三日坊主日記

本を読んだり、映画を見たり、宗教を考えたり、死刑や厳罰化を危惧したり。

赤狩り(4)

2019年10月27日 | 映画

なぜエリア・カザンは嫌われるのか。
『ハリウッドとマッカーシズム』で陸井三郎は「何よりも第一の理由は、カザンのあまりにも徹底したFBIおよび非米活動委への迎合ぶりにあったとみられる」と書いています。

『エリア・カザン自伝』の訳者である村川英氏は、1987年にカザンへのインタビューで赤狩りについて質問しています。
それに対するカザンの返答です。

あの事件について、コメントなどありません。大変だったということでもありません。(略)あの事件は、いくつか大きな出来事があった私の人生では、小さな出来事にすぎません。


1952年、カザンが非米活動委員会で共産党員の名前をあげた時、グループ・シアター時代からの友人である脚本家のクリフォード・オデッツも、かつての同志の名前をしゃべった。
「その後の彼は、もう以前と同じ人間とは同じ人間とは思えなかった」とカザンは書いています。

それから18年後ですから、1970年ごろでしょうか、「わたしは自分の好きな映画を撮る自由に恵まれ」ていた。
カリフォルニアに行くと、クリフォード・オデッツを食事に誘うが、一度も応じなかった。

彼が映画村の〝今ふう〟のレストランにいこうとしなかったのは、(略)リベラルな連中と出会ったりすると、じっと見据えられたあげくに、そばを通るとそっぽを向かれたからだ。(略)彼にとっては、冷たい視線を浴びるほうがもっと苦痛だったのだろう。

カザンも「冷たい視線」を浴びたはずですが、意に介さなかったのでしょう。

わたしに関していえば、証言してよかったと思っている。何人かの旧友が傷ついたのは遺憾だったが、自分自身が傷つく云々は問題ではなかったからだ。

村川英氏はカザンを「強靱で狡猾でもあった」と評しています。

1938年、カザンが29歳のころだと思います。

そのシーズンにシカゴで決意したのは、罪悪感という病から、社会が公認する制約や倫理から、自らを解き放つということだ。ひそかに、静かに、わたしはそういったものを投げ捨てて我が道を選んだ。人生から望ましい悦楽と冒険を引き出していった。(略)
どんな結果になろうとも、自分の欲求や衝動に逆らうつもりはなかった。実際的、職業的、感情的、あるいは道徳的理由で、これ以上自らを制限するつもりはなかった。

これは浮気をするという宣言ですが、赤狩りに協力したことについても罪悪感を持たなかったように思います。
仲間を非米活動委員会に告発したことについて、「ほんの一年の間に、わたしは自分のしたことに対する罪の意識も、とまどいさえも吹っ切った」とも書いていますから。

1934年から1935年の一年半の間、共産党員だったカザンが非米活動委員会から召喚状をいつ届くかわからない状態のころの気持ち。

唯一支えになったのは、自分のことは真実を洗いざらい喋っても、旧友たちの名前は一人も出すまいという決意だった。


1952年1月、下院非米活動委員会に行く。
ラファエル・ニクソンから「誰があなたを引き入れたのですか?」という質問には回答を拒否した。
バーナード・カーニー議員が、グループ・シアターのほかの党員の名前を明かすよう促したが、「それはできない」と断った。

しかし、家に帰って考えを変えます。

我が国における共産主義者の活動を調査するのは政府の義務だ、とわたしは信じていた。(略)
わたしはその正体、つまりは完全に組織された世界的規模の陰謀団という正体を熟知していた。

そしてこのように書きます。

映画におけるキャリアの重みと価値とをはかり始めていた。わたしは信じてもいない大義のためにそれを放棄しようとしていたのだ。とても正気とは思えなかった。


そして、名前を明かそうという気持ちになった、その経緯を細かく書いています。
〝協力的〟な証言をする前に書いた日記。

いったい何のためにすべてをなげうとうというのか、と何度も問うてみた。正当とは思えない秘密を守るため、他人がすでにその名前を明かしたか、そのうち明かすであろう人々を守るためではないのか? わたしは長年、共産主義者を憎んできたのに、彼らを守るために自分のキャリアをなげうつことが正しいとは思えない。


非米活動委員会に再出頭を要請し、声明書を提出した。

わたしは秘密を暴露することで役立ちたいと思ったのだ。


1952年4月11日、二度目の聴聞会の議事録が二日後に公表され、カザンを非難する声が一挙に高まった。
それに反論するためにニューヨーク・タイムズに意見広告(妻のモリーが書いたもの)を載せたが、さらに軽蔑を海、敵意をかきたてる仕儀になった。

陸井三郎氏はこのように書いています。

カザンのかつての友人、同僚たちを最終的にかれから決裂させたものは、所詮はかれ自身だけの品性にかかわるかれの転向の仕方にあったのではなく、むしろこの広告に見られるようなかれの態度が、かつての友人・同僚たちや公衆一般にもかれ自身の強迫観念じみた〝品性〟を要求したところにあったと見るべきであろう。


カザンは証言した後も、社会的なテーマで映画を作り続けました。
人間性とその人の作品とは正比例しないという例の一つがカザンなんだと思います。

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赤狩り(3)

2019年10月14日 | 映画

1970年、ダルトン・トランボはブラックリストに全面的な協力をしてきた全米脚本家組合から功労賞を贈られます。
受賞演説で「あの長い悪夢の時代を罪なしに生きぬいたものは―右派、左派、中間派を問わず―われわれの間に一人もいない」とし、みんな犠牲者だったのだから「ゆるしあおう」と発言しました。
そのトランボも「カザンについては軽蔑を感ずる」と切り捨てていると、陸井三郎『ハリウッドとマッカーシズム』にあります。

1998年、エリア・カザンはアカデミー賞名誉賞を与えられました。
ところが、リチャード・ドレイファスたちは授与反対の声明を出し、会場の外で授与支持派と反対派の双方がデモを行い、会場にいた映画人からブーイングを浴びせられました。
というのが、非米活動委員会に召喚されたカザンは、友人の劇作家・演出家・映画監督・俳優ら11人の名前を出したからです。

でも、証言を拒むとダルトン・トランボたちのように仕事を失ってしまうので、やむを得ないと私は思ってました。
『ハリウッドとマッカーシズム』によると、エリア・カザンが内通者となったのは映画演劇業界では37番目だし、告発した人数も多かったわけではありません。
内通した人数は、監督では、ロバート・ロッセンが54人、エドワード・ドミトリクが26人、エリア・カザンは11人です。

ワシントン・ポストも、『エリア・カザン自伝』を書評に取り上げ、エリア・カザンの作品は高く評価しても、カザンの行為を許してはいないそうです。

『エリア・カザン自伝』は1988年の発行。
エリア・カザンが79歳の時です。
リリアン・ヘルマンの訃報に接したことが書かれており、リリアン・ヘルマンは1984年に死んでいるので、何年かかけて書いたのでしょう。
カザンは何でも残しておくそうで、日記、メモ、自分が出した手紙、愛人や母たちからの手紙、匿名の手紙などを引用しています。

やたらと長いこの自伝を最後まで読ませるのは面白いからです。
演劇界や映画界の裏話、有名人への率直な評価(悪口)、そして露悪的に自分のことをさらけ出し、女遍歴を語ります。
最後にこう書いています。

わたしは自分が知っている人に係わる真実、そして、とくに自分自身に係わる真実を語ろうと努めてきた。わたしは他人よりも自分に厳しい目を向けてきたつもりだ。

読み進むにつれて、カザンが非難され続けているのは性格の悪さがあるんじゃないかと感じました。

「わたしは本当に妻を愛していた」と書いていますが、常に浮気をしていた。
何度か修羅場があったし、妻が弁護士に依頼して離婚手続きを開始したことも二度あった。
そして、「わたしがほかの女性たちと親しくなったとしても、みんな一時的な放縦に過ぎなかった」と自己弁護しつつ、「いうまでもないが、モリーはわたしと結婚すべきではなかったのだ」、「ともに暮らすということは、他の何にもまして困難だった」とも書いています。

彼女がわたしに何を求めているのかを気にするあまり、わたしは長年にわたって、自分が何を求めているのかを見失っていた。自分の考えを疑わず、決して動揺することのない完全な〝正統〟の人モリーは、柔らかな人間性と厳しい道徳観を併せ持ち、今のわたしなら狭量と呼ぶような立場をとっていた。(略)
彼女が〝心地よい〟と感じた人生は、わたしが見る限り、わたしを蝕みつつあったからだ。不倫がわたしの命を救ったのだ。

浮気は妻のせいだと言ってるわけです。

不倫は自分の人生を続けていくための、あるいは〝結婚生活を救う〟ための努力にほかならないとさえ思えた。それがモリーと共生していくための唯一の道だった。


1962年、53歳の時、『草原の輝き』の宣伝のため、妻とストックホルムに着いた翌日、妻でない女性(23歳年下)が息子を生んだことを知らせた電報を受け取った。
「そのとき、自分が狼狽したかどうか思い出すことができない」

翌年、妻は突然亡くなります。
妻の死後、「わたしは今ならどこにでもいけたし、どこででも暮らせたし、なんでもやりたいことができた。それは鮮烈な実感だった」と書いています。

子供たちがどう思うか、さすがにカザンも気にしています。

ただ一つ、自分の子どもたちがどう思うだろうかという心配だけが筆を抑えた。わたしは彼らの愛情を失うことを恐れていた。だが、若干の救いはある。わたしの認識によれば、人生のどんなものごとも思った以上に早く消化され、忘れ去られるものだ。(略)だが、わたしについてすでに知っていることに加えて、こういった動かし難い新事実を受け入れてもいいころではないか。そうすれば、善も悪も一つの人生の両面として調和して見えてくることだろう。
わたしはずっと以前から、そういうことを恥とは感じないようになっていた。


53歳で妻が死に、58歳で長年の愛人(1962年に子供を産んだ人)と再婚。
しかし、60をすぎても行状はおさまらないので、夫婦仲は悪い。
1980年に2番目の妻も死に、2年後の73歳の時に再々婚(37歳年下)。
幸せだとのろけて(2人の写真が最後のページ)、『エリア・カザン自伝』は終わります。
子供たちはどう思ったでしょうか。

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赤狩り(2)

2019年10月07日 | 映画

ダルトン・トランボたちが召喚された当初、世論は19人に好意的で、非米活動委員会にかなり批判的だったと、ブルース・クック『トランボ』や陸井三郎『ハリウッドとマッカーシズム』にあります。

19人を支援するためにハリウッドでは「米国憲法修正第一条の定める宗教言論の自由のための会」が結成された。
60人以上の監督、俳優などの著名人が発起人になり、最後には500人以上になった。
19人がワシントンに飛ぶ前夜には、7000人の参加者を集めて、資金カンパの決起集会が開かれた。

非米活動委員会による「共産党の映画業界への浸透」に関する聴聞会は1947年10月20日に始まった。
非米活動委員会の喚問も活動そのものも憲法修正10カ条すべてに違反している。
特に、言論と出版の自由、平穏な集会の自由の権利を規定した米国憲法修正第一条を盾にたたかうことにした。
米国憲法修正第五条(黙秘権)を申し立てれば議会侮辱罪を逃れられるという意見もあったが、自己に不利益な供述を強要されないことを定めたこの条項は、ギャングや刑事犯に利用されてきたので、潔白と信じる彼らは第五条を援用しないことに決めた。

非米活動委員会は、共産党の手に落ちたハリウッド、モスクワからの命令で動く共産主義者に翻弄されるスタジオと職能組合、映画から共産党のプロパガンダを引き出そうとする監督や脚本家というイメージを描き出そうとした。

「あなたは今、アメリカ共産党の党員ですか、あるいはかつて党員でしたか」という質問に対して、ハリウッド・テンは答えるのを拒否し、10人は議会侮辱罪を言い渡された。
トランボは「これはアメリカ強制収容所の・・・はじまりだ!」と叫びながら強制退去させられた。

1947年11月、映画業界の大物プロデューサーやスタジオ幹部たちの映画制作者協会の総会がウォルドーフ・アストリアホテルで開かれた。
そして、ハリウッド・テンを告発する決議が採決され、ブラックリスト作りが正式に決定された。

ウォルドーフ協定の主旨。

我々は10人全員を補償なしで直ちに解雇あるいは停職とし、無罪となるか侮辱罪の嫌疑を晴らし、共産主義者ではないと宣誓するまで再雇用はしない。
さらにもっと広く、ハリウッドの破壊分子や非愛国者と目される者についても、同じように積極的な行動を起こす心構えでいる。
今後、共産党員、力や違法・違憲行為によってアメリカ政府の転覆を唱えるいかなる団体のメンバーも、情を知って雇用しない。


ウォルドーフ協定が出ると、ハリウッドの機運は一夜にして変わった。
弱い立場にあるスターや外国生まれのアメリカ人(エリア・カザンたち)は忠誠心を証明してみせなければならなかった。

これ以降、1950年代を通じて事態は悪くなるばかりだった。
映画業界にブラックリストを実施する「アメリカの理想を守るための映画同盟」は、スパイや情報提供者のネットワークを持ち、大手銀行にまで浸透していた。
ブラックリストに載っている名前に小切手を振り出せば、「アメリカの理想を守るための映画同盟」に通報され、違反した会社に圧力がかけられる。
独立系の制作会社であっても、施設の利用や映画の配給、そして俳優の手配まで大手のスタジオに頼っていたため、そのいずれかでも融通しないとスタジオに脅かされれば、今後は違反しないと約束するしかなかった。
ブラックリスト入りした脚本家がテレビの闇市場で働くことも、テレビ業界でブラックリストを強制している組織は、広告代理店や広告会社を通じて圧力をかけていた。

アメリカ映画協会は、ブラックリストに載った脚本家の名前は、それ以前に書いた作品であってもクレジットしないと決めた。
ブラックリスト入りしたダルトン・トランボはB級映画や独立系のプロダクションの脚本を他人名義で書くようになった。
1947年、キング・ブラザーズ・プロダクションが提示した契約は、1年半で3750ドル。

1948年、アメリカ連邦地裁は証言を拒否した10人全員に1年ないし6ヵ月の有期刑と、1000ドル前後の罰金刑を科する有罪判決を下した。
1949年11月、上訴棄却。
1949年、トランボは議会侮辱罪で刑務所に入る前に、映画の原案で4万ドルの報酬をもらう。(その映画は制作には至らなかった)

1950年、トランボは刑務所に入るためにロサンゼルスから発った。
空港には見送りの人だかりができ、「ダルトン・トランボ 刑務所に行く。ハリウッド・テンに自由を!」という横断幕が広げられた。
ペンシルベニア駅に着くと、1000人を超える人が集まり、トランボとローソンに声援を送った。
残りの8人がロサンゼルスを発った時は、見送りは3000人いた。
1950年6月、刑務所に入り、10か月後に出所。

長年にわたってトランボは新聞や雑誌などで必要以上のバッシングを受け、嫌がらせの手紙も届いていた。
自宅の前で襲われたこともあった。
夜遅く駐車スペースに車を入れると、家の前に少年が2人と少女が1人いて、「共産党野郎を追い払え」みたいなことを歌っていた。
「出ていけ」というと、殴り倒された。
蹴られながらも、1人の足をつかむと、相手は手を振りほどこうとしてもみ合いになり、結局、3人は逃げ出していった。

妻のクレオはPTAの集まりに行っても、1人で座っていた。
誰もクレオの隣に座ろうとせず、近くに座ろうとすると、みんな席を移ってしまった。
一番ひどい時期は、次女が通う小学校の校長までがクレオと話をすることを拒否した。
キャンプファイアーガールズの演目のリハーサル中、クレオは校長を含む全員から無視された。
10歳の娘も3ヵ月の間、クラスメイトから無視され、ときには罵声を浴びせられることもあった。
味方になってくれる友だちは1人もいなかったばかりか、みんなが彼女を「裏切り者」と呼んだ。

映画芸術科学アカデミーは、ブラックリスト入りした脚本家にはいかなる場合もオスカーを送らないと決めた。
しかし、トランボは偽名で書いた『黒い牡牛』で1957年にオスカーを受賞した。
1958年には、トランボは闇市場であっても1本あたり最高で7万5000ドルの脚本料を得ていた。

1956年、ブラックリストに入っているジュールズ・ダッシンが監督し、ベン・バルツマン(彼もブラックリストの一人)の脚本の『宿命』がフランス代表作品としてカンヌ映画祭に出品された。
映画祭のアメリカ代表団は審査委員たちに、この作品に主要な賞を与えないよう圧力をかけ、審査結果によってはアメリカは脱退すると威嚇した。

1960年、フランク・シナトラが制作予定の映画の脚本家にアルバート・マルツ(ハリウッド・テンの一人。『ハリウッドとマッカーシズム』にはトランボとある)を選んだと発表したら、米国在郷軍人会やカトリック団体が脅しをかけ、シナトラは屈した。

ブラックリストは1960年に破られた。
ダルトン・トランボの名前がクレジットされている『栄光への脱出』と『スパルタカス』(どちらも1960年)の上映に反対するカトリック退役軍人会のデモ隊が映画館を取り囲んでいた。
ところが、次期大統領のジョン・F・ケネディは司法長官となる弟のロバートとともに『スパルタカス』を見た。
感想を聞かれて、ケネディは「楽しめたし、とてもいい映画だった」と答えた。
このケネディの支持がカトリック退役軍人会や米国在郷軍人会、「アメリカの理想を守るための映画同盟」、非米活動委員会からの反対に、事実上の終止符を打った。

とはいえ、『アラビアのロレンス』は、北米ではトランボの名前はクレジットされていない。(北米以外では脚本の共同執筆者としてクレジットされている)
1966年に制作された『野生のエルザ』では、レスター・コール(ハリウッド・テンの一人)の名前はクレジットされていない。

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赤狩り(1)

2019年10月03日 | 映画

ドルトン・トランボ『ジョニーは戦場へ行った』(1971年)を見たのは高校の時です。(ダルトンではなかった)


芸術派、もしくは社会派と思ってたら、脚本家としてのトランボは職人だと、何かに書いてありました。
 

ジェイ・ローチ『トランボ』を見て、読んだのがブルース・クック『トランボ』(1977年)です。
冒頭、『パピヨン』(1973年)が撮影に入ったが、撮影と同時進行でダスティン・ホフマンの登場する場面を脚本に書き加えなければならなくなり、トランボがその仕事を引き受けたというエピソードが書かれています。
脚本料は制作の推定予算に比例して上がり、大作映画だと脚本料はかなりの金額になるそうです。
報酬はスティーブ・マックイーンが200万ドル、ダスティン・ホフマンは125万ドル。


トランボはハリウッド最高級の脚本家だった。
1944年、『緑のそよ風』のあと、MGMから週に3000ドル、あるいは映画1本につき7万5000ドルの好きなほうを選べるという契約を提示された。
脚本に加わっても、クレジットに名前が出ないことがしばしばだし、脚本が売れても制作されないこともあった。

戦争の悲惨さを強く訴える『ジョニーは戦場へ行った』を作ったダルトン・トランボは赤狩りで刑務所に入っています。
赤狩り時代にもトランボは変名で多くの脚本を書いています。

1947年、下院非米活動委員会はハリウッドに目を向けた。
ハリウッドの友好的証言者から聴取したが、その全員がアメリカ映画協会の作った反共組織「アメリカの理想を守るための映画同盟」のメンバーだった。
1947年9月23日、ワシントンで行われる非米活動委員会への出頭を命じた召喚状が19人に手渡された。
実際に非米活動委員会に召喚されたのは11名。
そのうち、ブレヒトを除く10名がハリウッド・テンと呼ばれる。
その一人がトランボだった。

陸井三郎『ハリウッドとマッカーシズム』によると、非米活動委員会は、1938年、アメリカの仮想敵国、特にドイツの宣伝・スパイ活動を主として調査するという名目で設置された。
ところが、設置目的とは反対に、超保守派、白人至上主義者、反ニューディーラーと反リベラル、反ユダヤ主義者、人種差別主義者、親ナチ、親フランコ分子などの結集の場となった。
1950年代末までにおそらく何万人(映画、演劇、ラジオ、テレビ、そして連邦、州、自治体などの職員や教師、大学などの学者や、会社、労組、さらには一般事務職や郵便配達)もが、FBIの秘密捜査によって赤狩りのブラックリストに載せられ、職から追放された。

『ハリウッドとマッカーシズム』の最後に、マッカーシズムの15年間に急死や自殺した17人の名前があげられています。
スタンフォード大学の学者で、非米活動委員会に出頭の二日前に服毒死したウィリアム・K・シャーウッドの妻が、夫に代わって1957年6月に出頭して、ステートメントを読み上げ、委員会室から追い出された。

非米活動委の委員各位へ
みなさんは私の夫を殺し、子供たちを父なし子にする原因をつくりました
これは私たち一家の悲劇です
でも、みなさんがアメリカの子供たち、世界の子供たちに向けておかした罪悪にはくらぶべくもありません(略)
委員各位よ、みなさんがやったこと、現にやっていることは、よこしまなことです。出てゆきなさい。家に帰りなさい、そして頭をたれて、みなさんの神にゆるしを乞いなさい。
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