三日坊主日記

本を読んだり、映画を見たり、宗教を考えたり、死刑や厳罰化を危惧したり。

岡田憲治『なぜリベラルは敗け続けるのか』(1)

2023年09月29日 | 

安倍政権の問題点を岡田憲治『なぜリベラルは敗け続けるのか』は数々指摘しています。

・2013年、特定秘密保護法の成立。
本来ならば政府が国民にオープンにすべき重大な情報(原発の安全基準、防衛費に使われているお金の分類、政治家や官僚が公正な手続きで決め事をしているかどうかを確認する文書)の公開の範囲を、実質的には政府が好き勝手に決められるようにさせるもの。
多額の増税が決まって、「なぜ多額のお金が防衛費に必要なのか」と問うても、「国家機密だから答えられない」という返事を正当化することが可能になった。

・2014年、安倍内閣による集団的自衛権に関する解釈改憲。
内閣法制局によって40数年間維持されてきた、憲法上、集団的自衛権は認められないという政府の公式見解が、通常国会で一度も議論されることなく、憲法解釈が変更された。
しかも、どのような議論を経て変更されたか、議事録が存在しない。

・2015年、安保法制の成立。
圧倒的多数の憲法学者が安保法制に反対声明を出しているにもかかわらず、集団的自衛権に関する閣議決定を前提に、11本の安全保障関連法が強行採決した。

・2017年、共謀罪法の成立。
心の中で犯罪計画を立てただけでも罪に問える。
悪用すれば、国家に異議申し立てをするあらゆる個人・団体を刑事捜査の対象にできる。

・2017年、野党からの国会開催要求を無視し続けた。
森友・加計学園問題などを理由に、野党が憲法53条に基づいて議会の開催を求めたにもかかわらず、与党は98日間も無視し、ようやく国会を開催したが、その冒頭で衆院解散を行なった。

・2018年、選挙後の国会で野党の質問時間の削減が断行された。
森友学園問題では、国有地取引時の行政決済文の改竄を財務省が認めた。
ところが、この不祥事の責任を、財務大臣を辞めさせることもなく、現場の官僚の責任問題として処理した。

なぜこれほど私がこの事態を憂慮するかと言えば、このまま政治に負け続けると、今度は「選挙など必要ない」という暗黒時代を現実化しかねないからです。つまり、もう連敗することすらできない、「選挙のない国」となるという事態です。


これは杞憂ではありません。
憲法に緊急事態条項という条文を追記しようという動きがあります。
内閣が災害等で緊急と判断した場合には国会の権能を内閣が実質的に兼ねることができる、国会議員の3分の2以上の多数で国会議員の任期を延長することができるという内容です。
https://www.toben.or.jp/know/iinkai/kenpou/column/2020229.html
緊急事態条項によって選挙がずるずると行われない国になる可能性はあります。

民主主義は失敗を繰り返さないための工夫が必要だと、岡田憲治さんは書いています。
たとえば、記録を残すことは近代国家としての最低限のルール。

不完全な人間が合意を作るためには、政権の中でどのように意思決定がなされたかをきちんと書き残すという習慣が、民主政治には必要不可欠です。それがなされなければ、誰が政策決定においてそれぞれの責任を引き受けるのか、また、その政策が失敗したら、どういう拙劣な経緯と迂闊さによって、それが起こったのかを検証することができません。

最低限のルールが安倍政権ではないがしろにされました。

安倍首相は国会での質疑で虚偽答弁を何度もした。
国会の答弁で大臣は官僚が作った作文を棒読みし、質問にはまともに答えない。
官房長官は定例の官邸記者会見で、記者の質問の制限・無視までした。
政府は部署に圧力をかけ、官僚は懲罰人事への恐怖から安倍首相に忖度した。
そうして、公文書の隠蔽、改竄、破棄がなされたのです。

安倍一強の情勢の下でデモクラシーそのものが少しずつ破壊され、少しずつ殺されているという危機的な状況となっている。
しかし、選挙で安倍晋三元首相は勝ち続けました。

1960年、日米安保条約が強行採決され、都立大学教授の竹内好は大学に辞表を提出しました。
黒川創『鶴見俊輔伝』に、竹内好が知人に送った挨拶文が載っています。

私は東京都立大学教授の職につくとき、公務員として憲法を尊重し擁護する旨の制約をいたしました。
5月20日以後、憲法の眼目の一つである議会主義が失われたと私は考えます。しかも、国権の最高機関である国会の機能を失わせた責任者が、ほかならぬ衆議院議長であり、また公務員の筆頭者である内閣総理大臣であります。このような憲法無視の状態の下で私が東京都立大学教授の職に止まることは、就職の際の誓約にそむきます。かつ、教育者としての良心にそむきます。よって私は東京都立大学教授の職を去る決心をいたしました。

翌日、竹内好の辞表提出を知った東京工業大学助教授の鶴見俊輔は辞表を出した。

辞表提出の翌々日、東工大文化系教授会で、鶴見俊輔は同僚たちに挨拶をした。

私の辞職の動機は、5月19日、警官導入し、単独に安保決議したことにかぎりたい。岸首相の採った態度、また、政府機構はよろしくない。空虚に感じられる。


岸首相は5月28日、「院外の安保反対運動に屈すれば、日本の民主主義は守れない。私は国民の〝声なき声〟の支持を信じている」と言った。
この発言に、安倍晋三元首相が選挙演説の際、批判的な聴衆に向けて「こんな人たちに負けるわけにはいかない」と言ったことを思い浮かびます。

もっとも、岸信介元首相は日米安保条約改訂を国会で審議し、その後に退陣しています。
現在は国会を開催せず、重大な決定が閣議決定により行われているのだから、60年安保のころのほうがまだましな気がします。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

田中伸尚『死刑すべからく廃すべし』(3)

2023年09月24日 | 死刑

田中伸尚『死刑すべからく廃すべし』に、死刑廃止の意見は維新後から主張されてきたとあります。

明六社の津田真道は1875年(明治8年)8月、「明六雑誌」に「ベッカリア氏の顰に倣いて」を発表した。

刑は人の罪悪を懲す所以なり。懲るとは何ぞ。曰く犯人の悪事の罪業たる、罪業の畏るべきを知りて之に懲り、善道に復帰するなり。刑法の目的は宜しく此の如くなるべし。然り而して死刑は苟も之を施行すれば即ち人命を絶つ。豈之を懲悔の法とすべけんや。たとえ其の人懲悔する所あるも、其の人已に死して其の心魂其の体に在らず、奈何んぞ善道に帰し、善行を人間に脩むるに由あらんや。故に曰く死刑は刑に非ずと。

チェザーレ・ベッカリアは18世紀の法学者で、死刑には予防効果はなく廃止されなければならない、教育により犯罪を防止すべきだと、死刑廃止論を説いた人です。
明治6年に死刑執行されたのは946人、明治7年は722人で、明治8年は451人。
明治7年の全国の死刑宣告者総数は748人だった。

植木枝盛は1881年(明治14年)に自由民権運動の機関誌「愛国新誌」で死刑廃止を主張した。
そして、「日本国々憲案」の第45条に「日本ノ人民ハ何等ノ罪アリト雖モ生命ヲ奪ハサルヘシ」と、死刑廃止を書き込んだ。

大内青巒は1891年(明治24年)の第2回帝国議会に死刑廃止を求めて請願し、第3回と第4回帝国議会にも死刑廃止を請願した。
衆議院議員の田辺有栄は第2回帝国議会で、刑法から死刑の一部撤廃の緊急動議を提出している。

1902年(明治39年)の第16回帝国議会に刑法改正案が提出された前後から、刑法からの死刑削除を求める声は再び活発になる。
1902年、幸徳秋水は「万朝報」で死刑廃止を取り上げた。

死刑を存ずるは文明国民の恥辱也、而して実に罪悪也。


監獄関係者から死刑廃止を求める意見や声が上がるようになったのは、1902年以降の刑法改正期からである。
内務省の監獄事務官でもあった監獄学者の小河滋次郎の死刑廃止論は官僚からの発言だった。
今なら法務官僚が死刑に反対だとは公言できないでしょう。

監獄現場から死刑廃止論が盛り上がったのは、死刑制度を旧刑法のまま存続させた新刑法草案が帝国議会にかけられた1907年(明治40年)である。
この草案に対し、反対論を特集した監獄協会の機関誌「監獄協会雑誌」の巻頭論文は「刑法改正案に就いて」である。

死刑廃止を行なうことの出来ぬ改正案、その基づく所は依然として単純な畏嚇又は除害の主義である。

「立法の大勢が既に死刑廃止に傾きつつあるは争うべからざる現実的事相」なのに、「死刑廃止を断行する能わざりしは遺憾なり」とあるそうです。

特集号には、全国の監獄の典獄、看守、教誨師など監獄職員89人が死刑について寄稿しており、半数近くの40人が死刑廃止を主張している。
刑務所所長や刑務官が死刑の存廃について論究することも現在では考えられません。

教誨師3名が連名で寄稿した論文にこうある。

(死刑囚の)十中八九の者は殆ど改悪遷善の念を起こせることは、従来の経験上、正に確認し得るところとなり、然るに之を其の身に実行するの遑なくして幽冥処を異にす。(略)冤枉の罪に引かれて、黄泉に赴くが如き不幸を免るる者を現出するに至るべし。何れの点より考察を回らすも、死刑は有害無益の惨刑たる断案を下すに憚らざるなり。

明治から大正には、死刑廃止論がこんなに広がっていたとは驚きでした。

田中一雄も寄稿しています。

予が明治33年以来悲惨窮まりなき死刑宣告者に教誨するもの82人、うち証拠不十分にして無罪の宣告を受けしもの5人、無期徒刑に処せられしもの7人、内4人は特典を以て死一等を減ぜられ、他の70人は死刑の執行を受けたり。此の70人中改心の見込みなきは僅か3人を観るのみ。但し此の3人とても監獄行刑上取締り得ずという者には非ざるなり。

田中一雄が見送った死刑囚の多くは死刑にする必要はなかったということでしょう。

仏陀の大慈大悲を教へながら、黙して此の残酷極まる死刑を見るは忍ぶ能はざるなり。

この言葉に僧侶である田中一雄のやりきれない気持ちがうかがわれます。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

田中伸尚『死刑すべからく廃すべし』(2)

2023年09月16日 | 死刑

教誨師は矯正施設で教誨を行う民間の篤志家という扱いですが、戦前までは監獄に官吏として教誨師が配置され、受刑者に宗教教誨を受けることを義務づけられていました。
https://www.ryukoku.ac.jp/news/detail/en2614/newsletter.pdf

明治末に約20年間教誨師を勤めた田中一雄の『死刑囚の記録』には大逆事件の死刑囚も記されています。
12人の死刑囚のうち、2名は記されておらず、9名についても事務的でそっけない記述である。
しかも田中一雄自身の感想を記していない。

9人目の古河力作のところで、「大石、松尾、奥宮等に就いて記したき事多くあるも、事秘密に属するを以て書くことを得ず。以て遺憾とす」と書いている。
率直な思いを記せば大逆事件裁判を批判することになるから書けなかったのかもしれません。

菅野須賀子についても事務的な記述だが、末尾に「性質怜悧にして剛腹なり」とある。
そして、田中一雄は「日記の写し」と小見出しを付して、菅野須賀子の獄中日記「死出の道艸」から自分についての文章を書き写し、加筆補正している。

「死出の道艸」は死刑を宣告された1911年1月18日から書きはじめられた。
菅野須賀子は、田中一雄と沼波政憲の2人の教誨師のことも記している。

1911年1月19日の日記

夕方沼波教誨師が見える。相被告の峯尾(節堂)が死刑の宣告を受けて初めて他力の信仰の有難味がわかったと言っていささかも不安の様が見えぬのに感心したという話がある。そして私にも宗教上の慰安を得よと勧められる。私はこの上安心の仕様はありませんと答える。絶対に権威を認めない無政府主義者が、死と当面したからと言って、にわかに弥陀という一つの権威に縋って、初めて安心を得るというのはいささか滑稽に感じられる。

沼波政憲は真宗大谷派の教誨師です。

同じ19日に田中一雄も菅野須賀子の独房を訪れた。
菅野須賀子は「相被告が存外落ちついて居るという話を聞いて嬉しく思う」と書き、続けて「この人は沼波さんの様な事は勧めないで」といったん書いて抹消している。
このあと「(田中が)ある死刑囚が立派な往生を遂げた話などをせられた」と書き留めている。
そして、「私は予ての希望の寝棺を造って貰う事と、所謂忠君愛国家の為に死骸を掘り返されて八つ裂きにでもせられる場合に、あまり見苦しくない様にして居たいと思うので、死装束などについて相談した」と書く。

1月21日の教誨での田中一雄の言葉。

アナタは主義という一つの信念の上に立って居るから其の安心が出来るのでしょう。事件に対する厚薄に依って、多少残念に思う人もあろうが、アナタなどは初めから終わりまでずっと事にたずさわって居たのだから相当の覚悟があるのでしょう。

菅野須賀子は「宗教上の安心をすすめられるより嬉しかった」と感想を書いている。

1月23日には、田中一雄は、自分は会津藩士で、戊辰戦争の際に死刑の宣告を受け、刑場に引き出される途中で死を減じられたことを菅野須賀子に話している。

沼波政憲は大逆事件に連座した被告のうち、11名の死刑執行に教誨師として立ち会った。
市場学而郎が沼波政憲から大逆事件の執行寸前の様子を聞き出したものが『死刑囚の記録』に付録として添付されている。
それによると、沼波政憲がこう言ったと書かれてある。

故教誨師沼波政憲氏が、死刑執行当時の惨憺たる光景に痛く頭脳を刺激せられ、子々孫々に至るまで、決して監獄の教誨師たるべきものに非ずと、直ちに職を辞したと聞き。


1912年、田中一雄は東京監獄の教誨師を退職した。
約二週間後、沼波政憲も退職した。

死刑反対でありながら、死刑囚を教誨し、そして執行に立ち会う。
死刑囚がどんなに悔悟しようとも、結局は絞首刑に処されてしまう。

日本の国体より言わば刑法第七十三条の如き法律あれば、死刑を全廃すべきに非ざるべし。

死刑判決は厳しすぎると思ったり、冤罪かもしれないと感じたこともあったでしょう。
しかし、刑法に死刑の規定があるかぎり死刑はなくならない。
何のために教誨を行うのか、日々、自分の無力さ、虚しさを感じながら死刑囚と会うのは非常につらいものがあったと思います。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

田中伸尚『死刑すべからく廃すべし』(1)

2023年09月10日 | 死刑

田中伸尚『死刑すべからく廃すべし』は、1890年(明治23年)から1912年(大正元年)まで教誨師をしていた田中一雄が残した『死刑囚の記録』という文書について書かれています。

田中一雄は会津藩のお抱え医師で5人扶持だった。
明治5年、贋札製造・行使の罪で死刑になったが、刑場に引き出される途中で死を減じられた。

神道大成教の信者の時に教誨師になり、後に浄土真宗本願寺派の僧侶となる。
鍛冶橋監獄と東京監獄で約200人の死刑囚の教誨にたずさわった。

『死刑囚の記録』には、1900年(明治33年)から退職するまでの12年間に担当した114人の死刑囚一人ひとりの記録が記されている。
死刑囚の姓名、仕事、性格、宗教意識や信仰心、身体の強弱、飲酒や賭博の習慣の有無、犯罪の内容と動機、自己の犯罪をどう感じているか、獄中での言動、教誨への対応、死刑執行前の心理状態、遺言、さらに田中一雄の感想や死刑の是非などが書かれている。

田中が教誨師をしていた当時、監獄教誨をほぼ独占していた浄土真宗の死刑囚教誨は教育勅語にもとづく国民道徳を説き、極悪人の心を落ち着かせて死を受け容れさせる「安心就死」であった。田中一雄はだが、「安心就死」に距離を取った。異端だった。極悪人と断罪され、肉親などからも見放され、寄る辺なき身となった一人ひとりの死刑囚の生い立ちや家族環境や教育程度などに目を凝らし、なぜ非道な犯罪に至ったのかに迫り、ときに共感的な眼差しを向け、死刑はやむを得ないのかと心を働かせる。そこから一歩踏みこんで、時間をかけ、丁寧に教誨すれば極悪人も「新しい生」を生きられる可能性があるはずだ――。手記には田中のそんな熱い想いが脈打っている。


稲妻強盗こと坂本慶次郎は1895年に収監中に脱走。
逮捕された1899年までに殺人、強盗、強姦などを30件以上重ねた。
1900年2月9日に死刑確定、2月17日に執行。

田中一雄が坂本を初めて教誨したのは1899年11月。
坂本は自己の犯行を自慢げに語り、呆れさせた。
その残忍さには「実に驚くの外なし」と書いている。
それでも週一回の教誨を重ねるうちに、坂本の心は次第にほぐされ、やわらかくなっていった。
死刑確定の前には、獄内でも坂本の謹慎ぶりが際立ち、自己に向き合って犯した罪をしきりに悔やむほどに変貌した。

田中一雄は手記の備考欄にこう書いています。

本人をして今後監督の下に五年を経過せば、或いは剛情は化して名誉心に変じ、再び犯罪なきに至るも知るべからず。法規は之に余年を与えず。試験中に執行せらるるの不幸を視るは甚だ遺憾に堪えざるなり。


死刑事件では、検察が「更生の可能性は皆無」と死刑を求刑します。
しかし、田中一雄はどんな人間も生き直すことができるという確信を持っていました。
この信念は自らが死刑囚だったという体験も大きく影響していると思います。

長く監獄に留め、教誨に十分な時間をかければ坂本も自らの罪と正面から向き合い、心から反省し、悔い、生き直しや新たな生の道を歩む可能性はあるはずだ、その途中で死刑を執行するとは、と田中一雄は憤るのだった。明らかに死刑制度への怒りで、そこには制度が死刑囚の「新しい生」を歩む機会を永久に奪うことへの批判が含まれていた。


博徒の親分が巡査を殺害したとして死刑。
「逃走の恐れある者にはあらず。年時を尽くして教誨せば、十分悔悟の念ある者」で、「斯くの如き者について死刑の要は少しも認めざるなり」と感想を記し、「死刑の要は少しも認めざるなり」に強調点を付している。

21歳の鋳物職人は奉公先で知り合った遊び友達に誘われて盗みに入り、家の主人を刺殺して死刑。
鋳物職人の家庭は恵まれていなかった。
5歳のときに父親が亡くなり、母はその一年後に幼い2人の子供を捨てて、男と東京へ行ってしまった。
兄妹は祖母に養育され、兄は13歳で鋳物工場に奉公した。
教育もなく、自分の姓名を書くのがやっとだった。

許嫁が他家の男との結婚が決まったことで殺意を抱き、許嫁と結婚の世話をした女性を殺した25歳の男は、兄弟姉妹が7人いて、教育はまったく受けていない。

彼の如きも永く監督の下に導き教訓することあれば、必ず改心者とあるものと信ずるなり多くは色情より起因する犯罪の如き、死刑執行の必要なき、今さら言を俟たざるべし。


小学校教育も受けられず、自分の姓名も書けないような犯罪者は少なくなかった。
このため田中一雄は死刑執行の直前に死刑囚の遺書をしばしば代筆している。

『死刑囚の記録』には情欲に絡んだ殺人事件は十数件を数える。
いずれについても「死刑の必要なし」「死刑にするには及ばず」「死刑は無益なり」などと言い切っている。
「すべて情欲に起因する犯罪は、時日を経過するに従い、改心の情頻りに起こるもの多」いからだと、田中一雄は書く。

同業者の妻と通じ、夫を殺した28歳の男は一審、二審と死刑だった。
ところが上告審で、殺したのは女で、自分は遺体を埋めるのを手伝っただけだと主張した。
しかし死刑判決が確定。
事実は不明だが、ひょっとしたら冤罪かもしれない。
他にも冤罪や事実認定の誤りと思われる死刑囚がいた。

『死刑囚の記録』の緒言に、田中は「死刑須らく廃すべし 否廃すべからず」と記している。
その基準は「社会に害毒を流す」かどうか。

監獄の規律に従順なるものならば死刑を執行する必要なかるべし。如何となれば、監獄に永く拘禁し置かば社会に害毒を流すこと能わざればなり。

過ちを認めず、悔い改めもせずに、脱獄を繰り返す死刑囚などは、死刑はやむを得ないと考えた。

しかし、犯罪のほとんどは、一時の衝動に突き動かされて起こるもので、脱走をするような死刑囚でも。時間をかけて丁寧に教誨すれば、やがては悔い改め、反省し、規則に従うようになり、必ず生き直せるという人間への信頼が、田中一雄の死刑は無益の刑だという確信を生んだ。

田中一雄が死刑に反対するのは、死刑囚と直接会って、生育歴を知り、話をしていく中で、どうしようもない人間はいない、誰もが必ず生き直すことができると実感したということがあると思います。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

中谷加代子、小手鞠るい『命のスケッチブック』

2023年09月05日 | 

入江杏『わたしからはじまる』と中谷加代子、小手鞠るい『命のスケッチブック』を読むと、犯罪を犯した人との関わりも、被害者の救いへの道の一つかもしれないと思いました。

入江杏さんはこう書きます。

被害・加害の隔たりを越えて対話することは、犯罪の事実をうやむやにすることでも、適正な裁判を行わずに犯罪者を野放しにすることでもありません。加害者を擁護するつもりもありません。同じような被害体験を持った人に、加害者が置かれている事情や状況に理解を求めることを強要もしません。


原田正治さんも同じことを話しています。

遺族の悲しみはひと色ではありません。被害を受けた人が加害者に思いをめぐらすこと、赦すのではなく、加害者について知りたいというニーズに応えることも、またケアでしょう。そうした取り組みが進む社会を望んでいます。


入江杏さんは「もし加害者が発見され、逮捕されたならば、なぜこのような事件を起こしたのかを知りたい」と言っています。
しかし、入江杏さんのの妹一家4人を殺した犯人はまだわかっていません。
中谷加代子さんの娘さんを殺した犯人は自殺しました。
加害者に「なぜ」と問えません。
それでも入江杏さんは中谷加代子さんとの出会いをきっかけとして保護司になったそうです。

中谷加代子さんは犯罪被害者支援だけでなく、加害者の更生のため刑務所や少年院に訪れて話をするなどされています。
中谷加代子さんは罪を犯した人に呼びかけます。

罪を償うことと幸せを感じることとは別のことでしょうか? 罪を犯してしまって、犯した罪を償っている今でも、花は美しい、空は青い、と感じていいのよ。


被害者は置き去りにされているのに、加害者の人権ばかりが大切にされていると言う人がいます。
しかし、更生は甦り、人生のやり直し、生き直しです。
再犯を防止することは新たな被害者を生まないことでもあります。

中谷加代子さんは最初から更生保護の考えを持っていたわけではないようです。
『命のスケッチブック』でこう語っています。

19歳というだけで、彼は「少年」あつかいになり、少年法という法律によって、顔写真も、名前も、服装も、現場から乗って逃げたとされているバイクの色も形も、何もかもが「非公開」になってしまうのです。
非公開というのは、秘密にする、ということです。
言いかえると、容疑者は保護される、ということにもなります。
殺された歩のことは、何もかも公開されるのに、容疑者のプライバシーと情報は守られる。
わたしたち被害者の家族にとっては、本当に理不尽で、無念なことです。(略)
当時の心境としては、このような少年法に対するもどかしさがありました。
ただ、今現在のわたしの考え方は、当時とは少し、違ってきています。
情報の公開や、少年を大人と同じ法で裁いたりすることによって、果たして犯罪を防止・抑制することができるのだろうか、ひいては、命を救うことができるのだろうかと、疑問を感じるからです。


少年法に納得できない気持ちがあったのに、どうして少年法改正に疑問を感じるように変化したのでしょうか。
中谷加代子さんの思いの根底にあるのは、「歩ならどうするか」ということだからだと思います。
https://news.yahoo.co.jp/feature/710/

加害者の自殺により、歩はなぜ、殺されなければならなかったのか、すべては謎に包まれたままになってしまいました。
わたしたちの苦しみは、軽くなるどころか、ますます重く、深くなっていきます。
加害者が死んでしまったとしても、歩はやはり、もどってきません。
失われた命は、たとえ命によってでも、つぐなうことは、できないのではないでしょうか。
なぜなら、失われてしまった命はもう二度と、もどってこないのですから。
でも、もしも、つぐなう方法があるとすれば、それは、加害者がそのあとの人生をどう生きるか、その人生のなかにこそ「つぐなう」ということのヒントというか、答えというか、なんらかの方法があるのではないかと、わたしは思っています。
もしも彼が生きていたとすれば、わたしは彼に、自分のしたことに正面から向き合ってほしかったと思います。
もちろん、反省もしてほしかった。


こんな経験を語っています。

2人が死亡した交通事故の裁判の傍聴に行ってきました。
裁判官が被告に対して、こう問いかけました。
「あなたは今、亡くなった被害者の方々に対して、どういう気持ちでいますか」
被告は、ひとことか、ふたこと、ことばを発したあと、だまってしまいました。
事故からは二か月か、三か月かが過ぎていたと思います。
彼が黙っているあいだ、あたりには、冷たい空気が漂っていました。
傍聴席に座っていたわたしは、ほかの人たちとはちょっと、ちがったことを思っていたのです。
事故から二か月か三か月かそこらで、被告の心にはまだ、本当の意味での反省、本当の意味での謝罪の心は、育っていないのではないかと。
そういう気持ちがないのに、反省していますとか、お詫びしますとか、言えないでいるのではないかと。
だから、だまっている。
そういうことなら、それはそれで仕方がない。
わたしはそう思っていました。


事件後すぐに反省や謝罪の気持ちは生まれません。

最初は相手が悪いと思っている。でも、いろいろ考えているうちに、相手の気持ちを思いやる心が芽生えてきて、それからやっと、本当の意味での「ごめんなさい」が言えるようになる。
時間が必要なんです。
人を殺しました、ごめんなさい。
そんなこと、ぱっと思えるわけがない。


悪いことをしたら、そのことを反省し、謝罪するのは人間として当然のことです。
しかし、自分が何をしてしまったのか、どのように傷つけたのか、そうしたことに気づくには時間がかかりますし、その事実と真向かいになることが難しいのは、私たちも同じです。
反省や謝罪をするための時間を奪うのが死刑です。

歩が殺されたとわかったときには、いっしょに死ねたらよかったと思っていましたが、今はそうは思いません。(略)
生きて、生きて、生き抜いていって、いつか歩に会えたとき、
「おかあさん、あの事件のあとも、一生けんめい生きたよ」
って、そう言いたいんです。
胸を張ってそう言えるような人生を、生きていきたいと思います。
空が青いなと思ったら、ああきれいだな、小鳥の声が聞こえたら、ああかわいいなって笑顔になれる、そういう幸せを日々、感じながら。

中谷加代子さんは死刑に反対だそうです。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする