『ラヴェンダーの咲く庭で』はオールドミスの姉妹の話。
老嬢小説という分野があるかどうか知らないが、そういう感じ。
こういうのは好きです。
話の時代設定は第二次世界大戦前夜となっている。
姉のほうは前の戦争の時に看護婦をしていたという。
姉役のマギー・スミス、妹役のジュディ・デンチ、ともに1934年生まれの71歳。
となると、第二次世界大戦の30~40年前というと、どの戦争の時に看護婦をしたのだろうか。
第一次世界大戦だとしたら、姉妹は50歳前後ということになる。
キム・ベイジンガー(1953年生)、イザベル・アジャーニ(1955年生)あたりが演じたら、年はぴったりだが、どろどろの愛欲ドラマになって、生々しすぎるか。
クリスティン・スコット・トーマス(1960年生)が妹役でもいいと思う。
なにせこの人、よその男に惹かれる人妻役ばかりしているから、年下の男が好きになる演技はお手のものである。
もっともオールドミスの妹には男性との淡い経験すらない。
姉は看護婦をしていた時に知り合った恋人(戦死した)がいるが、妹はそういう思い出すら全くないまま、年を取ってしまった。
そして、「人生は不公平よ」と訴える。
そう、そのとおりだ!
ナターシャ・マケルホーンという女優が出演している。
この女優さん、『ソラリス』や『トゥルーマン・ショー』では、主人公の忘れられない人ということになっている。
欧米では、この顔が美人なのだろうか。
不思議である。
映画では、姉妹はこの女を嫌い、妹は「童話に出てくる魔女みたいだ」とまで言うのだが、私も同感である。
こういう女が楽しい人生を送っているのに、どうして私は、と姉妹は感じるのもわかります。
題名のラヴェンダー、庭のどこに咲いているのか、最後までわからなかった。
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暑さ寒さも彼岸までというが、本当に涼しい季節になった。この間までのあのうっとうしい暑さが嘘のようである。
人は、気温の変化によって生活の一部を変えることがある。今日は冷えた生ビールが飲みたいなあと思っていたのに、気温が下がると熱燗が飲みたくなる。
短パンに半袖ルックが肌寒さを感じると同時に、いつの間にか長袖、長ズボンになっている。
最も季節に敏感なのは、コンビニエンスストアであろうか。気温の変化やその日の天気によって商品をこまめに変えて販売している。昨日まであったソフトクリームやかき氷の看板が、おでんや肉マンの宣伝に変わっている。消費者のニーズに敏感に対応することが売り上げに直接結びついているのだろう。
秋といえば、何となく物悲しいというか、感傷的になりやすい季節である。一日の昼の長さも彼岸を過ぎるとどんどん短くなる。落葉樹の葉は紅葉し、やがて落ちていく。大騒ぎしていた蝉の声は、静かな秋の虫たちの声に変わる。なんとなく人恋しく演歌が聞きたくなる。
都会では、クールビズ姿よりもスーツの着こなしが気になる季節になった。町を歩く女性の装いも落ち着きを取り戻し、なにか物足りなさを感じる。頬をつたう冷たい風が、衣替えを促している。
ああ、もう秋なんだな。すごしやすさを感じつつ、過ぎ行く季節を惜しんでいる自分がいる。過ぎ行く時を惜しんでいる自分がいる。
20代の女性が「結婚する必要を感じない」と言うのを聞き、結婚するのは当然のことだと思っていた私はびっくりしてしまった。
妻に話したら驚いた顔をしたが、だけど何だかうらやましそうでもあった。
考えてみれば、私の姪(3人いる)も今のところ結婚する気はないらしい。
少なくとも、結婚しなければいけないとは思っていないようだ。
先日、ある過疎地のお寺さんが、「このあたりでも三世代同居という家はほとんどないんですよ」と言われ、これまたびっくりした。
息子夫婦は近くに家を建てて別に世帯を持つのが普通なんだそうだ。
田舎は同居が当たり前だと思っていた。
じいちゃん、ばあちゃんが手を合わせている、その背中を見て小さい子供が育つということが、田舎でもなくなっているわけだ。
「家の宗教」から「個の宗教」へ、と言える時代はもう終わりかけているんだなと感じた。
柳田国男は「できるものならば死んでも故郷の山の高みから、永く子孫の生業を見守り、その繁栄と勤勉とを見守っていたいものだと思う」と書いている。
子孫がいつまでもそこに住み、これからも同じように生活をしていくだろうという安心感があるからこそ、死んでいけるということもあったと思う。
しかし、今は先祖の住む山の麓に子孫はもういなくなっている。
否定すべき権威としての家がなくなったらどうなるのだろうか。
こうした中で、何を依りどころとしていけばいいのか。
今までとは違う新しい物語が求められているのだと思う。
中国の世界創成説によると、混沌から宇宙が生まれる。
「清陽なる者は、薄靡して天と為り、重濁なる者は、凝滞して地と為る」
たとえて言うと、泥水をかき回してしばらくすると、上のほうが澄んできて、下のほうに泥がたまる。
このようにして、澄んだところが天となり、濁ったところが地となったというのである。
この中国の宇宙生成論を受けた服部中庸や平田篤胤は、上が天、中が地、下が黄泉に分かれたと考えた。
楽園は山頂のような高所にあり、水源である。
エデンから一つの川が流れ出して園を潤し、それは分かれて四つの川になる。
黄河の水源は西王母の住む崑崙山である。
シバの楽園であり、仏菩薩の住むカイラス山の麓にあるマナサルワ湖から、インドの四大河が流れ出す。
川を遡ってユートピアを訪れるという物語(桃源郷もその一つ)が多いが、それは水源には楽園があるからだと思う。
このように上方はすぐれた世界であり、下方にあるのは劣った世界だという神話は洋の東西を問わない。
では地下には何があるかというと、H・G・ウェルズ『タイムマシン』の八十万年後の世界や、F・ラング『メトロポリス』などのように、地下に住む大勢の労働者が地上で安楽に暮らす少数の支配階級のために働くといった物語は多い。
有頂天は須弥山の一番頂上にあるわけだし、奈落の底が地獄である。
プラトン『パイドーン』でも、非常に大きな球状の大地のいたるところにある窪みに我々は住んでいて、真の大地には神々が住んでいる。
すべての窪みは地下の通路によって連結しており、その中で一番大きな割れ目がタルタロス(地獄)である。
地下にある池で生前の善悪の判定がなされ、重大な罪を犯した者はタルタロスへ、敬虔に生きたと判定された者は真の大地(天)に住むと書かれている。
ということで、上下、高低、中心と周辺は、善悪、優劣、浄穢、貴賎、尊卑などの価値を表している。
『論註』によると、浄土は山や谷がなく、平坦だと書かれてあるし、辺境がないとも説かれている。
なるほど、浄土と楽園、ユートピアとはこの点が違うのかと納得したくなるが、『観経』を見ると、浄土には八つの池があり、そこから水が流れ出しているとある。
水が流れるということは、浄土も正確には平らではなくて、斜面になっているわけで、池のあたりが一番高所なわけだ。
そして『大経』では、道場樹という巨木が浄土にはあるそうで、これはエリアーデの言う、世界の中心にあり、天と結びついている世界樹を連想させる。
浄土の中心に大木があり、その根元に池があって、八方に水がゆるやかに流れている、そんなイメージである。
となると、浄土にも上と下、中心と端っこがあるわけで、ちょっと困った話ではある。
映画の『2001年・宇宙の旅』は、最後のほうがなんのこっちゃで、よくわからないが、原作のA・C・クラーク『2001年・宇宙の旅』を読むと、モノリスを作った宇宙人は精神だけの存在となって、永遠に生き続けるまでに進化した存在だということがわかる。
つまり、存在の最高形態は肉体を持たない精神存在だとされるのである。
続編の『2010年』『2063年』になると、まだ生きているはずのボーマン船長、そしてなんとコンピューターのHALまでも精神存在となっている。
これはクラークがスリランカに住んでいて、インドの思想に触れたからという気もする。
なぜなら、肉体の束縛を離れて精神だけの存在となることが、人間としてよりすぐれているというのが、天という世界の発想のもとだからである。
我々の住む色界は肉体と精神を持つ。
色界では肉体はないが、まだその残滓がある。
無色界では肉体を持たない、精神だけの世界である。
それが天の一番上の有頂天である。
おそらく、地獄では肉体を持つゆえに苦しみを受けるのだろう。
六道の考え方では、肉体がない存在のほうがより優れていることになる。
プラトン『パイドーン』には、哲学によって身を十分に浄めた人々は肉体なしに生きるとあるわけで、肉体を軽視する思想は洋の東西を問わないらしい。
ニューエイジはこうした肉体蔑視の思想の流れの一つ。
肉体は重みを持つために、本来自由であるはずの精神を閉じ込めてしまうからだそうで、天外伺朗氏の本にもそんなことが書れてある。
しかし、言うまでもなく我々は肉体を持って存在しているのだから、その肉体を軽視するということは、現実無視ということである。
だからこそ、仏教では精神だけの世界である四禅天ですら迷いの世界だとするんでしょうね。
『あの世の話』では佐藤愛子氏も負けずに変なことを言っている。
疫病や戦争で大勢が死ぬことが宇宙律なんだそうです。
ヒトラーやスターリンみたいな人が定期的に出現してもらわないと宇宙律がめちゃくちゃになるわけです。
何万人、何十万人もの人が虐殺されたり、エイズの感染者が増え続けていることも、佐藤愛子氏にとっては宇宙律を守る結構な話なんでしょうね。
それに対して江原啓之氏は「そう思います」と冷静に答える。
霊の世界や生まれ変わりを説く人は、人の痛みに驚くほど鈍感だと思う。
この手の人は自分は特別な人間なんだというエリート意識の臭みを強く感じる。
戦争とか災害とか疫病とかで死ぬのはよそ事だ、自分とは関係ないと思ってるんじゃなかろうか。
スピリチュアルの、生まれる前に人生を選ぶとか、生まれ変わりをくり返し様々な経験をすることで向上していくとか、カルマの清算とか、そういう主張は結局のところどんな悪をも、殺人だろうとなんだろうと肯定することになる。
たかだか100年の人生ではなく、もっと長い目で見たら、そんなこと大したことはない、というわけだ。
で、ネットで『あの世の話』を検索してみました。
「この本に出会えて本当によかった!★★★★★」
「霊的現象や心霊科学を分かりやすく説明されているので素人にも楽しく読める」
あなたは自分の子供が殺されても、「子供が死ぬといういい経験ができてよかった」と喜ぶのですか、と聞いてみたくなりました。
『あの世の話』で、佐藤愛子氏が江原啓之氏に「死後の世界はどうなっているのか」「霊とのつき合い方はどうすればいいのか」などと質問し、江原啓之氏が明解に答えている。
「講釈師 見てきたような嘘を言い」というのが私の感想。
霊についての細かい説明はいかにももっともらしいし、江原啓之氏自身の超常体験(小学校では人のオーラがまぶしくて黒板の字が読めなかったなど)は、主観的には実体験かもしれない。
指導霊が天狗だと傲慢になりやすい(鼻が高くなる)、狐霊はずるい一面を持つ、龍神だときつい性格などの説明はほほえましくもある。
また、江原啓之氏によると、人は15%ほどの霊能を持っているし、霊媒の体質は家の跡継ぎに多いというが、長男の私はそんな能力はなくまことに残念である。
それくらいならいいのだが、江原啓之氏はトンデモなことを言ってる。
たとえば、精神分裂は憑依現象であり、ノイローゼ、躁うつ病も憑依体質が出すものだ、病院に行くよりも心霊の治療をすべきだといったことである。
精神をわずらっている人が霊能者のもとへ行けば、よくなるものも悪くなる。
さらに江原啓之氏はこんな発言をしている。
殺してくれる人がいるから自分が殺されることができるんだと。だから、その人に対しては感謝しなきゃいけないと。それで、自分を殺すということのために、その人はその分カルマを背負ってくれる。
自分は殺されたことにより、殺された心の痛みを理解できて、二度と人を殺さない魂になれる。だから、その人のおかげで自分はそれだけ向上できるんだから、そして自分のことでカルマを背負ってくださるから、その人を愛さなきゃいけない。
ですから、世界人類みな愛さなきゃいけないにつながってくる。
この暴言に対して、あの口の悪い佐藤愛子氏は「なるほど」としか言わない。
ええ~、信じられますか。
オウム真理教のポアとまったく同じ考えである。
殺した人に感謝しなさいなんてお説教を被害者遺族が読んだらどう思うだろうか。
「人を殺す経験をしてみたかった」というので見知らぬ人を殺した高校生がいたが、江原啓之氏に弁護してもらえばよかったのに。
佐藤愛子・江原啓之『あの世の話』2
私は以前、「生まれてきた意味を見つけることが大切だ」と思っていました。
ところが、平野修先生が「人生の意味なんてあるんでしょうかねえ」というようなことを話されました。
正確にどう言われたかは覚えていませんし、どういう意味合いで話されたのかはわかりません。
だけど、私としては「人生の意味」ということに疑問を持つようになり、「人生の意味を問うことは無意味だ」派に転向しました。
そして、「人生の意味」とか「人生の役割」とか言う人に胡散臭さを持つようになりました。
ま、あっさりと考えを変えるわけですから説得力のない話です。
なぜ無意味なのか、私の考えた屁理屈というのは、私に起こった出来事は必然的なものではない、すべて偶然である、だから意味がない、ということです。
ちょっと条件が変わっていれば、その出来事は起きない。
たまたま。
運命ではないし、条件を左右する絶対者もいない、まして私が選んだわけではない。
前もって出来事に意味が与えられているわけではないから無意味。
そして、人生には様々な出来事がありますが、人生に意味があるならば、一つ一つの出来事に意味があるわけで、一つ一つに意味づけできるはずです。
しかし、すべての出来事に意味づけすることは不可能ですから、意味づけできない出来事は無視することになります。
つまり、意味づけできない出来事は意味がないということになります。
そして、仮に意味づけできたとしても、状況が変われば意味づけも変わってきます。
たとえば、「私の人生の役割は家族の世話をすることだと思う」と言ってた奥さんが離婚したとします。
家族の世話という人生の役割も、離婚と同時に消滅したわけです。
というわけで、あとから意味づけをするのも無意味ということになるわけです。
人生に意味がある、意味がないということは仏教で言う分別です。
「意味がある」「意味がない」ということにとらわれてはいけないわけでして、「意味がある」と言う人には「意味がない」と否定し、「意味がない」と言う人には「意味がある」と反対する。
どっちなんじゃということになるわけですが。
意識不明のまま植物状態で何年も寝たきりの人を、そこまでして生かさなくてもいいじゃないか、という声をよく聞きます。
ただ生きているだけでは生きている意味がない、というわけです。
一応はもっともなようですが、だけど違うと思います。
尊厳死を主張する人の話はどうもおかしい。
葛藤があればともかく、あっさりと「生きていても意味がない」と断定する人には、どんな状態で生きていようとも無意味ではないと、私は訴えたい。
そうは言っても、「何でこんな目に」ということはあるわけで、そういう苦しい目に遭った時に、「それはこういう意味があるんですよ」と納得させてほしく思うもんです。
一つ一つの出来事に意味づけするのではなく、人生まるごとに意味があるのではないか、それは何なのかと。
プロジェクト卍さんご紹介のブログに、野矢茂樹氏の『ここにないもの』から引用がされていて、孫引きします。
ほんと、ぴったりの表現です。
では、その全体とは何なのか、ということになるわけですが、ニューエイジ(ヨハネ・パウロ2世によると「グノーシス主義だ」)では、目に見えない世界(天外伺朗氏の言葉では「あの世」)とか意識レベルの高次な世界とかなるんでしょう。
1ピースが自分だと思っていたが、パズル全体が本当の自分であったというわけです。
神の摂理というのも、我々には理解できないことも神様には深いお考えがあるんだということですから、私にはジグソーパズルのように思われます。
しかし、これも意味づけの一種です。
飯田史彦氏の生まれ変わり生きがい論だと、生まれる前に自分で選んだ人生だといくら言っても、どうにも説明できない出来事(たとえば児童虐待、ユダヤ人虐殺などのように)もあるわけで、そういう都合の悪いことはブレイクスルー、つまり「考えない」ようにしなさいと飯田史彦先生はおっしゃってます。
すごいご都合主義です。
で、最初に戻りますと、「人生の意味を見つけると満足した人生を過ごせる」、あるいは「人生の意味を見つけることが本当の満足なんだ」ということになるのでしょうが、それは自己満足という満足にすぎないという気がします。
では、満足とは何か。
これまた前に書いたことのくり返しですが、「これは本当の満足ではない」という否定の中から浮き彫りになるのではないかと思ってます。
そして、「これは間違っている」と何となくでも感じるのは、何らかの基準が自分の中にあるからです。
聞法することで、その基準が自分なりにはっきりしてくるような気がします。
とりあえず今日はそんなふうに考えてます。(明日以降はどうなるやら)
某氏より広島・地方行政研究所「市民生活」Vol.23をいただく。
その中に、中本秀智「政務調査費の不当支出」という文章がある。
議員は年6回の臨時、定例市議会と、60回程度の委員会開催があるが、同日の重複開催もあり、議会開催日は年間約40日ほどであろうが、議員は必ずしも出席の義務はない。会議出席の場合、出席日当11,000円がつく。
一日の会議時間は1時間のこともあり、議長選挙などを除き8時間以上に及ぶことはない。
このほかにも、各委員会手当があり、役所内では豪勢な議員応接室に、会派人数に応じて事務員が配置され、ほか電話、公用車は使い放題で、市議会事務局長以下38名が仕える特権階級である。
問題の政務調査費は非課税であるが、これは本来、使途自由の議員歳費ではない。条例規則により、政務調査費の使途目的、明細は非公開とし領収書を添付して報告する必要もない。
政務調査費の余剰金には返還義務があるが、全議員の交付額2億4480万円のうち8万円だけが返還された。
ウーン、知らなんだ。
国会議員だともっとすごいんでしょうなあ。
小泉に媚びへつらい、自民党から立候補できなければ民主党で出馬し、公明党におべんちゃらを使う。
そこまでしてでも議員になりたがるのがよくわかりました。
もう一つ。
8年前に広島市は東広島駅跡地、1,155,959㎡を109億8767万円で購入し、そのままほったらかしにしている。
空き地のまんま。
8年間の利息がなんと13億2285万円!
こりゃ、広島市が大赤字なのもわかる。
話は飛んで、私の娘(中学生)は吹奏楽部に入っている。
娘たちは少しでも上手になりたいので、顧問の先生に早朝練習をさせてほしいと頼んだら、先生は「今までどおりの練習を一生懸命したら足りるじゃない」と認めてくれない。
要は、クラブの練習には顧問の先生も付き合わねばならず、先生は朝早く学校に来たくないだけのことである。
娘たちもそのことはわかるから、「先生は朝早く来るのが面倒なんでしょ」と言ったら、「先生も大変なんよ。みんなに金賞を取ってもらいたいとは思うんじゃけど」といった会話が交わされたそうだ。
吹奏楽部の指導は音楽の先生がしており、朝練をすることには賛成している。
ところが、この先生は非常勤だから、クラブの顧問にはなれない。
音楽の先生は非常勤のこの先生が一人だけなのである。
広島市は財政赤字で苦しんでいる、少しでも人件費を削るために音楽の教師を非常勤としているのもわからないわけではない。
しかしなあと、やはり思う。
東広島駅の跡地で無駄遣いをしていることを考えると、議員歳費の削減をししてほしい。
ちなみに、今日の新聞に都道府県と政令指定都市の情報公開度が発表された。
広島県は都道府県の42位、広島市は政令市の6位、ということでした。
娘の机に『みちこのダラダラ日記』という本があった。
小学校の図書館から借りたのだろう。
作者が佐野洋子なので読んでみた。
みちこは小学校3年生。
お医者さんごっこをするつもりでパンツを下げたり、ケンカしていたお父さんとお母さんがなぜか翌朝には仲良くなったり、おにいちゃん(6年生)に毛が生えたり、ちょっといやらしくてドキドキする。
兄にひいきする母親への見方が鋭く、さすが佐野洋子と思う。
みちこが6年生になった時のダラダラ日記を読んでみたいものだ。
佐野洋子は1938年生まれ。
この本は1996年発行。
つまり、58歳のころにこの本を書いたわけだ。
その年で子供の心の動きをこれほどまでに生き生き描くことができるとは。
ちなみに私の次男は1987年生まれだから、みちこと同い年。
そうか…、と思った。