三日坊主日記

本を読んだり、映画を見たり、宗教を考えたり、死刑や厳罰化を危惧したり。

小熊英二『日本社会のしくみ』(2)

2023年11月02日 | 

小熊英二さんへのインタビュー「もうもたない!? 社会のしくみを変えるには」と小熊英二『日本社会のしくみ 雇用・教育・福祉の歴史社会学』に、日本社会のしくみについて述べられています。
https://www3.nhk.or.jp/news/special/heisei/interview/interview_08.html

1960年代後半から1970年代のはじめに完成した構造を「社会のしくみ」と呼んでいる。
「社会のしくみ」とは、「終身雇用」「年功序列の賃金システム」「新卒一括採用」などに象徴される日本の雇用慣行と、それに規定されてできた教育や社会保障のあり方、さらには家族や地域のあり方など、日本社会の慣習の束を指している。

戦後の民主化運動の中で、労働組合は「同じ企業の中の労働者はみんな平等であること」を望み、一部のエリートだけに適用されていた「終身雇用」「年功序列の賃金システム」「新卒一括採用」を同じ企業の社員全員に適用されるように拡大した。

平成は国際環境が大きく変わる中で、「社会のしくみ」を無理にもたせてきた時代だった。

1970年代後半から1980年代は、日本は西側陣営の工場という位置にあった。
NHKの世論調査では、「日本人と西洋人の優劣」という質問に対し、1951年に「日本人が優れている」が28%、「劣っている」が47%だった。
1963年にはこれが逆転し、1968年は「日本人が優れている」が47%。

1980年代後半に、GMは約80万人の従業員で年間約500万台の乗用車を生産した。
トヨタは約7万人の従業員で年間約400万台を生産していた。
GMが部品の約70%を自社生産していたのに対し、トヨタは部品の多くを約270社の下請企業グループで生産していた。
もっとも、トヨタのカンバン方式を鎌田慧『自動車絶望工場』は批判していますが。

冷戦が終わると、西側の工場という日本の地位は失われていく。
旧ソ連圏や中国などの社会主義圏が世界市場に参入し、世界の製造業の中心は日本から中国や東南アジアにシフトしていった。

現代日本での生き方を「大企業型」「地元型」「残余型」の3つの類型に分ける。
・大企業型 毎年、賃金が年功序列で上がっていく人たち。大学を出て大企業の正社員や官僚になった人などが代表。
・地元型 地元にとどまっている人たち。地元の学校を卒業して、農業や自営業、地方公務員、建設業などで働いている人が多い。
・残余型 所得が低く、人間関係も希薄という都市部の非正規労働者など。平成に増加してきた。

2017年のデータで推計したところ、大企業型が約26%、地元型が約36%、残余型が約38%。

大企業型の雇用形態や働き方は1970年代初めに完成した。
欧米では、同じ仕事は会社に関係なく同一賃金だが、日本は同じ仕事をしていても会社によって賃金が違う。

2012年の所得上位5%から10%は年収750万円から580万円にあたる。
2015年の給与所得者のうち、年間給与600万円を上回るのは18%で、男性の給与所得者の28%である。

現代日本では、大企業正社員クラスの人と、それ以外の人との格差が開いている。
成果主義は上級職員だけで、下級職員や現場労働者は管理職から与えられた職務をこなしていく。

大企業型もそれほど豊かな暮らしができる世帯収入とはいえない。
年収から税金・保険料などの公租公課と、教育費を除いた場合、どれくらい生活費がのこるか試算すると、地方小都市に住む年収400万円の世帯で公立小中学校の子供が2人いると、生活保護基準を下回ってしまう。
大都市の世帯で子供2人が大学に進学すると、年収600万円でも生活保護基準を下回る可能性がある。

普及率が90%を超えている社会的必需項目(電子レンジ、湯沸器、親戚の冠婚葬祭への出席、歯医者にかかるなど)について、経済的理由で持たない・していない項目の多さを調査した。
年収400万円は、普通の暮らしの必需品が欠けていくラインといえる。

1990年代からの就職氷河期は、20代の非正規社員の増加が正社員の減少と関係すると言われているが、そうではない。
人数が多い世代は競争が激しくなり、職を得られない確率が高くなる。

団塊2世世代は前後の世代より人数が3割ほど多い。
1985年の経済企画庁の報告書は、団塊2世の就職難を予想していた。
この報告書は1990年代の経済成長率を年率4%として試算していたが、現実は1~2%だった。

1985年の新卒就職者は108万人。
団塊2世が就職を始める1992年は132万人が新卒就職することになる。
大卒者が1.5倍に急増したために、大卒就職率が下がった。
大卒者が中小企業に就職口を求めれば、高卒者の就職数が下がるので、大学に進学せざるを得ない。
この状態は1990年代いっぱい続いた。

大企業型の割合は1982年から2017年までほとんど変化がなかった。
正社員の中で年功序列で賃金が上がっていく人たちの比率もほとんど変化がない。
3割の大企業型は比較的安定しているが、下の約7割は自営業主や家族労働者が減って非正規が増え、地域社会の安定が低下して、貧困が増えている。

日本は高校・大学の進学率が伸びたところまでは、西欧諸国と比べても早かった。
しかし、大学院レベルの高学歴化はおきていない。
大学院進学率が低く、修士や博士号を持つ者が少ないため、現在では低学歴な国になりつつある。

1980年代以降、アメリカは大学院で学位を取った人間が高い地位に就くというシステムを作った。
特定の役職に就くには、その役職に対応した専門の修士号や博士号が要求される。
修士号、博士号を持っていれば、他企業からの人でも、勤続年数が少なくても、女性でも黒人でも構わない。

世界各国の新規採用教員は教育学などの修士号を持つようになってきた。
全体の国際平均でも、小学校・中学校の教師の20%以上が修士号を取得している。
ところが、日本の教師で修士号を取得しているのは、2010年の調査によれば、小学校で3.1%、中学校で5.8%にすぎない。

その最大の理由は、日本では「どの大学の入試に通過したか」は重視されても、「大学で何を学んだか」が評価されにくいことである。
日本企業が求めているのは、大学入試突破までの実績であって、大学などで学んだ専門知識ではない。

日本の社会は行政の人手が少なすぎる。
人口千人当たりの公務員の数は、フランスの3分の1、アメリカの2分の1くらい。
自民党が、家族と地域と会社で助け合うのが日本型福祉社会だという本を出したのは1979年。

地域コミュニティーに頼って、公務員が少なくてもやっていけ、公的な社会保障が少なくともよいという安上がりの国家は一時的に偶然成り立っていた現象だった。

この「しくみ」を変えない場合、3割の大企業型と、そのほかの7割の間の格差が、ますます開いていき、下の7割はかなり苦しい状態になる。
具体的には地方の疲弊、都市部の非正規労働者の貧困、高齢者貧困者の増大という形ですでに表れている。

さらに、企業が新卒採用を絞り込んでいくとすれば、大企業型の3割弱も減って、3割が2割になり、1割になっていくかもしれない。
そうなってくると、戦前の秩序にだんだん近づいていく。

戦前の日本の社会は企業の中で階級差や身分差がはっきりある社会だった。
エリートで官立大卒のホワイトカラーの事務系の上級職員、実業学校卒の下級職員、現場の作業員とでは、身分差別ともいえる格差があった。

日立製作所日立工場の1936年の職員給与。
職員は年功給で、勤続20~24年では0~4年の3倍。
各年齢層の職工を基準にすると、賞与と住宅手当を含めた年間所得の平均は、25~29歳の官立大卒の上級職員で3.5倍、40~44歳で6.15倍だった。
実業学校卒の下級職員は25~29歳が同年齢層の職工の1.7倍、40~44歳が4.41倍だった。

安上がりな国家はもうもたなくなっている。
企業の正社員を増やすのが限界だとすれば、即効性があるのは公務員を増やすこと。
これで下の7割の正規雇用を増やすとともに、ケアワーカーなどを増やして、行政サービスが行き届くようにする。
これはスウェーデンなどがとってきた戦略でもある。
そうなると税金を上げざるを得ない。

日本が小さな政府のままだと実現不可能です。
橘木俊詔さんと小熊英二さん、どちらも格差は広がるばかりだという結論のようです。

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小熊英二『日本社会のしくみ』(1)

2023年10月29日 | 

小熊英二『日本社会のしくみ』にこんな問題が書かれています。

スーパーの非正規雇用で働く勤続10年のシングルマザーが「昨日入ってきた高校生の女の子となんでほとんど同じ時給なのか」と相談してきました。同じ仕事をしているから、同じ時給にすべきか。長年働いている人のほうを多くすべきでしょうか。


小熊英二さんは3つの回答を出しています。
①賃金は労働者の生活を支えるものである以上、年齢や家庭背景を考慮するべきだ。だから、女子高生と同じ賃金なのはおかしい。このシングルマザーのような人すべてが正社員になれる社会、年齢と家族数に見合った賃金を得られる社会にしていくべきだ。

②年齢や性別、人種や国籍で差別せず、同一労働同一賃金なのが原則だ。だから、このシングルマザーは女子高生と同じ賃金なのが正しい。むしろ、彼女が資格や学位を取って、より高賃金の職務にキャリアアップできる社会にしていくことを考えるべきだ。

③この問題は労使関係ではなく、児童手当など社会保障政策で解決するべきだ。賃金については、同じ仕事なら女子高生とほぼ同じなのはやむを得ない。だが最低賃金の切り上げや、資格取得や職業訓練機会提供などは、公的に保障される社会になるべきだ。

どれが正しいというわけではありません。
私はどれももっともだと思います。

戦後日本の多数派が選んだのが①だった。
しかし、今は公務員でも正規が減っている。
専門職の人でも非正規が多いから、いつクビを切られるかわからない。
正規と非正規の格差が生じている。

②は能力の差によって格差が拡大する。
③は公的に保障ということは、税や保険料の負担増大などは避けがたい。
小熊英二さんは③の方向を目指すべきだと言います。

どれを選ぶにしろ社会の合意が必要。
方向性が決まれば、政治家はその方向性に沿った政策を示し、その政策の実現に向けて努力しないといけない。

しかし、橘木俊詔『日本の構造』には、社会保障支出、公教育支出ともに多額でないという事実からして、日本が大きな政府になることはないであろうとあります。
小熊英二さんは今までの日本の社会のしくみではもうもたないと書いています。

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橘木俊詔『日本の構造』(2)

2023年10月21日 | 

橘木俊詔『日本の構造』を読み、日本は福祉、教育にお金をかけず、社会保障が不備だと教えられました。

①福祉
日本人は福祉の恩恵を受ける人を好まない。
なぜなら、そういう人は怠けていて、福祉にタダ乗りしているとみなす人が多いから。

老後の経済支援、病気や要介護になった人への看護・介護は家族の役割だったが、家族の絆が弱体化している。
家族の変容は福祉の提供方法に大きな変化を与えた。
福祉は自分で担うという自立意識の確保か、それとも年金、医療・介護といった保険制度の充実という社会保障制度の確保か、という選択を日本国民に迫る。

②教育
教育の利益は私人が享受するものなので、公的負担は少なくてよいという社会的信念があるため、子ども手当が充分に支給されない。

日本の公的教育支出の対GNP比率は2.9%と、OECD35か国中、2018年は最下位で、2020年は下から2番目。
先生や教授の教育負担・事務負担が大きく、よい研究・教育ができない。

1970年ごろの国立大学の授業料は年額1万2000円だったが、国庫が国立大学への支出額を増やさなかったため、53万5800円と、45倍近くも高騰している。

日本の学歴社会は機会の平等がなかった。
本人や家族が教育費を負担しなければいけないことは、収入が多い家庭の子どもしか大学に進学できないことになる。
それは能力の高い人、勉学意欲の強い人でも大学進学をあきらめねばならないことにつながるので、社会のロスを生む。
政府の教育費支出が少ないと、多人数教育になるから、学ぶ生徒の学力向上にとってもマイナスである。

③社会保障
社会保障とは、政府が国民から徴収した社会保険料と税金を財源にして、福祉分野での支出を国民に対して行う活動のこと。

日本の社会保障は高齢者への所得保障が最大の目的となっている。
中年・若年・子どもへの対策が遅れていて、保育施設や子ども手当なども不充分。
子育ては親の責任でなされるべきで、社会の義務ではないという伝統が生きている。

日本は国民皆保険と思われているが、実態は違う。
一定期間、保険料を支払っていなければ給付を受ける資格がない。
国民保険の収納率は約90%。
国保の保険料納付率は年齢によって差があり、25~29歳は55%前後、55~59歳が77%前後である。
国民年金の未納率は3割弱。
厚生年金も5%の人は保険料を払えていないので、年金も皆保険とは言いがたい。

母子家庭の約半数が生活保護世帯。
生活保護受給者は高齢者を比率が高く(54.1%)、高齢単身女性の比率がとても高い。
年金支給額が充分であれば、高齢単身女性は貧困にならない。

生活保護基準以下の所得しかない人のうち、10~20%しか支給を受けていない。
フランスでは92%、アメリカ60%、ドイツでも37%である。

なぜ日本は低いのかというと、申請手続きが複雑であるし、資格審査が厳しい。
そして、政府から支援を受けるのは恥だという意識がある。
さらに、親族に経済支援の能力があれば、それに頼る雰囲気が社会にある。

では、どういう貧困対策がいいのか。
橘木俊詔さんの説く貧困対策は、社会保険制度や最低賃金制度の充実。

所得税は累進構造なので、再分配効果がある。
ところが、日本の所得税の最高所得者への税率は1986年が70%だったが、2015年以降は45%。
税率が高いという高所得者の声に、政府が応じたため。
新自由主義の国は所得の再分配政策をさほど実行しない。

国民がどれだけ経済効率を重視するのか、あるいは平等志向を尊重するのか、その比率の大小によってその国の賃金・所得格差、あるいは地域間格差、ひいては教育格差などの程度が決定するのである。
日本は自由主義、資本主義を是とする人が多数派なので、今後も種々の格差は縮小せずむしろ拡大する可能性があることを予想できる。その典型なのがアメリカであり、経済効率は高いが格差も大きい。逆の立場は北欧諸国などである。国民は平等主義を好むので社会民主主義の国であり、格差は小さいし福祉国家になっている。


選択肢は3つある。
①誰にも頼らずに自分で福祉のことを考えよ、といういわばアメリカ型の自立主義である。
②過去の日本は家族の絆に頼るという美徳の国だったので、今進行中の絆の崩壊を元の姿に戻す案。
③ヨーロッパのように福祉の担い手は政府という福祉国家にする案。

社会保障支出、公教育支出ともに多額でないという事実からして、大きな政府になることはないであろう。

公共投資抑制の声が強まり、現在はそれが削減されている。社会保障、公的教育支出、公共投資が多額でなければ、政府支出は大きくならないのであり、今後の日本は小さな政府でありつづけよう。

橘木俊詔さんは格差の是正には悲観的なようです。

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橘木俊詔『日本の構造』(1)

2023年10月17日 | 

橘木俊詔『日本の構造』によると、日本は小さな政府の伝統があるそうです。

国民負担率は、国民の所得に占める税金や社会保険料などの負担の割合です。
アメリカが33.3%、日本の42.6%(2022年度は47.5%)、イギリスの46.5%。
アメリカはとても小さな政府の国である。
フランス67.1%、スウェーデン56.9%は大きな政府。
ちなみに、日本の一人あたりの国民所得は2019年に25位。

政府支出の対GNP比率を見ると、アメリカ、日本、スイス、オーストラリアは小さな政府。

アメリカは自立の精神がとても強いから、他人の助けには依存せず、政府に頼る気持ちが希薄なので、国民は政府のサービスを受ける気がさほどなく、政府も国民に福祉を提供する必要がないと考えている。

日本も福祉、介護、子供の養育・教育は家庭の責任という信念が強いので、政府に頼らない国民性がある。
そのため、政府は教育への支出が少なく、社会保障にあまり金を出さない。

女性(特に母子家庭)と男性、正規と非正規との賃金格差、保険や年金格差、教育格差などがあるが、格差は自己責任とされ、政府が格差を是正しなくてもいいと考える。

日本の企業は終身雇用、年功序列といった安定志向、平等志向があったが、今は市場主義、競争賛美と能力・実績主義へと変化している。
会社は社員を定年まで面倒を見ることをやめ、保険や年金を払いたくないので非正規が増えています。

格差はどうでしょうか。
日本は富裕層と貧困層の格差が存在する国になっている。
賃金だけでなく、教育格差、地域格差、健康格差にまで拡大しており、格差の是正が必要かどうか論争がある。

①所得格差
日本は地域間格差の大きい国で、地域による所得格差も開いている。
東京都の一人あたりの所得は543万円、2位の愛知県が369万円。
最下位の沖縄県が235万円と、東京都とは2.31倍の違いがある。

企業規模間格差が賃金でも格差を生じている。
大企業とは常用従業員数が1000人以上、中企業が100~900人、小企業が10~99人の企業である。

男性の平均月収は、大企業が38万7000円、中企業が32万1500円、小企業が29万2000円。
女性は、大企業が27万700円、中企業が24万4400円、小企業が22万3700円。

規模間格差が目立つのは日本、ドイツ、アメリカ。
イギリス、オランダ、デンマーク、フィンランドなどは賃金の企業規模間格差がほとんど存在しない。

所得格差の大きい国(アメリカ、ブラジル、南アフリカなど)では犯罪率が高い。
失業者が多くて、貧困率の高い国も犯罪率は高い。

②正規と非正規の格差
1992年は、女性の39.0%、男性の9.8%、男女計21.5%が非正規労働者だった。
ところが、2017年は女性の56.7%、男性の27.4%、男女計38.2%が非正規労働者となり、非正規雇用比率は4割に増えた。

男性の正規労働者で平均年収が561万円、非正規労働者で226万円、女性の正規労働者で389万円、非正規労働者で152万円である。
男女計だと、それぞれが503万円、175万円で、非正規の人の年収は正規の人の60%近く低い。

2021年の調査だと、正社員・正職員の賃金に対して正社員・正職員以外の賃金は男女計で平均67.0%の金額となってます。
https://www.jili.or.jp/lifeplan/houseeconomy/1093.html
しかも、非正規労働者は昇給がほとんどない。

母子家庭は圧倒的に非正規労働者が多い。
母子家庭の母親の収入は約243万円で、母子家庭の約半数は貧困である。

非正規労働者は賃金格差に加え、別の格差がある。
・週20時間未満の労働時間しかない非正規労働者は、各種の社会保険制度に加入できない。医療保険制度においては、被扶養人として働いている配偶者の保険に加入できるが、年金や失業に関しては不可能である。

・企業が経営不振に陥ったとき、最初に雇用打ち切りの対象になるのは非正規労働者である。しかも失業後に次の仕事を見つけるのも容易ではない。

・企業は非正規労働者に職業訓練の機会を与えないので、資質や生産性の向上が見られないこともある。

③結婚
結婚と収入は関係があります。
年収300万円未満の男性は、交際経験なしが33.6%。

結婚についても男女の考えの違いがあります。
再婚率は、女性の29~30%に対して、男性は44~59%。
これは女性が結婚生活はもうこりごりと思っているのに対して、男性は渋々離婚していることの説明になるし、独り身だと家事や子育てに苦労するので、再婚を希望することになる。

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岡田憲治『なぜリベラルは敗け続けるのか』(2)

2023年10月05日 | 

岡田憲治『なぜリベラルは敗け続けるのか』に、野党が歩み寄って共闘する必要があると書きます。

「ざっくり言ってしまえば、「ほんとにそれでいいのかなあ」と「やっぱりそうだよな」の間で振り子のように揺れるものが、信念や思想というものです。

そのとおりですが、なぜかお互いが足を引っ張り合い、中には自民党にすり寄る政党もあります。

では、どうしたらリベラルが選挙に勝てるのか。
人権、平和〈護憲)よりゼニ、すなわち貧困や格差の是正を訴えるべきだと、岡田憲治さんは訴えます。

「朝まで生テレビ!」でのやりとりです。

田原総一朗「なぜアベノミクスで消費は拡大しなかった?」
泉房穂「国民にお金を使わないからですよ。やってることが間違ってるからです。日本の政治は30年間 間違いを続けてるんであって、国民の負担を軽減すればいい、子供や家族の支出を諸外国並みに2倍にすればいいのであって、お金をどこに使うかの使い道が間違ってるんですよ、ちゃんと子供たちや家族の応援に金を使って、そういった層がお金を使えるようにすると消費に回るんだから、そもそもやってることが間違っていたと私は思いますよ、国民のためにお金を使わないと」

https://twitter.com/siroiwannko1/status/1685108301061861376
泉房穂さんの意見はもっともだと思います。

月額10万円以下の年金で暮らす老人たちは、年金、医療費、物価が死活問題である層であり、同時に、選挙があったらかならず投票所に行くという律儀な人たちです。

所得の再配分政策に転換し、男女の賃金格差、最低賃金、医療費、社会保障などを是正する。

年金暮らしの老人、非正規労働者、女性といった人たちが投票しようと思う政党があればいいのですが。

そもそもリベラルとはどういう意味でしょうか。
リベラルと左翼は違います。

ウィキペディアによると、3つの意味があります。
①個人の自由や多様性を尊重する。権力からの自由。
アダム・スミスは経済活動に対する国家の介入を批判し「小さな政府」を説いた。
②各人の自由な人生設計を可能にするため国家の支援が必要と考える。権力による自由。社会保障や福祉国家を整備する。
③政治的に穏健な革新をめざす立場。

①の意味だと小さな政府がリベラルです。
政府に頼らず、自助でなんとかすべきという考えです。
ところが、②の意味では大きな政府のことになります、

アメリカでは連邦政府が社会的弱者を救済するために財政出動し、企業の経済活動にも一定の規制を課す「大きな政府」を支持する立場を「リベラル」と呼ぶ。(金成隆一『ルポ トランプ王国』)


③の穏健な革新ということは、保守の立場だと思います。
中島岳志さんは「伝統や慣習に謙虚になりながら、漸進的に変えていこうというのが保守思想」と話してますし。

岡田憲治さんの定義は②と③を足したものだと思います。

国家よりも個人を、伝統よりも新しい価値観をやや優先して、そして経済を市場だけに委ねないやり方で社会を守る。

もう少し丁寧に言うと、

現代社会はグローバルな世界なのだから、国家の権威や家族の伝統などという価値よりも、この世界を支えている多様な人たちと個人としてして結びついて、風通しよく自由にものが言え、「努力など無駄だ」とすべてを諦めてしまう人をなるべく少なくする世の中を、自分と同じ欠点だらけの友人たちと相談しながら、なんとか運営していくしかない。


ところが、保守とは改憲派で国の秩序や愛国心を重視し、リベラルが護憲派で個人の権利や多様な価値観を尊重するということになっています。

本来ならばリベラルとは「公正な社会のためには政府は適切に介入すべき」というスタンスのものであるのに、日本の場合、「自己責任」と「小さな政府」を錦の御旗とするネオ・リベ派の主張があたかもリベラルの代表意見であるかのように誤解されている状況が今なお続いているのです。
こうした誤解は、日本の左派が「中間層を再構築するための経済政策を」というメッセージを継続的に出して来なかったからです。


小さな政府は共和党、大きな政府は民主党、日本はその中間だと思っていましたが、岡田憲治さんによると、日本は小さな政府なんだそうです。

自公政権は、ヨーロッパにおける右派の財政均衡主義や緊縮政策ほどの締め付けをしているわけではありませんが、それでもOECD諸国の中でも指折りの小さな政府という基本構造を変えようとはしていません。つまり、中間層を再活性化させるための大胆な再配分政策に舵を切るという兆しはそこにはありません。
他方、左派政党、リベラル派言論人の皆さんも、反貧困と格差是正のための政治政策を、政治活動の中心に据えているようには見えません。

日本では、与党だけでなく野党も小さな政府を志向しているのでしょうか。

リベラルは社会的弱者のための政治を目指しているはずです。

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岡田憲治『なぜリベラルは敗け続けるのか』(1)

2023年09月29日 | 

安倍政権の問題点を岡田憲治『なぜリベラルは敗け続けるのか』は数々指摘しています。

・2013年、特定秘密保護法の成立。
本来ならば政府が国民にオープンにすべき重大な情報(原発の安全基準、防衛費に使われているお金の分類、政治家や官僚が公正な手続きで決め事をしているかどうかを確認する文書)の公開の範囲を、実質的には政府が好き勝手に決められるようにさせるもの。
多額の増税が決まって、「なぜ多額のお金が防衛費に必要なのか」と問うても、「国家機密だから答えられない」という返事を正当化することが可能になった。

・2014年、安倍内閣による集団的自衛権に関する解釈改憲。
内閣法制局によって40数年間維持されてきた、憲法上、集団的自衛権は認められないという政府の公式見解が、通常国会で一度も議論されることなく、憲法解釈が変更された。
しかも、どのような議論を経て変更されたか、議事録が存在しない。

・2015年、安保法制の成立。
圧倒的多数の憲法学者が安保法制に反対声明を出しているにもかかわらず、集団的自衛権に関する閣議決定を前提に、11本の安全保障関連法が強行採決した。

・2017年、共謀罪法の成立。
心の中で犯罪計画を立てただけでも罪に問える。
悪用すれば、国家に異議申し立てをするあらゆる個人・団体を刑事捜査の対象にできる。

・2017年、野党からの国会開催要求を無視し続けた。
森友・加計学園問題などを理由に、野党が憲法53条に基づいて議会の開催を求めたにもかかわらず、与党は98日間も無視し、ようやく国会を開催したが、その冒頭で衆院解散を行なった。

・2018年、選挙後の国会で野党の質問時間の削減が断行された。
森友学園問題では、国有地取引時の行政決済文の改竄を財務省が認めた。
ところが、この不祥事の責任を、財務大臣を辞めさせることもなく、現場の官僚の責任問題として処理した。

なぜこれほど私がこの事態を憂慮するかと言えば、このまま政治に負け続けると、今度は「選挙など必要ない」という暗黒時代を現実化しかねないからです。つまり、もう連敗することすらできない、「選挙のない国」となるという事態です。


これは杞憂ではありません。
憲法に緊急事態条項という条文を追記しようという動きがあります。
内閣が災害等で緊急と判断した場合には国会の権能を内閣が実質的に兼ねることができる、国会議員の3分の2以上の多数で国会議員の任期を延長することができるという内容です。
https://www.toben.or.jp/know/iinkai/kenpou/column/2020229.html
緊急事態条項によって選挙がずるずると行われない国になる可能性はあります。

民主主義は失敗を繰り返さないための工夫が必要だと、岡田憲治さんは書いています。
たとえば、記録を残すことは近代国家としての最低限のルール。

不完全な人間が合意を作るためには、政権の中でどのように意思決定がなされたかをきちんと書き残すという習慣が、民主政治には必要不可欠です。それがなされなければ、誰が政策決定においてそれぞれの責任を引き受けるのか、また、その政策が失敗したら、どういう拙劣な経緯と迂闊さによって、それが起こったのかを検証することができません。

最低限のルールが安倍政権ではないがしろにされました。

安倍首相は国会での質疑で虚偽答弁を何度もした。
国会の答弁で大臣は官僚が作った作文を棒読みし、質問にはまともに答えない。
官房長官は定例の官邸記者会見で、記者の質問の制限・無視までした。
政府は部署に圧力をかけ、官僚は懲罰人事への恐怖から安倍首相に忖度した。
そうして、公文書の隠蔽、改竄、破棄がなされたのです。

安倍一強の情勢の下でデモクラシーそのものが少しずつ破壊され、少しずつ殺されているという危機的な状況となっている。
しかし、選挙で安倍晋三元首相は勝ち続けました。

1960年、日米安保条約が強行採決され、都立大学教授の竹内好は大学に辞表を提出しました。
黒川創『鶴見俊輔伝』に、竹内好が知人に送った挨拶文が載っています。

私は東京都立大学教授の職につくとき、公務員として憲法を尊重し擁護する旨の制約をいたしました。
5月20日以後、憲法の眼目の一つである議会主義が失われたと私は考えます。しかも、国権の最高機関である国会の機能を失わせた責任者が、ほかならぬ衆議院議長であり、また公務員の筆頭者である内閣総理大臣であります。このような憲法無視の状態の下で私が東京都立大学教授の職に止まることは、就職の際の誓約にそむきます。かつ、教育者としての良心にそむきます。よって私は東京都立大学教授の職を去る決心をいたしました。

翌日、竹内好の辞表提出を知った東京工業大学助教授の鶴見俊輔は辞表を出した。

辞表提出の翌々日、東工大文化系教授会で、鶴見俊輔は同僚たちに挨拶をした。

私の辞職の動機は、5月19日、警官導入し、単独に安保決議したことにかぎりたい。岸首相の採った態度、また、政府機構はよろしくない。空虚に感じられる。


岸首相は5月28日、「院外の安保反対運動に屈すれば、日本の民主主義は守れない。私は国民の〝声なき声〟の支持を信じている」と言った。
この発言に、安倍晋三元首相が選挙演説の際、批判的な聴衆に向けて「こんな人たちに負けるわけにはいかない」と言ったことを思い浮かびます。

もっとも、岸信介元首相は日米安保条約改訂を国会で審議し、その後に退陣しています。
現在は国会を開催せず、重大な決定が閣議決定により行われているのだから、60年安保のころのほうがまだましな気がします。

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中谷加代子、小手鞠るい『命のスケッチブック』

2023年09月05日 | 

入江杏『わたしからはじまる』と中谷加代子、小手鞠るい『命のスケッチブック』を読むと、犯罪を犯した人との関わりも、被害者の救いへの道の一つかもしれないと思いました。

入江杏さんはこう書きます。

被害・加害の隔たりを越えて対話することは、犯罪の事実をうやむやにすることでも、適正な裁判を行わずに犯罪者を野放しにすることでもありません。加害者を擁護するつもりもありません。同じような被害体験を持った人に、加害者が置かれている事情や状況に理解を求めることを強要もしません。


原田正治さんも同じことを話しています。

遺族の悲しみはひと色ではありません。被害を受けた人が加害者に思いをめぐらすこと、赦すのではなく、加害者について知りたいというニーズに応えることも、またケアでしょう。そうした取り組みが進む社会を望んでいます。


入江杏さんは「もし加害者が発見され、逮捕されたならば、なぜこのような事件を起こしたのかを知りたい」と言っています。
しかし、入江杏さんのの妹一家4人を殺した犯人はまだわかっていません。
中谷加代子さんの娘さんを殺した犯人は自殺しました。
加害者に「なぜ」と問えません。
それでも入江杏さんは中谷加代子さんとの出会いをきっかけとして保護司になったそうです。

中谷加代子さんは犯罪被害者支援だけでなく、加害者の更生のため刑務所や少年院に訪れて話をするなどされています。
中谷加代子さんは罪を犯した人に呼びかけます。

罪を償うことと幸せを感じることとは別のことでしょうか? 罪を犯してしまって、犯した罪を償っている今でも、花は美しい、空は青い、と感じていいのよ。


被害者は置き去りにされているのに、加害者の人権ばかりが大切にされていると言う人がいます。
しかし、更生は甦り、人生のやり直し、生き直しです。
再犯を防止することは新たな被害者を生まないことでもあります。

中谷加代子さんは最初から更生保護の考えを持っていたわけではないようです。
『命のスケッチブック』でこう語っています。

19歳というだけで、彼は「少年」あつかいになり、少年法という法律によって、顔写真も、名前も、服装も、現場から乗って逃げたとされているバイクの色も形も、何もかもが「非公開」になってしまうのです。
非公開というのは、秘密にする、ということです。
言いかえると、容疑者は保護される、ということにもなります。
殺された歩のことは、何もかも公開されるのに、容疑者のプライバシーと情報は守られる。
わたしたち被害者の家族にとっては、本当に理不尽で、無念なことです。(略)
当時の心境としては、このような少年法に対するもどかしさがありました。
ただ、今現在のわたしの考え方は、当時とは少し、違ってきています。
情報の公開や、少年を大人と同じ法で裁いたりすることによって、果たして犯罪を防止・抑制することができるのだろうか、ひいては、命を救うことができるのだろうかと、疑問を感じるからです。


少年法に納得できない気持ちがあったのに、どうして少年法改正に疑問を感じるように変化したのでしょうか。
中谷加代子さんの思いの根底にあるのは、「歩ならどうするか」ということだからだと思います。
https://news.yahoo.co.jp/feature/710/

加害者の自殺により、歩はなぜ、殺されなければならなかったのか、すべては謎に包まれたままになってしまいました。
わたしたちの苦しみは、軽くなるどころか、ますます重く、深くなっていきます。
加害者が死んでしまったとしても、歩はやはり、もどってきません。
失われた命は、たとえ命によってでも、つぐなうことは、できないのではないでしょうか。
なぜなら、失われてしまった命はもう二度と、もどってこないのですから。
でも、もしも、つぐなう方法があるとすれば、それは、加害者がそのあとの人生をどう生きるか、その人生のなかにこそ「つぐなう」ということのヒントというか、答えというか、なんらかの方法があるのではないかと、わたしは思っています。
もしも彼が生きていたとすれば、わたしは彼に、自分のしたことに正面から向き合ってほしかったと思います。
もちろん、反省もしてほしかった。


こんな経験を語っています。

2人が死亡した交通事故の裁判の傍聴に行ってきました。
裁判官が被告に対して、こう問いかけました。
「あなたは今、亡くなった被害者の方々に対して、どういう気持ちでいますか」
被告は、ひとことか、ふたこと、ことばを発したあと、だまってしまいました。
事故からは二か月か、三か月かが過ぎていたと思います。
彼が黙っているあいだ、あたりには、冷たい空気が漂っていました。
傍聴席に座っていたわたしは、ほかの人たちとはちょっと、ちがったことを思っていたのです。
事故から二か月か三か月かそこらで、被告の心にはまだ、本当の意味での反省、本当の意味での謝罪の心は、育っていないのではないかと。
そういう気持ちがないのに、反省していますとか、お詫びしますとか、言えないでいるのではないかと。
だから、だまっている。
そういうことなら、それはそれで仕方がない。
わたしはそう思っていました。


事件後すぐに反省や謝罪の気持ちは生まれません。

最初は相手が悪いと思っている。でも、いろいろ考えているうちに、相手の気持ちを思いやる心が芽生えてきて、それからやっと、本当の意味での「ごめんなさい」が言えるようになる。
時間が必要なんです。
人を殺しました、ごめんなさい。
そんなこと、ぱっと思えるわけがない。


悪いことをしたら、そのことを反省し、謝罪するのは人間として当然のことです。
しかし、自分が何をしてしまったのか、どのように傷つけたのか、そうしたことに気づくには時間がかかりますし、その事実と真向かいになることが難しいのは、私たちも同じです。
反省や謝罪をするための時間を奪うのが死刑です。

歩が殺されたとわかったときには、いっしょに死ねたらよかったと思っていましたが、今はそうは思いません。(略)
生きて、生きて、生き抜いていって、いつか歩に会えたとき、
「おかあさん、あの事件のあとも、一生けんめい生きたよ」
って、そう言いたいんです。
胸を張ってそう言えるような人生を、生きていきたいと思います。
空が青いなと思ったら、ああきれいだな、小鳥の声が聞こえたら、ああかわいいなって笑顔になれる、そういう幸せを日々、感じながら。

中谷加代子さんは死刑に反対だそうです。

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入江杏『わたしからはじまる』(2)

2023年08月31日 | 

入江杏さんは『わたしからはじまる』で、被害者遺族像はこうあるべきというイメージについて書いています。

SNSでは、「可哀そうな遺族」「打ちひしがれている遺族」には同情が寄せられ、共感が集まる一方、世間がイメージする遺族らしさから少しでも離れると、たちまちパッシングの対象になってしまうこともあります。怪しいとか、普通ではないと炎上してしまうケースを目の当たりにしました。


弟を殺された原田正治さんも同じことを話しています。

「良い被害者」と「悪い被害者」とがあるんです。仏壇に手を合わせ、冥福を祈り、黙って悲しみに耐えていく犯罪被害者が「良い被害者」なんです。「悪い被害者」というのは、表に出て、声を出し、国に文句を言い、自分の主張していく人です。さしずめ僕なんか悪い被害者なんでしょうね。僕みたいに声を出す被害者は異常なんです。直接面と向かって言われたこともありました。

加害者に怒りをぶつけて死刑を求める被害者遺族というイメージもステレオタイプの一つです。
だから、死刑に反対する原田さんは叩かれたのです。

いろんな活動をしている入江杏さんも悪い被害者なのかもしれません。

被害者や遺族が事件のことを平然と話していたら「あんなに落ち着いているのはおかしい」「何ごともなかったように笑っている」などとバッシングされる傾向があります。とりわけ、わからないことばかりの未解決事件は社会にとっても不安要因であり、その不安から一層攻撃の対象にされがちです。

いろんな被害者がいていいということです。

被害者遺族はこうあるべきという、世間の「べき論」には違和感を抱いていました。被害者遺族の中には、憎しみが生きる糧になっているひとがいてもいいし、加害者やその家族に寄り添う人がいてもいい。遺族の姿はそれぞれです。


入江杏さんは講演でこんな経験をしています。

ある講演会で、「(杏さんは)犯罪で命を奪われた被害者遺族だから、世間から同情される。けれど私の子どもは、自分で死んだんでしょと言われ、自死遺族は同情されない」という言葉に、いい話を披露することで、辛い思いを抱えている人を、より一層苦しい思いに追いこんでいたのではないか。そんな気持ちになったのです。
そうしたがんばった話、いい話によって苦しめられる人もいることに気づいたのが、自死遺族の言葉です。
自己責任という本当に不快な言葉が、社会に蔓延しています。それでも、事件・事故・天災、まだ私が巻き込まれた犯罪被害のように、本人の意思や選択が介在しないと思われる不幸は、まだしも共感されやすいけれど、自死・自殺のように、本人が勝手に選択したと思われる不幸は共感されにくい。自己責任で勝手に死んだのでしょうと言われるわけです。
共感してもらうだけの話を続けていいのか、疑問がわきました。


グリーフケアを学ぶようになって考え方が少しずつ変わっていったと、入江杏さんは言います。

弱い立場に置かれた人は、その弱さを発露することさえ難しいのだと感じられるようになりました。


入江杏さんと20歳の娘さんを殺された中谷加代子さんとのやりとりです。

入江「ゆるしは加害者のためというより、被害者のためにあると、私は思うの。加代ちゃんはどう思う?」
中谷「歩の事件を経験して、紙一枚くらいは変われたかもね。でも、まだまだ煩悩の中で五里霧中なんよ。じゃけど、そういう私だから加害者の心が想像できるのかもしれんねぇ」
入江「そういう思いに至ったのは、歩ちゃんの事件の加害者が同級生で、まだ若かったということが大きいのかしら」
中谷「加害者が同じ世代の似たような家族で、加害者側のことは、わりと想像しやすかったんよ。加害者が自殺しちゃって、この世にもういないことも影響してると思うよ。
もし、彼が生きてて、良心の呵責もなくて、開き直ってたら……まあ実際、事件直後の私の心には、真っ黒な感情があったもの。許せない気持ちを持つ被害者のことは、誰より理解できるんよ」

被害者は加害者を赦すべきだということではありません。

イ・チャンドン『シークレット・サンシャイン』は6歳の息子を殺された母親が主人公です。
事故死した夫の故郷に引っ越してしばらくして、塾の教師に息子が殺されます。
母親はキリスト教の教会に通うようになり、加害者を赦そうと思いました。
刑務所で加害者と面会して「あなたを赦します」と言うと、穏やかな顔をした加害者が「知っています。私は神に赦されました」と答えるのです。
母親は怒り狂い、教会に行くのをやめます。

もし加害者が涙を流して謝罪すれば、うれしく思ったでしょうし、「お前に赦してもらう必要はない」と毒づかれても、怒ることはなかったと思います。
加害者は信仰によって救われたわけですから、本当なら母親も一緒に喜ぶべきなのでしょう。
しかし、それができない。
赦しとはそんな簡単なものじゃありません。
それでも、恨みや怒りを手放すことは必要だと思います。

人権の翼は、入江杏さんと中谷加代子さん、小森美登里さん(いじめにより娘さんが死亡)の3人が立ち上げたグループです。
犯罪被害者の経験を伝え、犯罪の減少、再犯率の低下を願っています。

加害者を責めるのではなく、被害者遺族からの語りかけで「思い」を届けることが、誰もが幸せを感じて生きることができる社会をつくるための着実な一歩になると考えています。私達は、この思いを共有し、憎しみの連鎖を止めるために活動しています。人権とは、幸せに自由に生きるための翼です。私達は、その翼を育む活動をしています。
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入江杏『わたしからはじまる』(1)

2023年08月24日 | 

入江杏さんは2000年に起きた世田谷一家殺害事件の被害者遺族です。
隣に住む妹一家4人の命が奪われました。
心の変化、様々な活動、多くの人との出会いなどが『わたしからはじまる』で語られています。

悲しみから目を背けようとする社会は、実は生きることを大切にしていない社会なのではないでしょうか。


周囲や報道の偏見と差別によって被害者遺族は沈黙を強いられています。
事件に遭うことは恥だと考えた入江杏さんの母親は沈黙を強い、6年間、沈黙を守り続けました。

普通の人とは違う烙印を捺されてしまった4人。遺された私たちも犯罪被害者遺族として同情はされるものの、普通の人とは違う存在になってしまった。恥の意識、自責の念。うつむいて生きていたこともありました。


犯罪の被害者となることがなぜ恥なのでしょうか。
それは私たちが被害者という負の烙印(スティグマ)を押して差別しているからです。

「あんな事件に巻き込まれるなんて、何か因縁があるに違いない」
「一家4人が殺されるなんて、あの家は呪われているのよ」
「泰子さんとは学生時代のお友だちでしたからお葬式には参列しましたが、もう連絡はしないでください。うちの娘は有名私立校に通っていて、こういう事件に関わるのは迷惑なんです」
「事件が起きた家のそばを通るのも恐ろしいし、見るのも気味が悪い」


入江杏さんは講演会の最後に『ずっとつながっているよ』という絵本を朗読します。
参加者からたくさん感想が寄せられる中に、傷つけられる感想もあるそうです。

社会には常に「望ましい被害者像、遺族像」があって、そのイメージと少しでも違えば、糾弾されてしまいます。大学生向けのグリーフケアやメディアリテラシーの授業などでは、その率直な感想の中に「殺人事件の遺族というのはもっとしょぼくれているものと思った」「貧乏くささがないので、驚いた」「幸せなマダムという印象が意外」というものがありました。いかにステレオタイプの被害者遺族のイメージに囚われているのかの例証だと思います。


橋口亮輔『ぐるりのこと。』に、子供を殺された母親が裁判で証言する場面があります。
母親がセレブだと強調するためか、足首のアンクレットがアップになり、被告人を「あれ」と呼んで見下す発言をします。
これはひどいと思いました。
というのが、モデルとなった事件を容易に思い浮かぶからです。
被害者の母親はこんな人間だったのか、母親にも事件の原因があるのではと観客に思わせる演出でした。

2006年、中谷加代子さんは高専の学生だった娘の歩さんが同級生に殺され、加害者は事件後に自殺しました。
『命のスケッチブック』で、中谷加代子さんは二次的被害について語っています。

歩を亡くして、悲しみに暮れているわたしたちに、
「殺されたのは、親の育て方が悪かったせいだろう」
「女の子なのに高専へなど行かせるからだ」
などと書かれた手紙が届いたり、電話がかかってきたりするのです。
また、わたしたちがテレビの取材を受けたことに対して、
「おまえらは有名になりたいのか」
などと、ひどい中傷をされたりね。


黒川創『鶴見俊輔伝』に「風流夢譚」事件について書かれています。
1960年、深沢七郎「風流夢譚」が「中央公論」に載り、右翼が中央公論社に抗議した。
1961年、中央公論社社長嶋中鵬二宅に右翼の少年が押しかけ、社長夫人に重症を負わせ、止めに入ったお手伝いの女性を殺害した。

鶴見俊輔は友人の嶋中鵬二宅を訪れると、事件後に届いたハガキなどの束があった。
右翼の襲撃について、いい気味だとして、さらに憎しみを示しているものが多かった。
嶋中鵬二は、この国に、神社関係者がこれほど多くいるということを初めて知ったと言い、そういう事情を十分考慮に入れずに雑誌を出していたことには、出版社の社長として反省があると述べた。

『風流夢譚』とはまったくの無関係のお手伝いさんが殺されたのに、わざわざ「いい気味だ」といった手紙を書くのはどういう神経なのでしょう。

入江杏さんは「悩まされたことは、フェイクニュースの問題です」と、メディア批判をしています。
情報が寄せられても確証があるものは少なく、興味本位の情報が拡散することも多かった。
「新潮45」に、侵入経路や犯人の特徴、ソウル在住の人物への疑惑、などが記事化された。
また、犯人を突きとめたとする書籍が出版されて話題になった。
世田谷事件の出版物について、警視庁捜査一課長が会見で「ことごとく事実と異なり、誤解を生じさせ今後の捜査にも悪影響を与える懸念がある」コメントしています。

松本サリン事件で警察やメディアから犯人扱いされた河野義行さんは、講演で「週刊新潮」だけは謝罪に来なかったと話されていました。
http://www.bj40.com/kuroiwa/kimochi16.htm

入江杏さんの講演の感想にこんなのもあります。

私の講演に寄せられる「入江さんの話は聞いていて癒やされる。めったに巻き込まれることもない殺人事件の話で、しかも助け合う家族の話なので、聞きやすかった。いじめや貧困、差別など、気が重くなったり、自分に矢が向けられたりするような話は聞きたくない」といった感想にも、とまどいを感じました。

ほめているわけで、本人としては善意なんでしょうが。
犯罪は自分の住む世界とは全く違う別世界だと、私たちは思いたいのです。

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ジェフリー・S・ローゼンタール『それはあくまで偶然です 運と迷信の統計学』

2023年07月31日 | 

ジェフリー・S・ローゼンタールは統計学の教授です。
『それはあくまで偶然です』は統計学がいろんなことを教えてくれることをわかりやすく説明しています。

人は偶然に起きた出来事を何らかの原因によって必然的に起こったと錯覚しがち。
迷信、占星術、超科学、宝クジの予想が当たるとか思いますが、それも錯覚がほとんどです。

銃で遠くの的に弾を当てたとして、その人の銃の腕がいいとは限らない。
まぐれ(偶然)だったり、数多く撃ったり(下手な鉄砲も数打ちゃ当たる)、的が大きかったり、ウソの報告なのかもしれない。

ある自然医療で10人のガン患者が治ったとする。
しかし、それだけでは効果があったことにはならない。
10人は治ったが、100人は治らなかったかもしれない。
他の原因で治ったかもしれない。
治ったと思っただけで、実は治っていないのかもしれない。
治った10人に副作用や後遺症があったかもしれない。
その治療法を信奉して死亡した人は、死んだことを報告できないから、治った話ばかりを耳にすることになる。

自分のことを言い当てられたと感じさせる言い方をストックスピールという。
「あなたは裏切られた経験がありますね」
「あなたは嘘をついて人を傷つけた経験がありますよね」
「あなたは型にはまりすぎていなければ、個性的でありすぎるわけでもないでしょう」
「あなたは幅広い関心を持っています」
「あなたは自分について他人に正直に明かしすぎるのは賢明ではないと知ってますね」
「あなたは一定の変化や多様性を好みます」
「あなたは自分に批判的な見方もできる人です」
こうした誰にでも当てはまることをもっともらしく言うのは霊能者や占い師のトリックの一つ。

夢のお告げは、当たった時のことだけを覚えていて、はずれたのは忘れる。
偶然の一致にすぎないのに、関係ない出来事を関係あるように思い、神の配慮、運命といった意味を見出して一喜一憂する。

40人のクラスで自分と同じ誕生日の人がいる可能性は10%。
宝クジで一等賞を手にするよりも、宝クジを買いに行く途中で死ぬ可能性のほうが高い。
統計学によれば、近年の地球の温度の上昇はたまたまではない。

2021年、殺人は10万人あたり、アメリカで6.81件、フランス1.14件、英国1.00件、ドイツ0.83件、韓国0.52件です。
日本の殺人件数は年に874件で、10万人あたり0.23件。
世界177か国のうち、日本の殺人発生率は171位。

飛行機に乗って死亡する確率は3000万分の1。
交通事故による死者数は2022年では2610人で、飛行機より自動車のほうが死亡する率が高い。

身代金目的など悪意を持った人に誘拐される子供は50万人に1人。
子供の誘拐、テロ、ビルの爆破などがニュースになるのは、そうしたことが起こるのがまれにしかないから。
だから、犯罪や事故に巻き込まれることを過剰に心配すべきではない。

アメリカの科学アカデミーの会員で、人格神の存在を信じる人は7%。
イギリスの王立協会のフェローの64%が神が存在するとはまったく思っておらず、存在するという考え方に強く賛成する人は5%。
アインシュタインは「人間は、もし死後の罰への恐れや報いへの期待に縛られていたら、じつに哀れむべき状態になるだろう」と言っている。
ローゼンタール自身も宗教を持っておらず、死後の生を信じていないと明言しています。
ある講演会でのエピソード。

主催者が高齢の夫婦を紹介してくれた。
この夫婦は最近、息子をガンで亡くした。
息子は最後の日々を確率に関するローゼンタールの本を読むことで慰められていた。
なぜか。

罰ではなかった。
過失でもなかった。
自分がしたことやしなかったことのせいではなかった。
自分が悪い人間だったからでも、死んで当然だったからでもなかった。
ガンになったのは、ただのランダムにすぎなかった。

何かが私たちの過失ではないとき、そうと気づく助けとなりうるのだ。私たちは、自分の不運には特別な意味がないと悟ることができれば、その不運について自分を責めるのをやめられるかもしれない。過失を問われることはないから。


ガンになったのは、あなたのせいだ(邪教を信じている、前世の報い、先祖供養をしないなど)と責める宗教が少なくありません。

訳者あとがきにこうあります。

ある人が、本人には何の責任もない幸運あるいは不運に見舞われるのは、まったく偶然であり、本人に責任がない以上、そこになんの因果もない。そう承知しつつも、我々人間は、そうした出来事に何らかの意味を加えることで、ときに慰められ、また気持ちの整理をつけて暮らしている。
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