三日坊主日記

本を読んだり、映画を見たり、宗教を考えたり、死刑や厳罰化を危惧したり。

スタッズ・ターケル『「よい戦争」』1

2013年03月27日 | 戦争

宮城顗先生の講話の中で、原爆投下後の長崎に入った米軍兵士の話が紹介されていた。
その話は、スタッズ・ターケルが第二次世界大戦についていろんな人にインタビューした『「よい戦争」』(1984年刊)に載っている。

題名の「よい戦争」というのは、アメリカ人は第二次世界大戦をファシズムに勝利した「よい戦争」と考えてきたから。

しかし、「よい」と「戦争」は言葉としてなじまないとスタッズ・ターケルは言う。

原爆に関わるインタビューから、いくつか紹介しましょう。
まずは宮城先生が話されたビクター・トリー「全米原爆復員兵協会」を。

海兵隊員だった。
「1941年に戦争がはじまったとき、私の暮らしはまったくアメリカの夢そのものだったよ。白いくいがきの小さな家、小さな女の子、優しい妻、それに立派な職業だ。29歳で、熱烈な愛国者、好戦派だった。海兵隊に入ったんだよ」

広島に原爆が投下されたときにはサイパン島にいた。

「我われは歓声をあげ、かっさいし、だきあい、とびあがった。たぶん、このいまいましい戦争は終わりになって、我われ日本本土に進攻しないすむってね。みんなそう思ったんだ」

若い中尉から「我われは長崎を占領しに行く」と指示される。
「百年たたなければ誰も入れないといわれてるのに、どうやって長崎を占領するのでありますか」と質問すると、中尉は「海兵隊員、心配することはなにもない。科学者がすでにはいっている。きわめて安全だ」と答える。

9月23日に長崎の港に入り、次の日、長崎の街を見に行く。
「墓場にはいりこんだようだった。完全に静まりかえっている。あたりは、死のような臭いがする。ひどい匂いなのさ」

ある日、合州国科学探検隊と船側に書いてある船が入ってくる。

「おれたち二週間ほどここにいたことになるじゃないか。いまごろになってこの科学部隊を送ってきやがって。安全かどうかを調べようってんだぜ。おれたちはたぶん子どもができないってわけさ」
みんなで冗談を言い合って笑った。
深刻に考えたことはなかった。
しかし、口には出さなかったが、心のどこかでだれもが気にしていた。

この原子爆弾は何をしたのか。
「ある日相棒たちからはぐれてしまったことがある。見知らぬ街にひとり。敵兵だよ、私は。ちいさな日本人の子どもたちが道で遊んでいる。アメリカ人の子どもたちとまったく同じように遊んでるんだが、私はオーイといって手を振ったんだ。こっちをみると、海兵隊だろ。みんな逃げる。ひとりだけ逃げない子がいて、私はその子に近づく。英語がわからない。私も日本語がわからない。しかし、なんとなく通じるんだ。基地に帰ろうとしてるんだということを伝えようとする。彼が、ワイフが私に送ってくれたこのブレスレットに目をつけるんだ。
なかには、娘ふたりとワイフの写真があるんだ。彼はそれを見て指さすので、私はそれをあけて写真を見せる。彼の顔が輝いて、とびはねるんだよ。自分の住んでいる二階のほうを指さして、「シスター、シスター」というんだ。身ぶりで姉さんが腹ぼてだっていうのさ。
このちびさんが家にかけあがっていって、父さんをつれておりてくる。たいへんいい感じの日本の紳士だ。英語が話せる。おじぎをして「おあがりになって、お茶でもごいっしょにできれば光栄です」というんだ。それで、この見ず知らずの日本の家にあがりこんだんだよ。炉だなみたいなところに若い日本兵の写真があるので、「息子さんですか」ってきいてみた。「これは娘の夫で、生きているかどうかわからない。何も聞いていないのです」というんだ。
彼がそういった瞬間、私たちと同じように日本人も苦しむんだってことがわかりはじめたんだ。彼らは息子たち、娘たち、親類を失ってるんだ、彼らも苦しむんだってね。
日本人には軽蔑しかなかったんだよ。日本人が残酷だっていう話ばかり聞いてね。私たちは日本人を殺す訓練をうけた。敵なんだ。パールハーバーで連中がしたことを見ろ。しかけたのは連中だ。だからこらしめてやるんだ。この男の子と家族にあうまでは、それが私の気持だったんだよ。姉さんがでてきて、おじぎをする。ものすごく大きな腹をしてる。あの瞬間を私は忘れないよ」

ビクター・トリーは広島長崎復員兵委員会に加わる。
異常に多くの復員兵が、癌、白血病、多発性骨髄腫、その他の血液の病気などにかかっていることがわかる。
「私は政府を信じてた。ルーズベルトのいうことは何でも、神にかけて――いやルーズベルトが神様だったけどね――信じたのさ。(略)いまじゃ、私は疑うことができる。政府を疑っているんだよ。アメリカ人はみんなそうするべきだ。(略)
大統領だろうが誰がなんといおうがだめだよ。私は自分で考えなけりゃならないんだ。そして、みたものは、みたんだ。
私たちは、あのふたつの原爆を軍事施設に落としたんじゃない。私たちは、女たち子どもたちの上に落としたんだ。私がとんだりはねたり、相棒とだきあって、得意になってたその瞬間に、道路に幼い赤んぼがころがっていて、黒こげに、焼かれて、生き残るチャンスがない。七万五千人の人間がいて、生きて、呼吸して、食べて、生きたがっていた。それが一瞬にして黒こげにされてしまった。これはアメリカが永遠に背負わなければならないものだ、と私は思う」

アメリカ軍は、日本兵は夜でも目が見えるなどと信じていたという。
日本にしたって、
鬼畜米兵、女は強姦されて殺されると、自分たちがやってたから、そうされるものだと思い込んでいた。
「幽霊の正体見たり枯れ尾花」ではないが、知ることの大事さを思う。

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マーガレット・ハンフリーズ『からのゆりかご』

2013年03月23日 | 

ジム・ローチ『オレンジと太陽』は、児童養護施設の子供たちがオーストラリアに移住させられ、施設で過酷に扱われながら労働を強いられる、という児童移民という事実を暴いた映画である。
というので、原作のマーガレット・ハンフリーズ『からのゆりかご』(1994年刊)を読んだ。

マーガレット・ハンフリーズはソーシャルワーカーだが、1984年に養子になった人の自助グループを始めた。
1986年、子供の時にオーストラリアに送られたと訴える女性から相談を受けたことで、児童移民の問題に関わるようになる。

児童移民はなんと1618年が最初だそうだ。
「子供の移民は十七世紀以来周期的に行われてきた.最初に送られたのは1618年、ヴァージニアに入植する子供たち百人であった。大部分の子供は今日でいう浮浪児に該当するような子供たちだった。
この計画は十九世紀の終わり頃まではごく一般的なものであったのだが、不幸なことに詳細な参考資料はきわめて乏しい」

1900年から30年代にかけて、子供たちは主としてカナダへ、そしてローデシアやニュージーランドにも送られている。
第二次大戦後はオーストラリアに集中する。

児童福祉団体、慈善団体、教会、政府機関が児童移民に関わっていた。

いずれも善意でしたこと。

どうして子供たちを植民地に送り出したのか。

送り出すイギリスの言い分。
「英国及びアイルランドの子供たちが彼ら自身と帝国のために、困難な状況から「救出」されていたのである。
その論法はごく単純だった。貧困や非嫡出、崩壊家庭の犠牲者として、こうした子供たちは「恵まれない子供」とみなされ、社会に負担をかける者と考えられたのである。同様に彼らは長じては泥棒、フーリガンとなり、あげくの果てには監獄に入ることになるだろう。すでに都市のあぶれ者たちは孤児院や貧困家庭に満ちあふれ、彼らの世話をやく慈善団体や宗教施設や政府の福祉機関の負担になっていた。十九世紀には、地方公共団体は一教会区の救貧院で一人の子供を養うのに、年間十二ポンドかかるが、一方では、十五ポンドを一回支出すれば子供を外地に送りだし、それ以上の経済的責任は免れることになっていたのである。
英国の多くの都市、特にロンドンには社会の危機を招きかねない極貧の子供たちがあふれていた。ところが植民地には広大な空間が広がっていて、そこを生かすためにもっと多くの働き手を呼び求めていた。まさに一石二鳥というわけだ。子供たちは堕落と困窮から救われ、帝国とその自治領を潤すために送り出されて行く。かの地では、さわやかな空気と勤労と宗教教育とが彼らを立派で正直な市民に育て上げてくれることだろう」

受け入れるオーストラリアの狙いは安価な労働力の確保である。
1945年、オーストラリア政府は人口を増やそうとして、児童移民を進める。
政府が作った概要書にはこうある。
「児童移民の分野でただちに大きな努力を払わねばならない特別に緊急の理由が存在する.戦争という特異な状況はヨーロッパにかつてない多数の孤児、浮浪児、〝戦時ベビー〟等を生み出した。これは、オーストラリアが児童移民を受け入れて人口を増加させるに当たって、現在をして比類ない幸運の時とするものである。子供たちは同化、順応しやすく、将来にわたり勤労年数も長く、住居提供も簡易にすむから、戦後の初期の数年間特に魅力ある種類の移民である」
オーストラリアに移民させられた児童は1万人近くらしい。

児童移民の経費はイギリス、オーストラリア、西オーストラリア州の各政府が共同で負担した。

多くの福祉団体は、児童移民が劣悪な施設に入れられ、教育的配慮がなされていないなど、問題があると警告を出している。
しかし、1967年まで児童移民は続けられた。
まさに棄民である。

他人事ではない。

訳者はあとがきに「日本にも存在する類似のケースを思い浮かべずにはいられない」と書き、そして中国の残留孤児、そしてエリザベス・サンダース・ホームから海外に養子に出された子供たちを挙げている。

オーストラリアに移民させられた子供たちは、施設での少ない食事にお腹をすかせ、暴行や性的虐待を受け、重労働をさせられる。
預けられた家ではただ働きをさせられ、、ののしられる。
映画を見ていて、児童移民とはどういう話か知っていたが、『からのゆりかご』を読み、一人ひとりの訴えには圧倒された。

実の親が生きていても、死んだと聞かされた。
自分の名前、生年月日、生まれた場所、家族の有無などを知らない人もいる。
自分が誰かわからない。
すべてから拒否されている。
アイデンティティとはこれか、と思った。

秦恒平氏は『死なれて・死なせて』で、生まれて間もなく里子に出された自身の実体験を書いている。
実の母は子供と会いたくて養家を訪れたりしており、子供心に「この人が実の母だ」とわかったが、会うことを拒否し、お土産も受け取らずに逃げていた。
ところが、26歳の時に母が亡くなったと聞く。
死んだという知らせを受けた時から、何とも言えない思いと悲しみと、足下が崩れていくような深い喪失感を感じて、それがきっかけになって小説を書き始める。

『ロングウェイ・ホーム
は、幼いころに里子に出されて別れた三人兄弟が16年後に再会するという事実に基づいた映画。
長男が弟妹の居場所を手を尽くして探すのだが、どうしてそこまでするのか、映画を見たときにはよくわからなかった。

養子になった人の自助グループでは話が尽きなかったと、マーガレット・ハンフリーズは書いているが、実の親を知らない人も同じように自分というものに自信を持てないあやふやさを感じているのかもしれない。

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自己顕示欲と自己憐憫について

2013年03月19日 | 日記

ある人から繁華街のゴミ拾い活動の一端を冊子にしたものをいただく。
心磨きと称して便所掃除や道路掃除をする人たちがいて、中国やバングラデシュまで出かけるそうだ。
誰か見ていてくれないか缶拾う 坂東一郎

陰徳と言いまして、人知れず行うからこそありがたいのであるが、そうは言っても、人に知ってもらいたい、ほめてもらいたいという気持ちは私もすごくあります。
匿名の寄付に反対する女房 林正男

その意味では、自分や恋人のヌード写真を投稿する人がいて、知人や近所の人が見たらどうするのかといらん心配をしてしまうのだが、これも注目してほしいということだとしたら、世のため人のために頑張っている人たちの心性と共通しているのかもしれない。
誰も読まないであろう自分史を自費出版する人や、Yahoo!知恵袋の回答者で、ネットで調べたらすぐにわかるようなことでも、「記憶が曖昧なんですが」とか「聞いた話ですが」という回答をわざわざ書く人も同類だと思う。
私だってこうしてブログを書いては自分の日常や考えを露出しているわけだから、人のことはあまり言えない。
下手な絵の前で動かぬのが作者 久保田勝

こうした行為は一種の自己実現かもしれない。
マズローの言う自己実現とは「その人が潜在的にもっているものを実現しようとする傾向」だと、小沢牧子『「心の専門家」はいらない』にある。
「自己実現とは、人が持っている、隠れた可能性を開花させ、潜在的な自分自身を実現していこうとする傾向・願望を言うのである」
自己実現というと何だかいいことのようではあるが、「隠れた可能性」というのがくせ者で、単に妄想にすぎないという気もする。
目的を持って生まれた人はない 池田清美

自己卑下、自己憐憫は私の得意技であるが、これまた認めてもらいたいということでは同じだと思う。
グレアム・グリーン『燃えつきた人間』には、院長の「人間は自慢するものがほかに何もないと、自分の悩みを自慢にする」という名言が吐露されている。
ほんとつまらないことを自慢する人がいて、びっくりすることがある。
一生の自慢は東大受けたこと 大畑敬作

他人から見たらしょうもないことでも、その人にとっては、それが自分を支えているんだろうなと思って聞いているのだが。(具体例は省略)
自己顕示欲を自慢という形で表現する人と、自己憐憫する人とがいるということだと思う。
ほめられて満面笑顔で否定する万能川柳でした)

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朝井リョウ『桐島、部活やめるってよ』

2013年03月15日 | 

映画がよかったので、朝井リョウ『桐島、部活やめるってよ』を読んだ。
原作は映画とはかなり違っている。

5人の生徒が語るという構成で、それぞれ興味深いのだが、映画部の前田涼也にいたく共感した。
「高校って、生徒がランク付けされる。なぜか、それは全員の意見が一致する。英語とか国語ではわけわかんない答えを連発するヤツでも、ランク付けだけは間違わない。大きく分けると目立つ人と目立たない人。運動部と文化部。
上か下か。
目立つ人は目立つ人と仲良くなり、目立たない人は目立たない人と仲良くなる。目立つ人は同じ制服でもかっこよく着られるし、髪の毛だって凝っていいし、染めていいし、大きな声で話していいし笑っていいし行事でも騒いでいい。目立たない人は、全部だめだ」
目立つ人と目立たない人が話すことはほとんどない。
目立たない人は、そんな奴、クラスにいたか、という感じ。

前田の友だち武文はサッカーの授業で女子生徒たちに笑われる。
「体育でチームメイトに迷惑をかけたとき、自分は世界で一番悪いことをしたと感じる。体育でチームメイトに落胆されたとき、自分は世界で一番みっともない存在だと感じる」
私は運動神経がどうしようもなく鈍く、体育の授業は苦痛だったので、この気持ちは痛いほどわかる。
「サッカーってなんでこうも、「上」と「下」をきれいに分けてしまうスポーツなんだろう」

町山智浩『キャプテン・アメリカはなぜ死んだか』によると、アメリカの高校ではランク付けがある。
「アメリカの高校には日本のようなクラスがないので、生徒たちはクリーク(派閥)を組んで友人を作る。チアガールはチアガール、ガリ勉はガリ勉だけで固まる。友達を作るには自分を何かのカテゴリーの枠にはめないとならない。金髪美女なら、勉強したらいけない。スポーツマンはアニメを見ちゃいけない。定型にはまらないと学校で居場所がなくなってしまう。
それに美女のクリークに入っている少女はスポーツマンか金持ち坊ちゃんのクリークの男以外とは会話もしてはいけない。幼なじみのオタク少年なんかと話していたら周りから爪弾きにされてしまう」

アメリカ映画を見てると、この雰囲気はなんとなくわかる。
で、『桐島、部活やめるってよ』によるならば、日本の高校も同じ状態だということになる。

高校でのこういう構造を映画オタクに語らせる朝川リョウはどのクリークだったんだろうか。

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「衛生夫が初めて語った! 東京拘置所「死刑囚」30人それぞれの独居房」

2013年03月12日 | 死刑

「週刊新潮」(2月7日号)に「衛生夫が初めて語った! 東京拘置所「死刑囚」30人それぞれの独居房」という記事が掲載されている。

衛生夫は30代の男性、東拘の死刑囚70人の半数弱がいるフロアで働いていた。
「世間では、死刑囚は独居房の中で膝を抱え、死の恐怖に怯えながら、毎日、改悛の日々を送っている――そんなイメージを持っていると思います。しかし、私が実際に見た死刑囚の姿とはかなりギャップがありました。見ようによっては、わがまま放題、好き勝手に生活しています。未決囚や懲役囚とは異なる様々な特権を与えられ、彼等のために多額の税金が使われている。私は普通の人々が見ることのできない死刑囚の姿を見ることができました。その実態を明らかにすることで、死刑という制度を論じる際の材料にしていただければ、と考えたのです」
これが記事の最初の部分だが、編集者の作文だとしか思えない文章である。

「元衛生夫は現在の死刑囚の処遇のあり方に大きな疑問を感じたという。

「死刑囚の待遇の良さはいったい何なのでしょうか。例えば、懲役で服役している人は朝から午後5時まで作業を課せられるのに、死刑囚は基本的に自由な生活です。何もしなくていい。彼等は自主契約作業といって、希望すれば、一袋3、4円で紙袋を折って収入を得ることもできます。中には月に3万円も稼ぐ人もいて、豪華な美術書を何冊も購入している。ところが、懲役の場合、時給5円から10円で始まる。いくら折っても月に500円から2000円ほどにしかならない。死刑囚は月に書籍を12冊購入できるのに、懲役は6冊。懲役には許されないビデオ鑑賞も死刑囚にはある。死刑囚は精神の安定を図る必要があるという理由で、ありとあらゆる面で厚遇されている。死刑存廃の議論も大切ですが、その前にあまりに世間のイメージと異なる死刑囚の生活を知っていただきたい。その上で受刑者の処遇の様々な矛盾や再審制度のあり方を考えてもらえればと思います」
衛生夫として死刑囚の生活をかいま見て、そう強く感じたという」
これが最後のまとめ。
どこまでが元衛生夫の意見なのかと思う。

紙袋貼りでいくらもらえるか、『死刑囚90人 とどきますか、獄中からの声』によると、自己契約(請願)作業の紙袋貼りは、紙袋を1袋作って3銭50厘だという。

100袋で3円50銭、1万袋で350円ということになる。
仮に1袋3円としても、月に3万円稼ぐには毎日300袋も紙袋を作らないといけない。

それに、刑務所の作業報奨金が安いのに死刑囚の収入がいいのはけしからん、というのはおかしな話である。
生活保護受給者より収入の少ない人がいるから生活保護費を下げるべきだというのと同じ理屈である。
全体のレベルを上げるべきなのに、低いほうに合わせろと言ってるわけだから。

でもまあ「週刊新潮」ですからね。

ある人は「週刊新潮」が「書かない」と約束したことを書かれ、抗議したところ、新潮社は10万円を支払ったという。
その程度なら取材費ですむ。

ウィキペディアに作業報奨金について、次のようにありました。
「日弁連では、最低賃金を下回る作業報奨金しか与えられない刑務作業によって、受刑者の製造した製品が民間企業の利潤に供されているという実態があることが明らかになれば、刑務所における労働は日本が批准している「ILO第29号条約」第1条によって禁止されている「強制労働」に該当することとなる旨の意見表明を繰り返し、刑務作業の実施にあたっては、作業報奨金は最低賃金を下回らないよう計算するとともに、慰問やカウンセリング等の機会を増やすべきであると主張している」

アメリカの死刑囚の生活について、デイヴィッド・ダウ『死刑弁護人』にこんなふうに書かれてある。
「死刑囚の生活は快適だという人もいる。午前中はウエイトトレーニングをして夜はテレビを見て、一日三回ちゃんとした食事が出て、コンピュータの利用も読書もできて、いいことずくめだ、と」

日本と大違いである。
日本の死刑囚は独房からほとんど出ることはないし、面会人がいない死刑囚は刑務官以外の人と話す機会もないし、コンピュータを利用できない。
冷暖房完備だと思っている人がいるようだが、それも間違い。
東京拘置所の場合、廊下に冷房は効いているが、部屋には冷気が入らないので、汗だくだく。
窓はいつも少し空いているので、冬は寒い。

林眞須美死刑囚は「衣類や差し入れ等や、又、自弁品が、ほとんど購入出来ず。外部交通制限で面会人がなく、差し入れもなく、ほとんどが官の貸与品での生活となっている。友人・知人・支援者等の親族、弁護人以外の外部交通を許可としてくれない。DVD、テレビ視聴を許可としてくれない。
10年以上となり運動不足と、日中、同姿勢で正座しているため、腰痛になる。運動時間をふやし、365日毎日、最低1時間は屋外での運動を実施し、うんどうぐつとなわとびを使用しての全身運動、なわとびをしながら走らせてもらいたい」と書いている。(『死刑囚90人 とどきますか、獄中からの声』)

拘置所によって処遇が違うらしく、大阪拘置所と名古屋拘置所は特にひどいらしい。

以前は少しはましだった。
堀川恵子『裁かれた命』によると、長谷川武という死刑囚が小林健治氏へ出した1968年12月27日の手紙(20通目)には、十大ニュースが書かれてある。
そのうち四つは現在の死刑囚の処遇では考えられない
2 今年一年、何と言っても僕を助けてくれたのは文鳥の与太が同居してくれた事です。
5 此処で写真を撮って貰い、母へ送った事。
6 僕が確定し、月三回、野球をやらせて貰える様になった事。
9 僕ら馬鹿者に隔月ではあるが昼食会を開催してくれる。

今は生き物を飼うことは禁じられているし、写真を撮るとか、野球をするとかはできないし、他の死刑囚と接する機会はない。
アメリカの死刑囚の処遇は日本に比べるとましだとは思う。

しかし、デヴィッド・ダウはこう言っている。
「無知なのか皮肉なのか。いずれにせよ、全部間違っている。死刑囚監房はただの狭い檻みたいなもの。(略)心に留めるべきことは、死刑囚は必ず、その残された短い時間のある時点で、心のなかまでも檻に囲まれてしまうということ」

「週刊新潮」の記事を読み、事実を伝えていても、どのように伝えるかによって読者の受け取り方が違ってくるわけで、これも情報操作である。

某新聞記者が「新聞は週刊誌とは違う」と言い、テレビの某報道記者が「バラエティ番組と一緒にしないでほしい」と言っていた。
事実をきちんと伝えている、興味本位じゃない、という自負心があるんだろうが、事件報道のはしゃぎ方を見ると、そう大して変わらないのではないかと思うこともあります

(追記)
「東京拘置所・衛生夫が語った「死刑囚」それぞれの独居房 第二弾」もごらんください。

 

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池波正太郎という生き方

2013年03月04日 | 青草民人のコラム

青草民人さんです。

カレーライス
〔カレーライス〕とよぶよりは、むしろ〔ライスカレー〕とよびたい。戦前の東京の下町では、そうよびならわしていた。……。

池波正太郎といえば、「鬼平犯科帳」「剣客商売」で有名な、時代小説の直木賞作家。新国劇の脚本家でもある。それがどうしてカレーライスなのか。
数年前、お寺の法話会で、ある方から一冊の本を頂いた。池波正太郎著「食卓の情景」(新潮文庫)である。どうして、時代小説の作家が食べ物のエッセーを?と一瞬の戸惑いがあったが、一読するやそのおもしろさの虜になった。


池波正太郎は、文筆業の傍ら、芝居の脚本家としても活躍したが、無類の美食家でもある。しかし、いわゆるグルメといった鯱張ったものではなく、実に浅草育ちの歯切れのいい江戸っ子として、食に対する美学を語る。しかも、食べ物のうまさを語りながら、そこに出てくる料理人の生き様やそれを食する粋な男の美学を語ってくれるのである。
私は、引き込まれるように「散歩のとき何かたべたくなって」(新潮文庫)や、「男の作法」(新潮文庫)という本を買って読んだ。


その「男の作法」という本の中に、次のような一節がある。

「人間という生き物は、矛盾の塊りなんだよ。死ぬがために生まれてきて、死ぬがために毎日飯を食って……そうでしょう、こんな矛盾の存在というのはないんだ。そういう矛盾だらけの人間が形成している社会もまた矛盾の社会なんだよ、すべてが。」
これは、組織というテーマで野球のチームについて語っている一節である。

もう一つ、

「男は何で自分をみがくか。基本はさっきもいった通り、「人間は死ぬ……」という、この簡明な事実をできるだけ若いころから意識することにある。もうそのことに尽きるといってもいい。何かにつけてそのことを、ふっと思うだけで違ってくるんだよ。自分の人生が有限のものであり、残りはどれだけあるか、こればかりは神様でなきゃわからない。そう思えばどんなことに対しても自ずから目の色が変わってくる。
そうなってくると、自分のまわりのすべてのものが、自分をみがくための「みがき砂」だということがわかる。逆にいえば、人間は死ぬんだということを忘れている限り、その人の一生はいたずらに空転することになる。」
これは、運命というテーマで書かれた一節である。あえて私の蛇足は必要ない。人間の真髄を言い当てている。

池波正太郎は時代小説の作家であり、主人公は、多くが侍である。常に、死というものと向き合って生きなければならない生活を侍たちは送っている。鯉口(刀のさやとつばの境目)三寸切ったら、自分が死ぬか相手が死ぬか、いのちのやりとりをしなければならない。責任は、死(切腹)を意味する。そんな侍だからこそ、いのちというものの尊さや生きていることの喜びを肌で感じていたのかもしれない。
豊かさの中で、死を見ない生き方、死を遠ざける生き方をしている現代の私たちへのメッセージが、池波正太郎という生き方なのかもしれない。

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