三日坊主日記

本を読んだり、映画を見たり、インチキ宗教を考えたり、死刑や厳罰化を危惧したり、そしてそのことを日記にまとめてみたり。

はたして真実は

2007年05月31日 | 日記

光市の事件について、弁護側は最高裁の弁論開始までは事実関係を争ってこなかった、それなのに弁護士が変わったとたんに全面的に否認するのはおかしい、という意見がある。
このことは前にも書いたけれども、一審、二審の弁護士は被告に対し、事件のことを何も聞いていないのである。
精神的に幼い被告に事実関係を聞いたら、被告が混乱するだろうと思って聞かなかった、ということらしい。

富山で婦女暴行で服役した人が実は冤罪だったという事件があった。
この方は当初は否認したが、後に自白、裁判でも起訴事実を認めている。
否認しないから検察の主張が正しいとも限らないわけで、こうした例は他にもあるんじゃないかと思う。

事件は殺人ではなく傷害致死だという弁護側の主張はどうだろうか。
「年報・死刑廃止2006 光市裁判」には、遺体鑑定書から次の文章が引用されている。
「加害者の供述内容と死体所見は一致しないので、Mさんの頚部を両手で全体重をかけて首を絞め続けたという状況下での犯行ではなかったことは明白である」
「加害者は右手を逆手にして、口封じのための行動をとったが、抵抗にあい、手がずれて、首を押さえる結果となって死亡させたと考えるのが、最も死体所見に合致した状況である」

つまり、首を絞めた痕はない、だから首を絞めて殺したという検察の主張は間違いだと、鑑定医は言っているのである。
お子さんにしても、頭から床に力一杯叩きつけたら外傷が残るはずであるが、子供さんの頭には打撲傷などの痕跡はない。
首をヒモできつく絞めた痕跡もない。
となると、弁護側の言う「傷害致死だ」という主張もあり得るように思う。
このあたりを裁判ではきちんと審理してほしいものです。

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イマキュレー・イリバギザ「生かされて。」2

2007年05月29日 | 

イマキュレー・イリバギザ「生かされて。」を読んで、ちょっとひっかかったこと。

「私は、神様は何か大きな目的があって私を生かしているのだと感じ、それがどういうことなのかわからせて下さいと毎日祈っていました」
「私は、これから神様がどんな人生を私のために用意しているにしても、人が誰かを許すことを助けることこそが、私の人生の仕事の大きな意味なのだと気づきました」
自分が死ななかったこと、生き延びたことをこういうふうに意味づけするのもわかる。
むむ。
だったら100万人も殺されたのは何か神様の目的があったためだということになってしまう。

「私は、神様が、私を血に飢えた殺人者の大鉈の下で長いあいだもだえ苦しみながら死なせるようなことは決してないし、また、何かとるに足りない小さな病気で死なせるはずもないことを知っていました」
と言うイマキュレーは願いはかなうというポジティブ・シンキングの信奉者である。
結婚したいと思い、こういう男性をお願いしますと神に頼んだら、ピッタリの男性が現れて結婚。
そして、国連で仕事をしたいと願ったら、その願いも叶ったということです。
うーん。

イマキュレーの父はフツ族の攻撃から避難してきたツチ族にこう言う。
「私たちには何も武器がありません。もし政府が私たちを殺そうとするならば、私たちに出来ることは祈ることだけです。
残された時間、懺悔をし、私たちの罪の許しを乞いましょう。もし死ななければならないのなら、綺麗な心のままで死ぬのです」
何千という群衆は、彼の言葉に従って祈り始めた。
そして、こう言う。
「神のご加護を願いましょう。同時に自分たちで守らなければなりません。槍を探しなさい。武装しなさい。しかし、誰も殺してはいけない。我々は彼らとは違う。殺しはしない。しかし、ここにただ坐ってむざむざ殺されるのを待っているということもしない。
勇気を出して、強くなりましょう。そして、祈りましょう」
非暴力である。
だけど、みんな殺されてしまうのである。
う~ん。

イマキュレーが日本に来た時に安倍首相夫人と会談し、安倍夫人は「いじめに悩み自ら命を絶つ日本の若者に重要なメッセージを与えてくれる」とイマキュレーを讃えたそうだ。
イマキュレーは「許し」を訴えているのだから、安倍夫人の言うメッセージとは「いじめた人を許しなさい」ということなのだろうか。
安倍夫人がついでに、イマキュレーが言うように怒りや憎しみはいつまでも持つべきではない、死刑は反対だ、と言ってくれればよかったのに。

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イマキュレー・イリバギザ「生かされて。」1

2007年05月26日 | 

1994年のルワンダ大虐殺を生き延びたイマキュレーという女性の手記である。
牧師にかくまわれ、7人の女性とトイレに三ヵ月間隠れて、何とか助かったのだが、両親と兄弟は殺された。
母と兄を殺し、自分も殺そうとした首謀者とイマキュレーは刑務所で会う。
彼をどうすることもできたのだが、イマキュレーは「あなたを許します」と言う。
同席した地方長官は「何で許したりするんだ」と激怒するが、「許ししか私には彼に与えるものはないのです」と答える。
「神様が私の魂を救い、命を助けてくれたのには、きっと意味があるのでしょう。
私が私の話を他の人に話すように、そして、愛と許しがもたらす癒しの力のことを可能な限りたくさんの人に話すようにと」

憎しみの連鎖を否定し、「許し」を強く訴えているこの本をぜひともお薦めしたいところだが、どうも素直に感動できなかった。
というのも、推薦の言葉を書いたウエイン・ダイアーという博士は心理学者ということだが、「イマキュレーは、意識のとても高いレベルに生きていて、彼女に出会ったすべての人のエネルギーレベルを高めています」と、頭の痛くなることを書いているし、訳者のあとがきを読むと、訳者はスピリチュアル系の人らしい。
そして出版社はPHP研究所、最後のページにはブライアン・L・ワイスの「未来世療法」の広告がある。
ということで、ついつい偏見の目を持って読んでしまったのです。

イマキュレーは熱心なカトリックで、この本にもやたらと神について書かれている。
神を疑う気持ち、フツ族を怨む気持ちはイマキュレーにもある。
しかし、
「彼らは、自分たちがどんなに恐ろしい苦痛を与えているかわかっていないのです。何も考えずに人々を苦しめ、兄弟、姉妹を迫害しているのです。彼らは、神を傷つけているのです。そして、自らをどんなに傷つけているかわかっていないのです」
「神様の目には、殺人者たちでさえ、彼の家族、愛と許しを受ける対象なのです。
私は、神の子どもたちを愛する気がないのならば、神の私への愛も期待することはできないとわかったのです。
その時です。私は、殺人者たちのためにはじめて祈りました。彼らの罪をお許し下さいと」
ということを考える。

いつ殺されるかわからない極限状況の中で、ひたすら神を信じていないと精神を保てないということは理解できる。
しかし、一歩ひいてしまった。

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聞くは一時の恥

2007年05月23日 | 仏教

ある人から「布施というのは布を施すのが本来だと聞きましたが、どうなんでしょうか」と尋ねられ、そんなことは初耳だったので、驚いてあれこれと調べたが、どうもわからない。
そこで、先日の研修会で「布を施すというのはどういうことですか」と某先生に質問したところ、「布は広いという意味です」というお答え。
やれ恥ずかしや。
で、国語辞典を調べてみると、「布」には「広く行き渡らせる」という意味があった。
そして、そもそも「布施(ふし)」には、「広く金品をほどこすこと」という意味があるんですな。
「荘子」の「生きて布施せず、死して何ぞ珠を含むことを為さん」が引用されていました。
やれやれ。

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森達也「もっともっと世界は豊かで美しい」

2007年05月20日 | 日記

教区女性同朋大会に出席すると、「同朋」という本願寺が出している雑誌がお土産にもらえる。
ところが、最新号ではなく一年前のものをくれるんだから、ほんとにもう。
在庫がたまってどうしようもないからこうやって処分しているだろうが、いかにもねえという感じ。

でもまあ、オウム真理教のドキュメンタリー「A」「A2」の監督である森達也氏のインタビュー「もっともっと世界は豊かで美しい」が載っていたからまあ許してあげましょう。
いつものように無断引用。

「メディア全般がそうですけど、特にテレビは「わかりやすさ」を追求します」
「いろんな現象や事件、人間を単純化し簡略化しようとするんですね」
「簡略化とは、いつもものごとを「黒か白か」「善か悪か」などの二元論や二項対立に置き換えてしまう」

「オウムだけじゃない。アルカイダに対しても、北朝鮮に対しても、レッテル貼りのような見方をしてしまう。でも、犯罪行為をする人が、もともと邪悪で凶暴な存在だなどということはないわけでしょう。もっともっと人間は多面的だし、矛盾を抱えた存在です」

「信者に対して「ちょっとかわいそうだな」と同情的になる人は必ず一人二人はいるんです。けれどもそういう人たちは、マスコミの報道には決して登場しません」

「一面だけ見れば、人間にはたしかに殺伐としていたり凶暴だったりする面もある。でもそれは一面に過ぎない。一人の人間を理解しようと思ったら、やっぱり一面からじゃなく全部を知りたいと思いますよね」

「人は常に、共同体の中で同一性を確認したいわけですよ。それを確認できるいちばん手っ取り早い方法は異物を見つけることです。その異物をみんなで排斥する。排斥しても、今度はそれに外から攻撃されるかもしれないと怖くなり、仮想的をつくって先制攻撃をはじめる。アメリカなどはその悪循環にずっと前からはまっているですが、日本も同じようになってきた気がしますね」

「いまの社会で起きているのは、人々が被害者に過剰に感情移入して、加害者への制裁や厳罰を声高に要求するような現象です。なぜ過剰に反応するのかというと、加害者を憎みたいからですよ。加害者を憎悪することで、自分たちの一体感を高めたい。そういう傾向がどんどん強くなっている。僕はそれが嫌なんですよ」

「花粉症を思い起こせばいいと思うんですよ。花粉症というのは、過敏になりすぎた免疫細胞がスギ花粉を誤爆しているわけですね。スギ花粉そのものは何ら害はないわけですが、誤爆の副作用で身体が壊れてしまう。皮肉なことに、日本にこれだけ花粉症がはびこった理由は、もちろん戦後の植林政策の誤りもあるんだけど、もうひとつは雑菌が減ったからですよ。敵がいなくなっちゃった免疫細胞が、必死に敵を探しているわけですね」

「過剰なセキュリティが、母体である社会を壊すんです」

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スティーヴン・フリアーズ「クイーン」

2007年05月17日 | 映画

のち

スティーヴン・フリアーズ「クイーン」はダイアナが死んでからの一週間の動きを王室を中心として描いた映画である。
この映画を見た人は女王とブレア首相が好きになるだろう。
王室の伝統を守りたいという女王の気持ちはわかるし、女王を守りたいというブレアの気持ちもわかる。
しかしながら、ダイアナの死に涙することがなかった女王が、鹿が撃たれたと聞いてショックを受けるシーンを最後に入れたのはなぜだろうか。
そして、ダイアナの遺体を連れて帰るのに王室専用機を使うと言うチャールズに対し、「また無駄遣いをしていると非難される」と女王はいさめたように、女王はマスコミの王室批判を気にしている。
しかし、マスコミからダイアナの死に女王は冷たいという一方的な報道をされ、それに煽られて国民がヒステリックに反応しても、女王は今までどおりの生活を続けようとする。
このあたりも不思議。

もちろんこの映画はフィクションなわけで、女王がダイアナの死をどう感じたかは知りようがないし、女王夫妻やブレア夫妻の会話などどこまで事実で、どこから虚構なのかわからないのだが。

それにしてもエジンバラ公やチャールズが王子たちを連れて鹿狩りに行くのには、えっと思いましたね。
王子たちが母親の死にショックを受けただろう、その気晴らしをというのはもっともだが、わざわざ殺生をしなくてもと考えるのは日本的発想か。
なにせ日本だったら精進料理にしましょうという話になるわけで、宗教観の違いということだろうか。

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エマ・ラーキン「ミャンマーという国への旅」2

2007年05月14日 | 

エマ・ラーキン「ミャンマーという国への旅」を読んで思ったのは、じゃ日本はどうなのかということ。
4月11日(都知事選のあと)の毎日新聞に「政治家にオーラ求めるな」という記事があった。
石原慎太郎について聞かれて、こう答えた人たちがいる。
「あれだけ大きいことできる人だもの。私らとは違うんだから。高い店で飲んだり、高級ホテルに泊まったりもするでしょう」=元会社員の男性(65)
「いろいろ批判はあるけど、迫力があって引っ張っていってくれそうな感じがする」=主婦(37)
こりゃ何だ、ジョージ・オーウェルの「動物農場」沼正三「家畜人ヤプー」の世界じゃないか。

「私たちは理解する力があります。善悪の判断ぐらいはできます。でも自分で判断することは許されないんです」
とビルマの女性がエマ・ラーキンに話す。
「パンとサーカス」という言葉がある。
食べ物と見せ物(気晴らし)で満足する日本人は、自ら進んで理解する力を失い、自分で判断をしなくなってもおかしくはないなと思う。
この調子ならビルマよりももっと巧妙な管理統制社会になるかもしれない。


そんなことを思ってたら、イギリスが「1984年」化しているという記事があった。
また毎日新聞から
「英政府は4日、問題行動をする人に音声で注意や警告ができるスピーカー付き監視カメラを各地に設置すると発表した」
とのこと。
ブレア政権発足の97年に10万台だった監視カメラが420万台、40倍以上に増えているそうだ。
国民は外出すると1日平均300回撮影されている計算になるという。
ところが、犯罪は97年450万件から04年600万件に増加、強盗は19%減ったが、殺人は15%、性犯罪も57%増えている。
「英王立工学アカデミーは「このままだと我々の『ビッグブラザー』社会は、オーウェルが思い描いた以上の強力なものになってしまう」と警鐘を鳴らしている」
と、ここでもオーウェルの名前が出てくる。

イギリスだけではない。
昨年の話だが、
「英国訪問中の石原慎太郎東京都知事は5月31日、テロや犯罪対策としてロンドン市内に数多く設置されている監視カメラについて「実績のあるものはまねした方がいい。日本にとって不可能なことではない」と述べ、東京都での導入拡大に前向きな姿勢を示した」
とのこと。

日本では、治安が悪化しているという不安感を煽り立られて、地域で安全を守ろうという風潮になっている。
防犯が危機管理に結びつき、不審者というと外国人となるから、防犯のつもりがテロ対策に協力していることになってしまう。
「国民保護法」という国家総動員体制が着々と進行しているわけだし、どうなることやら。

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エマ・ラーキン「ミャンマーという国への旅」1

2007年05月11日 | 

ミャンマーの首都が移転したそうだ。
毎日新聞は「荒野の中の楼閣」と書いている。

ジョージ・オーウェルは作家になる前の数年間、ビルマで警察官をしていた。
そのオーウェルのデストピア小説「1984年」とそっくりなのが現在のビルマである。
密告者がどこにでもいて、政治についての不平、不満を漏らすと、すぐさまそれが伝えられてしまう。
乞食までが人の話に耳を傾けているというのだから。

エマ・ラーキンはビルマにおけるオーウェルの足跡をたどりながら、ビルマの人たちと話し、「ミャンマーという国への旅」でその声を伝えている。
軍事政権が改名したミャンマーではなくてビルマ、ヤンゴンではなくてラングーンを使っていることからもエマ・ラーキンの立場がわかる。

ある司祭はこう言っている。
「どうしてそんなに少数の人間で、多数の人たちを意のままにできるのかとお考えでしょうね。それは恐怖ですよ」
アウン・サン・スーチーが列挙している「恐怖」
「投獄の恐怖」「拷問の恐怖」「死の恐怖」「友人、家族、財産、生活手段を失う恐怖」「貧困の恐怖」「孤独の恐怖」

報道が統制され、テレビ、新聞はウソを言っていることをみんな承知している。
しかし、みんな黙っている。
密告されて捕まるのが怖いから。
ビルマの軍事警察に逮捕されると、拷問され、友人、仲間を告発させる。
「彼らは一つだけ友人たちに約束をしている。三日間だけは頑張りとおすという約束だ。この三日間は、ほかの仲間たちが姿を消すだけの余裕を作る時間だ」

そして、ビルマでは義務教育がない。
教育を受けると、これはおかしいと思うようになる。
だから国民を愚かなままにさせておく。
愚民化政策である。

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冤罪と重罰化

2007年05月08日 | 死刑

先日、免田栄さんの講演があった。
昭和23年、夫婦が殺され、二人が重傷を負った事件の犯人として免田さんは逮捕された。
明らかなアリバイ(証人が裁判でちゃんと証言している)があるにもかかわらず、死刑の判決を受けた。
何度も再審請求を行い、そうして昭和58年に無罪、即日釈放となった。

免田さんが拘置所にいるころは、他の死刑囚と話をすることができた(今はできない)。
死刑囚同士が話していると何となくわかるもんだそうで、冤罪の人も何人かいたと免田さんは話されてた。
まるっきりの無実ではないにしても、事件現場にいたけど何もしていない人、泥棒に入ってつい殺してしまった人などのように、死刑にするのはかわいそうだと思う人もいたそうだ。
刑務官もこうしたことは知っている。
しかし、執行となり、立ち会えと命令されると断ることはできない。
顔面蒼白で、震えていたそうだ。
やはり死刑は残酷な刑罰だと思った。

免田さんは再審請求を何度もし、そうしてやっと無罪を勝ち取ったわけだが、それができたのは外に支援者がいたからである。
死刑囚の多くは再審請求のやり方を知らないし、また支援者もいないし、お金もない。
だから、冤罪であっても、あるいは罪が重すぎても、再審請求できなかった人がいるそうだ。

罪が重すぎるということだが、たとえば泥棒に入って、たまたま家人を殺してしまったとする。
その場合、窃盗と殺人ということになるが、しかし強盗殺人とされると、刑がぐっと重くなり、場合によると死刑になる。
ウィキペディアによると、窃盗とは、誰にも気付かれることなく、他人の物を故意に断り無く持っていくこと。
強盗とは、脅迫や実力行使などによって他人の物を無理矢理奪う犯罪。
強盗が人を死亡させたら強盗致死罪、死亡の結果につき行為者に故意があった場合、強盗殺人罪。
窃盗と強盗、故意のあるなしで量刑がまるっきり違ってしまうから大変である。

で、厳罰化が進んでいるということ。
犯罪が増えていないし、凶悪化もしていないのに、刑罰だけがだんだん重たくなっている。
新受刑者の平均刑期が1994年は23・4月、1999年は25・6月、2004年は29・0月と増えている。

死刑や無期刑は近年ぐっと増えている。
死刑は以下の通り(表を作るにはどうしたらいいのだろうか)

年次   第1審死刑判決人員 死刑確定人員
1993     4               
7(2)
1994     8            3(1)
1995    11            3(0)
1996     1            3(0)
1997     3            4(0)
1998     7            7(1)
1999     8            4(0)
2000    14            6(3)
2001    10            5(1)
2002    18            3(1)
2003    13            2(2)
2004    14           14(2)
2005    13           11(4)
2006    11           19(4)

無期刑は以下の通り
年次    第1審        確定人員  無期刑仮釈放者
     無期刑人員                   平均在所期間
1993   27       27         18年1月
1994   45       35         18年3月
1995    37       35         20年
1996   34       34         20年5月
1997    33       32         21年6月
1998   47       45         20年10月
1999   72       48         21年4月
2000   69       59         21年2月
2001   88       68         22年9月
2002   98       82         23年5月
2003   99      117       23年4月
2004  125       115     平均出ず
2005            134      27年2月

死刑や無期刑が相当の犯罪が増えているわけではない。
買い物にたとえて言うと、検察が値段を高めに設定し、弁護人が安くするよう交渉する、そして裁判所が適当な値段を決める、ということになると思う。
本来は5千円程度の品に検察が1万円と値を付けていたのが、次第に高くなって、今は2万円の値段を請求するようになった。
それに合わせて、裁判所もだんだんと高い値段にするようになり、今は検察の言いなりで値段を決めている。
そういう感じだろうと思う。
つまりは刑罰のインフレ化が進んでいるということである。

たとえば、2005年、認知症のお年寄りが暮らすグループホームで、利用者の女性(84)にやけどを負わせて殺害した疑いで殺人罪に問われた元男性職員(28)の場合である。
検察は懲役13年を求刑し、地裁は懲役12年、高裁は懲役10年の判決。
そうして最高裁は控訴を棄却して懲役10年が確定した。
裁判での争点は殺意があっての殺人罪か、それとも殺意のない傷害致死か業務上過失致死罪かという点である。
女性は石油ファンヒーターを服の上から押しつけられ、やけどによる熱傷性ショック死。
殺意があったか、かっとして思わずやってしまったか、そのあたり本人だってわからないと思う。
男性は一人で夜勤していたわけだし、直後に遺書を残して自殺を図っている。
情状酌量の余地があると思うのだが。

となると、冤罪はなくなっていないだろうし、実際の事件よりも重い罪名にされるということも多いだろう。
免田さんが逮捕されたころとは検察や裁判所のやり方は違っているだろうが、状況は変わらないというか、まずくなっているように思う。

再審請求をしている免田さんに、浄土真宗の教誨師が「前世の因縁でこうなったんだから、それを受け入れて死刑になりなさい」ということを言ったそうだ。
赤面した。

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平良均「教育がおかしくなっている」

2007年05月05日 | 日記

おしゃべり会での平良均さんのお話「教育がおかしくなっている ゆとり教育から「教育基本法」改正へ」をテープ起こししました。

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