三日坊主日記

本を読んだり、映画を見たり、宗教を考えたり、死刑や厳罰化を危惧したり。

信田さよ子『アダルト・チルドレン完全理解』

2008年09月29日 | 

信田さよ子『アダルト・チルドレン完全理解』を読んで、親として内心忸怩たるものを感じた。

アルコール依存症の家庭に育った子どもたちがいちばん傷ついているのは、夫婦のいさかいなのです。(略)
こちらのほうが、直接殴られるより子どもにとってははるかに苦痛です。

妻と言い合いばかりしている私は子供を虐待しているのかと思った。

アダルト・チルドレン(AC)を概念規定すれば、「自分の生きづらさが親との関係に起因すると思う人」である。
親からの期待、圧力により生き方が方向づけられ、その結果、生きるのが苦しくなる。

いい人と見られたいと行動しているわけで、そう見られなければ、自分の存在感を失ってしまいます。嫌われたり、疎まれたりすることが何より怖いのです。

承認欲求が強い私は、他人の評価が気になる生きづらさはすごくわかる。

知人は「明日までこの仕事をやってくれ」と言われると、できるはずがないとは思いつつ、「はい、わかりました」と答えていたそうだ。
当然できない。
だけど、仕事に行かないといけない。
出社できず、ウツ病となったという。

しかし、生きづらさのすべての原因が親との関係だというわけではないと思う。
本来、ACとはアルコール依存症の親を持つ家庭に生まれて成長し、アダルトになった人という意味だったのが、機能不全の家族のことになり、さらに普遍化して、「どこにでもある家族の問題となっている」と信田さよ子氏は言う。
それが、「自分がACだと思えばACなんだ」と自己申告になり、さらには「親に目立った問題がなくても苦しむ人がいる」ということになると、ちょっとなと思う。
親をいたずらに責めることになるのではないか。

春日武彦『不幸になりたがる人たち』にこうある。

ひところ流行したトラウマとかアダルト・チルドレンといった言葉も、都合の良い敵(幼少時の惨めな出来事とか、愛情の欠如した親とか)を記憶の彼方から掘り出して、それにすべてを責任転嫁するための方便として大いに利用されたものであった。(略)
幼い頃に心ない人物によって負わされた(と称する)トラウマを自ら開陳し、雄弁に自己の悲惨さについて語りたがる患者がいる。まるでテレビドラマの脚本のような、明快で説得力に満ちたストーリーなのである。おそらくその人にとっては、もはやそのストーリーこそが真実であり、大抵は悪役として親だとか教師といった人びとが登場して恨みの対象となっている。


親が暴力をふるっていたとか、酒を飲んで働かないとかならともかく、「うちはごく普通の家族だったからこうなったんだ」「親がまじめすぎて息苦しかった」と苦しむ人だっているかもしれない。

そのことに対して信田さよ子氏はこう説明する。

原因を除けばすべてが解決するのでしょうか。私は〝親が原因〟と言いたいのではありません。親を抹殺すれば解決するのではないのです。親との関係で苦しんできたのですから、親との関係を変えればいいのです(略)
親との関係が自分のドラマのストーリーの中に整然と収まる。そしてそのドラマが平穏にあるということです。自分の人生と親の人生の間に線が引けるようになることです。


「親との関係で苦しんできた」という物語によって、自分を苦しさや生きづらさ受け止めていくということか。
ACという物語の枠組みが与えられることで自分の物語を作り直し、苦しみを受け入れていくことができるようになれば、ACという物語は必要なくなる。

自分が悪いと思っていた物語を話し、自分はACなんだと、もう一度遡っていって、私はこの世の中に生まれてもよかったんだと、物語を書き換えていくわけです。


でも、親との関係がいっそうまずくなったらどうなるんだろうか。
欧米ではカウンセリングによって抑圧されていた性的虐待の記憶を思い出し、親が告発されて有罪判決を受けた人もいるが、多くはカウンセラーの暗示、誘導によるニセの記憶らしい。
https://blog.goo.ne.jp/a1214/e/a89813d5ece6956aca6c73ea23c431bc
悪い物語もあるわけだ。

信田さよ子氏はこう言う。

現代における、~せねばならない、こうあるべきといった望ましさを徹底し、その結果が自らを危うくするようなパラドックスに陥った人たちが依存症者である。(略)
自分で自分を思いどおりにして日々よりよい自分を形成していくという命題の忠実な実行者が依存症の人たちだったとすれば、その逆をやればいいのではないだろうか。つまりがんばらずに、争わずに、昨日と同じ今日を、今日と同じ明日を生きること…。

楽に生きるための手段としてACという物語があるということか。

問題が全部解決するのが「ACの回復のゴール」ではないと思います。それでは一生ずっと回復をつづけても足りません。ある時期、自分に「AC」と名前をつけることで楽になれば、それでいいのです。


でも、ACの人と話してて、
「回復ってなんだろうねえ、本当に」
「分かりませんねえ」
という会話になるのが現状だそうで、ACという概念はいい加減なもんだと思う。

だが、ACの人には子供の心のまま大人になった人が珍しくないということはうなずけた。
40代、子供が3人いるのに少女のような女性は、15歳の時に母親がガンでなくなり、父親は彼女より6歳上の人と2ヵ月後に再婚する。
「彼女のなかで、時は十五歳で止まったままです」
「十五歳の時に死んだお母さんの幻想をずっと持っていました」

生きている実感がなく、子供のままストップしてしまった人たちというと、光市事件の被告を連想する。
光市事件の被告は父親の暴力と母親の自殺で精神の発達が12歳でストップしたと弁護団は言っている。
甘えようとして抱きついたとか、ドラえもんが何とかしてくれるとか、18歳の人間がそういうことを考えるのは十分あり得ると思う。

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サラ・ポーリー『アウェイ・フロム・ハー 君を想う』

2008年09月26日 | 映画

サラ・ポーリー『アウェイ・フロム・ハー 君を想う』は、妻がアルツハイマーになって、という映画。
原作はアリス・マンロー「クマが山を越えてきた」(『イラクサ』所収)。
いつものようにネタバレです。

施設に入った妻フィオーナは夫グラントのことを忘れてしまい、患者の一人であるオーブリーと親しくなる。
フィオーナはまわりから夫婦と思われるほどオーブリーの世話を焼く。
グラントはまるで寝取られ夫であるが、何も言えない。
オーブリーは施設から家に帰ることになり、ショックでフィオーナは寝てばかりいる。
グラントはオーブリーの家に行き、オーブリーの妻マリアンに二人が会えるようにできないものかと提案する。
オーブリーがまた施設に入るにはお金がかかるので、家を売らないといけない。
それから、グラントとマリアンは親しくなる。
マリアンは家を売ってグラントと一緒に住むことにし、オーブリーを再び施設に入れる。
グラントはフィオーナにオーブリーが施設に戻ったことを伝えると、フィオーナはオーブリーを覚えていない。
そして、グラントに「家に帰ろう」と言い、そうして「私を捨ててもいいのよ」と言って終わり。

原作では、その後にフィオーナは「来てくれてうれしい。車で逃げちゃえばよかったのに。気楽に逃げちゃえば。わたしのことなんかほっぽらかして。ほっぽらかし。ほっぽらかして」と言う。

アルツハイマーの妻を世話する夫の愛情といった麗しい話じゃなく、罪についてが主題だと思った。
というのが、施設に行く車の中でフィオーナは、元大学教授であるグラントが女子学生とやり放題だったことを責める。
そしてフィオーナは、他の教授たちのように妻を捨てなかったことをグラントに感謝する。
だからグラントは、フィオーナが他の男と親しくするのは演技であり、自分への当てつけではないかと思ったりもする。

マリアンの家を訪問した時には、夫としてのプライドを捨て、フィオーナのためにオーブリーを施設に連れていこうとしたのだろう。
だけども、オーブリーとフィオーナをくっつけ、自分はマリアンと一緒に暮らすことにした。
結果的には妻を捨てようとしたわけだ。
それを見透かしたように、妻から「私を捨ててもいいのよ」と言われるのである。

最後に流れるのがニール・ヤングの「Helpless」
グラントにとって、まさに「自分ではどうすることもできない」「助けを得られない」「無力」な状況である。
妻を裏切っていたグラントが、妻のためにと思ってした行為が、妻を捨てることになってしまう。
そういう二重三重の罪。

『イラクサ』の訳者あとがきにこうある。

不実な夫の身勝手な独りよがりがあからさまに描かれている。だが、この夫は不実だけれど、妻を純粋に愛してもいるのだ。裏切りながら誠を尽くす、人間とはそんなものなのかもしれない。



原作者、監督、ともに女性である。
男性の身勝手さに対する女性から強烈なしっぺ返し。

(追記)
監督のサラ・ポーリーは母の浮気によって生まれた。
『物語る私たち』(2012年)は、実の父親が誰か調べるというドキュメンタリーである。
町山智浩さんが解説しています。
https://miyearnzzlabo.com/archives/19285


 

 

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アメリカの格差、日本の貧困(2)

2008年09月23日 | 日記

日本の貧困層は600万人以上、20人に1人だと言われている。
今野晴貴氏(NPO法人代表)のインタビュー記事の見出しは「自己責任じゃない、責めるべきは失業者を救わない社会構造」である。

不利な労働条件で働く若者の多くは、「こんな職場を選んだ自分が悪い」と自分を責める。しかし、今野晴貴さんは「責められるべきは法令違反している企業側、労働者ひとりの力は微弱でも、仲間となら見えてくる解決法もある」と語る。


今野晴貴氏は「日本は欧米に比べて、〝自己責任〟という考え方が浸透している」と語る。
これは同時に、国民には最低限の生活をする権利があると考えている人が少ないことを指す。
憲法で保障された最低限の生活を保障すべき国家は何もしてくれないのにもかかわらず、日本人は声をあげることをしない。

「ワーキングプア 人間らしい生活を求めて」という講演会で、もやい(ホームレス・生活困窮者への相談、ワーキングプア状態についての相談、生活保護についての相談などを指定るNPO)事務局長の湯浅誠氏「反貧困 私たちにできること」という講演を聞いた。

貧困は社会の問題、社会のありようを問う。
派遣会社が給与を支払ってくれず、生活ができなくなって退職した20代の人の相談のメールに、日払い派遣の仕事を選ぶしかないが、働くとこが遠い場所だと交通費がないので働けず、資金は底をつき、ライフラインも停まってしまい、家賃は払えそうもない。
その人は「このまま追い出されてホームレスになるか、自殺しか方法は残されていないのでしょうか」と訴える。

27歳のホームレスは自殺も考えたが未遂に終わり、「生きていても死ぬか悪いことして刑務所暮らしするしかないのかとか考えたり」している。

もやいに相談する人は20代ばかりではなく、全国のあらゆる世代から相談を受ける。
彼らに共通するのは役所に相談するということを考えもしていないことである。
自己責任論に縛られていると湯浅誠氏は言う。

仕事があれば働くのだが、月給をもらえるまでの一ヵ月間の生活費(食費、職場までの交通費、家賃など)がないから、日雇い労働をせざるを得ない。
2千円でもお金があれば、人に頼ってはいけないと思う。
手持ちの金が100円とか20円になり、仕事探しもできなくなり、とことんどうしようもなくなって、やっともやいに相談する。

生活保護からももれて、最低ラインより以下の人が600万人から850万人いるが、この人たちの多くを家族が支える。
家族が社会保障を肩代わりしているのである。

では、家族が支えない場合はどうなるのか。
それが先ほどのメールで相談した人たちである。
この人たちは労働市場に戻ると、どんな低賃金、どんな労働条件でも働く。
風邪をひいてバイトを休んだらクビになっても、食っていくために文句を言えない。
労働力の安売りを本人がせざるを得ないわけである。
そうして労働市場の質の悪化という悪循環。

若い人は今さえ楽しければいいと思っているとか、自分の権利ばかり主張していると非難する人がいる。
しかし、多くは自己責任の呪縛にとらわれ、生きていくのに精一杯なのである。

大津和夫氏(読売新聞社)はこう語る。

この取材をしていると1週間ぐらい取材できなくなっちゃうんですよ。重たくて。あまりにも重たいんです。彼らは異口同音に『自分は無視されている』と語る。それは『自分がいてもいなくても、世の中には関係がないんだ』という意味です。まるで最後の言葉みたいですよね。僕の感覚からいうと、こういう状況って、いまだ多くの人に「見えていない」。


マザー・テレサに「この世で最大の不幸は戦争や貧困などではない。むしろそれによって見放され、“自分は誰からも必要とされていない”と感じること」という言葉があるが、「誰からも必要とされていない」人がカルカッタだけいるのではない。

正社員、パートなど、働き方の違いを問わず、雇用主が最低限支払わなければならない賃金が日本はとても低い。
正社員の3割が年収300万円以下で、貧困ラインに正規社員も入っている。
残業代をもらえない「名ばかり管理職」も多い。

知人からマスコミ業界は社員の平均年収1千万円以上という会社が普通だと聞いた。
時給800円で1日20時間、365日働いて、年収は584万円。時給1000円だと年収730万円である。
とてもじゃないが、パートで年に1千万円を稼ぐのは不可能である。

大津和夫氏はさらにこう話す

長時間労働は古くて新しい問題ですが、今の日本には目安があっても上限規制がないんです。つまり、企業側がずっと働かせ続けられる法体系になっているんですね。

7年間ネットカフェで寝泊まりしていた34歳男性が、友だちに連れられてもやいにやって来た。
彼は最初「ほっといてくれ」と言ったそうだ。
どうにもならないと自分に言い聞かせて生きてきた、こんなもんだと思わないと生きていけない、だから変な夢を見させて失望したくない、ということなのだろう。

社会から排除された人は、自分の尊厳が守れなくなり自分自身からも排除するようになる。
でも、この34歳の男性は生活保護を受けてアパートに住み、2ヵ月で仕事を見つけたそうだ。

お金をたくさん持っている麻生太郎氏に、セイフティネットや居場所作り、派遣労働や最低賃金の法整備などを何とかしてもらうようお願いしたい。

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アメリカの格差、日本の貧困(1)

2008年09月20日 | 日記
アメリカの選択:08年大統領選 バイデン氏とペイリン氏、増税巡り火花
◇バイデン氏「愛国心示せ」/ペイリン氏「仕事失わせる」
 米大統領選の焦点の一つの税制問題をめぐり、民主党のバイデン上院議員と共和党のペイリン・アラスカ州知事の両副大統領候補が18日、火花を散らせた。バイデン氏が富裕層への増税政策について「(富裕層は)愛国心を示せ」と訴えたのに対し、ペイリン氏が「愛国心の問題ではない」とかみついた。
 バイデン氏は18日、ABCテレビで、税制問題では中間層を重視する考えを強調。富裕層に対して「愛国心を示すときだ。米国を救うときだ」と述べ、増税に理解を求めた。民主党はブッシュ政権が実施している年収25万ドル超世帯への減税を廃止し、所得税の最高税率を35%から約40%に引き上げるよう提案している。
 これに対しペイリン氏は遊説で「増税は仕事を失わせ、中小企業に影響を与える。愛国心の問題ではない」と反論。民主党大統領候補のオバマ上院議員について「稚拙な判断が問題だ」と批判。「オバマ氏は増税路線」と主張する共和党大統領候補のマケイン氏を後押しした。
 バイデン氏は「税金を払うことは愛国心だと言っているだけだ」と反論したが、論争にマケイン氏も参戦。バイデン氏の発言を「あぜんとする」と痛烈に批判し、富裕層への減税継続を強調した。(毎日新聞9月20日)

共和党が金持ちの味方だということに納得したニュースだった。

不思議なのが、大統領選で貧困層がなぜ共和党候補に投票するのかということ。
もっとも、民主党が貧者の味方というわけでもないらしい。

2007年末までに1億ドル(約120億円)の大台に乗せないと戦えないと言われてきたが、大統領選全体では1人あたり5億ドル規模が必要との見方もあるとなり、さらには各候補の資金総額は初めて10億ドルを超えると予想されているそうだ。
https://www.asahi.com/international/president/system.html

民主党候補のオバマ上院議員は8月に獲得した選挙資金が6600万ドル(約70億円)、50万人が新たに献金し、献金者の総数は250万人以上、1ヵ月の資金獲得では史上最高額。
共和党候補のマケイン上院議員は4700万ドル(約50億円)。
これじゃ金持ちの損になる政策を両候補ともするわけがない。

アメリカ合衆国の貧困率は12.7%で、人数にするとおよそ3700万人が貧困ライン以下の生活をしている。
医療保険未加入者が約5000万人で、約3億人の人口の6人に1人が保険に入っていない。
国民皆保険制度を実施しようとするヒラリー・クリントンは民主党大統領候補になれなかった。

その一方、アメリカでは、保険会社は保険に入っている人に保険金を払おうとしないという実態をマイケル・ムーアは『シッコ』で告発している。
保険に加入していない人は医療を受けられないことをどう思っているのだろう。

時給6ドルや7ドルで働く400万ともいわれる女性たちに混じって、ウェイトレス・掃除婦・老人介護・ウォルマートの店員として働いたバーバラ・エーレンライクは、掃除婦の同僚に「客たちのことをどう思っているのか」と尋ねると、こういう答えが返ってきたという。

私は全然気にならないわ。きっと人間が単純なのね。あの人たちが持っているものを欲しいとは思わない。私にはどうでもいいことだわ。ただ、ときどき、どうしても休まなきゃならないときは一日仕事を休むことができたらいいなと思うだけ。休んでも、明日の食べ物が買えればいいなと思うだけ。(『ニッケル・アンド・ダイムド』)


日本でも格差が広がっており、他人事ではない。
日本のジニ係数(所得分配不平等度)はOECD20ヵ国のうち下から6番目。
相対的貧困率は、日本はOECD17ヵ国のうち下から2番目(最下位はアメリカ)

自民党の総裁選や衆議院選で一番問題にしてもらいたいのは格差の拡大、そして貧困層を減らすことである。
そういう意識は政治家や官僚にあるのだろうか。

「ビッグイシュー」102号に大津和夫氏(読売新聞社)のインタビュー記事が載っていた。

日本の場合、貧困の基準は実際ないも同然で、政府は貧困がないというとらえ方をしています。(略)
最近の話だ。大津和夫さんの耳にある官僚の言葉が飛びこんできた。
「若者問題ってもう終わったよね。景気も回復してきたし、失業率も下がった。仕事のチャンスなんかいくらでもあるでしょう?」
聞き捨てならなかった。
いや違う。それは違うと、大津さんは反論した。
「その仕事はどんな仕事ですか? いくら稼げますか? 彼らがどういう働き方をさせられているか、あなたは知っているんですか?」
そこまで問いつめていくと、相手も黙ってしまい、もう何も答えられなかったという。
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滝田洋二郎『おくりびと』

2008年09月17日 | 映画

滝田洋二郎『おくりびと』を見るまでは納棺師という職業があると知らなかった。
『おくりびと』の舞台は山形県庄内地方。
主人公が面接に行くと、月給50万円とまず言われる。
そんなに高給なのか、庄内でこの仕事が成り立つのかと思った。
ネットで調べた。

「納棺師」で検索すると出てくるのが株式会社札幌納棺協会、そのグループがNKグループである。
『おくりびと』の主人公が勤める会社はNKエイジェンシー。
NKとは納棺のことだそうで、札幌納棺協会がモデルかもしれない。

山形県鶴岡市の葬儀社のHP。

最近では「納棺師」という、遺族、親族に代わってご遺体を清め、死化粧を施してお棺に収める納棺の専門職がおりますので、葬儀社にお尋ねください。


納棺師はどういう仕事をするのだろうか。

葬儀社から依頼されて納棺師を派遣している「ケアサービス」(本社・東京都大田区)の富澤政信取締役はこう説明する。
「納棺師になるための特別な資格はありません。当社の納棺師は社内研修を3カ月から6カ月受けた約120人で、すべて社員。20代の女性が多い。故人への主な仕事は(1)シリコーン注射などによるやすらかな死に顔づくり(2)消臭効果のある薬品を口の中に入れる防臭処置(3)口、鼻、お尻の穴に綿花を入れる詰め物(4)白装束などを着せる着衣(5)納棺(6)遺体の髪や体を洗う湯灌です。湯灌を行わない場合、納棺師1人で切り盛りします」
納棺前に行われる湯灌は、ペアの男女の納棺師が手がける。大型バンを改造した車に軽量プラスチック製浴槽(1畳サイズで深さ30センチ)を積んで葬儀会場や自宅に出向く。改造車に差し込んだ湯が出るホースと排水用ホース(車にタンクが内蔵)をつないだ浴槽にバスタオルで包んだ遺体を横たえる。納棺師と遺族が一緒に髪や体を“清める”のだ。
納棺師の仕事は、湯灌を含め1時間30分ほどで終了する。納棺師を兼ねる社員は多少手当が付く。
料金はどうなのか。
「葬儀社のセット料金に含まれているケースとオプションのケースがあります。いずれにしろ湯灌まで行えば8万円から10万円が首都圏の相場。湯灌を除くと、5万円くらいです」(前出の富澤取締役)


葬礼に関する業界で活躍し続けている人はこう説明している。

映画(『おくりびと』)では、葬儀社スタッフの役割と、納棺師の役割が区別されて描かれていますが、多くの葬儀社は納棺の儀式を自社スタッフで行っています。「葬儀社は病院のお迎えから通夜、葬儀・告別式、アフターフォローまで一連の流れをトータルで統括するのが仕事、ご遺体の扱いは納棺専門業者に委託したほうが良い。」という考え方もありますが、納棺は通夜、葬儀・告別式への流れにつながる儀式のひとつであると同時に、遺族が故人との別れを認識する大切な場面でもありますから、葬儀社の担当者が場の空気を感じながら行うべきという意見が多いからです。
それでも、湯灌やメイクが伴う場合は専門業者に依頼するケースが多いようです。納棺業者の中には湯灌やメイクだけでなくエンバーミングを付帯して行っているところもあります。


納棺師の収入はいくらなのか。
ある納棺師のブログ。
http://blog.livedoor.jp/agnj181/archives/24740540.html#more

アルバイト情報誌を開くと載ってたので記載します。
【ゆかん】・・・死後間もないご遺体を洗うこと
葬儀前(御通夜前)に働くとするとはたしてHOWマッチ???
男性が日給7500円
女性が日給6500円
歩合は一件3500円
つまり一体洗うと3500円貰えるわけです
この仕事は冬場が稼ぎ時
だいたい4月から9月ぐらいまでは暇なのです。
暇な時期に募集をするみたいですから興味のある人は調べてみて
で9月半ばから3月下旬ぐらいまでは月平均60件 出勤日数22日として
60×3500円=21万
22×7500円=16万5千円
合計・・・・・・・37万5千円

湯灌だけでこの収入なら、化粧や着替えを含めたら月収50万円になるだろう。

『おくりびと』では納棺のシーンが美しく描写されていたが、洗体レディーという人のブログによると実際はそうでもないらしい。
https://plaza.rakuten.co.jp/himitusentai/diary/200508150000/

お着せ替えをしようと故人の体を傾けたらカケられました。私の太ももから下半身にかけて“真っ黒い血”吐血というのか通称“腹水”とも言いますが・・・ものすごい臭いでした。大ショックでしたが自己のあさはかさを思い知りました。


『おくりびと』の感想は、納棺師の所作はあまりにも儀式張っていて、作り物めいてしっくりこなかった。
しかし、死から納棺、通夜、葬式、そして納骨までの一連の流れはすべて儀式、すなわち喪の仕事である(死亡届を出すことなども)。
儀式を行うことで、遺族は死別を受け入れていく。

その一方で葬儀屋に対する差別心が我々にはある。
『おくりびと』で、二人乗りバイクが転倒して娘が死に、ケガですんだ男に遺族が「この人みたいな仕事をして償うつもりか」と言う。
遺体を浄めるという穢れた仕事をすることで、死なせてしまったという罪を償う、そういうふうにこの遺族は思ったのかもしれない。

小此木啓吾『対象喪失』に、フロイトが父親を亡くした後に見た夢の話が出てくる。

いまだ大便がつまっていた父親の死体は、絶命の瞬間あるいは死後まもなく、脱糞するに違いない。(略)そこでフロイトは父親の死体を前にして、大便で汚された死体を浄めねばと思う

フロイトは自己分析をし、父親の遺体を浄めようとする意味をこう説明する。

息子は看病しているあいだ、幾度か父が死ねばいいのにと思った。(略)そして、息子は自責の念に苦しめられる。

遺体を浄めることは「自責の念に発する面をもっている」と解釈している。

人は身近な人に対して愛情と憎しみという相反する感情を持つが、その人が亡くなると恨み、憎しみの感情は消え、それが死者に対する罪の意識に変わる。
遺体をきれいにしなければと思うのは、遺体を清拭することで自分の罪を償う意味があるのかもしれない。

『おくりびと』が作られたのは、本木雅弘氏が青木新門『納棺夫日記』に感動したからだそうだ。
青木新門氏は妻から「穢らわしい、近づかないで!」と言われたという。

クリント・イーストウッド『父親たちの星条旗』の主人公は、葬儀屋になるのが夢だというので、仲間から変わり者と見られている。
アリス・マンロー「なぐさめ」(『イラクサ』)にはエドという葬儀屋が出てくる。

エドとキティーは見栄えのいい夫婦だった。あんな職業でさえなければエドはなかなか興味をかきたてられる男だ。

カナダでも「あんな職業」なのである。

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ニューエイジ・スピリチュアルの霊魂観(5)

2008年09月14日 | 問題のある考え

「つながりを生きる」とか「見えない世界があるんだ」ということをよく耳にする。
「つながり」や「見えない世界」がどこかにあるわけではない。
人はさまざまなつながりや関わりの中で生きているのに、そのことに気づかず、自分一人で生きていると思い込んでいる、そのことを「見えない世界がある」という言葉で指摘している。

ところが、ニューエイジやスピリチュアルは、見えない世界を実体化し、本当の世界、真実の世界だと主張する。
これは現実の世界、現実の私を軽視することになる。
死ぬと存在の根底に一体化し、そして新たな課題を持って生まれ変わるから、死は悲しむべきことではないと主張する。

伊東良徳弁護士は、死刑とポアは同じ理屈だと語っている。

特別予防、すなわちその個人が再犯の恐れがあるということで社会から隔離するんだというのがいわゆる近代学派の刑罰の根拠です。そうなってくると、特別予防の立場からの死刑の考え方は、まさにこれから悪いことをする恐れのあるやつだから先に殺してしまえという考え方になるわけです。それはむしろ行政が現にやっていることであり、オウム真理教の考え方と共通している部分があるわけです」(パトリシア・G・スタインホフ、伊東良徳『連合赤軍とオウム真理教』)


ポアとは輪廻と業が前提にある。
ある人がこれから悪いことをすることがわかっている。
だったら、悪業を作る前にその人を殺せば罪を犯すことがなく、三悪道に堕ちることを防ぐ。
だから殺すことが慈悲になる。

オウム真理教の元信者たちの説明。
村上春樹『約束された場所で』

論理的には簡単なんですよ。もし誰かを殺したとしても、その相手を引き上げれば、その人はこのまま生きているよりは幸福なんです。だからそのへん(の道筋)は理解できます。ただ輪廻転生を本当に見極める能力のない人がそんなことをやってはいけないと、私は思います。

ロバート・J・リフトン『終末と救済の幻想』

サリンの犠牲者たちは、高度に進化した霊的存在のために殺されたのだから、彼らは功徳を施されるでしょう。(略)霊的に低いレベルの人びとは、価値のない生活を送っていて、他の人びとに迷惑をかけるような生活を続けます。ある点で、彼らはとても苦しんだかもしれませんが、しかし、彼らは苦しみの彼方に行ってしまい、霊性を高めて、彼ら自身が経験した苦しみの代わりに、(来世で)他の人びとにより大きな徳をもたらすことができるでしょう」。


死後の生を前提にして死刑賛成論を説く人がいる。
私がブログに書いた死刑反対論に対し、あるブログがこういう批判をした。

お坊さんでしたら"死刑回避"っていう"現世利益"にこだわらず、むしろ来世での救い、死を受け入れて浄土への往生を諭すのがお仕事なんじゃないのかしら?っと思うわけで。現世利益にこだわるのは学会さんだと思っていました。むしろ罪を悔いて刑に服し救済を願う。そのときに"南無阿弥陀仏"と唱えることで、阿弥陀様が浄土に連れていってくださるのではって。そう諭すことが真宗の僧侶の仕事であって、死刑・・・厳罰化に反対するのが本来の仕事ではないと、感じたりとか。なんか、ちょっと・・・ずれてる気がして。

死後の生があると考え、現実の生を軽視している。

免田栄さんは浄土真宗の教誨師からこう言われた。

毎週、教誨師が来て説かれる説法は因果律で、前世において死刑囚になる因を持っていたから現世において死刑囚になっている、故にそのままの姿で処刑されねば救われない、とまことしやかに説かれては、宗教に弱い臆病な者は確定判決に不服があっても再審をあきらめるしかない」(免田栄『免田栄 獄中ノート』)


ハンセン病の元患者の方。

昔のお説教の時に、「病気になったのは業病なんだ、前世に悪いことをしたからその祟りだ」とか、「あなたたちはこういう病気になったのだからあきらめなさい」というような話を聞いたことがある。


前世の業(カルマ)の報いだというわけである。
これをカルマの法則という。
行いによって現世や来世で善い報い、悪い報いを受けるという考えである。

しかし、前世があるとして、前世で何をしたか誰も知らないから、いくらでも勝手なことが言える。
たとえば、江原啓之氏は佐藤愛子氏との対談でこんなことを言っている。

例えば、自分は殺されたとします。自分が殺されることができるというのは、人がいるからだと。
殺してくれる人がいるから自分が殺されることができるんだと。だから、その人に対しては感謝しなきゃいけないと。それで、自分を殺すということのために、その人はその分カルマを背負ってくれる。
自分は殺されたことにより、殺された心の痛みを理解できて、二度と人を殺さない魂になれる。だから、その人のおかげで自分はそれだけ向上できるんだから、そして自分のことでカルマを背負ってくださるから、その人を愛さなきゃいけない。
ですから、世界人類みな愛さなきゃいけないにつながってくる。(佐藤愛子・江原啓之『あの世の話』)


この考えはオウム真理教の用語ではカルマの浄化・清算である。
江原啓之氏は強姦された人にも「強姦してくれた人に感謝しなさい」とか、「カルマがなくなったのだから喜びなさい」と諭すのだろうか。
こういう発言をする人が女性に人気があるのが信じられない。

「今の人は死んだらおしまいだと思っているから、今が楽しければいいと考えている」と言う人がいるが、死んだらおしまいだから好き勝手に生きる人がいるのか。

「宗教「信じない」7割、「魂は生まれ変わる」3割…読売調査
読売新聞社が17、18日に実施した年間連続調査「日本人」で、何かの宗教を信じている人は26%にとどまり、信じていない人が72%に上ることがわかった。(略)
死んだ人の魂については、「生まれ変わる」が30%で最も多く、「別の世界に行く」24%、「消滅する」18%――がこれに続いた」(読売新聞5月29日)

生まれ変わりや死後の世界を信じる人が約半数、死んだらおしまい派は少数である。

生まれ変わりや死後の世界を信じていても、ポアを肯定する人はまずいない。
限られた生だからこそ今を大切に生きるという人もいるのではないか。

いつまでも自分が存在し続けるかのごとくに固執している見方の中には、ほんとうに生を愛するということは、生まれてこないのです。(宮城顗『正信念仏偈講義』)
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ニューエイジ・スピリチュアルの霊魂観(4)

2008年09月11日 | 問題のある考え

実体的いのち・こころ観はグノーシス主義やインド思想の梵我一如と通じると思う。
日本の宗教観では、死んだら霊魂となり、霊魂が次第に清まってやがて先祖霊と一体化し、さらに清まると氏神になると説くが、これも似ている。
手塚治虫『火の鳥』の最後、火の鳥にすべての生命が一体化するのも同じ。

仏教は梵や我という不変の実体を否定するから、実体的いのち・こころを説いたら仏教とはいえない。
しかし、実体的いのち・こころ観を説く宗派もある。

日蓮宗に霊断師会というのがあり、霊断師に相談すると、九識霊断によってすべての悩み事に答えが与えられるそうだ。
霊断師会のHPではこのように説明されている。

我が日蓮宗霊断師会には創祖・高佐日煌聖人の創始による、九識霊断法という秘法があります。
これは日蓮大聖人の遺された有り難い秘法で、法華経の信仰を具現化したものです。
レーダーが霧や雲を透して物の位置を正確に捉えるように、我々の運命が手にとるようにわかります。
九識霊断法とは、南無妙法蓮華経のお題目の神秘と、人間が誰でも持っている九識によって我々の運命を予知する秘法です。この霊断により、困ったとき、迷ったとき、決めかねているときなど、人生のいろいろな場面で遭遇する運命の真相を知り、その運命を好転させることができるのです。


唯識では六識(眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識)、そして深層に末那識、阿頼耶識の八識を立てるが、天台宗や日蓮宗ではさらに下に阿摩羅識(仏性)を加えて九識とする。

九識は心の一番奥にあってすべての人に通じており、九識に至れば他の人の心を知ることができるし、過去や未来もすべて明らかになると説明される。
自分が死ぬ日時までわかるそうである。

浄土真宗でも梵我一如的な話をする人がいる。
教化冊子「お盆」2008年版に載っている写真に、「大気のなかでトンボも草も、光と出会って願っている」「西からの気配のような夕の光が、ただ、語りかけてくる」という「心のノート」的な説明文がついている。

「心のノート」は河合隼雄氏が中心となって作った道徳の副読本で、スピリチュアル的な内容である。
河合隼雄氏は「たましい」という言葉をよく使うが、「たましい」とは、個人の霊魂であると同時に、すべての存在と通じ合う霊魂でもある。

弓山達也「現代人の生命観とスピリチュアリティ」(「親鸞仏教センター通信」26号)にこういうことが書かれてある。

『心のノート』(文部科学省)は、国によるスピリチュアル教育の典型例であると考えています。文科省の言う、「目に見えないものを大事にする」とか「あらゆる宗教に共通する普遍的な宗教心」という文言こそ、まさにスピリチュアリティと呼べるわけです。(略)そこでの「いのち」観とは、生命は自分のものであるが、与えられたという意味で、自分のものだけでないという「与えられたいのち」観、人間の生命とは、宇宙や自然や人間を超えた大いなるものと「通じ合ういのち」観、そこでの「いのち」は、輝かせることが使命・目的とされる「輝くいのち」観です。


「お盆」にはこんな文章が書かれている。

「臍の緒」、それは自分のいのちがしっかりと親のいのちにつながっていることの証でしょう。そしてその「臍の緒」は、限りなく長い歴史を次々とつないでいるのです。その始まりも、行きつく先も見通せないほどに長いいのちの歴史と、広い世界を内容として、私は今、このいのちを身に賜っているのです。

これは実体的いのち・こころ観である。

ニューエイジやスピリチュアルに親近性を持っている人たちに原稿や講演を依頼する真宗教団のスピリチュアル化を危惧せずには

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ニューエイジ・スピリチュアルの霊魂観(3)

2008年09月08日 | 問題のある考え

 2,実体的いのち・こころ観
ニューエイジやスピリチュアルの霊魂観の第2の特徴は、実体的いのち・こころ観ということである。
ニューエイジやスピリチュアルは、実体的ないのち・こころがあると考え、深層ではあらゆる存在とつながっていると説く。(「いのち・こころ」としているのは、いのちとこころが同じ意味として使われているからです)

諸富祥彦「個とつながり トランスパーソナルをめぐって」(「アンジャリ」8号)はこのように説明する。

私たちが意識水準を深め、より深い立脚点に置き、そこから世界を眺めたとするならば、すべては違った様相を見せてくる(略)
意識の水準が極限まで深められたその地点においては、もはやすべてのいのちは本来一つであるという、という“いのちのつながり”の相がありありと浮かび上がってくる。

図で説明しましょう。


意識の部分では一人ひとりはバラバラで、自分と他者は別の存在だと認識する。
しかし、無意識の奥深い領域ではあらゆる存在はつながっている。
そして、存在の根底にあって、あらゆる存在がつながっている世界が本当の世界、リアルな世界である。
このようにニューエイジやスピリチュアルでは主張する。

この物質世界は幻影であり、その背後にこそ真の現実世界があって、そこに至る道を示す教えが太古から存在している、と主張されていた。(レイチェル・ストーム『ニューエイジの歴史と現在』)


本当の世界は、集団的無意識、梵、九識、道(タオ) 阿弥陀のいのちなどと呼ばれる。
いのち・こころがつながっている領域へは、臨死体験や瞑想、ドラッグなどで意識が変容するで至ることができる。
意識の表層から深層へ深化していく過程で、世界が違って見え、以前は見えなかったり感じられなかったいろんなものが見えたり感じられ、他の存在の意識と一体化する。
そうなれば、他人が何を考え、何をしているかがわかる。

オウム真理教元信者が薬物によってトランス状態に入った時のことを語っている。

私と麻原とのつながり―オウムではそれをパイプというのですが―がこのヴィジョンでは具体化されました。そこには他のさまざまな人びとがいて、その中心に明るく輝く麻原がいました。(略)私は底にいましたが、底の人びとは引き上げられていましたので、私も引き上げられました。それは抗しがたい力でした。私が引き上げられるにつれて、周りが少しずつ明るくなっていきました。「私はだれですか」と、私は麻原に問いました。引き上げられるにつれて、私は麻原と一つになりました。すると、彼と私をつないでいたすべての連鎖やきずなが突然消え失せて、私は光に取り巻かれていました。すべては明るい白になっていきました。
最後には幻覚が消えて何もなくなっていました。そこには無があったのです。私は肉体感覚を失い、意識だけがありました。すばらしい感覚でした。それから、奇妙なことに、私が麻原に聞きたかったことがありました。そして、問いのことを思い浮かべると、すぐに答えが返ってきました。そのとき、私は麻原だったんです。(ロバート・J・リフトン『終末と救済の幻想』)


生きている人とだけでなく、死者やこれから生まれてくる人ともつながっているから、過去に何があったか、未来がどうなるかがわかる。

霊界では、過去・現在・未来というのが全部現在だから。未来に起こることは全部現在として現れてくるんだ。過去も現在。だから予言ていうのが成立するんだよ。だからノストラダムスなんか当たり前の話なんだ。(丹波哲郎、ダーティ工藤『大俳優丹波哲郎』)


本当の世界では過去世や来世を知ることができる。
生まれ変わるとは、本当の世界である死後の世界からこの世に修行のために生まれてくることである。
Aが死んでBとして生まれ変わったとして、AとBはつながっているから、Bが前世であるAのことを思いても不思議ではない。

また、本当の世界では、本来すべての存在が共有し、与えられていながら、知ることがなく、使うことのできなかった根源的エネルギーを実感できるようになる。
根源的エネルギーは無限のエネルギーであり、超能力はそこから得られる。

しかし、こうしたことが事実なら、歴史の謎はすぐに解けるし、未解決の殺人事件はあり得ないことになるはずである。
エネルギー問題も根源的エネルギーで一挙に解決できることになる。
そういうご都合主義的なところがニューエイジやスピリチュアルの特徴でもある。

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ニューエイジ・スピリチュアルの霊魂観(2)

2008年09月05日 | 問題のある考え

人類はどのようにして霊性的に進化するのだろうか。
ニューエイジやスピリチュアルでは、個人の意識レベルが向上し、レベルの向上した人間が一定数を超えると、人類全体が一挙に進化すると説く。

超能力や神秘体験を経験することによって自分を、心のレベルつまり霊的なステージを高い地平へ持っていく、その結果として世の中は変わっていくんだという考え。(芹沢俊介『オウム現象の解読』)


現在、多くの人がスピリチュアルなものに関心を持つようになったのは人類の意識が進化していく表れの一つだとされる。
オウム真理教でも、悟りを得る者が誕生することで世の中が変わると説いていた。

「オウムの場合は、精神を変えれば社会が変わるという発想なんですよ」
「結局、僕が麻原さんについていけば大丈夫なんだって感じたのが、壮大な救済ドラマだったわけ。三万人の成就者が出れば、世の中の人たちを救済できるって言ってたけど、そこなんですよ」(カナリアの会編『オウムをやめた私たち』)。


TM瞑想(超越瞑想)のマハリシ・マヘーシュもマハリシ効果とを言っている。

人口の一%が同時に超越瞑想を実践すれば、それによって生じた脳波が重なり合って干渉し合い、残りの九十九%の意識を変化させる。(レイチェル・ストーム『ニューエイジの歴史と現在』)


意識レベルが向上する者が一定数誕生することで、人類全体が進化することは、「百匹目のサル」という事実によって証明されていると主張する人がいる。
百匹目のサルとは「ある行動、考えなどが、ある一定数を超えると、接触のない同類の仲間にも伝播する」という現象を指す。

宮崎県の幸島に棲息するサルの一匹がイモを海で洗って食べるようになり、やがて他のサルたちもその行動を真似するようになった。同じ行動を取るサルの数がある数(百匹とは比喩的表現)を越えた時、その行動が群れ全体に広がり、さらには他の群れや幸島から遠く離れている大分県高崎山にいたサルの群れでも自然発生するようになった。(『トンデモ超常現象99の真相』)。

しかし、これはライアル・ワトソンが創作し、船井幸雄が広めた作り話である。

このように、「個人の変革が世界の変革をもたらす」ということがニューエイジやスピリチュアルのキャッチフレーズである。
他にもあげてみましょう。
「心の力が未来を変える」
「意識が変われば世界も変わる」
「意識の進化が世界を変える」
「人生に敗北などない」

宇宙人が進化の手助けをしていると考える人もいる。
アセンションという言葉がある。
Wikipediaによると、「ニューエイジ、新興宗教などにおいて、人間もしくは世界そのものが高次元の存在へと変化すること」という意味である。

「...But I wouldn't mind!!!」というブログの「アセンションは麻原彰晃のいないオウム真理教となるか」という記事にアセンションの説明がある。
http://blog.livedoor.jp/coro19/archives/51010608.html

・地球は「アセンション」に向かっていて、2012年にピークを迎える。
・「アセンション」とは、次元上昇である。
・地球がアセンションすると、人類も肉体的・精神的に高次元(四次元説、五次元説あり)へとレベルアップする。
・人間が高次元へ進むと、テレポートできたり、テレパシー送ったり、思い描いたものを目の前に出したり、思考したことが即座に現実になったりする。
・人間がアセンションするためにはチャクラを高め、想念(物事の尺度を測る感覚らしい)を解放し、自らを浄化する必要がある。
・瞑想するとチャクラが上がりやすい。
・他の惑星は既にアセンションを完了して、高次元の世界に突入している。地球のアセンションは利己的な意識を持った人間のせいで遅れをとっている。
・チャクラの低い人間はアセンションの時に高次元に昇れず、地球を出て他の星で暮らすことになる。
・2000~2005年は「混乱の時」、2006~2010年は「浄化の時」であり、世界で起きている様々な社会現象は全てアセンションへのプロセスである。(イラク戦争は「混乱の時」に始まったらしい)
・地球はアセンションしないともう既に滅びる一歩手前。
マヤ暦の日付が2012年の12月22日で終わってるのは、12月23日にアセンションが起こるかららしい。

レイチェル・ストーム『ニューエイジの歴史と現在』に「ニューエイジは自分たちと同じ意識を持つ人々だけが住む世界を求める」とあるが、自分と意見の合う人しかいないのが高次元の世界なわけで、自己中心主義であり、他者への冷淡さに陥っている。

1960年代に、魚座の時代に終わりを告げ、アクエリアス(水瓶座)という新しい時代(ニューエイジ)に入ろうとしていると言われた。
アセンションはこれの二番煎じにすぎない。
アセンションしなかった時の言いわけ(脅しもある)をちゃんと考えている。

なぜ2012年に人類が高次元に進化するのか、それはフォトン・ベルトによってだそうだ。
Wikipediaにこう説明されている。

地球が次に完全突入するのは2012年12月23日で、その時には強力なフォトン(光子)によって、人類の遺伝子構造が変化し人類が進化するとも言われている。(略)
フォトン・ベルトとは、銀河系にあるとされている高エネルギーフォトン(光子)のドーナッツ状の帯。一部の疑似科学信仰者やオカルティストが存在と影響を主張するが、科学的根拠は皆無であり、フォトンベルト実在の証拠として上げられたデータや写真も捏造又は誤りが明らかである。

はなはだ楽観的な未来像である。

階層的霊界観は、霊性のレベルによって人をランク付けし、霊性の高いエリートが一般大衆を導くという考えが基礎にある。

自己は、個を超えて、超人間的な全体に達する。はじめは少数の選ばれた人にのみ与えられる。つまり、エリートなのである。彼らは一般の人々を導かなければならない。(海野弘『世紀末シンドローム』)

人類を進化させるための考えが、少数のエリートが人類全体を引き上げるんだ、目覚めている私は世界を変えるエリートだ、という特権意識になっている。

オウム真理教の元信者も自分のエリート意識を語っている。

「一般の人をすごくバカにしていた」
「私も、一般の人に対して、自分は修行をしているから、あなたたちよりも上なんだって感じるようになってしまったし、みんなそうでした」
「「こーんな素晴らしい体験できた私というものは実は特別な使命を持って生まれてきた選ばれた民なんだ」という気持ちにさせてくれるのです」(『オウムをやめた私たち』)
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ニューエイジ・スピリチュアルの霊魂観(1)

2008年09月02日 | 問題のある考え

ニューエイジやスピリチュアルの霊魂観は、階層的霊界観と実体的いのち・こころ観からなると思う。

 1,階層的霊界観
ニューエイジやスピリチュアルは、生まれ変わりをくり返しながら霊的に成長するために、自分で課題を考え、環境を選んで生まれ、そうしてだんだんと霊的に成長して階層を上がっていき、そうして霊性を完成させることが人間に生まれた目的だと説く。
自らが選んだ試練に耐えられなければ、下の階層に落ちてしまう。
この考えを階層的霊界観とよぶことにする。

幸福の科学の霊界観を例にして説明しましょう。(ニューエイジの影響を受けた新宗教はどれも似たり寄ったりである)

あの世とは、天国と地獄というような簡単なものではなくて、実はピラミッドみたいな階層構造になっているのです。いま私たちが住んでいるこの世界は三次元の世界。あの世は四次元から九次元まであって、九次元が最高で、最低は四次元。この四次元の一部が幽界といって、地獄があるのです。(米本和広『大川隆法の霊言』)


十次元惑星意識は地球神。
九次元宇宙界には大川隆法、キリスト、高橋信次らがいる。
八次元如来界は最上段階・太陽界(谷口雅春、老子、ヘーゲルら)、金剛界(アインシュタイン、福沢諭吉、ナポレオンら)、荒神(出口王仁三郎)の3つに分かれている。
七次元菩薩界は四つに分かれている。
五次元霊界は精神界・善人界で、毛沢東、レーニン、清少納言がいる。
地獄界にはマルクス、佐々木小次郎、ダーウィン、ニーチェらがいる。
マルクスは宗教を否定したから、ダーウィンは進化論を説いたからである。

九次元宇宙界に高橋信次(GLAの創立者)がいるのは、大川隆法が影響を受けたからである。

高橋信次によれば人間の魂は、光の性質に応じて六つの位階に区別され、それらは上位のものから、如来界・菩薩界・神界・霊界・幽界・地獄界と名づけられた。現世とは「魂の修行場」であり、肉体の死後に魂は、生前に積み上げた「業(カルマ)」に応じて、各界に転生する。(大田俊寛『現代オカルトの根源』)


この階層は将棋や囲碁の初段と九段との力が違うというようなことではない。
それぞれの霊界は実在しており、霊性が上位の人は身体がこの世界にあっても、いろんなレベルの世界に行くことができるが、低位の人は自分が今いる世界しか知らない。

大川隆法の霊界観について、島薗進氏は毎日新聞に次のようなコメントを述べている。

大川主宰に会ったことがあり、内外の新しい宗教動向にくわしい東大宗教学研究室、島薗進助教授。霊的な神秘体験もさることながら、この宗教の教えが①現代的な霊界観にもとづく体系的宇宙観を持ち②新宗教の重要な要素だった『心なおし』の面もまた体系的に整理されている―の二点に着目し、こう言う。
『幸福の科学が相当大きな宇宙観、普遍倫理的な生き方を説いているのが魅力になっているように思える』。(米本和広『大川隆法の霊言』)

東京大学宗教学の先生がをほめているから、そうなのかと思って大川隆法『太陽の法』を読むと、ムー大陸とかの話に唖然として、他の本を読む気が失せた。

ニューエイジ系の新宗教では、信者の霊性がどの段階にあるかによって信者のランク付けをする。
オウム真理教では、どういう神秘体験をしたかによってレベルが判断されていた。

「体験したビジョンについても自己申請なのね。こういう色が見えました、こんな光でしたって」
「それも教祖に言うんじゃないもんね。僕なんか村井秀夫さんに言ったからね「赤いのが、まだ見えないんですが…。あっ、見えてきました。見えました!」。そうしたら、「おお、そうか、そうか」ってメモして「ハイ、キミ成就だよ」だって」
「自動車の免許みたいに、「こういう体験をしたから成就。解脱だ」ってヘンな意味づけを行った。そこに致命的な過ちがあると思います」(カナリアの会編『オウムをやめた私たち』)


レイチェル・ストーム『ニューエイジの歴史と現在』によると、霊界に段階があるという考えは神智学協会のブラヴァツキー夫人(1831~1891)が言い出したらしい。

人類の進化の過程は七つの根幹人類に区分され、それぞれの根幹人類は特定の意識のパラダイム、あるいは意識のレヴェルを表わしている。現在の私たちは第五根幹人類のアーリア人であり、この時代に人間の意識が霊的な性質を獲得するに至る。第七根幹人類に至ると、現在の人間には想像もできないような至福を体験する。


ここで言われる人類の進化とは通常の進化の概念とは違っており、人類の霊的成長という意味である。
個人の霊的成長と人類の進化とは関係があるとされる。

立花隆『臨死体験』にキルデ医師の発言が載っている。

人類はいま新しい進化の段階に入ったのです。(略)いずれ全人類が、新しい次元へ、新しい世界へ移行していくことになるでしょう。臨死体験者は、この新しい人類進化の先がけなのです。臨死体験において、人はこの三次元世界を超越して、時間にも空間にも縛られない高次元の世界に入っていきました。死というものが存在するのはこの三次元世界だけで、その次元を抜けると死はないのです。肉体が存在するのは三次元世界だけです。人はそこを抜けると、肉体の束縛を脱して本来のエネルギー体に戻り、時間に縛られた世界から時間がない永遠の世界に入っていきます。その世界は、全て愛に満ち、調和しています。そこでは全ての真理が一瞬にして把握できます。究極の真理は、全ては一つであるということです。全ての存在が本当は一つの存在なのです。この全宇宙が一つなのです。そういう全一的な宇宙意識をみんな獲得するようになるのが進化の新しい段階なのです。

そして、キルデ医師は「(宇宙人は)高次の意識世界の住人」と言う。
宇宙人が人類の霊的進化に関係しているという考えはニューエイジやスピリチュアルの教義の一つである。

ニューエイジやスピリチュアルでは個人、そして人類の霊的完成が究極の目的だから、人間中心の進化観である。
しかし、そもそも進化には一定の方向性はないし、個人の記憶、経験、獲得形質は遺伝しない。
根拠のない理論にもとづく世界観はニューエイジやスピリチュアルの特徴の一つである。

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