三日坊主日記

本を読んだり、映画を見たり、宗教を考えたり、死刑や厳罰化を危惧したり。

光市事件の弁護について

2007年05月31日 | 日記

光市の事件では、弁護側は最高裁の弁論開始までは事実関係を争ってこなかった、それなのに弁護士が変わったとたんに全面的に否認するのはおかしい、という意見がある。
このことは前にも書いたけれども、一審、二審の弁護士は被告に事件のことを何も聞いていない。
https://blog.goo.ne.jp/a1214/e/7edc5dcbd1158097854c2577f077f355

少年鑑別所では、精神年齢は4~5歳と鑑定されているように、精神的に幼い被告に事実関係を聞いたら、被告が混乱するだろうと思って聞かなかったらしい。

富山で婦女暴行で服役した人が実は冤罪だったという事件があった。
この人は当初は否認したが、後に自白、裁判でも起訴事実を認めている。
被疑者が否認しないからといって、検察の主張が正しいとは限らないわけで、こうした例は他にもあるんじゃないかと思う。

光市事件は殺人ではなく傷害致死だという弁護側の主張はどうだろうか。
「年報・死刑廃止2006 光市裁判」には、遺体鑑定書から次の文章が引用されている。

加害者の供述内容と死体所見は一致しないので、Mさんの頚部を両手で全体重をかけて首を絞め続けたという状況下での犯行ではなかったことは明白である。(略)
加害者は右手を逆手にして、口封じのための行動をとったが、抵抗にあい、手がずれて、首を押さえる結果となって死亡させたと考えるのが、最も死体所見に合致した状況である。

首を絞めた痕はない、だから首を絞めて殺したという検察の主張は間違いだと、鑑定医は言っているのである。
子供が頭から床に力一杯叩きつけたら外傷が残るはずであるが、子供の頭には打撲傷などの痕跡はない。
首をヒモできつく絞めた痕跡もない。

となると、弁護側の言う「傷害致死」という主張もあり得るように思う。
このあたりを裁判ではきちんと審理してほしい。

ところが、「週刊新潮」6月7日号に「光市裁判に集結した「政治運動屋」21人の「弁護士資格」を剥奪せよ」という記事が載っている。
弁護側の主張に賛成できないからといって、依頼人のために最善と尽くそうとする弁護士たちをどうして非難するのか。
弁護士は被告の利益になることをするのは当然のことである。
それなのに、弁護士を懲戒処分にして資格を剥奪すべきだと言うのはおかしい。

弁護士のほとんどは民事専門で、刑事事件を担当する弁護士は少ないらしい。
まして凶悪事件を引き受けようとする弁護士は極めて少数。
こんなふうにマスコミが一方的にバッシングしたら、刑事事件を断る弁護士が増えるのではないだろうか。

「週刊新潮」にこんなことが書かれている。

彼ら〝政治運動屋〟たちに共通するのが、犯罪被害者に対して、恐ろしいまでに〝他人事〟であることだ。しかし、自分の家族が無残に殺され、加害者がこんな荒唐無稽な主張をしたとき、この弁護士たちは本当に納得できるのだろうか。


荒唐無稽かどうかは「週刊新潮」が判断することではない.
また、自分の家族が殺された時にどう思うかということと、依頼人の利益のために弁護活動することは別の話である。

「週刊新潮」は一般人の個人情報をさらすという、人権無視の記事をよく載せている。
そのためか、人権を嫌うようだが、これは不思議なことである。
好き勝手なことを書いて、表現の自由だと言い逃れするのだから。

誰だって被告になる可能性はある。
なのに、どうして弁護団バッシングという、自分が裁判を正当に受ける権利を手放すことになりかねないことをするのだろうか。
「他人事」だと考えているのは「週刊新潮」のほうだと思う。

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イマキュレー・イリバギザ『生かされて。』

2007年05月29日 | 

1994年のルワンダ大虐殺を生き延びたイマキュレー・イリバギザという女性の手記が『生かされて。』である。

牧師にかくまわれ、7人の女性とトイレに三ヵ月間隠れて、何とか助かったのだが、両親と兄弟は殺された。
母と兄を殺し、自分も殺そうとした首謀者とイマキュレーは刑務所で会う。
彼をどうしてもよかったが、イマキュレーは「あなたを許します」と言う。
同席した地方長官は「何で許したりするんだ」と激怒するが、「許ししか私には彼に与えるものはないのです」と答える。

神様が私の魂を救い、命を助けてくれたのには、きっと意味があるのでしょう。
私が私の話を他の人に話すように、そして、愛と許しがもたらす癒しの力のことを可能な限りたくさんの人に話すようにと。


憎しみの連鎖を否定し、「許し」を強く訴えているこの本をぜひともお薦めしたいところだが、どうも素直に感動できなかった。

というのも、推薦の言葉を書いたウエイン・ダイアー博士は心理学者ということだが、「イマキュレーは、意識のとても高いレベルに生きていて、彼女に出会ったすべての人のエネルギーレベルを高めています」と、頭の痛くなることを書いている。
訳者のあとがきを読むと、訳者はスピリチュアル系の人らしい。
出版はPHP研究所で、本の最後にはブライアン・L・ワイスの『未来世療法』の広告がある。
ということで、ついつい偏見の目を持って読んでしまった。

イマキュレーは熱心なカトリックで、この本にも神について何度も書いている。
神を疑う気持ち、フツ族を怨む気持ちはイマキュレーにもある。

彼らは、自分たちがどんなに恐ろしい苦痛を与えているかわかっていないのです。何も考えずに人々を苦しめ、兄弟、姉妹を迫害しているのです。彼らは、神を傷つけているのです。そして、自らをどんなに傷つけているかわかっていないのです。(略)
神様の目には、殺人者たちでさえ、彼の家族、愛と許しを受ける対象なのです。
私は、神の子どもたちを愛する気がないのならば、神の私への愛も期待することはできないとわかったのです。
その時です。私は、殺人者たちのためにはじめて祈りました。彼らの罪をお許し下さいと

いつ殺されるかわからない極限状況の中で、ひたすら神を信じていないと精神を保てないということは理解できるが、その考えには共感できない。

ひっかかったことは他にもある。

私は、神様は何か大きな目的があって私を生かしているのだと感じ、それがどういうことなのかわからせて下さいと毎日祈っていました。(略)
私は、これから神様がどんな人生を私のために用意しているにしても、人が誰かを許すことを助けることこそが、私の人生の仕事の大きな意味なのだと気づきました。


自分が生き延びたことをこういうふうに意味づけするのもわかる。
しかし、100万人もの人たちが殺されたのは、どういう目的が神様にあったのか。

私は、神様が、私を血に飢えた殺人者の大鉈の下で長いあいだもだえ苦しみながら死なせるようなことは決してないし、また、何かとるに足りない小さな病気で死なせるはずもないことを知っていました。

では、神様はイマキュレーを選び、他の100万人を選ばなかったのか。

イマキュレーは願いはかなうというポジティブ・シンキングの信奉者である。
結婚したいと思い、こういう男性をお願いしますと神に頼んだら、ピッタリの男性が現れて結婚。
そして、国連で仕事をしたいと願ったら、その願いも叶ったという。

イマキュレーの父親はフツ族の攻撃から避難してきたツチ族にこう言う。

私たちには何も武器がありません。もし政府が私たちを殺そうとするならば、私たちに出来ることは祈ることだけです。
残された時間、懺悔をし、私たちの罪の許しを乞いましょう。もし死ななければならないのなら、綺麗な心のままで死ぬのです。

何千という群衆は、彼の言葉に従って祈り始めた。
さらに、父親はこう言った。

神のご加護を願いましょう。同時に自分たちで守らなければなりません。槍を探しなさい。武装しなさい。しかし、誰も殺してはいけない。我々は彼らとは違う。殺しはしない。しかし、ここにただ坐ってむざむざ殺されるのを待っているということもしない。
勇気を出して、強くなりましょう。そして、祈りましょう。

そして、みんな殺されてしまうのである。
なぜ神様の加護がなかったのだろうか。

イマキュレーが日本に来た時に安倍昭恵首相夫人と会談した。
安倍昭恵は「いじめに悩み自ら命を絶つ日本の若者に重要なメッセージを与えてくれる」とイマキュレーを讃えたそうだ。
イマキュレーは「許し」を訴えているのだから、安倍昭恵の言うメッセージとは「いじめた人を許しなさい」ということなのだろうか。
(追記)
安倍昭恵もスピリチュアルがお好きなようです。
https://blog.goo.ne.jp/a1214/e/2bcfb4a8974a6ff6b54601ca607841ad
https://blog.goo.ne.jp/a1214/e/d18b1c1184e8e324a6274a807d87dde6

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森達也「もっともっと世界は豊かで美しい」

2007年05月20日 | 日記

本願寺が出している「同朋」という雑誌に、森達也のインタビュー「もっともっと世界は豊かで美しい」が載っていた。
森達也の言葉をいつものように無断引用。

「メディア全般がそうですけど、特にテレビは「わかりやすさ」を追求します。(略)
いろんな現象や事件、人間を単純化し簡略化しようとするんですね。(略)
簡略化とは、いつもものごとを「黒か白か」「善か悪か」などの二元論や二項対立に置き換えてしまう」

「オウムだけじゃない。アルカイダに対しても、北朝鮮に対しても、レッテル貼りのような見方をしてしまう。でも、犯罪行為をする人が、もともと邪悪で凶暴な存在だなどということはないわけでしょう。もっともっと人間は多面的だし、矛盾を抱えた存在です。(略)
信者に対して「ちょっとかわいそうだな」と同情的になる人は必ず一人二人はいるんです。けれどもそういう人たちは、マスコミの報道には決して登場しません」

「一面だけ見れば、人間にはたしかに殺伐としていたり凶暴だったりする面もある。でもそれは一面に過ぎない。一人の人間を理解しようと思ったら、やっぱり一面からじゃなく全部を知りたいと思いますよね」

「人は常に、共同体の中で同一性を確認したいわけですよ。それを確認できるいちばん手っ取り早い方法は異物を見つけることです。その異物をみんなで排斥する。排斥しても、今度はそれに外から攻撃されるかもしれないと怖くなり、仮想的をつくって先制攻撃をはじめる。アメリカなどはその悪循環にずっと前からはまっているですが、日本も同じようになってきた気がしますね」

「いまの社会で起きているのは、人々が被害者に過剰に感情移入して、加害者への制裁や厳罰を声高に要求するような現象です。なぜ過剰に反応するのかというと、加害者を憎みたいからですよ。加害者を憎悪することで、自分たちの一体感を高めたい。そういう傾向がどんどん強くなっている。僕はそれが嫌なんですよ」

「花粉症を思い起こせばいいと思うんですよ。花粉症というのは、過敏になりすぎた免疫細胞がスギ花粉を誤爆しているわけですね。スギ花粉そのものは何ら害はないわけですが、誤爆の副作用で身体が壊れてしまう。皮肉なことに、日本にこれだけ花粉症がはびこった理由は、もちろん戦後の植林政策の誤りもあるんだけど、もうひとつは雑菌が減ったからですよ。敵がいなくなっちゃった免疫細胞が、必死に敵を探しているわけですね」

「過剰なセキュリティが、母体である社会を壊すんです」

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スティーヴン・フリアーズ『クイーン』

2007年05月17日 | 映画

スティーヴン・フリアーズ『クイーン』は、ダイアナが死んでからの一週間の動きを王室を中心として描いた映画である。

この映画を見た人は女王とブレア首相が好きになるだろう。
王室の伝統を守りたいという女王の気持ち、女王を守りたいというブレアの気持ち、どちらも理解できる。

しかしながら、ダイアナの死に涙することがなかった女王が、鹿が撃たれたと聞いてショックを受けるシーンを最後に入れたのはなぜだろうか。

そして、ダイアナの遺体を連れて帰るのに王室専用機を使うと言うチャールズに対し、「また無駄遣いをしていると非難される」と女王はいさめる。
女王はマスコミの王室批判を気にしているようだが、マスコミからダイアナの死に女王は冷たいという一方的な報道をされ、それに煽られて国民がヒステリックに反応しても、女王は今までどおりの生活を続けようとする。
このあたりも疑問に感じる。

もちろんこの映画はフィクションだから、女王がダイアナの死をどう感じたかは知りようがないし、女王夫妻やブレア夫妻の会話もどこまでが事実かわからない。

それにしても、エジンバラ公やチャールズが王子たちを連れて鹿狩りに行くのにはびっくりした。
王子たちが母親の死にショックを受けたから、気晴らしをしようというのは納得できるが、わざわざ殺生をしなくてもと考えるのは日本的発想か。
日本だったら精進料理という話になるわけで、宗教観の違いなのか。

王室をこうした形で描くことができるイギリスと、絶対に不可能な日本という違いは大きい。
親しまれる皇室を目指すのなら、皇室のいろんな問題をテーマにした映画を作れる雰囲気作りが必要ではないかと思う。

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エマ・ラーキン『ミャンマーという国への旅』

2007年05月11日 | 

ミャンマーの首都がネピドーに移転した。
毎日新聞は「荒野の中の楼閣」と書いている。

ジョージ・オーウェルは作家になる前の数年間、ビルマで警察官をしていた。
そのオーウェルのデストピア小説『1984年』とそっくりなのが現在のビルマである。

密告者がどこにでもいて、政治についての不平、不満を漏らすと、すぐさまそれが伝わってしまう。
乞食までが人の話に耳を傾けているというのだから。

エマ・ラーキンはビルマにおけるオーウェルの足跡をたどりながら、ビルマの人たちと話し、『ミャンマーという国への旅』でその声を伝えている。
軍事政権が改名したミャンマーではなくてビルマ、ヤンゴンではなくてラングーンを使っていることからもエマ・ラーキンの立場がわかる。

ある司祭はこう言っている。

どうしてそんなに少数の人間で、多数の人たちを意のままにできるのかとお考えでしょうね。それは恐怖ですよ。


アウン・サン・スーチーが列挙している「恐怖」、
「投獄の恐怖」
「拷問の恐怖」
「死の恐怖」
「友人、家族、財産、生活手段を失う恐怖」
「貧困の恐怖」
「孤独の恐怖」

報道が統制され、テレビ、新聞はウソを言っていることをみんな承知している。
しかし、みんな黙っている。
密告されて捕まるのが怖いから。

ビルマの軍事警察に逮捕されると、拷問され、友人、仲間を告発させる。

彼らは一つだけ友人たちに約束をしている。三日間だけは頑張りとおすという約束だ。この三日間は、ほかの仲間たちが姿を消すだけの余裕を作る時間だ。


ビルマでは義務教育がない。
教育を受けると、これはおかしいと思うようになる。
国民を愚かなままにさせておく愚民化政策である。

では、日本はどうなのか。
都知事選のあと、4月11日の毎日新聞に「政治家にオーラ求めるな」という記事があった。
石原慎太郎について聞かれて、こう答えた人たちがいる。

「あれだけ大きいことできる人だもの。私らとは違うんだから。高い店で飲んだり、高級ホテルに泊まったりもするでしょう」=元会社員の男性(65)
「いろいろ批判はあるけど、迫力があって引っ張っていってくれそうな感じがする」=主婦(37)。

これじゃジョージ・オーウェル『動物農場』や沼正三『家畜人ヤプー』の世界じゃないか。

ビルマのある女性がエマ・ラーキンに話す。

私たちは理解する力があります。善悪の判断ぐらいはできます。でも自分で判断することは許されないんです。

自覚しているだけ、ビルマの人たちのほうがましなのではないか。

「パンとサーカス」という言葉がある。
食べ物(パン)と気晴らし(サーカス)で満足する日本人は、自ら進んで理解する力を失い、自分で判断をしなくなってもおかしくはないと思う。
知らない間に、ビルマよりももっと巧妙な管理統制社会になるかもしれない。

そんなことを思ってたら、イギリスが「1984年」化しているという記事があった。
また毎日新聞から。

英政府は4日、問題行動をする人に音声で注意や警告ができるスピーカー付き監視カメラを各地に設置すると発表した。


ブレア政権発足の1997年に10万台だった監視カメラが420万台、40倍以上に増えているそうだ。
国民は外出すると1日平均300回撮影されている計算になるという。
ところが、犯罪は1997年450万件から2004年600万件に増加、強盗は19%減ったが、殺人は15%、性犯罪も57%増えている。

英王立工学アカデミーは「このままだと我々の『ビッグブラザー』社会は、オーウェルが思い描いた以上の強力なものになってしまう」と警鐘を鳴らしている。

ここでもオーウェルの名前が出てくる。

日本の昨年の記事。

英国訪問中の石原慎太郎東京都知事は5月31日、テロや犯罪対策としてロンドン市内に数多く設置されている監視カメラについて「実績のあるものはまねした方がいい。日本にとって不可能なことではない」と述べ、東京都での導入拡大に前向きな姿勢を示した。


日本では、治安が悪化しているという不安感を煽り立られて、地域で安全を守ろうという風潮になっている。
防犯が危機管理に結びつき、不審者というと外国人と思われているから、防犯のつもりがテロ対策に協力していることになってしまう。
「国民保護法」という国家総動員体制が着々と進行しているわけだし、どうなることやら。

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免田栄さんの講演を聞く

2007年05月08日 | 死刑

先日、免田栄さんの講演を聞いた。
昭和23年に夫婦が殺され、2人が重傷を負った事件の犯人として免田栄さんは逮捕される。

はっきりしたアリバイ(証人が裁判で証言している)があるにもかかわらず、死刑の判決を受けた。
何度も再審請求を行い、そうして昭和58年に無罪、即日釈放となった。

免田栄さんが拘置所にいるころは、他の死刑囚と話をすることができた(今はできない)。
死刑囚同士が話していると何となくわかるもんだそうで、冤罪の人も何人かいたそうだ。
完全な無実ではなくても、事件現場にいたけど何もしていない人、知的障害の人、計画性がなかった人、死刑にするのはかわいそうだと思う人もいたそうだ。

刑務官も無実の死刑囚がいることを知っている。
しかし、執行に立ち会えと命令されたら断ることはできない。
顔面蒼白で、震えていたそうだ。
やはり死刑は残酷な刑罰だと思った。

免田栄さんは再審請求を何度もし、そうしてやっと無罪を勝ち取った。
再審請求ができたのは支援者がいたからである。
死刑囚の多くは再審請求のやり方を知らないし、支援者がいないし、お金もない。
だから、冤罪であっても、再審請求できなかった人がいるそうだ。

罪が重すぎるということだが、たとえば泥棒に入って、たまたま家人を殺したとする。
その場合、窃盗と殺人であるが、強盗殺人とされると、刑が重くなり、場合によると死刑になる。

ウィキペディアによると、窃盗とは、誰にも気付かれることなく、他人の物を故意に断り無く持っていくこと。
強盗とは、脅迫や実力行使などによって他人の物を無理矢理奪う犯罪。
強盗して人を死亡させたら強盗致死罪、死亡の結果につき行為者に故意があった場合、強盗殺人罪。
窃盗と強盗、故意かどうかで量刑がまるっきり違ってしまう。
しかし、故意かどうか、いくらベテランの裁判官でも判断が困難だと思う。

現在は、犯罪が増えていないし、凶悪化もしていないのに、刑罰だけがだんだん重たくなっている。
新受刑者の平均刑期が1994年は23・4月、1999年は25・6月、2004年は29・0月と増えている。

死刑や無期刑は近年ぐっと増えている。
弁護士会のHPに、死刑・無期刑判決の人員、確定数の表がある。
https://www.nichibenren.or.jp/activity/criminal/deathpenalty/shiryou.html

死刑や無期刑が相当の犯罪が増えているわけではない。
買い物にたとえると、検察が値段を高めに設定し、弁護人が安くするよう交渉し、そして裁判所が適当な値段を決めるということだと思う。
本来は5千円程度の品に検察が1万円と値を付けていたのが、次第に高くなって、今は2万円の値段を請求するような感じである。
それに合わせて、裁判所もだんだんと高い値段にするようになり、今は検察の言いなりで値段を決めている。
つまりは刑罰のインフレ化が進んでいる。

たとえば、2005年、認知症のお年寄りが暮らすグループホームで、利用者の女性(84)にやけどを負わせて殺害した疑いで殺人罪に問われた元男性職員(28)の場合である。
検察は懲役13年を求刑し、地裁は懲役12年、高裁は懲役10年の判決、最高裁は控訴を棄却して懲役10年が確定した。
裁判での争点は殺意があっての殺人罪か、それとも殺意のない傷害致死か業務上過失致死罪かという点である。

女性は石油ファンヒーターを服の上から押しつけられ、やけどによる熱傷性ショック死。
殺意があったか、かっとして思わずやってしまったか。
男性は一人で夜勤しており、直後に遺書を残して自殺を図っている。
情状酌量の余地があると思うのだが。

免田栄さんが逮捕されたころの警察や検察とは違っていると思うが、冤罪だと判明した事件は今でもなくなっていないし、重い罪名にされるということも少なくないだろう。

再審請求をしている免田栄さんに、浄土真宗の教誨師が「前世の因縁でこうなったんだから、それを受け入れて死刑になりなさい」ということを言ったそうだ。
赤面した。

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保守からの死刑廃止運動を

2007年05月02日 | 死刑

死刑廃止を主張する人は左翼だと思われがちである。
人権問題や市民運動をしている人に対しても同じようなイメージがあるように思う。

ところが、「インパクション」という雑誌に載っている安田好弘弁護士と小倉利丸の対談を読むと、死刑問題が市民運動や左翼とつながっているわけではないらしい。

社会運動に参加している私たちは、多くの場合、いろいろな意味で豊かな場面で生活しているわけですから、犯罪とは遠い人たちなんですね。もし、市民運動に参加している人たちに、犯罪に対する共感が薄いとしたら、それが原因しているのではないかと思います。
現実に、「左翼運動」とか「市民運動」をやっている人たちの中で、死刑の関心度というのはそれほど高くはありません。ですから左翼と死刑廃止とは必ずしも一致しない。
世界を見ても、左翼が政権を取ったところが死刑を廃止しているわけじゃない。むしろ、中道右派的な、あるところはキリスト教的なヒューマニズム、保守リベラルとか、そういうところで死刑廃止がなされている。彼らは、犯罪を主観的にではなく客観的にとらえているんだろうと思います。しかも、彼らの精神は、寛容と非攻撃性によって支えられているんだろうと思います。
しかし、社会主義政権からは死刑廃止は誕生していないんですね。左翼の人たちは犯罪をなくすることができると考えているんではないでしょうか。

死刑廃止運動は左翼からではなく保守からとは意外だった。

「インパクション」に、水田ふうがこういうことを書いている。

死刑は、国家がわたしらひとりひとりに向かって、いつでも合法的に殺すことができるんやぞという脅かしなんやんか。(略)
いまヨーロッパでは、EU加盟には死刑廃止を条件にするくらいやし、韓国でも死刑廃止が国会で審議されたりしてる。これはひとびとや運動の力でそうなったんやない。政府・指導者と国会議員たちの働きがあってのことや。そして、ひとびとはむしろ、いつでも死刑復活の声をあげる側の反動勢力なんや


権力からの脅しの手段である死刑制度を国家自らが放棄しているのが世界の流れである。
ところが、一般の国民のほうが死刑を求めているのだから、何だか逆説のようだ。
これは「自由からの逃走」ということか。

左翼が退潮し、組合の力もほとんどない保守王国の日本なのに、なぜか厳罰化の声が高く、死刑判決が異常に増えているのはどうしてなのかと、不思議になった。

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