信田さよ子『アダルト・チルドレン完全理解』を読んで、親として内心忸怩たるものを感じた。
こちらのほうが、直接殴られるより子どもにとってははるかに苦痛です。
妻と言い合いばかりしている私は子供を虐待しているのかと思った。
アダルト・チルドレン(AC)を概念規定すれば、「自分の生きづらさが親との関係に起因すると思う人」である。
親からの期待、圧力により生き方が方向づけられ、その結果、生きるのが苦しくなる。
承認欲求が強い私は、他人の評価が気になる生きづらさはすごくわかる。
知人は「明日までこの仕事をやってくれ」と言われると、できるはずがないとは思いつつ、「はい、わかりました」と答えていたそうだ。
当然できない。
だけど、仕事に行かないといけない。
出社できず、ウツ病となったという。
しかし、生きづらさのすべての原因が親との関係だというわけではないと思う。
本来、ACとはアルコール依存症の親を持つ家庭に生まれて成長し、アダルトになった人という意味だったのが、機能不全の家族のことになり、さらに普遍化して、「どこにでもある家族の問題となっている」と信田さよ子氏は言う。
それが、「自分がACだと思えばACなんだ」と自己申告になり、さらには「親に目立った問題がなくても苦しむ人がいる」ということになると、ちょっとなと思う。
親をいたずらに責めることになるのではないか。
春日武彦『不幸になりたがる人たち』にこうある。
幼い頃に心ない人物によって負わされた(と称する)トラウマを自ら開陳し、雄弁に自己の悲惨さについて語りたがる患者がいる。まるでテレビドラマの脚本のような、明快で説得力に満ちたストーリーなのである。おそらくその人にとっては、もはやそのストーリーこそが真実であり、大抵は悪役として親だとか教師といった人びとが登場して恨みの対象となっている。
親が暴力をふるっていたとか、酒を飲んで働かないとかならともかく、「うちはごく普通の家族だったからこうなったんだ」「親がまじめすぎて息苦しかった」と苦しむ人だっているかもしれない。
そのことに対して信田さよ子氏はこう説明する。
親との関係が自分のドラマのストーリーの中に整然と収まる。そしてそのドラマが平穏にあるということです。自分の人生と親の人生の間に線が引けるようになることです。
「親との関係で苦しんできた」という物語によって、自分を苦しさや生きづらさ受け止めていくということか。
ACという物語の枠組みが与えられることで自分の物語を作り直し、苦しみを受け入れていくことができるようになれば、ACという物語は必要なくなる。
でも、親との関係がいっそうまずくなったらどうなるんだろうか。
欧米ではカウンセリングによって抑圧されていた性的虐待の記憶を思い出し、親が告発されて有罪判決を受けた人もいるが、多くはカウンセラーの暗示、誘導によるニセの記憶らしい。
https://blog.goo.ne.jp/a1214/e/a89813d5ece6956aca6c73ea23c431bc
悪い物語もあるわけだ。
信田さよ子氏はこう言う。
自分で自分を思いどおりにして日々よりよい自分を形成していくという命題の忠実な実行者が依存症の人たちだったとすれば、その逆をやればいいのではないだろうか。つまりがんばらずに、争わずに、昨日と同じ今日を、今日と同じ明日を生きること…。
楽に生きるための手段としてACという物語があるということか。
でも、ACの人と話してて、
「回復ってなんだろうねえ、本当に」
「分かりませんねえ」
という会話になるのが現状だそうで、ACという概念はいい加減なもんだと思う。
だが、ACの人には子供の心のまま大人になった人が珍しくないということはうなずけた。
40代、子供が3人いるのに少女のような女性は、15歳の時に母親がガンでなくなり、父親は彼女より6歳上の人と2ヵ月後に再婚する。
「彼女のなかで、時は十五歳で止まったままです」
「十五歳の時に死んだお母さんの幻想をずっと持っていました」
生きている実感がなく、子供のままストップしてしまった人たちというと、光市事件の被告を連想する。
光市事件の被告は父親の暴力と母親の自殺で精神の発達が12歳でストップしたと弁護団は言っている。
甘えようとして抱きついたとか、ドラえもんが何とかしてくれるとか、18歳の人間がそういうことを考えるのは十分あり得ると思う。