親鸞聖人七百五十回忌ご遠忌のテーマが「今、いのちがあなたを生きている」に決まったそうだ。
最初に思ったのは、こりゃなんだ、ということ。
まず、日本語になってない。
小学生が「いのちがあなたを生きている」という文章を書いたら、国語の試験で×をもらうに違いない。
東本願寺のHPに「御遠忌テーマの願い」という文章があり、これまたわけのわからない言葉の羅列で、私はアホなのかと悩んでしまう。
ひょっとすると、こういう意味不明のテーマにすることで、あれこれと考えてもらいたいという願いをこめた、ということなのかもしれない。(そんなこたないか)
もう一点は、「いのち」という言葉のうさん臭さである。
このことについては次回のお楽しみ。
「今、いのちがあなたを生きている」が日本語としてどのようにおかしいか、ヒマ人の私は考えました。
まず、国語辞書で「を」を調べてみました。
《格助詞》
①{他動性の動詞を伴い}
ア、動作・作用が直接に及ぶ対象を示す。
イ、動作・作用によって作り出される対象を示す。
②{移動・経過を表す動詞を伴い}
ア、動作・作用が成立する場所・経路を示す。
イ、経過する時間を示す。
③{分離を表す動詞を伴い}分離の対象を示す。…から。
④{好悪・願望などの心情を表す述部を伴い}それらの心情の向けられる対象を示す。
「を」には接続助詞と間投助詞の意味もあるのだが、これは関係ないので省略。
①の意味の「を」は、「私は本を読む」「あなたは肉を食べている」といったもので、「を」の後には他動詞が来る。
ところが、「生きる」は自動詞なんですよ。
「歩く」とか「泣く」などが自動詞である。
「あなたを思って泣く」と言っても「あなたを泣く」とは言わないように、「あなたを生きる」の「を」は①の意味では使わない。
「いのちがあなたを殺す」だったら、文法上正しい。
「生かす」は他動詞だから、「~を生かす」は少しも問題がない。
だから、「今、いのちがあなたを生かしている」なら、日本語として自然である。
次に②だが、その例として、場所だと「山を越える」「列車が駅を通り過ぎる」、時間だと「昼休みをすごす」「長い年月を経る」など。
だから、
「あなたは今を生きている」
「いのちが今を生きている」
なら可。
「いのちがあなたを生きている」の「を」が②の意味だとしたら、「あなた」は場所や時間の意味を持つことになる。
つまり、「いのちがあなたという場を生きている」という意味になる。
「命」を国語辞典で調べると、「生物を生かしていく根源的な力。生命。」とある。
「いのちがあなたを生かしている」ということです。
今度は「生きる」を国語辞典で調べてみました。
「(「命を生きる」など、命を表す語を目的語として)一生を送る。やや文学的表現」
だから「あなたはいのちを生きている」という言い方は、やや文学的な表現なわけです。
もう一つ、「文学的な表現として「~に生きる」「~を生きる」の形で、生活の場所・場面・時間を示すこともある」と説明されている。
たとえば、「彼は山に生き、山を生きた」という文章だと、彼が生きた時間、生きた場所、彼の生き方、そういったものの象徴が山だということを表す。
だから、「私は阿弥陀のいのちを生きている」という文章なら、私が生きている内容は阿弥陀のいのちで示される、ということになる。
「あなたはあなたを生きればいいんだ」と言うことがある。
この場合の「あなたを生きればいい」とは、「~を生きる」という言い方で、生活の場所・場面・時間を示そうということだから、生そのものを表そうとしている。
だから、「あなたはあなたを生きればいいんだ」とは、
「あなたのままで生きればいい」
「あなたとして生きればいい」
「あなたという場で生きればいい」
といったことを意味する。
同じように考えると、「今、いのちが私を生きている」は、
「いのちが私として生きている」
「いのちが私なんだ」
「いのちが私となって生きている」
「いのちが今、ここで生きている」
「いのちが私という場で生きている」
というような意味を含んでいると理解できる。
というわけで、「今、いのちがあなたを生きている」というテーマは善意に解釈すると、「あなたのいのちはあなたのものではない」、「(阿弥陀の)いのちに生かされて、あなたは今、ここを生きている」、そして「あなた一人の力で生きているのではない」と言いたいのだと思う。
しかし、テーマとしてはあまりにもありふれている。
このテーマ、日本語として不自然だから、どういうふうにでも解釈できるという利点があるというのがねらいなのかもしれない。(もちろん、これは皮肉です)
原田正治『弟を殺した彼と、僕。』を読んだ。
腰巻きに「森達也氏(映画監督)絶賛!! 読み終えて吐息が漏れた。大事な本だ。そして凄まじい本だ」とある。
私も一読後、ふーとため息が出た。
原田正治さんの弟さんは1983年に殺された。
一年三ヵ月後に犯人が逮捕される。
上司だった。
保険金目当ての殺人で弟さんは殺されたのだ。
原田正治さんは弟を殺された自分の気持ち、そして被害者遺族としておかれた状況をものすごく率直に語られている。
まず、それに圧倒される。
小西聖子『犯罪被害者の心の傷』を読んで、ある程度、被害者の気持ちを理解しているつもりでいたが、少しもわかっていなかった。
原田正治さんは死刑廃止運動に関わっていく。
原田正治さんのこの言葉には恥ずかしくなった。
先日、原田正治さんのお話をうかがった。
原田正治さんは弟さんを殺され、犯人は死刑になったのだが、原田さん自身は「死刑は絶対に反対だ」と言われ、死刑廃止運動に取り組んでおられる。
「良い被害者」と「悪い被害者」があるんだと、原田正治さんは話された。
「良い被害者」とは、つらさ、苦しさを表に出さず、沈黙を守って、じっと耐える人である。
「悪い被害者」とは、自分の思いを声に出して語り、行動する人である。
被害者救済運動などを行う人も「悪い被害者」である。
だから、「金のためにやってるんだ」などと陰口をたたかれる。
まして、死刑廃止を訴える原田正治さんは「最悪の被害者」だから、さまざまな圧力があるそうだ。
原田正治さんは「無言電話にはまいりました」と話されたが、無言電話をして楽しいのだろうか。
「声を出す被害者は異常なんです」と、原田正治さんが言わざるを得ない状況のほうが異常だと思う。
しかしながら、つらい思いをしている人が「つらい」と声を出しにくいのは、日常茶飯事である。
例えば、家族を亡くした人が「思い出しては涙が出る」などと言うと、「いつまでも泣いてはいけない。元気を出しなさい」と善意の励ましを受けることになる。
だから、みんな何でもないような顔をしなくてはいけない。
これも異常な状況である。
そして、原田正治さんに、「どうすることが加害者の償いになるのか。被害者の救いとはどうなることか」とお尋ねしたところ、原田さんの返事は「わからない」だった。
そして、「加害者と面会したい。面会し、話をする中で、わかってくるのではないだろうか」と話された。
一人暮らしのおばあさんで、空き巣に入られた方がいる。
大したものは盗られていないのだが、「とにかく恐いんだ」と言われた。
留守中に泥棒に入られたらと思うと、外に出れないし、かといって、家にいる時にやって来られたらどうしようかと、これまた落ち着かない。
つまり、泥棒はおばあさんの安心を盗んだわけである。
おそらく、泥棒はおばあさんがそういう恐れを抱いていることは想像もしていないだろう。
おばあさんも、その恐れや不安を自分一人で抱えるしかない。
もしも、おばあさんが泥棒と会い、自分の気持ちをぶつけることができたら、償いと救いの第一歩が始まるのではないだろうか。
修復的司法である。
もちろん、そう簡単にはいかないだろうが。
岡村力『1リットルの涙』は、14歳の時に脊髄小脳変性症になり、だんだんと手足が動かなくなり、言葉が不自由になり、そして25歳でなくなった木藤亜也さんをモデルにした映画である。
木藤亜也さんが「私は生きたい」と言うシーンがあり、安楽死を求めた『海を飛ぶ夢』の主人公ラモンを連想した。
ラモンは26年間寝たきりだから、木藤さんと単純に比べるわけにはいかないが、どうして違うのだろうか。
などと考えていたら、大石法夫『生まれてよかったですか』の中にこういう話が出てきた。
大石法夫さんが小学校3年生のお孫さんから、
「人間は何のために生きているの」
と尋ねられる。
「野菊をだまって見ておるだけで、おじいちゃんの心によろこびをもたらした」
そして、
「何かのために生きているのではありません」
と大石法夫さんは答える。
それで思ったのだが、「何のために生きているのか」という問いは、問いの立て方が間違っているのではなかろうか。
私の大嫌いな飯田史彦といったニューエイジ・スピリチュアル信者は、生まれる前に自分で課題を選び、役割を決めて生まれてくるんだどというたわごとをほざいている。役割を終えたら、あるいは役割を果たすことができなくなったら、生きている価値がないということになる。
『海を飛ぶ夢』のラモンが「死にたい」と言うのは、そういう考えからきているのかもしれない。
「何のために生きているのか」ではなく、「生きているということはどういうことなのか」ということを問うていかないといけないと思う。
その答えは、「私が生きていること、そのことが一隅を照らしている」ということではないだろうかと考えた。
「私が一隅を照らす」ということだと、一隅を照らすことが私の役割となってしまう。
そうではなく、生きている、それ自体が一隅を照らしているんだろうと思う。
たとえば、野菊がそこに咲いていることで大石法夫さんは喜びを感じる。
ラモンがそこに存在していることが家族や知人を支えている。
ロサなんてラモンのおかげで生きる元気をもらっているようなものだ。
木藤亜也さんもそうで、もう木藤亜也さんはなくなっているけれども、しかし『1リットルの涙』を見て、難病物は嫌いじゃとアホにしていた私がこういうようなことを考えることができた。
もっとも、私が寝たきりになり、身体が動かせなくなった時に、死を願わないかというと、それは自信がないけれど。
(追記)
『海を飛ぶ夢』は↓に書いています。
http://blog.goo.ne.jp/a1214/e/5d8c8d3435ee6e647ce64d8b27e5d6fe
フロイトが12歳の時(1868)、街角で父親が帽子をたたき落とされたにもかかわらず、父親もフロイトもそれに反抗できなかった。
そして、ウィーン大学に入学(1873)しても、やはりユダヤ人であるための差別に苦しめられた。
で思ったのだが、外見だけでユダヤ人だとわかるか、それとも名前で判断するのだろうか。
私は中国人や朝鮮人を見ただけではわからない。
日本語でない言葉をしゃべっているから、ああ日本人じゃなかったのかと思うぐらいのことである。
『血と骨』や『パッチギ!』といった在日朝鮮人がテーマの映画では、朝鮮語が飛び交うが、出演する俳優の誰が日本人で、誰が朝鮮人か、これもわからない。
朝鮮語の発音で、そうかもしれないと想像する程度である。
ところが、欧米の映画を見ると、一見しただけですぐにユダヤ人とわかるらしい。
『イブラヒムおじさんとコーランの花たち』という映画、ユダヤ人の少年がトルコ人、すなわちイスラム教徒の養子になるという話だが、この少年がユダヤ人だとは私にはわからなかった。
トルコ人(なつかしや、オマー・シャリフです)が少年をユダヤ人だと言うので、ああ、そうなのかとわかった。
アカデミー賞の『ドライビング・ミス・デイジー』では、ジェシカ・タンディ扮する老女はパトロール警官から「ユダヤ人か」と蔑視される。
これも、えっ、そうだったのかと思った。
ところが、『バティニョールおじさん』という映画は、ナチス占領下のパリで、ユダヤ人の少年をスイスに逃亡させるというあらすじだが、このおじさんはユダヤ人の少年を自分の息子だとしてナチスの目をごまかす。
ということは、外見ではわからない場合もあるということか。
『ぼくセザール10歳半1m30cm』では、冒頭に葬式のシーンがあり、かぶっている帽子を見ると、セザール少年一家はユダヤ人だと思う。
話の筋からして、主人公がユダヤ人でなくてもかまわないと思うのだが、何か必然性があるのかもしれない。
欧米人は外見でユダヤ人だとわかり、ユダヤ人であることが特別な意味を持つのだとしたら、差別の根は深いとあらためて感じる。
(追記)
ジョン・カサベテス『アメリカの影』は黒人ではあるが白人と間違えられる三兄弟が主人公、ロバート・ベントン『白いカラス』の主人公は黒人であることを隠して白人として生きる。
ということは、黒人だとわからない人もいるわけで、では何を根拠に差別するのかと思う。
某氏がブータンへ行って感激したという話を聞いた。
ブータンでは、仏教が生活の隅々にまでいきわたっているそうだ。
たとえば、仏教寺院の前に国会議事堂というか、政府の官庁がある建物があり、大臣以下の役人は寺院の勤行をすませたあと、向かいの官庁へ出勤する。
私も一応仏教徒の端くれだから、仏教国には何となくひいきしたくなるので、そうか、そうか、ブータンはいい国だなと思った。
だけど、こうしたことがイスラム教国で行われていたらどうだろうか。
政教一致というのは怖いなと思うんじゃなかろうか。
日本だって、もし公明党が政権を取り、創価学会が日本の国教になったら、公務員はまず題目をみんなで唱えて、それから仕事ということになるかもしれず、そうなった時に日本は仏教国だ、よかったよかったと喜べるかというと、もちろんそうはいかない。
私はチベットが好きで、ダライ・ラマのファンである。
だけど考えてみれば、チベットは神政一致の国で、ダライ・ラマが政治と宗教のトップである。
おまけに、仏教では否定する生まれ変わりによってダライ・ラマがその地位につく。
ダライ・ラマは天皇と同じではないか。
天皇制が自然消滅したらいいなと考えていながら、ダライ・ラマはこれからも転生してほしいと望むのも矛盾した話である。
ブータンとは関係ないが、難病や寝たきりの人が真宗の教えに出会って、喜びの生活、感謝の日暮らしをする、という話がよくある。
そういう例があるからということで、真宗の教えは素晴らしいんだと説いたりするわけです。
だけども、信仰によって苦難を乗り越えたというお話は新興宗教でもいくらでもある。
というか、新興宗教はそれしかないと言ってもいいくらいだ。
ありがたい話は何かうさんくさく感じる私はひねくれていると自分でも思います。
平雅行『日本中世の社会と仏教』を読んで驚いたのが、顕密仏教では敵対者、その中には年貢を納めないものも含まれるが、そうした人に対して呪詛が行われたということである。
だからといって、こうした行為が仏教の慈悲の精神と矛盾するわけではない。なぜなら宗教領主にとって、寺敵を呪詛・調伏して寿命を奪うのは、我欲にかられた寺敵の煩悩を砕いて菩提へと導くための方便だからである。
彼らはまさに慈悲の精神にのっとって寺敵を呪詛し、神仏を恐れぬ愚かな民衆の罪業を制止したのである。
自分にとって敵対する相手や命令を聞かない人間は、生きていても悪業を作るばかりだから殺してもかまわない。
殺すことはこれ以上悪業を作らせないためだから慈悲なんだ。
これはオウム真理教のポアと同じ論理ではないか。
オウム真理教信者の言葉。
呪い殺すことを慈悲だと考えるのは、羽田野伯猷『チベット人の仏教受容について』によると、チベット仏教にもあって、呪殺ということが行われていたという。
11、12世紀だから、日本だと平安時代末から鎌倉時代の初め、つまりなぜか同時代なんですね。
度脱(呪殺によって人を度脱せしめ、仏国土へ導引する事業)と瑜伽(女性との性的結合)が行われていて、Vajrabhairavaというタントラが度脱に関する代表的聖典であり、呪殺による度脱を最たる目的としていた。
もっともこのタントラは、当時のチベット密教によってすらも外道の烙印を捺されていたそうだ。
Rwa翻訳官という「度脱においてはチベットにおける第一人者と称して差し支えない人物」がいた。
Rwa翻訳官は多くの僧や外道たちを度脱、すなわち呪い殺していたということで有名だったんだそうな。
Rwa翻訳官は
と言っている。
Rwa翻訳官に限らず、優れた僧とされていた者はこうした能力を有しているとされていたわけで、そういった呪力を持つ者が畏れられ、尊敬されていた。
これは日本でも同様なのではあるまいか。
こうした呪詛、ポアの論理を否定することは難しい。
彼らの考えだと、死んでも死後の世界に生ずるなり、生まれ変わるなりするわけだから、死んでも死なないということになる。
死そのものに大した意味を認めない、だから生を軽んじるんだと思う。
再びオウム真理教信者の言葉。
よく「現代の日本人は死んだらおしまいだと思っているから、今さえよければいいという考えでいる」と言う人がいる。
だけど、今さえ楽しければいいというので刹那的に生きている人なんて、ほとんどいないと思う。
死んだらおしまいという考えよりも、死後の生があるから死んでも死なないんだという考えのほうが、ある意味で問題があるんじゃなかろうか。
それよりも、かけがえのないたった一度きりの生を生きている、死んだらおしまいだからこそ、今を大切にしなければということを、子どもたちに教えるべきだと思う。
Rwa翻訳官は5人の瑜伽母を持ったが、晩年に12歳の娘を瑜伽母としたので、民衆が批難し、投獄されたということで、何となく笑ってしまう。
麻原にしろ、Rwa翻訳官にしろ、結局のところ単なるオジサンだったというわけです。
(追記)
Rwa翻訳官と呪殺については正木晃『性と呪殺の密教』に詳しく書かれています。
最近、電車などでよく目にする光景。母親の子どもに対する態度には、二つのパターンがある。
一つは、子どもが車内を走ったり、靴をはいたまま外の景色を見ていても、雑誌や携帯に目を向け、知らん顔の親。もう一つは、子どもの行動をつぶさに観察し、いちいち注意をする親。大きくわけると、子育てのパターンにはこの二種類あるのだろうか。
しかし、そのどちらの母親の子どもも行く末が心配である。放任された子どもは、時と場所を考えて自分の行動を使い分けることができなくなるだろう。強制された子どもは、いつも母親の顔色をうかがい、自分で判断することができなくなるだろう。
子どもには発達の段階に応じて身につけなくてはいけないことがある。適時性というのだろうか。その時期を見過ごしてしまうと身につくことが身につかなかったり、時期にあわないことを教えようとすると発達に歪みが生じることがある。
しっかり大人が抱き締めて育てる時期、手を離して見つめる時期、転んでも自分で歩かせる時期があることを知ってほしい。
最近の若者をみていると(こうした物言いはすでに私自身を見失っている物言いであるが)、自分のことが自分で決められない人間が多くなったように感じる。転ばぬ先の杖ではないが、失敗をさせない、失敗をゆるさないということが、子育ての中で大きなウエートをしめていないだろうか。
最近は、ほとんどが紙おむつ。濡れて気持ち悪いという感覚が赤ちゃんのころから育たなくなっているという。また、あまりにも汚れに敏感になりすぎた結果、あらゆるものにアレルギー反応を起こすようになってきた子どもが増えている。
環境ホルモンのせいだとか、社会の構造が子どもの発達に悪影響を及ぼしているとかいう。確かにそういったことが遠因ではあろうが、身近な子育てのなかに多くの原因があるように思う。
放任ではない自由、強制ではない矯正というバランスある子育てが求められている。
『コンスタンティン』は、神と悪魔が人間を自分のほうに、つまり天国と地獄に誘おうと競争しているという映画である。
普通の人には見えない悪魔の手先や天使が、なぜか主人公コンスタンティンには見える。
変なものが自分にだけ見えるわけだから、悩み苦しみ自殺をしたら、地獄に堕ちてしまった。
すぐに蘇生されたのだが、もう地獄には行きたくないというので、せっせと悪魔を地獄に追い返すという善行を積んでいるという話である。
自殺した人を教会で葬式はできない、自殺者は地獄に堕ちる、とはっきり神父が言うし、神と悪魔が対等という設定だから、これはキリスト教批判の映画なのか、キリスト教関係者から抗議が出ないのかと、早とちりして心配になる。
そこはハリウッド映画ですからね、大丈夫。
『ヨブ記』やゲーテの『ファウスト』みたいなもので、結局のところ、悪魔は神の手の上でやんちゃしているにすぎない。
神のおもちゃにされてしまうヨブの家族やベアトリーチェたちにとっては迷惑な話ではあるが。
ペドロ・アルモドバルはその点さすがである。
『バッド・エデュケーション』は徹底している。
主人公は神父にセクハラされ、10歳の時に信仰を捨てた。
その神父さんが少年時代の主人公を見つめるやるせない目つき!
そして『嘆きの天使』での教師(エミール・ヤニングスが何ともいえずよかった)を思いださせる神父の破滅型人生!
『海を飛ぶ夢』でもそう感じたが、スペインでは教会が映画に対する影響力を持っていないのだろうか。
『バッド・エデュケーション』の最後に、登場人物がどうなったかという説明がある。
これもぶっ飛んでいる。
どういうことかは映画を見てのお楽しみに。
そういえば『コンスタンティン』でもクレジットが終わってから、あるシーンがある。
いやはやハリウッド映画、さすがにそつがない。
私がハードカバーを初めて買った本は庄司薫の『赤頭巾ちゃん気をつけて』、中学3年の時だった。
『赤頭巾ちゃん気をつけて』はかなり評判になり、映画化もされた。
私は映画を見に行って面白かったので単行本を買ったのだが、こちらは読むのが一苦労だった。
読み直してみて、『赤頭巾ちゃん気をつけて』が直木賞ではなくて芥川賞を受賞したのももっともと納得した。
で、どうでもいいようなことですが、こんな文章があります。
なるほど、「女中」という言葉は昭和44年ごろから使われなくなったのか。
第2部である『白鳥の歌なんか聞こえない』には、
と恋人への思いを語っているのだが、これはやはりまずい。
「ヤブニラミ」「セムシ」「ビッコ」がマイナス価値の意味として使われているのだから。
といっても、そうした言葉は差別語だから使うべきではないと言いたいわけではない。
だいたい、「盲人」がよくて「盲(めくら)」(目が亡い)がダメ、「晴眼者」がよくて「目暗(めくら)」がダメというのは変だと思う。
先日、若林一美先生のお話を聞いたのだが、その中で、英米人は「死ぬ」をあらわす「die」という言葉が使うことはほとんどない、「kick the bucket(バケツをけとばす)」、「expire(満期になる)」とか、そういった言葉を使う、こうした死を意味する言葉は100ぐらいある、ということを話された。
そして、
と言われた。
死と同じように、言葉を置き換えても差別はなくならない、かえって言い換えることによって差別という状況を見なくなっている。
そういうことがあると思う。
平雅行『日本中世の社会と仏教』を読む。
『親鸞とその時代』はこの本の内容をわかりやすく書かれたものだが、論文をまとめた本だけに詳しく論証してある。
悪人往生、女人往生は法然、親鸞の専売特許かというとそうではなく、顕密仏教がすでに説いていたそうだ。
顕密仏教とはいわゆる旧仏教のことである。
宗派によって教義その他が大きく違っているわけではなく、いずれの宗派も顕教と密教を兼修していた。
鎌倉時代は、鎌倉新仏教、すなわち法然、親鸞、道元、日蓮といった人たちが新しく宗派を立てて、民衆のための教えを説いた、というイメージがあるが、実は新仏教の影響は驚くほど小さかったという。
有力寺社は領地を所有する宗教領主であり、権力を持っていた。
平安時代末から鎌倉時代の仏教、社会はそういう体制だった。
顕密仏教で説かれていた悪人往生、女人往生とは、「悪人のような者でも」、「女性ですら」救われるという教えである。
彼らは劣った存在であるにもかかわらず救済が約束されている、という差別構造となっている。
たちは慚愧の涙を流しておのれの罪を悔い、その贖罪とからの来世的救済を願って、あらためて神仏(宗教的領主)への奉仕へと邁進し、犯罪人の処刑など、宗教領主の最末端の暴力装置としての職掌に悲しいまでに励んでゆくのである。
階級、社会的弱者の救済を説きながら、差別体制を維持するような教え、これはインドのカースト制と同じ構造である。
またまた古田和弘先生のお話から。
これがどういう機能をしているかというと、実はインドの身分制度を固定してしまっているわけです。言い方が変ですけど、まじめに素直に虐げられておれば、必ず次の生ではいくらかよい条件に生まれるはずだと。そんなふうな期待をしているわけですね。
救いを説きながら実は差別を温存しているということ、これは、自分の問題なんだ、自分の心が問題を作っている、という形で、社会の不正に目をつぶるようなお説教はよく聞きます。
顕密仏教の説く救済論を法然・親鸞はひっくり返し、「悪人だからこそ」救われるんだと説いた。
これは体制の秩序を壊すことになるから、執拗に専修念仏への弾圧がくり返された。
専修念仏への弾圧の影響は大きく、法然門下は浄土宗を顕密仏教化、すなわち体制化していった。
だから浄土宗は諸行往生を説いている。
平雅行氏は親鸞も同じだったと書いている。
このあたり斬新な主張であり、批判を期待してのことだと思うので、もう少し詳しく説明してもらえたらと思った。
宗門の中では、親鸞の言っていることをすべて意味のあることとして何とか解釈しようとしているが、親鸞だって人間なんだからおかしいことも言うだろうし、年を取って耄碌したことを言ったかもしれない。
「自然法爾章」が親鸞の究極的到達点か、あるいは堕落なのか、気になるところです。