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三日坊主日記

本を読んだり、映画を見たり、宗教を考えたり、死刑や厳罰化を危惧したり。

中村保『最後の辺境 チベットのアルプス』とキリスト教の宣教

2016年08月30日 | キリスト教

中村保『最後の辺境 チベットのアルプス』では、一章を割いて、チベットへのキリスト教宣教師の苦闘、殉難が書かれてあります。

アヘン戦争の後、宣教師は中国の法律から免除された。
内陸における布教は禁止されていたが、捕まっても、最悪で近くの港に送還されるだけですんだ。

19世紀後半には大勢の宣教師がチベットでの伝道を始めているが、チベット人のクリスチャンへの改宗者は少なかった。


中村保氏は何人かの宣教師を紹介しています。

ミス・アニー・テイラー(1865年生まれ)は28歳のとき、「主は中国へ赴く女性を求めておられる」というお告げをきき、ダライ・ラマに福音を与えようと決意した。

スージー・リンハルト(1868年生まれ)は「いままでラサに福音が伝えられていないなら、私が教えを説く最初の一人にならなければならない」と自著に書いている。


いらんお世話だと思います。

ローマ教皇を仏教徒にしようと思うチベット人がいたら、カトリック信者は気を悪くするでしょう。

34年間、東チベットで布教したジェームズ・ハストン・エドガー(1872年生まれ)はチベット仏教を研究し、「チベットの宗教は、人間、神、自然について誤った認識に基づく、それこそ迷信と魔術の源泉である。有害で狂信的な信心と悪魔的な星辰は、時期はずれの霜が実をつけようとしている小麦を枯らせてしまうように、チベット人を蝕んできた」と書いている。


河口慧海も『チベット旅行記』でチベット人やチベット仏教をけなしていますから、そうなのかとは思いますが、これまたあまりいい気持ちはしません。

宣教師たちに独善、盲信というくさみを感じるからです。

パリ外国宣教会は1846年以降、インドやインドシナにおける布教を担当した。

布教の過程で多くが殉教した。そのニュースは新聞、雑誌、書籍で報道され、フランス、イギリスの国民感情に訴えたことがインドシナと中国にさらなる宗教的、商業的、そして軍事的介入をすることの国民的なコンセンサスを得る口実を与えた。

1889年、任安守(アネット・ジェネスティル)が雲南省北部の白漢洛(サルウィン川畔)に天主堂を建てた。
雲南で再び布教活動を始めたことを知ったラマ僧は、100人の武装した信徒を派遣し、任安守を討とうとしたが、任安守はこのような事態を想定していたこともあり、襲撃は失敗した。
この事件を受けて、フランスの要請により、清朝政府は80人を派兵し、宣教師たちを保護した。
任安守は、その地域一帯でチベット仏教を信じることを禁止すると同時に、読経や鉦や太鼓をたたくことも止めるよう布告し、非天主教徒との結婚を許可しなかった。

宣教師は植民地支配の先兵でした。

「宣教師は聖書を持って西欧の銃剣の後をついて行った」と中村保氏は書いています。

日本が朝鮮や中国、占領地に神社を建てて神道を強制したり、仏教各宗派が別院を建立したことが批判されます。
宗教を押しつけたことへの批判はもっともです。
キリスト教宣教師が世界各地で行なったことも同じではないかと、『最後の辺境』を読んで思いました。

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中尾健次『江戸の弾左衛門』

2016年08月22日 | 

江戸時代の被差別民について、中尾健次『江戸の弾左衛門』は私の知らないことがたくさん書いてありました。

浅草弾左衛門は関東の「頭」だった。
「」とは、古代から中世初期(平安・鎌倉時代)にかけては、寺院の財政や宗教的行事を担当する役職を指した。
今なら事務局長的な存在。
中世の後半(南北朝から戦国時代)になると、いろんな職人をしたがえた職人集団の頭も「」と呼ぶようになる。
このころ、寺や神社は多くの職人を抱えていた。
手工業者、境内の掃除や警備の担当などの集団の頭を「」と呼ぶようになる。

江戸時代には、関東で「」といえばエタ身分を指すようになった。

大阪などでは、「」とは「」の頭を指す。

「」という言葉は鎌倉時代からあり、主として神社の境内を掃除する人びとを指していた。

〝掃き清める人〟という意味で「キヨメ」とも呼ばれ、さらに「キヨメ」を「」と呼ぶことになった。

江戸時代になると、初期の段階では〝御仕置役に従事する人足〟を「エタ」と称していたが、元禄以降、「かわた」と呼ばれた人びとを含めて「エタ」と呼ぶようになる。

戦国大名が戦いに勝つためには、砦や城を築くための大工や石組み職人、刀鍛冶、刀を磨く職人、鉄砲鍛冶、皮革職人などの、優秀な職人集団を抱えていなければならなかった。

職人のなかでも、とくに重く用いられたのが、鎧・兜などの武具、鞍・鐙などの馬具をつくった皮革職人で、当時、「皮作」「かわた」と呼ばれていた。

16世紀初頭、専門の皮革職人がいたわけではない。

農村には、職人としての仕事を兼業的におこなう農民がいて、農作業の片手間に大工や鍛冶、皮革の仕事をしていた。
関東各地で皮革の仕事をしている職人たちは、多くはもともと農民だが、戦国大名に皮革の仕事を命じられ、専業化していく過程で、農民から外れていく。
皮革の生産者である「かわた」集団が各地にできた。

それとは別に、寺社勢力が強いところでは、「」のもとに、いろいろな職人集団が抱えられていた。

手工業者もいるし、掃除する職人もいる。
餓死した人の死体を片づけないといけないし、寺社には生活苦に追われた人も入ってくるので、窮民が入るのを食い止めるガードマンの仕事もするし、入ってきたものを捕まえたり、処罰することもある。

こうした、を頂点とした職人集団が関東の各地にあったが、の組織も戦国大名の支配下にくみこまれることになる。

組織の職人の仕事には、手工業(皮革生産など)の部門と治安対策(清掃事業や警備、仕置きの仕事など)にかかわる部門がある。

豊臣氏が滅亡して平和になった元和偃武以降、武具としての皮革の需要が減り、に治安対策の仕事をさせるようになった。

町奉行は、現在なら東京都知事・警視総監・東京地方裁判所判事を兼ねた役職。

北町奉行と南町奉行の二人がいて、一か月交替で仕事をこなした。
町奉行直属の家来が与力で、担当地域が決められていて、今なら区長と警察署長を兼ねる役職。
1人の町奉行に25人の与力がいたから、計50人になる。
与力の家来が同心で、1人の町奉行に140人、計280人いた。
斬首は同心の若手が担っていた。

弾左衛門は関東一円の「」「」の頭として、被差別民衆を統括する町奉行の地位にあったが、町奉行との関係からいえば与力格になる。


「」の語も古代からある。

「公民」に対することばで、戸籍に登録されていない民衆(農民でも口分田を支給されていない人、手工業者など農業以外の生業で生活している人たち)を「」と呼んだ。

江戸時代の「」は意味が違っていて、語源は「貧人」だと考えられる。

「貧人」とは、都市に流入してきた窮民たちのこと。
の仕事は、土木工事や清掃事業で、完成途上にある江戸では、建設作業だけでなく、河川の清掃、行き倒れの死体の片づけなどの仕事がたくさんあった。
10万人が死んだ明暦の大火のときには、焼死体を片づけ、粥の施行人足をつとめた。


には、さまざまな身分階層から入っており、流入・流出を繰り返していた。
ある記録によると、小屋頭の実家は、百姓・漁師・魚屋・旅籠で、出身地域も遠国の者がいる。

天保7年(1836年)の風聞書によると、野(貧人や無宿者)たちはもともと次のような人だった。

・越後・信州・奥州から江戸へ出稼ぎに来て、帰れなくなった者。
・江戸の場末に居住する、その日稼ぎの者で、生活が苦しくなって無宿となり、野同様になった者。
・諸国から伊勢まいりや金比羅もうでに出かけ、物もらいなどをしながら参詣し、そのまま江戸へ出て、野になった者。

中学校や高校
の日本史でやについて習いましたが、こうしたことを先生は話してくれなかったように思います。

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太田肇『お金より名誉のモチベーション論』

2016年08月17日 | 

太田肇『お金より名誉のモチベーション論』は、承認欲求について書かれています。

有名な大企業に就職したがるのも、有名校にわが子を入れたがるのも、大学教師がマスコミに顔を出したりするのも、金銭欲とはかぎらない。

彼らを動機づけているのは、お金よりもむしろ社会的に評価されたい(評価されるようにしてやりたい)、有名になりたい、認められたいという承認欲求です。


学歴を求めるのも、人格的評価、すなわち頭のよい人、優秀な人物と見られるから。
承認は欲求を満たし、社会的地位や経済面でさまざまなものを手に入れることができる。

太田肇氏によると、〈表の承認〉と〈裏の承認〉とがあります。

〈表の承認〉 大きな成果をあげたり、卓越した実力を示したり、あるいは自分の個性を発揮したりすることで積極的に認められる。
〈裏の承認〉 義理を果たしたり周りとの調和を保ったり、あるいは自分を殺したりすることで消極的に認められる。

〈裏の承認〉が重視される風土の中では、人々は互いに突出することを戒め、組織や社会の序列を守りながら奥ゆかしく承認されようとします。そのため表だって承認や賞賛をしても、受け入れられないばかりか、かえって逆効果になることもあるのです。

たとえば、日本の会社では決まった時間に帰れない。
仕事があろうとなかろうと、だれも早く帰ろうとしない。
東京に住む幼児の父親は、午後11時台に帰宅する人が最も多い。
北京、上海、台北の父親は6時台か7時台、ソウルでは8時台が最多。

有給休暇の平均取得率は2006年が47.1%と、半分も取得していない。

欧米では100%取得するのが当たり前。
時間外労働賃金の割増率は25%以上だが、欧米では50%以上。
残業をなくして新たに人を採用するよりは、時間外労働賃金を払うほうが割安になる。

残業するのはなぜか。

たいていの人はお金のためだけに働いているわけではない。
お金よりも、自分がいかにがんばって会社のために貢献しているかが認められ、評価されることを望んでいる。
権利としての休暇も取らずにがんばる姿を示すことによって評価してもらおうとし、最終的には出世という形で報われたいと思っている。

ところが、最初は意欲を認めてもらうため自発的・積極的に残業していたのが、いつしかそれが当たり前になり、いつの間にか悪い評価を受けないため残業しないわけにはいかない、という受動的で、半ば強制的な立場に追い込まれてしまう。


〈裏の承認〉を無視すると、「あいつはやる気がない」とか「協調性に欠ける」といった非難が浴びせられたり、仲間はずれにされたりすることが待っているわけです。


徳田靖之「当事者とは誰のことか 「らい予防法」廃止から20年を振り返って」という講演録(要旨)を読み、〈表の承認〉と〈裏の承認〉の問題がここにもあると思いました。


「らい予防法」は憲法違反だとして国家賠償請求訴訟が起こされ、2001年5月、熊本地裁は、「らい予防法」は憲法違反であるとの判決を出した。

ところが、2003年11月、熊本県黒川温泉のホテルがハンセン病元患者の宿泊を拒否した。
熊本県知事の厳しい対応に、ホテルはあやまちを認めて、宿泊拒否を撤回、謝罪した。
すると、菊池恵楓園に300通を超える誹謗中傷のハガキ、手紙、ファックスが殺到する事態となった。

特に腹立たしく感じたのは、「身の程知らず」という言葉が共通していたということです。これらの方々は、隔離政策の被害を受けた方々が大変な苦労を強いられたということをある程度は理解をしている。被害を受けた方々が「大変な思いをされて、気の毒ですね」と同情され、控えめにつつましやかに行動する限りにおいては理解もし、決して批判はしない。しかし、加害者に対しその責任を追及しようとすると、途端に態度が変わる。「身の程知らず」という言葉に、その態度の変化が見事に表されていると思います。

被害者がおとなしく我慢していれば同情されもするが、権利を主張すると、とたんに「何様と思っているのか」と誹謗中傷されるわけです。

医療ミスでの死亡や過労死でもそうで、損害賠償請求の裁判を起こすと、金がほしいのかと非難する人間が必ずいます。

ネットなんか特にひどく、どういう状況だったかを知りもせず、とにかく叩く。
こうしたことも〈表の承認〉と〈裏の承認〉の問題だなと思いました。

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3分の2とEU

2016年08月11日 | 戦争

いささか古くなってしまいましたが、先月行われた参議院選挙前の高知新聞(7月5日)の記事です。

【参院選 土佐から】改憲への「3分の2」 高知で83%意味知らず
■争点が見事に隠れる■
 今選挙注目の「3分の2」とは? 今回の参議院選挙は、憲法改正に前向きな勢力が「3分の2」の議席を確保できるか否かが一大焦点となっている。結果いかんでは戦後政治、人々の暮らしの大きな転換となる。が、この「3分の2」の意味や存在、有権者はどの程度知っているのだろうか。高知新聞記者が2~4日に高知市内で100人に聞くと、全く知らない人は5分の4に当たる83人、知る人17人という結果が出た。(略)
「今回の参院選は『3分の2』という数字が注目されています。さて何のことでしょうか?」
 記者がこの質問を携えて街を歩いた。
 返った答えのほとんどが「?」。「知らない」「さっぱり」「見当もつかない」の声が続いた。
 「合区のこと?」(21歳男性)、「えっ憲法改正のことって? そんな大事なことは新聞が大見出しで書かなきゃだめでしょ。全然知らなかった」(74歳男性)の声も。
 「3分の2」の争点や意味を、ほぼ分かっていたのは17人。(略)
 「自民党の憲法改正草案を読んだことがありますか?」
 読んだことがあると答えた人は10人。「家族は協力し合わねばならないとの条文があった気がする」(44歳女性)、「新聞で読んだ。すごい量が多くて、何となく読んだくらい」(56歳男性)。新聞や自民党が配布した冊子で読んだ人のほか、テレビニュースで概要を聞いた人も含めたが、内容を熟読した人はいなかった。(略)


毎日新聞(7月13日)です。

熱血!与良政談 「3分の2って何?」の衝撃
(略)毎日新聞が投票日の10日に全国の有権者150人に聞いたアンケートでも6割近くに当たる83人が、このキーワード(3分の2のこと)を知らなかった。「それって雇用関係の数字じゃない?」と答えた人もいたという(略)

「3分の2」がどういう意味か知らない人がそんなにいるとは驚きです。

こちらは京都新聞の記事(7月11日)です。


国会発議「急ぐべきでない」半数 憲法改正テーマに緊急調査
 参院選の投開票結果を受け、京都新聞社は11日、憲法改正をテーマに京滋の有権者100人に緊急アンケートを実施した。改憲勢力が改憲発議に必要な3分の2以上の議席を占めたことについて、評価する声は22人にとどまった。憲法改正の国会発議についても「急ぐべきではない」が半数近くを占め、慎重な姿勢が浮かび上がった。
 与党の圧勝を評価した22人の中でも改憲の内容については意見が分かれた。自民党が憲法改正草案に明記した「国防軍の保持」について、「賛成」は10人だったのに対し、「反対」は5人で、「どちらとも言えない」も7人いた。同草案の「家族は、互いに助け合わなければならない」とする規定は「賛成」(10人)と「どちらとも言えない」(11人)に分かれ、反対は1人だった。
 一方で、自民の改憲草案に「目を通したことがない」が75%で、改憲勢力3分の2を「よかった」と評価する人では、さらに目を通していない割合が高かった。(略)


憲法を改正すべきだと考える人でも、どこをどう変えるか、それは人それぞれのはずで、自民党の憲法改正草案に100%賛成という人は少ないと思います。
草案のここは賛成だが、ここは反対とか、そういうものでしょう。
憲法が改正されるかもしれないのに、それを知らないで投票する。
あるいは、改正されたらどうなるかを考えずに、とにかく改憲すべきだと考える。
これでは、イギリスのEU離脱に賛成票を投じた人と変わりません。

イギリスのEU離脱決定から数時間後、イギリスでグーグルで検索数が多かったのは、「EU離脱の意味は?」、2番目が「EUって何?」だそうです。

坂野正明「TUP速報999号 英国のEU離脱キャンペーンに見る市民の政治誘導と参院選」(7月98日)からの無断引用です。

離脱が決まった後になって、離脱に票を投じた人の少なからずが真剣に青ざめている様子が、報道からもまた筆者の周囲でもうかがえる。たとえば、外資の工場で働く労働者が大量解雇の可能性におびえたり、欧州大陸でビジネスを繰り広げる(英国)人が、自分の仕事の将来に不安を覚えている様子だ。投票前に、自分の投票行動とその結果が自分の生計に与える影響との関係に考えが至らなかった、ということだ。

3分の2の意味を知らずに自民党やおおさか維新に投票した人は、国民投票のあとに後悔したEU離脱派を笑えません。

坂野正明氏によると、EU残留を説く知識人が理詰めで主張したのに対し、EU離脱キャンペーンの多くは単純なスローガンを繰り返したそうです。

有名なのが次の3つ。

・「コントロール」を取り戻せ
・英国をふたたび偉大な国にしよう
・国を取り戻したい。

こうした感情に訴える単純なスローガンは受けます。
しかし、どうとでも受け取れるし、具体的に何を、どうするのかはわかりません。
そのあたりも都合がいい。

安倍首相は「戦後レジームからの脱却」と唱えていて、しかし戦後の日本はアメリカ追随で一貫しており、安倍首相も同じ路線のはずなのに、何を脱却するつもりかと思ってましたが、「戦後レジームからの脱却」とはアメリカの「押しつけ憲法」を廃止して「自主憲法」を制定するということだと、最近納得しました。
もっとも、その自主憲法と称するものもアメリカの意向に沿うものとなることは容易に予想されます。

山田優、石井勇人『亡国の密約 TPPはなぜ歪められたのか』という本を、新潮社のHPではこのように紹介しています。

1990年代、コメの市場開放要求をかわすため、日本は米国とある密約を結んだ。「聖域」を守る代償として、米国に大きな実利を差し出すスキームは、その後20年余りの間に、農業のみならず金融、保険、医療分野にも拡大。その結果、TPPでも日本は大幅な譲歩を余儀なくされた。


毎日新聞の書評(7月17日)によると、

〝密約〟とは、日本が義務づけられている米の輸入量のうち、ほぼ半分を、アメリカから輸入するというものである。国会で質されても、大臣も、農水書も否定する。(略)
こうした密約が、TPPではさらに拡大してアメリカ代表が大丈夫かと事務方に聞くほど、甘利代表(当時)は譲歩したらしい。

とあります

伊勢崎賢治『本当の戦争の話をしよう』は、福島高校の生徒への講義をまとめた者です。
アメリカの特殊部隊がパキスタンでビンラディンを暗殺した。
パキスタン国民は主権侵害だと怒り、反米感情は高まった。
歌舞伎町でビンラディンが殺害され、日本政府が「知らなかった」と言ったとして、日本人はどうするだろうか、と伊勢崎賢治氏は問います。
日本政府は主権が侵害されたとアメリカに抗議するか、国民は怒るか。
「へえ-」で終わるのではないか。

そして伊勢崎賢治氏は、2004年、沖縄でアメリカ軍のヘリコプターが沖縄国際大学に墜落したときの話をします。
日本の消防車も警察も現場に近づくことはできなかった。
アメリカ軍が日本の私有地にバリケードを作って封鎖し、日本人を誰も立ち入らせなかったのである。
こうしたアメリカの言いなりという体制こそ脱却してほしいものです。

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青草民人「夢を目標に」

2016年08月05日 | 青草民人のコラム

夢という文字に「イ」をつけると儚いという言葉になると、以前、書いたことがあります。人がみる夢というのは、儚いものであるというと、何だか世智辛く、それこそ夢も希望もないという暗澹たる思いがします。

新しい社会人を目指して、世間の荒波に飛び込もうという若者たちが就活を始める時期となりました。しかし、その実態は、ブラックだの、派遣だのと、自分の夢どころではなく、それこそ生活をしていくためだけで精一杯。仕事を選んでいる場合ではないと右往左往している若者たちがたくさんいます。

夢は、いつから儚いものになってしまったのでしょう。「念ずれば花開く」と詩人坂村真民はいいました。夢は叶うものではなく、実力で勝ち取るものとなりました。そして、そこには、勝ち組、負け組という言葉が生まれ、ニートや引きこもりといった若者の生き様が見え隠れするようになってきたのです。


最近のデータでは、いじめの件数は減ってきましたが、不登校の児童や生徒が増えているというデータがみられます。若年層の理由のはっきりしない自殺も増加傾向にあります。


あまりに現実化したこの社会の中で、若者たちが熱く語れる夢がもてる社会の実現がいま求められていると思います。


夢をもつといえば、若者だけの問題とも言えません。長年社会に尽くしてきた高齢者の方々の老後の問題も夢の実現という意味では、儚い状況にあります。唯一の頼みの綱である年金制度への不安。伴侶を失った後の孤独死の問題。認知症や病気への不安など、ことさら夢の実現とは程遠い状況が目の前の現実として現れています。


私たちは、夢をもつということを理想の生活や理想の生き方に近づくことだと思っています。しかし、頭の片隅では、その夢がかなうとは信じていない自分もいます。宝くじを買うのと同じで、夢はもつものであって、叶うものではないと内心思っているのでしょう。


昔の教え子の卒業文集の寄せ書きに何かを書いてほしいといわれて、「夢を目標に」と書いた覚えがあります。何気なく書いて、私自身も半信半疑だったのですが、その言葉を胸に刻んで、本当に夢を叶えた子がいました。「サッカー選手になる」という夢のような話ですが、その夢を目標にして、努力して、本当にフットサルの選手になった教え子がいました。私が一番驚きましたが、念ずれば花開くのです。


儚い夢であっても、夢を目標にし、目標を努力に変えて、努力を楽しみながら生きていきましょう。

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