三日坊主日記

本を読んだり、映画を見たり、宗教を考えたり、死刑や厳罰化を危惧したり。

統一協会と既成教団との関係 3

2013年01月30日 | 問題のある考え

文鮮明は1998年にニューヨークで「霊界祝福結婚式」を挙行し、釈尊と崔元福(某氏によると文鮮明の法規外妻)を結婚させている。
その時、釈尊は
「私の地上での生活は、罪人としての姿でしかありませんでした。私の悟った内容よりも、統一原理の方が次元が高いことを認めます。 釈迦 拝」
と語ったそうだ。

統一協会の考えだと、「人間は死後「霊人体」となって霊界に行く。原罪を持ったまま霊人体となった先祖は地獄で永遠の苦しみを受けている」(櫻井義秀『統一教会』)
釈尊だけでなく、イエスやマホメットなど五大宗教の教祖もおそらく霊界で苦しんでいるのだろう。

地獄で苦しむ人を救う方法は祝福(合同結婚式)である。
「統一教会の教えを受けずに亡くなった先祖達は、死後において統一教会の研修と祝福を受けて真の家庭を築かなければならない。どちらの場合も、信者が統一教会にしかるべき金額の献金を納入しなければことは進まないとされる」
というわけで、霊界で苦しんでいた釈尊も合同結婚式をすることで、自分の考えの間違いに目覚めたというわけである。

仮にマホメットも合同結婚式で善き伴侶を娶ったと統一協会が主張してるとしたら、サルマン・ラシュディ『悪魔の詩』どころの話ではないと思う。
でもまあ、統一協会の信者以外は一笑に付す話ではあります。

問題は死んだ教祖ではなく、生存している協力聖職者である。
某氏からもらった「グラフ新天地」のコピーを見ると、2001年ニューヨークで行われた超教派聖職者祝福式に、スターリング大司教は神元小夜美さんと参加している。
エマニュエル・ミリンゴ大司教は「文総裁はイエスのみ言を成就」と力強く説教している。

日本の僧侶も負けていません。
「グラフ新天地」には西山廣宣・大満寺住職、美原道輝・帝釈寺前住職、武藤宗英・報恩閣住職という三人の曹洞宗僧侶が写真入りで載っている。(何号かは不明)

美原道輝・帝釈寺前住職

世界平和超宗教超国家連合(IIFWP)の壮大なる主旨に賛同して、「平和大使」に任命された仏教徒である私は、現代のますます混濁せる人心社会が純粋なる神の意思により、またその神の聖旨を真実の心で理解して、世界人類の平和のため、「神様の絶対平和理想モデルである絶対性家庭と王国」を主題とした文総裁の天のみ言を拝読させて戴きました。
文総裁はまことに驚くべき能力を発揮されて今日まで全世界的活動をされており、数多くの天のみ言を世界の人々に伝道されております。私共はひたすらそのみ教えをきいて、種々の感じ方をなし、また、自らの会得しえた文言の真意を互いに交換し合い、あるいは家庭の平和に活用し、小さい領域からでも平和な意義深い生活を体験し、かつ感動しております。
この人は娘が統一協会に入信し、自分も統一原理の支持者になったそうです。

武藤宗英・報恩閣住職
新世紀の出航には、それにあった新しい羅針盤が必要となります。1999年2月、文鮮明韓鶴子両総裁が一生涯をかけて築いてこられた平和の理念が、IIFWPの創設という形で、見事に開花しました。(略)
愛と慈悲の実践を通して、世界の恒久平和を追求されるそのお姿こそ、我々宗教者が見習うべき模範であり、人類を救うべく来臨された真の父母のお姿ではないでしょうか。

2007年に「世界巡回1200か所大会」というのが行われたそうだが、大会ポスターには多くの聖職者の写真が載っており、真言宗、浄土真宗本願寺派、日本山妙法寺の僧侶もいる。
某氏はバチカンはスターリング大司教やミリンゴ大司教を破門すべきだと言うが、私も各仏教教団がなぜ統一協会に協力する僧の僧籍を剥奪しないのか疑問である。
アホらしいと笑い話ですます問題ではないと思う。

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統一協会と既成教団との関係 2

2013年01月21日 | 問題のある考え

某氏は「グラフ新天地」のコピーもくださった。
これも統一協会が出している雑誌の一つ。(休刊になってるかも)

「グラフ新天地」2002年11月号に、「霊界五大宗教指導者セミナー」の報告が載っている。
もっとも「この報告は霊界の李相軒先生から送られたものを、リポーターの金英順女史が2001年12月19日から27日に鮮文大学牙山キャンパスで受けたものです」ということであります。

「霊界五大宗教指導者セミナーでの五大宗教代表者たちの決意文採択と宣言」

1.キリスト教:イエス・キリストと12名の代表
2.儒教:孔子と12名の代表
3.仏教:仏陀と12名の代表
4.イスラム教:マホメットと12名の代表
5.ヒンズー教:3名(12名のうち)の代表

 式順
一、開会宣言:五大宗教代表たちの決意文採択と宣布式を挙行いたします
二、家庭盟誓:一同
三、決意文宣布:イエス
四、代表祈祷:イエス
五、万歳三唱:マホメット
  神様万歳、真のご父母様万歳、五大宗教万歳、最後に一同拍手

主な宗教指導者の決意文

 イエス
キリスト教の歴史に光を残した120名は、救世主、メシア、文鮮明先生の指導と成約のみ言、「統一原理」で武装し、原罪のない本郷の園、理想郷を目指して前進することを決意し、真のご父母様のすべてのことに参画することを誓います。

 マホメット
マホメットは「統一原理」に接し、文鮮明先生に出会ったのち、マホメットの人生観が変わりました。すべてのことに自信があります。すべてのことが新鮮です。すべてのことが楽観的であり、希望的です。それは神様の根本のみ旨を知り、神様は人類の父母であったという事実を知ったからです。
今や、マホメットはその道を目指していきさえすればいいのです。人間が縦的父母と横的父母に侍って生きていくことが、人生の最も根本的な道です。
マホメットは叫びます。神様、万歳! 文鮮明先生、真のご父母様、メシア、救世主、万歳!

パウロ、孔子、閔子騫、釈迦、舎利弗、シャンカラの決意文は略。
イスラム教徒がこの記事を読んだら激怒して、金英順女史に死刑宣告を下すかもしれない。

こんなことも書かれています。
 霊界からのメッセージ
神様と真の父母の下で一つになる五大宗教
文鮮明先生ご夫妻は、既に全霊界を統一され、五大宗教の教祖からも「真の父母」として敬愛されています。また、神様も手紙を通して、文先生ご夫妻への深い感謝の意を表されました。

私たち夫婦は、人類の真の父母たる資格をもって、既に全霊界を統一しました。四大宗教の教祖であるイエス、釈迦、孔子、マホメットはもちろん、彼らの第一弟子級の120名ずつからメッセージを受けています。

霊界で開催されたセミナーを通して、私たち夫婦の教えである「原理」と「統一思想」を学んだ後に送った彼らのメッセージは、一様に希望的であり、真の父母に対する感謝の言葉に満ちています。
さらには、マルクスとレーニンをはじめとして、霊界に行っている世界的な共産主義者たちも、真の父母の命令に従って原理セミナーを終了し、悔い改めと痛恨の涙で綴ったメッセージを送ってきています。
今、彼らの希望は、ただ一つです。それは地上の信徒や信奉者たちが、一日も早く、真の父母である文総裁の教えを受け入れ、永遠の生命を準備しなさいとのメッセージです。
つかの間の地上生活において、貴い一生を浪費せず、だれもが肉体を脱げば入っていって永遠に一緒に暮らすことになる霊界での生活のために知恵深く準備してきなさいとの忠告で満ちています。(メッセージより)

このメッセージは霊界からのものなのか、それとも文鮮明夫婦からなのか、よくわからない文章であります。

「霊界からのメッセージ」はシリーズものらしく、「グラフ新天地」2003年6月号は 空海・最澄が登場する。

霊界ではキリスト教、仏教、儒教、イスラム教など諸宗教の代表者たちが、統一原理セミナーに参加し、霊能者を通してその所感を送ってきています。今回は真言宗の開祖・空海(弘法大師)と、日本天台宗の祖・最澄(伝教大師)からのメッセージです。

仏教者の立場を超えて

 空海
神様のみ意(こころ)を知らなかった
美しい世界が私たち人間と常に共にあったのに、私、空海は、どうしてそれほどまでに創造主のみ手を推し量ることができなかったのでしょうか。あまりにも胸が痛んで耐えることができませんでした。(略)人間の先祖から受けた原罪ゆえに、神様を探そうとする意識まで暗闇に覆われてしまったからでしょうか。
神様は人類の父母です。神様は、子女である人間のために美しい天地万物を創造してくださり、幸福の住みかを準備してくださいました。(略)

人類の対立をなくす「統一原理」

文鮮明先生は、人類の平和のために、とてつもないことをなされました。暗闇の中にいる人類を救い出されたので、やはり人類の真のご父母様であり、大先生であられます。
私、空海が「統一原理」の偉大性をどれほど称賛しても足らないでしょう。(略)
神様は人類の父母であり、人類は神様を父母として侍る一つの兄弟姉妹です。ですから、兄弟姉妹の考えが異なることはできません。仏教人は、みな仏者として過ごしてきた自らの道を繰り返す愚かな場所から一日も早く解放されることを望みます。私は、「統一原理」の道を静かに超然と従っていきます」

 最澄

地上にも天上にも、数多くの人々が暮らしています。しかし、地上人は、天上の生活に対して知らずにいます。私、最澄は天上にいながら、地上の一人の女性の力を借りて私の消息を伝えることができるということ自体に、驚きを禁じ得ません。(略)
全人類の行くべき道は、「統一原理」しかありません。霊界は間違いなくあります。準備しない人は、天上の難しい場所にとどまるようになります。そして、神様は、全人類の父母の位置にいらっしゃいます。文鮮明先生の教えのとおりに生きれば、永生福楽の場所はみなさんの場所です。

霊界からのメッセージ(霊言)は大川隆法・幸福の科学グループ創始者兼総裁の専売特許かと思ってたら、そうではないらしい。
どうせなら空海や最澄の文章をまじえて、それらしくしてほしいが、これじゃ誰の霊言でもいいような紋切り型霊言である。
『丹波哲郎 大霊界からのメッセージ―映画「ファイナル・ジャッジメント」に物申す―』を見習って創意工夫してほしい。

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統一協会と既成教団との関係 1

2013年01月18日 | 問題のある考え

某氏に「テンプル」という寺院向け情報誌のコピーをもらった。
いやはや、驚くべき内容でした。
「宗教新聞」という統一協会が出している新聞があり、既成仏教教団と無関係ではない。

「テンプル」No.101(2012年3月5日号)に「カルトと宗教 『宗教新聞』の取材を許している全日仏理事会・曹洞宗宗議会のカルト認識について」という記事が掲載されている。
「統一協会が、昭和54年10月に創刊したのが「宗教新聞」である。「宗教新聞」の題字は教祖・文鮮明の揮毫と見られるもので、創刊直後の紙面には文鮮明自身が度々登場していた。同紙の社是のひとつ「地上天国」は文鮮明王国の事であるといわれている」

この「宗教新聞」に寄稿したり、名刺広告を出している教団、寺社、僧侶が少なからずあるのである。
2009年1月5日号の一面には、福山諦法・永平寺貫首「ごあいさつ」、大道晃仙・総持寺貫首「念頭に思う」、そして「曹洞宗大本山永平寺」の名刺広告が載っている。
曹洞宗だけではない。

2012年元旦号の一面には、前田外治・宗教新聞代表「唯物思想との決別を」と並んで、田中恒清・神社本庁総長「年頭のご挨拶」、加藤円住・時宗法主「ブータン国王に学ぶ」が掲載されている。


名刺広告 伝統仏教34、神道27、新宗教16

新年祝辞 伝統仏教15、神道10、新宗教8
(数字は協力聖職者、もしくは協力寺社の数)

伝統仏教を宗派別で見ると、浄土宗(8)、曹洞宗(8)、真言宗三派(7)、臨済宗(2)、日蓮系(4)、日蓮宗(2)、浄土真宗本願寺派(2)、天台宗(2)、時宗(1)、法相宗(1)、北法相宗(1)


名刺広告の中には、靖国神社宮司、石清水八幡宮宮司、鶴岡八幡宮宮司、高野山東京別院、黒住教、出雲大社教、世界救世教、国柱会、全日本仏教婦人連盟などの名前が見える。


伝統仏教教団の宗議会で宗教新聞の取材を認めているのは、「曹洞宗宗議会」「日蓮宗宗会」「真言宗豊山派宗議会」の三つ。

憂慮すべきなのが、全日本仏教会理事会である。
「事務総長が矢萩信顕師(曹洞宗)であった昭和59年2月に、全日仏は宗教新聞に理事会の取材を許可し現在に至っている。
このため、全日仏幹部の何気ない会話が統一協会に筒抜けになり、統一協会の宣教戦略に自信を与えてきた」

なぜ宗教新聞が問題となるのか。
「宗教新聞の問題点は、名刺広告が統一協会への迂回献金になる事、寄稿文やインタビュー記事が信者の勧誘に悪用される事、宗務庁舎への自由な出入りが中枢情報の漏洩をもたらす事、などである」


こうした問題があるために、全日本仏教会に全国霊感商法対策弁護士連絡会が申入書(宗教新聞を通じての統一協会への協力について)を平成24年5月29日付けで送っている。
申入書の一部です。

「宗教新聞記者(統一協会幹部)に全日仏の理事会等の重要な会議の取材に関しては、(略)今後宗教新聞記者の取材や報道は認められることをなさらないよう申し入れます」
このもっともな申し入れに対して返事はないそうだ。

「テンプル」No.113(2012年9月5日号)には、日本脱カルト協会は「統一協会の機関紙である「宗教新聞」に名刺広告を出している僧侶に対して、統一協会に弔意表明をしないよう依頼する文書を送付した」とある。

「文鮮明教祖の葬儀に日本から現職の僧侶が参列すれば、「日本の仏教界が文鮮明教祖に弔意を表している」と統一協会の宣伝に利用されるだけでなく、日本の仏教界が統一協会を認めているという「誤解」を生みかねない。
統一協会はこうした手法を信者獲得に利用し、霊感商法等の被害者を生み出してきた。日本の僧侶が統一協会に関わりをもつことは、結果として同会による霊感商法等の被害拡大に手を貸すことになるのだ」
日本脱カルト協会からの申し入れにも全日本仏教会は答えていないという。

「JCBLニュースレター」No.62によると、クラスター爆弾を製造した企業は世界で8社が確認されている。
「クラスター爆弾を製造する企業にプレッシャーを与えるために始まった動きが、クラスター爆弾を製造する企業への投融資を問題視し、金融機関に対してクラスター爆弾製造企業への投融資の引き上げを求める活動である」

統一協会による被害をなくそうと全日本仏教会や各宗派が考えるなら、クラスター爆弾製造企業に対する取り組みは参考になるはず。
ところが、全日本仏教会のある理事は「日本脱カルト協会・日弁連・家族の会は統一協会を一方的に批判しているが、宗教新聞は諸教団の動きを公平に報道しているので、理事会の取材を認めている」と言っているそうで、何を考えているのやら。

統一協会が関わっている企業はたくさんあり、私にしても知らないうちに統一協会を利することをしかねない。

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頼尊恒信「僕はなぜCILに就職し、今もなおCILで働き続けるのか」

2013年01月14日 | 日記

某氏からいただいた「名古屋教区教化センター センタージャーナル」NO.82に、頼尊恒信「僕はなぜCILに就職し、今もなおCILで働き続けるのか」という講演要旨が載っていました。(CILは障害者自立生活センターの略称)

原発問題の学習会で「障害児が生まれるから原発はいけない」という空気に満たされた時に、「障害児が生まれるから原発がいけないのではない」という問題提起がなされ、それで頼尊恒信氏の講演が行われることになったそうです。
なるほど、「障害児が生まれるから原発がいけないのではない」ということは、障害者の存在の否定が前提ですし、障害児が生まれなかったら原発はOKということにもなります。
以下、要旨のさらに要旨です。

「原発反対運動などで、「障害児が生まれるから原発はいけない」と、障害者が引き合いに出されることがあります。しかし、本当に「障害児が生まれるから原発はいけない」のでしょうか」

 「障害」ってなんだろう
頼尊恒信氏の脳の中には直径3ミリほどの壊死している部分がある〈疾患・変調〉。
それによって手足が変形し〈機能・形態障害〉、歩くのが困難な状態である〈能力障害〉。
そのため、エレベーターが設置されていない施設を利用できない〈社会的不利〉。
変形に対しては医療で手術し、歩けないことに対してはリハビリテーション、社会的不利に対しては福祉において恩恵を与えていくというのが、WHOが出した「障害」の定義である。
これは欧米の障害者運動の中で医学モデルと批判される。
その批判の根底にある考え方を社会モデルという。
歩くのが困難であっても、エレベーターを設置したら二階に上がれる。
エレベーターを設置していない施設側、もっと言うと、社会が障害を作っているという考え方が社会モデルである。
アメリカにはADA法という法律があるので、車イスの人に対して鉄道会社が乗車拒否したら違法である。
韓国も中国もイギリスも同様の法律があるが、日本では法律がないので、違法ではない。

 「中村久子展」から見えてくるもの
東本願寺の中村久子展のチラシに、中村久子さんの生涯を「苦難の境遇と障がいの身の事実を真正面から引き受けて、力強く人生を生き抜かれました」と書かれてある。
突発性脱疽にかかり両手両足を切断した中村久子さんの努力を絶賛している。
しかしそれは、障害という問題を個人の課題としてのみ捉え、個人の力量によって障害を克服しないといけない問題としている医学モデルに等しい。
社会モデルの障害観では、現在の社会の仕組みが身体的〈機能・形態障害〉を持つ人々について全くあるいはほとんど考慮していないために、社会の重要な活動からその人々が排除されていると定義している。
中村久子さんに対する捉え方は、個人の問題として扱い、中村久子さんを「畜生」と言った社会の問題には触れていない。
「障害は頑張って克服しなければならない」「障害もまた乗り越えるべき課題だ」と感じられる中村久子展の展示手法は、健常者のみの視点だし、差別している社会を問うことを放棄している。

 電力問題と障害者
社会モデルでは、障害は社会が生み出したものであり、障害者は社会によって抑圧された人々であると考える。
社会と地方の関係も社会モデルで考えると明確になる。
原発やダムはお金のあるところにはできない。
また、そこで働く労働者も複雑な社会的背景を持つ人が多い。
原発がゼロになったらおしまいというわけにはいかない。
なぜならそこに差別・抑圧・排除の構造の中で労働する人々が存在し、村ごと移転しなければならない事実があり、そういったことを強いる社会があるからである。
このようなことを理解せずに「反原発」と言っていないか。
原発以外なら何でもいいという考え方自体が、現在の抑圧の社会を作り出している。

 社会のリトマス紙としての障害者
障害者とは社会の最底辺で生活する人々の象徴である。
そして、障害者は社会状況のリトマス紙なのである。
原発反対運動に障害者が引き合いに出されるのも、障害者を社会が忌み嫌っているからだと言える。
障害者観が社会モデルに変わってくるということは、あらゆる人々が生きやすい状態になることである。

以上です。
最後に注として、「本抄録では、「障害者」という言葉を社会的障壁によって不利益をもたらされている人と理解して、「がい」ではなく「害」という文字を用いています」とあります。
これまた、なるほどなと感心しました。

健常者には、中村久子さん、星野富弘さん、乙武洋匡さんといった人を、あるべき障害者像と見なしているように感じます。
こうあらねば、というふうに。

これは一種の障害者差別を生み出しかねないと思います。

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森岡正博『生命観を問いなおす』3

2013年01月10日 | 問題のある考え

 生命主義のつづき
森岡正博氏はこう言っている。
「八〇年代の生命主義が展開したもうひとつの方向は、人間の「いのち」を、「癒し」の文脈のなかでとらえようというものでした。
〈社会がゆたかになっても、モノはあふれてきたけれど、人間のこころはちっともゆたかにならない。我々のこころは、この物質文明のなかで、疲れきっている。だから、疲れてズタズタになった我々の「こころ」と「いのち」を癒すことが、まず必要なんだ〉。
こういう訴えが、多くの人々、とくに都会に住む若者のこころをとらえました。
こころとからだの癒しを掲げるワークショップがたくさん開かれるようになります。
多種多様なグループ・セラピーや、気功法や、新々宗教のグループや、自己開発セミナーなどが街にあふれるようになります」

「こころ」論がアレレの展開。
やっぱり「いのち」や「こころ」をわざわざ平仮名にして乱用する人は要注意です。

 ディープエコロジーと生命主義との違い

「ディープエコロジーの基本イメージは、やはり原生自然のなかで、野生動物たちと暮らす「森の生活」です。
これに対して、生命主義の中核にあるのは、「医」「食」「農」であり、人間の生と死です」

ヒッピーのコミューンはディープエコロジー的なのか。
沖縄に引っ越して、という映画が多いが、それもこの傾向があるのかもしれない。
生命主義は、現在の生活をまるっきり変えるのは大変だけど、有機栽培の野菜を買うとか、西洋医学ではなく民間療法で病気を治すとか、そういうことならやってみようという人には入りやすいと思う。

 ディープエコロジーと生命主義の問題点

これらの思想が生み出す、甘く耳ざわりのよいスローガンを森岡正博氏は紹介している。
・自然と宇宙のリズムにあわせたコズミックなダンスをみんなが生き生きと踊るとき、世界は癒され、自然と人間は一体となる。
・ひとりひとりが真のからだとこころに目覚めるとき、我々は地球の声を聞き、大自然のささやきを全身でとらえることができるようになる。そこは、大調和とやすらぎの世界。
・いのちの声に耳をすまそう。私たちが見過ごしていたちいさな生命のひとつひとつが、大きな地球の生命のいぶきによって生き生きと生かされていることに気付くだろう。
つい「そうそう」とうなずいてしまいそう。

そういえば、宮沢賢治「農民芸術概論」の中に「世界が全体幸福にならないうちは個人の幸福はありえない」という言葉があって、ここだけなら菩薩の誓願とも言えるのだが、このあとに続く文章がちょっとなというものなんですね。
世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない
自我の意識は個人から集団社会宇宙と次第に進化する
この方向は古い聖者の踏みまた教へた道ではないか
新たな時代は世界が一の意識になり生物となる方向にある
正しく強く生きるとは銀河系を自らの中に意識してこれに応じて行くことである

あやしいでしょ。
宮沢賢治はニューエイジ的スローガンの元祖なのかもしれない。

森岡正博氏は、欲望と執着、闘争と排除の本能という生命の醜い面に関する思索が、ほとんどのディープエコロジーや生命主義の思想には貧弱だと指摘し、思考をストップさせた受け狙いの浅薄な思想を否定すべきだと訴える。
「ロマン主義を捨て去り、それが生み出す甘いスローガンの数々を否定し去り、そしてそのうえでなお「生命」や「自然」に立脚した思想を展開できるとき、ディープエコロジーや生命主義は、真の思想へと脱皮できるのです」

森岡正博氏が現在どのように考えているかは知らないが、ディープエコロジーや生命主義が「真の思想」になるかどうか、私は疑問である。
世界、自然、他人とのつながり(縁)に気づくことは大切ではあるが、それがどうしてニューエイジ・スピリチュアルや神秘主義や疑似科学と結びつくのかが問題で、そこらを考えないといけないと思う。

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森岡正博『生命観を問いなおす』2

2013年01月07日 | 問題のある考え

 生命主義
「生命主義とは、「生命」をキーワードにして、人間社会や世界や宇宙を見てゆこうとする考え方です」

生命主義を考えるときに避けて通れないのがニューサイエンスの流行だと、森岡正博氏は言う。
80年代前半に、ニューエイジ運動のベストセラーがまとめて翻訳された。
「ニューエイジという名前は、「ニューサイエンス」と翻訳され、定着してゆきます」と森岡正博氏は言うが、ニューエイジとニューサイエンスは重なる部分はあってもイコールではないはず。

ニューサイエンスとは何だったのか、森岡正博氏はこのようにまとめている。
〈近代科学の機械論、還元論、主客二元論を捨てて、ものごとの関係性を重視した、ホーリスティックな世界観へとパラダイムシフトし、東洋の知恵に従って意識を変革し、地球と調和してエコロジカルな生を送ることで、我々は新しい次元へと至ることができる〉

日本のニューサイエンスは気とエコロジーという二つの流れへと分派したそうだ。

たとえば、「地球は生きている」というガイア・イメージを経由して、ニューサイエンス的な言説が、エコロジー思想へと流れ込んだ。

「東洋(日本)古来の知恵を生かし、西洋近代の生みだした自然破壊を食い止めることで、我々は地球を救うことができる」という言い回しがあります。これは、ニューサイエンスとエコロジーが、いかに近いものであるかを示しています。
八〇年代後半のエコロジー運動のひとつの特徴は、反原発運動と一緒になって語られた点にあります。(略)
主に主婦を中心とした反原発運動が八〇年代後半から盛んになります。
彼女たちは、言いました。「放射能は、我々のいのちへの危害であり、我々の子供たちのいのちへの危害である。さらに大自然と母なる地球への危害である」。
近代批判や科学批判と、生命主義が一体となるのです」

「いのち」という言葉を多用する反原発を訴える人がいたり、健康を守るためにと疑似科学っぽい健康法を勧める人がいて、ちょっとなあと思うことがあるのだが、こういうことかと納得。

森岡正博氏は、野上ふさ子氏が書いた文章を紹介しているが、その一部を引用。
「私たちの内なる宇宙は、外なる宇宙の姿を映し、それゆえに、私たちの生命は宇宙の生命と結びついており、私たちの生存は万物の生存と交流しあっています。今生きている私たちは、自然が生きており、宇宙が生きていることをひしひしと感じます」(『生命宇宙』創刊号1984年)

西洋近代文明を批判し、生きとし生けるものの交流に基礎をおいた、新しい文明が必要だとの野上ふさ子氏の主張は、ニューサイエンスの影響を強く受けた生命主義思想だと、森岡正博氏は言う。
野上ふさ子氏は現代の科学文明を批判し、克服する道としてアニミズムの世界に行き着く。

森岡「いのち論の特色は、いまここで生きている「私」や「あなた」のいのちの姿をもう一度見つめなおすことで、生き方が変わり、世界の見方が変わり、価値観が変わり、ひいては現代文明の矛盾の解決にも寄与することができるようになる、と考える点です」
御遠忌テーマ「今、いのちがあなたを生きている」に感じるうさん臭さはこのあたりにもありそうです。

いのち論は、医療問題、エコロジー、反原発、教育問題、精神世界などをテーマにする本などに多く見られると、森岡正博氏は言う。

そういえば私もかつてはこうした考えに共感していました。
恥の記憶です。

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森岡正博『生命観を問いなおす』1

2013年01月04日 | 問題のある考え

エコロジーについて書かれたものを読むと、何やらニューエイジや疑似科学と同じたぐいのあやしさを感じるものがある。
いささか古い本だが、森岡正博『生命観を問いなおす』(1994年刊)を読み、エコロジーに対する違和感はこういうことだったのかと納得しました。

 エコ・ナショナリズム
「エコ・ナショナリズムとは、自国や自民族の文化や伝統や価値観などを世界に広めてゆくことで、環境問題が解決するというふうに考える思想のことです」

『生命観を問いなおす』は、まず辰野和男編集局顧問の「地球サミットを前に」という記事(朝日新聞「座標」1992年5月29日)を取り上げている。
森岡正博氏はこの記事の要旨を次のように要約している。
〈西欧の技術文明が、環境問題を生んだ。これに対して、東洋や先住民には、「森との共生」の思想がある。それにもとづいた新しい環境哲学が必要だ〉
〈日本は自然中心主義の文化で、共生原理だった。日本は、森の思想がわかる立場にある。日本は、壮大な環境哲学を説きうるのだ〉
西洋文明は「怒りの文明・力の文明」で破壊的、東洋文明は「安らぎの文明・慈悲の文明」で自然的。
自然征服型の文化は人間中心主義で競争原理、自然一体型の文化は自然中心主義で共生原理。

森岡正博氏が教える学生のこの記事についての感想には、するどい指摘(批判です)がたくさんあるが、省略。
「日本人には独特の環境哲学がある。それを世界に向かって説いてゆくべきだ」という辰野和男の論は、アイヌや沖縄の文化をやたら持ち上げたり、アニミズムや縄文文化を絶賛し、こうした文化に学ぶことによって現在の諸問題を解決する糸口を見出すことができるように言う人がいるが、似たようなもの。

 ディープエコロジー

80年代にディープエコロジーの思想と生命主義とでも呼ぶべき思想が展開したと、森岡正博氏は言う。
アメリカを中心として、ディープエコロジーは80年代に盛り上がる。

ディープエコロジーは、我々自身のことを、有機的な全体の一部として考えます。そして、我々自身の意識の探求と、意識の変容を重視します。それは、積極的で、深い真理探求と、深い瞑想のプロセスと、深く考えぬかれた生活様式によって達成されます。そういう探求をつむことによって、我々は哲学的・宗教的な知恵を獲得することができるのです。

つまり、まず自己の探求や瞑想などを行ない、誤った近代的な世界観を捨て去ること。そのかわりに、有機的な生命世界のなかに織り込まれて存在している真の自己のあり方に目覚めること。そして、生活をエコロジカルなものに改め、調和のとれた世界を実現してゆくための直接行動に立ち上がろう。
これが、ディープエコロジーの考え方の基本です」

なるほど、シーシェパードの理論的根拠はディープエコロジーなわけか。
『12モンキーズ』に出てくる、地球環境を守るために人類を滅ぼそうとする人たちもディープエコロジストなのかもしれない。

「ディープエコロジーの思想家たちは、地球と私とを連続的なものとして考えます。
ですから、地球の危機を救うためには、まず私たち自身が変わらなければなりません。
「私が変わるとき、地球も変わる」。
こういう発想をするわけですね。(略)
私たちのものの考え方や行動パターンが変わるためには、まず、私たちがなじんできた「世界観」や「価値観」や「自然観」が変わらなければなりません。人間と自然とを分断し、自然や人間の道具としか見ない、誤った世界観を捨てなければなりません。
〈自然は、征服すべき対象ではない。人間と自然とは、そもそも一体である。人間は自然のなかで、自然にささえられてはじめて、生きてゆけるのである〉
こういう正しい世界観をいま再発見するべきなのだ、と訴えるのです。
そのためには、まず、私たちが見失ってきた「自然の声」「地球の声」を聞くことのできる感受性を取り戻し、それらと呼び合うような人間へと、意識を変革してゆき、自分たちが住む身近な地域の自然にもっと真剣なまなざしを向け、自然破壊や動物の虐待をする人に対しては、すぐに直接行動をとってゆくことが必要です」

「自分が変われば世界は変わる」はニューエイジのキャッチフレーズである。
もっともなようだけど、よく話を聞いてみるとおかしいことがあるが、これもその一つ。

コメント (6)
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