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三日坊主日記

本を読んだり、映画を見たり、宗教を考えたり、死刑や厳罰化を危惧したり。

ロバート・J・スミス、エラ・ルーリィ・ウィスウェル『須恵村の女たち』

2025年05月20日 | 
『須恵村の女たち』はロバート・J・スミスがエラ・ルーリィ・ウィスウェル(夫ジョン・エンブリーの死後、再婚してウィスウェル姓)の日録をもとに、ジョン・エンブリー『須恵村 日本の村』を参考にして書いた本です。

ジョン・エンブリーは性についても以前とは変わっていると書かいています。
夜這いや婚前交渉、女性の浮気など減っており、これも国や村の政策が影響している。

ところが、エラが10歳から23歳まで日本で生活していたので日本語が堪能だったためか、『須恵村の女たち』を読むと、性について女性があけすけに語っているように思われます。

寡婦はちょっとした贈り物をすれば近づきやすいと考えられている。
寡婦は性的には自由であり、隣人の冗談の対象であり、冗談を言い合う関係にある。
通ってくる既婚者や若い男が何人もいる寡婦がいるし、男好きと揶揄される女も。
村では愛人を囲うとか免田村の芸者屋に通う余裕のある人は多くない。
部落の寡婦はこの問題の解決策の一つである。

妻妾同居の家もあった。
妻の浮気も珍しくない。
再婚や離婚はごく普通で、10回結婚した女もいる。

電気がなかったころは、若者が家族にわからないようにお手伝いの部屋に入るのは簡単で、男が寝床に潜り込むまで娘が気づかないこともあった。
男は手ぬぐいで顔を覆っているので、誰だかわからない。
ところが、電気のある家は灯りがつけっぱなしで、秘め事を難しくしている。
しかし、夜這いが続いているのも事実。

娘が妊娠したら、親は子供が生まれる前に結婚させようとする。
妊娠した娘は下の階層の男と結婚することになる。
寡夫と結婚する娘も多い。

1935年には以前よりも未婚の若い女性が結婚前に性関係を持つことはあまり見られなくなったし、私生児も少なくなった。
1903年(明治36年)の婚外子の割合は9.4%で、1943年(昭和18年)の4.0%の2倍強。
https://x.com/danjokyoku/status/1552834728163971072/photo/1

道徳的になった理由の一つは学校教育。
純潔を保たねばならないという教育を受けている。
若い男は売春宿や料理屋があるので、村の女の子を追いかけない。

離婚も減った。
1883年(明治16年)の人口1000人あたりの離婚率は3.39で、2020年(令和2年)の約2倍。
1935年の離婚率は0.70。
夫が大酒飲み、暴力を振るう、姑との折り合いが悪いなどで、我慢の限界を超えると離婚した。

以前は離婚しても簡単に再婚できた。
それは労働力を必要としていたから。
離婚が減ったのは、持参金の額が大きくなり、結婚式の費用も多額になったから。

昔は5円で結婚できた。
5円あれば料理屋や売春宿で女を買える。
今は結婚に多額の金がかかるので、離婚する前に考えることになる。
結婚の年齢が高くなったこともある。
以前は女性が十代で結婚するのは普通だった。

エラ・エンブリーは1951年と1968年、1985年に須恵村に再訪しています。
1950年に死んだジョン・エンブリーの追悼会が1951年に行われ、エラが出席しました。
宴会は1935年の時と全く同じだった。

どんなふうだったかというと、宴会で歌と踊りを楽しんでは、午前さまになることもしばしば。
性行為に関する冗談と、それを真似た踊りは頻繁に行われる。
宴会での既婚の女の踊りには性的な特徴がある。
歌に合わせて性交の真似や誇張をするのは、女性の性的な感情の表現である。

女たちは猥談と噂話が好きで、煙草、酒、性に楽しみを見いだしていた。
一晩に2回は普通、5分で最高潮に達する、など。
田植えでは卑猥な冗談で笑い声が出る。
1951年の宴会もこんな感じだったのでしょうか。
しかし、1968年には全く違っており、村人は礼儀正しくなった。

戦前の農村は江戸時代と変わらない生活だったと、杉浦正健『あの戦争は何だったのか』にありますが、まったく変わらないということはあり得ません。
全国どの村も少しずつ変化しているのでしょう。

ジョン・エンブリー『須恵村 日本の村』(2)

2025年05月16日 | 
ジョン・エンブリー『須恵村 日本の村』に書かれている宗教についての記述の続きです。

神主や僧侶より重要なのは、病気を治し悪霊を追い払う祈祷師である。
村には3人の祈祷師がいて、稲荷神社2社と天台宗の寺がある。
この他に、祈禱によって病気を治す力を売り物にする者が2人いる。

多くの人が祈祷師の治癒力は医者と同じかそれ以上と考えている。
村に医者はおらず、隣村の医者は1回の往診に1円かかる。
治療代は15銭相当の米か、何個かの卵を持っていけばすむ。

気分が悪くなったり痛みや病気になると、医者を呼ぶこともあるが、神仏に頼んだり祈祷師を頼る。
本人か身内が祈祷師のところに行く。
祈祷師は症状を調べ、生年月日を聞き、患者の頭の上で御幣を振り、お札や護符を授ける。
牛や馬が病気になったときも祈祷師に相談する。
地鎮祭には祈祷師を呼ぶ。

子供の名は祈祷師の勧めによってつけられたり変更されたりする。
厄年に子供が生まれたら、祈祷師は動物の名で呼ぶことを勧める。
5歳を過ぎて何ともなければ本名で呼ばれる。

物に憑かれると祈祷師を訪ねる。
憑き物は主に犬の霊だが、猫や鼠の霊もある。
犬神が赤ん坊の病気の原因と信じる人がいる。
犬神は信心深くない人の家に憑く。
犬神に憑かれたことがはっきりしたら、すぐに祈祷師のとろこに行かねばならない。
家に憑く霊には貧乏神と福の神の二種類ある。

呪術師は人を呪い、祈祷師は呪いを解く。
人の幸福のために祈る祈祷師はほとんどが男性だが、人に害をもたらす魔女は女性である。
呪術を使う女がいると信じられ、たたりや呪いをすると信じられていた。
犬神持ちという噂のある女性、あるいは犬の霊を使う呪術師や犬の霊が憑いた人が各部落にいる。

宗教と祈禱の人数と年収
神社1人 254円
寺(臨済宗)1人 85円
稲荷祈祷師2人 39円
三宝荒神の祈祷師1人 46円
他の祈祷師2人 8円

祈祷師の社会的地位はせいぜい中の下ぐらい。
祈祷師は医者より信頼されているのに、村での地位は低く、収入も少ないのは不思議です。
呪術師が人を呪うのは誰かに頼まれたからで、どういう人がなぜ呪術師に頼むのか、そこらをジョン・エンブリーが調べてくれてたら。

志水宏行「村落社会における宗教意識の変容」は、昭和49年に行われた兵庫県養父郡大屋町(現在は養父市)の調査についての論文です。
病気などの時に祈祷師に頼んだことがある人は15.7%、7人に1人とあります。
多くの人が祈祷師に頼んでたのはいつごろまでだったのか知りたいものです。

『須恵村 日本の村』は、1935年の時点で、村の様子、習慣などが以前とは様子が違ったとあります。

村の変化の原因として、以下の事柄があげられています。
国の政策、村の指導、農業の機械化、交通の発達、教育の普及、村の外に出る若者たち(軍隊や就職)、商業の発達と金銭の流通(自給自足から貨幣経済に)、協同組織の衰退など。

宗教行事の簡略化も村の変化の一つです。
政府は倹約を奨励し、結婚や出産、葬儀で無駄な出費をやめさせている。
この政策は祭りの縮小の大きな原因になっている。
毎年の祭りは昔のほうが普通に行われていた。
県庁が副業を奨励する中で小麦栽培の仕事が増え、祭りは少なくなりつつある。

かつて葬儀はとてもお金がかかった。
遺族は立派な会食を行い、親戚は墓地に飾る豪華な反物を贈っていた。
以前は、お盆にはすべての死者を追悼し、部落中の人が菓子や提灯の贈り物を持ってその年に亡くなった人の家を訪問した。
今は多くの部落では各家が十銭ずつ出し合い、代表一人が遺族を訪問してそれを渡す。
祭りや宴会が減少するにつれて、それに伴う相互の交流も減少した。

共同体が行なっていた葬儀が現在は家族葬になり、さらには直葬が増えているわけですが、この変化は戦前からすでにきざしていたようです。

ジョン・エンブリー『須恵村 日本の村』(1)

2025年05月10日 | 
人類学者のジョンとエラのエンブリー夫妻は日本の農村調査のため、1935年11月から一年間ほど熊本県須恵村(あさぎり町)に滞在しました。
東京外国語学校を卒業した日本人が通訳をしています。

ジョン・エンブリーはフィールドノートをもとに博士論文を書き、それをさらにまとめたのが1939年に出版された『須恵村 日本の村』です。

球磨川沿いにある須恵村は1933年の統計によると人口1663人、戸数285戸で、ほとんどが農家です。

村には臨済宗寺院があり、檀家は50戸。
それ以外の家は隣村の真宗寺院の門徒。
江戸時代、相良藩は真宗を禁じており、須恵村でも秘密の集まりが開かれていた。

宗派の違いを知っている者はほとんどおらず、家がどの寺に属しているか知らない若者もいる。
特別な時でさえ参拝することは滅多にない。
来世のことを思い、仏陀について考えるのは年寄りである。
釈迦と阿弥陀の違いを話すことはできず、釈迦と仏陀を別々の仏様と考えていることも多い。

僧侶は経を上げた後にいつも話をするが、その話を理解しようとすることはない。
僧侶が話す輪廻は聞き手には理解されないようである。

御正忌報恩講には6日間、講師が説教をする。
ほとんどの真宗の信者は寺を訪れ、供物を持参する。
田植えの供養である植付けご供養は、田植えの間に殺された虫のために催され、真宗の僧侶が説教する。

『須恵村 日本の村』には、それは違うんじゃないかと思う個所があります。
日本語ができないジョン・エンブリーが誤解したか、通訳のミスか、翻訳がおかしいかのではないかと思います。

若い人が仏教に関心がないとありますが、すべての若い人がそうではないと思います。
僧侶の話を理解できない、理解しようとしないということも、みんながそうだとは思えません。
須恵村は隠れ念仏の村だったわけですから、熱心な聞法者が少なくないと思います。

植え付け供養を真宗の僧侶がしたということはいささか驚きです。
どういう説教をしたのか聞いてみたいもんです。
虫のための供養は今も行われているようです。

遺体は白装束に着替え、首に下げられた頭陀袋に2、3枚の硬貨が入れられる(三途の川の渡し賃?)。
友引になくなった場合、藁人形が棺に置かれる。

僧侶が到着すると隣の家で待つ。
葬儀の会食が始まるが、この会食には魚はない。
遺族は僧侶と酒を酌み交わす。
会食が終わると、僧侶は読経する。
この間、部落の手伝いの男たちは、庭や納屋で食べたり飲んだりして楽しんでいる。

葬儀が終わると、男たちは棺を墓地に持っていく。
供養が三日またぎを好まない。(三日は三月の間違い?)

葬儀の規模は年齢と社会的地位によって異なる。
赤ん坊が死んでも部落の半分しか来ず、親戚はほとんど来ない。
働き盛りの人が亡くなったら多くの親戚が来るし、部落の手伝いも多い。
年寄りが死んだ場合、人はいずれ死ぬものなので、家族が特に悲嘆にくれることはない。

葬儀の前に会食し酒を飲むということは間違いだと思います。
通夜での会食(通夜ぶるまい)のことじゃないでしょうか。

年寄りが死んでも悲嘆にくれないというのはジョン・エンブリーの誤解だと思います。
小泉八雲『日本人の微笑』に、「私の日本人の乳母が先日何か大変面白いことでもあったようににこにこしながら私のところへ来て、夫が死んで葬式に行きたいから許してくれと云って来ました。私は行ってお出でと云いました。火葬にしたようです。ところで晩になって帰って来て、遺骨の入った瓶を見せました。そして「これが私の夫です」と云いました。そしてそう云った時、実際声を上げて笑いました。こんな厭な人間をあなた聞いたことがありますか」とあります。

芥川龍之介『手巾』はこんな話です。
大学教授(モデルは新渡戸稲造)の家に婦人が訪れ、先生の教え子である息子が亡くなったことを報告するが、婦人は涙もためず、声も平生どおりで、微笑さえ浮かべていることを先生は不思議に思う。
ところが、先生がテーブルの下に落とした団扇を拾おうとしたら、たまたま婦人の膝の上にある婦人の手が激しく震え、ハンカチを両手で引き裂かんばかりに握っているのを見る。
婦人は顔では笑っていても、全身で泣いていた。
感情をあからさまにしないのが日本人の美徳だったと思います。

神主は村の農民で、村役場が推薦し、県庁が正式に任命する。(国家神道なので神主は公務員待遇)
村役場からは年254円の報酬で、村人から約270円の寄付を受け取る。
1935年の500円は、大卒初任給90円(20万円)とすると約110万円、米10kg2円50銭(3000円)として60万円。
神主だけでは生活できません。


杉山榮『先駆者岸田吟香』と「呉淞日記」

2025年03月09日 | 
岸田劉生の父親である岸田吟香(1833年~1906年)は実業家で、多方面に活躍しています。
どんな人物なのかに興味がひかれ、杉山榮『先駆者岸田吟香』、豊田市郷土資料館編『明治の傑人岸田吟香』を読みました。
岸田吟香は最初に卵かけご飯を食べた人であり、口語文を最初に書いたと言われています。

慶応2年、英語辞典の印刷のため、ヘボンと上海に行ったときに「呉淞日記」を書いています。
『明治の傑人岸田吟香』に「呉淞日記」がいくつか引用されています。

慶応2年12月7日
日本の学者先生たちが、ほんをこしらへるに四角な字でこしらへるが、どういふりようけんでほねををつてあんなむづかしい事をした物かわからねェ。支那人に見せるにハ漢文でかいた方がよからうけれども、日本の人によませて日本の人をりこうにする為につくるにハ、むづかしく四角な文字で、あとへひつくりかえつてよむ漢文を以て書物をつくりてハ、金をかけて版にしてもむだの事なり。労して効なしといふンだ。(略)
世間に学者よりハしろうとの方が多イから、しろうとにハさつぱりちんぷんかんぷんなり。
旧仮名づかいではありますが、下の文章など読みやすくわかりやすい。

慶応2年12月24日
「あゝくたびれた。けふ竹をおよそ三十幅ばかりもかいて見たが、これハよくできたとおもうやうなのハ一幅もなし。かいてもかいてもおもしろくないから、はらがたって来た。

その点、杉山榮『先駆者岸田吟香』はいささか読みづらい。
というのが、1946年に当用漢字表、1949年に当用漢字字体表が告示され、しばらくは旧字体、当用漢字以外の漢字が使われたそうで、『先駆者岸田吟香』は1952年の出版なので、漢字は旧字体だし、今はほとんど使われない漢字が多いからで。

岸田吟香が生まれた垪和村(はがそん)がまず読めない。
呉淞も。

今はほとんど使わない字
殆んど、且つ、俄か、聊か、尤なる
邑、全軀、谿谷、擔当、荊棘、裡、腐蝕、惨澹、汽罐
倚る、繞る、駛せる、欣ぶ、需る、夥しい、舁ぐ

誤字かもしれない字
取り毀す 「毀つ」の間違いか。
晩れる 晩は「おそい」だが、「おくれる」と読ませたのか。
偉きかった 「き」は誤植か。
倚依 「依倚」か。

意味がわからなかった字
暢達、烏鷺、喧伝、濫觴、炯眼

読みも意味もわからなかった字
貶黜(へんちゅう、へんちつ)官位を下げて、しりぞけること。
瀛(えい)大海。沢。池や沼。
怡(い)よろこぶ。たのしむ。

『先駆者岸田吟香』はカタカナが少ないです。
アメリカ、ヘップバーンなど固有名詞か、カッフェ、バス、ダムといった日本語になっている言葉ばかり。

今の本も70年も経てば読むのに一苦労することになるかもしれません。

高村光雲『幕末維新懐古談』のルビ

2025年01月10日 | 
『幕末維新懐古談』は大正11年(1922年)に高村光太郎,田村松魚が高村光雲に聞いた話をまとめたものです。
漢字のルビが味わい深いです。

汝 きさま、音響 おと、身惨 みじめ、正面 まとも、夜業 よなべ、手法 やりかた、生計 くらし、有福 ゆうふく、教育 しつけ、笑談 じょうだん、転宅 ひっこし、技倆 うで、暴風雨 あらし、背後 うしろ、黒人 くろうと。

結局 つまり、手助い てつだい、落胆 がっかり、悉皆 すっかり、幾金 いくら、何金 いくら、種々 いろいろ。
正座 すわる、呈げる あげる、作る こしらえる、芽差す めざす、思考える かんがえる、掠奪う さらう、衰微れる さびれる、実行って やって、待遇す もてなす、製作える こしらえる、放棄る ほうる、質問ねる たずねる。

厳励しい きびしい、最愛しい いとしい、困難しい むつかしい、多忙しい いそがしい。

流行 はやり、老舗 しにせ、は今も使われています。
華客 とくい、同情 おもいやり、区別 けじめ、道理 もっとも、などは言葉の意味がはっきりしてスグレモノだと思います。

題名は忘れましたが、以前、明治時代の小説から面白い漢字の使い方を集めた辞書が出てました。
復刊したらいいのですが。


高村光雲と松本清張の収入

2024年12月26日 | 
高村光雲『幕末維新懐古談』は幕末から明治20年代についての回想ですから、『樋口一葉赤貧日記』とほぼ同時代です。
大正11年(1922年)、高村光雲70歳の時の聞き書きなので記憶ちがいがあるかもしれません。

高村光雲は嘉永5年(1852年)生まれ。
12歳で仏師の高村東雲に弟子入りする。
明治7年(1874年)、23歳で11年間の年季が明け、そのまま東雲のところで仕事をする。
1日25銭、月7円50~75銭をもらう。。
親子4人がこの給料で生活した。

伊藤氏貴『樋口一葉赤貧日記』によると、明治10年代の1円は、
生産価値(巡査の初任給による)3万3千円
消費価値(かけそばの値段による)3万8千円
ですから、1円が3万3千円として24~5万円。
樋口一葉が戸主となったころの樋口家よりはましです。

高村東雲は新しく家を借り、その家を700円で直した。
明治8年、羅漢寺の百観音像を下金屋が買い、観音像を焼いて金だけ取ろうとしていることを知る。
光雲は交渉して5体だけを取り出し、東雲に頼んで買ってもらう。
5体で1両3分2朱(1円87銭5厘)、大正11年(1922年)の30円くらい。

明治10年、内国勧業博覧会に師匠の代わりに1尺の観音像(白檀)を出品する。
70円(約23万3千円)で売れたが安いと思った。
作品を完成するまでに費やした時間がどれほどかわかりませんが安いと思います。

明治12年、師匠の高村東雲が死亡する。
葬儀一切の費用50円。

明治10年代、象牙彫りが盛んとなり、木彫りは衰退して生活に困窮するほどだった。
明治17年に日本美術協会が発足、明治19年に東京彫工会が発会。

明治21年、皇居御造営の仕事を命ぜられる。
鏡縁、欄間、そして柱の装飾として四頭の狆の丸彫りを彫る。
四頭で100円(250万円)、一頭25円ですが、不満そうな口ぶりです。

明治22年のパリ万国博に出品するため、矮鶏(チャボ)を彫るが間に合わない。
足かけ2年をかけて完成させる。
日本美術協会の展覧会に出品したら、叡覧になった明治天皇が求めた。
宮内省から100円をお下げになった。

明治22年3月、東京美術学校雇いという辞令を受ける(月棒25円)。
5月、教授になり、年棒500円。
生活に余裕ができ、弟子を取ることになる。
それまで弟子を置かなかったのは、弟子の衣服や小遣いを給するわけにいかないから。

岡倉天心より奈良見物をしてくれと言われる。
10日間の旅費160幾円を給される。
そのころ人力車が3銭から5銭ほど。
奈良の対山楼は1泊45銭、京都の俵屋は50銭だった。

大正4年(1915年)、11歳の佐多稲子は父親と上京し、キャラメル工場で働きます。
職場まで電車で40分かかり、電車代を差し引くとお金が残らない、そんな日給です。

松本清張の自伝『半生の期』を読むと、樋口一葉が生きた時代が特に貧しかったわけではないようです。

大正13年(1924年)、16歳で高等小学校を卒業して電気製品会社の小倉支社で給仕をする。
給料が11円。
支店長は120円、会計主任80円くらい、倉庫係40円、屋内配線係30円。

月給が30円40円の人は相当苦しい生活をしていた。
ごみごみした路地裏のうす暗い小さな家に住み、襖も畳も荒れていた。
奥さんかなりひどいかっこうをしていた。
所長の家は借家ではあったが、小さいながら門があり、玄関の三畳に奥さんがきちんと座って会釈した。

11円は現在の金額でどれくらいでしょうか。
純金1gあたりの小売年間最高価格は大正14年(1925)に1円73銭。
金1gは2020年に6500円程度なので、10円は4万円ぐらい。
https://www.jibunbank.co.jp/column/article/00251/

大正末の大卒サラリーマンの初任給は40~50円だったそうです。
現在が20万円ちょっとだとすると、10円は5万円ぐらいでしょうか。
https://coin-walk.site/J077c.htm#E06

月30~40円では、内職などの副収入がなければ、奥さんがひどい格好をしているのもわかります。

堀川惠子『永山則夫 封印された鑑定記録』に、永山則夫の中学2年の担任の話が紹介されています。
あの事件の後ね、さんざん貧困が生んだ事件だとか騒がれたでしょう。でもね、私に言わせたら、あの当時、永山より貧しい子はまだいましたよ。永山の家がいくらボロだと言っても一応、屋根のある家でしょう。ある女子生徒の家庭訪問に行ったら、馬小屋ですよ。ピューピュー風が通る中で藁にくるまって、父親とふたり身体を寄せ合って寒さを凌いでいた、そんな子だっていましたよ。
永山則夫が中学2年の時は昭和38年だから、東海道新幹線が開業した年で、翌年が東京オリンピックです。
冬の青森で馬小屋生活をしていた人がいたとは。

昭和23年、つげ義春は小学校を卒業してメッキ工場で働きます。昭和30年代、つげ義春は家賃を1年以上滞納していたそうで、お金がなくても何とかなっていたのかもしれません。
樋口家も借金で食いつないでいたわけですから。

伊藤氏貴『樋口一葉赤貧日記』(3)

2024年12月22日 | 
『樋口一葉赤貧日記』の続きです。

明治20年代後半の1円
生産価値(巡査の初任給による)2万2千円
消費価値(かけそばの値段による)2万5千円

明治27年、竜泉寺の店をしまい、本郷の一戸建てに引っ越す(家賃3円)。
引っ越しその他の費用は借金する。

西村釧之助(後に妹の邦子の愛人)から50円を借りる。
利子は20円につき25銭で、期限は決めない。
高利貸しから借りた金の利子は月2割。

明治28年5月22日、西村釧之助が来て、相場で当てたと、うな重をご馳走してくれた。
うな重は30銭で、家族3人との4人分だとして1円20銭。、
そば一杯が1銭5厘なので、うな重はかけそばの百倍です。

24日、西村釧之助から5円借りる。
翌日、邦子と寄席に行く。
木戸銭は安いところで2銭5厘で、座布団代、茶代がかかって4、5銭。
26日、平田禿水ら3人が来たので、鰻をとって振る舞う。
家族も食べたとしたら6人分です。
6月16日、家に一銭もなく、家賃を払うために西村釧之助から3円借りる。
相変わらず金銭感覚がないのですが、返してくれないかもしれないのに貸してくれる人がいるわけです。

博文館は一葉の原稿を他より高い1枚30~40銭で買ってくれた。
明治29年、博文館から『通俗書簡文』(約220枚)という手紙の書き方の本を頼まれる。
原稿料は30円。
合計で5万部以上売れている。

その年の11月に一葉は死亡。
葬儀の香典が一番多いのが博文館10円と花。
5円が3人、3円4人いて、1円がほとんど。
森鴎外は大ろうそく。
1円が現在の2万円とすると、香典の金額は今より多めです。

一葉は小説22作、随筆2作、本1冊を書いた。
原稿料は、
『大つごもり』約25枚5円
『たけくらべ』約75枚15円
『にごりえ』約55枚16円50銭
原稿による総収入は302円75銭(約666万500円)。
樋口一葉は女性初の職業作家だそうですが、筆一本では食べていけませんでした。

渋谷三郎と結婚していれば、借金しなくても生活できたでしょうし、もっと長生きしたかもしれません。
しかし、借金まみれの生活を続けていなければ後世に残る小説は書けなかったろうと、伊藤氏貴さんは書いています。
五千円札に一葉の肖像画が使われることもありません。
どちらが一葉にとって幸せだったか。

一葉の死後は妹の邦子が戸主となりました。
婿を迎えて文房具店を営み、一葉の日記(50冊)や原稿などを保存しました。
子供が10人生まれています。
一葉が死んだ時、樋口家の借金はいくらあったのでしょうか。
邦子は借金を完済したのか、返済したとして、どうやって返すことができたのか気になります。

伊藤氏貴『樋口一葉赤貧日記』(2)

2024年12月17日 | 
伊藤氏貴『樋口一葉赤貧日記』に書かれている樋口家の懐具合の続きです。

明治10年代の1円
生産価値(巡査の初任給による)3万3千円
消費価値(かけそばの値段による)3万8千円
長男の泉太郎が戸主となってから、樋口家の経済状況は次第に傾きます。
泉太郎が結核になり、療養のために家計が圧迫された。
泉太郎や則義が事業に手を出して失敗。

明治20年代前半の1円
生産価値(巡査の初任給による)2万5千円
消費価値(かけそばの値段による)3万円

明治20年6月、泉太郎が大蔵省に入り、代わりに則義は退職する。
警視庁に勤めていた則義の給料は25円(62万5000円)だったが、泉太郎の給料は8円(20万円)。
泉太郎は11月に退職、12月に逝去し、一葉が15歳で戸主になる。
則義は家を売って事業を興すが失敗する。
明治22年に58歳で死亡。

明治21年、萩の舎の先輩である田辺花圃が『藪の鶯』を出す。
稿料は33円20銭(83万円)だと聞き、一葉は小説家になろうと思う。

女性の内職はマッチの箱貼り、編み物、煙草巻きなどで、賃金は1日6~7銭。
女3人(母と妹)で1日20銭として、月に6円(15万円)。

横山源之助『日本の下層社会』によると、人力車夫が一日に稼げるのは平均50銭ほどで、車などの借り賃をそこから6~10銭引かれる。
人力車夫(5人家族)の1日の支出は45銭9厘。
芸人(3人家族)の1日の支出は33銭3厘。
人力車夫の稼ぎでは赤字になる。
一度車夫に身を落とすと浮かび上がるのは難しかった。

樋口家(3人家族)の支出が1日33銭、月10円弱だと、6円の収入では4円足りない。
このように書かれていますが、10円が現在の25万円とすると、支出が多すぎるように思います。

明治24年、樋口家の借金生活が始まります。
親戚、知人、質屋、高利貸し、さらには見知らぬ人の家を訪れて借金を頼むこともありました。

9月、銀行家の三枝信三郎(真下専之丞の孫)に母が金を借りに行くと、喜んで30円(75~90万円)を無利子で貸してくれた。
3~4か月分の生活費である。
翌日、母親が知り合いの子供が病気なのでいくばくか貸し、ひと月後に別の知り合いに7円を貸す。
次男から借金の返済に3円を貸してほしいと手紙が来るが、手持ちは4円しかない。
30円の金がひと月ちょっとで4円しか残らないわけです。

三枝から金を借りるひと月まえ、妹に帯を仕立て、植木屋に建仁寺垣を結わえさせ、洋傘を2本張り替えた。
傘の張り替えが1円10銭(3万円強)で、数日分の内職が吹っ飛んでしまう。
樋口家の母娘は金銭感覚がなかったようです。

12月25日に半井桃水から原稿料の前払いとして15万円(33万円)をもらう。
これだけでは年を越せないので、26日に小林好愛(則義の元上司)に20円を借りる。
明治25年2月、森照次(則義の元上司)に8円借りる。

9月、一葉の婚約者だった渋谷三郎(真下専之丞の妾腹の子の息子)が訪れる。
検事になった渋谷三郎(26歳)は月給50円。
三郎の姉は生糸商の妻となって月300円の収入がある。
当時、巡査の初任給は8円だった。
渋谷三郎の復縁を打診されるが、母親は断る。

明治28年に定められた質屋取締法によると、貸金25銭以下は一箇月月1銭、1円以下は一箇月百分の4、5円以下は一箇月百分の3、10円以下は一箇月百分の2。
年利に換算すると、1円以下が48%、5円以下が36%、10円以下が30%。
現在の2倍ほどの利率だった。
樋口家が質屋に着物を入れて3円借りると、一年後に4円以上を返さないといけない。

明治26年、竜泉寺に引っ越して荒物駄菓子店を開店する。
店付きで家賃は1円50銭。
店は賑わっても、客のほとんどは子供で、1人5厘か6厘で、2厘、3厘の客もいる。

一日の売り上げは40銭から60銭(1万~1万5千円)。
50銭の売上のために1日に100人の客を相手にしないといけない。
月に12円から18円の売上げがあったとしても、仕入れにかかった費用を差し引くと、純利益は5、6円(10万円)ほどしか残らない(家賃は別)。

せっかく商売を始めたのに、樋口家の会計は少しも改善されませんでした。

伊藤氏貴『樋口一葉赤貧日記』(1)

2024年12月08日 | 
伊藤氏貴『樋口一葉赤貧日記』は、樋口一葉の父が山梨から江戸に出てきてから一葉の死まで、金銭の出入、現在の金額でいくらかが細かく書かれていて、はなはだ興味深いです。

一葉は借金で生活していましたが、一葉が生まれたころは裕福でした。
一葉の写真は7歳(明治12年)から20歳前後と数多く残されている。
写真の値段は明治8年に3~7円、明治17年に75銭~3円、明治38年に70銭~1円20銭。

明治12年、かけそば1杯が約8厘。
現在はかけそば300円とすると、1円は37500円。
写真が3円として、1枚撮るのに10万円以上かかる。

1両
生産価値(大工の手間賃より)30~40万円
消費価値(かけそばによる)12万円
1石
生産価値(賃金による)27万円
消費価値(米価による)5万円

一葉の父の樋口則義は甲斐国山梨郡中萩原村(現在の甲州市塩山)の農家に生まれた。
安政4年(1857年)、則義とたきは12両(約200万円)を持って江戸に駆け落ちする。
村出身の真下専之丞(後に5000石の陸軍奉行並となる)の世話になる。

たきは旗本の稲葉家に乳母奉公する。
給金は年3両、仕着せ両1両など。

安政5年、則義は大番組与力の従者として一年間、大阪に赴任する。
給金は4両一人扶持。
扶持米1人分は年5俵(5石)は135万円。
4両(160万円)と合わせて約300万円。

慶応3年(1867年)、則義は浅井竹蔵から同心株を買取る。
御家人株は与力1000両、御徒士500両、同心200両が相場だった。
家を受け継ぐには、負債も受け継がなければならない。
また、武家の養子になるためには、自身も武家の出でなければならなかったので、親類書きを作り、名前、生地、親類関係をでっち上げる。
武士と親類ということにしてもらうために付け届けもしなければならない。

同心株100両と、浅井家の借金の肩代わりが約200両、その他手数料など数十両で、計4百数十両が必要だった。
手持ちは170両、不足の250両を無尽講で調達して、同心の浅井家の養子となり、家と役職とを継いだ。

1両が20万円だとして、400両は8000万円。
浅井家の借金は膨大です。

30俵2人扶持(40石)は現在の金額で年収1000万円を越える。
しかし、3か月後に大政奉還が行われた。

明治初年
1円
生産価値(巡査の初任給)5万円
消費価値(かけそばの値段による)6万円
米1石
生産価値(賃金による)27万円
消費価値(米価による)5万円

則義は幕府崩壊後、新政府に横滑りすることができた。
明治3年(1870)、則義は東京府貫属卒で、本禄13石、家禄26石(約1000万円)。

明治5年、一葉が誕生。
明治4年、両に代えて円という通貨単位を定めた。
交換比率は1両=1円。

明治になると、旧幕臣や大名は家屋を維持できなくなり、明治5年(1872年)の人口は天保期の7割弱の86万人を切った。
土地の価格が下落し、屋敷と土蔵の上物付物件が1坪2銭5厘。
明治7年に売り出された木村屋のあんぱんが1個5厘なので、あんぱん5個で都心の土地が1坪買えた。

明治5年、福沢諭吉は肥前島原藩松平家の中屋敷(約1万3千坪)を500円で買った。
1円=6万円として3000万円(1坪約2300円)。
木村屋のあんぱんは300円ぐらいですから、現在とほぼ同じです。

則義は不動産売買で稼ぐ。
明治6年に買った下谷練塀町の家を1年半後に130円で売り(元の買値はわからない)、借家に引っ越す。
明治9年、本郷の家屋233坪(東京大学赤門前))を550円で買って一家で移り住む。

このころ、則義の棒給が月20円だから、2年4か月分。
現在、家を購入するときの上限の目安が年収の5~6倍。
現在の文京区の住宅地の平均坪単価は400万円ほど。

明治9年、金貸しを始めた則義は勤めを退職する(退職金160円)。
翌年、警視局に再び勤めた。

尾上梅幸『女形の事』

2024年10月13日 | 
男であることを隠してミスコン挑戦!映画『MISS ミス・フランスになりたい!』予告編
コップの持ち方が違うと注意された主人公は「ミリ単位のずれじゃない」と言います。
「完璧と普通の違いが分かる? 数ミリよ」

テレビのワイドショーで、ニューハーフがAKB48の女の子たちに女らしくしなさい、私たちは普段から研究しているんだと言ってました。

男が女になることの難しさは尾上梅幸『女形の事』を読んでよくわかりました。
『女形の事』は名女形として名高い6代目尾上梅幸(1870年~1934年)の芸談です。

女と男とでは身体の骨組みが違う。
昔の役者は子供の時分から女の着物を着せられて、女の髪を結わせられ、立ち居振る舞い、言葉の使い方など、男の子とは思えないような育て方をされ、身体を慣らしてきた。

身体を優しく慣らすことには踊りを習うことが第一で、踊りを覚え込んでしまえば、手足の動かし方、物腰の優しさ、すべてが知らず知らずのうちに女になっていくことができる。

箱根へ湯治に行った時、源之助が来合せてゐて、一緒に風呂に入ったことがありましたが、その時源之助が後ろ向きの立腰の形で、糠袋で顔を洗ってゐましたが、その撫肩の形から、腰からお尻へかけての丸み、それがどうしても女の身体としか見えないので、永年の舞台経験の上から、つひに丸裸の姿までが、女になってゐるのに驚いた事がありました。
澤村源之助は1859年生まれですから、梅幸の11歳上です。

女形は指先を使ふのに、これを優しく見せることに、気をつけなければいけません。團十郎(九代目)が娘形に扮する時など、拇指を掌の中へ隠して踊るやうにしてゐたのなど、手の甲の方から見ると、指が四本より見えないので、それだけ細くなるといふわけです。

小指を曲げて踊る人がいるが、これも手を小さく見せる工夫の一つ。
しかし、市川團十郎はこれを嫌って、「茗荷のやうな手つきをするな」とよく小言を言った。

物を指さす時、人差指を真直ぐに出せば、これはよく停車場などにある、案内札に画かれてある手つきになって、それを思ひ出させますから、多少上へ上げるとか、下へさげるとか、形をつける方がいゝのです。とりわけ若い女の場合は上へ上げる方が若さを現はすことが出来るのです。さうして物を差す指は中指、薬指、小指の三本を、拇指と共に手の中へ握り込むやうにすれば、形も小さく細く見えます。

指一本で女の年齢を表すことができる。
若い娘、中年の女、婆さんは指の差し方、向け方が違う。
他にも、化粧(白粉と紅)、鬘の形、腰巻のつけ方、胸に入れる乳布団、聞き方、泣き方、酒の飲み方、驚き方など、細かい工夫、心掛のあれこれを語っています。

梅幸は5代目菊五郎の養子です。
『播州皿屋敷』で市川小團次が青山鉄山を勤めた時に、忠太の役を米五郎、菊五郎がお菊を勤めた。
小團次が毎日毎日二人を呼んで稽古をしてくれた。
その稽古が実に厳しいものだった。
稽古を終わって寝るのが毎晩九つ過ぎになった。この時のやかましさといふものは、一通りや二通りではなく、本当に話にならないくらゐだ。

どんなにやかましかったのか。
お菊が皿を勘定するところがむづかしい。その皿の数を読むのに、一つ二つといふ台詞があるが、これを幾度言ってみても小團次の気に入らない。俺は肚の中でとても自分には出来ないと思った。こんな無理を言ったって、この上にやり方がないと思ふから、自然怨めしい心持になって、馬鹿々々しくも考えて、ある月のいい晩に忠太をする米五郎と一緒に、庭の井戸端で相談して、小團次を殺して大阪へ逃げようと思ったことさへあった。

菊五郎の稽古も厳しく、舞台の上で大声で叱られたりすることはたびたびだった。
やってゐる当人にとっては、どうしてもさうは思へない。たゞやかましくばかり言はれるやうな気がして、だん/\情なくなって来た。

お菊が皿を数えるところを菊五郎がどんなふうに工夫したか。
初めの「一つ」「二つ」はサラ/\と言って、先づ「一つ」という時に皿を見て、皿から忠太の目を見るのです。また「二つ」と言って皿を見て、その目を忠太の方へ移して見ます。次に「みいッつ」と数へて、更に「四つ」と言ひますが、この数取りの間は皿の方へ気を取られてゐる心で、口を開いてはいけないのです。それからお菊が「五つ」まで言ってしまふと、忠太が「待て待て待て、もうあとは五枚だぞよ」と言ひます。お菊がちょいと考へて、「六つ」から「七つ」の声がだん/\上ずって上って来るのです。さうして「八つ」は「やあーッ」とぐっと詰めて、「九つ」は「こをこのをうつ」と震へて言ひます。
目に浮かぶようです。
まだまだ続きますが省略。
菊五郎以上に團十郎の怖さは格別だったそうです。

デイミアン・チャゼル『セッション』は、プロのドラマーを目指して音楽学校に入った主人公が、鬼教師にしごかれるという話です。

教師が「good jobほど有害な言葉はない」と言います。
よくやったと言ってミスを認めていたら上達はない。

それで思ったのが、県の部長をしていた人が、言われたことをきちんとするのは当たり前のこと、それに何をプラスするかだと言ってたことです。
音楽家でも正確に演奏して当然で、間違うことなどありません。
素人にはほめて育て、プロを目指す人にははけなして育てるということでしょうか。
パワハラとどう違うのかということになりますが。