三日坊主日記

本を読んだり、映画を見たり、宗教を考えたり、死刑や厳罰化を危惧したり。

帚木蓬生『安楽病棟』

2016年07月30日 | 

帚木蓬生『安楽病棟』(1999年刊)は、病院の痴呆病棟の看護婦が主人公の小説です。
看護婦は先生の「オランダにおける安楽死の現状」という講演を聴きます。
こういう話です。

安楽死には〈積極的安楽死〉〈医師の幇助による自殺〉がある。
患者の意志に基づくのが〈自発的〉で、患者の意志によらないのが〈非自発的〉。
治療を中断して死に至らしめるのが〈受動的〉、医師の手で致死量の薬剤を投与するのが〈積極的〉。

オランダにおける安楽死は、本人の同意があってもなくても医師が決定できる。

患者の意志がないのに医師の判断で致死剤を投与して死に至らしめるのが〈非自発的積極的安楽死〉である。

オランダでは〈安楽死〉という用語をあまり使わず、〈生命終結行為〉という表現をする。

その対象となるのは、重篤な障害をもった新生児、長期の昏睡患者、重篤な痴呆患者。

痴呆患者に対しては〈生命短縮行為〉という用語をあてている。

なぜなら、積極的に生命を終結させるのではなく、患者の要請にもよらずに生命を縮めるから。

具体的にどういう行為を指すのか。

1 狭い意味での〈生命終結行為〉
致死的な薬を患者に与えて死に至らしめる行為。

これが許されるのは次の二つの状況のとき。

① その患者が重症痴呆になったときは死なせてもらってもいいという了解を書面で書いていたか、あるいはそういう意志をもっていたことを周囲の人たちから確認でき、さらに重症痴呆に別な重篤な病気が加わったとき。


② 書面も周囲の証言もないものの、その患者が人間の尊厳を損なうほどに痴呆が進行している場合。

これこそが〈非自発的積極的安楽死〉。

2 治療の副産物として生命を縮める方法

ある症状に対して強力に治療すれば、その結果として生命を縮めるかもしれないとわかっていながら、そのまま強行してしまう方法。

3 治療中止

治療中止と対極にある行為として、延命のための治療がある。
痴呆患者の場合、延命治療が容認されるのは、患者の意志がそうであり、治療に耐えられ、治療の効果が期待でき、患者にとって利益になる、という4点が条件となる。

〈殺すこと〉と〈死なせること〉は違う。

治療中止は〈殺すこと〉ではなく、〈死なせること〉。

オランダにおける年間死亡数の約4割が、医師の判断によってなされる積極的安楽死と消極的安楽死によるもの。
患者の意志によらず、医師が生命終結させる〈非自発的積極的安楽死〉は年間約6000例で、日本だと年間5万人に相当する。
実際の安楽死の数字はもっと高いものだと思われる。

オランダで安楽死の対象となる病気
各種の癌、心臓病、肺疾患、脳卒中、神経病、精神病、重篤な児童の病気、未熟児、二分脊椎、ダウン症など。
重い病気を背負った新生児は、生まれても食事を与えられず、脱水か餓死で〈安楽死〉させられる。

オランダで実施されている安楽死の具体例
1 ダウン症だとわかった新生児
ミルクを吐くので診てもらうと、十二指腸狭窄という診断がついた。
手術で治る病気だが、両親と小児外科医は手術しないことで意見が一致した。
驚いた家庭医は児童権利保護委員会に申し立てをしたが、委員会が介入する前に赤ん坊は栄養失調で亡くなった。
家庭医は小児外科医の行為が殺人にあたるとして裁判所に訴えたが、裁判所は即座に無罪の判決を下し、逆に家庭医は患者の秘密を第三者に暴露したとして、小児外科医や両親から激しく批判された。

大学病院の麻酔科のなかには、ダウン症の子供が心臓病にかかって手術が必要になったとき、麻酔を拒否するチームが少なからずある。

子供の両親は麻酔をしてくれる病院を探さなければならない。

2 妊娠32週で生まれた未熟児

頭蓋内出血を起こしていたので、貯留した血液をドレナージで抜かなければ死は確実。
しかし、両親はその処置を断り、未熟児は生まれて30日目に小児科医のてでモルヒネを注射されて死んだ。

3 二分脊椎と水頭症をもった3歳の男児

両親がドレナージを認めないので、水頭症は悪化するばかりだった。
子供が腹痛を訴えたので、両親は安楽死を依頼する目的で、総合病院に入院させた。
担当した看護婦は子供の安楽死に反対で、自分がその患者を養子にしても構わないと思い、夫と相談のうえ、その両親に申し出た。
両親はこれも拒絶し、結局は両親の主張と小児科医の意見が一致し、子供は点滴の中に致死剤を入れられて死んだ。
そのあと、病院はその看護婦を呼び、夫に患者の秘密を漏らした、看護婦として失格だと、警告を発した。

4 知的障害をもつ6歳の女児

女児が小児糖尿病を発症し、インスリンの注射が不可欠なので、家庭医は両親に許可を求めた。
ところが両親はインスリン治療を拒否した。
何十年にもわたり、死ぬまでインスリン注射をしながら生きていかせるのは忍びない、というのが理由だった。

5 72歳の未亡人で、心筋梗塞の既往をもつ患者

強心剤と利尿剤、抗血液凝固剤を服用し、薬のおかげでひとり暮らしができていた。ところが、新しい家庭医が、そんなに苦しんでまで生きなくてもいいのでは、と助言をしたので、彼女は薬をやめ、三日後に心不全で亡くなった。

講演の後に質疑応答がなされますが、これは帚木蓬生氏の安楽死に対する疑問でしょう。

・30代半ばの内科医
安楽死に対する患者の意志は本当に信頼に足るものだろうか。「殺してください」「死にたい」と患者はよく口にするが、額面どおりに受け取ると大変な間違いをしでかすのではないか。
答え オランダのように安楽死容認の歴史が長くなれば、理性的な判断がより濃厚に加わるのではないか。

・70代の元新聞記者

ナチスの尊厳死とオランダの安楽死とは考え方が本質的に同じではないか。
答え ナチスの尊厳死では本人の意向はまったく考慮されていなかった。
オランダでは、医師に報告の義務があって、社会の眼にさらされている。
すべてが秘密裡に処理されていたナチスの尊厳死と同列に論じることはできない。

・障害児をもつ中年の女性

日本でも「あんな子供がよく生きているわね」「あんな子、社会のお荷物ね」といった声が浴びせられる。
オランダであれば、障害児を眼にした一般市民が、「あんなの、早いとこ注射で眠らせたらいい」と排斥するに決まっている。
障害をもつ人や病人が健常者からサービスを受けるばかりで、健常者の足を引っ張ると考えるのは間違い。
弱い立場の人たちに優しい眼を向ける長女や次男を眺めて、長男のおかげだと思う。
障害者や病人に対して施しているだけのものを、わたしたちもその人から施されている。

・70歳過ぎの男性

老人に対する安楽死がその国の財政を救うのだという風潮があると、無言の心理的圧力が老人に加わるのではないか。
元気なときに安楽死を希望する旨の書面をきちんと書いておかないと、周囲から暗に非難されるのではないか。
すべての老人が、痴呆や重病になったとき、安楽死を望む書状によって処分されるようになるのではないか。
書状をしたためておかなかった老人は、国家の財政を食いつぶす厄介者として、社会から白眼視されるのではないだろうか。
オランダのようになると、老人は社会に迷惑をかけているのではないかと肩身が狭くなる。
本人の同意がなくても安楽死が行われるようであれば、年寄りはおちおち病院に入院もできない。

・60歳のクリスチャン

80年も90年も生きた年寄りが、いつまでも生き続けるのは、神の意志だろうか。
まして重篤な痴呆や末期癌、植物状態にある患者が、まだ生きさせてくれと神に頼む権利があるのか。

以上です。

長々と引用したのは、障害者施設「津久井やまゆり園」で45人が殺傷された事件が起きたとき、たまたま『安楽病棟』を読んでいて、この事件は、加害者としては一種の「積極的安楽死」のつもりではないかと思ったからです。

『安楽病棟』では、痴呆病棟の患者が8人、死亡します。

痴呆病棟は動ける患者が収容されており、患者は寝たきりや植物状態ではありません。
ネタバレですが、犯人は担当医である先生です。
しかも、同じ行為を終末期医療研究会の会員たちもしているらしいとわかります。
『安楽病棟』を読んだ人は、担当医の行為に複雑な思いを抱くでしょう。

殺傷事件の容疑者は「重複障害者が生きていくのは不幸だ。不幸を減らすためにやった」と供述しているそうですし、容疑者の衆議院議長宛て手紙にはこんな文章があります。

障害者は人間としてではなく、動物として生活を過しております。車イスに一生縛られている気の毒な利用者も多く存在し、保護者が絶縁状態にあることも珍しくありません。
私の目標は重複障害者の方が家庭内での生活、及び社会的活動が極めて困難な場合、保護者の同意を得て安楽死できる世界です。


小説と実際の事件とを比較すべきではないですが、片や医者による〈非自発的積極的安楽死〉という殺人、片や医者ではない者による〈非自発的積極的安楽死〉という殺人と言えるんじゃないでしょうか。

『安楽病棟』に、「マーシィ・キリング(慈悲ゆえの殺害)」という言葉が『安楽病棟』に出てきます。
馬が骨折したら、その時点で殺すことです。
痴呆患者を殺したのも本人のためなのです。
今回の殺傷事件でも、重複障害者の安楽死を認めるべきだということに限れば、加害者の主張に賛成する人は少なくないと思います。

ただし、先生が主人公の看護婦に「動屍」、すなわち痴呆患者は一種の屍だ、屍が動くから動屍だ、という話をします。

先生は痴呆患者を生きている人間として見ていません。

日本安楽死協会(日本尊厳死協会の前身)理事長だった太田典礼は、老人・難病者・障害者たちは「半人間」であり、生きていても社会の邪魔になるだけだ、と公言しています。
麻生太郎も「高齢者はさっさと死ねるようにしてもらいたい」と発言しています。
この人たちと容疑者は、認知症の人や障害者に対して同じ考えを持っているわけです。

オランダではこの事件はどのように考えられているのでしょうか。

安楽死が法制化されていないために起きた不幸な事件、とみなされるかもしれません。

コメント (2)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

自死と自殺

2016年07月25日 | 日記

安楽死・尊厳死を主題にした映画が増えているように思います。
『君がくれたグッドライフ』(筋萎縮性側索硬化症)、『或る終焉』(末期ガン)、『ハッピーエンドの選び方』(病名は不明)、『母の身終い』(脳腫瘍)、『アリスのままで』(認知症)などがそうで、以前にも『海を飛ぶ夢』(頸椎損傷)、『ミリオンダラー・ベイビー』(頸椎損傷)、『ジョニーは戦場へ行った』などの作品がありました。(未遂も含む)

これらの映画をすべて見たわけではないのですが、ネットで調べると、安楽死・尊厳死を肯定的に描いているようです。
安楽死・尊厳死とは何かを私たちが知っているかというと、はっきりしておらず、無駄な延命治療は患者を苦しませるだけだというイメージが先行しているように思います。

児玉真美『死の自己決定権のゆくえ』によると、安楽死・尊厳死には次の三種類があります。
・消極的安楽死 治療を差し控えたり中止することによって結果的に患者の死を早めたり招く行為
・積極的安楽死 致死薬を注射するなど積極的な行為を行うことによって患者を死に至らしめる行為
・医師による自殺幇助 自殺希望のある人が自分で飲んで死に至ることができるよう医師が致死薬を処方するなどの行為
先にあげた映画はいずれも本人の意思に基づく積極的安楽死、もしくは医師による自殺幇助です。

張賢徳「自殺の心理、遺族の心理」(『わたしも大事 あなたも大事』)に、「自死」と「自殺」という呼称の問題について語られています。

「自殺」という言葉が嫌だという遺族が多く、「自死」が使われるようになったが、自死という言葉には、自分が自ら意志的に選んだ死だというニュアンスが入ってしまう。
自殺には、理性的な自殺とそうではない自殺があり、理性的な自殺とは、精神的な変調がなくて、本人の理性的な判断で決断された自殺のこと。
エンペドクレスや藤村操がその例でしょうか。
自らの意志で死を選ぶのは極めて例外で、ほとんどの自殺はうつ病など精神的な変調が介在している自殺が圧倒的に多く、自殺の9割は精神科の診断がつく。
安楽死・尊厳死も理性的な自殺である。

「自死」という言葉が、自ら選ぶというニュアンスを広めてしまうのであれば、精神科医として看過できません。自殺や自死の実態を見誤らせてしまう。自殺対策基本法ができる前の、個人が決めたことだから、責任の取り方だからということで認めてしまうようなところに、また逆戻りしてしまうのではないかなと思います。
仮に自ら選んだ死だとして、それをどうするのかという問題もあります。死にたい、死にたい、という訴えに対して、ああそうですか、死になさい、という社会は、あまりにも冷たいのではないか。これは、尊厳死とか安楽死をどう考えるかという、社会の問題にもつながると思います。


児玉真美氏によると、3カ国とアメリカの3つの州には、一定の条件下で医師による積極的安楽死、または自殺幇助を認める法律があり、ウツ病など精神障害によって自殺を希望している懸念がある人にも致死薬を処方する医者もあるそうです。
「死にたい」という訴えに対して、「ああそうですか。ではお手伝いしましょう」という社会に現実はなっているわけです。

安楽死・尊厳死という形による死を自らが選ぶことを認めるなら、希死念慮の強い人にも安楽死・尊厳死を認めるべきだということになります。
安楽死・尊厳死の推進と自殺の防止とは矛盾しているように思います。
ガンなどにしても、本当は助かる可能性があるのに、安楽死・尊厳死を選ぶ人だっているかもしれないわけで、「ハッピーエンド」だと自画自賛するのはどうかと思います。
安楽死・尊厳死といった美しい名称ではなく、自らの意志で死を選ぶわけだから、自殺死とすべきではないでしょうか。

コメント (4)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ディーデリク・エビンゲ『孤独のススメ』

2016年07月20日 | 映画

ディーデリク・エビンゲ『孤独のススメ』は、オランダの田舎町に一人で住む初老の男が、知的障害かと思われる男を家に住まわせる、というところから物語が始まります。
セリフは少なく、説明はあまりなく、最初のほうは少々退屈です。
若い妻と幼い息子のほほえんでいる写真が何度もアップになり、息子が小さいころに歌ったアリアのカセットテープを主人公が繰り返し聴いているので、妻と息子を失って一人なんだということがわかります。

最初にバッハの「演奏は難しくはない。正しい時に正しい鍵盤を叩けばいい」という言葉が引用されます。
どうして妻と息子を失ってしまったのか、終盤になって一気に解き明かされることによって、「演奏」とは「人生」のこと、間違った時に間違った鍵盤を叩いた男の話なんだなと思いました。

取り返しのつかないことをしてしまったという後悔に主人公はさいなまれているようです。

あんなことを言うんじゃなかった、こうしていたらよかった、という悔いは誰もが持っています。
失ってしまったものは取り戻せません。
しかし、取り返しのつく(かもしれない)ことはあります。
家族も信仰も失った主人公が回復していくラストは何やらホッとします。

気になった些細なことをいくつか。
見知らぬ男を家に入れ、食事を与え、宿泊させるなんてことを、主人公はどうしてするのか、その説明がないので、唐突な感じがします。

日曜日のミサで牧師は聖書の「小さい者」(マタイ福音書25章31節~46節)の話を読むし、隣人からは「よきサマリア人だな」(ルカ福音書10章25節~37節)とからかわれます。
主人公は敬虔なキリスト教徒としての生活をしているので、「飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ」ということを、キリスト教徒の務めとしてしたのかもしれません。

ところが、教会への批判と思われる描写が結構あります。
この町では日曜日には全員が教会に行く。
牧師はミサで聖書を読むが、認知症らしくて、大声で読みあげるだけで話はしない。
少年から「ホモ野郎」とからかわれた主人公は、烈火のごとく怒る。(このことについては理由があるのですが)
日曜日にサッカーをしていると、隣人から「主の日だ」と注意される。
その隣人に主人公が「神が私に何をした」と問い、さらに「神がお前に何かしてくれたか」とも言う。

宗教や同性愛に寛容なオランダでもこんな町があるのかと思いましたが、ディーデリク・エビンゲ監督へのインタビューに、「(オランダには)こんなにキリスト教の厳格な教義が支配するコミュニティーはないですよ。(略)作品は「おとぎ話」のようなものなのです。全くのフィクション」と答えています。

キリスト教への批判というのは深読みでしょうか。

ジャコ・ヴァン・ドルマル『神様メール』の神様は、神の子を喜んで見捨てるだろうなと思わせるDV亭主です。

旧約聖書の、厳格で怒りやすく、人々を裁く神への皮肉かと裏読みしました。

もう一つ気になったこと。

主人公が旅行会社にマッターホルンへのバス旅行はいくらかかるかと尋ねると、2人分で946ユーロ(だったと思う)。
10万円ぐらいですが、このお金が主人公にはない。
住んでいる家からすると貧しそうには見えないのに、10万円の金が自由にならないのでしょうか。

カルロス・ベルムト 『マジカル・ガール』は、父親が白血病の娘のために日本のアニメのコスチュームをプレゼントしようと思うが、これが70万円もして、失業中の父親にはお金がない。

知り合いに相談するけど、やはりお金がないという返事。
失業中とはいえ、この一家も貯金がないのかと思いました。

ダーグル・カウリ『好きにならずにいられない』というアイスランド映画では、エジプトへ旅行するために2人分の切符を予約しますが、こちらの主人公こそお金がなさそうです。

見た目で判断してはいけません。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

末木文美士『親鸞』(2)

2016年07月15日 | 仏教

末木文美士『親鸞』で、ええっと思ったのは、正法、すなわち法然の教えを誹謗する者を徹底的に糾弾するところに、闘う念仏者としての親鸞の本領があるという、末木文美士氏の考えです。

親鸞の思想は、しばしばどんな悪でも阿弥陀仏の慈悲で許されるという無定見な無限抱擁主義であるかのように受け取られるが、これは近代になって形成されたまったくの誤った見方である。親鸞は決して邪説や誹謗正法を許さない。その点、きわめて断固として一貫しており、たとえ相手が施政者であっても、身内であっても変わらない。親鸞は闘う念仏者である。


では、五逆謗法の悪人とは誰のことかというと、親鸞自身のことだと考えられている。
すなわち悪人の自覚ということである。
しかし、阿弥陀仏の正しい教えを伝える親鸞自身の教えこそ正法であり、それに背いたり、謗ったりする者が悪人だと親鸞は考えた、
もっとも、五逆謗法を糾弾すればするほど、その切っ先は鋭く自分を突き刺すことになるから、親鸞自身が悪人の自覚を持っていたということは間違いではない。

親鸞は政治に嘴を挟むことをしなかったとされてきた。
それは、宗教は政治に無関心であるべきだという近代の政教分離原則をもとにしたものだが、中世人親鸞は従順な政教分離主義者ではなかった。
この世界を正しく導き、幸福をもたらすのは仏法であり、政治はそれに従わなければならない。
それが親鸞の仏法・王法観であった。

その例として、親鸞の描く聖徳太子像は決して平和主義者ではなく、仏法のためならば、積極的に逆臣を討ち滅ぼす人物としてとらえていると、末木文美士氏は指摘しています。

聖徳太子関係の和讃では、王法・仏法一体となって、いわば仏教国家の樹立を目指し、そのためには武器を取ることさえ認めている。

物部弓削の守屋の逆臣は ふかく邪心をおこしてぞ
寺塔を焼亡せしめつつ 仏経を滅亡興せしか
このとき仏法滅せしに 悲泣懊悩したまひて
陛下に奏聞せしめつつ 軍兵を発起したまひき
寺塔仏法を滅破して 国家有情を壊失せん
これまた守屋が変化なり 厭却降伏せしむべし

仏法破滅を意図している廃仏派の物部守屋のような逆賊は攻め滅ぼさなければならないというので、聖徳太子は蘇我馬子と計らって物部氏を滅ぼした。

『教行信証』にも見られた五逆・誹謗正法に対する断固たる否定は、晩年一層強くなったようで、そこには寛容ということはあり得ない。
法然から正法を受け継いだという自負を持つ親鸞は、正法を護るために闘った。

親鸞は、法然からの継承の絶対性をもって、今度は自らが他者を断罪する権威あるものとして振る舞うことになるのである。


正統性については親鸞の妻である恵信尼や、曾孫の覚如も意識している。
『御伝鈔』の特徴として、法然―親鸞の継承を重視する点があり、親鸞=阿弥陀仏として絶対化することがある。
それは覚如によって始められたことではなく、恵信尼消息や親鸞自身の思想の中にその原型が認められる。

恵信尼は娘の覚信尼に宛てた手紙によって、核心となる教えの誕生の秘話を、恵信尼だけが知っている秘密として覚信尼に伝え、そこに親鸞―恵信尼―覚信尼という継承の正統性を保証するという意図があったのではないかと考えられると、末木文美士氏は書いています。

あくまでも正しい仏法が指導する国家を目指し、謗法者には仮借のない批判を浴びせかけるのである。原理主義的とも言える闘う念仏者、闘う仏教者であり、その点、日蓮とも共通するところがあると言えよう。

となりますと、真宗教団の戦時中におけるの戦争協力も、正法を守るためだと強弁することができます。

鎌倉幕府は専修念仏を禁止・弾圧していますが、鎌倉幕府の弾圧を報告する弟子からの手紙に対する親鸞の返事を見ますと、「その土地に念仏の教えが広まることも、 すべて仏のはたらきによるのです。その土地での縁が尽きてしまったなら、 どこへでも縁のあるところに移ることをお考えになるのがよいでしょう」とあります。
謗法者とは闘えとは言っていません。
このあたりを末木文美士氏に聞いてみたいです。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

末木文美士『親鸞』(1)

2016年07月10日 | 仏教

末木文美士『親鸞』は親鸞の評伝ですが、真宗近代教学への批判書でもあります。

従来の親鸞像は、親鸞があたかも中世という暗黒時代に、突如宇宙人が舞い降りるように出現した近代人であるかのように描き出してきた。そうではなく、中世という時代の中で、その時代を最も真摯に生き抜いた思想家として親鸞を読み直そうというのである。

近世までの親鸞伝は、様々な奇蹟や神秘現象を含み、親鸞の聖人性を表現していたのに対して、近代的研究に基づく親鸞伝は、史料批判に基づいて非合理的な要素が排除され、人間親鸞像を明らかにしようとする方向を推し進められた。
近代の研究は、合理的な人間親鸞の解明を目指したために、史料の中にある非合理的な要素を無視し、つじつまの合うところだけをつまみ食いする危険を冒すことになった。
中世人としての親鸞を明らかにしていくことが大きな課題となっている。
中世的な思考とは、どのような特徴を持つのか。

中世人の世界観の根底に「顕」と「冥」の重層構造がある。
「顕」というのは、現象として現れているこの世界である。
近代的な合理的、科学的見方では、この世界がすべてであって、それを超えた外部を認めない。
しかし、中世人の世界は「顕」なるこの世界の外に、我々の理性では理解しきれない、「冥」とか「幽冥」と呼ばれる、神仏の世界であり、死者たちの行く世界が広がる。
「顕」なる世界は「冥」なる世界と無関係にあるのではなく、両者は交流し、入り混じっている。
「冥」なる神仏は、この世界と別の秩序に属していながら、「顕」の世界に影響を及ぼしており、神仏などの「見えざるもの」との関係の中で現世の秩序が考えられていた。

『愚管抄』における冥なる存在には4種類ある。
1 歴史の時間を超えて存在する神々
2 冥の世界の存在が顕の世界に仮の姿をとってあらわれる場合。「化身」「権化」。『愚管抄』では聖徳太子・藤原鎌足・菅原道真・良源の4人が観音の利生方便とされる。
3 怨霊
4 天狗・地狗・狐・狸などの邪悪な魔物

見えざる神仏が現れるのを方法化して、神仏と交流する場が作られるのが儀礼という場であり、密教において最も典型的に発展した。
親鸞は近代において反儀礼性が喧伝されたが、そうは言えないのではないか。
現世が神仏によって護られているという観念は中世で当たり前のことであり、親鸞も当然そのような世界の中で生きている。
親鸞は顕冥という言葉こそ使わないが、仏や菩薩が様々に姿を変えて現実に顕れるという本地垂迹的な思想が、はっきりと認められるし、『御伝鈔』にも神祇信仰が明白に示されている。

六角堂の夢告、そして「宿報にてたとえ女犯すとも 我、玉女の身となりて犯せられん」という女犯偈は、親鸞の性の悩みだけを意味するのではない。
玉女とはただの女性ではなく、王権や密教とも関係する。

慈円『慈鎮和尚夢想記』に、三種の神器のうち、神璽(宝珠)が玉女であり、玉女は王妃の身体だとある。
王が清浄な玉女の身体に入り、交合するのであるから、そこには婬欲の罪は生じない。
そのことによって王子が誕生し、皇統が継続していく。

このように玉女は単なる女性ではなく、王妃という地位にある女性であり、王権が深く関係している。
また、性的な夢が、性を通してより深い宗教的(密教的)な真理が開示される。

こうした末木文美士氏の指摘は、なるほど、そうなのかと思いました。
中世に暮らす親鸞が見ていた世界と、現在の私たちが見ている世界は違っていて当然です。
たとえば災害にしても、台風は突然暴風雨としてやってくるわけで、今のように何日も前から動きがわかっているわけではありません。
現在の視点から親鸞の言行について論じることは、親鸞が伝えたいことを誤って理解することになるかもしれないとは私も思います。

もう一つ、従来の親鸞観と大きく異なっているのは、親鸞は「正しい仏法のために闘う念仏者」だということです。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする