三日坊主日記

本を読んだり、映画を見たり、宗教を考えたり、死刑や厳罰化を危惧したり。

進化論と恐竜

2021年01月31日 | 問題のある考え

月刊「幸福の科学」(2019年12月号)が郵便受けに入ってました。
「500種以上の宇宙人が地球に飛来!!」
「先進各国は宇宙人から技術協力を受けている!!」
などといった衝撃の事実がさらりと書かれています。

大川隆法さんは東日本大震災後、いち早く原発の必要性を主張。
福島第一原発の廃炉の方法を宇宙人に教えてもらえばいいのに。

宇宙人について大川隆法『信仰の法』にこんな説明があります。
イエスがエホバ、ムハンマドがアッラーと呼び、ユダヤ教徒がエローヒムと呼んだ存在は同じ人であり、そうした存在がエル・カンターレという名で地上に生まれて来た。
エル・カンターレの分身が釈尊、ヘルメス、オフェリアス、トスたち。

エル・カンターレの本体としての下生は、今回が三回目に当たる。
一回目の下生は、三億年以上前のことで、その時はアルファという名で呼ばれていた。
この時は、他の惑星から第一弾の集団が飛来し、新しい地球人をつくろうとしているころだった。
最初に来ていたのはマゼラン星雲のゼータ星(ベータ星ともいわれる)の人たちで、地球で創られた魂たちと混在して住んでいた。

二度目に生まれたのは、今から一億五千万年ほど前で、この時の名前はエローヒムで、一般的にはこれを簡略化してエルという名で呼ばれている。
アルファが生まれたのはアフリカに近い地域だと思われるが、エローヒムとして生まれたのは、中近東にかなり近いあたりだと思われる。

私が「人類創造」を志したのは、今からもう、三億年も四億年も前のことになります。
現在の科学では認められていませんが、みなさんの先祖は、三億年以上の昔、あの恐竜が地球を徘徊していたときに、この地上に生まれたのです。
ある者は霊体として存在していましたが、最初に、そのうちの数百人を実体化させて、この世に肉体を持つ存在として送り込みました。

ちなみに、恐竜は中生代(約2億5217万年前から約6600万年前)に生息していました。

3億年以上も前から人類が存在したと説く大川隆法さんは進化論を否定します。

多くの人たちは、「アメーバが人類の先祖であり、そこから進化して人間になった」と考えています。
そういう人たちに対して、私は、「では、それを証明してごらんなさい」と言いたいのです。しかし、それを証明できた人などいません。
アメーバから人間になっていく途中のものが、もし生きて存在しているのなら、連れてきて順番に並べてみてください。「これがアメーバで、ここからがナメクジで、ここからがカタツムリで・・・」というように、人間まで進化する過程を見せていただきたいのです。その過程には、「途中のもの」、「変化中のもの」があったはずです。それは、今でも存在していなければいけないでしょう。ところが、今、存在している生き物は、〝すべて完成されたもの〟ばかりです。すでに完成した「種」しか存在していないのです。

わかりにくい文章ですが、すべての生物はある時に創造されたのであり、絶滅した生物はいないということでしょうか。
もしもそうなら、3億年以上前に恐竜が存在したと話していることと矛盾しているように思います。

あるいは、「人間の進化の過程について、アメーバまで遡るのは行きすぎだ」と言う人がいるかもしれません。では、「あなたがたの先祖はネズミである」と言われたらどうでしょうか。それを「はい、そうです」と、もし百パーセント近い人が信じるならば、そういう世の中は狂っていると思ったほうがよいでしょう。

ダーウィンが『種の起源』を発表すると、猿が人間になるのかという批判がありましたが、それと同じ批判です。
ひょっとしたら冗談なのかもしれませんが。

それともう一つ、ええっと思ったこと。

また、イスラム教国よ。
あなたがたは一神教を名乗っているが、神の声が聞こえるのか。
聞きたいのなら、私の言葉を聞きなさい。


あとがきにも。

これが現代の「聖書」にして「コーラン」である。
キリスト教、イスラム教の後に続く、地球規模の世界宗教の教えの核心である。
いずれ、あなた方は、「神の名」を呼ばなくてはならなくなるであろう。
その神の名を教えるのが本書の使命である。

イスラム教徒が気を悪くするのではと心配になります。

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新型コロナウイルスと宗教

2021年01月20日 | 問題のある考え

昨年のことですが、淺井昭衞『日蓮大聖人の仏法』という本のチラシが我が家の郵便受けに入ってました。
こんなことが書かれています。

今日の世界的な異常気象をはじめ、国内外の悲惨な事件や事故など、混沌とした状況を見る時、その惨憺たる有り様は、まさに目を覆うばかりであります。心ある者ならば、これを嘆かざる者は一人としておりません。(中略)こうした惨状を根本から救済するためには、まず、その混迷の原因が奈辺にあるかを知り、その根本原因をさぐり、そこから真の解決を計っていくことが必要であります。
既に大聖人は『立正安国論』において、世の中の不幸と混乱と苦悩の原因は、すべて邪義邪宗の謗法の害毒にあると仰せられています。

新型コロナウイルスの大流行も「邪義邪宗の謗法の害毒」なのでしょうか。

大川隆法『信仰の法』は、昨年、幸福の科学の信者から送られてきた本です。
手紙が添えられていました。

この度、幸福の科学 大川隆法先生のお話を知って頂きたく、経典を送らせていただくこと、お許しください。
仏様、神様への信仰心が、ウイルスなどの病原体に対して免疫力を高め、病から護られる事をお聞きになられていると思います。
今こそ、信仰の力、宗教の力が大切な時だと感じるものの一人であります。
また、世界で起こっている宗教を背景とした戦争についても、私たちがどのように取り組んでいったらよいか。どのように和平に導いていこうとしてるか、御一読いただけたらと、願っております。(略)

『信仰の法』は2018年1月1日発行ですから、新型コロナウイルスの感染が広がる前です。

付箋がついていて、そこにはこんなことが書かれていました。

信ずる者の場合、病が治っていきます。
あなたがたが、どのような人生観を持ち、
どのような自己イメージを持つかによって、
あなたがた自身の肉体の設計は変わります。

あなたがたの血液のなかにある赤血球や白血球、リンパ球、
こうしたものもまた、
強い霊的な生命力を帯びて、日々、活動しています。
そういうものが、「あなたがたが、どのような思いを発信するか」
ということによって変わっていくのです。

体のなかにあるウイルスその他、
悪しき物質と戦って、それを駆逐し始めます。
体のなかにできているガン細胞や、その他の不適切な組織は、
この「思い」によって、どんどんつくりかえられ、
廃棄処分にされていきます。淘汰されていくのです。


大川隆法さんはこんなことも説いています。

かつて、私は、
「もし、われを信ずる者、百人あらば、
その町に、壊滅的天変地異は起きまい」
という話をしたことがありますが、
その言葉どおりのことが、東日本大震災の際に、
東北のある地域で起きたことも『不滅の法』に書いてあります。
その地域には、
幸福の科学の信者が百三十人いたため、
そこだけ津波が避けて通ったのです。(略)
こうした奇跡はあくまでも方便ではありますが、
あなたがたに、「神秘の力とは何であるか」ということを教えるために、
起こしていることなのです。

「思い」は新型コロナウイルスの感染を防いでいるのでしょうか。

ものみの塔聖書冊子協会のパンフ「目ざめよ!」2018No.1も郵便受けに入っていました。
幸せ、愛、許しなどについて書いてあり、最後の「希望を持つ」で、神様の約束には次のようなものが含まれているとあります。
「悪が終わり、平和が永遠に続く」
「戦争がなくなる」
「病気、苦しみ、死がなくなる」
「豊かな食料がある」
そして「世界政府であるキリストの王国が義の支配を行なう」です。

イエスは、平和と一致のうちに永遠に生きる方法を教えました。また、将来の事柄を予告しました。その中には、この世の終わりが近づいていることを示すサインの含まれています。(略)
イエスが語ったこの世の「終結のしるし」には、世界的な戦争、食糧危機、流行病や大地震が含まれています。

エホバの証人にとって、戦争や飢餓、大災害は「神様の王国の支配がもたらす静けさが近づいていることの証拠」だそうです。
新型コロナウイルスの世界的な流行によって多くの人が死亡し、経済が停滞して困窮する人が増えるなどの事態は、エホバの証人にとって「明るい未来が実現」する「良い知らせ」であり、「希望」なのかもしれません。

他の教団はどうなのだろうかとネットで調べたら、セブンズデー・アドベンチストのHPにこんな論説がありました。

コロナウイルスは終末のしるしでしょうか。そうであるとも、そうでないとも言えます。終末のしるしと聞いて人々が連想することと、聖書の教えの間には、違いがあるからです(略)。疫病が終末の世界を極限まで苦しめるのです。したがって今のところ、コロナウイルスが終末のしるしであるとは言えません。(『アドベンチスト・レビュー』2020年3月26日号に掲載された)

http://u0u0.net/PR5v
「今のところは」ということは、状況次第では終末のしるしになるかもしれません。
私にとってはトランプ大統領のほうが終末のしるしのように感じます。

新型コロナウイルスの流行をどう受け止めるかによって、その教団の考えや立場がわかるように思いました。

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曾野綾子『老いの才覚』(2)

2021年01月14日 | 

曾野綾子さんは『老いの才覚』で教育についても語っています。

教育の問題も大きいですね。戦後、日教組が、何かにつけて、「人権」「権利」「平等」を主張するようになりました。その教育を受けた人たちが老人世代になってきて、ツケが回ってきたのだと思います。

曾野綾子さんは人権嫌いのようです。
独裁国家では、国民の人権や自由を認めず、国民を拉致し、拷問し、殺すなどします。
そういうのをどう思っているのか聞きたいです。

昔の老人には「遠慮」という美しい言葉がありました。私が小さい頃、母たちの世代はよく「お邪魔になるといけないから」などと遠慮したものです。
しかし今では、だれもが「それをする権利がある」と言う。戦後の教育思想が、「あの人は髪を洗ってもらっているのに、私は自分で洗わされた」「損をした」という貧困な精神の老人を作ったのです。
「損をすることには黙っていない」というのも日教組的教育の欠陥です。

精神の貧困の原因をこのように述べます。

なんでもかんでも権利だとか平等だとか、極端な考え方がまかり通る世の中になってしまったのは、言葉が極度に貧困になったせいもあると私は思います。言語的に複雑になれない人間は、思考も単純なのです。

そうして読書と作文を勧めます。
しかし、小説家である曾野綾子さんの論理は単純すぎると思うのですが。

人に頼るなと叱咤します。

老人といえども、強く生きなくてはならない。歯を食いしばってでも、自分のことは自分でする。(略)
人の好意に甘えると、どんどん依存心が強くなります。

しかし、曾野綾子さんが足を骨折したり、目が見えなくなって、それでも一人で旅行をし、時にはまわりの人に頼ることが必要だと自慢そうに言っています。
誰かと一緒に出かければいいと思いました。

国を信頼するなとも言います。

私は、最終的に国家さえも信じてはいけないような気がしています。ほんとうのことを言うと、私は年金制度など撤廃して、めいめいで老後に備えたほうがいいと思っています。その代わり、国は保険料をとらないようにして、国民が年をとってどうなっても責任を負わない。これは極論ですけれど、社会保険庁みたいないい加減なところにはもう任せられません。


新自由主義の信奉者なのか、こんなことも言っています。

あらゆる点で守られ、何かあれば政府がなんとかしてくれるだろうと思っているから、自分で考えない。してくれないのは政府が悪い、ということになるわけです。


大川隆法『信仰の法』に同じようなことが述べられていました。

「大きな政府」が行うような政策等に頼ろうとする気持ちはあまり持たないほうがよいということです。
結果的には楽になるところも多少はあるかもしれませんが、国民の最低賃金を政府が上げなければいけないような国は、ろくな国ではありません。これでは駄目です。すでに「自由が死んだ国」に入っています。

菅首相の「自助、共助、公助」です。
社会的弱者への冷たさが共通しています。

日本では、万が一、生活が保てなくなれば、生活保護を受けられます。しかし、国家に頼って人の税金で食べようという姿勢は、あまり感じがよくないですね。他人のお金をあてにしなければ自分の生活が成り立たないというのは、どこかおかしいと思います。
人はいきなり老年になるわけではありません。長い年月の末に到達するのですから、老後の暮らしに備えて、貯蓄はしておくべきでしょう。いまの日本人の間違いは、複るから「備えあれば憂いなし」と言われているのに、備えもしない人が、かなり増えたことだと思います。

この考えは、貧困は本人が努力しなかったからだという通俗道徳です。
https://blog.goo.ne.jp/a1214/s/%E9%80%9A%E4%BF%97%E9%81%93%E5%BE%B3

他にも突っ込みどころ満載ですが、一つ紹介します。

振り返れば、ひと昔前までは、人は死ぬまで働くのが当たり前でした。七十歳になっても八十歳になっても籠をしょって、石ころだらけの坂道を上がって畑に行っては仕事をし、取れた野菜を背負って帰ってくる足腰がしっかりした老人が多かったものです。

ひと昔前がいつなのかわかりませんが、戦前には70歳、80歳まで元気に生きる人は少なかったはずです。
昭和10年の20歳の平均余命は、男40.41歳、女43.22歳ですから。
https://www.mhlw.go.jp/toukei/saikin/hw/life/19th/gaiyo.html
それに、そんな年になってまで重労働をしなければいけない社会が生きやすいわけがありません。

江戸しぐさを賛美しているのも滑稽です。
https://news.yahoo.co.jp/byline/usuimafumi/20150626-00046971/

そんな曾野綾子さんですが、人間の弱さに寛容なんだそうです。

あとで間違ったと気づいても、信仰があると、私の眼がなかったとはあまり思わない。そういう誤差や人間の弱さを容認できるんですね。自分に対しても、人に対しても厳しくしなくなって、とても楽になれます。

できる人はできない人の気持ちがわからないんだと思います。

夫の三浦朱門さんは失言の大家ですが、曾野綾子も負けてはいません。

元を取るという発想は、商人の行為なんです。元を取ろうとしないのが、人間の上等な生き方だと思います。

商人は下等なんだそうです。

どんな人が『老いの才覚』を読むのかと思いますが、若い人は読まないでしょうから、「ガミガミ言われたい」老人なのでしょうか。
戦前の日本や日本人を美化する人は多いですが、実際はどうだったのか、大倉幸宏『「昔はよかった」と言うけれど』を読んでほしいと思います。

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曾野綾子『老いの才覚』(1)

2021年01月08日 | 

武田砂鉄『紋切型社会』に、新書を中心に嫌中・嫌韓本が乱立する事態を考えるシンポジウムをレポートした『週刊金曜日』(2014年8月1日号)の記事が紹介されています。

ある書店の店長は、この手の本を「購入する客層や特徴は?」との問いに、「曾野綾子の読者層」と断言している。

年老いた大家にガミガミ言われたい読者と、隣国への雑言を共有したい読者はリンクしている、ということなのだろう。直接的ではなく本の中で間接的に先達から説教を食らう。一方で、自分には直接的な危害が加わらない海の外へ攻撃を加える。自身の安全が約束された形で説教を受け、攻撃を続ける。


武田砂鉄さんは曾野綾子『老いの才覚』から引用しているので、『老いの才覚』を読んでみました。
どんな説教をしているかというと、今の老人は・・・、戦後教育が・・・、昔の人は・・・、そして自慢話、です。

日本の年寄りは、戦前と比べると毅然としたところがなくなりました。

もちろん曾野綾子さんのことではありません。

才覚とはCMI(今まで得たデータを駆使して、最良の結果を出そうとするシステムのこと)のようなもの。

昔の人は、そのシステムが頭の中に入っていました。こういう状況の時、自分はどうすればいいか。もしこの方法がダメだったら、次はどうしたらいいか、と機転を利かせて答えをだした。それが、才覚です。
最近、地震災害などがあると、テレビに「頭が真っ白になって、何も考えられない」と話している被災者が必ず登場します。揺れている間は、頭が真っ白になって何も考えられなくても、揺れがおさまればどうにか考えられるものです。どうして、おにぎりやパンの配給があるまで、呆然となすところなく座っているのか、不思議でなりません。
戦争中なら、どこにも食料はありませんでしたが、今は、どこの家でもお米の一キロや二キロはあります。避難する時は持ち出せなかったとしても、揺れと揺れの間に家に入って持ちだすこともできましょう。
私なら、余震の間にどこかからお鍋を調達してきて、即席のカマドを作り、倒壊家屋の廃材や備蓄してある薪を使って、自分でご飯を炊く。同じくらいの大きさの石が三つあれば、鍋を置いても安定します。ブロックでも煉瓦でも、壊れた家から失敬してくればいい。その程度のものなら、非常時は無断借用する才覚も必要です。
若い人は、「頭が真っ白で何も考えられない」のが自然なのかもしれません。しかし、少なくとも、戦争を体験している世代は、戦時下では頭が真っ白になるような人は生き延びられなかったはずです。被災した時こそ、高齢者だという甘えを捨て、過去の経験を活かし、率先して行動すればいいのです。

揺れただけなら自宅に戻るだろうし、家屋が倒壊するほどの揺れだったら、米を持ち出したり鍋を調達することは無理でしょう。

どうして才覚のない老人が増えてきたのか。
原因の一つは、基本的な苦悩がなくなったからだと思います。望ましいことではありませんが、昔は戦争があり、食べられない貧困があり、不治の病がたくさんありました。家もお粗末でしたから台風が来れば必ず屋根が飛んだり山崩れがあったりして、自然災害もひどかった。そういう目に遭うから、ある程度は運命を受諾し、また災害を自分たちでどう防ぐか、他人や国に頼らず知恵を絞ったのです。
ところが今は戦争がないから、明日まで生きていられるかどうかわからない、という苦悩がない。医療が進んで結核で死ぬ人も少なくなったし、昔みたいに子供の五人に一人が死ぬということもない。食べられなければ、生活保護がもらえる。山崩れや津波も予知して防いでくれる。

つまりは「昔はよかった」ということです。
しかし、戦争や貧困が知恵を育み、精神を豊かにするのなら、シリアやロヒンギャの人たちは今の状態のままでいいことになります。
いつから山崩れや津波の予知をして防ぐことができるようになったものやら。

さらにこのようにも言っています。

よく「日本は経済大国なのに、どうして豊かさを感じられないのだろうか」と言われますが、答えは簡単です。貧しさを知らないから豊かさがわからないのです。今日も明日も食べものがあって当然、水道の栓をひねれば、水が飲める。飲める水を使ってお風呂に入り、トイレを流している。昔は日本人も水を汲みに行ったり薪を取りに行ったりしましたが、今はそういう生活が当たり前になった。もともと人間が生きるということはどういうことかを全然知らない、おめでたい老人が増えたのです。(略)
原初的な不幸の姿が見えなくなった分、ありがたみもわからなくなった。そのために、要求することがあまりにも大きい老人世代ができたのだと思います。


やまゆり園事件の植松聖死刑囚の手記に同じことが書かれています。

人間は〝高等な動物〟でしかなく、「ダメですよ」と言葉だけで理解できるほど優れた生物ではありません。「マズイ飯」を食べることも必要です。それは基本的、原始的不幸を体験したことのない人は、幸福を発見する技術を見失っている為です。(『開けられたパンドラの箱 やまゆり園障害者殺傷事件』)

植松聖死刑囚は「基本的、原始的不幸」という言葉を使っています。
曽野綾子さんに影響されたのでしょうか。

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