三日坊主日記

本を読んだり、映画を見たり、宗教を考えたり、死刑や厳罰化を危惧したり。

死刑について考える15 政府の世論調査

2008年02月27日 | 死刑

政府による世論調査(2004年実施)では、死刑制度の存廃についてこういう結果が出ている。

Q2 死刑制度に関して、このような意見がありますが、あなたはどちらの意見に賛成ですか
 ( 6.0)(ア)どんな場合でも死刑は廃止すべきである
 (81.4)(イ)場合によっては死刑もやむを得ない
 (12.5)  わからない・一概に言えない


この結果から、国民の大多数は死刑に賛成していると言われている。
しかし、本当にそうなのだろうか。

「場合によっては死刑もやむを得ない」とする者(1668人)に、さらにこういう質問がされている。

SQb2 将来も死刑を廃止しない方がよいと思いますか、それとも、状況が変われば、将来的には、死刑を廃止してもよいと思いますか。
(61.7)(ア)将来も死刑を廃止しない
(31.8)(イ)状況が変われば、将来的には、死刑を廃止してもよい
( 6.5)  わからない

「場合によっては死刑もやむを得ない」と考える人は81.4%いる中で、「将来も死刑を廃止しない」と考える人は81.4%のうち61.7%というわけだから、全体の50.2%になる。
「状況が変われば、将来的には、死刑を廃止してもよい」と考える人は全体の25.9%、「今は死刑もやむを得ないと思うが、将来的にどうしたらいいかはわからない」人は5.3%である。

まとめてみると、「死刑制度の存廃についてどう考えますか」という質問の結果はこうなる。
1,どんな場合でも死刑は廃止すべきである  6.0%
2,状況が変われば死刑を廃止してもいい   25.9
3,場合によっては死刑もやむを得ないが、
  将来どうしたらいいかはわからない       5.3
4,どんな場合でも死刑は存続すべきである  50.2
5,わからない                     12.5

つまり、死刑は絶対賛成、廃止すべきではない、と考える人は約半数、それに対して、死刑を廃止してもいいと考える人は3割ということになる。

国民の大多数が死刑に賛成している、だから死刑制度を国民は支持している、と政府が主張しているが、実際はそうではないわけだ。
すごくずるいと思う。

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「なぜ目立つ家族殺人」

2008年02月24日 | 厳罰化

「毎日新聞」の「論点」に、「なぜ目立つ家族殺人」という題で、藤本哲也中央大教授(犯罪学)と管賀江留郎(「少年犯罪データベース」主宰)、そして佐木隆三が書いている。

藤本哲也は「犯罪抑止効果になっていた家族の機能」と、次のようなことを書いている。
「私は、少年非行の要因としては、家庭の果たす役割が重要であると思う。戦後の家族構造が、拡大家族から核家族へ、そして最近では少子家族へと移り変わり、ライフスタイルが欧米型へと変遷しているところに、凶悪で重大な少年非行の遠因があるように思われる。(略)
世界で最も犯罪が少ない国と言われていた頃のわが国の家庭には、期せずして、犯罪抑止効果をもつ家庭の機能が備わっていたように思う。常日頃、親が子どもの行動を注意して見守るという、いわゆる「監視機能」。(略)そして、小さいときから「人に後ろ指をさされるようなことはするな」と注意され、「良いこと」と「悪いこと」の判断ができるように育てるという「教育機能」。(略)「情緒安定機能」(略)「保護機能」がそれである。(略)
家族がお互いを愛し合い、思いやる心が大切である。家族に対する思いやりは、ひいては、他人に対する思いやりとなる。今われわれ大人に求められているものは、子どもとのコミュニケーションと思いやりの心、すなわち、「家族の絆」なのではあるまいか」

それに対して管賀江留郎は「濃密な関係ほど憎しみを抱く機会増える」と、藤本哲也とはまるっきり反対の意見を述べている。
「戦前は少年の親殺しが多発していました。(略)教育勅語で、親を大切に、兄弟仲良くと教えていたのは、戦前は家族の争いが絶えなかったためなのでしょう。仲がいいなら、こんなことをありがたいお言葉で毎日聞かせるはずがありません。(略)
昔は家族以外の殺人も多く、隣人一家皆殺しや、主婦が近所の幼児を殺害なんて事件がよくあり、今では濃密なつきあいをしなくなったこともあってこんなご近所殺人は減りました。人間は知り合うほどに憎しみを抱く機会も増えるわけで、挨拶は殺人の始まりとすらいえます。(略)
家族も一緒に住まず事務的な会話だけの関係にすれば、殺人はほぼなくなるかもしれません。伝統的家族回帰を願う人は、家族とは本来、殺し合う可能性が高いものだと正しく認識すべきで、過去をきちんと調べて学び、親兄弟殺しは昔のほうが多発したことを知るべきです」

家族が大切なんだ、しかし日本が欧米化することで家族の絆が弱まり、その結果、親が子を殺し、子が親を殺すような事件が増えた、だから家族や近所との絆を取り戻すべきだ、という藤本哲也の意見に賛成する人は多いだろうと思う。

しかし、「世界で最も犯罪が少ない国と言われていた頃」、そして「犯罪抑止効果をもつ家庭の機能が備わっていた」ころとはいつの話なのだろうか。
もしも昭和30年代をイメージしているのなら、管賀江留郎が
「「三丁目の夕日」時代より家族殺人が増加と言っているのなら基本的データを何も調べず妄想を語っている」
と言うように、昭和30年代は犯罪が多く、それ以降は減少していることぐらい犯罪学者なら知っているはずだが。

それと、日本では20代が起こした殺人事件が少ないということがある。
愛憎のもつれとか激情にかられて
若い人が犯す殺人がかつては多かったのだが、今はその手の理由でなされる殺人が減っている。
殺したいほど相手を憎むことがなくなったらしい。

管賀江留郎が主張する、家族や近所づきあいという圧力が減り、そして他者にそれほどの期待を抱かなくなったから殺人が減った、という意見は受け入れにくいと思う。
しかし、統計を読み込めばこういう結論にならざるを得ないのではないだろうか。

もっとも、家族の密着さと家族殺人とが関係があるかどうか、そこらをきちんと調べないと何とも言えない。
だが、昔は家族や近所の絆が深かったから犯罪が少なかったという間違った思い込みは、
少なくとも捨てるべきだと思う。

なぜ家族殺人が目立つのか、その答えはマスコミの犯罪報道が過剰だからである。
家族による殺人が多いからではない。

そこらの反省が「毎日新聞」の「論点」には見られない。
まずはマスコミに反省してもらうことが第一歩だと思う。

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「キネマ旬報」ベストテン、点数と投票数との関係

2008年02月21日 | 日記

毎度お楽しみの「キネマ旬報」ベストテン、順位と投票した人数との関係はどうなのだろうと、ふと疑問がわいた。
で、調べてみました。

    日本映画(選考委員56人)    合計点数 投票数
 1位 それでもボクはやってない    323点     43人
 2位 天然コケッコー           172     22
 3位 しゃべれども しゃべれども         153      25
 4位 サッド ヴァケイション         146     21
 5位 河童のクゥと夏休み        125     19
 6位 サイドカーに犬            118     18
 7位 松ヶ根乱射事件           108    19
 8位 魂萌え!                                106    19
 9位 夕凪の街 桜の国                      103    17
10位 腑抜けども、悲しみの愛を見せろ  93    16
11位 愛の予感                                   90      14
12位 叫                                             69      10
13位 ALWAYS 続・三丁目の夕日        67      12
14位 キサラギ                                   58       12
15位 殯の森                                    47       10
16位  めがね                                      46        8
17位  転々                                          44     11
18位 サウスバウンド                          43     8
19位 東京タワー                                42     9
19位  バッテリー                                  42          7
19位 人が人を愛することのどうしようもなさ  42  6

    外国映画(選考委員61人)         合計点数  投票数
 1位 長江哀歌                                 168点   23

 2位 善き人のためのソナタ               141    22
 3位 今宵、フィッツジェラルド劇場で   128    20
 4位 クィーン                                  98      17
 5位 バベル                                       91      16
 6位 やわらかい手                             88      15
 7位 ドリームガールズ                        83      12
 8位 ボルベール<帰郷>                  81      15
 9位 ゾディアック                                71      12
10位 パンズ・ラビリンス                      64       9
11位 デス・プルーフinグラインドハウス 63      11
12位 ボーン・アルティメイタム             59      11
13位 グッド・シェパード                       56      10
14位 ミリキタニの猫                           56       9
15位 ブラックブック                             54      10
16位 インランド・エンパイア                 53       8
16位 ヘアスプレー                             53       8
18位 呉清源                                      52       8
19位 ONCE ダブリンの街角              48        9
20位 パラダイスナウ                          44       8

ちなみに
22位 オフサイド・ガールズ                   40    10
27位 タロットカード殺人事件                36     9

日本映画は順位と投票した人数はおおむね関係があるが、外国映画はばらつきが大きく、9人が選んだのに10位と27位と大きく差がついている。

公開される本数が違うのだから比較にはならないのだが、1953年度ベストテンを見ると、
 日本映画(選考委員33人)
1位 にごりえ        266点  33人
2位 東京物語       244   33
3位 雨月物語       227   32
4位 煙突の見える場所 207   32
5位 あにいもうと     191   26(1位は6人)

 外国映画(選考委員37人)
1位 禁じられた遊び  314点  36人
2位 ライムライト     290     36
3位 探偵物語      277     37
4位 落ちた偶像     182     27
5位 終着駅       152     29

というふうに、昭和20年代は選考委員全員が投票した作品が珍しくなく、何がいい映画か、評価は決まっていた。
だからこそ、「キネマ旬報」ベストテンは権威だったんだろう。
これはいい、これは悪いという価値観が決まっているのはある意味、楽である。
みんながいいという映画だけを見ていればいいのだから。
しかし、1953年に公開された『雨に唄えば』は36位、1点。
評価というのは当てにならないものである。

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近ごろの親と子

2008年02月18日 | 日記

子供が小さいころは素直に言うことを聞く(ように思える)。
ところが中学、高校に入るとため息ばかり。

「母親の悩みは全国共通です。子供が思い通りにならない。親の言うことを聞かない。勉強もしないし、手伝いもしない。外遊びをせずに部屋に閉じこもってゲームばかり。自分の意見をきちんと言わない。集中して食べない。好き嫌いが多い。それにイジメ問題。父親に対しては、子供と一緒に遊んでくれない。家事・育児をやらない。子供をはっきりと叱らない。お母さんは毎日腹を立てて過ごしています」(米本和広『洗脳の楽園』)

全くその通り。
では、子供たちはどうなのでしょうか。
「中学生たちを見ていて、さしあたって気になることが二つある。その一つは、彼らが結果だけにとらわれる生き方、さらにいえば、結果を得るためには手段を選ばないような生き方を身につけてしまっていることだ。
しかし、彼らを取り巻いている大人たちだって、そうなのだ。もちろん、ほとんどの教師や親は、こんなに異常なわけではない.しかし、私たち今の大人は、手っとり早く結果を得たがる習性を、多かれ少なかれ身につけてしまっている。中学生たちは、ともすれば「成績」という結果だけを要求され、それだけで評価されがちだ。そんな彼らがプロセスやルールを無視して、結果だけに走る生き方を身につけてしまったとしても不思議ではない。
もう一つ気になるのは、かなりの中学生たちが、自分で自分を見限ってしまっているのではないかとおもえることだ。そんな彼らが、例外的に目を輝かせて関心を示すのが「金」だ。中学生たちの金に対するこうした異常な執着と浪費は、自分なりの明日を思い描くことを「でもムリだね」とあきらめてしまった彼らの、投げやりで自棄的な現実逃避の姿といえるだろう」
(『14歳・心の風景』)

やれやれとため息が出ます。
では、私はというと、
「うちの息子はどうにもならん息子だというけれど、息子は息子でちゃんと生活しているのですから、息子の方はどうにかなっている。なるように、なっているのです。息子が、親の思うようにリモートコントロールできないから、うちの息子も困ったものだといっているだけでしょう。結局、親がよい格好をしたいだけで、いっているのと違いますか。うちの息子も困ったものだというところには、どこかに自分にとって都合のいい子であってほしいという、親のエゴがあるのでしょう。親子関係でさえ、有用性、利用性で考えているのであります」(松井憲一『みな光る』)

『子どもは親を選んで生まれてくる』という本があるが、私の子供たちに「親を選んで生まれてきたんだぞ」と言ったら怒るだろうと思う。

コメント (2)
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改憲と厳罰化

2008年02月15日 | 厳罰化

「日本講演」という講演雑誌(?)が送られてきた。
辻井喬の「憲法施行六十年―今、九条を考える―」(『ひろげよう!九条の心』講演会から)という講演録が掲載されている。
辻井喬が護憲の立場とは知らなかった。

なぜ改憲すべきか、改憲論者の主張する理由は、
「もしも、他国による日本への侵略があった場合、国連による阻止は期待できない」
「軍隊がなければ独立国として存立できない」
「GHQによって押しつけられた憲法だから、自主憲法に改正すべきだ」

ということらしい。
ところが、改憲しろとアメリカが押しつけているわけで、今回の押しつけには改憲論者からの反発がないのも変な話ではある。

日本の自給率は主食穀物の重量計算で24%、カロリー計算で40%。
日本は食糧を外国に依存しなければならないということを示している。
「これは要するに、日本国の食糧事情、あるいは、日本人の生命というのは、国際的な平和の中でしか維持できないような構造になってしまっていることの証明であります」
と辻井喬は言う。

ところが、安全保障のために軍隊を持つべきだというのでは、力でもって食糧や資源の確保をすべきだということになり、これでは大東亜共栄圏の発想と同じである。

で、裁判員は徴兵と同じだということに最初はピンとこなかったのだが、辻井喬の講演録を読んで関係があるなと思った
つまり
厳罰化=力で犯罪を抑え込む
戦争=力で相手国を抑え込む
ということである。
そして、裁判員制度、徴兵制は国民に力による押さえ込みの片棒をかつがせる役割をはたすものといえる。
となると、教育改革など、一連の改革は力で国民を抑え込むのが目的だということになる。
しかしながら、力では抑え込むことはできないんですね。

「日本講演」の平成20年1月15日号は東国原宮崎県知事の講演録、講演をどういう基準で選んでいるのだろうか。

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死刑について考える14 心神喪失

2008年02月12日 | 死刑

「週刊新潮」に載っている麻原彰晃の娘が書いた手記に、麻原は詐病だとある。
本当のところはどうなんだろうか。

『獄中で見た麻原彰晃』は、東京拘置所で衛生夫(被告の食事や洗濯などの世話をする受刑者)をしていた人の話をまとめたものと、麻原彰晃の娘たち、弁護人の見た麻原彰晃について書かれている。

麻原彰晃はおむつをつけているのだが、取り替えるのは一日に一回なので、大小便がもれることになる。
「彼の布団や服、それから部屋も、とにかく物凄い臭いです」
「彼の部屋の前を通るだけで臭うんです」


歩けないので、面会に行く時など車椅子で移動する。
「今や廃人のように動かず、何も言わず、といった状態」
「彼は全く身体を動かしません」

麻原は被告が本来もつべき権利をほとんど有していない。
差し入れは拘置所が止めているので、一切入らない。
病舎に移ってもおかしくないのに、普通の房にいる。

刑務官は「もう、いかれてんだろ。人間諦めるとああなっちゃうんだよな」と言っていたとある。
麻原彰晃の娘たちは24回ほど面会しているが、話しかけても反応は返ってこない。
弁護人との面会でも状況は同じで、この状態では控訴趣意書は書けないというので、提出しなかった。

「刑事訴訟法」には、「死刑の言渡を受けた者が心神喪失の状態に在るときは、法務大臣の命令によつて執行を停止する」とあり、麻原は拘置所で天寿を全うすることになるのだろうか。
『獄中で見た麻原彰晃』によると、麻原は拘禁障害らしく、治療を受ければ治るそうだが。

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死刑について考える13 加害者家族のつらさ

2008年02月09日 | 死刑

林眞須美『死刑判決は『シルエット・ロマンス』を聴きながら』を読む。
林眞須美といえば、言わずとしれた和歌山毒入りカレー事件の被告である。
林眞須美と家族との書簡集『死刑判決は『シルエット・ロマンス』を聴きながら』はふざけた題名と思われそうだが、題名のいわれはちょっと泣かせる。

林夫妻が逮捕されたのが平成10年10月4日、4人の子供たちは児童養護施設で暮らすことになった。
平成12年7月15日、ラジオでアナウンサーがこんなリクエスト葉書を読むのを林眞須美は拘置所で聞く。

「何とも切ないお手紙が届きました。この曲はすぐにかけます。一日も早くかけてあげたくて、7月22日、来週がハッピーバースデーだけれど、今日すぐにかけます。
 ママへ。39歳のお誕生日おめでとう。
 私たち四人はもう二年もママに会っていません。いつもママは10時から12時までこのラジオを聴いています。今日もきっと聴いているでしょう。
 この番組を一番楽しみにしています。ママの大好きな曲、シルエット・ロマンスをリクエストします」

林眞須美のあのふてぶてしそうな顔にあまりいい印象を持っていなかったのだが、この本を読んで、まったく違った顔が見えてきた。
林眞須美はよく泣く。
そして、自分は強い女ではなく、弱虫で、いつもぐじぐじし、自分で何事も決断できず、まわりの人に助けを求めると、子供たちへの手紙に書く。

そして子供たちのけなげさ、つらさ、苦労。
施設でのイジメ、暴力、差別…
母親のことが知られたら、仕事はすぐに首になるし、住んでいるところにも居づらくなる。
本人の責任でも何でもないのに。

原田正治さんの弟さんたちを殺した人は、姉と息子が自殺している。
女子大生誘拐殺人事件の木村修治の子供は、父親が逮捕された翌日、幼稚園の通園を拒否されたそうだ。
幼い子供にどうしてそんなことをしたのだろう。
この幼稚園の園長は、子供を守ることを第一に考えようとは思いもしなかったのだろうか。
教育者として失格だと思う。

加害者の家族も被害者なのだと思う。
まして冤罪事件の場合、犯人とされた人の家族の苦しみは取り返しがつかない。

ミッテラン大統領のもと、法相として死刑廃止を実現したバタンテールが弁護士をしていた時、こういうことがあった。
刑務所から二人の囚人(ビュッフェとボンタン)が脱走を図り、人質をとって立てこもったが、結局人質は殺されてしまった、という事件である。
ボンタンの弁護人となったバダンテールはボンタンが手を下したのではなかったことを立証したのに、彼も死刑になったしまった。
「地元の非常に強い反感を背景として、陪審の不利益な答申が出たのであった。ところで、こうした地元の反感は、裁判所の周辺でまきおこった「殺せ、殺せ」というはげしいシュプレヒコールにも現れていたが、何と、これに加わっていた群衆の中の一人が、わずか四年後に、こんどは自分が殺人罪を犯して死刑に処せられる番になった」(団藤重光『死刑廃止論』)
バダンテールはこの被告人の弁護人にもなったそうだ。

ネットで検索すると、
「1981年9月17日のフランス国民議会での死刑廃止法案の審議における法務大臣ロベール・バダンテールの演説全文訳」というのがあり、こんなことが書かれている(バダンテールの演説に対する議員のヤジが興味深い)。

「裁判所の周りで、ビュッフェとボンタンが通るときに「ビュッフェを殺せ!ボンタンを殺せ!」と叫んでいた群衆の中に、一人の若い男性がいました。その名をパトリック・アンリといいます。(訳注:1976年2月、トロワで8歳のフィリップ・ベルトラン少年が身代金目当てで誘拐され、行方不明になった。ベルトラン家と付き合いのあった若い男性パトリック・アンリが容疑者として取調べを受けたが、容疑不十分で釈放になった後、「こんな誘拐事件の犯人は死刑にすることに賛成だ」と発言した。その数日後に、アンリが彼の借りていた部屋にいたところを警察に取り押さえられたとき、ベッドの下から死後約1週間のフィリップ少年の死体が発見された。殺人者アンリへのかつてない憎悪がたちまちフランス全土に広がり、世論は沸騰し、二人の内閣閣僚が三権分立を無視してアンリを死刑にせよとまで発言し、テレビ番組は声高に死刑を叫び、アンリの両親にマイクを突きつけて焦燥した父親に「死刑は息子の行いにふさわしい」などと無理やり言わせるほどだった。フランスにおける凶悪犯罪の代名詞のようになったこの事件で、トロワの近くの町の弁護士会会長ロベール・ボキヨンとともにパトリック・アンリの弁護を引き受けたのがバダンテール弁護士だった。バダンテールの弁護により、最終的に死刑判決は回避され、アンリは終身刑の判決を受けた。)」

逮捕された人の家族を差別、非難、攻撃する人、たとえば上記の園長が、もしも自分が逮捕されたなら、自分の家族が事件を起こしたなら、という想像力をちょっとでもいいから持ってほしい。

(追記)
鈴木伸元『加害者家族』について書きました。

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死刑について考える12 再犯と更正

2008年02月06日 | 死刑

10歳の娘を強姦されて殺されたラーソン夫人は委員会でこう証言した。
「遺族の最大の恐れは、私たちの子どもや最愛の者を殺した殺人犯が、いつか釈放されるのではないかということです」
「他の人たちに危険が及ばないように、殺人犯を街から遠ざけてほしいのです。私たちの多くにとって正義とは、殺人者が二度と再び人を殺すのではないかと心配しなくて済む、ということなのです」
(スコット・トゥロー『極刑』)

殺人犯が再犯したら誰が責任を取るんだということになる。
その際、こんなことが許されていいのか、といった論調で語られ、またそのほうが感情に訴えるから説得力がある。
しかし、犯罪を減らし、再犯を防ぐためには単なる感情論では何もならない。
刑務所や少年院で矯正のためにどういうプログラムをすべきか、刑務所から出てどうしたらいいのか、そうしたことこそ論じられるべきだと思う。
たとえば、薬物中毒の場合、ダルクやNAといった施設や自助グループがあることを教え、在所中から手紙のやりとりをするといったことが大切だし、そうした施設やグループがない地域には早急に作るべきである。

死刑を廃止すべきだというと、凶悪犯を野放しにするのかと言う人がいる。
死刑を廃止したなら、死刑相当の犯罪を犯した人は無期刑になるわけで、即釈放されるわけではない。
実際のところ、無期刑で仮釈放になった人が再犯するのは、ここ数年では0から1人である。

それと、無期刑が確定した人は毎年100人を超えており、在所人員は平成17年末で1467人。
そして、仮釈放される人はここ数年では1人から14人、いずれも在所期間は20年以上である。
つまり、無期刑になった人のほとんどは刑務所で一緒を終えることになるわけだ。

実際に死刑囚と接した人の記録を読むと、この人は再び罪を犯すことはないのではないかと思う死刑囚が結構いる。
東京拘置所で医務部技官を勤めた加賀乙彦の『死刑囚の記録』に詳しく書かれている正田昭もその一人である。

オウム真理教の井上嘉浩もたぶん再犯することはないと思う。
これは私が言っているわけではなく、高裁の判決文の中に「現在では同種犯行に及ぶ危険性は消滅したといえる」とある。
ところが、なぜか死刑判決。

金沢文雄広島大学名誉教授は次のように言っている。
「『人格の尊厳』には例外がなく、犯罪者にもこれを認めるということは、犯罪者が罪を自覚し反省して人間として再生する可能性を認めることである。死刑はこの人間的再生の可能性を奪うものであるから、人間の尊厳の思想に反するのである」(団藤重光『死刑廃止論』)
死刑になるほどの犯罪を犯した人であっても再生の可能性を私も信じたい。

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死刑について考える11 命の尊厳性

2008年02月03日 | 死刑

テレビや雑誌は、殺人事件が起こると、まだ裁判が始まってもいないのに、「こんな奴は死刑だ」などと平気で言ったりする。
どういう事件なのか、経緯や背景がわからなくても「殺せ」と、よく言えるものだと思う。

今の日本、死刑制度がなかったら社会の秩序が保てないような国なのだろうか。
とてもそうは思えない。
日本は世界的に見て犯罪は少なく、治安がいいし、社会は安定している。
かえって死刑制度があることによって命を粗末にすることになっているのではないかと思う。
どうしてかというと、人権の基本は命の尊厳を守るということだからである。
「私たちは、誰からも尊敬され、大切にしてもらう権利がある。この人権は、いい換えれば、人間の尊厳は誰からも侵されることはないということです」(平木典子『アサーショントレーニング』)

どのような理由があろうとも人の命を奪う行為は、命の尊厳性を軽んじるものである。
その意味で、死刑と殺人、そして戦争はいずれも命の尊厳を奪うことになる。

戦後しばらくは殺人事件が多かった。
前にも書いたが、昭和31年に提出された死刑廃止法案の審議で
「現在のわが国においては、過去の戦争の影響により人命尊重の観念が甚しく低下し、これが殺人などの犯罪の増加の原因となっていると考えられ」
と言われているように、その当時の殺人件数の多さは戦争の影響が大きい。

現在の日本では殺人事件が少なく、特に注目すべきは、諸外国では殺人を犯すのは20代がほとんどなのに、日本では10代、20代による殺人が他の年代に比べて低いことである。
外国の研究者が調べた結論としては、日本は徴兵制がなく、戦後60年間、戦争していないことが大きいらしい。
戦場から帰ってきた人の心が荒んでいることは、ベトナム帰還兵やイラク帰還兵などの例をあげるまでもない。
そして、帰還兵の家族もその影響を受ける。

死刑があるために起きる殺人事件がある。
宅間守のように、「死にたい。しかし、自分だけが死ぬのはいやだから、人を殺して死刑になろう」と考える人がいるからである。
他殺と自殺はうらおもてなんだろうと思う。
こうした自分の命、そして他人の命を大切に思えなくなっている人に対して、死刑は抑止効果を持たないし、逆に犯罪を犯す引き金になっている。


団藤重光は
「国民に対して生命の尊重を求めながら、法がみずから人の生命を奪うのを認めるということでは、世の中に対する示しがつかないのではないでしょうか」(『死刑廃止論』)
と言うが、まさにその通りだ。
命の尊厳はどんな人間にでも共通して大切である。
死んでもかまわない人はいない、たとえ殺人犯や敵であろうとも。

死刑囚の澤地和夫が
「〝死刑問題〟を考えると、「犯人の死刑は当然」という世間一般の気持と、自分の目的実現のためには、もはや人を殺すこともしかたがないとする犯人の気持とは、その根本においてどこか心情的につながっているように思われます」(『死刑囚物語』)
と書いている。
「死刑囚が何を言うか」と言われそうだが、場合によっては人の命を奪ってもやむを得ないと考えることでは、殺人と死刑は同じであり、おかしなことは言っていないと思う。

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