三日坊主日記

本を読んだり、映画を見たり、宗教を考えたり、死刑や厳罰化を危惧したり。

障害児殺しと青い芝の会(4)

2024年07月03日 | 日記
1948年に優生保護法が施行されました。
横塚晃一『母よ!殺すな』、横田弘『障害者殺しの思想』は優生保護法、そして改正に反対しています。

谷口彌三郎参議院議員、福田昌子衆議院議員『優生保護法解説』の序文に、優生保護法案の提出理由について次のように記されている。
従来唱えられた産児制限は、優秀者の家庭に於ては容易に理解実行せらるるも、子孫の教養等については、凡そ無関心なる劣悪者すなわち低脳者のそれにおいてはこれを用いることをしないから、その結果、前者の子孫が逓減するに反して、後者のそれはますます増加の一途を辿り、あたかも放置された田畑に於ける作物と雑草との関係の如くなり、国民全体としてみるときは、素質の低下すなわち民族の逆淘汰をきたすこと火を見るより明らかである。
また最近わが国では、精神病や精神薄弱者の増加が目立って著しく、それが各種の調査や統計の上に明らかに現れてきている。メンデルの法則や最近目覚ましい人類遺伝学の展開によって、かかる者の遺伝が如何に恐るべきものであるかは疑う余地もない今日、不良な遺伝分子を有する者の子孫の出生を防止するとともに、戦時中「国力の基礎は人口に数に比例する」との考えから、母性の健康までも犠牲にして出生増加に専念した態度を改めるべきで、すなわち新憲法の精神に測り、母性の健康を保護する目的で、或る程度人工妊娠中絶の合法的適用範囲を拡大し、以って政策的に人口の急激な増加を抑えると同時に民族の逆淘汰を防ぐことは、我が国の直面する重大な問題である。
file:///C:/Users/enkoj/Downloads/31-N2-49.pdf

優生保護法はナチスと同じ発想で作られた法律です。
ナチスは身体障害者、精神薄弱者を民族の強化という名において虐殺したが、そのきっかけは重症児を持つ一母親の政府機関に宛てた手紙であったという。
私の子供は足も立たず両手とも利かず、長年寝たきりの生活です。この子にとって生きていることがなんになるでしょう。死んだほうがよほど幸せです。この子のために私達の将来はまっくらです。

1933年にドイツで制定された「遺伝病子孫増殖防止法」について、ドイツ議会は立法理由として次のとおり述べている。
遺伝的に健康なる家族が大部分子供一人主義または子供を持たぬ主義に傾いて行っているのに反して、無数の低脳者及び遺伝性素質者は無制限に繁殖して行き、その病的にして非社会的な子孫が社会全体の重荷となりつつある(略)のみならず、毎年数百万の全額が精神薄弱者、保護児童、精神病患者及び非社会者のために消費されているのであって、しかもこの費用は健康な子供に恵まれた家庭によってあらゆる種類の租税の形で支払われつつあるのである。(『ナチスの法律』木村亀二「ナチスの刑法」1934年)
https://www.jspn.or.jp/uploads/uploads/files/activity/houkoku08.pdf

1972年、優生保護法一部改正の動きがあった。
改正案は現行優生保護法のうち、妊娠中絶を認める条項の中から「経済的理由」を削除して、それと入れ換える形で新たに14条4項を設けることを骨子としている。
四 その胎児が重度の精神又は身体の障害の原因となる疾病又は欠陥を有しているおそれが著しいと認められるもの。

提案理由は「優生上の見地から不良な子孫の出生を防止すると共に母性の生命・健康を保護するという目的のもとに優生手術・人工妊娠中絶・優生保護相談などに関し必要な事項を定めているものでございますが」から始まる。
近年における診断技術の向上等によりまして、胎児が心身に重度の障害をもって出生してくることを、あらかじめ出生前に診断することが可能になってまいりました。
胎児が障害児だとわかったとたん、合法的に抹殺できる改正案は障害者抹殺の思想をむき出しにしている。

横田弘さんはこのように書いています。
生産第一主義の社会においては、生産力に乏しい障害者は社会の厄介者・あってはならない存在として扱われてきたのですが、この法律は文字どおり優性(生産力のある)は保護し劣性(不良)な者は抹殺するということです。つまり生産性のないものは「悪」ときめつけるのです。

1973年、優生保護法改正案に対し、青い芝の会代表は厚生大臣にあてた抗議文を作り、厚生省に提出した。
その2日後、青い芝の会会員約50名が署名を持って国会に本法案反対の請願をした。

その直後、代表8名は厚生省で精神衛生課長以下数名の当局者に詰問した。
当局の答えはわざと的を外したような支離滅裂であったが、再三にわたる詰問に「最近サリドマイド児をはじめとする胎児性障害児が激増の傾向にある。両親に遺伝的素質がなくても障害児が発生する場合があり、それを防ぐために今度の改正案を作った」と答え、精神衛生課長は重ねて「私は医者で、つくづく思うのですが、障害者が一人もいなくなれば、この世の中がどんなに幸せになるでしょう」と言い放った。

斉藤邦吉厚生大臣は「優生保護法改定案」を国会に提出した時の説明でこのように言い切っている。
人工中絶をどうしてもやった方がいいという面もございます。たとえば妊娠中にいろいろな医学的な面から奇形児が生まれるであろう。重症の心身障害児が生まれるおそれがあるという場合には、これは、生命の尊重とはいいながら、そういう方々は一生不幸になられるわけでありますから、こういう場合には、新しく人工中絶を認める必要があるのではないか。

1974年、青い芝全国常任委員会副会長小山正義と斉藤邦吉厚生大臣とのやりとり。
斉藤厚生大臣「君たち障害者として大変な想いをして生きているのにもかかわらず君らと同じような境遇を背負った子孫を残したいのか」
小山正義「大学をでたから、大臣になったから優秀な子孫と云えるのか」
斉藤厚生大臣「そうではないが、そんなに腹をたてることではない。誰でも願うのは体が健康なことではないか。それならあなた方一人一人が国会議員に云いなさい。
優生保護法改正案は結局廃案になった。

1977年、厚生省の外郭団体として日本家族計画遺伝相談センターが設置された。
任意相談から、親族調査を行い、異状と認められた胎児を堕胎する制度である。
遺伝病の因子を持つ親が子供をつくるべきかどうか迷って相談に来ると、遺伝子カウンセラーが適切なアドバイスをするため、関係者の家系図を書いてくることが条件の一つ。
危険率が40%あって、病気も重いようなときは避妊、妊娠中絶を助言するかもしれない。
現在、出生前診断の結果で中絶する人が増えており、優生保護法改正案のようになっているわけです。

滝田洋二郎『病院に行こう』(1990年)に、足を骨折して入院した患者2人が車イスで飲みに行く場面があります。
タクシーを呼ぶわけですが、後ろの席に座っている人が「乗れるわけない」と笑ってました。
私もそう思ってたら、車椅子の人が乗れるタクシーが来たのです。
介護タクシーの存在を知りませんでした。
私は社会が障害者に考慮していないことに疑問を持っていなかったわけです。
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障害児殺しと青い芝の会(3)

2024年06月27日 | 日記
親が障害のある子供を殺す事件が起きるたびに減刑嘆願運動が行われ、事件の大きな要因として施設不足、福祉政策の貧困、国家の責任などがあげられていました。

横塚晃一『母よ!殺すな』に、1970年の横浜の障害児殺人での嘆願書が引用されています。
現在重症児(者)を受け入れる施設があまりにも不足している。毎日、施設を訪れ嘆願すれど受け入れがたく、様々な状況から発作的にやむをえずヒモで殺した。大人になっても不憫と思ってのこと。

青い芝の会が県民生部社会課、県議会の心身障害者政策懇談会、各党の県会議員と横浜市議、担当の金沢警察署などに対し、意向を話し、意見書を手渡して歩いた。
しかし、「あなた方の気持ちもわかるが、もっと多くの施設があればあのような事件は起こらないのではないか」「裁かれねばならないのは国家である」といった反発が返ってきた。
施設があれば事件は起きなかったということです。

1965年、総理大臣の諮問機関として設置された社会開発懇談会が「社会開発に関する中間報告」において、障害者への対策としてリハビリテーションとコロニーが言及された。
①心身障害者は近時その数を増加しており、障害者は多く貧困に属しているので、リハビリテーションを早期におこなって社会復帰を促進せよ。
②社会で暮らすことのむずかしい精薄については、コロニーに隔離せよ。

横田弘『障害者殺しの思想』は、障害者を施設に入れればいいという考えを批判しています。
多くの健全者が障害者の気持ちが分かるとか、障害児が殺されるのはやむを得ない、とか、施設をつくれとか、施設に入れてしまえば、とか考えるのはどうしたことだろう。
やはり、障害者(児)は悪なのだろうか。
「本来、あってはならない存在」なのだろうか。
本当に健全者は、障害者が憎いのだろうか。
障害者は殺してしまえ、という論理なのだろうか。

1972年に経済審議会は新経済五ヵ年計画の中で「重度心身障害者全員の施設収容」を謳った。
横塚晃一さんはこの計画を問題にしています。
「植物人間は、人格のある人間だとは思ってません」という太田典礼の言葉こそ、「経済審議会が2月8日に答申した新経済五ヵ年計画のなかでうたっている重度心身障害者の隔離収容、そして胎児チェックを一つの柱とする優生保護法改正案を始めとするすべての障害者問題に対する基本的な姿勢であり、偽りのない感情である。

では、障害者施設はどんなところなのでしょうか。
1968年、府中療育センターが開設した。
一部屋に50人ずつ収容される。
入口は常に鍵がかけられ、職員の出入にもいちいち鍵をかけはずしする。
入口の内側に職員の詰所があり、そこから部屋が一望できるようになっている。
外来者は入口までしか行くことができない。
中にいる障害者はおそろいのパジャマ一枚で、私物はほとんど持たされない。
外泊、外出は親が二週間前に申し入れを行い、許可を得なければならず、保護者以外では許可されない。
まるで刑務所のようです。

入所者の訴えにより、青い芝の会が府中療育センターに運営方針を改めるよう再三交渉した。
しかし、いつも「私達は大事な子弟を預かっている責任上、当然のことをやっているまでだ。管理運営上これが好都合なのだ」と突っ放された。
http://www.arsvi.com/d/i051970.htm

横田弘さんは、親が障害児(者)を施設に預ける場合、最寄りの施設に入れるのではなく、なるべく遠いところへ入れようとする傾向が著しいと言っています。
施設に入れて後は知らん顔というのでは、重度者はますます疎外され、地域社会から隔離されてしまう。

横田弘さんが街を歩いていると、「どこの施設から来たのか」と言われ、ひどいのになると「どこの施設から逃げてきたのか」と言われたことがあるそうです。
親兄弟や地域社会から隔絶された施設が、障害者にとって、一般社会にとってどういう意味を持つだろうか。

私自身、正直なところ障害者は施設で生活すればいいと思っていました。
筋ジストロフィーの人が自立生活をしていると聞いて、食事から何から誰かに介助してもらわないといけないのに、それがどうして自立生活なのかと思いました。
障害者の不妊手術にしても、障害のある子供が産まれたらどうするのか、子供を育てられるのかといった、優生主義、差別偏見の気持ちもあります。

障害者の自立とはどういうことでしょうか。
大橋由香子さん。
障がいのある人がヘルパーさんに車椅子を押してもらってスーパーに行き、自分の意思で買い物をするような生活を障がい者解放運動では「自立生活」というのだと知り、人の助けを借りることと自立とは矛盾しないのかも、と発見しました。

小児科医で脳性マヒの熊谷晋一郎さん。
一般的に「自立」の反対語は「依存」だと勘違いされていますが、人間は物であったり人であったり、さまざまなものに依存しないと生きていけないんですよ。だから、自立を目指すなら、むしろ依存先を増やさないといけない。

施設よりも、親が相談できる機関、悩みを打ち明ける場所、在宅で世話ができるシステムが必要です。
ところが、今も状態は変わっていません。
障害者施設での職員による暴行、虐待が今も後を絶えません。
横田弘さんの「殺人を正当化する考えから作られた施設とは殺人の代替ではないか」という言葉はもっともだと思います。
障害者に限らず、困った時に肩身の狭い思いをせずに相談でき、助けを頼むことができる社会であるべきです。
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障害児殺しと青い芝の会(2)

2024年06月23日 | 日記
横塚晃一『母よ!殺すな』によると、1970年、母親が横浜で障害のある子供を殺した事件では、障害者本人、家族、福祉関係者からも母親への同情の声があったそうです。

脳性マヒ当事者の会である青い芝の会で、「殺した親の気持ちがよくわかり、母親がかわいそうだ」「施設がないから仕方ない」「あの子は重度だったらしいから生きているよりも死んだほうがよかった」などの意見が出された。
「殺した親に同情しなくてもよいのか。あなた達の言うことは母親を罪に突き落とそうとするものだ」という言葉も障害者の一人から出た。

新聞に掲載されたある女性の投稿。
私の妹は障害がもっとも重く施設にいる。私が週一、二回面会に行き、妹が年に一、二回帰宅するのを何よりの楽しみにしている。もし私が先に死んだら面倒をみる者がいなくなる。私は死ぬにも死ねない。自分は罪に問われてもいい。妹が一分でも先に死んでくれるのを望む。

ある福祉関係者は「数年前西ドイツでおきたサリドマイド児殺しにつき某女子大生にアンケートを求めたところ、ほとんどが殺しても仕方がない、罪ではないというように答えた」と語っていた。
「犬や猫を殺しても罪にならない。だから今度の場合も果たして罪と言えるのかどうか」と言った人もいる。

青い芝の会会員が意見書を神奈川県庁へ持って行き、県会議員などに手渡して意見を述べたが、「あなた方に母親の苦しみがわかるか」「母親をこれ以上ムチ打つべきではない」「施設が足りないのは事実ではないか」などと非難された。

青い芝の会の主張が報道されると、反発も大きかった。
新聞社への投書に「可哀そうなお母さんを罰すべきではない。君達がやっていることはお母さんを罪に突き落とすことだ。母親に同情しなくてもよいのか」などの意見があった。

横塚晃一さんによると、「今回私が会った人の中で、殺された重症児をかわいそうだと言った人は一人もいなかった」とのことです。

思うのが、親が障害児を殺すのはやむを得ないのか、そして施設があれば問題は解決するのかということです。

横浜の事件は特殊な事例ではありません。
1967年、歯科医が重症の息子を殺した事件があった。
施設がないための悲劇といったマスコミキャンペーンとともに、身障児を持つ親の会や全国重症心身障害児を守る会を中心として減刑嘆願運動が展開され、裁判の結果は無罪だった。
重症児をもつ母親が無罪の判決を「ほんとうによかった。他人ごとではない」と言っている。

1972年、76歳の父親が37歳の脳性マヒの息子を殺した。
妻が胃病で入院し、父親が一人で息子の世話をしていた。
あまりに可哀想な老父さんです。警察署の方々にお願い致します。どうかこの老い先みじかい老人のお父さんを無罪にしてあげて下さい。私も老い先みじかい老女です。悪意でやったことではありませんから、どうか、そのへんを寛大にお許ししてあげて下さい。お願い致します。亡くなられた息子さんも父親に涙を流して感謝しておられるでしょう。お願い致します。 一老女。

親への同情論は殺した親の側に立つものであり、障害者の存在は抜け落ちている。
それらは全て殺した者(健全者)の論理であり、障害者を殺しても当然ということがまかり通るならば我々もいつ殺されるかもしれない。我々は殺される側であることを認識しなければならない。

横田弘『障害者殺しの思想』に、障害者とゴジラなど怪獣は共通すると述べられています。
あの映画の中に出てくる怪獣たちの姿、動作から来るイメージは、障害者、特に私たち脳性マヒ者に非常に似通っている。そして、その障害者に似通っている怪獣たちが行うことと言えば、平和な、人びとがおだやかな暮らしを楽しんでいる街を、ある日、突然、何処からともなく沸きだして破壊しつくして人びとの生命まで危うくさせるというパターンが常である。
しかも、そうした人びとの生活全体を危機に追い込んで行った怪獣たちは、必ず最後には、人びとの強い味方であり、正義の使者である○○マンによって亡ぼされ、この地上から消滅させられてしまうのだ。
怪獣が障害者の隠喩なら、桃太郎が退治した鬼は社会に迷惑をかける存在だということになります。

一般社会人が、重症児を自分とは別の生物とみるか、自分の仲間である人間とみるか(その中に自分をみつけるのか)の分かれ目である。

殺された重症児を自分とは別世界の者と考えている。
というのも、子供が殺された場合、その子供に同情が集まるのが常である。
それは殺された子供の中に自分を見る、つまり自分が殺されたら大変だからである。

これを障害者(児)に対する差別と簡単には片付けられない。
これが障害者に対する偏見と差別意識だということはピンとこないのは、この差別意識が現代社会において余りにも常識化しているからである。

親が障害児を殺す事件でのマスコミのとりあげ方の基本は、障害児を抱えた家庭が不幸であり、親だけが同情されるべき存在として表現される。
1978年、横浜市で脳性マヒの長男(12歳)の前途を悲観した母親が息子の首を絞めて殺し、2日後に飛び降り自殺した。

この事件を報道した新聞には、生まれつき体が不自由な重度障害児だとある。
生まれたときから右手足が不自由で、言葉がほとんど話せず、精神年齢は幼児と同程度だったという。用便の世話から食事まで生活ではすべて母親のかよの助けが必要だった。食事どき、肉類などは、かよがかみ砕いて口移しに食べさせていた。

しかし、神奈川新聞によると全く異なる。
自分で歩くことも、しゃべることもでき、音楽好きな明るい子供で、小学部の最年長で下級生の面倒もよくみていた。
下校時には「サヨナラ」と先生方と握手するなど、学校の人気者であった。

横田弘さんは批判します。
被害者である勤君が脳性マヒという身体的障害を持っていたこと、そしてそれが、現在の社会体制の中では「悪」であり「不幸」であり、その「不幸」は死ぬこと(殺されること)によってのみ救われるという位置づけをもった存在であったこと、そうした「悪」であり「不幸」な存在である脳性マヒ児を産み出した存在として、日常的に社会から疎外の対象とされたかぞという、言わば現在の社会そのものから必然的に生じた事件なのである。

横田弘さんの言葉は父親も聞きとれず、住んでいる県営住宅の人たちは「私の言葉が聞きとれるとは思われない」。
脳性マヒ者は程度の差があっても、言語障害を伴うのがほとんどなのである。そして、その言語障害の結果、精神機能に何らかの障害があると思われがちなのだ。
『障害者殺しの思想』は横田弘さんの話を筆記したものです。

横田弘さんは言い切ります。
はっきり言おう。
障害者児は生きてはいけないのである。
障害者児は殺さなければならないのである。
そして、その加害者は自殺しなければならないのである。

原一男『さようならCP』に横田弘さんが出演しています
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障害児殺しと青い芝の会(1)

2024年06月14日 | 日記
成田悠輔さんの発言が国会でも問題になりました。
どうしたら今のこの高齢化とさまざまな人生のリスクを軽減できるだろうかということを考えて、たどり着いた結論は集団自決みたいなことをするのがいいんじゃないか、特に集団切腹みたいなものをするのがいいんじゃないかということです。(略)ここで僕たちが議論すべき大義はいわば高齢化して永遠と生き続けてしまうこの世の中をどう変えて社会保障などという問題について議論しなくてもいいような世界を作り出すかということだと思います。そのためにはかつて三島由紀夫がしたとおり、ある年齢で自らの命を絶ち、高齢化し老害化することを事前に予防するというのはいい筋ではないかと。
横に座っている古川俊治さん(自民党国会議員)は成田悠輔さんの発言に笑っています。

(10分5秒のところから)
同じ趣旨の発言は他のところでもしています。

三島由紀夫は45歳で死んでいます。
1985年生まれの成田悠輔さんは10年以内に死ぬつもりなのでしょう。

成田悠輔さんは障害者について語っていませんが、主張していることは太田典礼や植松聖死刑囚と同じ社会的弱者の抹殺です。

日本安楽死協会を設立した太田典礼は、戦前から産児調節運動を行い、衆議院議員として旧優生保護法の施行(1948年)に寄与しました。
植物人間は、人格のある人間だとは思ってません。無用の者は社会から消えるべきなんだ。社会の幸福、文明の進歩のために努力している人と、発展に貢献できる能力を持った人だけが優先性を持っているのであって、重症障害者やコウコツの老人から〈われわれを大事にしろ〉などと言われては、たまったものではない。(『週刊朝日』1972年10月27日号)
太田典礼は85歳で死亡しますが、安楽死ではありません。

もっとも、太田典礼や植松聖死刑囚のような考えは私の中にもあります。
石井裕也『月』は津久井やまゆり園事件をモデルにした映画です。
主人公は小説が書けなくなり、障害者の施設で働きます。
息子は先天性の心臓病で、胃瘻をし、寝たきりのまま3歳で死亡しました。
40過ぎで妊娠した主人公は障害を持った子供が生まれるのでは、と悩みます。

犯罪白書によると、殺人事件のうち家族間によるものは2019年で54・3%と、半数以上を占め、30年前から15ポイントも増えています。

家族が加害者という殺人事件には、介護疲れによる殺人、親子心中が含まれます。
介護を理由とした家族間での殺人は厚生労働省の統計によると年間20~30件起きています。
親子心中事件は毎年少なくとも30件以上起こり、40人以上の児童が親子心中によって死亡しています。
そのうち母子心中が65.1%を占めています。
多くは母親がウツ病だったり、子供に障害があって苦にしたりといったことがあります。

障害者や認知症の人たちが殺されるのはやむを得ないと思う人(裁判官や検察官も)が多いから、被告は情状酌量され、刑期が短かくなったり執行猶予がついたりすることがあります。

1970年、横浜で2人の障害児を持つ母親が下の女の子(当時2歳)をエプロンの紐でしめ殺した事件がありました。
横塚晃一『母よ!殺すな』、横田弘『障害者殺しの思想』に、この事件について詳しく書かれています。

事件が発生するや、マスコミは「またもや起きた悲劇、福祉政策の貧困が生んだ悲劇、施設さえあれば救える」などと書き立てた。
地元町内会や障害児をもつ親の団体が減刑嘆願運動を始めた。

神奈川県心身障害者父母の会が横浜市長に提出した抗議文。
施設もなく、家庭に対する療育指導もない。生存権を社会から否定されている障害児を殺すのは、やむを得ざるなり行きである、といえます。日夜泣きさけぶことしかできない子と親を放置してきた福祉行政の絶対的貧困に私たちは強く抗議するとともに、重症児対策のすみやかな確立を求めるものであります。

母親に同情が集まって減刑嘆願書が出される動きに、脳性マヒ当事者の会である青い芝の会は抗議しました。
横塚晃一さんと横田弘さんも青い芝の会の会員です。

横田弘さんはこう言います。
障害者は「殺されたほうが幸せ」という論理が、やがて、障害者は「本来あってはならない存在」という論理に変わり、そして、社会全体が障害者とその家庭を抹殺していく方向に向かって行く。

起訴までに1年1か月の時間を費やし、横浜地裁で公判が開かれるや、1か月で結審した。
起訴まで日時を費やした理由が「全国の施設の状況を調べ」ることにあった。
弁護側が情状酌量を主張するために行うのではなく、検察が起訴するか否かということで調査したという。

横浜地裁の判決は懲役2年執行猶予3年だった。
刑法に「人を殺したる者は死刑又は無期若しくは3年以上の懲役に処す」とあるのに、この裁判では検察の求刑は懲役2年だった。

横塚晃一さんはこう批判しています。
おざなりな裁判であった。検察側の被告を追及する態度がまるでなく、我々の提出した意見書、障害者としての体験文などを参考資料として裁判の席上にのせることを弁護側が拒否したのに対し、抵抗することなく従い、求刑に当たっては、殺人の場合、刑法上最低懲役3年なのに、懲役2年を求刑したことからも明らかである。
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でも今日でなくてもいい

2024年06月08日 | 日記
大内啓『医療現場は地獄の戦場だった!』に、エリザベス・ボービア裁判について書かれていました。

エリザベス・ボービアは先天性の重度の脳性四肢麻痺のため、顔や右手の数本の指を動かせるだけだった。
しかし、意思能力があり、会話や食事もできた。
右手で電動式の車いすを操作し、たばこを吸った。
結婚、妊娠するが流産する。
生計が苦しくなって父親に援助を求めたが、断られて離婚。
https://spitzibara.hatenablog.com/entry/66483624

エリザベス・ボービアは食事に吐き気を覚えるようになり、餓死するまでの疼痛緩和と必要な処置を病院に要望した。
しかし、栄養補給のための鼻腔チューブを挿入された。

28歳の時、餓死するためにチューブの撤去を求めて提訴した。
カリフォルニア州ロサンゼルス地区上位裁判所は棄却だったが、1986年、カリフォルニア州立控訴審裁判所は「意思能力があれば、ボービアは残りの人生を尊厳とともに平穏に生きる権利をもっている」と述べ、病院に経管栄養チューブを抜くように命じた。
その後、エリザベス・ボービアは治療を引き続き受け、経管栄養を続行すると決心した。

彼女は、経管栄養の中止と死ぬことをのぞんでいたわけではなく、自分の意思が尊重されることを望んでいた。もっと言えば、強制的に生かされることではなく、自分の意思で生きるという選択をすることを望んでいたということだろう。いや、裁判中に、気持ちが変わったのかもしれない。
エリザベス・ボービアは2008年の時点で生存が確認されているそうです。

ボストンの病院の救急医である大内啓さんは気管内挿管について書いています。
気管内挿管をして人工呼吸器につなぐ際、一回の挿管で成功する率は全米で97%。
しかも、65歳以上の高齢者の3分の1は、挿管後10日以内に死亡する。
2020年のコロナ死者のピーク時、ニューヨークでは挿管後の死亡率が8割以上だった。

抜管でき、退院できても、元のQOL(生活の質)には、よほどの例外を除いて戻れない。
杖を用いて歩いていた人は、車椅子が必要になる。
自分の力で車椅子を利用していた人は、押してもらわなければならなくなる。
ベッドの上で起き上がれた人が、起き上がれなくなる。
自発呼吸できた人が、呼吸器が必要になる。

私の経験では、弱りゆく人に、「呼吸器に繋がれないと息ができず、寝たきりの状態が、今後一生続くのであれば、あなたは死んだほうがマシだと思いますか」
と質問すると、50パーセント強の人が「死んだほうがマシです」と答え、50パーセント弱の人が「いいえ、生きているほうがいいです」と答える。

車にひかれて、いきなり寝たきりになったり、指ひとつ動かせず、しゃべることもできなくなったりしたら、「死んだほうがマシだ」と思うに違いない。
しかし、難病であるとか、がんであるとか、10年ほどかかって徐々にそういう状態になっていくなら、例外を除くと「死んだほうがマシだ」とは思わない。
なぜなら、不自由、苦しいと思う状態に少しずつ慣れていくからだ。
本人だけでなく、家族ら周りの人も少しずつ慣れていく。

その時は死にたいと思っても、時間とともに思いはだんだん変わるようです。
佐野洋子『今日でなくていい』にこんな話があります。
97歳の友達の母親が、「洋子さん、私もう充分に生きたわ。いつお迎えが来てもいい。でも今日でなくてもいい」と云ったっけ。
いつ死ぬかわからぬが、今は生きている。生きているうちは、生きていくより外ない。生きるって何だ。そうだ、明日アライさんちに行って、でっかい蕗の根を分けてもらいに行くことだ。それで来年でっかい蕗が芽を出すか出さないか心配することだ。そして、ちょっとでかい蕗のトウが出て来たらよろこぶことだ。いつ死んでもいい。でも今日でなくてもいいと思って生きるのかなあ。この日本で。
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エリザベス・ボービアもいつ死んでもいいけど、今日でなくていいと思っているのではないでしょうか。
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「死刑囚表現展」のアンケートと平野啓一郎『死刑について』(8)

2024年03月06日 | 日記
⑧ 被害者感情と死刑

「死刑囚表現展」のアンケートに「被害者の方のことを考えると廃止とは言い切れません」と書いている人がいます。
死刑制度に反対できない一番の理由は被害者感情だと思います。

自分の家族が殺されても死刑反対と言えるのかと問う人は多いです。
宮下洋一さんがインタビューした川上賢正弁護士はこう言っています。
死刑はよくないとおっしゃるお坊さんには、私は、「もしあなたのご家族が殺害されたとしても、死刑はよくないと言い切れますか」と意地悪な質問をします。すると、大抵のお坊さんは黙ってしまうのです。(『死刑のある国で生きる』)
;
家族が殺されても死刑反対と言えるのかと問われたことがあり、もし自分や家族が加害者になったらと想像してほしいと、私は答えました。
人間は縁によっては何をするかわからないからです。

平野啓一郎さんも同じことを聞かれるそうです。
死刑廃止の立場に立って話をすると、「自分の家族を殺されても犯人をゆるすことができるのか」とよく聞かれます。僕はこれに対しては自信がありません。犯人をゆるすことができないかもしれません。(『死刑について』)
しかし、死刑を求めないということと、犯人をゆるしということは切り離して考えるべき。
犯人をゆるせないなら死刑を求めて当然だということにはならない。

「調和を目指す殺人被害者遺族の会」(事件に巻き込まれて家族を失いながらも、死刑に反対する家族の会)の中心メンバーとして活躍されているバッド・ウェルチさんはこのように語っています。(「死刑を止めよう」宗教者ネットワーク第10回死刑廃止セミナー講義録)

1995年、ティモシー・マクベイがオクラホマシティにある連邦ビルを爆破し、168人が亡くなった。
バド・ウェルチさんはこの事件で娘のジュリーさんを失った。
娘を失った後、酒を飲み過ぎて二日酔い、頭痛という生活が30日間続いた。
私はジュリーが殺されるまで、ずっと死刑反対の信念を持っていました。でも、娘が殺されてから1年間、私は死刑賛成になりました。1年かかってやっと、「このままじゃいけない」という気持ちになったのです。どうしてそう思ったのかというと、処刑の日、二人の犯人を自分の手で処刑台に送ることを想像してみたら、それは自分にとって決して癒しのプロセスにはならない、ということに気がついたのです。犯人を葬りたいという気持ちは、私にとって復讐以外の何ものでもない。この復讐という気持ちこそ、犯人が犯行に及んだ原因だったのです。

事件の6ヵ月後のアンケートでは、被害者家族の85%が死刑に賛成だった。
事件から6年2ヵ月後にマクベイの処刑が行われた時点で、2000人以上の犠牲者家族の50%は死刑反対になった。
ですから、被害者家族として一番大切なのは時間なんです。ある人は2年かかった。他の人は、3年、4年、5年かけて死刑反対になった。6ヵ月の時点ですでに死刑反対だった人も15%いたんです。

当初は死刑を望みながら、次第に悩む人もいます。
小学1年の娘さんを殺された木下建一さんも同じことを言われています。
加害者は無期懲役が確定し、
極刑を主張し続けた建一さんは「あいりのことを思うと、『許せない』という気持ちは強い。しかし、人の命を奪う主張をすることは非常に苦しかった」と、複雑な胸中を明かした。

あいりちゃんの「敵討ち」だと信じていたが、その言葉を口にするたびに重圧を感じていた。
「極刑を主張することは殺すことと同じ。それではヤギ受刑者と同じことになるのではないか」との思いがぬぐえなかった。

差し戻し控訴審の判決後、「あいりに申し訳ない。死刑判決が必ず出されるものと思っていた」と語っている。
それから3カ月余り。「人の命を左右するようなことにかかわらなくなり、非常にほっとしている」との思いが正直な気持ちという」(毎日新聞2010年11月16日)
https://blog.goo.ne.jp/a1214/e/42fad59584941d42c1fcb1209651ff7f

2011年、仮釈放中の男が2件の強盗殺人事件を起こした。
被害男性の姪は裁判で「被告に極刑を望みます」と断言したが、本音は違った。
宮下洋一さんのインタビューです。
姪「心の中では、(加害者が)死ぬからといって何が変わるの、という気持ちでした。でも、その時にはそれしか選べないじゃないですか。償って出てきなさい、なんて言えないじゃないですか」
宮下「望むのは終身刑ですか」
姪「そうですね。でも、今までに悪事を働いて出所してきた人って、実際はどうなんでしょうね。そりゃあ、ちゃんと善人になって帰ってきてほしいですけど。また同じことをするなら、終身刑で全うしてほしいという思いがあります」

加害者を「奴」と呼ぶ。
姪「今日、死ぬのだろうか、毎日、奴が考えていると思うと辛いですよ。たとえ叔父が殺されたとしてもです。どんな殺され方であったとしても、私が極刑と言ったことによって奴が殺されたとしても、私は嬉しくないよね。(略)
極刑と言ったけど、私はそれを望みませんわ。人が人を殺せるなんて、いくら悪いことをした人に対してもできないじゃないですか」

遺族の気持ちは揺らぐものですし、時間の経過とともに変化が生じるようです。
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「死刑囚表現展」のアンケートと平野啓一郎『死刑について』(6)

2024年02月25日 | 日記
⑥加害者の反省

死刑は加害者に反省を促し、命の尊さを教えると主張する人がいます。
宮下洋一さんも死刑によって反省するという考えです。
私は、人の命の大切さに重きを置くならば、重大犯罪に手を染めた者たちが、「より良く生きる」ためにも、極刑に向き合うべきだと改めて考えるようになった。死刑囚は、そうすることで、生の尊さを知ると思うのだ。(『死刑のある国で生きる』)
せっかく「生の尊さ」を知っても、死刑が執行されたら「より良く生きる」ことは不可能になります。
生の尊さを知っても、結局は執行するなら、反省を求めるのはおかしいと思います。

平野啓一郎さんは『死刑について』で、死刑が反省を促すという考えに反対します。
死刑について、死という恐怖に直面させることによって、加害者に深い反省や改悛をさせるという考え方に、僕は懐疑的です。暴力が引き起こす恐怖を以て反省を強要するという方法は、人間の更生のあり方として正しいとは思えません。
人を殺した人間に対して、死と直面させ、同じ恐怖を味わわせるべきだという意見もありますが、それも賛同できません。

「死刑囚表現展」のアンケートに「どの絵や表現にもあまり反省している様子は伺われず、自己主張のかたまりのような気がしました」という声があります。
では、どんな絵を描いたら反省していると認めるのでしょうか。

高橋正人弁護士は宮下洋一さんのインタビューの中で、「反省するような人間だったら、人なんか殺しはしませんから」と語っています。
弁護人の任務とは、依頼者である被告人に誠実に尽くすこと、すなわち、誠実義務にほかならない。(佐藤啓史「展開講座 刑事弁護の技術と倫理」)
弁護人は被告の話を十分に聞いて弁護を行わないといけないのに、殺人犯は反省などしないと決めつけていたら、ちゃんとした弁護ができるのでしょうか。
高橋正人さんが刑事事件の弁護を依頼されたら、どう弁護するのかと思います。

岡本茂樹『反省させると犯罪者になります』にあるように、無理強いさせられた反省では更生には逆効果です。
娘さんを殺された中谷加代子さんは加害者の反省についてこう語っています。
裁判にあたり、被告が反省しているかどうかを情状酌量の材料にしているのは、正しい判断の妨げになるのではないか。また、被告の更生にも逆効果になるのではないか、と考えています。(入江杏「刑事司法と被害者遺族」)

反省が形だけになっていると中谷加代子さんは指摘します。
事件・事故を起こした直後、加害者は、被害者のことではなく、「自分はこれからどうなるのだろう。」と考えるのではないでしょうか。少しでも刑を軽くしたいと考えるのは自然なことです。被害者に対する想いが醸成されていない段階で、性急に反省を求めても、その反省は書かされた反省文のようなもので、中身のないものになるように思います。

谷川弥一元議員が辞任した時の記者会見を見ますと、41分すぎぐらいから不機嫌そうに「私が悪いんです」を連発し、さらには「死ぬしかない」などと言っているのを見ると、本当に反省しているのかと感じます。

検事が死刑を求刑し、裁判官が死刑判決を下す際、「矯正は不可能」「更生の可能性は著しく低い」などと言います。
しかし、正田昭さんや島秋人さんの死刑囚の文章を読むと、反省してないとか更生の可能性がないとか言えません。

島秋人さんは歌人として知られており、『遺愛集』が出版されています。
「微笑みの おのずと生(あ)るる 愛しさを 幸の極みと 生きて悟(し)り得る」
「許さるる 事なく死ぬ身の ことのひとつを しきりと成して 逝きたし」
「良き人の 憶ひかさなる 年賀状 人に恵まれ 去年(こぞ)より多き」

支援者の前坂和子さん宛の手紙。
耳にしもやけが出来ました。かゆいし、あついです。冷たい指をあたためるのに一寸べんりだなあ。(略)
現在の生活は苦しい事の多い中に人に知られない喜びもあることを知ったことをとてもうれしく思うのです。太陽の光が細くさし込む金網の窓に顔をよせて、めをつむると、こんな幸せは僕以外に知らないだろうなあーと思うのです。両の手のひらに日ざしを受けて掌の汗が小さく光っている時、いのちって尊いなあー、見れる事はうれしいなあー、あたたかいなあーとつぶやきたくなるのです。光は掌の玩具です。しもやけになりかけの耳や足指、この指のかゆみも気持の好いものとなる夜の布団の中です。(略)
にくむべき罪人であっても極悪ではない。極善と言う人が居りますか? おそらく人間としてないだろうと思います。

絶対的悪人はいません。
人は誰でも生き直すことができます。
自分が大事にされている、他人に認められているという感情を持つことで、人に対する思いやりや罪の意識を持つことができるようになるそうです。
しかし、一人では難しいです。

坂上香『プリズン・サークル』は島根あさひ社会復帰促進センターで行われている回復共同体のプログラムを受ける受刑者を追ったドキュメンタリーです。
自分の過去を振り返り、プログラムを受ける仲間たちに貧困や虐待などの被害体験を語る中で、自分自身と向き合うことによって更生の気持ちが生まれてくるのです。
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顕正会の功徳(3)

2023年12月16日 | 日記
前にも書きましたが、日蓮は臨終の時の顔色で成仏するか地獄に堕ちるかがわかると説いています。
https://blog.goo.ne.jp/a1214/s/%E5%A4%A7%E6%99%BA%E5%BA%A6%E8%AB%96

「顕正新聞」の「阿部日顕の臨終」特集号(令和5年6月5日)に、浅井昭𫟘さんが臨終の相について話しています。
神国王御書には中国真言宗・元祖の善無畏三蔵の臨終の悪相について
「死する時は黒皮隠々として骨甚だ露わると申して、無間地獄の前相其の死骨に顕わし給いぬ。人死して後 色の黒きは地獄に堕つとは、一代聖教に定むる所なり」
とお示し下されている。
https://kenshoshimbun.com/issue/230605_depraved.html

善無畏は『大日経』どの密教経典を翻訳していますが、日蓮は『報恩抄』で善無畏を地獄に堕ちたなどとけなしています。

「顕正新聞」には臨終の相の体験談が語られています。
「顕正新聞」令和5年2月5日号
吉岡法弘さん
認知症で特別養護老人ホームに入所していた父親の死。
当初、施設スタッフは医師による検視を優先するため、二時間の唱題を認めてくれませんでしたが、検視を担当する医師の都合で、都合三時間以上、しっかりと耳元で唱題回向することが叶いました。
家に到着し、かけつけた南雲第十男子部長とともにお題目を唱えると、父の遺体はますます色白く変わり、口も半口半眼になり、髪の毛や眉毛は艶やかな黒色になり、また遺体は驚くほど軽く、何より納棺師が「死後硬直がないですね」と驚くほど柔らかくなっておりました。

角田義典さん
高校生の時に入信した妻が令和元年に卵巣癌と診断され、本年2月に50歳で死亡。
生前、色黒だった肌は白く、口も半口になり、大聖人様が妻の臨終をお守り下さったのだと感泣いたしました。

「顕正新聞」令和5年6月5日号
長島毅さん
父親が臨終を迎えた。
さっそく唱題回向していくと、驚いたことに生前にアトピー性皮膚炎で爛れていた手がウソのように瑞々しく、白さが増していきました。
さらに抗がん剤投与の影響で少しくすんでいた顔も、まるでクリームを塗ったように艶々とし、皺が全くなくなったことに
「御臨終のきざみ、生死の中間に、日蓮かならずむかいにまいり候べし」
との仰せが思い起こされ、「大聖人様が父をお迎えに来て下さったのだ」と確信いたしました。

顕正会に入信していなくても、みんなで唱題をすると大丈夫です。
「顕正新聞」令和5年2月5日号
佐藤佳子さん
祖母の勧めで邪教・天理教を熱心に信仰していた母親は、数年前に認知症を発症し、入信せずに93歳で死亡した。
葬儀までの三日間、女子部区長の娘と共に唱題を重ねると、母は顔や手、赤らんでいた足までも白くなり、なんとも言えない柔和な相へと変わっていったのです。

竹内千代子さん
(叔母の)葬儀は顕正会の同志が執り行ってくれました。
叔母の成仏だけを一心に願い、お題目を唱えていくと、叔母の唇や頬に赤みが差し、髪の毛は黒くなり、何より穏やかに微笑んでいる叔母の相を見ては、未入信の叔母をも御守護下さった大聖人様の無限の大慈大悲に、むせび泣く思いになりました。

創価学会だと臨終は悪相になるみたいです。
川端美佳さん
昨年11月に学会から顕正会に入会した。
父は創価学会の信者だった。
私の父は四年前に末期癌の診断を受け、一年間の闘病生活の末、四十代の若さで臨終を迎えました。
亡くなった直後、私は父を抱きかかえましたが、父は痩せ細っているのになぜか重く、その臨終の相も、とても柔和な相とは言い難いものでした。あれだけ熱心に学会活動に励んでいた父の最期の姿に唖然とし、「なぜこのような臨終になるのだろうか」と悶々とした気持ちを拭えずにおりましたが、基礎教学書を通して
「臨終の善悪を決する最大の要因は世間の善悪よりも仏法の邪正である」
と知り、雲晴れる思いになりました、

死後も体が柔らかいとか、色黒が白くなるとか、髪が黒くなるとか、眉唾かと思いますが、どうなんでしょうか。

「顕正新聞」令和5年6月5日
浅沼雅美さん
駅前で広告文を配布していた時に声をかけた男性はかつて日蓮正宗の僧侶だった。
祖父と父親が法華講の講頭だったことで、家族から僧侶になることを勧められ、小学生のころから20歳ころまで大石寺で修行していた。
しかし、先輩僧侶から暴力を受け、暴力体質に嫌気がさして僧侶をやめた。
浅沼さんが「細井日達の臨終の相は黒く、恐ろしい形相で、消臭剤を使っても臭いが消えなかったそうで、阿部日顕も恐らく悪臨終だと思います」と話したところ、男性は友人の宗門僧侶から聞いた阿部日顕の臨終の相について語った。
その相は、色黒く、恐ろしい形相で、部屋中に悪臭が漂っていた。本来、宗門では死に化粧はしないものだが、あまりに色が黒かったので死に化粧をするしかなかった。しかし、何度塗っても白くならず、最後は厚塗りして何とか白くした。

顕正会を解散処分した細井日達、創価学会を破門した阿部日顕の両氏は日蓮正宗の法主だった人です。
浅沼雅美さんも日蓮正宗の僧侶だった男性も自分が見たわけではなく、伝聞を事実として語っているにすぎません。

10月に亡くなった浅井昭𫟘さんは「悪臨終の相」だったと、日蓮正宗の新聞「慧妙」に書かれているそうです。
https://cleanstream.online/asaisyoueinosi02/
臨終の相の善し悪しを言ってたら、いくらでも誹謗中傷できます。

経典や論書に、臨終の相に成仏の相、堕地獄の相があると説かれているわけではありません。
https://blog.goo.ne.jp/a1214/e/474cd426ea837f8054d7876f0afec7d8
根拠がないのに、そんなことにとらわれていたら、それこそ死者は浮かばれないでしょう。
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黒川創『鶴見俊輔伝』

2023年08月16日 | 日記

黒川創『鶴見俊輔伝』は鶴見俊輔(1922年~2015年)の評伝。
戦前の知的エリート階級の裕福さは半端じゃないと思いました。

鶴見俊輔の父は鶴見祐輔、母の愛子は後藤新平の長女。
7千坪もある後藤新平宅の一角に家があった。

鶴見俊輔は9歳から万引きをした。
東京高等師範学校附属小学校をビリから6番で卒業。
府立高等学校、府立第五中学校を中退した。

年上の女たちとの情事。
2度の自殺未遂、3度の精神病院入院。
鶴見祐輔は14歳の息子に「軽井沢に土地を買ってやるから、そこで女性と暮らして、蜜蜂でも飼ったらどうか」と言う。

16歳でアメリカ留学。
英語がわからないので、授業についていけない。
しかし、17歳でハーバード大学に入学。

鶴見俊輔の若いころの写真はどれも生意気そうな顔をしています。
経済的に恵まれたエリートであることへの罪責感があったように感じます。

姉の鶴見和子は入学した成城小学校は澤柳政太郞が創立した(1917年)
教育勅語の奉読も、君が代斉唱もない。
そもそも式典がなく、御真影というものを見たことさえなかった。

1929年、和子が成城小学校から女子学習院に転校すると、すぐ天長節(4月29日)だった。
その前日、鶴見祐輔が「あすは軽井沢の別荘に行くか、どうするか」と尋ねたので、和子は「行くわ」と答えた。
母の愛子は、その旨を記した欠席届を持たせてくれた。
そして、学校の式典には出ずに、家族で軽井沢に出かけた。

後日、このことが学校で問題化して「不忠の臣」などと言われ、先生から「謝りなさい」と求められたが、「なぜですか」などと訊くので、愛子が学校に呼びつけられた。
あとで和子が「どうだった?」と訊くと、愛子は「なんだかんだと言うから、うちの子どもは自分が悪いと思わないときに謝るようには躾けてございません、って言ってきたわ」と澄ましている。

夏休みになっても、多くの教師たちから、謝罪を求める手紙が和子宛に届いた。
愛子はそれに応じる様子がないので、和子は見切りをつけて、自分で「悪うございました」という詫び状を書き、判子を捺して、学校に提出した。
それからは優等生で通した。

1929年、鶴見俊輔は東京高等師範学校附属小学校に入学する。
校長(主事)の佐々木秀一は毎日の朝礼の話はとても短いものだった。
生徒は三角帽ををかぶり、帽子には、1、2年生は赤い房、3年生以上は白い房がついている。
佐々木秀一の話は「この学校で、赤房と白房がけんかをしているのを見たら、理由をきかないでも、白房のほうが悪いと私は思います」といったものである。
「休み時間に見ていると、みなさんの遊びには、戦争の遊びが多すぎます」と言うこともあった。

柳宗悦『朝鮮とその芸術』(1922年)にこうあるそうです。

日本の同胞よ、剣にて起つものは剣にて亡びると、基督は云った。至言の至言だ。軍国主義を早く放棄しよう。弱者を虐げる事は日本の名誉にはならぬ、(略)自らの自由を尊重すると共に他人の自由をも尊重しよう。若しもこの人倫を踏みつけるなら世界は日本の敵となるだろう。そうなるなら亡びるのは朝鮮ではなくして日本ではないか。

福澤諭吉が朝鮮と中国をぼろかすに書いている『脱亜論』への批判があるかもしれません。
それにしても、大正デモクラシーの時代と現在の学校教育、どっちがましかと思います。

1942年、日米交換船で大河内光孝を知る。
大河内光孝は大河内輝声(高崎藩藩主)の妾腹。
こういうことを話す人だった。

もし、若い相棒といっしょに山中で遭難して、このままでは生きのびる見込みがないとなったら、どうするか。おれなら、残りの食料を若い相棒に全部やる。そうすれば、若い相棒には、生きる見込みもできるかもしれない。自分の覚悟というのは、それだけだよ。


京都のパン製造・販売の進々堂の社内報に、経営者一族の続木満那という専務が「私の二等兵物語」を書いている。
1942年に一兵卒として入隊し、中国に送られる。
銃剣術や射撃の練習のために、生きている中国人捕虜を目隠しもせず木にくくりつけて、突き殺したり撃ち殺したりすることを命じられた。

陣地の後の雑木林に40人の捕虜が長く一列に並ばされました。その前に3メートルほどの距離をおいて私達初年兵が40名、剣つき銃を身構えて小隊長の「突け」の号令の下るのを待っていたのです。昨夜、私は寝床の中で一晩考えました。どう考えても殺人はかないません。小隊長の命令でもこれだけはできないと思いました。しかし命令に従わなかったらどんなひどい目に会うかは誰でも知っています。自分ばかりでなく同じ班の連中までひどい目に会わすことが日本軍隊の制裁法です。け病を使って殺人の現場に出ないことを考えてみました。気の弱い兵隊がちょいちょいやる逃亡という言葉も頭をかすめました。しかし最後に私の達した結論は「殺人現場に出る、しかし殺さない」ということでした。

上官から「突け」と命令されても続木は捕虜を殺さなかった。

鶴見俊輔は召集されましたが、ジャカルタで翻訳をしており、実戦の経験はありません。
上官から殺せと命令され、殺さないことができるか、日本が戦場になったらどうかと、自分に問います。

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少子化と人口減(2)

2023年05月20日 | 日記

どうしたら人口の減少を食い止めることができるのでしょうか。

50歳で一度も結婚したことがない人の割合を生涯未婚率といいます。
「少子化社会対策白書」によれば生涯未婚率は年々増加しており、1970年には男性1.7%、女性3.3%だったのに対して、2020年には男性28.3%、女性17.8%まで増加している。
https://business.nikkei.com/atcl/gen/19/00081/111000470/

平成26年度「結婚・家族形成に関する意識調査」
「あなたは、結婚についてどのようにお考えですか」
1 必ずしたほうが良い 14.0%
2 できればしたほうが良い 54.1%
3 無理してしなくても良い 29.3%
4 しなくて良い 1.7%
「結婚したほうが良い」の合計は68.1%。
「無理してしなくても良い」「しなくて良い」の合計が30.9%。
男性の方が女性よりも「結婚したほうが良い」の割合が高い。
男性の「400万円以上」では、「結婚した方が良い」が78.2%と、「収入はない」、及び「400 万円未満」に比べ10 ポイント以上高い。

「あなたは、あなたご自身の結婚の時期について、どのように考えていますか」
1 すぐにでも結婚したい 9.2%
2 2-3 年以内に結婚したい 21.5%
3 いずれは結婚したい 47.0%
4 結婚するつもりはない 7.0%
5 わからない 15.0%
「結婚したい」の合計は全体で77.7%。
「結婚するつもりはない」とする割合は、7.0%と1割未満にとどまる。
女性(81.9%)の方が男性(73.2%)よりも「結婚したい・計」の割合が高い。
男女とも20代の方が、30代よりも「結婚したい・計」が高い。
「結婚するつもりはない」は30代男性(12.6%)で、「すぐにでも結婚したい」は30 代女性(21.7%)でそれぞれ最も高い。
男女とも、「正規雇用」の方が、「非正規雇用」よりも「結婚したい・計」の割合が高い。特に、男性では、「正規雇用」(78.5%)が、「非正規雇用」(62.1%)を約16ポイント上回っている。
https://www8.cao.go.jp/shoushi/shoushika/research/h26/zentai-pdf/pdf/2-2-2-2.pdf
結婚したほうがいい、結婚したいと考えている人のほうが、結婚しなくていい、結婚するつもりはないと答える人よりもはるかに多いわけです。

「結婚生活をスタートさせるにあたって必要だと思う夫婦の年収(税込み)は、どのくらいだとお考えですか」
1 100万円未満 0.1%
2 100万円~200万円未満 1.3%
3 200万円~300万円未満 6.6%
4 300万円~400万円未満 19.8%
5 400万円~500万円未満 23.2%
6 500万円~600万円未満 20.8%
7 600万円~800万円未満 12.8%
8 800万円~1000万円未満 2.8%
9 1000 万円以上 1.2%
10 収入は関係ない 2.9%
11 わからない 7.5%
全体では平均490.3万円。
男女間で大きな差はないが、男女とも30代の方が、20代よりも必要と考える年収額平均が高い傾向にある。
「未婚」(497.9 万円)の方が、「既婚」(484.2 万円)よりも、必要と考える年収額平均が、14万円ほど高い。 
https://www8.cao.go.jp/shoushi/shoushika/research/h26/zentai-pdf/pdf/2-2-2-3.pdf

結婚するかしないかの大きな要因の一つが収入のようです。
国税庁の「民間給与実態統計調査」(2021年)によると20代前半(20歳~24歳)の平均年収が269万円で、男性328万円、女性249万円、20代後半(25歳~29歳)の平均年収は371万円で、男性404万円、女性328万円です。
https://www.nta.go.jp/publication/statistics/kokuzeicho/minkan2021/pdf/002.pdf

ところが、20代で年収300万円未満の男性が49%、30~34歳でも年収300万未満は43%だそうです。
https://news.yahoo.co.jp/byline/arakawakazuhisa/20220414-00291339

結婚観が違ってきているので単純には言えませんが、結婚したいけど、収入が少ないので結婚できない人が多いわけです。
となると、まずは正規雇用を増やし、子育てのできる収入にし、国は助成金を出すといった施策を行わないと、少子化は解決しないと思われます。

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