ずっと以前、小人プロレスのポスターを見たことがある。
いやな感じがした。
障害者を見せ物にするなんて、という気持ちである。
しかし、これは無知からくる傲慢だった。
高部雨市『君は小人プロレスを見たか』を読むと、小人プロレスラーはプロとしてのプライドを持ち、観客に楽しんでもらおうと一生懸命努力している。
しかし、彼らはテレビには出れなかったし、試合の結果をスポーツ新聞で報道されることはなかった。
なぜなら、小人たちがテレビに出ると、必ず非難の投書が来るからである。
『てなもんや三度笠』の白木みのる氏は、紅白歌合戦に藤田まこと氏が応援として出場したのに、出られなかったという。
白木みのる氏はこう言う。
小人プロレスに対して不快な気持ちを持つのは、小人を笑いものにし、差別していることが不快というより、単に、小人を見ることは不快なので自分の目の前から消えてほしいだけのことではないか。
解説を書いているは、脳性マヒの身体障害者によるプロレス団体「ドッグレッグス」代表である。
ドッグレッグスはテレビのニュースやドキュメンタリー番組に何度となく取り上げられているそうだが、小人プロレスはメディアから閉め出されている。
それはドッグレッグスがボランティア活動の一環だという戦略をとっているからだそうだ。
小人プロレスは駄目でも、身障者プロレスなら安心して同情できるというわけだ。
亀井勝一郎は、同情は傲慢だというようなことを言っているのだが。
高部雨市氏はこう言う。
高慢さと無知、これは差別問題だけではなく、死についても同様である。
死を間近にして苦しんでいる(ように見える)人、あるいはチューブを身体中につけている人、そうした人に対して、かわいそうだ、早く楽にしてやりたい、尊厳死を、と同情することは、無知と高慢ではないだろうか。
その人が気の毒だというのではなく、そうした姿を見るのがイヤだから、見なくてすむようにしてほしいというだけだと思う。
森津純子氏がスパゲティ状態の患者を初めて見たときの気持ちを話した講演には、そういった偽善を感じた。