三日坊主日記

本を読んだり、映画を見たり、宗教を考えたり、死刑や厳罰化を危惧したり。

安楽死と仏教(1)

2020年08月30日 | 仏教
容疑者側に約150万円振り込みも ALS患者嘱託殺人
 全身の筋肉が衰える難病「筋萎縮性側索硬化症」(ALS)の女性患者から依頼を受け、京都市内の自宅で薬物を投与して殺害したとして、京都府警は23日、宮城県名取市でクリニックを開業する大久保愉一容疑者(42)=仙台市泉区=と、東京都港区の山本直樹容疑者(43)の医師2人を嘱託殺人の疑いで逮捕し、発表した。2人は女性の主治医でなく、SNSを通じて知り合ったとみられる。(略)
山本容疑者側の口座に林さんの側から150万円前後が振り込まれていたことも確認されたという。(朝日新聞2020年7月23日)


釈尊は安楽死についてどのように考えていたでしょうか。
ネットで検索すると、小池清廉「臨死問答と重病人看護」(2007年)と「初期仏典における痛悩者への対応」(2012年)という論文がありました。
http://ur2.link/SzYq
http://ur2.link/S7UQ

小池清廉さんは医師で、1960年代以来、知的障害者、身体障害者、精神障害者及びこれらの重複障害者や終末期患者等のための施設現場で従事すると同時に、仏典を学ぴながら医療倫理・生命倫理問題を考究しているそうです。

小池清廉さんは「臨死問答と重病人看護」の冒頭で以下のように問題提起しています。

本論は、目前に死が迫った重病人に、ブッダとそのサンガはいかなる対応をしたかを検証して、現代に通ずる思想があるとすればそれを明らかにし、現代人の死の受容や医療倫理に提示できるかどうかを確かめようとするものである。
今日の欧米では、自己決定権に基づく「死ぬ権利」が主張され、オランダ等では安楽死の法制化がなされ、またそのための運動が先進国で見られる。日本でも、一部で同様な主張がされているが、この思想の受容には抵抗する考えがかなりつよいといえよう。「死ぬ権利」の主張を中心とする生命倫理運動に対して、日本文化の一底流をなすと考えられる仏教思想は、批判的な問題提起ができるのではないかと筆者は考えている。


死期が迫っている比丘や信者に、釈尊たちはどのような対応をしたのでしょうか。

阿含・ニカーヤ及び律におけるサンガの対応は、大凡次の通りである。瀕死の重病人は、ブッダまたは仏弟子の来訪を仰ぐ。ブッダは重病人を見舞い、臨死説法を行なう。病人は、命終の前に教誡を受け、問いに答える。問いとは、無常、無我、無執着の確認であり、重病人といえども問いに答えている。かくして解脱を記別されて、命終、般涅槃するのである。

死が近づいた重病の比丘や優婆塞(在俗信者)は釈尊か仏弟子を招き、病床において最後の教誡を受けようとする。
釈尊や仏弟子は病床に赴き、病人を見舞い、病状を尋ね、病状は進む一方で、もはや助からないことを知る。

病人にとっての大問題は解脱できるかということである。
死の直前まで仏道の完成が要請されている。
苦痛が極まる瀕死の状態において、真剣な問答がなされる。
重病人である出家者は問いに答え、篤信の信者もそれらの問いに答えるか、または傾聴し、信者に相応しい行為をする。
そこで、その病人の命終がよいこと、すなわち輪廻がないことが告げられる。
釈尊または仏弟子が去って、病人は命終する。

優婆塞にも真摯な臨死問答が行なわれている。
給孤独は重患に陥ったので、舎利弗を招いた。
舎利弗は給孤独が病状回復の見込みのないことを知って、六根、六識、五蘊、両世等への執着がないかどうか教誡する。
これは比丘に対する説法であり、初めて聞いたことに給孤独は感泣した。
在家信者への通常の説法はどういうものだったのか気になります。

釈尊は重病人の看護について、サンガの責任において比丘が病気の比丘の看護を担当することを定めた。
重病人看護はサンガの成員である出家者にとって大切なつとめとされた。
そして、終末期であっても看護を続けるべきだと説き、看護放棄を禁止した。
諸律は、医薬、住居、食養、身体の清潔保持、大小便の世話などについて、かなり丁寧に指示している。

とはいえ、介護をめぐり、病人に対する看病比丘の不適切な行為や看病放棄、病比丘の身勝手な療養態度が少なくなかった。
律には、看護困難な病人は療養態度が悪く、利己的で、苦痛に耐えられない、そうでない病人は看護が容易であるなどと記述されている。
また、不適切な看護者とは、薬を作れない、病状を理解できない、欲のために看護して慈悲の心がない、汚物を除くのを嫌がる、法を説いて病人を喜ばせることができないとしている。

・腹病を患って看病されることなく、自身の大小便の中に浸かって臥していた比丘がいた。釈尊は重病比丘を助け起こし、阿難とともに病者の身を拭い、身の回りの世話をされた。比丘たちに「なぜ看護しないのか」と問うと、「この病比丘は他の比丘の看護などをしなかったからだ」と答えた。

・長らく病んでいる比丘の看病人は「長い間看病して来たが、病比丘は死ぬことも治ることもなさそうだ、今は看護できないから、置き去りにして死ぬようにしよう」と思った。それから間もなく、病比丘は命終した。

小池清廉さんは「綺麗事でないサンガの現実を垣間見る思いもする」と書いています。

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一殺多生(4)

2020年08月20日 | 仏教

一殺多生とは、一人を殺すことで大勢を生かすという意味だけでありません。
謗法や殺生などをしようとしている人を殺すことで三悪道に堕ちることを防ぐという意味があります。(その代わりに殺人という業を自分が背負わなければいけない)
だから、一殺多生は慈悲行だとされるのです。

オウム真理教は一殺多生という言葉を使ってはいないと思いますが、教義の中に取り入れています。
それがポアの論理です。
広瀬健一『悔悟』では、ポアをこのように説明しています。

「ポア」とは、対象の命を絶つことで悪業を消滅させ、高い世界に転生させる意味です。


佐々木閑「仏教からみた持続的組織論」では、ポアについてこのように話しています。
https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/192433/1/LCS_4_10.pdf

同じことは仏教のお経にも書いてあります。ずいぶんあとの時代の密教のお経の一部に、「菩薩の道として、悪業を積む者を自分の身を犠牲にしてでも殺して止めてやる」と書いてある。しかし、だからといって密教が殺人集団になることはありませんでした。ということは、教えに問題があるのではなく、オウム真理教の組織運営に問題があったということです。オウム真理教と仏教とを比べて明白なのは、オウム真理教には律がなかったことです。してはいけない最低ラインを決めた客観的な法律がなかったのです。


殺生是認論は三浦和浩「『立正安国論』における「釈迦の以前」と「能仁の以後」に関する一考察 仏典に見られる殺害肯定記事をめぐって」に、『涅槃経』『大宝積経』『大方便仏報恩経』などの大乗経典から引用されています。
また、「大正新脩大蔵経の学術用語に関する研究 仏教における「善き生き方」の探求」によると、『倶舎論』や密教経典の『理趣経』『大日経』などにも説かれています。
https://00m.in/5nRGm

チベット仏教には呪殺という考えがあり、実際に敵対する人を殺す僧侶がいました。
https://blog.goo.ne.jp/a1214/e/a5804d7d0e9183226d9636884b002bed

平雅行『日本中世の社会と仏教』に、顕密仏教では敵対者(年貢を納めないものも含む)に対して呪詛が行われたとあります。

領主への敵対という世俗的行為を宗教的悪業へと転化させ、反逆者は神仏の怨敵として現当二世にわたる仮借ない仏罰神罰を受けることになる。しかも下知に従わない者への呪詛すら行われている。
だからといって、こうした行為が仏教の慈悲の精神と矛盾するわけではない。なぜなら宗教領主にとって、寺敵を呪詛・調伏して寿命を奪うのは、我欲にかられた寺敵の煩悩を砕いて菩提へと導くための方便だからである。
彼らはまさに慈悲の精神にのっとって寺敵を呪詛し、神仏を恐れぬ愚かな民衆の罪業を制止したのである。

保立道久『中世の女の一生』に、鎌倉時代、下人の女が恋愛相手に呪詛を僧侶に依頼したと書いてあります。
もっとも佐々木閑さんは、日本の教団は戒律がないからサンガもない、だから釈尊が説いた仏教と日本の仏教とは全然違うと言われてますが。

一殺多生やポアの前提となるのは、六道輪廻と業(カルマの法則)の思想、すなわち業によって六道のどこに輪廻するかが決まるという考えです。
そして、対象者のカルマを見極める能力が必要です。

広瀬健一さんによると、「麻原は人のカルマの状態を見極め、これを効率的に浄化する指導ができる」とされていたそうです。

麻原は「神=救済者」といえる存在でした。カルマを滅尽した最終解脱者であり、苦界に転生する運命にある私たちのカルマを浄化し、私たちを幸福な世界への転生、ひいては解脱に導くことのできる「神通力」を具有するとされていたからです。
その神通力のなかには、仏教において解脱者に備わるとされている「六神通」がありました。六神通とは、天眼通(遠隔透視)・天耳通(遠隔透耳)・神足通(空中浮揚)・他心通(読心)・宿命通(自他の前世・来世を見通す)・漏尽通(人の煩悩の状態を見極める)の六つの能力のことです。この宿命通・漏尽通などを駆使して、麻原は人のカルマの状態を見極め、これを効果的に浄化する指導ができるとされていました。
さらに麻原は、私たちに「エネルギー」を注入して最終解脱状態の情報を与え、また私たちが蓄積してきたカルマを背負う―つまり、カルマを引き受ける―とも主張していました。このようなカルマの移転を、「エネルギー交換」あるいは「カルマの交換」といいます。


阿羅漢の位になると、三明といって、3つの神通力を持っているとされます。
・宿命明 自分と他人の過去世の状態を知る智慧
・天眼明 自分と他人の未来世の状態を知る智慧
・漏尽明 煩悩を断って迷いのない境地に至る智慧
仏や菩薩は衆生が作ってきた業と、その業報としてどこに輪廻するかがわかるのです。

安世高(後漢の訳経僧)は、前世で首を切られて死んだが、それはさらにその前世における罪の報いだと語っています。
前世で自分を殺した少年を探しだすと、少年は以前に犯した罪を悔いる。
そして、少年と会稽へ行き、市場に入ったとたん、安世高は喧嘩のまきぞえをくって一命を落とした。
安世高は業がいまだに尽きていなかったために、現世でも殺されたと『高僧伝』にあります。
安世高は過去世の業を知っていましたが、どこに輪廻したかは『高僧伝』に書かれていません。
https://blog.goo.ne.jp/a1214/e/0cd7b6afb780434b0616ebfa99436834

オウム真理教では麻原彰晃は業と業報を見極める力があるとされていました。
そして、殺生したことによるカルマを引き受ける能力が麻原彰晃にあると信者は信じていました。
『涅槃経』に仏や菩薩の謗法者の殺害は罪にはならないとあります。
最終解脱者と自称する麻原彰晃は信者にとって仏です。
オウム真理教を批判する人は謗法者だから、殺生は慈悲だという理屈でした。

一殺多生の理屈は拡大解釈され、明治以降は日本軍兵士が敵を殺すことは菩薩行だとされました。
日露戦争での太田覚眠(西本願寺布教僧)と乃木希典大将との会話。(太田覚眠「乃木大将の一逸詩」『大乗』1933年6月)
乃木「従軍僧は此光景を如何に見らるるか?」
太田「まことに残酷な事であると思ひます、併し一殺多生です、大なる平和を得んが為めには忍ばねばならんのでしょう、一殺多生は菩薩の行です、菩薩行を為て居らるるのでしょう」
乃木「一殺多生菩薩行、真によい言葉じゃ」
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/kaihou61/kai06103.html

敵を殺すことは菩薩行だから、兵士は菩薩です。
暁烏敏「時局に対する我等の覚悟」1937年8月

私は戦場に行く人を菩薩の行を行ずる人である、神仏の活動をする人であると思うときに、合掌礼拝せずにおられない。

命を奪うことは本人のためであり、社会のためでもあるという一殺多生の論理は、死刑や安楽死とも関係していると思います。

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一殺多生(3)

2020年08月10日 | 仏教

三浦和浩「『立正安国論』における「釈迦の以前」と「能仁の以後」に関する一考察」に、有徳王と仙予王(仙預王)が仏教を誹謗する婆羅門を殺したという『涅槃経』の記述を、このように要約してあります。
http://u0u1.net/j0Wy

『涅槃経』には、覚徳比丘を護る為に武器を持って謗法者と戦った有徳王の故事や、仙予王による謗法者(婆羅門)殺害の故事、あるいは釈尊の前生(国王)における婆羅門殺害などが説かれている。これらの殺害行為の結末がどのようであったかと言えば、有徳王は阿閦仏国土に往生して仏の第一の弟子となり、また仙予王はそれ以来地獄に堕ちることがなかったというのであるから、『涅槃経』においては正法を護持する為の武装、あるいは謗法者の殺害については、それを積極的に肯定しているものと捉えることが出来る。


この問題について迦葉菩薩が、菩薩が我が子を愛するように一切衆生を救済するならば、どうして如来は前世に国王として菩薩の修行をしていた時に婆羅門の命を断絶したのか、そしてどうして地獄に堕ちないのかと、釈尊に質問をする。
この問いに対して釈尊はこのように答えている。

どうして婆羅門を殺すようなことがあろうか。菩薩は様々な方便を用いて衆生に無量の寿命を恵施する。菩薩は六波羅蜜を行じて衆生に無量の寿命を恵施するのであるから、菩薩が衆生の命を奪うということは無いのである。(略)
大乗を誹謗した婆羅門を殺害したことで、結果的に彼らの寿命を延ばしたのであり、その意味ではこれは「殺」にはあたらない。


南岳慧思『法華経安楽行義』には、正法護持のためには必ずしも軟語によらず、仙予王や有徳王の警えのように、謗法の婆羅門や悪比丘を殺害して、結果として彼らの寿命を延ばすなどの功徳を与えた場合もあることを指摘している。

論書でも菩薩の殺人を肯定しています。
弥勒『喩伽師地論』には次のようにあります。

若し諸の菩薩、菩薩の浄戒律儀に安住すれば、善権方便にして利他の為の故に、諸の性罪少分現行するに於て、是の因縁に由りて、菩薩戒に於て違犯する所なく、多くの功徳を生ず。謂く菩薩、劫盗賊の財を貪らんが為の故に多くの生を殺さんと欲し、或いは復た大徳の声聞独覚菩薩を害せんと欲し、或いは復た多くの無間の業を造らんと欲するを見るが如し。是の事を見已りて発心し思惟す。我れ若し彼の悪衆生の命を断たば、那落迦に堕つ。如(も)し其れ断たざれば、無間の業成じて当に大苦を受くべし。我れ寧ろ彼れを殺し那落迦に堕つるも、終に其をして無間の苦を受けしめざらんと。是の如く菩薩意楽し思惟し、彼の衆生に於いて、或いは善心、或いは無記心を以って、此の事を知り已りて、当来の為の故に深く慚愧を生じ、憐愍の心を以って、而も彼の命を断ず。是の因縁に由りて、菩薩戒に於いて違犯する所なく、多くの功徳を生ず。(もし菩薩戒をそなえている菩薩が、他者を救済する目的において罪を犯すことがあったとしても、それは戒律を犯したことにはならず、むしろ多くの功徳を生ずることになる。例えば物ほしさに多くの人を殺そうとしている盗賊がいて、それを見た菩薩が、「私がこの悪人を殺せば私は地獄に堕ちる。もし彼を殺さなければ彼が地獄に堕ちる。私はむしろ彼を殺して私が地獄の苦しみを受けることで彼を地獄に堕ちないようにしようと思う」と考えて、憐れみを以てその悪人を殺した場合、それは戒律を犯したことにはならず、逆に多くの功徳を生ずる)


望月信亨『仏教大辞典』の「殺生戒」の項に、「古来、一殺多生の説と称せらるゝ所なり」とあります。
古来というのがいつ、どこなのかわかりませんが、能『鵜飼』には一殺多生という言葉が使われています。

岩落と申す処は上下三里が間は堅き殺生禁断の処なり。鵜使多し。夜な夜な忍び上つて鵜を使ふ。何者なれば堅き殺生禁断の処にて鵜を使うらん。(略)狙ふ人々ばっと寄り。一殺多生の理に任せ、かれを殺せと云ひ合へり。(岩落は上下三里の間が殺生を禁じられている。鵜使いが多い。夜毎、忍んで鵜を使う。何者が殺生禁断のところで鵜を使うのか。狙っていた人々がばっと寄り、一人殺して多くを生かすという道理にまかせ、「彼を殺せ」と言い合った)

室町時代初期に、一殺多生の意味を多くの人が知っていたわけです。
鵜使を殺すことがなぜ一殺多生なのか。
魚を生かすことになるからか、鵜使に殺生を犯させないためか、どっちでしょうか。

無着『摂大乗論本』には、菩薩行として次の記述がみられる。

諸の菩薩は是の品類の方便善巧に由りて殺生等の十種の作業を行ずるも、而も罪有ること無く、無量の福を生じて速かに無上正等菩提を證す。(菩薩の殺生は過失がなく無量の福を生み、速やかに菩提を得る)


三浦和浩さんは「釈尊の前生における衆生救済の為の方便としては殺害行為も許容されるものと考えられる」と書いています。
単純に「婆羅門は一聞提であるから殺されても構わない」ということではない。
殺生を是認するというのは仏菩薩の場合に限って説かれている。
殺生という行為が衆生に許される説示例はない。
多くの人の命を奪おうとしている悪人について、菩薩が憐れみの心をもってその悪人の命を断っても罪にはならず、むしろ功徳になる。
菩薩の殺害行為の動機は、殺されようとしている多くの衆生の命を救うという意味での慈悲の心によるのみならず、悪人が堕地獄することを防ぐという慈悲の心が存するのである。
菩薩の殺生は智慧と慈悲による菩薩行の一面であり、菩薩の衆生救済という利他行を指すものである。
謗法の婆羅門の寿命を延ばすということにこそ、『涅槃経』の主張の本質があると考えることができる。

つまり、仏法を誹謗することは大罪だから、殺害することで三悪道に堕ちることを防ぐ、すなわち救済だというわけです。
殺人を救済であり、慈悲行であるという考えは、オウム真理教のポアと同じ理屈だと思いますが、三浦和浩さんもオウム真理教には触れていません。

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