混同、慰安婦の強制連行を印象付けた。しかも義父にキーセンとして売られていたことを書かずに事実をゆがめたからだ」と非難している。(2014年8月10日)

しかし、植村隆氏は金学順さんの記事に「挺身隊としてだまされて連行」とか「強制連行」とは書いていないし、植村隆氏の記事は韓国では転電されていない。

実は、産経新聞も「強制連行」という言葉を使っている。

金学順さんの大阪での記者会見の記事(1991年9月12月7日付)「金さんは十七歳の時、日本軍に強制的に連行され、中国の前線で、軍人の相手をする慰安婦として働かされた」

河野談話を受けて金学順さんに電話取材した「人生問い実名裁判」(1993年8月31日付)「金さんは日本軍の目を逃れるため、養父と義姉の三人で暮らしていた中国・北京で強制連行された。十七歳の時だ」とあり、「従軍慰安婦」というメモでは「戦時中、強制連行などで兵士の性欲処理のために従事させられた女性」


1993年2月16日、オーストラリアの経済学者ジョージ・ヒックス氏の「日本はいつまでも慰安婦になるよう強制したことはないと言い張り、元慰安婦への補償を拒んでいると、隣人たちとの苦い歴史が安らぐときがないことを自覚すべきではないか」というコラムを掲載している。


産経新聞には挺身隊と慰安婦とを混同した記事もあります。

1991年9月3日付「第二次世界大戦中「挺身隊」の名のもとに、従軍慰安婦として戦場にかりだされた朝鮮人女性たちの問題を考えようという集い」

1991年10月25日付「日中戦争から太平洋戦争のさなか、「女子挺身隊」の名で、戦場に赴いた朝鮮人従軍慰安婦」


「産経抄」(2015年1月10日)に「植村氏も小紙などの取材から逃げ回ったのはなぜか。挺身隊と慰安婦を混同したことへの謝罪がないのはなぜか」とあるが、産経新聞は植村隆氏に取材の依頼はしていない。

2015年7月21日に産経新聞から植村隆氏に取材の申し込みがあり、7月30日にインタビューが行われた。
この取材はネットで読むことができます。
http://www.sankei.com/premium/news/150829/prm1508290007-n1.html

植村隆氏は、阿比留瑠比編集委員と原川貴郎記者に、「日本軍に強制的に連行され」などと書いている産経新聞の記事を見せます。

2人とも産経新聞が過去にこうした記事を書いていたことを知りませんでした。
http://www.sankei.com/premium/news/150830/prm1508300009-n4.html
また、「慰安婦」に直接取材したこともないと答えています。

植村隆氏は2015年10月16日に産経新聞へ、慰安婦報道に関する非難について6項目の質問を送ります。

その回答は「お答えできません」をくり返すだけだったそうです。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

テロと死刑

2018年01月09日 | 戦争

去年、ジッロ・ポンテコルヴォ『アルジェの戦い』(1966年)を見ました。

1956年から1957年にかけての、アルジェリア民族解放戦線(FLN)の独立闘争とフランスの弾圧をドキュメンタリータッチで描いた映画です。
警察や軍隊とFLNとの市街戦、テロに巻き込まれる一般市民がリアルに描かれています。

映画の背景を滋野辰彦氏はこのように説明しています。

第二次世界大戦が終結してアルジェリア独立運動が始まると、フランスは軍隊を介入し、アルジェリア人4万人が殺されて、反乱は鎮圧された。
1954年にカスバで暴動が起き、ヨーロッパにまでテロが拡大し、1957年にフランス軍が侵攻した。

『アルジェの戦い』は1967年キネマ旬報ベストテンで、301点のダントツの1位でした。

37人の選者のうち、1位にした人が15人、2位にした人が9人、3位にした人が3人、選外が2人(読者(女)を含む)です。
2位の『欲望』が181点、3位の『戦争は終った』が180点ですから、圧倒的に支持されたわけです。

品田雄吉氏は『キネマ旬報ベストテン』に、「アルジェ独立をめぐるすさまじい内戦を描いた内容が、学園紛争の時代にアピールしたといえるだろう」と書いています。
しかし、現在の視点で見れば、アルジェリア民族解放戦線のしていることは一般市民を狙った無差別テロです。

たとえば、チャドルを来た女性たちがレストランに置いた時限爆弾が爆破し、子供を含む多くの市民が殺傷されます。

テロに対する警察の厳しい取り締まりや拷問もやむを得ないのではと思うほどです。
滋野辰彦氏によると、当時、フランス共産党も機関誌に「爆破者を鎮圧すべし」と書いているそうです。

FLNのテロリストたちはカスバに隠れ、カスバから出てはテロを行い、またカスバに戻る。

フランス軍はFLNの隠れ家を急襲し、カスバに爆弾を仕掛ける。
双方が報復を繰り返し、憎悪が拡大する。
ドゴールがアルジェリアの独立を認めようとして、アルジェリア独立阻止する組織OASに何度も暗殺されそうになる。
どうすればよかったのか、まさに悲劇です。

FLNやフランスのマチュー中佐の言い分はどちらももっともですが、しかしテロや武力による弾圧を美化すべきではありません、

永山則夫裁判の控訴審での裁判官だった櫛渕理氏は、三島由紀夫の切腹事件で起訴された盾の会会員3人の裁判での裁判長を務めています。

堀川惠子『死刑の基準』に櫛渕理氏のこんな発言が引用されています。

どうも日本人は異常なことをやる人に、拍手喝采する傾向が見えるようですなあ。ぼくはこれが日本人の大きな欠点だと思うんですよ。異常なことに情緒的に肩入れするのは悪い癖ですよ。(略)
明治維新のときもそうです。志士と称する法律的には殺人犯が革命をした結果、『勝てば官軍』でいっさいが許されてしまった。もし、その考えを推し進めていくと、人間対人間が文字通り血みどろな闘争をする時代へもどってしまう。人間が長い間、築いてきた文化はどこへ行ったといいたいですね。近代的な法治国家において、クーデターは許されません、絶対にね。(「文藝春秋」1972年7月号)

ちなみに、三島由紀夫は浅沼稲次郎を刺殺した山口二矢をほめていました。

香山リカ『「悩み」の正体』に、

死刑を国家が行使する暴力と考えれば、国家の暴力に対して国民は寛容になっている。いや、むしろ国家の暴力を待望している。

とあります。
「死刑」を「戦争」に置き換えてもいい。

アレハンドロ・モンテベルデ『リトルボーイ』では、父が志願して戦争に行くが、日本軍の捕虜になります。

父のために少年が念力を太平洋のかなたに送りつづけてたら、広島に原爆が落ちて、町の人は大喜び。
喜ぶのはわかりますが、日系人と親しくなっている少年や町の人は原爆という国家の暴力が大勢の一般人を無惨に殺したことをどう思ったのか、『リトルボーイ』はそのことに触れません。

世界貿易センターの崩壊に中東の人は喝采し、ビンラディンの暗殺にアメリカ人が称賛するのと同じように、暴力を待望することは他者の傷みに無神経だということです。
安保法制が成立し、改憲の日程まで決まりつつあり、また北朝鮮に対するネットの意見を考えれば、香山リカ氏の指摘はそのとおりだと思わざるを得ません。

辻邦生『背教者ユリアヌス』は、キリスト教を公認したコンスタンティヌス大帝の次の皇帝ユリアヌスが主人公です。
キリスト教の公認を改め、優遇措置を廃止したユリアヌスを、辻邦生氏は排他的なキリスト教徒に比べて寛容な人間として描いています。
ユリアヌスがキリスト教司教に語ります。

真理がなんで自らの手を血で汚す必要があろう。正義がなんで自らを不正な手段でまもる必要があろう。(略)私は人間を自由のなかに放置する。私は人間を強制しようとは思わない。百年たっても人間は愚かであるかもしれない。五百年たっても人間は自発的に正義を実現しようとはしないかもしれない。千年の後にもなお絶望が支配しているかもしれない。しかし人間が人間を自由な存在としたこと自体が、すでに正義の観念を実現したことなのだ。

真実や正義を主張するのなら、人の血を流すことや、不正を働くことは矛盾です。
しかし、正義のイスに座り込んだら、そのことに気づかないのでしょう。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

増田弘『石橋湛山』

2018年01月04日 | 戦争

石橋湛山は1884年(明治17年)生まれ、1911年(明治44年)に東洋経済新報社に入社、1924年(大正13年)主幹になります。
増田弘『石橋湛山』によって、石橋湛山は戦争についてどんな考えを持っていたかを見てみると、先見の明があったことに驚きます。

1905年、早大生だった石橋湛山は、日露戦争の従軍布教師として満州に派遣されていた養父に送った手紙に、「従軍布教なるものに何等の意味をも発見し能はず」と、国に命を捧げることを美徳とする風潮を批判しています。

東洋経済新報社は「小日本主義」を提唱し、領土拡張や保護政策に反対でした。

石橋湛山は東洋経済新報社に入社してまもなくの1912年9月(明治45年・大正元年)には、

輩は日清戦争の当時、一人の非戦論がなかったことを今に遺憾に思う。日露戦前にあたり、十分に反対論の挙らなかったことを強く残念に思う。

と書いています。

・アメリカの日本移民排斥問題

1913年、カリフォルニア州で「排日土地法」が成立し、日本政府は抗議、メディアはアメリカを攻撃した。
ところが、湛山は日本の対米移民の必要性を否定した。
アメリカの排日運動は理屈ではなく、人種の相違に基づく〝感情〟問題である。
この問題は日米二国間だけでなく、一般的問題だから、受け入れるアメリカ側の立場も考慮すべきである。
当時の常識とされた人口過剰に伴う移民必要論を斥け、相手側の感情を害する移民奨励に警鐘を鳴らした。

1919年の国際連盟規約委員会で日本代表は、アメリカやカナダなどで日本移民が差別されている現状を捉え、「人種差別待遇撤廃」を提言したが、湛山はその非を論じる。

人種差別待遇の撤去に異議はないが、「差別待遇を、我国自身が内外に対して行い居る」ことを忘れてはならないと強調し、中国人労働者への入国差別、台湾人や朝鮮人への内地入国や土地所有などに対する差別を挙げる。
そのような差別をしている日本人が白色人種の有色人種に対する差別待遇の廃止を訴えたところで、何の権威があろうと皮肉っている。

・第一次世界大戦

第一次世界大戦の日本参戦は我が国の利益にならないと、反対を唱えた。

戦争は総ての場合に於いて利益を生む者にあらず。然るに之れに費す処は巨額の軍費と生霊あるのみならず、更に世界の信用制度を破壊し、自国民の生活をも、他国民の生活とも困難に陥るること、現に欧州の戦乱が我が国に及ぼせる影響に依っても知るを得べし。

第一次世界大戦の終結後は、ドイツの利権を奪うことを批判した。

亜細亜大陸に領土を拡張すべからず。満州も宜く早きに迨(およ)んで之れを放棄すべし。

湛山は帝国主義的な利権獲得政策はもはや時勢に合致しないと、帝国主義の限界を説いた。
ベルサイユ条約の内容について、戦勝国のドイツに対する領土割譲、軍備制限、賠償金請求が不公平、苛酷だと論じた。

シベリア出兵の意義を認めず、早期撤退と、ソビエト政権の即時承認を求めた。

十個師団の駐兵は月々数千万円の軍費に加え、輸送に多数の艦船を必要とし、金利は暴騰して有価証券は暴落すると、軍事的、経済的見地からも批判した。

・中国、朝鮮

1915年(大正4年)、中国に対する二十一カ条要求にも反対し、中国の反日感情が勃興し、これに日本側が反発することで日中関係が緊迫すると説いた。

隣り同士が互に親善でなければならぬ。礼節を守らなければならぬと云うは、決して個人間のみの事ではない。

国内外での中国人や朝鮮人差別に対しても厳しく批判した。

1919年の、朝鮮独立を求める三・一運動について、朝鮮民族が独立を回復するまで抵抗を止めないと予想し、朝鮮の独立を認めるべきであると主張した。

・満州問題、中国での利権

1910年代初頭以来、小日本主義を提唱し、満州放棄と植民地全廃論を掲げてきたが、石橋湛山は1920年代に満州放棄論を論じている。

満州は中国領土の一部であり、中国人を主権者とする外国の地である。
満州を併合しようとすることは、対日感情を激化させ、諸外国から非難を被ることになる。
また、日本が植民地を領有しても、期待するほどの利益を日本にもたらさない。
日本は海外領土を持つだけの国内資本に恵まれていない上に、植民地領有は軍事支出を増し、国家財政を圧迫する。
ところが、日本では「戦争は儲かるもの」「領土や賠償金を獲得できるもの」という戦争観に固執している。
そのような帝国主義路線は、日中関係ばかりでなく、日本の国際的孤立をもたらし、日米間の軍拡競争を復活させ、日米開戦という最悪のシナリオを予感させる。
満州や山東その他の在中国利権を日本がすべて放棄して開放するよう主張した。

1921年のワシントン会議に向け、軍備撤廃論を提言した。

対米戦争を避けるためには、日本が全植民地を放棄し、日米両国が軍備を撤廃し、日米が協力してイギリス勢力を極東から排除すべきだと説いた。
満州事変、満州国建国も批判している。

・日独伊三国軍事同盟

自由主義・個人主義の思想を擁護し、全体主義の思想を斥けた石橋湛山は、日本外交は対独伊接近策ではなく、米英両国との関係改善策に重点を置くべきであり、それが現状打開につながると主張した。
ドイツに媚びる日本の態度は「卑屈で正視に堪えぬ」と批判。

石橋湛山は戦時中も所信を貫いており、非戦論がぶれることはありませんでした。

よく逮捕されなかったものです。

1956年(昭和31年)に首相に指名された石橋湛山が閣僚名簿を昭和天皇に内奏すると、天皇は「どうして岸を外務大臣にしたか。彼は先般の戦争に於て責任がある。その重大さは東条以上であると自分は思う」と発言した。


脳血栓で2カ月で退陣しますが、任期を全うしていたら、岸信介とは政策、特に対米、対中政策は大きく違ってたでしょう。

残念至極です。
石橋湛山の主張は今こそ耳を傾けなければいけないと、『石橋湛山』を読んで思いました。

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする