メル・ギブソン『ハクソー・リッジ』では、主人公であるデズモンド・ドスは真珠湾攻撃に衝撃を受け、衛生兵になるために軍隊に志願します。
しかし、セブンスデー・アドベンチスト教会の忠実な信徒なので、良心的兵役拒否者として、訓練でも武器を持つことすらしません。
そんなデズモンド・ドスが前田高地をめぐる戦いで大勢の負傷兵士を救出するという感動の実話です。
しかし、『パッション』や『アポカリプト』にこめられたメル・ギブソンの意図を考えると、『ハクソー・リッジ』(2016年)も単純に反戦映画、もしくは人類愛賛歌とは言えないように思います。
ハクソー・リッジでの最後の戦いの前、兵士たちはデズモンド・ドスの祈りが終わるのを待ってから崖を登り、前田高地を占領します。
つまり、ハクソー・リッジの戦いは神のお考えだったということになります。
そして、『ハクソー・リッジ』での日本兵は、殺しても殺しても次から次へと現れるゾンビのように描かれます。
スペイン(=キリスト教徒)が新大陸を征服し、先住民を殺戮したことと重なります。
『ハクソー・リッジ』には沖縄に住む人たちは登場しませんが、岡本喜八『激動の昭和史 沖縄決戦』(1971年)では大勢の一般人が戦闘に巻き込まれ、アメリカ兵に殺されます。
デズモンド・ドスは戦争についてはどのように考えていたのか、映画では示されていません。
自分は人を傷つけないが、アメリカ軍が日本兵を殺すこと、まして一般人を巻き添えにすることに抵抗はなかったのでしょうか。
前田高地がある浦添市のHPを見ますと、住民の44.6%、4112人が死亡、一家全滅率は22.6%で、前田地区に住んでいた201世帯、934人のうち、戦死者は549人、戦死率は58.8%です。
セブンスデー・アドベンチスト教会も終末論と関係があります。
ウィリアム・ミラーはキリストの再臨を1843年3月21日~1844年3月21日の間と予言したことで、ミラー支持者は異端として教会から追放され、エレン・ホワイトも所属していた教会から追放されます。
その後、エレン・ホワイトたちはセブンスデー・アドベンチスト教会を設立し、安息日は土曜日であって、ローマ・カトリックは間違いだったとします。
誰もが終末を生き残れるわけではなく、神の教えに従った選ばれた人だけです。
当然のことながら、異教徒の日本兵はダメです。
木谷佳楠氏は、日本においてアメリカのキリスト教と映画との関係を知ることの意味はどこにあるかを問題にします。
アメリカ映画の中にキリスト教的価値観が強く反映されているのだから、日本の観客も知らない間にアメリカ独自のキリスト教価値観の影響を受けることになる。
日本の観客が、善悪二元論や終末観、アメリカンヒーローに代表されるメシア観を取り込んでいる可能性は否定できない。
アメリカン・ヒーローはイエス・キリストがモデルとなっているそうです。
常人以上の特別な能力を持つ一方、敵から苦しみを受け、時には人々から理解されずに悩むという人間的弱さを持ち合わせている。
さらには、自己犠牲的な行為によって生死をさまよったり、死んで復活したりする。
なるほど。
だからこそ、映画に代表されるアメリカ文化の主原料であるアメリカの宗教性を知り、吟味する必要があると、木谷佳楠氏は説きます。
納得です。
それにしても、アメリカ軍は崖にかけられた網ハシゴ(?)を登っていくわけですが、この網ハシゴはいったいどのようにしてかけたのか、日本軍はなぜ切り落とさなかったのか、不思議です。
ピーター・ウィアー『誓い』(1981年)でのメル・ギブソンは誠実そうで、役柄にぴったりでした。
ところが、実際はアル中の暴力男だそうです。
だからこそなのか、自分で教会を建てているぐらいの熱心な信者。
もっとも、「教皇聖座空位論(sedevacantism)」といって、第2バチカン公会議で決定されたリベラルな政策を受け入れられず、第2バチカン公会議後の教皇たちを教皇として認めない超保守的なカトリック信徒です。
でも、それなのにメル・ギブソンも父親も離婚しているのですが。
メル・ギブソン監督作品を見るときには、原理主義で、反ユダヤ主義で、妊娠中絶反対で、同性愛反対だということを頭に入れておく必要があります。
監督第3作の『パッション』(2004年)は、イエス・キリストがローマ兵に捕らえられて拷問され、十字架にかけられるまでをリアルに描いており、ローマ法王も聖書に書かれてあるとおりだと言ったそうです。
十字架をかついだイエスは、人々にあざけられ、鞭打たれ、石を投げられ、そして十字架にかけられ、全人類の罪の犠牲となって、苦しみながら死んでいく。
それにもかかわらず、イエスは人間を許してくれたことは驚きであり、喜びは深まる。
つまり、イエスの苦痛と人間の罪の重さ、そして私の救いの確かさは正比例することになるわけです。
カトリックでは、イエスが十字架にかけられたのは神のお考えで、ユダヤ人のせいではないと解釈していると、カトリックの知人が言ってました。
しかし、木谷佳楠『アメリカ映画とキリスト教』によると、『パッション』に登場するユダヤ人は、これまでの映画の中で最も悪く描かれ、その一方でローマ総督のピラトや一部のローマ兵は好意的に描かれているために、製作制作段階から「反ユダヤ主義的」な映画との非難を受けたそうです。
グリフィス『イントレランス』は、ユダヤ教のラビが撮影現場にいたものの、イエスの死がユダヤ人によってもたらされたという描写があったため、修正を求められ、30場面あったイエス物語を7場面に縮小した。
メル・ギブソンは意外としたたかなようで、映画を公開する前に、社会的影響力のある宗教家、特に福音派の牧師を味方につける戦略をとりました。
バチカンで事前試写会を開き、アメリカ国内ではメガ・チャーチを借り、福音派の牧師約5000人を集めた試写会を開いている。
こうしたことにより、抗議や非難の声は公開後すぐに沈静化し、大ヒットした。
制作費が3千万ドルはメル・ギブソンが出したそうですが、、全世界の興行収入は約6億1100万ドル。
メル・ギブソンの描く、厳しい拷問に耐え、人々の罪の贖いとして十字架にかけられるイエスは、9.11後のアメリカで求められていた国家統合のための「国民的象徴」だった。
コーネル・ウェストは、『パッション』に代表されるキリスト教保守派の思想を文化に乗せて広めようとすることは、現代風に洗練された帝国主義的風潮であり、「コンスタンティヌス的クリスチャン」、すなわち自らが達成したいと欲する目的のためにキリスト教を利用する者の考え方であると批判していると、木谷佳楠氏は書いています。
メル・ギブソンの次の監督作品はマヤが舞台の『アポカリプト』(2006年)です。
村の人間を捕まえて生け贄にして殺したり、人間狩りをしたりと、これまた残酷な場面が続きます。
スペインの船が遠くに見えるシーンで終わりますが、これをどう解釈するか。
スペイン人によって先住民は富を奪われ、殺戮され、マヤ文明は滅亡するわけですから、主人公の救いのなさが暗示されていると思いました。
ところがネットを見ると、スペインは野蛮な新大陸に福音をもたらしてキリスト教化したということがメル・ギブソンの狙いだ、という解釈がありました。
「アポカリプト」の意味をネットで調べると、ギリシャ語で「物事をあらわにする」という動詞で、名詞だと「アポカリプス」で「黙示録」のこと。
『アポカリプト』という題名を見て、アメリカの観客は何をイメージするかというと、世界の終末とイエスの再臨でしょう。
『アメリカ映画とキリスト教』によると、アメリカは人口の約75%がクリスチャンであり、ユダヤ教徒も含めると約77%が、「世界の終わり」をユダヤ・キリスト教的価値観、聖書的終末観で捉えています。
2010年に行われた世論調査によると、アメリカ人の41%は2050年までにイエスが再臨し、終末が訪れると信じている。
プロテスタント 54%
白人福音派 58%
白人主流派 27%
カトリック 32%
終末を待ち望む人が半数近くいるわけです。
マヤ文明に代表される非人間的な世界の終わり、そしてスペイン船によってもたらされるキリスト教文明の夜明け(イエスの再臨)。
描写が残酷であればあるだけ、マヤ文明がいかに野蛮かが印象づけられ、スペインによる征服が正当化されます。
あるサイトは、アフガニスタンのタリバン政権やイラクのフセイン政権を象徴していると指摘していますが、うなずけます。
スペイン船=アメリカ=キリスト教は抑圧からの解放者です。
となると、残酷な描写はマヤ文明の非人間性を強く印象づけ、スペインは侵略ではなく、マヤの人々に救いをもたらす福音だという結論に結びつけることになります。
木谷佳楠『アメリカ映画とキリスト教』で興味深いのは、60年代以降のキリスト教福音派やキリスト教右派の動きが詳しく説明されていることです。
第二次世界大戦中は連合国に対立する国を、その後は共産主義国を、「神の国アメリカ」の敵、あるいは「反キリスト」として捉えた。
しかし、「ユダヤ・キリスト教国家」としてのアメリカの伝統的価値観に対する異議申し立てとして生まれたカウンター・カルチャーが盛んになる1960年代に入ると、それまでの価値観が覆された。
このころからアメリカのキリスト教の中心は、比較的リベラルな立場の「主流派教会」から、保守的な立場をとる福音派へと移っていく。
その福音派の中から、さらに自分たちの保守的なキリスト教的価値観を政治に反映させようとする「キリスト教右派」が力を持つようになる。
1951年、ビル・ブライトはキャンパス・クルセード・フォー・クライスト(CCC)を創設し、カリフォルニア大学ロサンゼルス校で活動を始めた。
カリフォルニア州知事だったレーガンや福音派の人々が、ヒッピーの巣窟と目されていたカリフォルニア大学バークレー校の浄化に乗り出し、ヒッピーたちをクリスチャンに転向させようとした。
1967年、CCCも「いま革命を」というキャンペーンをカリフォルニア大学バークレー校で展開する。
レーガンは自分が政治能力があることを有権者に示す必要があり、ビル・ブライトたちはレーガンに協力することで、自分たちが政治に影響を及ぼせるようになると考えた。
ヒッピーの街と化していたバークレーでは、短髪にスーツ姿では受け入れられず、キャンペーンは苦戦する。
そこで、ビル・ブライトはCCCのスタッフたちにヒッピー・スタイルを身につけるよう命じ、クリスチャン世界解放戦線という名の組織を結成し、CCCの活動の前面に発たせた。
また、社会活動家やヒッピーたちが好んで使っていた「革命」「スピリチュアル」という言葉を多用して、学生に話しかけた。
いわば異教徒の牙城であったバークレーに対する十字軍の戦いそのものだった。
ビル・ブライトはさらにCCCの活動をワシントンや軍隊の中にも広げていく。
1969年に行われたウッドストックに対抗するように、ビル・ブライトはクリスチャンのためのウッドストック・フェスティバルとして、Explo'72 をダラスで行い、75カ国から高校生や大学生8万人が集う一大イベントとなった。
クリスチャンのミュージシャンたちは、いかに過去の自分たちが麻薬に溺れて不幸であったのか、そして、イエスに出会ってことでいかに救われたのかという信仰のメッセージを若者に向かって発した。
Explo'72で演奏された曲はレコード化され、希望者はCCCに問い合わせると無料で入手できた。
この方法によってCCCは若者たちにアプローチすることができ、さらなる活動に勧誘することができた。
CCCが提唱した「ワン・ウェイ(イエスこそが唯一の救い)」というわかりやすいスローガンは、カウンター・カルチャーで何も変わらなかったことに幻滅し、喪失感を抱いた若者たちに受け入れやすいものだった。
CCCは保守的な神学を保持しながら、ホップ・ミュージックを中心としたコンテンポラリーな宣教のスタイルを伴って、カウンター・カルチャー世代の取り込みに成功した。
こうしてCCCの勢力は、YMCAなど従来からあったキリスト教系の青年団体を凌駕するようになった。
1970年代の時点で1万人のフルタイムのスタッフを抱えていたが、2005年には191カ国に活動範囲を広げ、2万6千人のフルタイム・スタッフと、55万人の訓練を受けたボランティアを有し、予算規模は4億ドルとされている。
1980~90年代に政治の表舞台に出てくるキリスト教右派グループは、ビル・ブライトがCCCを通して保守的な考え方を広めた世代を中心としている。
福音派の協力によってレーガンが大統領に選ばれたことを喜んだビル・ブライトは、1980年に開催されたイベントで、20万人もの福音派やキリスト教ファンダメンタリストたちをが集め、レーガンのために一日中祈りをささげた。
このイベントには、それまで反目しあっていた南部パブテスト連盟と福音派教会など保守派が初めて協力して一緒に参加した。
そのころの最大の宗教ロビーはモラル・マジョリティーで、かつての伝統的価値観の回復を求める政治団体である。
主な主張は次の3点
①世俗的人間中心主義への批判
②伝統的な家族を守ること
③アメリカ至上主義
「伝統的な家族を守ること」という立場から、人工妊娠中絶反対、男女同権法案反対、同性愛者の権利を認めることへの反対、家庭の教育に公権力が介入することへの反対を主張した。
1968年にプロダクション・コードが廃止された後のアメリカ映画は、キリスト教右派による「暗黙の検閲」を受けねばならなくなった。
イエスが誘惑に負けて女性と関係を持つ場面があるマーティン・スコセッシ『最後の誘惑』(1988年公開)の製作・上映は福音派の団体から妨害・抗議を受けたが、抗議運動の中心となったのがCCCだった。
ビル・ブライトは映画の配給を予定していたパラマウントにフィルムの破棄を前提に、原作の映画化権を購入したいと申し入れた。
映画化権の購入に失敗すると、上映を中止させるためにCCCのメンバー2万5千人を動員して、映画館の前でボイコット活動を展開し、映画館に入ろうとする人々を実力行使で阻止した。
しかし、主流派教会の牧師たちは、あまりに行き過ぎた抗議活動に異議を唱えた。
キリスト教的性道徳を掲げる福音派などの保守派と、言論の自由を求めるリベラル派との間にあった思想的葛藤がアメリカ社会の中で顕在化することになった。
『最後の誘惑』をめぐる一連の出来事の背後には、伝統的価値観の回復を望むキリスト教右派や新保守派と、そこから自由でありたいと願うリベラルとの対立構造があり、1990年代初頭になると、政治、社会を巻き込んだ「文化戦争」へと発展していく。
「文化戦争」で論争の的になっている主要なトピックは、人工妊娠中絶、同性婚、公立学校での祈禱の再開などである。
多様な価値観が林立することによってアメリカという国家が解体することを恐れる人々は、そこに確固たる道徳規範を求めていったのである。
以上、木谷佳楠氏の論攷を読み、CCCのやり方はまるで日本会議だと思いました。
草の根保守運動です。
木谷佳楠『アメリカ映画とキリスト教』は、キリスト教という切り口からのアメリカ映画批評かと思ったら、博士論文を加筆訂正したもの。
映画や映画界とキリスト教との関わりをとおしてアメリカを見ていく。
はなはだ興味深い本でした。
アメリカが排除と受容という相対する二項概念の相克によって発展してきた歴史は、アメリカ人の「我々(We)」を定義する線引きをめぐっての争いの歴史であったとも言える。
どの範囲までを「アメリカ的」と見なし、どの範囲から「非アメリカ的」だと定義するのか、その線引きは不明瞭である。
建国初期のアメリカ人にとっての「我々」とは「白人のアングロサクソン系プロテスタント信徒」(WASP)であり、「我々」を統合する宗教的価値観は、プロテスタント教会とほとんど同義だった。
1800年代中ごろ、カトリック系移民が流入してくると、プロテスタント信徒は自分たちこそが「真のアメリカ人」であると主張して、カトリック信徒を排除した。
映画産業は、1890年代から1910年にかけて、エジソンやグリフィスなどWASPを中心として開発が進められ、映画が宣教の道具として役立つと歓迎された。
やがて、当時、職業選択の自由が与えられていなかったユダヤ系移民たちが映画を大衆文化へと広めていったので、アメリカ系アメリカ人と自負する勢力から、映画業界は攻撃されやすかった。
1920年代前半から、キリスト教系団体や女性団体は、ユダヤ系映画製作者たちが作る映画によって道徳律が乱されていると非難するようになる。
恋愛映画を作ると、「ユダヤ系移民がプロテスタント信徒の風紀や道徳律を映画によって乱している」という批判が起こり、聖書に基づいたイエス物語の映画を作ると、「イエス・キリストを死に至らしめたユダヤ人が、キリストの死によって金儲けしている」と叩かれた。
アメリカにおけるイエスを描いた映画は、その製作段階から常に「反ユダヤ主義」「神への冒瀆」という批判にさらされる危険性を内包していた。
ユダヤ系映画製作者たちは「真のアメリカ人」になるためにユダヤ系であることを隠すようになり、ユダヤ系ヨーロッパ人としてのアイデンティティを捨て、同化していく道を選んだ。
1930年代、「アメリカ人」としての地位を獲得しつつあったカトリックの人々から、ハリウッドに対する抗議の声が上がると、ユダヤ系映画製作者たちは自主検閲機関を設立し、1934年、プロダクション・コード(映画製作倫理規定)を設けた(1968年に廃止)。
プロダクション・コードは12項目があるが、①神への冒瀆、②性的不品行、③殺人や窃盗行為の3点を禁じることに集約される。
根底にあるキリスト教的価値観は、結果としてアメリカ映画を観る全世界の人々に影響を与え、単なる笑いや感動を伝えるだけのものではなく、アメリカの価値観を教え、キリスト教的倫理を伝え、「アメリカ的生き方」を示すようになった。
これは2000年来、教会が担ってきた役割だった。
移民の手によって発展したハリウッド映画産業は「非アメリカ人」として攻撃される危険性を持っていた。
その最たるものが冷戦時代の赤狩りである。
1947年からの赤狩りにおいて、厳しく追及を受けたのは主に移民たちであり、アメリカ系アメリカ人は主として糾弾する側にいた。
ハリウッドの移民たちは、アメリカの成員かどうかを判断する踏み絵として赤狩りに加担し、自主的に映画の検閲を行い、共産主義者を閉め出すことを余儀なくされた。
WASPに属するセシル・B・デミル、ジョン・ウェイン、ウォルト・ディズニー、ロナルド・レーガンらは、非米活動調査委員会の調査に積極的に協力したが、ギリシャ移民のエリア・カザンのように「裏切り者」「ユダ」として扱われることはなかった。
1950年代、「神を否定する共産主義」というアメリカ人にとっての共通の「敵」を得たアメリカは、「我々」を統合するものとして、神に対する信仰をアメリカ人の最大公約数として求めた。
その「敵」に一致して対峙するための方途として、国民を「神の名の下にひとつにする」という道を歩み始める。
1956年、「我々が信じる神のもとに」を国の正式なモットーとして採用し、1ドル紙幣や硬貨に印字した。
こうして、「神の国アメリカ」という自己イメージは強固なものとされていった。
冷戦終結以降、アメリカは確固たる「敵」を失っていたが、2001年に起きた同時多発テロを契機に、イスラーム過激派、テロリストという新たな「敵」を得た。
9.11以降、宗教を軸にする対立構造は、「アメリカ対テロ組織」、あるいは「ユダヤ・キリスト教対イスラーム」という単純な対立構造を顕在化させた。
多様である国民がひとつになることが要請され、愛国心や排他的な伝統価値観を標榜する保守勢力が力を増していくことになる。
「アメリカ人」「非アメリカ人」という線引きは、人種や宗教のみならず、保守派かリベラル派かという思想的立場による対立構造の中でも規定されるものへと変化した。
保守派対リベラル派の対立は、建国時のピューリタニズムと民主主義という二つの思想が、多民族国家となった変化にいかに対応するかをめぐって生じた対立構造である。
建国の精神にあるキリスト教的道徳観に基づいた社会へと回帰するのか(保守派)、民主主義に基づく多様性を重視した社会の構築を目指していくのか(リベラル派)。
アメリカのリベラル化は、キリスト教右派と新保守主義の共闘を生み、そこから自由でありたいと願うリベラル派と主流派教会との間における対立構造を顕在化させた。
アメリカ対非アメリカの関係を「キリスト教対反キリスト」「善と悪」という単純化された二元論的構図に当てはめ、自国民のみならず世界市民に対しても、どちらに立つかの選択を迫る。
『アメリカ映画とキリスト教』を読んで思ったのは、アメリカの歴史は「敵」を見つけ出すことによって、多民族国家であるアメリカを一つにまとめようとする歴史といえるのではということです。
林えいだい『陸軍特攻・振武寮 生還者たちの収容施設』によると、沖縄作戦で特攻基地を飛び立った者は、飛び立った日付で戦死公報が作成され、軍籍から抹消され、二階級特進の手続きを取っていた。
それなのに、敵艦に突っこんだはずの軍神が生きて帰ってきては、世間に説明がつかない。
軍司令部にしてみれば、いまさら生きて帰ってこられても扱いに困った。
出撃意欲をなくした特攻隊員の処置をどうするか、第六航空軍司令部は頭を痛めた。
生還した特攻隊員の扱いに苦慮した陸軍司令部は、福岡にあった第六航空軍指令部横に造った施設に収容し、一般人や他の特攻隊員に知られないように隔離した。
およそ80名ほどの特攻隊員が収容されていたといわれるその施設は、「振武寮」と呼ばれた。
行動は制限され、外出や外部との連絡(手紙・電話)は禁じられ、再び特攻隊員として出撃するための厳しい精神教育が施された。
倉澤参謀は毎朝6時半にやってくると、酒の匂いをぷんぷんさせながら「生きて帰ったお前たちには、飯を食べる資格がない」とわめき散らして、竹刀で殴りつけた。
「貴様ら、逃げ帰ってくるのは修養が足りないからだ」
「軍人のクズがよく飯を食えるな。おまえたち、命が惜しくて帰ってきたんだろう。そんなに死ぬのが嫌か」
「卑怯者、死んだ連中に申し訳ないと思わないか」
「おまえら人間のクズだ。軍人のクズ以上に人間のクズだ」
倉澤参謀は1944年9月に飛行機が墜落して頭蓋骨骨折をし、20日間も意識不明の重体になった。
命は助かったが、頭は割れるような痛みが走り、酒を飲んでは暴れた。
普通なら除隊するが、航士第五十期はほとんどが戦死していたため復帰した。
こういう人が参謀でいること自体がおかしいです。
林えいだい氏は倉澤清忠氏から次の言葉を引き出しています。
(少年飛行兵は)12、3歳から軍隊に入ってきているからマインドコントロール、洗脳しやすいわけですよ。あまり教養、世間常識のないうちから外出を不許可にして、そのかわり小遣いをやって、うちに帰るのも不十分な態勢にして国のために死ねと言い続けていれば、自然とそういう人間になっちゃうんですよ」
自爆テロとかいったことと通じる、重たい述懐です。
フィリピン特攻作戦以来、航空機による特攻の犠牲者はおよそ6千人といわれる。
目的を達することができずに引き返した隊員はほかにもかなりいるはずだ。
大貫健一郎・渡辺考『特攻隊振武寮』によると、アメリカは日本軍の暗号を解読しており、日本軍の動きは米軍に掌握されていた。
日本軍がどこに、どれだけの数の戦闘機を保有しているか、正確に把握している。
特攻についても、攻撃の時間、規模、さらには機材が不足し、練習機が特攻に使われようとしていることまでが事前に調べつくされていた。
しかも、沖縄戦では、米軍は160km先の動体を確認できるレーダーによって、沖縄に防空警戒網を張り巡らせ、約30分前に特攻機の来襲を察知した。
沖縄作戦での特攻はほとんど無駄死というか、使い捨てにだったわけです。
戦争で多くの人が無駄に死んでいったことによって、日本人は平和主義を選んだことを肝に銘じておく必要があります。
大貫健一郎さんはこのように語っています。
いまの若者も不幸にして戦争に直面すればやむを得ず特攻隊員になってしまうかもしれない。そんな時代が二度とやってこないようにするためにも、私は自分が見た悲惨をしっかりと後世に語り継ぎたいのです。
伊藤智永『忘却された支配』に、陸軍第六航空軍は特攻から生還した者を振武寮に隔離し、参謀が「なぜ死なない」と責め立てたことが書いてあります。
振武寮とは何かと思い、林えいだい『陸軍特攻・振武寮 生還者たちの収容施設』と大貫健一郎・渡辺考『特攻隊振武寮』を読みました。
林えいだい氏は第六航空軍編成参謀の倉澤清忠少佐(86歳)に2003年3月から7月にかけてインタビューし、それから数日後に倉澤清忠氏は亡くなっています。
大貫健一郎氏は特攻から帰還した方です。
林えいだい氏は倉澤清忠氏に、最初にまず「失礼ですが正直いってあなたのことをよくいう隊員は一人もいません。早くいえば鬼参謀と恨んでいます」と、ズケズケと言っています。
こんなんで倉澤清忠氏がよく話をしてくれたものだと思いますが、倉澤清忠氏はいつ報復されるか分からないからと、80歳までは自己防衛のためにピストルに実弾を入れて持ち歩き、家では軍刀を手放さなかったと、率直に語っています。
1944年12月26日、連合軍の日本本土上陸が目前に迫り、陸軍は沖縄戦に備えて、新しく第六航空軍を創設した。
1945年4月6日、沖縄への特攻作戦が始まると、出撃した特攻機が機体のトラブルや不時着などで引き返してくることが非常に多くなった。
菅原道大第六航空軍司令官の日記には、特攻隊の5分の1が引き返したり不出発だったとある。
代替機受領のために、福岡の第六航空軍司令部の倉澤参謀のところに行った特攻隊員に対して、倉澤少佐は引き返した理由を厳しく追及した。
・目標地点まで行ったが、敵艦を発見できなかった
・天候が悪くて引き返した
・機体が故障した、など
開聞岳を通過してまもなく海岸に不時着することもあった。
古い飛行機を寄せ集めた特攻機だから、エンジントラブルとか故障が多い。
しかし、機体には全く損傷がないものもある。
海岸か島に不時着したり、海に沈めると、証拠がないから調べようがない。
そもそも、やっと編成することができた特攻隊は、古い機体と技術を伴わない操縦士によるというのが実情だった。
航空本部に新部品を支給するように要請した。すると敵機の東海地方の爆撃で部品工場が全滅して、再開の目途が立たないから現有部品で間に合わせて修理せよというんだ。おんぼろ飛行機に爆弾を搭載するとどうなるかを、操縦経験のない陸軍上層部は全く考えていなかったんだ」
特攻機を航空本部に請求しても、新鋭機はどの戦隊も手放さなず、ノモンハン戦に使用し、訓練で使い古したおんぼろ機を提供してきた。
そのため、航空廠で修理して、特攻機に改修しなければならなかった。
ところが小月文廠では、エンジンの修理、組み立てを、基本教育も受けていない女学校の生徒にさせている。
エンジンを分解して破損部分を発見しても、新しい部品がないために交換できない。
機体のナットがゆるんで締まらず、手でも簡単に外れる。
完全に修理したと自信を持った戦闘機が、離陸中や着陸中に墜落して、操縦士が死ぬこともあった。
知覧飛行場に集結した特攻機のうち、出撃直前になって機体の故障で中止になる特攻機もあった。
最新鋭の一式戦闘機Ⅲ型隼はエンジンが不調で、知覧航空分廠で修理することになったが、一式戦闘機Ⅲ型隼を修理できる整備係が1人もいなかった。
陸軍の最新鋭の飛行機でもこのありさまだった。
当時の戦闘機は250キロ爆弾を爆装するようには設計されていないので、改修するためには時間がかかる。
隊員は十分な編隊訓練をする時間もないまま、前進基地へ集合を命じられ、知覧基地ではじめて250キロの爆弾を爆装した隊員が大部分で、離陸中に浮力がつかず、墜落事故も起こった。
若い操縦士は技術が低く、特攻隊訓練を担当していた東郷八郎氏は「特攻の任務を果たせるか、非常に疑問を抱かせるレベルの操縦士が多かったのは事実です」と語っている。
こんなひどい状態で特攻に送り出していたとは知りませんでした。
いったい何のための特攻だったのかと、あらためて思いました。