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三日坊主日記

本を読んだり、映画を見たり、宗教を考えたり、死刑や厳罰化を危惧したり。

土井隆義『人間失格?』1

2012年01月29日 | 厳罰化

知人に誘われて、炭谷茂氏の「刑余者と共にくらせる街づくりと社会福祉の役割」という、ソーシャル・インクルージョンについての講演を聴いた。

インクルージョンとは「包括」「包含」という意味。
刑務所に入ったことのある刑余者たちを社会から隔離したり、排除したりするのではなく、社会の中で共に助け合って生きていこうという考えが、ソーシャル・インクルージョンということらしい。

刑務所に入った人はいつか社会に戻ってくる。

ところが出所しても、家がない、金がない、仕事がない。
福祉の援助を受けることを知らないので路頭に迷い、再犯して刑務所へ。
そういう人たちが人間らしい生活をするために、社会の中で受け入れる仕組みを作らないといけない。

質疑応答では、精神病院でソーシャル・ワーカーをしていた人が精神病者も同じ状況にあるという感想を述べていた。

家族から見放された患者は、アパートを探しても精神病だとわかると断られるし、就職も難しい。

ソーシャル・インクルージョンの考えは、もともとイタリアの精神障害者が精神病院から出て、仕事に就こうとした中から生まれているそうだ。

イタリア映画のジュリオ・マンフレドニア『人生、ここにあり!』は、精神病院に入院している患者たちが木工の会社を作って自立していく話で、炭谷茂氏の話を聞き、これがソーシャルファームなのかと気づいた。
ソーシャル・ファームとは「通常の労働市場では就労の機会を得ることの困難な者に対して、通常のビジネス手法を基本にして、仕事の場を提供するビジネス」である。

生活保護を受ければ食べていくことはできる。
しかし人は、生活保護でお金をもらってご飯を食べるだけでは物足りない。
面白くないことがあれば、酒を飲んだりパチンコしたりということになる。
自分は必要とされている存在だ思うことができれば、誇りを持って生きていくができる。
でもまあ、物事、そう簡単にはいかないわけで、『人生、ここにあり!』のように社会に出て、ほいほいと順調にいくとは限らないのが現実らしい。


社会が刑余者や障害者を排除するのではなく、寛容に受け入れていくことは本人のためだけでなく、結局は自分のためにもなり、社会のためにもなる。
土井隆義『人間失格?―「罪」を犯した少年と社会をつなぐ』は少年犯罪を取り上げた本だが、同じ趣旨のことが主張されている。

かつての非行少年は「社会に対する反旗」という「反社会的な意味」を持っていたが、今はそれが失われているそうだ。
最近の非行少年の特徴は、性格が幼い、何とも頼りないということ。
少年犯罪も、凶悪化ではなく稚拙化、低年齢化ではなく高年齢化、集団化というより脱集団化という傾向が見られる。
「今日の凶悪犯罪は、まるで非行少年らしからぬ、むしろ未熟な少年による衝動的な犯行の色彩が強くなっているといえるのです」

家庭裁判所調査官の話「凶悪だと新聞で騒がれた事件を起こした子なんですが、鑑別所で会ってみると全然しゃべらない。しゃべりたくないというんじゃなくて、しゃべれないんですね。とにかく自分からは何も話さなくて、何を訊いてもウン、ウンというような反応しかない。……本当に、信じられないくらい未熟なんですよ」

光市事件でも、被告は鑑別所の鑑定では精神年齢は4~5歳である。

「そ
れにもかかわらず、世の中では、犯罪に関わった少年たちをモンスター視するかのような言論が跋扈し、一般の人びとの体感治安が逆に悪化しているのはなぜでしょうか」と土井隆義氏は問題提起している。

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井上理津子『さいごの色街 飛田』2

2012年01月26日 | 

飛田では女の子を集めるのが大変なんだそうだ。
井上理津子『さいごの色街 飛田』を読んでておもしろかったのが、ある料亭のママとのやりとり。

親しくなった小料理の主人が突然いなくなり、井上理津子氏は行方を捜すためにある料亭を訪ねる。
料亭のママから「連絡先を書いた紙が見つかったら電話する」と言われ、やっと電話がかかってきた。
その時の会話。
「あなた、いくつ?」
「え? なんでまた。54ですけど何か?」
「フリーターと書いてあるけど、仕事探してる?」
名刺に「フリーライター」とあったのを「フリーター」と読み違えたらしい。
すると「なんや。あなたでもいいと思ったのに」とママは言う。
ママは54歳の井上理津子氏に働いてもらおうと思たわけである。
どうやら妖怪通りか年金通りに店があるらしい。

井上理津子氏は女の子を紹介してほしいと頼まれる。
「年は40くらいまで。けど、お金貯めようと、真面目で向上心のある子やったら、ちょっとくらい上でもいいよ」
料亭の中を見るチャンスと思った井上理津子氏は友人たちに声をかけ、やっと承諾してくれた49歳のタカヤマと面接に行く。
「ちょっとくらい上」どころではないけれど、ママは「49歳にしちゃ若く見える。大丈夫大丈夫」と言い、タカヤマに「次の日曜日でも試しに一度座ってみたらええ」と誘う。
やんわりと断るタカヤマとママの会話は漫才を聞いているよう。
二階には3室ある。
和式トイレの蛇口からホースが延びていて、終わったらそれで洗うらしい。
ちなみにこの店ではコンドームは使わない。

飛田で店をしていた時のことをブログに書いていた別のママにも話を聞く。
こちらはすごくシビア。
飛田はきれいごとでは通用しない世界だと知らされる。

ママの話によると、借金を抱えた女の子が多いが、多い時はひと月に5~700万円の売り上げる子もいた、借金はすぐに返せる。
しかし「すぐに借金を返させて、辞められてしもたら何してるか分からへんから。服買え、宝石買え、寿司食べろ、焼き肉食べろと、ある程度自由にお金を使わせてやる。贅沢を覚えるし、親にもせびられ、また借金をつくる」
ホストクラブも覚えさせる。
「そうやって、長く(女の子を)使うことを考えるんです」
借金で縛るのは遊郭がそうだが、今も同じことをやっているわけです。

それで思ったのが、先進国による開発途上国の支配、搾取も同じ仕組みだということ。
「経済援助と称して無償の金を与える。この金で商品を買わせ、欲望を刺激する。次いで、欲望を満足させる借金することを教える」(槌田敦『エントロピーとエコロジー』)

それはともかく、ママはこんなことも言ってる。
「あのね。お金って、ものすごい力を持ってます。女の子、ちょっとだけこの仕事をやってやめたら、心に深い傷が残ります。けど、一千万円手に持って辞めたら、傷にならないの。
お金があったら、たいがいの問題は解決します。夫婦喧嘩しませんわ。やさしい気持ちになれる。お金ない時、人に親切にしなさい言うてもできへん。生理ナプキン買えないでいて、人のことを思う余裕ないでしょう?」
けだし名言である。
そうやってママは女の子を搾取することを自己正当化しているんだと思う。
しかし、水上勉氏は「不思議なことに、人は貧しいときのほうが他人にものをくれてやりたくなるんですよ」と言っているそうだ。
人間はそんなものだと思う。

井上理津子氏は「今思うのは、飛田とその周辺に巣食う、貧困の連鎖であり、自己防衛のための差別がまかり通っていることである。

多くの「女の子」「おばちゃん」は、他の職業を選択することができないために、飛田で働いている。他の職業を選べないのは、連鎖する貧困に抗えないからだ。抗うためのベースとなる家庭教育、学校教育、社会教育が欠落した中に、育たざるを得なかった」と最後に書く。
貧困の連鎖が虐待、犯罪、依存症などの連鎖をも作り出していることを、最近実感しております。

そして「自己防衛のための差別」。

「ある女の子と、ミナミの居酒屋で会った時、彼女は生ビールのジョッキが汚れていたとアルバイトの若い女性を頭ごなしに怒り、料理の運び方がなっていない、客をバカにしているのかと声を荒げた。自分が〝上〟の位置にいるとの誇示と、普段抑圧下にいるストレスの発露だと思う。そうした幼稚な言動は、時として、差別言語となって露呈する。「あいつは朝鮮や」「あいつらや」「(生活)保護をもらう奴はクズや」といった耳を疑う言葉を、飛田とその周辺で、幾度となく耳にした。個別の問題ではなく、社会の責任だと思う」
そうそう、こういう差別発言は時々耳にします。
この女の子は差別することで自分を保っているんだと思う。

そうしないと自分を支えるものがなくなるから。
私はハゲ+老け顔で散々からかわれたが、差別心は根深くあるのも同じなのだろうか。

朝治武「差別されたものが差別をしないというのは全く嘘で、差別をされればされるほど、より他のなにかに転化し、はけ口を求めたいと思うのが逆の真実です」(「身同」30号)

差別は社会の責任か、個人の問題か。
土井隆義『人間失格?』は少年非行が個人の資質か、社会の問題かを問うているが、次回に。

井上理津子氏は葬送をテーマにした取材をしているそうで、本ができたらぜひ読みたい。

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井上理津子『さいごの色街 飛田』1

2012年01月22日 | 

昨年の2月に大阪に行ったとき、知人に釜ヶ崎、飛田、新世界あたりを案内してもらった。
飛田には「日本にこんなところがあったのか」と、カルチャーショックを受けましたね。
飛田は空襲に遭わなかったそうで、戦前という雰囲気が残っているように思う。(私は戦後生まれだから戦前は知らないけど)
別の知人に飛田体験(朝、通りを歩いただけです)を話したら、「午前中に行ったんじゃつまらない。夜に行かないと」と言われ、11月に大阪に行く用事があったので、その時にぜひ、と心に誓ったのでした。

いやはや、感動しましたね。
道の両側に間口二間の二階建てが長屋みたいにずらっと並んでいる。
玄関のところにはおねえさんが座っており、横にいる客引きのおばちゃんが「お兄さん、この子かわいいやろ」と声をかけてくる。
きょろきょろしながら通りを歩いたわけですが、客引きのおばちゃんに値段を聞いたりして、おねえさんを間近で見ればよかったと、あとから反省。
大阪サミットが開かれた時に、自主規制でおばちゃんが外に出て客引きするのをやめたそうだ。
これもちょっと残念。

そしたら、新聞で井上理津子『さいごの色街 飛田』の書評を目にし、図書館で予約しました。
井上理津子氏は2001年から取材を開始、2011年10月に本となる。

飛田の店は料亭であり、おねえさんと飲んでいて、たまたま恋愛に陥ったということで、売春ではないというのがタテマエとなっている。
158軒の料亭(2010年)に、おねえさんが450人(推定)、客引きのおばちゃん(曳き子)が200人(推定)いる。
おねえさんの年齢は、20代後半から40代前半(推定)。
もっとも、知人の話だと「客引きのおばちゃんのほうが若いやないか」というおねえさんがいる通り(妖怪通り)があるそうで、ここの見学は次回のお楽しみ。

料金は店によって違うが、20分1万5千円、30分2万円、プラス消費税というところ。
1956年は40分が254円で、学生アルバイトの一日分と同じくらいだったそうだから、今は料金が4倍ぐらいになっているわけである。
取り分はおねえさんが5割、経営者が4割、客引きが1割。
メインの通りの店は、敷金800~1千万円、家賃は4~50万円が相場。
これで儲かっているんだから、一日に何人の客が来るのだろうか。

料亭の経営者、おねえさん、客引きといった人たちは取材になかなか応じてくれない。
それで井上理津子氏は、飛田で遊んだことのある知人たちや、近くの商店街のお店、飛田の飲み屋の人に尋ねる。
話を聞かせてほしいと書いたチラシを料亭に配ったら、チラシを見たおねえさん4人から電話をもらう。
さらには暴力団にアポなし取材。
若い衆が「中華の出前をとりますが、ねえさんも一緒にどうですか」と聞かれるが断り、「あとあと後悔した」そうだ。
警察にも「なぜ売春を取り締まらないのか」と質問しに行く。
スポーツ新聞の求人広告を見て、料亭に電話する。
いろんなツテで経営者に話を聞く。
井上理津子氏の行動力には驚くし、それぞれの話は興味深いのだが、どこまで本当のことを話しているのだろうかとは思う。

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砂田麻美『エンディングノート』

2012年01月17日 | 映画



砂田麻美『エンディングノート』は、監督の父親である砂田知昭氏が末期胃ガンと宣告されてから葬式までの約半年間を、監督自身が撮ったドキュメンタリーである。

死を宣告されて、という映画は黒澤明『生きる』などなど枚挙にいとまがない。
砂田知昭氏は、自分が死んだらこうしてほしいとエンディングノートを作る。
死のための段取りの一つが葬儀をカトリック教会で行うことである。
そのために神父に相談し、洗礼も受けることにする。

砂田家は仏教なのに、なぜキリスト教に改宗するのか。
娘がカトリックの信者ということもあるが、砂田知昭氏は「リーズナブルだから」と説明するんですね。
キリスト教徒になるといっても、教会に通ったり、聖書を読んだりはしていないのではないかと、映画を見て感じる。
驚いたのが、洗礼を受けたのが亡くなる数日前(たぶん)、病院のベッドで、しかも娘(監督)が洗礼を授けたということ。
水はおそらく教会からもらってきたのだろうけど。
だから、終油の秘蹟や聖体拝領もなし。
まだ動けるうちにどうして洗礼を受けなかったのだろうか。
カトリック教会で葬式をしたいというのは結婚式と同じように、一種のファッション感覚なのかと思った。
結婚式はキリスト教、葬儀は仏教で、という日本人の宗教感覚が変わってきたのかもしれない。

で思ったのが、12月24日、世界平和記念聖堂のミサに行った時のこと。
クリスマスとはキリストのミサという意味とは知らなかった。

話は飛ぶが、日本語ペラペラのアメリカ人と話していて、この人はバプテストの家に生まれ、大学もその関係の学校に行ったけど、今は教会を離れていると言うので、「ミサには行かれているんですか」と尋ねたら(もちろん日本語で)、「ミサとは何か」と聞き返された。
東大卒の人も一緒だったが、「ミサは英語じゃなかったのか」と言ってた。

世界平和記念聖堂のミサに話は戻り、約400席の椅子席はびっしり埋まっていて、立っている人も大勢いたので、全部で600人ぐらいか。
カトリック信者の知人に聞くと、信者はミサに来ていた人の半分ほどらしい。

グレゴリオ聖歌の合唱とパイプオルガンの演奏というミサの雰囲気に、仏教の法要は完全に負けていると思いましたね。
ミサの最後に聖体拝領があり、洗礼を受けていない人は聖体拝領を受け取れないが、司教の祝福を受けることができる。
見てたら祝福を受けている人が結構いるんですね。
私も祝福をしてもらおうと思ったぐらい。
ミサにの雰囲気に感動して洗礼を受ける人が少なからずいるんじゃないだろうかと思った。
ひょっとしたら砂田知昭氏もその一人かもしれないと考えたわけです。

私の知り合いに、家は仏教だけど洗礼を受け、ミサや聖書の勉強会等に出席している人が数人いる。
しかし、キリスト教徒の家で育ち、自分の意志で仏教の既成教団の信者になったという人はあまり聞かない。
どうしてなのか、そこらが問題です。

なぜ洗礼を受けなかったのかということだが、砂田知昭氏は、自分は長くないとはわかっていても、死ぬのはまだ先だと思っていたのではないかという気がする。
医者も「生きているのが不思議」という状態なのに、治療を続けていればよくなる、まだまだ大丈夫、と考えているように思った。
だから、病床で動けなくなってから洗礼を受けたのかもしれない。
本人が頼んだのか、それとも家族が勧めたのか、どっちなのだろうか。
家族に心配させないよう、何気なくふるまっていたのかもしれないが。

悟りすました坊さんが癌の宣告を受けたら死の恐怖におびえ、死後の世界としての浄土の実在を信じるようになった、という話を読んだ。
実際のところはどうなんでしょうね。
ベッドに寝ている末期の人に「今の心境は?」と聞くわけにもいかないし。

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藻谷浩介『デフレの正体』

2012年01月16日 | 

浅川芳裕『日本は世界5位の農業大国』は、日本の農業や食糧事情について常識とされていることが正しいわけではないと、数字をあげて説明している。
藻谷浩介『デフレの正体 経済は「人口の波」で動く』も、なぜ不景気なのか、データによって常識を覆し、意外な原因を明らかにする。

中国の擡頭で日本の国際経済力が落ちていると思われているが、景気が悪いのは中国の経済発展のためではない。
逆に中国が経済成長すれば、日本の貿易黒字が増える。
日本の貿易は好調だが、内需が不振。

なぜモノが売れないのかというと、15~64歳の生産年齢人口(=消費人口)が減少しているためである。
高齢者(65歳以上)が増えているが、高齢者は病気をしたり、寝たきりになった時のために、ひたすら貯蓄するので、お金を使わない。
バブルになったのは、団塊の世代が住宅を購入するようになり、住宅需要が増えたから。
ところが、景気がいいから住宅が売れていると考えたものだから、住宅の過剰供給になり、住宅バブルが発生した。
バブル崩壊後も小売販売額や個人所得は増えていたが、96年頃から減った。
それは生産年齢人口が96年から減少に転じたためである。
ものが売れなくなったのは景気が悪いからではなく、たんに人口が減ったためというわけである。
なるほど、モノを買ってくれる人が減ったら、売り上げが減るのは当たり前。
そりゃそうです。

団塊の世代が65歳を超えるようになると、高齢者はさらに激増し、生産年齢人口は激減する。
外国からの移民を増やしたぐらいでは生産年齢人口の激減には追いつかない。
中国も出生者数が低下しているので、将来、生産年齢人口が減ることになる。
おそらくインドも。
出生率を上げても、出産可能な女性が少なくなっているので、人口は簡単には増えない。

では、内需を拡大するためにはどうすればいいか。
生産年齢人口が3割減になるなら、10~40代前半の所得を1.4倍増やせばよい。
退職によって浮く人件費を若い世代の人件費に回すことで可能である。
若い人が結婚でき、子どもを3~4人育てることができる給料を払い、福利厚生を充実させるべきである。
しかし、企業は人件費を抑えて会社の利益を上げようとする。
喜ぶのは株主だけで、高齢の株主はいくらもうけてもお金を使わない。
ここが一番の問題だと私も思う。

二番目は、女性の就労者を増やすこと。
専業主婦1200万人のうち、4割が一週間に一時間以上働くだけでいい。
三番目は、外国人が長期間滞在すること。

アメリカでは有効求人倍率は使われていないし、失業率もメインとしては使われないそうだ。
率ではなく、数が問題で、失業率や有効求人倍率ではわからない。
カロリーベースの食糧自給率を使っているのは日本だけだし、国やマスコミは現実をきちんと分析せずに危機感を煽っているだけのように感じる。

藻谷浩介氏は今までに3000回も講演し、『デフレの正体』は50万部も売れている。
国の政策や企業の経営にどういう影響を与えているのだろうか。

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奥秋義信『残念な日本語』3

2012年01月13日 | 

奥秋義信『残念な日本語』を読み、テープ起こしの原稿を直すときには気をつけないとと思ったことがいくつかある。

「一ヶ月」「年令十才」は間違い。
「ヶ」は「か」や「こ」とは読めない。
なぜ「ヶ」が使われるようになったかというと、「一箇月」の「箇」の略字、俗字が「个」で、「个」をくずした字「ケ」が用いられるようになった。
「ヶ」と小字にするのは二重の誤り。
なぜなら日本語の表記では拗音(「ゃ」など)と促音(「っ」)だけ小字になるから。
それは「ヵ」も同じで、なぜ「カ」ではなくて「ヵ」を用いるかというと、「力(ちから)」と読み違えるのを避けるためだった。
だから「一ヶ月」は間違いで、「一ヵ月」も正しくはない。
今後は「一カ月」か「一か月」にしましょう。

「年令十才」だが、「令・才」は「齢・歳」の略字ではなく別の字である。
なぜ「令・才」が使われるようになったか・
最初に用いたのはNHKである。
初期のテレビ画面は解像度が不十分なために、スーパーインポーズは横に9字が限度だったので、画数の少ない文字で代用して読みやすくしたんだそうな。

熟語のどこで切るか、これも難しい。
「五里霧中」は「五里、霧中」ではなく「五里霧の中」、「一衣帯水」は「一衣、帯水」ではなく、「一衣帯の水」、「登竜門」は「登竜の門」ではなく「竜門を登る」。
「正誤表」は「正しいことと誤りの表(正字と誤字の対照表)」ではなく、「誤りを正す表」。
私は「清少納言」を「せいしょう・なごん」と発音していました。

「たり・たり」「と・と」など「並立助詞の反復」という語法がある。
「見たり聞いたら」→「見たり聞いたりしたら」
「勝つか引き分ければ優勝」→「勝つか引き分けるかすれば優勝」
「逃げないし、めげない」→「逃げないし、めげないし」
ほかにも「でも・でも」「やら・やら」「にも・にも」「しろ・しろ」「の・の」「わ・わ」などが並立助詞。
これもやってしまいがち。
だけど「たり・たり」と繰り返すのは面倒ではあります。

言葉のねじれ現象というのもある。
「押しも押されぬ」はねじれ語なんだそうだ。
「押しも押されもせぬ」「押すに押されぬ」という成語がごっちゃになっている。
「けんけんがくがく」もそうで、「侃々諤々(かんかんがくがく)」と「喧々囂々(けんけんごうごう)」をつなげた誤用。

ねじれ文は、たとえば「わたしの夢は、将来立派なアナウンサーになりたいと思います」
「夢は思います」と、主語の「夢」が「思う」という述語につながることはあり得ない。
こういう首尾一貫していない文章をねじれ文という。

テープ起こしした文章を読み直していて、なんとなくおかしいと感じる文章があって、その多くはねじれ文になっているからだと思う。
主語と述語がちぐはぐになっていることがしばしばある。
それとか、普通、話をすると、句点(。)がなくて、「~~なんですが、~~だったりして、~~と思っているんですが、~~」というふうに延々と読点(、)が続くことが多い。
あるいは、形容詞がどの言葉を形容しているかわからなかったり。

話し言葉と書き言葉は違うから、テープ起こしは編集して読みやすいものにしないといけない。
すごく面白くてわかりやすい話でも、文章にすれば意味が取れなかったり、話があちこち飛んでいたりするので、どうしても手を加える必要がある。
編集することで話し手が伝えたいこととは違ってくるかもしれないが、ある程度はやむを得ないと思う。
知人は「テープ起こしは翻訳のようなものだ」と言っていた。
話し言葉から書き言葉への翻訳である。
翻訳でも、直訳だからといって原文を正しく伝えているわけではないし、直訳では生きた日本語とはならない。
もっとも、直したつもりでも、敬語の使い方や重語など間違えて、日本語としておかしくしてしまっているかもしれないが。

曽我量深の講演録が読みづらいのは、まずは私がアホだからだが、一つにはねじれ文ということがあると思う。
文章の前半は肯定しているのに、後半では否定していたりしてる。
たぶんこれは、口述筆記した人が「曽我先生の話に手を加えて直すなんて恐れ多い」と思ったからじゃないかと想像しております。

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奥秋義信『残念な日本語』2

2012年01月10日 | 

奥秋義信『残念な日本語』を読んで、これはクイズに使えるなと思った。

次の言葉の意味はどちらでしょうか?
「檄を飛ばす」
1,「激励する」「活を入れる」
2,「主張する」

「すべからく」
1,「すべて」
2,「ぜひとも」「なんとしても」

「憮然として」
1,「むっとして」「腹を立てて」
2,「がっかりして」「失望して」「しょんぼりして」

ちなみに、私はすべて×でした。

重言は「馬から落ちて落馬した」「屋上屋」みたいなものだけではない。
「後ろへバックする」「被害を被る」「犯罪を犯す」「アメリカへ訪米する」などは使ってしまいがちだが、同じ言葉が使われているので重言だとわかる。
しかし、「無料でふるまう」「もう一度くり返す」「あらためて再認識した」「食べられることができる」「関係各位の方々」などは、指摘されないと重言だと気づかない。
「一番最初」「第2回目」「ちょっと小耳にはさむ」「あまり聞きなれない」「みぞれ混じりの雪」「就任7カ月経つ」「バイパス道路」「覆面をかぶる」も重言。
どうして重言なのか、これもクイズに使えそう。

「エンドウ豆」も重言なんだそうだ。
漢字で書くと「豌豆豆」なので一応は重言だと納得するが、「エンドウ」では通じないように思う。
なんと「黒烏龍茶」も重言で、「烏龍」は「カラス」と「龍」ではなく、「黒い龍」という意味。
「従来から」「古来から」にしても、「従来」は「以前から」という意味だし、「古来」は「昔から」という意味だから重言。
ほかにも、「縁談話」(「談」と「話」)、「まだ未定」(「未だ未定」)、「最後の切り札」(切り札とは「最後に使う全能の札」)など。
「お身体をご自愛ください」は、「ご自愛」といえば「身体」のことに決まっているから、これまた重言。
今度から手紙を書くときには気をつけないと。

「ちょっと小耳にはさむ」がどうして重言なのかは説明が必要だと思う。
接頭語の「小」はいろんな意味があって、その一つは「体の部分や状態を示す体言に付いて、その語を跳び越して、動詞や形容詞に「ちょっと」の意味を添える」ということ。
「小首をかしげる」「小気味よい」「小才が利く」「小手をかざす」「小ばかにする」「小股の切れ上がった」などがそれ。
「小首をかしげる」というのは「首をちょっとかしげる」、「小気味よい」は「気味がちょっといい(気分がよい)」という意味になる。
だから「ちょっと小耳にはさむ」は「ちょっと」と「小」が重なっていて、「ちょっと耳にちょっとはさむ」という意味になる。
いやはや、この年になるまでそんな意味だとはまったく知らなかった。

「小股の切れ上がった(女)」は「股がちょっと切れ上がった」ということだが、奥秋義信氏は「(すらりとして)脚の長い(女)」という意味だと言う。
「〈股がちょっと切れ上がっている〉から、脚が長く、背丈がすらりとなるのです」
しかし、股がちょっと切れ上がっていても足が短い人もいるのではないか。
『五味人相教室』だったと思うが、股の形をYとして、Vの部分の角度がより鋭角なのが「小股が切れ上がった」ということだと読んだ記憶がある。

「小」には「名詞や形容詞に付いて「始まり」の意を加える」という意味もあり、「(夕焼け)小焼け」がそれ。

「小」についてもう一つ。
「小じゃれた」は「ちょっとおしゃれな」という意味ではない。
「じゃれた」は「じゃれる」で、「戯れる」の転だから「ふざけた」「なれなれしい」という意味で、それは「ちょっと」という意味の「小」をつけたのが「小じゃれた」だから、「ちょっとふざけた」という意味になる。
やれやれ、当たり前のように間違って使ってました。

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奥秋義信『残念な日本語』1

2012年01月07日 | 

私は敬語の使い方がよくわからないので、新聞の書評で知った奥秋義信『残念な日本語』を読んだ。
私が知らなかったこと、私も間違えていたことがたくさんあって、目から鱗でした。
『残念な日本語』には、敬語に限らず、間違った言葉遣いの実例が数多くあげられているが、すべて実際にテレビで放映されたものである。
新聞などの活字媒体と違って、テレビだと番組を録画して、どういうふうにしゃべったかを確認しないといけないわけで、これは大変な作業である。

間違った敬語を使うのは「弱者の心理」が働くからだと奥秋義信氏は言う。
「弱者の心理」とは「大勢の人が見ている、誰がいるかわからない、自分の能力以上の人がいるだろう、批判されたら困る、といった心の働き」である。
たしかにねえ、いい格好をしようと思って失敗しがちではあります。

現代敬語には二つの大原則がある。
1,敬語は人間関係を表す言葉遣いである。
2,二重敬語はどんな場面でも用いない。

「夏目漱石がおっしゃった」「象にバナナをあげようとした」とは言わない。
夏目漱石とは現実の人間関係がないからだし、象は人間ではないから。

普通に使っている言葉でも二重敬語がある。
「亡くなられる」がそうで、「亡くなる」は「死亡」の尊敬語で、それに「れる」をつけて二重敬語になっている。
「おっしゃられる」「ごらんになられた」も二重敬語。
「お亡くなりになる」は二重敬語ではないが、「お亡くなりになられた」だと三重敬語。

皇室報道でよく使われる「ご出産される」「ご静養される」もおかしい。
まず、二重敬語だから。
そして、「ご~される」は謙譲表現の変化だから。

「ご~する」は自分側の動作を低めて表す謙譲語である。
たとえば「ご協力できません」「本日中にお届けできます」というふうに。
ところが「ご利用できます」だと、客や利用者をへりくだりさせた表現になる。

「お~する」「ご~する」という謙譲表現と、「お~になる」「ご~になる」という尊敬表現とを取り違えてごっちゃにすることが多い。
たとえば「ご指導してくださる」も、「ご指導する」という謙譲語と、尊敬語の「ご指導くださる」が一緒になっている。

「ございます」は「ある」「である」の丁寧語なので、動作を表すには「おります」でなければおかしい。
たとえば「用意してございます」は間違いで、「用意しております」が正しい。
「とんでもございません」も間違い。
「とんでもない」で一つの言葉だから、「ない」を「ございません」に交換はできない。
たとえば「あぶない」を「あぶございません」にはしないように。
正しくは「とんでもないことでございます」である。

「日本語には主語がない」とよく言われるが、奥秋義信氏によると「主語がないのではなく、敬語によって、主語が暗示されている」
たとえば謙譲表現の場合、主語は自分側に決まっているので「私は」は不要となる。

間違った使い方だと思われがちだが、実は正しいのが「よろしかったでしょうか」で、現在完了の確認形なのでOK。
「させていただく」も正しいそうだが、私としては慇懃無礼な感じがして気に入らない。

気に入らないと言えば、買い物をしたときに「一万円からでよろしかったでしょうか」と言われること。
どうして「一万円でよろしいですか」と言わないのか。
「から」と「より」は似ているようで違っていて、「から」は起点を表す言葉で、「より」は比較を表す言葉。
だから、「心よりお礼申し上げます」は間違いで、「心から」にしないといけない。
ウィキペディアによるとバイト敬語というのがあって、「一万円からで」云々もその一例。
「一万円から」は計算の起点を表し、一万円から買った金額を差し引いておつりを出しますよ、ということらしい。

間違い丁寧語と言えば、「ら」抜き言葉、「さ」付き、「れ」足す。
奥秋義信氏は「ら」抜き言葉は日本語の進歩だが、「さ」付きはルール破りだと言う。

「さ」付きとは「乾杯の音頭をとらさせていただきます」で、ATOKだと「さ入れ表現」とある。
「送らさせて」「読まさせて」「乗らさせて」などなど。
使役形の「させる」と「いただく」を併用して、へりくだる言い回しになるという勘違いらしい。

「れ」足すというのは、「試乗車には誰でも乗れれますか」「すぐに住めれますか」「感じてもらえれる」「書けれる」「飲めれる」「泳げれる」などなど。
「れ」足すは私も使うので、ネットで調べたら、「れ」足すは西日本で生まれた言い方だとある。
「ら」抜きも方言だし、「れ」足すはちょっと丁寧な言い方の方言じゃないかと思うのだが。

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デイパックの荷物

2012年01月03日 | 青草民人のコラム

青草民人さんです。

最近、通勤距離が長くなったこともあり、大きなカバンをぶら下げて通うのがおっくうになりました。たまたま、父から譲り受けた新品のデイパックがあり、荷物を詰めて背負って通うことにしました。両手が使えて、なかなか便利です。自分が使わなければ、父が散歩にでも使ったにちがいありません。

快適に使って通勤していましたが、さすがに毎日使っていると、ほころびも出てきます。ある日、とうとう縫い目が破れてしまいました。両手が使えて便利なので、さっそく家にあった一回り大きなデイパックに荷物を詰め替えて出勤するようになりました。

すると、背中のデイパックが少し大きくなった分、たくさんの物を入れるようになってしまいました。以前よりもたくさん物が入れられる分、荷物も多くなり、重くなり、荷物を背負うのがしんどくなってきました。しかも、余計な物まで入れるようになり、本当に使うのかどうかも考えずに、本だの着替えだのをほうりこむようになったのです。

あるとき、ふと思いデイパックを担いでいて、気がつきました。
人間は、大きな入れ物を持つと、余計な物を入れたくなる。また、入れ物を満たさないと不安になるものだと。

これって、人間の欲望にも同じことがいえるのではないかと考えます。人間は、自分を取り巻く器(地位や名誉、財産や立場など)が大きくなればなるほど、余計な物を取り込んで、あくせく苦労しなければいけなくなります。そしてさらに、もっと大きな入れ物を持ちたいと願い、その中を欲望で満たそうと必死になるのです。

身の丈に合った物を持ち、不要な物を除いて身軽になることのほうが、快適なくらしをおくることにつながると思います。

京都の龍安寺の手水鉢に「吾唯知足」という言葉が書かれていたのをおもいだしました。「われ、ただ足るを知る」と読むのでしょうか。「知足」という言葉には、私たちの日ごろの心、日常のくらしを見つめ直す力があるように感じます。

最近、シンプルライフとか断捨離という言葉が流行っています。無駄を省き、物欲から解放されることによって、自分の生活を身軽にし、本当に大切にしなければいけないものに目を向けていこうという風潮でしょうか。

震災以来、人々は知足の促しを再三受けてきましたが、時間の経過とともに、再び我欲の肥大化が始まろうとしています。せめて、背中に背負ったデイパックの中身が欲で満たされないように用心しないといけないなと思います。

先月、自分の不注意から左手の親指を骨折しました。普段は、左手の親指がどんな役目をしているのか、気にもとめたことがありませんでしたが、利き手でもない左手の親指が使えないと、ワイシャツの袖のボタンがとめられなかったり、納豆のたれが開けられなかったり、とても不便でした。

親指とは、誰が名づけたものなのか、手の中心となる指なのですね。これも知足だったのでしょう。足りていたことを知らなかったのです。「怪我の巧名」という言葉がありますが、私にとっては、まさに「怪我の光明」でありました。

コメント (59)
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