三日坊主日記

本を読んだり、映画を見たり、宗教を考えたり、死刑や厳罰化を危惧したり。

司馬史観の功罪

2011年01月29日 | 

高橋秀美氏の本は面白くてためになる。
東海林さだお氏のエッセイを思わせる脱力系の文体に、とまどいながらの突っ込みの深さ。
それと幅広い視点。
さりげなく『公務員研修教材(第4分冊)』や『山鹿素行禅宗思想篇』などから引用しているんですからね。
高橋秀美『趣味は何ですか?』は趣味の世界について。
趣味も楽ではなくて、たとえばひたすら飛行機のマイレージのマイルをためるマニアの中には、マイル数を稼ぐために用もないのに東京―八丈島を何往復もする人がいるそうで、これを「修行」という。
某氏にこの話をすると、某氏はよく知っていて、某氏の知り合いは大阪から福岡に行くのに、大阪から小松、小松から羽田、羽田から福岡というふうにしてマイルを稼ぐんだという。
『マイレージ、マイライフ』の主人公もマイレージをためるのが生きがいだが、これは仕事と趣味が両立しているので、「修行」とは困難さにおいて格段の違いがある。

それとか、世の中には「趣味が龍馬」という人も少なくなくて、高橋秀美氏はその人の話の合間に司馬遼太郎『竜馬がゆく』から「天性の怜悧さと重厚さを兼ねているめずらしい人物」と引用している。
わざわざ『竜馬がゆく』を読んで調べたのだろうか。
で、高橋秀美氏は「史実によれば、幕末の頃には彼のように藩の利害を超えて開国に奔走した豪商出身の「草莽」たちは無数におり、彼がいてもいなくても歴史はあまり変わらなかったように思える」と、龍馬ファンにはいささかがっかりするようなことを書いている。

私は司馬遼太郎ファンではないが、日本人の歴史観は司馬遼太郎氏によって形作られたと言ってもいいのではないかと思う。
司馬遼太郎氏の本を読むと、歴史のこと、社会のこと、日本人のことなどわかった気になりますからね。
多くの人が持つ明治という時代のイメージは『坂の上の雲』によって作られたと思う。
中村政則『『坂の上の雲』と司馬史観』は司馬史観を批判していて、偏屈な私としては読まずにおれない。

司馬遼太郎氏は神聖化、絶対化されていて、
「司馬作品に出てくる司馬遼太郎の過剰表現、勘違い、作為を明確に指摘する評論家はほとんどいない」と、中村政則氏は厳しいことを言う。
「要するに、司馬を論じた九割以上はオマージュ(司馬礼賛)で埋め尽くされているのが現状だ」
『坂の上の雲』にしてもこんなふうに一刀両断。
「いわば風呂敷を広げすぎ、筆が走りすぎているのだ」
「悪い癖が出て、オーバーな表現が頭をもたげる」
「要するに、『坂の上の雲』は安心史観をベースにしたエンターテインメントの性格が濃厚なのである」
『坂の上の雲』は小説であって歴史書ではないのに、読者のほうでこれが歴史的事実だと思い込んでしまっているわけだ。

日露戦争についても、司馬遼太郎氏は「日露戦争は「祖国防衛戦争である」というテーゼを繰り返し書く」が、これは間違いだと中村政則氏は言う。
「司馬遼太郎によれば、ロシアは18世紀以来、満州・朝鮮を自己の支配下におこうという野望を持っていた。隙あらば、日本を占領し、支配したがっていた。これに対して、日本は対露恐怖の感情で怯え、反感を持っていたという」
外圧には主観的外圧と客観的外圧があって、
「司馬には主観的外圧を強調する傾きが強い
たとえば『坂の上の雲』のこういう文章(中村政則氏が引用したものの孫引き)。
「ロシアは後世の史家がどう弁解しようと、極東に対し、濃厚すぎるほどの侵略意図をもっていた」
「ロシアの態度には、弁護すべきところがまったくない。ロシアは日本を意識的に死へ追いつめていた。日本を窮鼠にした。死力をふるって猫を噛むしか手がなかったであろう」
ところが、中村政則氏に言わせれば、
「最近の日本外交史や日露戦争史では、ロシアの侵略性をこれほど過度に強調はしない」とのことで、「ロシアには日露戦争を断固主張する強硬派はいなかった」そうだ。

朝鮮についても『坂の上の雲』にはこのように書かれている(これも孫引き)。
「韓国自身、どうにもならない。李王朝はすでに五百年もつづいており、その秩序は老朽化しきっている」
「要するに日清戦争は、老朽しきった秩序(清国)と、新生したばかりの秩序(日本)とのあいだにおこなわれた大規模な実験というような性格をもっていた」
中村政則氏によると、歴史家だったらこういう単純化した書き方はしないそうだ。
他にも、乃木大将やロジェストウェンスキー提督を無能として批判している間違いなどを中村政則氏は指摘しているが、省略。

中村政則氏は、
司馬遼太郎氏の「最大の問題は「明るい明治」と「暗い昭和」という単純な二項対立史観にある」と言う。
明治まではよかったが、昭和になってから、というあれである。
日露戦争の勝利を境に「帝国主義という重病患者」になった、と司馬遼太郎氏は考えているために大正の評価が低い。
「明治と昭和の間にそれほど大きな非連続や断絶を置くことはあまりに単純である」
「たんに「明るい明治」「暗い昭和」といった文学的かつ二項対立的な把握でとらえられるほど日本の近現代史は単純ではないのである」
まあ、単純なほうがわかりやすいのは事実だが、わかりやすさと事実とは別である。

「司馬の美学が歴史の事実の選択を恣意的で、作為的なものにした。日本人にとって辛くて暗い事件は意識的に切り捨てようとした。それを書けば、読者が逃げる、読者を満足させることができないということを彼は知り抜いていたのである」
たとえば、日露戦争と朝鮮問題が不可分な関係にあることを司馬遼太郎氏は触れない。
孫文やネルーは「日本が日露戦争で勝ったことはアジア人に大きな希望と勇気をあたえたと高く評価している」が、朝鮮を植民地化したことには批判している。
ネルーは「日露戦争のすぐ後の結果は、一握りの侵略的帝国主義のグループにもう一国を加えたというに過ぎなかった。その苦い結果をまず最初になめたのは朝鮮であった」
孫文は「日本が朝鮮併合の挙に出てアジア全域の人心を失ってしまった」

司馬遼太郎氏の小説はフィクションとして楽しめばいいわけだが、藤岡信勝氏のように自分の都合いいように司馬遼太郎氏を利用する人がいるから、中村政則氏がこんな本を書くようになったわけで、まあ、ややこしい話です。

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

佐藤純彌『桜田門外ノ変』

2011年01月25日 | 映画
「週刊文春」の映画評で、品田雄吉氏は『桜田門外ノ変』を星4つにしていた。
品田雄吉氏を信頼している私としては期待したのだが、イマイチでした。


私は桜田門外の変はテロだと思うのだが、過去の出来事を今の視点で裁くのは間違いで、単純に決めつけるべきではない。
しかし、映画の冒頭とラストに国会議事堂のショットがあり、これは幕末と現在の日本の状況をだぶらせ、現在の日本が幕末と同じ危機的状況にあると訴えたいではないかと思う。
となると映画の製作者は、政権の座にいる者を暗殺することで政治を変えようとする桜田門外の変はテロだと認識していると、まずは想像する。
だが、映画を見ると、テロの危険性よりも、憂国の士よ、立て、という感じなのである。

映画の中でこういうセリフが何度も出てくる。
「世の中を変えなければ日本は滅びる」
「ともに手をたずさえてこの国をただそう」
「この国を救う道はない」
原作の吉村昭『桜田門外ノ変』には「国」とはあっても、「この国」とは書かれていない。
「この国」という言葉、司馬遼太郎がはやらしたんじゃないかと思う。
「国」か「日本」と言えばいいのに、わざわざ「この国」という言い方をするのは何かいやである。
そして、井伊大老暗殺の中心人物である関鉄之介を匿う大庄屋は、関鉄之介たちを烈士とたたえ、「国家のため、大義のため、何もかも捨てた」とほめる。
彼らは国を憂えて行動したことになっている。
ところが、原作にはこのセリフもない。

原作を読むと、水戸藩の儒者である会沢正志斎や豊田天功は尊皇攘夷論者だったが、「井伊大老を斃して幕政を改革するという企ても、無謀きわまりないものであるという考え方に変わっていた」とある。
そして、井伊大老暗殺の決行をせまる薩摩藩士に「それを全く愚かしい考え方だとして怒声すら浴びせかけた」と、吉村昭氏は書いている。
「さらに、会沢と豊田は、攘夷論についても修正する必要があるとして、高橋らが唱える攘夷論を危険視した。異国との軍事力の差はきわめて大きく、武力で対抗すれば日本は異国の圧力によって領土を侵害され、朝廷の消滅にもむすびつく、と、深く憂慮の念をしめした」
事実、会沢正志斎は慶喜に開国論を説いた書を提出している。
ところが、水戸藩の急進派(武士だけではなく領民も)は徳川斉昭や藩主(斉昭の息子)の命令すら聞かなくなる。
そうして井伊大老を暗殺し、天狗党の乱を起こし、水戸藩の内部抗争によって結局は中心的な人がほとんど死んでしまった。
そういった背景は映画では説明されていない。

尊皇攘夷の志士たちは日本の未来を真剣に考えていたのだろうが、私はあまり好きではない。
私は高校生のころ、井伊直弼は吉田松陰たち志士を殺した悪党だと思っていた。
映画でも井伊直弼は悪役として描かれているし、通商条約を結ぶよりは戦うべきだと主張する徳川斉昭は名君ということになっている。
だけど、あの時点で開国することは正しい選択だしり、攘夷で突っ走っていたら日本は植民地化されていたと思う。
また、尊皇とは神武創業のいにしえに復古するのが目的なのだから、原理主義である。
つまり、攘夷の志士というと聞こえがいいが、彼らは原理主義者のテロリストである。
テロリストはみんな国や民族、宗教のためを思っている。
しかし、国の現状を憂いているから何をしてもいいというわけではない。
彼らは目的のためには手段は問わないし、自分と違う考えの存在を認めない。
暴力で問題を解決するという点では、近ごろなまいきだから、というのでリンチするのと同じ発想である。

吉村昭氏は『桜田門外ノ変』のあとがきに、
「桜田門外の変と称される井伊大老暗殺事件が、二・二六事件ときわめて類似した出来事に思える。この二つの暗殺事件は、共に内外情勢を一変させる性格をもち、前者は明治維新に、後者は戦争から敗戦に突き進んだ原動力にもなった、と考えられるのである」
と書いている。
関鉄之介たち攘夷論者が井伊大老を暗殺したのは、「幕府に敵対するものではなく、幕政を正道にもどす目的」だった。
ところが、水戸浪士が起こした桜田門外の変、つづく坂下門外の変によって幕府の威信は地に落ちた。
「水戸学の尊王攘夷論は、朝廷を尊崇することによって人心の統一をはかり幕府の政治力を強化して外圧に対抗することを目的にしたが、一変して、尊王倒幕論となったのである」
関鉄之介たちの行為が結局は幕府を崩壊させ、開国へ後押しすることになった。
同じように、二・二六事件の将校たちも日本を敗戦、軍隊解散へと導いたという皮肉。
共通点がもう一つあって、浪士と将校は捨てられた。
施政者は自分の地位を脅かす怖れのあるものには敏感だから、テロを認めると次は自分がテロの対象になるかもしれないことを怖れたのである。

原作には関鉄之介の行動が細かく描かれているのが不思議だったが、日記が残っているんだそうだ。
吉村昭氏は関鉄之介の孫にも会って話を聞いてる。
子孫がどうなったのか、単なる好奇心なのだが、気になるものである。
関鉄之介の子供が無事に成長したと知ってホッとした。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『ホメオパシー セルフケアBOOK』

2011年01月21日 | 問題のある考え

中村裕恵監修『ホメオパシー セルフケアBOOK』を見て、ますますホメオパシーは怪しいと思うようになった。
ホメオパシーは1796年、ドイツのハーネマンによって編み出された。
なのに、ドイツでは「抗生物質全盛期の10年前に比べると、ホメオパシーの認知度は上がり」とあって、歴史のわりには認知度が低いということなのだろう。
だけども、ドイツ、フランス、イギリスでは薬局で当たり前のようにレメディが買えるとも書いてあるし、どういうことなんでしょうね。

レメディの作り方。
「原材料から抽出した母液(マザーティンクチャー)を、アルコールと水の混合液を使って、希釈(薄めること)、振とう(振ること)を繰り返し、極微量にまで薄めた超希釈物質がレメディになります。
その成分を解析しても原材料の分子はほとんど、あるいは全く存在しない超ウルトラ級の薄さです。物理的に見れば、ただの水または砂糖粒(乳糖)でしかないこの超微量の薬が、なぜさまざまな病気を癒すのでしょう」
「希釈と振とうを行うほど物質の毒性は消され、また、心身を癒し回復させる効果が高くなる」

イギリスの製薬会社エインズワースでは、アルコールと蒸留水の混合液にマザーティンクチャー(原材料から抽出した母液)を1滴入れ、その液を聖書に強く叩きつけて振とうする。
「聖書に」ですよ。
「聖書の表紙は擦り切れていた」という説明の写真には、たしかに擦り切れた聖書が写っている。
本気だったら怖い話です。

↓も一般人ならひいてしまう。
「エインズワースでは3500種類のレメディが作られ、毎日新しいレメディが生まれています。たとえば、精神的に閉じ込められた人に効果があるベルリンの壁から作ったレメディなど、ホメオパスからの注文によってユニークなレメディもいろいろ生まれてます」
「ベルリンの壁」=「精神的に閉じ込められた」ということらしいけど、「精神的に閉じ込められた」状態とは閉所恐怖症のことなのだろうか。
ベルリンの壁が何を象徴しているか、それは人それぞれ違うわけで、自分が、このレメディはこれに効く、と思えば効果があるというわけで、つまりは偽薬効果だということである。

「実際、レメディに効果があることは科学的にも証明されています。フランスの科学者・ベンベニスト博士が、1980年代に、超希釈されたレメディの溶液が元の分子の作用を伝えることを実験で明らかにしています。また、レメディがなぜ効くかを説明するのに、
「水が記憶する」という仮説は、ホメオパシーの世界でも広く支持されています。原液の分子の特性が、薄める溶液の水の分子により記憶され、伝えられるというのです」
トンデモ説や疑似科学によって証明されたと言われてもね。
でもまあ、帯津良一氏の言ってる「薬の霊魂」よりは「水の記憶」のほうが科学的という感じはするけれども。

「(ホメオパシーは)肉体的な健康状態だけではなく、「物事に対して明るい見方ができるようになった」「体だけでなく心も軽くなった」「睡眠の質がよくなった」などという精神の健康状態の改善の報告もよく聞かれます」とのことで、監修者の中村裕恵医師もこう書いている。
「不登校に悩んでいた中学生の男子が、カルシノシンというレメディで体調が改善し約1年の経過で完全復帰したケースやアルコール依存で悩む糖尿病の男性がナックス・ポミカで大きく改善したケースを経験して、ようやくホメオパシーの実力を実感するようになりました」
アルコール依存症は現代の医学では治らない病気である。
不登校やアルコール依存症がレメディで治ったのなら、全国の悩める人たちの福音なのだが、ご存じない方が多いのは残念です。

なぜホメオパシーで心身の病気が治るのか。
「ホメオパシーでは、生命と健康を支配しているダイナミックなエネルギーを、バイタルフォースと呼んでいます。バイタルフォースは東洋では「気」(略)と呼ばれている生命エネルギーの概念と、相通じるものだと考えられます。
バイタルフォースは、常に外部からの影響(ストレス)に対応して健康を保とうとしていますが、ストレスが大きすぎてバランスをくずすと、ストレスに反応しやすくなり(感受性が高まり)、症状(病気)が現れ始めます。そこでバイタルフォースは、個々の内部の最も奥深い重要な部分を守るため、症状を体の外側へ発散させます。つまり病気のさまざまな症状は、バイタルフォースが体を守ろうと働いている証しなのです」

はいはい、そうですか、というお話だが、フラワーエッセンスというのもあって、これはホメオパシーよりもそそるものです。
フラワーエッセンスはイギリスのバッチ博士によって開発された。
「バッチ博士は、人が病気になる根本的な原因は心の不調和にあると考え、その不調和を癒す薬を植物に求めました。そして、日が当たる場所から集めた花の露に癒しの効果があることを発見し、1930年にフラワーエッセンスを開発しました。実際には、クリスタルのボウルに天然水を入れて花びらを浮かべ、かげりのない太陽光のもとに静かに数時間置いて、花のエネルギーを水に転写するという製造法を用います」
ネットで「フラワーエッセンス」で検索したら、あるわあるわの大盛況。
これで生計を建てている人が少なからずいるというのは、ほんと不思議だし、医学博士といってもこんなものかという冷めた気持ちにさせていただきました。

ホメオパシーを学ぶ学校が日本にもあって、『ホメオパシー セルフケアBOOK』で紹介されている。
インターナショナル・アカデミー・オブ・クラシカル・ホメオパシー日本校は、年4回(12日間)を4年間、350時間の日程で、入学金185,000円、受講料750,000円×4年間(税別・ギリシャでの受講費含む)。
ハーネマンアカデミー日本校も4年間、月一回程度の土・日曜の週末授業が年間20日間と課題の自宅学習で、入学金15万円、年間授業料77万円だから、1日当たりの授業料は38,500円ということになる。
学費が高いのに驚いた。
どうしてそんなに高いのかの説明はない。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『「心の専門家」はいらない』『心を商品化する社会』4

2011年01月18日 | 
心のケアとは、日常の人の関係重視よりも、手軽な関係技法の習得を、という考え方なんだそうだ。
小沢牧子氏は心の専門家による心の癒しではなく、日常生活での関わりの重要さを指摘する。
「安心できる日常の関係を復活させていく道のりを模索することが、どの場にも何より重要であることは明らかだ」
日常生活の中での関わりこそが大切であり、専門家は必要ない、とまで言い切る。
人は心だけでなく身体、生活、暮らしなどトータルな存在であり、心だけを取り出すのはおかしい。
「時間がかかろうとも、気長に立ち会い支えていくことが、まわりにいる者のできることであり責任でもあろう。それは専門家である必要はなく、また「心のケア」という正体不明の名づけをする必要もないものである」
また、一人で生きているわけではなく、多くの人といろいろの場面を抱えながら一緒に暮らしている。
「必要に迫られ考えることで、わたしたちは自分たちの暮らしの足場、つまり現実を作っていく。生きていくための力を手にすると言い換えてもよい」

ところが、心のケアは人との関係を作る方向に向かわず、行政や専門家へ援助を求めることになる。
阪神大震災の時に、野田正彰氏は「「心のケア」ブームがマスコミによって作られ、それを臨床心理学グループが煽っている」と指摘したそうだ。
あるいは、妻が虐待しているのではと専門家に判断を仰ぐ父親の例を小沢牧子氏は紹介し、自分で解決をしようとしないで、まず専門家に頼る風潮を批判する。
「「心の専門家」の普及・浸透は、人がものを考える習慣を確実に衰退させる」
子どもへの虐待が増えているのも、マスコミに煽られた虐待不安が作られ、虐待してしまうかもしれないと不安を訴える親が多くなっているという面もあると、小沢牧子氏は言う。
それで行政や専門家が対応する件数が増え、マスコミがまた報道することで不安が作られていくという悪循環。
心の専門家にまかせればそれでいいというのではあまりにも安易である。
「「心の時代」と呼ばれるものの実態は、「心」を消費させる時代のことである。実態をより正確に見ればそれは、「関係」を商品化することである」

なぜ小沢牧子氏はこうした事柄を問題にするのか。
「「心の問題」と言われるものは、人の生き方の課題に直結しているからである。生き方を専門家や行政にまかせるということは、自分の足で歩かず、自分たちで工夫せず、権威を持つものによろしく生かしてもらうということにつながる」
悩みや葛藤のない人生などあり得ないし、悩みや葛藤を抱えながら生きていく中でいろんな気づきがある。
また、時間が薬という言葉があるように、問題が早く解決すればいいというものでもないし、答えなどない。
ところが、問題を抱えていること自体がマイナス要因だという見方が広がっているそうだ。
「問うという行為は時にわたしたちのありかたを変化させ、他人とのかかわりかたや社会との関係の取りかたを根底から変化させてしまう力を持っているのだ。
しかし、「心のケア」はこの問う力を鎮めてしまう」
小沢牧子氏はこうも言う。
「カウンセリングは、狭義の治療という発想からすでに離れて、すべての子どもやおとなへの成長促進や内面の開発、また問題の予防や生活管理までを担おうとしている。
人びとの内面を柔らかな装いをもって巧妙に管理する「心の専門性」は、時代の寵児として、支配者層に歓迎されている」

とまあ、小沢牧子氏の考えを紹介したわけだが、「支配層」「管理」「体制」といった言葉に抵抗を感じる人もいるだろうし、ひょっとしてトンデモかもしれないし。
しかし、心理学が企業の社員管理や生産性向上のために使われてきているわけで、まあ、カウンセリングもあやしい使われ方をされているとは思う。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『「心の専門家」はいらない』『心を商品化する社会』3

2011年01月15日 | 
カウンセリングとは何か。
小沢牧子氏によると、カウンセリングでは治す側と治される側とに分かれ、カウンセラーが受容的、共感的態度で傾聴するだけではなく、「望まれる答え」がカウンセラーによって導かれる。
「カウンセリング場面は、迷える相談者と「正しき専門家」の人間関係でできている。それは当然ながら権威と依存の上下の関係である」
そこにはカウンセラーが知る者、導く者として上位にあり、クライエントが悩みを抱えた至らざる者として下位に置かれているという上下関係、力関係が固定される支配の一形態である。
「カウンセラーはいかにやさしい態度で接しようとも、権威の位置にある。相手を受容する態度を持っているからこそ、いっそう揺るぎない権力の意味をクライエントに対して持つだろう。
その関係のなかで語るとき、人はほんとうに自由であるのだろうか」

そもそもカウンセリングの場面で「治る」とはどうなることか。
カウンセリングは「「問題」を全体状況から切り離し、自分の内面の問題としてとらえなおす」
そして、カウンセラーはその方向に向かって操作していく。
イジメ、不登校、戦争、リストラ、失業、過重労働、自殺などさまざまな問題があるが、カウンセリングはそうした問題を個人の問題に矮小化し、問題を生み出している状況を変えようとせず、傷ついた心のケアだけをする。

たとえばイジメによる不登校。
いじめる子や、担任、学校の対応は問題にされないし、事態を改善しようとしない。
また、不登校は学校や教育の状況に対する問題提起のはずだが、そこは問われることはない。
「カウンセリングは自分の「心の問題」に目を向けさせることによって、社会や教師などへの怒りを鎮めてしまう」
クライエントの学校に対する疑問や、なぜ勉強するのかといった問いや意見に、カウンセラーは興味を持たず、クライエントがどうしてそう考えるようになったかという心の変化にしか関心がない。
「ものごとを全体としてとらえ考える方向でなく、個人の感情の問題に一方的に焦点づけ取り扱っていく」
そして、怒りや失望をなだめ、現状を穏便に維持する役割をカウンセリングは担う。

中島浩籌氏は「「自分はなぜ同性を愛してしまうのか」という問いも、「同性愛者」か「異性愛者」かを厳しく区別し差別する社会だからこそ立ち上がってくる問題である」と『心を商品化する社会』で書いているが、なるほどと目からウロコ。
「「心のケア」は、ほんらい論じるべき問題を覆い隠し、これを免罪するところにつながる」
問題を生み出した状況はそのままにし、「心の持ち方」というように個人の心の問題に矮小化することは、体制にとって都合いい。
カウンセリングは「体制によって決められた状況に人をどう従わせるかという視点のもとに成り立っている」
となると、カウンセリングとは体制順応思想だということになる。

こうした小沢牧子氏の主張に対して当然反論もあるだろう。
でも、ジョン・アップダイク「妖精のようなゴッドファーザー」(『アメリカの家庭生活』)にあるこの言葉には笑ってしまう。
「あんな生活をつづけていたら、私はノイローゼになったにちがいない、と彼(精神分析医)は言っているわ」
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『「心の専門家」はいらない』『心を商品化する社会』2

2011年01月12日 | 
何かよくわからないが、とにかくいいものだというカウンセリング信仰がある、と小沢牧子氏は『「心の専門家」はいらない』で指摘する。
「「心のケア」が、悩みの解決の合い言葉のようになってきた」

大学生はカウンセリングにどういうイメージを持っているか。
やさしく助言してくれる・つまずいたときにサポートしてもらう・よいヒントやアドバイスをくれる・導いてくれる・進むべき方向を指し示す・必要な情報を与えてくれるetc
学生たちのカウンセラーに対する願望。
苦しい自分をステキに楽にしてくれる・ラクに生きられる性格になおす・悩みやイヤなものを整理してくれるetc
「カウンセリングはきっと自分自身を発見させてくれる、自分らしさを引き出してくれる、本来の自分を見いだすことができる、よりよい自分になれる」

小沢牧子氏は若い世代がカウンセリングを求める要因をもう一つあげている。
「それは、悩みがあればそれを即座に解決したいという強い願望である。時間をかけ、時間にゆだねてものごとの展開を待つという考え方を受け入れにくい」
麻原に信者が求めたのも速やかな自己変革だと思う。
こうした願望にはニューエイジ・スピリチュアルと共通性がある。
つまりカウンセリングとは、現実の自分が受け入れられない人に、こうなったらいいなという願望を叶えてくれる魔法の杖なのである。

もちろんこれは誤解である。
実際のカウンセリングは悩んでいる人によいアドバイスを与え、やさしく導くものではない。
「カウンセリングは、若者たちが思い描いているような、手っとり早い助言や意見を率直に提供するわけではない」
しかし、このようなイメージを持っている人は多いだろうし、私も以前はそう思っていた。
行政にしても、何か厄介なことが起きた時にはカウンセリングで解決できると考えているらしい。
事故や犯罪に遭遇した被害者には心のケアをしなければならないと、専門家への依存が奨励される。
文科省も、スクールカウンセラーが問題や悩み事を解決してくれる、それも速やかにと期待している、というので小中学校にスクールカウンセラーを配置している。
さらにはカウンセリングは、問題が起こることを予防すること、そして成長促進にも役立つと思われているそうだ。

小沢牧子氏によると、こうした風潮は共同体が崩壊して悩み事を相談する人がいないということ、そんな中で心理療法家は安心して何でも話せるエキスパートだとマスコミを介して宣伝してきたことが功を奏したということがある。
小沢牧子氏はこうした風潮を批判し、心の問題を専門家にまかせることに否定的なのである。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『「心の専門家」はいらない』『心を商品化する社会』1

2011年01月09日 | 

「同朋新聞」10月号に小沢牧子氏のインタビューが載っていて、いわゆる「心のケア」ということを批判をしている。
私は「心の時代」とか「心の癒し」とか、そういった言葉にうさん臭さを感じていたし、カウンセリングにも何となく疑問を持っていただけに、小沢牧子氏の指摘にはなるほどとうなずいた。

小沢牧子氏はこう言う。
「心の商品化に伴って心理学が流行り、悩みを取り扱う専門家をたくさん生み出しました。カウンセリングの普及が人と人とのつながりを弱め、悩んだり耐えたりする力を奪い、「個」へのサービスに依存する風潮がますます進行していきました」
阪神大震災の時に「心のケア」という言葉がはやり、カウンセラーが大勢派遣された。
そして、中学生が自殺したりすると、すぐに心の専門家を学校に派遣し、子どもの「心のケア」をしようとする。
そのことを小沢牧子氏は批判する。
「本来はその場で暮らしている大人や子どもたちが、悲しんだり励まし合ったり、どうしてこんなことが起きたんだろうと一緒に考えることがもっと大切なのに。そういう大人たちの姿から子どもたちは学び、安心する。見知らぬ専門家がいきなりやってくるのは不自然で見当違いだと思いますよ」

カウンセリングはあらゆる悩み事に万能だという誤解があるんだと思う。
それと、何かあったときにカウンセラーを派遣しさえすれば批判を避けることができるという、責任逃れにすぎないのかもしれない。
「専門家が入ってくると、先生たちは下手に動いて何かまずいことが起こるといけないからという責任逃れの気持ちが働いてしまって、専門家に問題を預けてしまうんです」

『あの空をおぼえてる』という映画があって、妹を事故で亡くした小学生が通っている小学校のスクールカウンセラーがその小学生にあれこれと話しかける。
頼まれもしないのにその子の内面に侵入してくるわけで、私にはスクールカウンセラーのしていることはお節介としか思えなかった。
小学校教師の知人に聞くと、スクールカウンセラーに相談するのはほとんどが親で、子どもは保健室に行くそうだ。
なんのこっちゃ、である。
子どもたちは見知らぬカウンセラーには当たり障りのないことしか話さないと思う。
親の相談窓口は保健所や精神保健センターなどあちこちにあるわけで、わざわざ小学校にスクールカウンセラーを配置する必要はないという気がする。

そして、小沢牧子氏はこういうことも言っている。
「さらに言いますと、心のケアというのは一面では管理の発想なんですよ。事が大きくならないように収めるための」
管理とはどういうことかと思い、小沢牧子『「心の専門家」はいらない』
、小沢牧子・中島浩籌『心を商品化する社会』を読んだ。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ある事件

2011年01月06日 | 厳罰化
しばらく前のことだが、娘が通っている高校の先生が逮捕されたと娘が言うので、「その先生は何をしたのか」と聞いたら、器物損壊だと言う。
新聞でも報道されたというので見てみると、酔って自動車に鋭利なもので傷つけたという容疑で逮捕されたとあった。
新聞には本人の名前と高校名、年齢が書いてあった。
他人の車を傷つけることはいいことではないが、ちょっとした出来心である。
それに、その教師は教育委員会から何らかの処分を受けるだろうし、車の持ち主に弁償するだろう。
なのに、わざわざ実名その他をさらすべきなのか。

先日、私の知人が交通事故で死んだのだが、新聞には名前、年齢、住所が書かれていて、おまけに「職業不詳」とあった。
職業不詳だと何だか怪しい感じがする。
家族がこの記事を読んだらどう思うだろうか。
警察発表をそのまま掲載しただけのことなんだろうが、職業を書く必要はまったくない。
記者は家族の気持ちなんか考えたことなどないんだと思う。

後日談だが、娘の話によると、その教師は自宅の近くまで帰ったので家の鍵を手に持って歩いていたが、酔っていたのでふらふらして持っていた鍵で車に傷つけてしまった。
ところが、車に人が乗っていて、それで騒ぎになったということらしい。
なんとまあ、世の中にはついていない人がいるもんです。
そして、教師は翌日、お騒がせしましたというので辞表を出したが、校長は受け取らなかったという。

高校ではこのことについて全体集会があり、誰かに尋ねられたら知らないと答えるように、と指示されたそうだ。
これまた大げさな話ではあるが、だけども週刊誌にでも書きたてられたらと警戒するのもわかる。
たかだかと言っては怒られるだろうが、以前だったら、教師が酔っぱらって車に傷をつけたぐらいでは新聞記事にならなかっただろうし、学校もマスコミ対策を考える必要はなかったわけで、校長先生も大変である。
今の世の中は何かあったらと先のことを考えすぎる杞憂主義というか、責任逃れのための事なかれ主義というか、羮に懲りて膾を吹く状態にあると思う。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

女人往生

2011年01月03日 | 青草民人のコラム

メル友の青草民人さんに久しぶりに書いていただきました。
これからは一ヵ月に一度は青草民人さんの文章を載せる予定ですので、乞うご期待。


女人往生についての話が気にかかり、自分なりに調べてみようと思いました。
蓮如上人の『御文』の中に次のような文章がありました。
それ女人の身は、五障・三従とて、おとこにまさりてかかるふかきつみのあるなり。このゆえに、一切の女人をば、十方にまします諸仏も、わがちからにては、女人をばほとけになしたまうことさらになし。しかるに阿弥陀如来こそ、女人をばわれひとりたすけんという大願をおこして、すくいたまうなり。このほとけをたのまずは、女人の身のほとけになるということあるべからざるなり。これによりて、なにとこころをももち、またなにと阿弥陀ほとけをたのみまいらせて、ほとけになるべきぞなれば、なにのようもいらず、ただふたごころなく、一向に阿弥陀仏ばかりをたのみまいらせて、後生たすけたまえとおもうこころひとつにて、やすくほとけになるべきなり。(略)
蓮如上人のいう大願が『大無量寿経』の第三十五願女人往生の願です。
たとい我、仏を得んに、十方無量不可思議の諸仏世界に、それ女人あって、わが名字を聞きて、歓喜信楽し、菩提心を発して、女身を厭悪せん。寿終わりて後、また女像とならば、正覚を取らじ。

女性が仏になる、成仏することは、『法華経』の「提婆達多品」の中にも書かれています。
釈尊の弟子の舎利仏は、求法者に匹敵すると文殊菩薩が賞賛した竜女という女性に、不信感をもって語ります。
女性は、「女身垢穢 非是法器」(女身は垢穢にして、これ仏法の器に非ず)として、仏法による成仏の対象とはなっていない。
また、さらに、「女身の身には、猶、五つの障りあり、一には梵天王(護法神)となることを得ず、二には帝釈(護法神)、三には魔王(悪魔の支配者)、四には転輪聖王(偉大な帝王)、五には仏身(仏の身)なり。云何んぞ、女身、速やかに成仏することを得ん」として、女性の成仏は認められないと。
しかし、竜女は舎利仏の前で、自分が捧げた宝珠を釈尊が受けたことを語り終えると、たちまちの間に男子の姿に変わり(サンスクリット原典では、性器が変化したと表現されています)、さとりをひらいて、仏となったといわれています。

変成男子(へんじょうなんし)という言葉がありますが、女性は一度男性になってからでないと成仏できないということになっています。
女性に対する差別的な地位を仏教そのものも変成男子という言葉でしかカバーできない古代インドの実情があったのではないかと思います。
三従(さんしょう)といわれる女性に対する不条理(生まれては親に従い、嫁しては夫に従い、老いては子に従う)も『マヌ法典』という古代インドの法律のようなものに書かれていたしきたりだったのです。
カースト制度といった厳しい身分制度のある古代インドで、仏教は平等を説く教えであったにもかかわらず、女性に対しては依然として差別的な表現を拭えなかったのでしょう。

しかし、女性の成仏は阿弥陀仏によるということが、『法華経』の薬王菩薩本事品の中にも書かれています。
『法華経』を聞き、教えの通り修行することによって阿弥陀仏の浄土に生まれ、成仏するとされています。
日蓮上人は『女人往生抄』という文章をお書きになっていますが、女性の成仏は阿弥陀仏の浄土への往生によるとしています。
ただ、その根拠を念仏とはせず、『法華経』による修行としているところが浄土教との違いです。
日蓮上人は、『法華経』にくらべれば、『大無量寿経』の説く女人往生は、大石を小船に載せ、大鎧を弱兵に着せるようなものだと書いています。

立場の違いこそあれ、阿弥陀仏が女人往生の道を開き、すべての衆生を成仏させると誓願されたことは、一乗(一切衆生の成仏)を説く『法華経』にも本願往生の浄土の経典にも共通しているという仏法の奥深さを感じます。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする