おなじみキネマ旬報ベストテンの予想です。
まずは邦画から。
『海街diary』
『恋人たち』
『岸辺の旅』
『日本のいちばん長い日』
『あん』
『野火』
『母と暮せば』
『ハッピーアワー』
『この国の空』
『味園ユニバース』
11位以下です。
『駆込み女と駆出し男』
『お盆の弟』
『きみはいい子』
『さようなら』
『FOUJITA』
『3泊4日、5時の鐘』
『バクマン。』
『脳内ポイズンベリー』
『百日紅』
『バケモノの子』
楽々20本をあげることができたので、4作ある園子温作品のどれかを20位以内に入れないといけないと思いますが、はみ出しました。
私の好みとしては
『味園ユニバース』
『俺物語!!』(好きだ)
『花とアリス殺人事件』
『ソロモンの偽証 前篇・事件』(後編はダメ)
そして、新人女優賞は広瀬すずで決まりですが、私は『恋人たち』の成嶋瞳子に助演女優賞とあわせて差し上げたい。
洋画です。
『アメリカン・スナイパー』(不動の1位)
『セッション』
『マッドマックス 怒りのデス・ロード』
『バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)』
『インヒアレント・ヴァイス』
『裁かれるは善人のみ』
『雪の轍』(カンヌ映画祭パルムドールは選外になることが多いけど)
『アンジェリカの微笑み』(監督が亡くなると順位があがるようです)
『薄氷の殺人』
『神々のたそがれ』(『ニーチェの馬』が1位だったので、ひょっとしたら)
アメリカ映画だけのベストテンでも納得の充実ですが、それだとスクリーンのベストテンになってしまうので、他の国の作品も入れてみました。
『スター・ウォーズ/フォースの覚醒』(これ一作で評価はできないと思うのですが)
『フォックスキャッチャー』
『ストレイト・アウタ・コンプトン』
『イミテーション・ゲーム/エニグマと天才数学者の秘密』
『ホワイト・ゴッド 少女と犬の狂詩曲』
『KANO~1931海の向こうの甲子園~』
『キングスマン』
『シェフ 三ツ星フードトラック始めました』
『チャッピー』
『クリード チャンプを継ぐ男』(30歳の新人ボクサーというのもどういうものか)
音楽映画ベスト6。
『EDEN/エデン』
『セッション』
『ストレイト・アウタ・コンプトン』
『ラブ&マーシー 終わらないメロディー』
『はじまりのうた』
『君が生きた証』
この他の私好みです。
『おみおくりの作法』
『ルック・オブ・サイレンス』
『涙するまで、生きる』(カミュ原作の映画はなぜかいい)
『フレンチアルプスで起きたこと』
『パプーシャの黒い瞳』
『人生スイッチ』
『真夜中のゆりかご』
『オン・ザ・ハイウェイ その夜、86分』
『犬どろぼう完全計画』
きりがないのでここらへんで。
山崎豊子『ぼんち』は船場の足袋問屋河内屋の跡取りが主人公で、女遊びが話の中心です。
船場の商人はしぶちんかと思ってたら、金遣いが荒いことに驚きます。
大正8年、22歳で結婚する。
披露宴での会席膳は20円、招待客は200人。
当時、大阪、新橋間の普通汽車賃は6円40銭。
大正10年に離婚。妻に当座の小遣いとして2,000円を渡す。
ちょっとええ月給で50円ですから、月給3年ちょっと分。
大正11年、祖母と母について芝居見物。
家から屋形船で芝居茶屋へ。昼の部が終わると、芝居茶屋へ帰り、祖母と母は着物を替える。夜の部が終わって、船に乗ると11時を過ぎている。
芝居見物にざっと500円ぐらい。
河内屋の1日の商い高が5,000円。
大正12年、父が死に、父が世話をしていた女に3,600円を渡す。
1000円あれば、家が1軒建つ。
大正14年、芸者(ぽん太)の面倒を見ることになり、自前披露をする。
ざっと見積もって1000円近くかかった。
花代1本16銭、昼夜花(午後6時から翌日の午前1時までの花代)は70本(ということは1時間が10本で1円60銭)で11円20銭。
大正15年、別の芸者(幾子)を落籍する。
引祝を地味にしたが、それでも3,000円の費用がかかった。
大正15年、ぽん太に男の子が生まれる。
妾腹ができたら、男の子なら5万円、女の子は1万円渡し、この金で子供との縁を切るのが船場の旦那のしきたり。
昭和2年、ぽん太の毎月のかかりは、月手当200円、衣裳料80円、指輪料50円、白粉代50円、計380円かかった。
野村徳七(野村財閥創始者)は祇園で舞妓を1000円で落籍している。
昭和2年、カフェーで一か月100円の名指し料があれば、そのカフェーのナンバーワンになれる。
世話をする女が4人になった。
昭和3年、お茶屋の支払いが一か月平均1000円。
このころ、十銭ストア、十銭寿司がはやる。
昭和9年、37歳、舞妓の水揚げ料が1000円。
2割がお茶屋の女将に、1割が姐芸者に、1割が女中、男衆への祝儀分。
昭和14年、240円の給料をもらっている中番頭が34,200円をかすめ取っていた。
手代の給料は55円。
小説だから大げさに書いているにしても、山崎豊子氏自身が船場の昆布屋の生まれなので、現実にこれくらいの金額を使っていたと思います。
では、現在ではいくらぐらいなのか。
物価指数からすると平成22年は大正14年の1400倍ぐらいだそうです。
東京~大阪のJR乗車券は8750円だから、6円40銭の1300倍ぐらい。
大正14年ごろの大卒初任給が50円で、現在が20万円とすると、4000倍。
披露宴の料理20円は、月給の半分弱だとすると10万円以上ですが、汽車の乗車賃と比較すると2万5千円ぐらいで、これだと驚くほどでもない。
もっとも、昭和10年代でも、中等学校に進めるのが約20%、高等教育(旧制高校・専門学校・大学予科・高等師範学校など)を受ける者が約5%、旧制高校・帝国大学は0.7%程度だと、高田里惠子『学歴・階級・軍隊』にありますから、大正時代の大卒初任給は現在の20万円程度ではないとすると、1円が1万円ぐらいになります。
『梨本宮伊都子妃の日記』は、鍋島直大の娘である梨本宮伊都子の日記と解説です。
鍋島家は佐賀藩主でしたが、こちらはもっとお金持ちです。
明治31年の高額所得者(石井寛治『日本経済史』)
1位 岩崎久弥 1,213,935円
2位 三井八郎右衛門 657,038円
3位 前田利嗣(加賀藩主) 266,442円
4位 住友吉左衛門 220,758円
5位 島津忠重(薩摩藩主) 217,504円
6位 安田善次郎 185,756円
15位 鍋島直大(佐賀藩主) 109,093円
(岩崎、三井、住友、安田は一族合計値)
明治33年、結婚する伊都子のために鍋島直大は宝冠・首飾り・腕輪・ブローチ・指輪など宝石一式をパリに注文したが、宝冠だけで2万数千円した。
鍋島直大は、明治20年が50,591円、明治28年90,266円の所得ですから、娘の結婚のために宝石一式を買ったのにもかかわらず、所得は増えています。
そのころの総理大臣の年俸は9,600円。
鍋島家は現在の永田町の首相官邸一帯にあり、2万坪近い敷地だった。
使用人は5~60人いた。
伊都子は結婚してから、月に50円の小遣いを親からもらっていた。
梨本宮家は宮内省からは生活費として年に45,000円をもらい、職員は表6人、裏5人、下女3人その他を使っても足りていた。
それでは、一般庶民の収入はどれくらいか。
小熊英二『日本という国』に、歴史学者の喜田貞吉(明治4年生まれ)が還暦記念に書いた本から、喜田貞吉の中学時代(明治20年ごろ?)には教師の給料がいくらだったかを紹介しています。
師範学校卒業生の初任給が6円、中等学校の先生が15円から30円、法学士が校長になると60円、高等師範学校出身の教頭は40円、県令は250円。
下宿屋の一か月の賄料が1円50銭だったことから、小熊英二氏は1円を現在の10万円に換算しています。
教師の初任給から考えると、1円=3~5万円ではないでしょうか。
『梨本宮伊都子妃の日記』ではいろんな数字を紹介しています。
横山源之助『日本之下層社会』によると、明治32年、日稼人足の1日の賃金は32、3銭で、年収はおよそ120円。
『女学世界 秋季増刊』明治37年9月に、明治37年、某伯爵家の年間予算総額は57,220円とある。
人力車夫は多いときで月に12円稼ぎ、車夫の長女の収入が1か月約3円60銭。
家賃や車の歯代などをひくと、一家5人が月8円か9円で生活する。
多くは月6円で生活していた。
ネットを調べると、明治30年頃の物価と、今の物価を比べると、今の物価は当時の3800倍くらいだが、物価に比べて賃金の水準が低く、1円=2万円の重みがあった、とあります。
日稼人足の年収は120円×2万で240万円、車夫の月収は8円×2万で16万円です。
物価に比べて人件費が安かったわけです。
となると、月50円の小遣いは現在の100万円ぐらいで、2万数千円の宝冠は5億円となります。
大正末では、給料水準から考え、1円は5000円から1万円ぐらいでしょうか。
となると、船場の主人が妾に男の子が生まれると払う5万円の手切れ金は梨本宮伊都子の宝冠なみの金額になります。
なんにせよ、金持ちと庶民、半端ではない格差ではあります。
世の中、不景気とか閉塞感とかが続くと、何とかならんか、誰か出てきてぱっと変えてくれんか、そういう期待を持ちます。
小泉人気がそれですし、民主党が300議席を獲得したのも、政界を引退したはずの橋下徹氏へのラブコールがあるのも、変革への期待からでしょう。
けど、それはまずいと思います。
ずっと以前に読んだ平岩弓枝『妖怪』は、天保の改革での悪役である鳥居燿蔵が主人公です。
天保の改革は贅沢に対する取り締まりがやたらと厳しく、その時の町奉行鳥居燿蔵は諸悪の根元としてぼろくそに言われています。
しかし、『妖怪』は決してそんなイヤな奴としてではなく、幕臣としての鳥居燿蔵の立場、信念を語っています。
世の中を変えていくには徐々にしなければならない、と鳥居燿蔵は言います。
しかし、人は口先のほうを喝采するものよ。黙々と土を運び、塁壁を作る者より、華々しく糾弾する者のほうに人気が集まる。
平岩弓枝氏は、鳥居燿蔵への高評価に対して、渡辺崋山たち蘭学者は現実を見ないはね返り、あるいは遠山の金さんは陰険な人間だと厳しい。
けど、世の中が変わるのは鳥居流より渡辺流によってだというのも事実です。
「同朋新聞」を読むと、アイヌや沖縄の文化・宗教には現代日本が失ったものがあるみたいな感じで書かれた文章を散見し、アニミズムや祖霊信仰をそんなに持ち上げてどうするのか、と偏狭な私は思っています。
そしたら、「真風」第18号に田原大興「沖縄の習俗とのはざまで」という文章があり、大変興味深かったです。
ユタと呼ばれる霊能者は運勢・風水・病気・位牌や墓について判断や助言をしたり、呪術・祭祀を司ったりしているが、霊魂への対応でしばしば親戚関係や地域社会を混乱に陥れることもある。
日本の伝統仏教は、葬式仏教への受容が高まり、同時に土着・民間信仰との関係も深まり、ユタの商売敵のような存在になった。
仏教者の沖縄の民間信仰への対応は、肯定派、もしくは妥協・受容派が主流のようだ。
沖縄の一般家庭の仏壇には本尊がなく、祖先の位牌と香炉が祀られている。
位牌に関する問題が多く、位牌相続者の継ぎ方が悪い、法事を欠いたので供養ができていないなどと周囲から攻撃される。
法事では、沖縄伝統の重箱料理やお菓子といったお供え物の数や並べ方、その向きなどについて親族間でしばしばもめる。
あの世のお金を燃やすのだが、燃やす枚数でも意見が割れたりする。
「何枚ですか」と聞かれ、「好きなだけどうぞ」と応えたため、老年の女性に叱責を頂戴したこともある。
三部経を読んでいたら、「もういいよ」と肩を叩かれて強制終了したこともある。
墓に納骨する際に禁忌が多い。
特定の干支の人は骨壺を持ったり、墓に入ったりできないとか、線香の数が決まっているとか、重箱料理はすべて食べないといけないなど。
墓を新たに建立すると、完成のお祝いと納骨を盛大に行うのだが、日時がなかなか決まらない。
干支がよくない、日がよくない、汐が悪いと、完成しても数か月、時には数年間も納骨できないこともある。
へえーと思いましたが、迷信や禁忌に振り回されるのは沖縄だけではなく、どこでもある問題です。
田原大興氏は、迷信に則った行為を見かけたので、「いつからですか」と訊くと、「十年ほど前から」ということがあったと書いています。
私は若いころ、迷信はだんだんとすたれていくと思っていましたが、新しい迷信や禁忌は次々と生まれ(誰が作るのか)、気にする人は次々と気にします。
沖縄では仏教よりもキリスト教のほうが優勢だと「真風」にありますが、沖縄のキリスト教徒も同じようにしきたりにこだわっているのでしょうか。
某氏にいただいた「なごやにしべついん」に、葛野洋明「救いのよろこび 真髄を聞く 4」があります。
そこでは、『拝読 浄土真宗のみ教え』にある「浄土真宗の救いのよろこび」の
如来の浄土に 生まれては
さとりの智慧を いただいて
あらゆるいのちを 救います
という一段が解説されています。
「往生即成仏」とありますから、「いのちを終える臨終」とは、信心をいただいた今ではなく、肉体の死のことだと思います。
死後の世界としての浄土に往生する、ということです。
本願寺派の人の多くは往生は死んでからと受けとめているようですし、小谷信千代『真宗の往生論 親鸞は「現世往生」を説いたか』は親鸞は未来往生を説いていたと主張していて、たぶんそうなんだろうなとは思います。
『歎異抄』に「自見之覚悟」、自分勝手な解釈で他力の教えを乱してはならないとあります。
曽我量深たち近代教学の先生たちの説く「現世往生」は「自見之覚悟」ということになるのかもしれません。
しかし、還相廻向の説明には疑問を感じました。
死んだ人が還相して衆生を救うというわけです。
しかしながら、
「安楽浄土にいたるひと
五濁悪世にかえりては
釈迦牟尼仏のごとくにて
利益衆生はきわもなし」
と和讃にあります。
死んでから浄土往生した人がこの世に還ってきて、そうして衆生を済度していたら、今ごろは世界中が念仏者だらけになるはずです。
ところが現実は、お寺によく参っていた人が亡くなり、その人の子供が聴聞するかというと、そうじゃない場合も少なからずあるわけで、死者による還相回向の効果はあまりないようです。
これは一例ですが、死んでから往生し、そうしてこの世に還ってくるという考えだと、いろんな矛盾が出てきます。
信心をいただいた今、往生するんだ、往生とは生き方だという「自見之覚悟」でいいのではないかと、私は考えています。
福井厚編著『死刑と向きあう裁判員のために』に、死刑に関する審議型意識調査の結果が報告されています。
参加者に死刑に関する情報提供資料を前もって配布し、会場で丸1日かけて死刑制度について審議した。
審議は死刑制度に関する情報提供、グループ・ディスカッション(前半)、講演と質疑応答、グループ・ディスカッション(後半)で構成された。
審議前と審議後であまり変化があるようには思えず、参加者は死刑に対する態度決定に必要な知識が不足しているにもかかわらず、そのことに無自覚であることが多い。
たとえば、死刑制度に犯罪抑止力があるという仮説は、海外の研究を含めてこれまでに実証されていないことなどに対して、参加者はこうした情報に関する理解や受け入れの度合いが低かった。
坂上香『ライファーズ 罪に向きあう』からの孫引きですが、2011年、アメリカの無期刑囚は15万人強、仮釈放のない絶対終身刑は4万人強。仮釈放はほとんど認められない。
では、アメリカでは犯罪が増えているのかというと、そうではない。
1960~1990の犯罪率は、フィンランド、ドイツ、アメリカで大差ない。
しかし、フィンランドは30年間に受刑者数は60%減少、ドイツは横ばい。
それなのにアメリカは4倍に激増している。
アメリカの刑務所人口の増加が最も顕著だった1990年代、犯罪の発生率は25%も減少していた。
厳罰化と犯罪抑止は関係がないことは、たしかに理解してもらえません。
これは人間の特性でしょうね。
マーシャル仮説というのがあります。
死刑について知れば知るほど、①死刑を支持しなくなり、②死刑に反対する感情が生じる。
しかし、③応報的な理由から死刑に賛成する場合には、こうした傾向は見られない。
以前、裁判員と死刑についての集まりで、ある人が強盗殺人で起訴されたが、殺人と窃盗だと主張、一審は被告の主張が認められて懲役25年、二審では強盗殺人で無期懲役、上告はしなかった、という話をしたら、殺された人にとっては窃盗も強盗も同じだと言われ、反論できませんでした。
11月29日、泣き声がうるさいというので、生後16日の娘をごみ箱に閉じ込めて死なせたとして、両親が傷害致死容疑で逮捕されました。
傷害致死ですから、両親は死ぬとは思わずにゴミ箱に閉じ込めたということでしょうけど、殺された赤ん坊にとっては殺意があろうとなかろうと、たしかに同じです。
だけど、裁判員がそういうふうに考えてはまずいわけで、裁判員になったらという話し合いをしているのだから、強盗も窃盗もどっちもいっしょだと言うようでは裁判員失格だ、と反論すればよかったと反省。
マイケル・サンデル『それをお金で買いますか』に、自分の赤ん坊2人を殺害した罪に問われた事件があり、同じ家庭内でふたりの子どもが乳幼児突然死症候群で死亡する確率は7300万分の1だと小児科が証言したとあります。
7300万分の1という数字がおかしいそうだが、それはともかく、赤ん坊が2人とも突然死することは珍しいが、子どもを2人殺すということも極めて稀である。
稀だからといって、殺した可能性が高いということにはならない。
そんなことをマイケル・サンデルは書いているわけですが、素人には判断できないと思います。
高山佳奈子氏は「死刑を科すという判断は、市民が自己の経験を基に行うことのできる性質のものではない」と書いていますが、そう思います。