三日坊主日記

本を読んだり、映画を見たり、宗教を考えたり、死刑や厳罰化を危惧したり。

松田美智子『サムライ 評伝三船敏郎』

2016年05月28日 | 映画

三船敏郎は酒乱だったそうですし、『大俳優丹波哲郎』に三船敏郎が黒澤明の悪口をグダグダ言っていたとあって、実際はどうなのかと思い、松田美智子『サムライ 評伝三船敏郎』を読みました。

松田美智子氏が取材した人の中で、三船敏郎の悪口を言う人は一人もおらず、長年ノンフィクションの仕事をしてきて、初めての経験だったそうです。

潔癖、几帳面、生真面目、律儀、情に厚い、人の痛みに敏感で、感受性も豊か。

大物になっても、気配りと気遣いは忘れなかった。
スター気取りが嫌いで、監督から主役、端役、その他大勢のスタッフにいたるまで同等の仲間と考えていた。
現場のスタッフが少しでも心地よく仕事ができるように、常に気を配っていて、荷物を運ぶなどスタッフの手伝いを進んでした。
立ち回りのあと、切られ役がケガなどしていないかを気にかけたが、あくまでさりげなく、相手に恩をきせないよう振舞った。

セリフをすべて覚えてから、撮影に臨み、台本を持たずに撮影所に入る。

撮影所に入る時間は他のキャストより一時間早く、持参した椅子に座って待っているのが常だった。
スタートの合図が出たときには、すでに役になりきっていた。
役作りに、これだけ研究したとか、努力したとか、何も口にしなかった。

『グラン・プリ』の撮影が終わり、日本に帰る飛行機の中で、渡米で世話になった人たち30人くらいに礼状を書いた。

『太平洋の地獄』で渡米したとき、ホテルの部屋で宴会をした翌朝、早朝から起きてかなりの数のコップを洗った。
『風林火山』の撮影のとき、中村錦之助、勝新太郎と飲んでいて、「トイレに行く」といって部屋を出て、小便をするところが汚れていたので掃除をした。

女遊びがヘタで、適当に遊んで終わりにすることができない。


心根が優しく、几帳面で、整理整頓好きで、掃除が趣味の三船敏郎は、酒を飲むと豹変した。

息子たちは「酔った父が暴れるのは日常茶飯事だった」と語る。
几帳面で、真面目で、気をつかう性格なら、依存症になるのもうなずけます。

暴れ方は半端ではない。

田崎潤の家に呼ばれたとき、酔って妻を殴ったら、田崎潤が「女房を殴るなんて最低な奴だ」と怒ると、三船敏郎は家に帰ってピストルを持ち、車を走らせて「田崎、出てこい」と怒鳴って発砲した。

夏木陽介「やっぱりストレス以外にないんじゃないかなぁ。特に黒澤組をやっているときは、命がけですからね」


黒澤組のライトは強く、長い待ち時間の間、熱で着物が焦げて、煙が出たりしていても、三船敏郎は微動だにしないで待っていた。


『蜘蛛巣城』の撮影では、成城大学の弓道部の学生たちに本物の矢を顔面や首の近くに何十本も射られた。

橋本忍「そんなことがあって、三船君は、酒の量が超えたときに、車に乗って、片手に刀を持ち、監督が泊まっていた旅館の周りを「黒澤さんのバカ!」と怒鳴ってぐるぐる回るわけ。黒澤さんは、怖いもんだから部屋の中に籠っていた」
「黒澤さん」とさん付けするところがカワイイ。

もっとも、酒を飲まなくても、切れると何をするかわからなかったようです。

幸子夫人「無口なだけに怒りっぽく、結婚してから、何度、私はぶたれたか分かりません。撮影に入る直前が特に気が荒くなり、与えられた役の性格が、よく掴めないようなときは、とてもイライラしている様子で、うっかりそばに寄ろうものなら、どんな目に合わされるか知れたものではありません」(昭和33年)

長男の史郎が同級生の女の子の家からオママゴトの玩具を持ち出して隠したのを聞いた三船敏郎は烈火のごとく怒った。

史郎を縛って、物置に入れたのち、車のトランクに押し込め、長時間、車を走らせた。

幸子夫人との離婚裁判で、三船敏郎は幸子夫人に対して「猜疑心が強く、浪費家です。妄想家でもあって、大嘘つきのうえ淫乱でドスケベエです。貞操観念がまったくない女です」と語っている。

幸子夫人の父親に「告文」という手紙を書き、「くたばれ」「裏切り者」「いさぎよくシワっ腹を切れ」などの言葉を書き連ね、夫人の実家の塀にラッカーのスプレーを使って「天誅」と大書したことを認めた。

こうと思ったらブレーキがきかない性格なんでしょうけど、幸子夫人にしても何か言われたとき、すぐに言い返すタイプだったそうです。

次男「母は昔から気が強くて、しっかりしているというか、結構、男っぽいところがありました。(略)あとで第三者的に考えてみると、どっちもどっちだな、とは思いました」

さて、黒澤明との仲です。

三船敏郎は150本の映画に出演、そのうち黒澤明作品は16作。
黒澤明と三船敏郎のコンビが『赤ひげ』が最後になったのはなぜか。

二人が不仲だったわけではないらしい。

橋本忍はギャラの関係だという。
俳優は一本いくらで契約するが、黒澤作品は1年、2年とかかることがあり、その間、他の作品には出られない。

『デルス・ウザーラ』のウザーラ役は三船敏郎が演じる話があった。

三船敏郎はやりたがったが、黒澤明作品は撮影に1年以上かかるかもしれず、テレビ番組に出演していたために長期間日本を留守にはできないので断った。

昭和51年には、『椿三十郎』の続編が三船敏郎主演で企画され、でき上がった脚本は『乱』だった。

ところが、東宝は制作費に30億は出せないと断ったので、企画が流れた。
昭和60年、黒澤明の妻である喜代夫人の葬儀委員長は三船敏郎が務めている。

ということで、黒澤・三船コンビの映画が作られたかもしれず、はなはだ残念です。

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青草民人「入院をして」

2016年05月23日 | 日記

今月に入って、思いがけず入院するという事態になってしまいました。まさかと思いましたが、おかげさまで、一週間ほどで退院できてほっとしました。いつまでも若いつもりでいましたが、やはり、身も心も疲れていたのでしょうか。不徳の致すところと恥じ入るばかりです。

短い入院生活ではありましたが、入院中、様々な現実を目の当たりにして、深く考えさせられた毎日でした。
入院は、学生時代に一度経験したことがありますが、驚いたのは、当時に比べて医療の技術が飛躍的に進歩していたことです。当時はCTとかMRIなどといった医療機器はなく、医師の経験と勘が頼りだったように思います(実際当時誤診され、二度手術した経験があります)。
しかし、今は瞬時に人間を輪切りにしたり、血液や尿の検査結果が瞬時に出たり、パソコン上で瞬時に診察ができ、治療計画が出されるようになりました。的確な診断は、ある意味安心でもあり、恐怖でもありました。


病院は今、高齢者の方が多く、ほぼ満床の状態でした。私は、短期入院ということで高齢者の方が多い病棟になりました。
そこには、認知症の方や癌の患者さんが多く、朝になると「痛いよう、痛いよう」と一日中叫んでいるお婆さんがいたり、大声で「おーい」と怒鳴るお爺さんがいたり、夜中に車いすで徘徊するお爺さんと遭遇したり、身体が動かず、何回もトイレを失敗したお爺さんが、看護師さんに「すみません」と謝っている声を耳にしたりしました。

病気になったことは、仕方のないことですが、一週間ほどで退院できる見込みのある自分が申し訳ないような気がしました。

しかも、そんなお年寄りの方々に、
医師や看護師をはじめとする職員の方たちは、当たり前のように一生懸命声をかけ、世話をされているのをカーテン越しに見聞きしました。そこには、一切の私情と妥協はなく、「いのち」に携わる仕事の重みを痛感しました。
病院という所は、まさに人の生老病死を引き受ける場所だと思いました。

古に、釋尊がこの生老病死を目の当たりにして、王子の身分を捨て、生死を離れる道を求めて出家したといいます。私はとても釋尊には及びもしない具縛の凡夫、屠沽の下類の身ですが、この時期に入院したことは、今後の自分の人生にとって決して無駄な時間ではなかったと思いました。


退院した翌日は、奇しくも東日本大震災から5年目を迎えた3月11日でした。「いのち」とか「生きる」ということへの問いかけが、どこかで傍観者となっている自分に投げつけられた思いがします。

今朝の朝日新聞で、鷲田清一先生が八木重吉さんの詩を紹介していました。

 くものある日は くもは かなしい
 くものない日は そらは さびしい

「くも」という言葉を「ひと」にかえて読んだら、言葉をなくしました。

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江藤淳『妻と私』

2016年05月16日 | 

評論家の江藤淳さんは、妻の慶子さんが11月7日に亡くなって約8か月後の7月21日に自ら命を絶ちました。
『妻と私』は亡くなる数か月前の2月から3月にかけて書かれています。

妻の右の頬がしびれたというので病院で検査をしてもらう。

2月18日、妻が末期ガンだとわかり、早くて3か月、遅くて半年と宣告される。

江藤淳さんは

・日常的な時間(生の時間)
・生と死の時間
・死の時間
という3つの時間について何度か書いています。
妻の体調が悪くなるとともに、次第に死の時間へと引きずられていきます。

7月23日、三度目の、そして最後の入院。


10月11日

入院する前、家にいるときとは違って、このとき家内と私のあいだに流れているのは、日常的な時間ではなかった。それはいわば、生と死の時間とでもいうべきものであった。
日常的な時間のほうは、窓の外の遠くに見える首都高速道路を走る車の流れと一緒に流れている。しかし、生と死の時間のほうは、こうして家内のそばにいる限りは、果して流れているのかどうかもよくわからない。それはあるいは、なみなみと湛えられて停滞しているのかも知れない。だが、家内と一緒にこの流れているのか停まっているのか定かではない時間のなかにいることが、何と甘美な経験であることか。

 

この時間は、本当は生と死の時間ではなくて、単に死の時間というべき時間なのではないだろうか? 死の時間だからこそ、それは甘美で、日常性と実務の時空間があれほど遠く感じられるのではないだろうか。例えばそれは、ナイアガラの瀑布が落下する一歩手前の水の上で、小舟を漕いでいるようなものだ。一緒にいる家内の時間が、時々刻々と死に近づいている以上、同じ時間のなかにはいり込んでいる私自身もまた、死に近づきつつあるのは当然ではないか?


11月2日

家内はこの頃、私をあの生と死の時間、いや死の時間から懸命に引き離そうとしていたのかも知れない。そんなに近くまで付いて来たら、あなたが戻れなくなってしまう、それでもいいの? といおうとしていたのかも知れない。
しかし、もしそうだったとしても、私はそのとき、家内の警告には全く気付いていなかった。ひょっとするとそれは、警告であると同時に誘いでもあり、彼女自身そのどちらとも決め兼ねていたからかも知れない。


11月7日、妻が死ぬ。

いったん死の時間に深く浸り、そこに独り取り残されてまだ生きている人間ほど、絶望的なものはない。家内の生命が尽きていない限りは、生命の尽きるそのときまで一緒にいる、決して家内を一人ぼっちにはしない、という明瞭な目標があったのに、家内が逝ってしまった今となっては、そんな目標などどこにもありはしない。ただ私だけの死の時間が、私の心身を捕え、意味のない死に向って刻一刻と私を追い込んで行くのである。


11月8日、仮通夜

私が、いまそのさなかにいる時空間こそ、あの生と死の時空間なのであった。(略)
そうしているあいだにも、私の身体のなかでは、刻一刻と死の時間が育ちつつある。あの堪えがたい疲労が、私を内側から崩壊させようとしている。


死の予感がただよっている『妻と私』を読み、江藤淳さんは発作的に死を選んだのではないと思いました。

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青草民人「いし、かわら、つぶてのごとくなるわれらなり」

2016年05月11日 | 青草民人のコラム

親鸞聖人は、『唯信鈔文意』において「屠沽の下類」(とこのげるい)といわれた当時さげすまされていた猟師や商人のような庶民階級層に対して、「いし、かわら、つぶてのごとくなるわれらなり」と呼びかけておられます。いし、かわら、つぶてとは、取るに足りないものという意味であり、親鸞聖人はこうした人々と共に歩むものとして、「われらなり」という宣言をされています。

『唯信鈔文意』のこの件は、「能令瓦礫変成金」と書かれた部分で、こうした、いし、かわら、つぶてのように扱われている人々であっても、阿弥陀仏の本願によって、念仏申せば、仏になれるということを、金に例えて、いし、かわら、つぶてを金に変えるおはたらきが、阿弥陀仏の本願なのだと説明している部分です。

さて、今回この「いし、かわら、つぶてのごとくなるわれらなり」という言葉を引用したのは、阿弥陀仏の本願の功徳を説くためではありません。どちらかというと、親鸞聖人がこうした人々のことを「われらなり」とお呼びになられたことを取り上げたかったのです。

長年同じ仕事をしてきて、ある程度の年齢になると、職歴もあり、また、職務上の地位や高額な報酬も得られるようになるかもしれません。しかし、
一人の人間としての自分の評価が高まったかというと、必ずしもそうだとは言えません。部下や同僚は、その職階による上下関係や利害関係で、従ったり、敬ったりしているだけなのかもしれません。

しかし、うっかりするとそのことに気づかず、自分が偉い人間なのだと勘違いしてしまうことがあります。人が傅くのは、役職であって、その人物だとは限りません。

一休さんの話に、次のような話があります。
あるお金持ちの家で法事を頼まれたとき、経を読みに行った一休さんは、汚れた黒衣で訪れたら門前で追い返され、高価な衣で来たら丁重に迎えられたので、用事があるのは私ではなく、この衣ですねと言って、その衣を脱いで帰ったという話です。

私たちは、知らず知らずのうちに、調子に乗って、何枚もの衣を着て、人を色眼鏡で見るようになってしまいます。しかし、その衣を失えば、だれしも、いし、かわら、つぶてのごとくなるわれらなのです。そして、そんなわれらにも阿弥陀仏の光が当てられています。

子どもにかかわる仕事をしていると、いろいろな事情を抱えたご家庭に出会います。子どもの目線に立って、朋に出遭う自分でありたいと思います。とても難しいことですが。

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加藤陽子『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』

2016年05月03日 | 戦争

それでも、日本人は「戦争」を選んだ』は、加藤陽子東大教授が栄光学園の中高生に5日間講義したものです。
知らんかったと思ったことをいくつかご紹介します。

国民の正当な要求を実現しうるシステムが機能不全に陥ると、国民に、本来見てはならない夢を擬似的に見せることで国民の支持を獲得しようとする政治勢力が現れないとも限らない。

政治システムの機能不全とは、たとえば現在の選挙制度から来る桎梏。
小選挙区制下では、投票に熱意を持ち、かつ人口的に多数を占める高齢者世代は確実な票をはじきだしてくれるので、為政者は絶対に無視できないが、投票に行かない子育て世代や若者の声が政治に反映されにくい。
そのために、義務教育期間のすべての子供に対する健康保険への援助や、母子家庭への生活保護加算は優先されるべき制度だが、こちらには予算がまわらない。

「人民の、人民による、人民のための政治」で有名なリンカーンのゲティスバーグでの演説は、南北戦争の最中である1863年に行われた。
戦意昂揚のためと北部の連邦政府の正当性をリンカーンは訴えた。

演説の中にこんな文章があるそうです。

これらの名誉の戦死者が最後の全力を尽くして身命を捧げた、偉大な主義に対して、彼らの後を受け継いで、われわれがいっそうの献身を決意するため、これら戦死者の死をむだに終わらしめないように。

これは国のために死んでくれる人を再生産する靖国の論理と同じだと思いました。

リンカーンの演説は、戦死者への追悼であるとともに、国を再統合し、国家目標、国家の正当性を新たに掲げるためにされた。
日本国憲法も同じ構造である。

巨大な数の人が死んだ後には、国家には新たな社会契約、すなわち広い意味での憲法が必要となる。


憲法は、国家を成り立たせる基本的な秩序や考え方を明らかにしたものといえる。

国民を国家につなぎとめるためには、国家は新たな国家目標の設定が不可欠となってくる。その際、大量動員される国民が、戦争遂行を命ずる国家の正当性に疑念を抱くことがないように、戦争目的がまずは明確にされることが多いのです。

たとえば、ファシズムに対する戦争、国家存亡のための戦争、戦争をなくすための戦争など。

ルソーによると、戦争の最終的な目的は、相手国の土地を奪ったりといった次元のものではない。

相手国が最も大切だと思っている社会の基本秩序(広い意味での憲法)に変容を迫るものこそが戦争だ。
第二次世界大戦で敗北したドイツや日本の憲法=基本的な社会秩序は、英米流の議会制民主主義に書きかえられた。

ここまでが序論です。
日清戦争、日露戦争について。


日清戦争は帝国主義戦争の代理戦争だというところでは不可避だったそうです。
日本―イギリス
清―ロシア

日露戦争も代理戦争だった。
日本―イギリス・アメリカ
ロシア―ドイツ・フランス

日露戦争は満州の門戸開放よりも、朝鮮半島(韓半島)をめぐる争いで、ロシアのほうが戦争には積極的だった。
1897年、朝鮮は大朝鮮国だった国号を大韓帝国に変え、朝鮮半島も韓半島と改めたそうで、これからは韓半島という言葉を使うべきでしょうか。

第一次世界大戦について。
第一次世界大戦が終わり、パリ講和会議で戦勝国が熱中していたのは、ドイツからいかに効率的に賠償金を奪えるかだった。

戦争中、イギリスは42億ドル、フランスは68億ドル、イタリアは29億ドルも、アメリカから借金をしていたので、ドイツの賠償金によって借りた金を返さなければならない。
経済学者のケインズは、アメリカに対して英仏が負っている戦債の支払い条件を緩和するよう求めたが、アメリカは英仏からの戦債返済を主張した。

ケインズの言うとおりに、寛容な賠償額をドイツに課していれば、あるいは29年の世界恐慌はなかったのではないか、このように予想したい誘惑にかられてしまいます。そうであれば、第二次世界大戦も起こらなかったかもしれません。


満州事変について。
満州事変の2か月前に、東京帝国大学の学生に意識調査をした。

「満蒙のための武力行使は正当か」という質問に88%が「正当だ」と答えた。
「直ちに武力行使すべき」と答えたのは52%。
「いいえ」と答えたのは12%。
満州事変の後にも意識調査が行われているが、前と後では調査結果があまり変わっていない。
満蒙問題について武力行使に賛成だったのは、日本の主権を脅かされた、あるいは社会を成り立たせている基本原理に対する挑戦だと考える雰囲気が広がっていたことを意味していた。
大多数が「はい」と答えたからといって、正しいとは限らないという例になります。

日中戦争について。

日中戦争については、日本人はこの戦いを「戦争」と思っていなかった。
中支那派遣軍司令部は、日中戦争は戦争ではなく「報償」だ、相手国が不法行為をしたので、不法行為をやめさせるために実力行使をしたと発言している。
なぜ国際連盟を脱退したかというと、強硬に見せておいて、相手が妥協してくるのを待ち、脱退せずにうまくやろうとしたが、熱河侵攻計画によって日本は新しい戦争を起こしたと国際連盟から認定されてしまいそうになり、除名や経済制裁を受けるよりは、先に脱退したほうがいいということになった。

満州に移民した人数が一番多いのは長野県で3万3741人、そのうち約1万5000人が死んでいます。
飯田市歴史研究所編『満州移民』からこういった事実が紹介されています。
1932年ごろから試験的な移民が始まっていたが、国の宣伝は間違いで、厳寒の生活は日本人に向いていないという実情が知られると、移民に応募する人は減ってしまった。
そこで国や県は、村ぐるみで満州に移民すれば助成金を出すことになった。
助成金をもらわなければ経営が苦しい村が積極的に満州分村移民に応募させられ、結果的に引揚げの過程で多くの犠牲者を出した。
助成金で言うことを聞かせる政府のやり方は今も昔も変わらないということです。

見識のあった指導者もいて、大下条村の佐々木村長は、助成金で村人の生命に関わる問題を安易に扱おうとする国や県のやり方を批判し、分村移民に反対した。
賢明な開拓団長に率いられた千代村では、元の土地所有者である中国農民と良好な関係を築いており、敗戦になると中国農民の代表と話をつけ、開拓団の農場や建物を譲り、安全な地点までの護衛を依頼して、最も低い死亡率で日本に引揚げた。

第二次世界大戦について。

ドイツ軍の捕虜となったアメリカ兵の死亡率は1.2%だが、日本軍の捕虜になったアメリカ兵の死亡率は37.3%。
『大脱走』と『戦場にかける橋』での捕虜の扱いの違いは作り話ではないわけです。

日本は捕虜に対してだけでなく、国民にも同じ扱いをしています。

ドイツは1945年3月までのエネルギー消費量は1933年の1~2割増だった。
それに対し、戦時中の日本は国民の食糧を最も軽視した国の一つで、敗戦間近の国民の摂取カロリーは1933年時点の6割だった。
なぜかというと、工場の熟練労働者には徴兵猶予があったのに、農民には猶予がほとんどなく、肥料の使い方や害虫の防ぎ方など農業生産を支えるノウハウを持つ農学校出の人たちも全部兵隊にしてしまったので、技術も知識もない人たちによって農業が担われたから、1944年、45年と農業生産は落ちた。
スターリンが知識人や軍人たちを大量粛清したために生産力が落ちたり、ドイツの侵攻を許したのと似てます。

本屋さんに行きますと、「大嘘」「二度と誤らないための」云々といった刺激的な言葉を書名に冠した近現代史の読み物が積まれているのを目にします。地理的にも歴史的にも日本と関係の深い中国や韓国と日本の関係を論じたものにこのような刺激的な惹句のものが少なくありません。
しかし、このような本を読み一時的に溜飲を下げても、結局のところ、「あの戦争はなんだったのか」式の本に手を伸ばし続けることになりそうです。なぜそうなるかといえば、一つには、そのような本では戦争の実態を抉る「問い」が適切に設定されていないからであり、二つには、そのような本では史料とその史料が含む潜在的な情報すべてに対する公平な解釈がなされていないからです。これでは、過去の戦争を理解しえたという本当の充足感やカタルシスが結局のところ得られないので、同じような本を何度も何度も読むことになるのです。このような時間とお金の無駄遣いは若い人々にはふさわしくありません。

新聞の広告を見ると、日本礼讃本が目につきます。
同じような本を何度も読むから、よく売れているということでしょうか。

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