三日坊主日記

本を読んだり、映画を見たり、宗教を考えたり、死刑や厳罰化を危惧したり。

「死刑囚表現展」のアンケートと平野啓一郎『死刑について』(4)

2024年01月30日 | 死刑
②死刑をめぐる世界の状況 平野啓一郎さんは世界では死刑制度がどうなっているのかを知るべきだと、『死刑について』で語っています。
他国の状況なども視野に、国際社会の中で議論していくことが大切です。
ヨーロッパで作家やアーティスト、出版関係者などと話をしていると、当然のごとく死刑制度に反対している。
死刑廃止が実現すると、死刑を望む声は死刑制度があった時よりも弱くなっていく。
深刻な犯罪が起きても、死刑にすべきだという発想自体が出てこない。

「死刑囚表現展」のアンケートに「死刑廃止論者の方々についても、なんて罪深い団体なのだろうと各メディアで廃止を訴えている様を見掛ける度に死刑囚と同等に罰してもらいたい程の気持ちになります」と書いている人がいます。
しかし、死刑を廃止している国のほうが多いのですが。

アムネスティによると、2022年、すべての犯罪に対して死刑を廃止している国は112か国です。
死刑制度は存続しているが、死刑執行が停止している事実上廃止の国を含めると144か国。
存置は55か国。
7割の国が廃止、もしくは事実上の廃止です。

1985年、欧州評議会は「平和時における死刑を廃止する」という欧州人権条約第六議定書が発効。
2003年に発効された第十三議定書には「あらゆる状況下での死刑の廃止」が謳われ、第1条に「死刑は、廃止される。何人も、死刑を宣告または執行されることはない」と明記されています。

OECD加盟国では、アメリカの一部の州と日本だけが死刑を執行しています。
アメリカでも23州が廃止し、3州が停止しています。
いくつかの州は19世紀半ばに死刑廃止を決めているそえです。
https://www.amnesty.or.jp/human-rights/topic/death_penalty/DP_2022_country_list.pdf

死刑存置国は中国、北朝鮮、イラン、ベラルーシなど、独裁国家、強権国家が多いです。
その一方で、最高刑が有期刑という国もあります。

2011年、ノルウェーで69人が殺された事件がありました。
ノルウェーの最高刑は懲役21年です(人道に対する罪は30年、軍事犯罪のみ終身刑)。
判決は禁錮最低10年、最長21年でした。

宮下洋一『死刑のある国で生きる』に、2009年、スペインで介護施設の職員が11人の入所者を殺した事件について書かれています。
27人が死亡しているが、そのうち16人は死因が解明できなかった。
裁判で加害者は患者たちの「死を助けるためだった」と証言している。
しかし、11人全員が終末期患者だったわけではない。

津久井やまゆり園事件の植松聖死刑囚と同じことをしたわけです。
判決はスペインの最長刑である懲役40年の刑だった。
仮釈放でもっと早く出られるかもしれない。

③死刑や死刑囚の情報を公開しない
日本では密行主義といって、刑務所などの刑事施設や刑罰の執行状況などの情報をなるべく公開しないのが法務省の政策なんだそうです。
死刑や死刑囚に関する情報も公開しません。

その点を平野啓一郎さんも『死刑について』で批判しています。
死刑執行がどのように決められ、どのように行われているのかなどの情報の開示がなされていないため、多くの人にとって死刑はどこか抽象的に受け止められています。

死刑に関する情報公開は不十分で、死刑囚や執行の情報が制限され、第三者のチェックがない。
死刑が確定すると、家族と特に許可された外部交通者しか面会・文通はできない。
死刑囚がどういう状態(心神喪失など)かわからない。
執行の状況、執行の順番はどういう基準かなどわからない。
拘置所のどこに死刑場があるかもわからないし、死刑場を見せない。
絞首刑が残虐かを判断する資料がない。

「死刑囚表現展」のアンケートに「静かな環境で絵を描いたりすることの違和感をとても感じる。きっと充実している時間を持っているのだろう」と誤解している人がいます。

死刑囚がどういう生活をしているか、私たちは直接知ることはできません。
石川顕「東京拘置所の視察報告」(「FORUM90」VOL.188)に、国会議員3名が東京拘置所を視察したことが書かれています。
他の収容者との会話、接触、交流を完全に遮断する方策が至るところで見受けられた。異動する時、運動、入浴、診察、面会など、常に監視のもと、他者と接することも話すことも動植物との触れ合いもない。外の景色も見られず、孤独を強いられる生活が続く。

死刑囚には多くの制約があります。
絵を描くのでも、色鉛筆は削り器の刃物が問題となって使用不可、クレヨンや水彩絵の具も使用できない、など。

死刑囚は監視カメラで24時間監視されており、夜も電灯が点いています。
心情の安定という名目でなされていることが、逆に精神を不安定にさせることになっています。

宮下洋一『死刑のある国で生きる』を読むと、アメリカの死刑囚のほうがましだと思えてきます。
テキサス州刑事司法省のHPで死刑囚の情報を見ることができる。
刑法犯情報、姓名、生年月日、人種、出身郡、死刑執行予定日などが並んでいて、刑法犯情報には死刑囚の顔写真、以前の職業、前科、事件の概要、共犯者、犠牲者の人種と性と、5つの情報が掲載されている。
死刑囚のメディアインタビューは毎週水曜日に許される。

宮下洋一さんはHPを見て、会いたい死刑囚との面会を申請し、処刑まで1か月弱の死刑囚へのインタビューをしました。
面会では刑務官の立ち会いはなく、ビデオカメラ、ICレコーダーの持ち込みが可。
日本と大違いです。
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「死刑囚表現展」のアンケートと平野啓一郎『死刑について』(3)

2024年01月24日 | 死刑
平野啓一郎『死刑について』はいろんな視点から死刑を論じています。
①応報刑と教育刑

国家というのは罪を犯した人間に対して、一定のペナルティを科すことができる。そして、このペナルティは自由を制限する自由刑であり、同害応報ではありません。犯罪者の更生が期待される以上、多くの人が教育刑の観点に立っています。

「目には目を」式の同害応報を基本とする絶対的応報論は、現代の刑法では身体刑の否定という意味でも不可能。
基本的には、「より重い罪にはより重い刑罰を」という相対的応報論である。
教育刑という考え方からは、死刑は教育の成果を生かす可能性が断たれるのだから正当化されない。

「人の命を奪った罪はやはり命をもって償うべきである」という意見が「死刑囚表現展」のアンケートにあります。
しかし、殺人事件の加害者すべてが死刑になるわけではありません。
ある調査によると、殺人既遂または強盗殺人の事件の中で、検察官が死刑を求刑したのは2.6%で、死刑求刑事件のうち死刑判決が下されたのは55.8%。
つまり、殺人事件のうち死刑の判決が下されるのは約1.5%です。(井田良「いま死刑制度とそのあり方を考える」)

傷害致死や過失致死も人の命を奪うわけですが、傷害致死の法定刑は3年以上20年以下です。

刑法が改正され、拘禁刑は受刑者を刑事施設に拘置した上で「改善更生を図るため、必要な作業を行わせ、必要な指導を行うことができる」と規定しています。
受刑者の処遇は改善更生が主眼とされたわけです。

つまり、犯罪者に罰を与えてこらしめる応報刑ではなく、再び社会で生きられるように更生の機会を提供する教育刑になったのです。
ところが、死刑だけが教育や更生を指向しない応報刑、身体刑なのです。

宮下洋一『死刑のある国で生きる』に、死刑に賛成する弁護士へのインタビューが載っています。
川上賢正弁護士は、遺族側から見れば、凄惨な事件を起こした加害者が絞首刑で済むなんて生やさしいと思うはずだ、と指摘した。
焼かれたり刺されたり、助けてくれと言いながらも殺されるんです。だから被害者は、家族が八つ裂きにされたなら、同じように八つ裂きにしてくれと言うんです」。応報刑罰だと。
では、誰が八つ裂きにするのでしょうか。

吉田はるみ衆議院議員が死刑を執行する刑務官から聞いた話です。
凶悪犯なのだからと思って執行に携わった方でも、ちょっとね、精神的にその後とても苦しみます。気持ちがふわふわするような、私もなんと表現したらいいのか分からないんですけれども、絶対賛成だったという人も、執行の現場や、それにかかわることになると、精神的に相当なダメージを受けるということを、私ははっきり申しあげたいと思います。(「FORUM」vol.188)

アルベール・カミュの父親は死刑の執行を見に行きました。
三野博司「父は死刑執行を見に行った 『異邦人』『ギロチン』『最初の人間』」
1957年、カミュは『NRF』に『ギロチンに関する考察』と題した論文を発表し、その冒頭において、かつてアルジェで行われた死刑執行について想起している。「1914年の戦争が始まる少し前、おぞましい罪を犯した(農場主の一家を3人の子どももろともに殺害した)ひとりの殺人者が、アルジェで死刑を宣告された」。この事件は大きな反響を呼び、そして、カミュの父はとりわけ子どもたちの殺害に憤慨していた。
「いずれにせよ、私が父について知っているごくわずかのことがらのひとつは、彼が生涯において初めて死刑執行に立ち会いたいと望んだということだ。彼は夜も明けないうちに起き出して、町の反対側の群衆が押しかける処刑場へとでかけていった。その朝彼が見たものについては、だれにも話すことはなかった。私の母は、父が顔色を変えて疾風のごとく戻ってきて、何も話そうとせず、しばらく寝床に身を横たえて、それから突然嘔吐を始めた、とただそれだけを語った」
カミュの父親は、「虐殺された子どもたちのことを考えるのではなく、首を斬るために台の上に投げ出された息もたえだえの体のことしか、もう考えられなかった」のである。
https://www.jstage.jst.go.jp/article/ecsj/8/0/8_14/_pdf

アンケートで「自分だけ楽に死ねるのは間違っている」と書いている人がいますが、死刑は執行に関わる刑務官も、執行を見た人もつらい思いをする残酷な刑なのです。

世田谷一家殺害事件の遺族である入江杏さんは教育刑と冤罪ということから死刑に疑問を呈しています。
刑罰とは、被害者やその家族を満足させるためのものでも、社会の怒りに配慮するためのものでもなく、犯罪者に罪を償わせ、更生と社会復帰を可能にするためのものであるはずだ、と考えなければならない。死刑の執行は犯罪者から、「悔い改め、償い、更生」の機会を奪い、彼らの再生の歩みを不可能にする、と言える。同時に、冤罪の問題も考えなければならない。もし、無実の人に死刑を執行してしまえば、誤った判決を正す可能性は永遠に奪われてしまう。裁判官が誤った判決を下す可能性を否定できない以上、死刑制度を受け容れていいのか?という疑問が残る。(入江杏「刑事司法と被害者遺族」)

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「死刑囚表現展」のアンケートと平野啓一郎『死刑について』(2)

2024年01月19日 | 死刑
平野啓一郎さんは『死刑について』で、国家の責任を問います。
②国家の欺瞞

死刑判決が出されるような重大犯罪の具体的な事例を調べてみると、加害者の生育環境が酷いケースが少なからずあります。そうした中で、犯してしまった行為に対して、徹底的に当人の「自己責任」を追及するだけでよいのかと疑問に感じたことも、死刑に反対するようになった理由です。

成育環境が悪い人や精神面の問題を抱えている人などを国家が放置し、事件が起きたら死刑を宣告して社会から排除し、何もなかったような顔をすることは国家の怠慢ではないか。
そういう状況に置かれている人たちを、共同体の一員として支えなければならない。

「死刑囚表現展」のアンケートには、「罪を犯した人はこの程度なんだ」という感想がありました。
マスコミの犯罪報道は事件そのものを伝えるだけで、事件の背景や加害者の成育歴などを取り上げ、なぜ事件が起きたのかを掘り下げることはあまりないそうです。

しかし、加害者がなぜ事件を起したのかを描いた小説やドラマを見た人が加害者の生育歴、置かれた状況に同情するなら、死刑だと単純には思わないでしょう。
犯罪を犯す人の多くは貧困、親の依存症や障害、離婚・再婚、虐待などで家庭が居場所になっていなかった。
学校では、親のネグレクト、本人の障害などでいじめられたり、授業についていけないなどで、学校が居場所にならなかった。

私たちが今まで犯罪を犯していないのは、自分がすぐれているからではありません。
「私を育ててくれた両親に感謝したいです」とアンケートに書いている20代の人がいますが、そのとおりだと思います。

平野啓一郎さんが死刑に反対する3番目の理由です。
③例外を設けてはいけない

「なぜ人を殺してはいけないのか」という問いを突き詰めていった時に考えたのは、「人を殺してはいけない」ということは、絶対的な禁止であるべきだということです。

加害者を同じ目に遭わせてやりたいと思う人がいても、国家がそれをやってはいけないと了解されている。
強姦をした犯人を誰かに強姦させることはない。

ところが、殺人に関しては、犯人も同じ目に遭わせないといけないと信じられている。
例外規定を設けているかぎり、何らかの事情があれば人を殺しても仕方がないという思想が社会からなくならない。

2019年、ひきこもりだった人が無差別殺人を起こした。
すると、ある父親が、自分の息子も長年ひきこもりなので、同じことをするのではという不安を抱き、子供を殺したという事件があった。
この事件に対し、息子を殺したのはやむをえなかったという声があった。

「よほどのことがあったのだから、殺すのも仕方なかった」という肯定の仕方は、間違っている。
一人ひとりの人間は基本的人権を備えていて、命を尊重する共同体であるという前提は、それを破る人が出てきても崩してはならない。

あなたは人を殺したけど、我々の社会はあなたを殺さない、それが我々の社会です、ということを維持しなければならない。
この社会には、一人ひとりに人権が認められているのだから、それは絶対に例外なく侵してはいけないものだということを認識しなければなりません。何か事情があれば人を殺してもよい、という発想自体を否定していくことが、未来の被害者を生まないためには重要なはずです。

アンケートに、「どんな人にも生きる権利はあっても良いと死刑に対する考え方が変わりました」とか、「死刑囚といえど、1人の人間であり、その人権は尊重されるべきである」と書いており人がいます。

死刑は人権問題だと言うと、被害者は人権を踏みにじられたのに、加害者の人権ばかりが大切にされていると言う人がいます。
しかし、生きる権利はどんな人にもあり、例外はないとしなければ、人権はどんどん浸食されます。

人を殺しても罪にならないどころか、ほめれることもあるのは戦争と死刑です。
人の命を大切にしない社会は、いつ私の命を奪うかもしれません。

戦争になると敵も味方もなく、同じ国民でも殺し合うことがあります。
一般人や子供もも命を奪われます。
イスラエルにとって、パレスチナ人は戦闘員も民間人もいつ命を奪ってもかまわない死刑囚のようなものです。

青木理さんは、世界は人権感覚が進歩していると言っています。
ヨーロッパで、青木理さんが日本は8割が死刑に賛成していると言うと、人権問題なのに多数決で決めるのかと言われたそうです。

ヨーロッパ人権裁判所は、受刑者に釈放への希望を認めない終身刑は非人道的で品位を傷つけるものであり、ヨーロッパ人権条約第3条に違反すると判断していました。
https://cdn.penalreform.org/wp-content/uploads/2018/04/Japanese_PRI_Life-Imprisonment-Briefing.pdf
日本では40年以上も出所できない受刑者がいます。

弱者に寛容な社会は誰にとっても生きやすい社会です。
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「死刑囚表現展」のアンケートと平野啓一郎『死刑について』(1)

2024年01月14日 | 死刑
『死刑について』に述べられている平野啓一郎さんの死刑反対論には教えられることばかりでした。
「死刑囚表現展」のアンケートの中に、死刑に賛成の人の感想があります。
『死刑について』を借りて反論しましょう。

平野啓一郎さんは20代後半までは死刑制度があることはやむを得ないという、死刑存置派に近い考えでした。
ところが、『決壊』を書き終わった段階で、心の底から死刑制度に嫌気がさし、死刑制度はなくすべきだと強く感じるようになったそうです。
なぜか。

①警察の捜査に対する強い不信感
実際に取材をしてみると、捜査の実態は酷いもので、また、警察は冤罪だとわかっていても、けっしてそれを認めようとせず、むしろ自分たちの正当性を守るために、場合によっては証拠の捏造まで行っています。

ある日突然、何の罪もない人がめちゃくちゃな捜査で死刑にされるという、信じられないような冤罪事件が少なからず起きている。

アンケートに「さっさと執行すべき」という意見がありました。
しかし、死刑判決が出てすぐに執行してたら、無実の人が殺されることになります。
冤罪を主張する袴田巌さんや風間博子さんたち死刑囚は少なくありません。

無罪の人が執行されることがあります。
福岡事件の西武雄さんは、殺人の実行犯が西武雄さんは無関係だと証言しているのに執行されました。

冤罪の死刑事件は昔の話だと言う人がいます。
しかし、1992年に起きた飯塚事件の久間三千年死刑囚はDNA鑑定によって死刑判決が下されましたが、足利事件では飯塚事件で用いられたDNA鑑定で有罪の判決が出され、再審で無罪となっています。
しかも、飯塚事件では目撃証人が証言を翻しています。
https://news.yahoo.co.jp/articles/05a802233938fd4d1f42708940a16641ba52b754?source=sns&dv=pc&mid=other&date=20240215&ctg=loc&bt=tw_up

無期懲役で服役して再審無罪となった事件は、他にも布川事件、東電OL殺人事件、東住吉事件などがあります。

アンケートに「私は死刑肯定者です。冤罪の疑いが僅かでもある限りは確定、執行は絶対に避けるべきですが、自分の犯した罪に対し命をもって償うのは当然だと思います」と書いている人がいます。
しかし、冤罪の可能性がある場合は執行しないとしたら、多くの死刑囚の執行はできないでしょう。

正犯ではなく共犯だと主張する死刑囚、事実誤認がある(部分冤罪)と主張している死刑囚もいます。
昭和41年に起きたマルヨ無線事件の尾田信夫死刑囚は、強盗は認めていますが、放火・殺人は無罪を主張しています。
法務省もひょっとしたら無実かもと思って執行しない死刑囚がいるように思います。

検察や警察は証拠の捏造まで行います。
袴田事件では、事件の1年2か月後に味噌工場にある味噌のタンクから血染めの5点の衣類が発見され、この衣類をもとに袴田巌さんは有罪とされました。
2014年、静岡地裁は再審決定の中で、この5点の衣類は捏造された蓋然性が高いと指弾しています。

裁判や再審請求で、検察は証拠をなかなか開示しません。
マルヨ無線事件では、検察が「存在しない」としてきた共犯者の取り調べの録音テープなど証拠50点余りを、死刑囚の弁護団にやっと開示しました。

袴田事件でも、5点の衣類のカラー写真が開示され、1年間もみそに漬かったのに、衣類の血痕が赤いことがわかりました。

警察や検察が証拠を捏造することは珍しくないようです。
厚生労働省局長だった村木厚子さんが逮捕された事件では、担当主任検事が証拠改竄し、検事が3人有罪判決を受けました。

大川原化工機事件でも会社の代表者らが逮捕・勾留され、公訴提起から約1年4か月、第1回公判の直前に検察が公訴取消しをしました。
証人尋問された警視庁公安部の現職警部補2人は弁護士から「公安部が事件をでっち上げたのでは」と尋ねられ、「捏造です」などと告白しています。
相嶋静夫さんは勾留中に体調が悪化したにもかかわらず保釈が認められず、胃ガンと診断されてようやく保釈、その2日後に亡くなりました。

宮下洋一『死刑のある国で生きる』に、精神鑑定医である村松太郎慶応大学医学部准教授へのインタビューがあります。

村松太郎さんは「検察官は、起訴前と起訴後では人格が変わる」と言います。
検察は、起訴前の場合は非常に合理的ですが、起訴後になると、事実を歪曲してでも有罪の方向へ動こうとするようにさえ見えることがあります。実践的なことを言えば、起訴前の場合、鑑定医が責任能力なしと言えば、多くの場合はそれに従います。
ただし、社会を騒がす大事件は、起訴しないと社会が黙っていないため、精神科医がどう判断しても起訴することが多い。または、最初にAという鑑定医がこう判断しても、Bという鑑定医を連れてきて、また判断させて起訴することがある。この方法は、社会的には正しいと考える余地もありますが、自然科学的には納得できないところです。
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死刑囚表現展のアンケート

2024年01月06日 | 死刑
2022年10月に行われた死刑囚表現展の入場者アンケートの結果が「FORUM90」VOL.185に、2023年11月の死刑囚表現展のアンケートの結果は「FORUM90」VOL.189に掲載されています。
死刑反対の人だけでなく、死刑に賛成の人、どちらでもない人も来場していることがわかります。

・死刑に賛成の人
まるで自身は世間に殺されるのだと言わんばかりの死刑囚には怒りを通り越してすっかり呆れ果てました。私は死刑肯定者です。冤罪の疑いが僅かでもある限りは確定、執行は絶対に避けるべきですが、自分の犯した罪に対し命をもって償うのは当然だと思います。正直に死刑廃止論者の方々についても、なんて罪深い団体なのだろうと各メディアで廃止を訴えている様を見掛ける度に死刑囚と同等に罰してもらいたい程の気持ちになります。(40代)

人を殺した人は、同じ方法で殺されるべきだと思っています。自分だけ楽に死ねるのは間違っているとも思っています。(40代)

私は死刑には賛成で、人の命を奪った罪はやはり命をもって償うべきであると思う。殺された人はやり直しの人生を送ることが出来ないのだから。(60代)

死刑が嫌なら悪いことをしないでください。(20代)

一度罪を犯した人って、やっぱりこの程度なんだなって思いました。(10代)

一番真摯に向き合ってるのは風間博子さんなのかなと思った。彼女は旦那が違えばきっとこのような人生を歩まず子供と平々凡々のくらしをしたはず…それがかえすがえすも残念…。僕は死刑に反対はしません。殺された人々そして遺された人の苦しみや悲しみとは変えられないと思うので…。(50代)

・早く執行すべきだという人
逆に「もういいんじゃない」「さっさとサインしろよ」(法務大臣への執行命令書に署名)との思いを強く抱きました。色エンピツや絵具の未決囚の所持、差入れや使用が制限されたとのニュースをチラッと見たような気がしますが、それも当然、遅いぐらいに思います。(40代)

殺された人を無視して、静かな環境で絵を描いたりすることの違和感をとても感じる。きっと充実している時間を持っているのだろう。殺された人にはその時間はないのに。粛々と刑の執行を望みます。(50代)

・死刑に賛成、反対と言い切れない人
私としては、やはり被害者の方のことを考えると廃止とは言い切れませんが、これからも自分なりに考えたいと思いました。(30代)

「死刑廃止しろ」とは思いません。日本において死刑になる人はみんな人殺しです。殺された人は生きていたかったのに殺されて未来をうばわれたのです。死刑にするのはごくまれな人であり、仕方ないのかもしれません。しかし処刑されたら罪をつぐなえなくなる。何もできなくなる。だから「死刑をなくせ」とか「死刑存続しろ」とか強く言えない。(40代)

殺されている多くの人がいるのに絵が描けて良いご身分。反省もせず、1分1秒でも生きたい、など、吐きそうでした。そういう意味では死刑より無期の方が良いかもしれません。早急な執行を望みます。(40代)

絵や作品から「死刑」「死」に対する恐怖が伝わってくる方もいますが、反対に人を殺めたのに反省すら見えない者も。(20代)

私は死刑制度に反対ではありません。どの絵や表現にもあまり反省している様子は伺われず、自己主張のかたまりのような気がしました。(50代)

全体的に品位が感じられない。まだ自分のした事が悪いと認識してないようだ。(50代)

・死刑に疑問を感じた人
私は死刑反対派というと少しちがって、死刑は償ったことになるのかな?と思っています。(10代)

死刑は被害者のつぐないのためと思っていたが、結局人間“自分”が1番かわいいんだなと思ってしまった。私も含めて、死刑は誰のためにあるのか考えさせられた。見せしめ?(20代)

近年、死刑になりたいから罪を犯した、という事件を見聞きするたび、死刑は犯罪の抑止力になっていないのだなあ、と感じます。(40代)

本日、来るまでは悪い事をしたのだから死刑になってあたり前だと思っていましたが、どんな人にも生きる権利はあっても良いと死刑に対する考え方が変わりました。死刑囚の方々の思いを絵や文を通して知ることができて良かったです。改めて、私を育ててくれた両親に感謝したいです。(20代)

重罪を犯したのだから、死刑は仕方のないこと、そう思っていた自分もどこかにいた。しかし、死刑囚といえど、1人の人間であり、その人権は尊重されるべきである。(40代)

死刑はあるべきものと思います。亡くなられた方たちを思うと。でも、今もどこかで大きな罪を犯した人がこういう作品を作りながら考えながら生きていると思うと、被害者の方やその遺された家族を思うことがむずかしい気持ちになりました。(30代)

・植松聖死刑囚について
植松聖死刑囚の絵画が目当てでした。彼は精神障害者に差別的な発言をしていましたが、腑に落ちてしまったのは、実は知的障害者の存在があるからです。発達障害者の中には、知的障害を合併している人も居ます。先日まで働いていた職場で中等度や重度の知的障害者と関わる機会がありましたが、やはり、人並みの事が出来ないのは勿論ですが、自分本位で思いやりが無く、不機嫌になると暴言どころか暴力にまで進展します。現代は「平等社会」と謳っていますが、「生きている事」だけが平等であり、全くもって「公平」な社会では無いのだと感じます。人間も本来は動物ですが、より野性的と言える人達は、個人的に恐怖の対象です。(30代)

植松聖さんの作品群も、自分を非難する人々やとりまく権力への不服、怒りのような気持ちが伝わってきました。(20代)

植松さんの画、言葉、殺すことはだめだけど、気持ちはわかる。(60代)

植松聖死刑囚の作品を見るために初めて来ました。私には「知的しょう害を伴う自閉症」の息子がいます。彼が生まれた年、場所によっては、津久井やまゆり園で生活していたかもしれず、彼に殺されていたかもしれません。植松死刑囚の行いを否定するなら、彼の言動も知らなければと思い、足を運びました。彼の作品にふれてみて、改めて全く賛同できないと確信しました。(50代)

植松氏は、全く変わっていないと思えたし、独善的な思想のられつであり、作品として深みも面白みもないと思えた。自分の犯した罪のことを何とも思っていない、それをさしおいて、他の死刑囚を責めていると感じた。(30代)

死刑に賛成の人の感想を読むと、死刑や死刑囚について知らないか、誤解しているように思います。
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