三日坊主日記

本を読んだり、映画を見たり、宗教を考えたり、死刑や厳罰化を危惧したり。

「死刑制度」は、存置すべきですか?廃止すべきですか?

2009年11月29日 | 死刑

「通販生活」2009年秋冬号に載っている「「死刑制度」は、存置すべきですか?廃止すべきですか?」という記事を、某氏がコピーして送ってくれた。
これがなかなか興味ぶかい。

死刑制度の存廃についてのアンケートに対する投票総数は1269票。
「存置すべき」 849票 67%
「廃止すべき」 325票 26%
「どちらとも言えない」 95票 7%

「存置すべき」という読者が67%と圧倒的多数だと、記事にはある。
しかし、実生活に関係のない、関心を持っていない事柄については、多くの人は現状維持という答えをするものだから、死刑存置が3分の2を占めても圧倒的多数とは言えないと思う。
たとえば、2007年に共同通信社が実施した世論調査では、集団的自衛権は憲法で禁じられているとの政府解釈に関し、「今のままでよい」と答えた人は62.0%、「憲法改正し、行使できるようにすべきだ」は19.1%、「憲法解釈を変更し、行使できるようにすべきだ」は13.3%、つまり集団的自衛権の解釈見直しは不要、今のままでいいと考える人が3分の2なのである。

「通販生活」死刑存廃アンケートの投票者の世代別分析は以下のとおり。
              合計    存置すべき 廃止すべき どちらとも言えない
~10代  7(1%)    3(43%)    3(43%)     1(14%)
 20代    12(1%)    6(50%)    4(33%)     2(17%)
 30代 104(8%)    54(52%)  28(27%)   22(21%)
 40代 215(17%) 136(63%)  65(30%)   14(7%)
 50代 229(18%) 140(61%)  72(31%)   17(7%)
 60代 323(26%)   213(66%)    88(27%)      22(7%)
 70代 257(21%)   201(78%)    45(18%)      11(4%)
80歳以上102(8%)    80(78%)    18(18%)        4(4%)

年齢とともに死刑存置派が増加しているわけで、10年後に同じアンケートをしたら死刑廃止派が増えてるかもしれない。

もう一つ思うのは、80代でも死刑存置派は78%だということ。
死刑制度存廃について2004年の政府による世論調査では死刑賛成が8割だ、圧倒的多数の国民が死刑制度に賛成していると宣伝されているが、この調査は設問の仕方がおかしいことが「通販生活」のアンケートからもわかる。

「通販生活」は「存置派の意見で多かったのは、「もし自分が被害者遺族だったら」と想定したうえで、加害者は命で罪を償うことを当然とするものでした」と書く。
たとえば「ともすると、被害者より加害者の人権のほうが話題になる今、もし自分の身内が……と思うと、相当の罰は当然」(男性・73歳・福島)という意見。

いつも思うのだが、「被害者より加害者の人権が大切にされている」とはどういう意味か、よくわからない。
たとえば殺人事件があると、週刊誌やテレビは被害者のプライバシーをあれこれとあばきたてる。
これなんて被害者の人権無視も甚だしいといつも思う。
被害者の顔写真とか職業も必要ない。
たとえば、「16歳無職」とか「風俗店勤務」とか我々には必要のない情報である。
でも、「被害者より加害者の人権が大切にされている」とはそういうことを問題にしているわけではないだろう。
それと、なぜ「もし自分が加害者家族だったら」と考えないのか、これも不思議である。

「通販生活」では2008年秋冬号から3回にわたって8人(鳩山邦夫、亀井静香、土本武司、坂本敏夫、山上皓、原田正治、郷田マモラ、森達也)が死刑存廃について論じたらしい。
その8人の論者へも投票がなされている。

得票率31%の第一位は死刑存置派の鳩山邦夫氏である。
鳩山氏の主張は「社会正義の実現と、凶悪犯罪の抑止力として死刑制度は存置すべき。加害者が後から反省しても、死刑執行を止めるには値しない。今は取り調べも慎重に行われており、死刑に関する冤罪は絶対にゼロだと確信している。死刑判決が下ったら粛々と執行すべき」ということで、「同氏の「勧善懲悪の徹底こそが犯罪を抑止する」とした意見は大勢の読者の心をつかみました」とのこと。
勧善懲悪が受けるのだから、いまだに水戸黄門が人気あるのもわかる。

田中優子氏が『検証 秋田「連続」児童殺人事件』の書評の中でこう書いている。
「報道がおこなうべきことは、犯罪者を自分たちとは異質な者として攻撃することではなく、勧善懲悪の正義の味方になることでもなく、誰もが陥るかも知れない、人の謎に迫ってゆくことではないだろうか」
メディアだけではなく、我々も田中優子氏の指摘を戒めとすべきだと思う。

2位(得票率16%)は山上皓氏(精神科医、「全国被害者支援ネットワーク」理事長)。
「犯罪被害者の多くが、加害者に極刑を望んでいることは事実。犯罪抑止の面でも死刑は存置する意義がある。しかし、死刑の存廃以前に、被害者や遺族に対する国からの財政援助がほとんどないことが問題だ。十分な支援体制の構築こそが急務である」
被害者支援は大切だけど、死刑存廃とどっちが先かという問題ではないと思う。

「加害者の処遇にかかる費用が年間約520億円、被害者支援の予算が同100億円と、具体的な数字を用いた比較に、衝撃を受けた読者も少なくありませんでした」ということで、こういう感想がある。
「人の命を奪った人に税金がこんなにも使われていることに怒りを感じる。加害者の人権ばかり保護されることに納得できない。死刑で償えるとも思いませんが、他に方法が見つかりません」(女性・51歳・東京都)
「加害者の処遇にかかる費用」とは受刑者の食費、衣料費、医療費などのことだと思う。
殺人犯にだけ約520億円も使っているわけではないだろうに。

読者の感想の中にはこうした誤解に基づくものがある。
たとえば、「死刑囚は執行当日まで生活面、健康面、精神面までの十分なケアを受けられるのに対し、被害者や遺族は見捨てられている。加害者の支援ばかりに偏っている状況を何とかするべきです」(女性・36歳・愛知県)という意見は、死刑囚の中に精神に異常をきたしている人が少なからずいることを知らないのだと思う。
他の6氏については省略。

加害者の支援と被害者の支援とは矛盾するものではなく、両立させるべきだと思うのだが、加害者に厳罰を科すことが被害者支援だと考える人が少なからずいるわけである。
日本犯罪社会学会編『グローバル化する厳罰化とポピュリズム』によると、どの国でも世論は厳罰化に傾くそうだから、そんなものかもしれないけど。

コメント (23)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

クエンティン・タランティーノ『イングロリアス・バスターズ』

2009年11月27日 | 映画
『イングロリアス・バスターズ』を途中退場した人は入場料を返すそうだが、そんな人がいるんだろうかというおもしろさ。
話がどう展開していくのか、さっぱり先が読めない。
いつもの長いおしゃべりも緊張感が高まる効果があるために退屈することはない。
また、巨大パイプを取り出すところ、クリームのアップといった、何気ない、しかし意味ありげなショットを入れるところがうまい。

だけど、うげげとなるシーンがちょこちょことあって、ちょっとなあと思う。
ここまでするか、ということを平気でするところがタランティーノらしいと言えばそうなのだが。
タランティーノは、アメリカ軍だってナチスみたいな残虐行為をしたんだ、戦争は人間をけだものに変えるとか、建物に閉じ込めた人を上から銃撃するのと同じことをイスラエル軍はガザ地区でやったんだというような、そんな社会的メッセージを訴える人ではない。
単にグロ好きなだけだと思う。
それだけに、こんなことをおもしろがるなんて、とイヤになってしまうわけです。

『イングロリアス・バスターズ』はタランティーノ作品としては最高の興収ということだが、アメリカの観客はどういう反応を示したのか知りたい。
ドイツ狙撃兵がアメリカ兵を次々と射殺する映画を見てナチの客たちが喝采したシーンのように、アメリカの観客も盛り上がったのだろうか。

それにしても、ユダヤ人がイタリア人のふりをしても見た目でばれるのではないか、そこらがいい加減だと思ったのだが、しかし若いころのカトリーヌ・ドヌーブを思わせる美人のメラニー・ロランにドイツ兵が一目惚れする。
彼女がユダヤ人だとは思いもしないのはナチの高官たちも同じ。
メラニー・ロランは実際にユダヤ系だそうで、ということは見た目でユダヤ人とかドイツ人とか、そう簡単にわかるわけではない、ということなのか。
人種差別といっても適当なところでやっているというわけです。
 
 日本に来るのは初めての新進女優メラニー・ロラン
 
 
 映画ではもっときれい。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

リチャード・ライト『アメリカの息子』

2009年11月24日 | 

リチャード・ライト『アメリカの息子』を読んでたら、「彼は食料品の連鎖店の前に通りかかった」という文章があった。
「連鎖店」とは「本店を軸にして,各地につくられた同種類の店のこと。チェーンストア」のこと。
原作は1940年の作だが、翻訳は1972年発行。
1972年に「連鎖店」なんて言葉を使っていたのだろうか。
それとか「映画の高速度撮影の大写し(クローズ・アップ)場面の登場人物のような」と、「クローズ・アップ」とふりがなしている。
「連鎖店」とか「大写し」と言われても何のことかいなと思ってしまう。
カタカナは固有名詞やドタドタなどの擬音語以外だと、サイレン、ナイフ、ネオン、カーテン、ホースなど日本語に訳するのは難しい、だけど私にもわかる外来語ばかり。

小林信彦『地獄の読書録』は「宝石」に1959年から連載された翻訳ミステリー評だが、こんな文章がある。(1961年2月号)
「「ジーン・ズボン」(これは、「ジン・パンツ*」の訳らしい)に、「細あや織布製のズボン」という註がついている。
*(著者註)当時は、〈ジーンズ〉を、こう言ったのだ」

「ジーン・ズボン」「ジン・パンツ」、どちらも今だと意味不明ということになる。
日本にはない単語をどう訳すか、昔の翻訳家は苦労してたんでしょう。
そういえば田中小実昌氏は、翻訳するときに注をつけたくないので、地の文の中に言葉の説明を入れるようにしていると、どこかに書いていたが、これも大変だろうと思う。

現在はどうかというと、たとえばコニー・ウィリス『最後のウィネベーゴ』
(2006年発行、泣かせます)には、
「キッチンカウンターの前には、ガスレンジ、冷蔵庫、ウォータークーラーが並び」
「プラスチック製のピッチャーを棚から下ろし、給水タンクの下に置いて」
「コレクションを写したショットでスライドショーを止めた」

などなどカタカナだらけの文章をあちこち見ることができる。
昔だったらどのように翻訳していたのかと思う。

で、『アメリカの息子』で娘が殺されたドールトン夫人は「老婦人」と書かれてあるが、53歳である。
水上勉『飢餓海峡』(1962年発行)に退職した刑事が出てきて、「老人にしてはしっかりした足取りで」(たぶん)と書かれていて、何歳なのかと思って読んでたら50代だった。
なんせサザエさんのお父さんが54歳なのだから。(でも、以前は定年が50歳だったから、福岡時代には40代ということもありうる)
しかし、むかついた50歳代裁判員は中年。
ここらも時代を感じてしまうのでした。

で、『アメリカの息子』は、黒人がひょんなことから雇い主の娘を黙らせるために枕を押しつけて、娘を窒息死させてしまう。
この時点で逃げていれば死刑になることはなかったのだろうが、娘の死を隠すために暖房用のボイラーで死体を焼こうとする。
ところが、頭が入らないために、斧で首を切り落とすことになる。
そして、娘が誘拐されたことにして雇い主に身代金を要求する。
逮捕された主人公は計画的に強姦して殺害したことにされてしまう。
検事は裁判で
「過失致死であったのであれば、なぜ死体を焼き捨てようとしたのでしょうか?」
「彼は、暴行し、殺害し、脅迫金を手にいれることを、計画していたのです」
「彼女を殺害したのは、彼女に暴行を加えたからです!」、「ところが、弁護人は、この男は恐怖にかられて行動したのだと、われわれに信じさせようとするのです!」

と主張する。
弁護人は共産党員だとして新聞などが非難する。
この物語は光市事件と似ている。
『アメリカの息子』を読んで、こんなことはあり得ない設定だ、と言う人はいないと思う。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

市民感覚と裁判の井戸端会議化

2009年11月21日 | 厳罰化

裁判員制度が始まって21日で半年になります。NHKが全国で裁判員を務めた人たちに独自にアンケート調査を行った結果、71%の人が人を裁くことなどに心理的な負担やストレスを感じた一方、93%の人が「判決に市民感覚が反映された」と参加した意義を感じていることがわかりました。NHK11月20日
市民感覚とはいったい何か、ということなのだが、裁判員候補者になっても選任されない人がいるという。

<裁判員裁判>「理由なし不選任」62人…8~9月
高裁は17日、8~9月に全国で行われた裁判員裁判14件の実施状況と裁判員のアンケート結果を公表した。裁判員選任手続きで、検察側と被告側の「理由なし不選任請求」により候補者計62人が除外されたことが初めて明らかになった。結審後の評議時間は平均約6時間だったが、裁判員からは「足りなかった」との声もあった。
 14件で計1310人が裁判員候補者に選ばれ、そのうち計84人が裁判員、計36人が補充裁判員になった。
 選任手続きで、検察側や被告側は裁判所に呼び出された候補者から、それぞれ最大7人まで理由を示さずに不選任とするよう求めることができ、裁判所は必ず認める。この仕組みで除外された候補者は、平均すると1件あたり4.4人だった。
毎日新聞11月17日

1310人のうち62人が不選任ということは約4.7%である。
では、どういう理由で選任されないのか。

<最高検>裁判員候補除外8件25人 8~9月の不選任理由
 最高検は19日、8~9月に開かれた14の裁判員裁判の裁判員選任手続きで、理由を示さないまま裁判所に不選任を求める「理由なし不選任請求」を8裁判で行い、25人を候補者から除外したと発表した。実際の請求理由は(1)裁判所の説明をまじめに聞こうとせず真摯な職務が期待できない(2)被告や被害者の知人や関係者である可能性が高い(3)公平な裁判を否定する発言や態度があった--など。
 検察側が理由を明らかにしたのは初めて。最高裁は17日、弁護側も合わせた請求総数が14裁判で62人に上ると公表したが、内訳は明らかにしていなかった。請求は検察、弁護側双方が最多で各7人(補充裁判員数により異なる)求めることができ、裁判所は必ず不選任決定を行う
。(毎日新聞11月19日

死刑反対の人が選ばれないのかと思っていたら、説明をまじめに聞こうとしないとか、公平な裁判を否定する発言や態度があるといった、そういう人が結構いるわけだ。
ところが、厳しい選任手続きを経て裁判員になった人の中にも困ったちゃんがいました。
男性裁判員が感情をむき出しに被告を問いつめ、裁判長に制止される一幕があったそうだ。

「むかつくんです」裁判員が性犯罪の被告を詰問、裁判長が制止
 裁判員の被告人質問では男性4人が質問。中年の男性裁判員が声を上げた。
 「この裁判は長いと感じる?」。結城被告はか細い声で「長いです」と答えた。続けて男性が「裁判が面倒くさいと思わないか」と訪ねると、結城被告は「自分でやったことだから仕方ない」。さらに男性は声のトーンを上げて「俺的にはやばいとか、(捕まって)運が悪いとか感じる。そうは思わなかったの?」。結城被告は「そうは思わなかったです」と答えた。
 厳しい目で結城被告をにらみながら男性は「二度と繰り返さない気持ちはあるか」と問いかけ、「(その気持ちは)どれくらいか」と続けると、うつむいていた結城被告は30秒ほど沈黙した。
 ここで男性が「即答できない…。昨日から『反省します』とか当たり前の答えしか返ってこない。被害者に対して反省とかこれからですよね。(被告が女性の首を絞めたかどうかの争点について)両手だった片手だったかは関係ない。あなたはむかつくんです」とまくし立てるように非難した。これに対して川本裁判長は苦笑いで「その辺で」と制止すると、男性は「わかりました、すいません」と言って質問を止めた。
産経新聞11月19日
裁判で「まくし立てるように非難した」と感情むき出しにするなんてと思うのだが、ネットの反応は「気持ちはわかるが……」というものが多い。
だけど、これは「公平な裁判を否定する発言や態度」なんですけど。

それにしても、「(その気持ちは)どれくらいか」と聞かれても、どう答えたらいいのかと思う。
「当たり前の答えしか返ってこない」と言われても、だったら当たり前でない答えをしたらいいのかと思う。
「両手だった片手だったかは関係ない」と怒られても、そこを審理するのが裁判ではないかと思う。
「俺的」という言葉を使うのだから若い人かなと思ったら、中年とのこと。
で、裁判長は「苦笑」したそうだが、弁護人は「むかつく」発言にどう対応したのか。

暴行の経緯を巡る弁護側の主張にいら立ったとみられる男性裁判員が、被告に「むかつくんですよね」と大声を上げたため、弁護人の前田誓也弁護士は最終弁論で「細かいとか、くどいと感じられる方もいるかもしれないが、ご理解いただきたい」と訴えた。
前田弁護士は結審後、報道陣に「裁判は被告人に反省を促す場。多少きつい言葉も被告人にとって良かったのかもしれない」と述べた。判決は、20日に言い渡される。
読売新聞11月20日

「むかつく」裁判員を忌避することは今さらできないにしても、弁護人は裁判長に抗議してもいいと思うのだが、「ご理解いただきたい」とあくまでも下手に出ている。

テレビを見ながら、「あいつ、むかつく」とか「裁判なんかしなくていい」とか言うのはその人の勝手である。
だけど、いくら反省をうながすといっても、感情のむき出しに「まくし立てるように非難」しのでは、反省するものもしなくなってしまう。
「市民感覚」とは何かというと、「むかつく」「気持ちはわかる」といった感情だとしたら、裁判は報復の場(当事者ではなく第三者の)になってしまう。
苦笑い
ですむ問題ではないと思う。

追記
【裁判員裁判】「心情的に同じ気持ち」むかつく発言 裁判員経験者が意見
 女子高生=当時(15)=に対する強姦(ごうかん)致傷罪に問われた宮城県大崎市の無職、結城一彦被告(39)を審理した仙台地裁(川本清巌裁判長)の裁判員裁判。
 20日の判決で、川本裁判長は「被害者の精神的、肉体的な苦痛は重大」とし、懲役9年10月(求刑懲役10年)を言い渡した。判決理由では「謝罪の気持ちがあると認められるとの意見が大勢でした」と、被告の反省度合いを議論した評議の一端を明らかにした。
 判決公判後の会見には、男女4人の裁判員経験者が出席。被告人質問で結城被告に「むかつく」と発言した50代男性も応じた。
 男性は、川本裁判長に「説教が始まるのかと思いました」と諭されたエピソードを披露。「評議で被告の刑を軽くする気持ちになった。(裁判官と裁判員の)9人で話していくうちに変わった」と説明した。
 男性の発言について、仙台市若林区、主婦、渋谷みち子さん(59)は「心情的に同じ気持ちだった。『よくぞ言ってくれた』と感じた」と同調する意見。柴田町の高橋忍さん(54)は「裁判官は感情をあらわにできない。(男性の発言は)裁判員制度のおかげだと思う」と話した。
産経新聞11月21日
「俺的」「むかつく」男性が50代だとは。
私としては「俺的」なんて言葉を使うのは恥ずかしいです。
それにしても評議はなごやかな雰囲気だったようで、他の裁判員も「『よくぞ言ってくれた』と感じた」とか「(男性の発言は)裁判員制度のおかげだと思う」という感想なわけで、やっぱり井戸端会議です。

「被告の刑を軽くする気持ちになった」わりには、検察の求刑のより2ヵ月短いだけ。
裁判員制度は結局は市民を動員して厳罰化を正当化していると思う。

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

文殊菩薩を見た人たち

2009年11月19日 | 仏教

仏教が中国や日本に渡来した当時は、中国人や日本人にとってエキゾチックな未知の魅力にあふれたものだったことだと思う。
仏像に刻まれた仏菩薩の相好は異国風であり、珍しい衣裳や装飾を身につけている。
仏弟子の名や鳥や花の名はサンスクリットの音を漢字にそのまま音写したものだから、特別な響きを持つ。
醍醐や甘露を飲むことはできないだけに、どんなものかと一層惹きつけられる。
優鉢羅華が虫の卵であり、迦陵頻伽が雀に似た鳥とは知らないから、ライオンが似ても似つかない獅子像として形象化されるように、想像力の翼を広げさせる。

加藤常賢『漢字の発掘』に、「黄帝とか西王母とかいう伝説上の神が本来は中国本土で生まれた伝説上の神であるにもかかわらず、すでに戦国時代になると、遠く西方の崑崙山に移住してしまっている。(略)この時代はすでに西方の諸国と交通があって、当時の知識人にとって、何事か憧れの的となって、その地方が神秘的に考えられた結果ではないかと思う」とある。
高度な文化がもたらされる西方は魅力あふれる方角だったのだろう。
しかも太陽が沈む西は死を意味するから、死者の世界は西になければならない。
だから、浄土が西方にあることは浄土のエキゾチックな描写と相まって、無理なく受け入れられたのではないかと思う。

これとは逆に、『聊斎志異』「西僧」はこんな話である。
西国の和尚が西域から来て、一人は五台山に行き、一人は泰山に住んでいた。
この和尚は「西の国に伝えられている中国の名山は四つで、一つは泰山、一つは華山、一つは五台、一つは落伽だが、伝えられるところによると、山の上は、どこでもみな黄金だし、観音や文殊が、まだ生きておいでになって、そこに行くことができれば、生きながら仏になり、長生不死だというんだ」と語った。
西域から楽園を求めて中国へ向かった者も大勢いるわけである。
蒲松齢は「もし西に行く人があって、東に来る人と中途で出会い、おのおの自分の国のありさまを話したら、必ず顔を見あわせて失笑(ふきだす)(ふきだす)だろうし、両方とも、歩かなくても、いいことになるだろう」と冷やかしている。

しかし、インドから中国にやってきた仏陀波利は五台山で修行に励むことで文殊菩薩を見たという。
何かを求めて未知の世界へ旅立ったからこそであって、インド航路を求めたコロンブスが新大陸を発見したとか、まあ、そういったことと通じると思うわけです。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

平松令三『親鸞の生涯と思想』

2009年11月16日 | 仏教

平松令三「親鸞の生涯」(『親鸞』)を読み、750年前に死んだ人のことなど新しい発見はもはやないと思っていたら、結構あるもんだと驚いた。
そこで平松令三師の『親鸞の生涯と思想』を買う。

今井雅晴氏が善鸞事件に疑問を出し、親鸞が善鸞に出した義絶状は偽作ではないか、という見解を示していることへの批判を平松令三師はしている。
私も今井雅晴『親鸞の家族と門弟』を読み、善鸞に出した手紙を関東の弟子たちが持っているのは確かに変だと思った。
ところが平松令三師によると、戦後、一部の研究者の中に善鸞事件について否定的見解を示す人々があり、義絶状は偽文書だと決めつけたそうだ。
それに対して宮地廓慧師や平松令三師が偽作説は不当だという論文を発表し、その後は義絶状の信憑性について云々されることはなかった。

ところが、今井雅晴氏が再び義絶状偽作説を活発に主張した。
「今井氏は、この事件の枠組みを、親鸞の命によって関東に下向した善鸞が、関東で勢力を伸ばしていた親鸞面呪の直弟たちと対立するようになった結果であって、初期教団内部の主導権争い、と理解する。
善鸞事件についてのこうした視角は、従来の研究者にはあまり見られなかったところであって、注目される」
と平松令三師は説明している。
私なども不勉強で偽作説の経緯を知らないものだから、『親鸞の家族と門弟』を読んで、今井雅晴氏の説になるほどと思ったわけです。
しかし、平松令三師は「(今井)氏の立論はほとんどが感情移入的・心理分析的推測手法であって、史料に基づくものではない」と厳しい。

義絶状は親鸞自筆のものが伝わらず、顕智の書写本が専修寺にだけ伝わっていること、書状の記載形式が不自然だ、と今井雅晴氏は指摘する。
そして、性信にあてた善鸞義絶を通知した手紙も今井雅晴氏は偽作だと断じる。

それに対して平松令三師は「義絶状のような種類の書面は、受取人に届けられたらそれで事が済む性質のものではない」と言う。
義絶状は関係者に告知するのが必要な文書である。
「事件の関係者、とくに善鸞の行動によって被害を受けた側の人々へ周知させなければならない性質のものである。動揺した教団へ通告するのはむしろ親鸞の義務でもあったはずである」
『国史大辞典』には「中世には義絶は親子の関係に用いられた。(中略)義絶の際は親は義絶状を作成し、一門あるいは在所人らの証判を得るとともに、官司へも義絶の旨を届け出た」とあるように、鎌倉時代の義絶状は様式が定まっていたという。
善鸞への義絶状は一般の義絶状とは大きく異なっており、このことが偽文書ではない証左だと平松令三師は言う。
納得でした。

『親鸞の生涯と思想』には、平雅行『日本中世の社会と仏教』で論及されている聖覚評価への反論もなされている。
嘉禄の法難(法然の墓を破却し、寛らの処刑という専修念仏弾圧)の時、聖覚は弾圧する体制側に属し、朝廷に対して念仏宗停廃の申請を行なったことが歴史的事実であると、平雅行氏は立証した。
「これまでの専修念仏者としての聖覚像を一八〇度転換させるものであった」と平松令三師と評価する。
しかし、平松令三師は聖覚を擁護しているのだが、主観的な印象批評のように感じられ、素人判断だが平雅行氏のほうが説得力があるように思いました。

それにしても平松令三師は1919年生まれ、今年90歳である。
頭が下がります。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ニック・カサヴェテス『私の中のあなた』

2009年11月13日 | 映画

ニック・カサヴェテス『私の中のあなた』「白血病の長女と、姉のドナーとなるため、遺伝子操作の末に生まれてきた妹を軸にした家族の物語で、親子の絆、生きることの意味、命の尊さが、真摯な眼差しで丁寧に描かれていく」という映画。
チラシには「世界中を涙で包んだ空前のベストセラーが、待望の映画化!」という惹句、そして「愛と優しさに溢れている」「震えるほどの感動体験」「ずっと忘れることのできない、美しい物語」という映画評(チラシの映画評はいつも当てにならないが)が載っている。
ネットの評判もいいようだ。

たしかに「笑顔と明るさに溢れた演出」だし、私も涙がこぼれた。
だけど、親が次女に無理矢理に腎臓を提供させようとするなんて虐待である。

白血病の長女を治すために遺伝子操作によってもう一人子どもを産む、ということは理解できる。
そして、骨髄移植などの治療を行なうことも。
だけど、長女が腎不全になったからといって、母親が次女に腎臓を提供させようとするものだろうか。
腎臓移植をして一時的に延命しても、白血病は治っていないし、治ることはおそらくない。
ところが、母親は腎臓移植を当然のことと考え、次女が弁護士を雇って移植を拒否すると、怒り狂って次女を罵るのである。
だったら母親が腎臓を提供しろと言いたくなる。

なぜそこまでして腎臓移植をさせようとするのか、そこらの説明がない。
それなのにチラシには「家族はまた、お互いへの絆を強めもするのだ」とある。
そんなことあり得ない。
次女が親を訴え、母親が次女をののしった時点で、いくらアメリカが訴訟社会だといっても、普通なら家庭は崩壊するはず。
なのに、映画ではそんなことなどなかったように今までと同じように仲良く暮らすんですからね。
おまけに、弁護士の母親は被告でありながら自分が弁護人となって次女と対決するんだから、もうどうしようもない。

そして父親、腎臓移植や裁判をどう考えているのだろうか。
裁判で、次女は死にたいと言っている長女に頼まれて訴訟を起こしたと発言し、そんな長女に気持ちを認めようとしない母親に向かって父親は「今まで百万回も言っていた。君はそれを聞こうとしなかった」と批判的なことを言う。
家族は母親に何も言えない状態だというわけで、仮面家族である。
とはいっても、父親は腎臓移植することをどう思っているのか、次女が訴えたことに対してどう感じたのかわからないし、裁判をするかどうかを夫婦で話し合ったようにも思えない。
次女に無関心なことでは父親は母親と同罪である。

両親は長男もほったらかしである。
失読症の長男は学校に行っていないようだが、映画は長男の悩みにほとんど触れていない。
原作では、「兄のジェシーは酒とドラッグに溺れ、放火を繰り返す。父親は、仕事を逃げ場としてしゃにむに働く」とあるサイトで紹介されていた。
ちなみに父親は消防士で、原作では息子が放火した火事を消すそうである。
それにしても、長女の医療費はかなりの金額になるだろうし、だけど大きな家に住んでいるわけで、消防士の給料はそんなにいいのかと思う。

そしてラスト、チラシによると「そうして物語は最も衝撃的で、最も優しい結末へとつながっていく―」わけだが、原作は映画とは違っているそうだ
「弁護士の車に乗ったアナは交通事故に巻き込まれ、脳死状態になって、死ぬ運命だったケイトが、アナの腎臓を移植されて、生き延びる。放火を繰り返した兄のほうは、放火は重罪なのに、父親は息子をかばって握りつぶし、成長した彼は、何と何と警官になるのだ」というまさに衝撃のラスト。

「それぞれの想い、そのすべては大好きな家族のため、さわやかに泣いた後は、生きていることへの感謝や、身近にいる人を愛することの大切さを、あらためて実感する」とチラシにはあるが、臓器移植が犠牲、献身という美談になっては困る。
家族愛というような美しい物語に仕立てることで、母親の残酷さ、父親の無関心さをごまかしているとしか私には思えない映画でした。
原作はアマゾンの評はいいし、「すべてにおいてパーフェクトな物語」という絶賛する評もある。
うーん、読みたいような読みたくないような。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

被害者の気持ちと人権

2009年11月10日 | 日記

「複雑な心境」遺族ら会見 オウム2幹部の死刑確定
広瀬健一、豊田亨両被告に対する上告審判決を傍聴した遺族らが、東京・霞が関の司法記者クラブで会見し、最終審の判断を受けて、心境を語った。
 「地下鉄サリン被害者の会」の代表世話人で、営団地下鉄職員だった夫=当時(50)=を殺害された高橋シズヱさん(61)は、1審から最高裁まで傍聴してきた。「2人の被告は真摯に裁判に臨んでいた」と振り返った。「被害者や遺族が望んでいた判決ですが、2人は年齢的に私の子供と同じぐらいで、複雑な思いもする。オウム真理教事件の中では、2人は被害者だった」と語った。
広瀬被告がサリンを散布した地下鉄丸ノ内線で被害に遭い、重度の障害を負った浅川幸子さん(46)と傍聴した兄の一雄さん(49)も「許す訳ではないが、私も人の親。子供が過ちを犯し、判決を受けると考えると悲しい、複雑な気持ちになる」と話した。
 その上で、「被告は拘置所で最低限の保障を受けられるが、被害者は置き去り」と述べた。言語障害が残る幸子さんは「オウム、大バカ」と声を上げた。
 日比谷線で被害に遭った大上雅子さんは、これまで会見などを避けてきた。
 「事件には触れたくなかったが、事件を知らない世代も増えてきたなか、伝えていかなければならない」と、事件風化への懸念を口にした。
(産経新聞11月6日

被害者の方二人は複雑な心境だと言われているのだが、ではネットの反応はどうかというと、「死刑は当然。さっと執行しろ」というようなものがほとんど。
それと、千葉法相を死刑反対派だとして非難するもの。
極めて単純な感想である。
被害者の気持ちを考えたらということがよく言われるが、この人たちは被害者の気持ちを考えていないわけである。

「週刊新潮」に、結婚詐欺で逮捕された女性の知人男性が不審死した事件の記事があった。
女性は逮捕されていないし、起訴されていないし、裁判にもなっていないし、有罪が確定したわけでもないのに、実名、顔写真、経歴その他が詳しく載っていて、犯人扱いである。
無罪推定の原則以前の問題である。
これは「週刊文春」も同じで、「疑惑の銃弾」の反省をしていないらしい。
それよりももっと驚いたのが、「週刊新潮」は亡くなった男性(もちろん実名)のことを「吝嗇家」と書いていることである。
これはあまりにもひどい。
週刊誌の人権無視は毎度のことではあるが、だけどこんなことを平気で書く「週刊新潮」が、被害者の気持ちを考えたら死刑は当然云々なんてよく言えるもんだと思った。

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ちいさなメダルが足りない

2009年11月08日 | 日記

ドラゴンクエスト7を何年か前に買い、ぼちぼちと思いだしてはやっているうちに、ようやくCD1の最後、オルゴ・デミーラとの戦闘まできた。
ところが、ドラゴンクエスト7の攻略法をネットであれこれ調べていると、ちいさなメダルが110枚ないとプラチナキングの心が手に入らず、それがないと裏ボスの神様を倒せないそうだ。
ところが、現時点で4枚不足している。
どこでしくじったのか、今さら探しようがないので、また最初からやり直さないといけない。
とほほ、一体いつになったらクリアできるのやら。

言うまでもないことだが、ゲームはリセットできるが、人生はやり直しがきかない。
仮に、人生もある時点まで戻ってやり直すことが可能だとしたら、私はいつの時点に戻りたいか。
とりあえずは○歳のころまで戻りたい。
そうやってやり直しを繰り返していけば、だんだんと過去に遡っていき、結局は生まれてきた時に戻ってしまうことになる。
では、生まれた時からやり直せたら悔いのない人生が過ごせるかというと、永遠の時間がかかってもそれは無理。
それが輪廻ということかいなと、今思った。
人生に失敗と後悔はつきものである。
やり直すよりも、今の自分に与えられたものでどう生きるかということが大問題である。

で、Youtubeを見てたら、プラチナキングの心がなくても神様を倒せるそうだ。
人生、何とかなるものである。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

南京事件 5

2009年11月05日 | 戦争

笠原十九司『南京事件論争史』によると、南京事件否定論は東京裁判の最終弁論で弁護側が提出した付属書「南京事件に関する検察側証拠に対する弁駁書」にすでに登場している。
①伝聞証拠説 証人は直接現場を目撃していない
②中国兵、中国人犯行説 中国軍も殺人、略奪、放火、強姦をしている
③便衣兵潜伏説 中国兵は民間服を着て潜伏していた
④埋葬資料うさんくさい説 埋葬資料の中には戦死した兵士の死体も含まれている
⑤南京人口20万人説 日本軍が攻撃する直前の南京の人口は20万人だった
⑥戦争につきもの説 戦争ではどこでも発生している
⑦略奪ではなく徴発・調達説 日本軍は代価を支払って徴発・調達した
⑧大量強姦否定説 若干の強姦はあったが、組織的な大量強姦はなかった
⑨中国の宣伝謀略説 中国の宣伝外交である
⑩中国とアメリカの情報戦略説 中国びいきの欧米人が中国のお先棒を担ぎ、アメリカもそれに与して日本批判をした

これらは現在でも南京事件否定の根拠としてくり返し使われているそうだ。

否定派の本全般について笠原十九司氏は「資料の根拠、裏付けなしに自分の推測だけで否定する」
「否定できないものは無視する」と否定派を批判しているが、そこらは南京事件否定派は超常現象肯定派と似てるように思う。
たとえば、東中野修道氏は大虐殺派が根拠にしている史料や証言に「一点の不明瞭さも不合理さもないと確認されないかぎり、(南京虐殺があった)と言えなくなる」、つまり「(南京虐殺はなかった)という間接的ながらも唯一の証明方法になる」としているそうだ。
たとえば証拠写真とされるものがニセ写真だということになれば、南京で虐殺はなかった証明になるという理屈である。
この論理はおかしいわけで、「カラスは黒い」という命題を否定するためには、白いカラスを一匹でも見つければいい。
南京事件の場合、100枚の証拠写真のうち99枚がニセ写真であっても、1枚が本当の証拠写真だったら、南京虐殺があったと証明することになる。

笠原十九司『南京事件論争史』を読んで感心するのは、史実派の人たちがそんな南京大虐殺否定派の本(手を換え品を変え、だけど同じことのくり返し)ををきちんと批判していること。
ここがおかしいと指摘するのは手間暇のかかる面倒な作業であるが、それを史実派の人たちはしているわけである。
たとえば「ゆう」という人の「南京事件-日中戦争 小さな資料集」というサイトでは、東中野修道『南京虐殺の徹底検証』のどこが間違いか、一つ一つ元の資料にあたって検証している。
そして、ゆう氏は「東中野氏のこの本は、捻じ曲げ引用、勝手な解釈、対立データの無視、一方的な記述―「禁止事項」のオンパレードでした」と言っている。

なぜ否定本批判をするかというと、笠原十九司氏によると「公刊される否定説本に批判を加えないと、「南京大虐殺派が否定できないのは事実と認めたからである」ということになり、否定派の「ウソ」が罷りとおることが懸念されたからである」
しかし、南京虐殺否定派は主張が論破されて反論ができなくなると、論点をずらして新たな否定論を展開する。
その新たな論点を批判しないと、批判できないからだ、こちらの主張を認めたと宣伝するので、そこでやむなくまた批判する。
そしたら別の人が同じ主張を言い出すetc、というモグラ叩き。
なんだか超常現象肯定派と懐疑派の論争みたいである。

笠原十九司氏は「否定派はすでに破綻した否定論の繰りかえしと、新たな否定論の「創作」という二つの方法で、否定本を多量に発行しつづけているので、世間一般は「南京事件論争」は決着がつかずにまだつづいていると錯覚することになる」と指摘する。
だけども、「南京事件否定派を批判するために、南京事件史実派いわゆる「南京大虐殺派」が、資料発掘、収集に努力し、その成果を資料集や歴史書にして刊行してきた結果、南京事件の全体的歴史像の解明は飛躍的に進んだ」そうで、どんなことにもムダはないんだなと思った。

コメント (6)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする