三日坊主日記

本を読んだり、映画を見たり、宗教を考えたり、死刑や厳罰化を危惧したり。

今年見た映画のオススメ

2004年12月31日 | 映画

邦画
・押井守『イノセンス』
何がなにやらよくわからないが、よくこういうイメージが出るものだと感心。

・湯浅政明『マインド・ゲーム』
これまたアニメだが、これまたよう思いつくわと感心。
原作はニューエイジ漫画だが、その臭味をうまく換骨奪胎している。

・中島哲也『下妻物語』
アニメではないが、またまたあきれるほどの発想に感心。

・篠原哲雄『深呼吸の必要』
30年前にこの映画を見ていたら、サトウキビ刈りに旅立っていたかもしれない。

外国映画
・イ・チャンドン『オアシス』
主人公は性格異常者と言っていいような男なのだが、だんだんとまわりの人のほうがおかしいと思うようになり、こんないい人が,と思うようになるんです。

・クァク・ジェヨン『ラブ・ストーリー』
私は少女漫画的恋愛映画が好きだ。

・リチャード・カーティス『ラブ・アクチュアリー』
これも甘ったるいのだが、しあわせな気分になる。

・アレハンドロ・ゴンザレス・イニャリトウ『21g』
苦しむことを選んだ人の重たい話は好きです。
ナオミ・ワッツは好みだし。

・スサンネ・ビア『しあわせな孤独』
これも婚約者が障害者になるという重たい話。
主役の女優さんがこれまたすごく美人。

・ロバート・ベントン『白いカラス』
虐待というまたまた重たい話。
そして、家族を見捨てるという過去。
ニコール・キッドマンはやはりきれい。

・ポン・ジュノ『ほえる犬は噛まない』
ペ・ドゥナのファンになった。

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今年読んだ本のオススメ

2004年12月30日 | 

目が悪くなって、本を読むのがつらくなった。
と言いつつ、映画はホイホイ見ているわけだから、目が悪くなった以上に頭が悪くなっただけのことである。

イアン・マキューアン『贖罪』
矢作俊彦『ららら科學の子』
どちらも過去の罪がテーマ。
罪をなかったことにするのではなく、その罪を背負いながら生きている話は好きだ。

斎藤美奈子『読者は踊る』
おかしいのではないかと思うことは多いけど、どこがどうおかしいのかをきちんと説明するのは難しい。
斎藤美奈子氏はユーモアを交ぜながら辛辣。
これは芸です。

菊地聡『超常現象をなぜ信じるのか』
認知心理学とは面白そうだと認知した。

可山優零『冥冥なる人間』
星野富弘氏のように頸椎損傷で寝たきりになった可山優零氏。
味わいは星野富弘氏とは違う。

若林一美編『亡き子へ』
子供を亡くした親の会である「ちいさな風の会」の文集。
坊さんの必読書だと思う。

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本を三冊ご紹介

2004年12月26日 | 仏教

・平雅行『親鸞とその時代』
念仏によって悪人や女人が往生するということは旧仏教(顕密仏教)でも説かれていた。
『歎異抄』第三章は悪人正機説ではなく悪人正因説である。
僧侶の妻帯はごく当たり前のことだった。
などといった目から鱗が落ちることばかり。

・今井雅晴『親鸞の家族と門弟』
親鸞は長男の善鸞を勘当したのだが、それは善鸞が親鸞の教えとは違うことを関東で説いたため、関東の門弟たちに混乱が生じたためだとされている。
しかし、そうではないらしい。
関東の門弟たちは善光寺如来を信仰してたり、鹿島神宮信者だったり、真言宗だった。
親鸞のもとで教えをちゃんと聞いていた善鸞は、そんな門弟たちは間違っていると言ったため、門弟たちが反発したのだという。
まさにコロンブスの卵、発想の逆転である。
善鸞を勘当したという手紙にしても、親鸞が書いたものではなく、偽物の可能性が高いという。(これについては平松令三氏が今井雅晴氏の間違いを指摘している)

今井説をもう一つ。
親鸞は妻である恵信尼と京都で結婚したということだが、ところが善鸞は恵信尼の子供ではないという。
となると、親鸞は京都にいる間、恵信尼以外の女性ともいい仲になったわけになる。
話としてはおもしろいが、今井説は違うらしい。

・大山誠一『〈聖徳太子〉の誕生』
厩戸皇子は実在したが、聖徳太子は架空の存在であることが論じられている。
聖徳太子が実在するとされている根拠は、いずれも聖徳太子の死後、何十年かたって作られたものばかりだという。
『十七条憲法』は藤原不比等が自分たちの権威を正当化するために、儒教・道教、そして仏教の知識を織りまぜて作り上げたもの。
『三帖義疏』は光明皇后が長屋王の祟りを聖徳太子を仏教の聖人にするため。
ということで、「長い間人々が抱いてきた聖徳太子への思慕あるいは信仰は、いったい何だったのかということにもなりかねない」と大山誠一氏は書いている。
これまた歴史ミステリーのようでおもしろい。
もっとも、聖徳太子架空説は認められていないらしいが。

「十七条憲法それ自体が、全体主義・国家主義を説くもの」と松本史朗氏は言っているが、しかし「十七条憲法」にはいいところもあるじゃないかと言いたくなる。
しかし、教育勅語だって同じ経緯で作られたものであるし、いいことも書いてある。
うーん、困ってしまう。

平雅行氏はあとがきに、1992年に親鸞の善人悪人観について論文を発表したが、長い間ほとんど評価も批判されないまま黙殺されてきた。研究テーマが変わっていったこともあり、親鸞についてはやる気と関心を失っていた。1998年に松本史朗氏によってようやく批判されたのをきっかけに、わかりやすい形できちんと説明すべきだと思った、と書いている。
これは真宗内の人にとって恥ずかしいことではなかろうか。

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喪中につき

2004年12月20日 | 仏教

今年、妻のお父さんが亡くなった。
世間の常識からいえば、「喪中につき年末年始のご挨拶をご遠慮申し上げます」というような文面のハガキを出さなくてはいけないのだろう。
しかし私は、この「喪中につき」ハガキという習慣、真宗の教えからいえばおかしいと思っているので、出さない。
妻のお父さんが死んだことを知らない人に、どうしてわざわざ「喪中につき」ハガキを出す必要があるのだろうか。
妻にもそのことを言い、西本願寺から出ている『門徒推進員 活動の手引き 第2集』を見せ、迷信だと書いてあると説明したたが、妻は納得しない。

加地伸行『儒教とは何か』、儒教の宗教面について書かれてある前半はなるほどと納得することが多い。
日本人の宗教観は儒教からきているのかと思う。

さて、喪中について『儒教とは何か』からの受け売り。
親が死ぬと子は悲しみで、外に出る気にもならず家にこもり、身辺のことに気を配らないから粗末な衣服を着る(これが喪服)、そして歌や踊りを楽しもうという気持ちが起きない。
これが喪に服するということである。
父親が亡くなった時には三年間喪に服するのだが、すでに孔子の時代に三年は永すぎるという意見があった。
三年といっても、三年にまたがればいいわけだから、実質二年と一日である。
これを仏教が取り入れたのが三回忌である。
日本では服喪期間は養老令に定められていて、両親は一年、祖父母は五ヵ月、妻は三ヵ月である。
「喪中につき」ということは、儒教の考えだと、年賀の挨拶に行く気にはなれないから失礼する、ということになる。

ところが神道の考えはそうではない。
人が死ぬとケガレが生じる。
ケガレは移るから、遺族には死のケガレがつく。
遺族がよその家に行くと、その家にもケガレが移る。
だから、ケガレが移ってはいけないから年賀の挨拶に行くことを遠慮する、ということである。
また、ケガレを嫌うので、こちらも挨拶には行かない。

正月には妻の実家に行くのが毎年の習慣である。
しかし、喪中だから年賀の挨拶を遠慮するという家に、正月に行くのは失礼ではないか。
そんなことを言ったら、妻や子も、またつまらんことを言いだしたと、白い目で見られてしまった。
そういうことを思う私は社会的常識が欠けているのだろうか。

私には一般常識に逆らう勇気はもちろんない。
私の両親が死んだ時には「喪中につき」ハガキを出すかどうか、今から悩んでいる。

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何が生かしているのか

2004年12月16日 | 仏教

「生かされている」という言い方をよく聞く。
生かしているものは何なのか?
生かしているものを先験的に存在する実体、すなわち梵、たとえば神といったものと考える人もいるだろう。
しかし、そういう考えを仏教ではしない。
「おかげによって生かされている」のである。

「おかげさま」という言葉は、「仏さまのおかげ」という意味だそうだ。
もちろん、「仏さま」がどこかにいて、何かしているおかげということではない。
それでは仏が梵と変わらないことになる。
お互いが支え合い、迷惑をかけ合い、生かし合っていること、それを「仏さまのおかげ」という言葉で表しているわけだ。

お互いが支え合い、迷惑をかけ合い、生かし合っているということは、つまり縁起ということである。
あらゆる存在は関係の中で存在している。

曽我量深は、他力とは本来は利他という言葉が正しい、そして、他力は縁起という意味であり、積極的に表現するなら本願力ということである、というようなことを言っている。

利他は慈悲から生じる意志的行為ということだろう。
利他は仏の仕事であるけれども、我々の本当の願いが慈悲という形を取るんだろうと思う。
だから、「生かされている」ということも、ただ縁起なんだ、お互い関係しながら生きているんだ、ということにとどまらず、そこには慈悲がはたらいていることを感じているからこそ、「おかげさま」という感謝の言葉が出てくるわけだ。

もっとも、慈悲というものがまずあるとするならば、これまた梵を作ってしまう。
落とし穴はあちこちにあるので要注意。

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韓国映画の良いとこ、悪いとこ

2004年12月12日 | 映画

今年(2004年)は韓国映画が数多く上映され、しかも優れた作品が多かった。
韓国映画がベストテンの上位を占めるのではないだろうか。
というので、韓国映画の良いとこ、悪いとこを考えてみた。

・韓国映画の良いところ
カタカナ題名の映画が氾濫する中で、なぜか韓国映画は日本語の題名が多いということ。
アメリカ映画は原題をそのままカタカナにしたものがほとんど。

『ロード・オブ・ザ・リング』はどうして『指輪物語』にしなかったのか。
『コテラクル』『Mr.インクレディブル』などはどういう意味かわからない。
『デイ・アフター・トモロー』『モーターサイクル・ダイアリーズ』はあまりにも芸がない。

題名が長ければいいというもんでもなかろうに。
この悪影響が日本映画にも及んでいて、邦画にもカタカナ題名、ローマ字題名が増えている。

・韓国映画の悪いところ
人名がカタカタ表記ということ。
以前は、人名が漢字表記だったので覚えやすかった。
林権沢、安聖基など、監督や俳優の名前が自然に頭に入った。

ところがいつの間にかカタカナ表記となり、名前を覚えることが全くできなくなってしまった。
ヨン様が裵勇浚という名前だと知ったのは最近である。
勇俊だったらもう少し早く覚えられた気がする。
もっとも勇様じゃ、ありがたみがないけれど。

題名にしろ人名にしろ、漢字まじりの言葉のほうが親しみやすいということもあると思う。
ところが近年、外国語を安易にカタカナ表記にするのが一般的である。
日本はカタカナ文化となりつつあるわけで、これも一億総白痴化(ハクチが白痴に変換しない。差別語なのだろうか)のあらわれという気がする。

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袴谷憲昭『仏教入門』『批判仏教』『本覚思想批判』

2004年12月07日 | 仏教

袴谷憲昭、松本史朗両氏の本をまとめて読みました。
少しずつご紹介します。

袴谷憲昭『仏教入門』、とてもじゃないけど入門書とは言えない難しい内容だが、だけど気づかされたこと、教えられたことが多く、刺激的な本だった。

釈尊は人類史上はじめて、自分は愚かだとさとった人。

なるほどと目から鱗が落ちた。
他の本も読みたくなり、『批判仏教』を図書館で借りると、これまたよくはわからないけども、さらに刺激的である。

実名をあげての批判というか、悪口がどんどこどんと出てくる。
梅原猛や江藤淳、中沢新一といった人を叩くのは、仏教の立場からしたら当然である。
しかし、袴谷憲昭氏は曹洞宗のお坊さんで、駒沢大学の先生であるにもかかわらず、駒沢大学総長とか宗門内の人、たとえば高崎直道といった人にも批判の矢を向ける。

さらには

私は禅宗(宋代の禅宗、臨済宗も含まれる)を仏教であるとは認めないのである。

とまで断言する。
根性あると思う。

そこで『本覚思想批判』も読んだ。
ここでも「本覚思想は仏教ではない」と袴谷憲昭氏は明言する。
本覚思想とは

人間はすべて本来的に仏性を備えており、それに気づけば誰しも本来の仏性に帰着することができる。

という考えである。
本覚思想を仏教でないなら、日本仏教は仏教ではないことになる。

釈尊は、無我・無常を説いたわけで、当然ながら実体的・不変的なものは否定される。
となると、仏性を実体視すべきではない。
そして、「あらかじめ真理があるというラフな考え」は仏教ではない、という袴谷憲昭氏の説はもっともだと思う。

袴谷憲昭氏は「非仏教=土着思想」だと主張する。
土着思想とはどういうものか。

インドの土着思想=ウパニシャッド哲学
中国の土着思想=老荘思想
日本の土着思想=本覚思想

ウパニシャッド哲学では梵我一如を説く。
梵我一如とは、我(真の自己たるアートマン)と梵(根本の真理たる絶対者ブラフマン)とが本質において同一であると、瞑想の中で直観することである。
すなわち、自分が本来梵と一つであることを体得することが悟り、解脱である。

釈尊は梵我一如を否定したのだが、次第に仏教の中にも梵我一如的な考えが浸透していった。
たとえば、松長有慶高野山大学元学長の

自己と絶対の世界の同一性を確認する。

という、梵我一如的発言を袴谷憲昭氏は紹介している。
池田大作氏も次のように言っているとのこと。

仏とはほかならぬ自分のことであり、宇宙の大生命であり、それらは一体である。

もっとも、仏教についてのこうした言説は珍しくない。
「本来の世界」「本来の私」といったことをよく聞くが、これも梵(ブラフマン)や我(アートマン)を今風の言い方にしただけ。
「無限の世界と一つになる」とか、「もとのいのちの世界に帰る」は梵我一如である。

さてさて、宇宙の根本原理ということだが、老荘の道とは『荘子』によれば、

夫れ道は、情有り信有るも、為すこと無く形無し。

ということだそうだ。
ところが、親鸞の、

法身はいろもなし、かたちもましまさず。しかれば、こころもおよばれず、ことばもたえたり。

という言葉と似ているじゃありませんか。

袴谷憲昭氏は、真如、仏性、アラヤ識、法界なども仏教本来からすると否定されるべき概念だと言う。

「仏の慈悲の中に生かされている」という言い方がよくされる。
これは縁起を表していると言えるし、梵我一如として解釈もできる。
「法身」とは梵や道(タオ)のような根本原理なのだろうか。

無我、すなわち我を否定する仏教よりも、梵我一如的な考えのほうが我々には受け入れやすい。
梵我一如の考えはグノーシス主義、神智学、ニューエイジ・スピリチュアルと深く関係していると思う。
「法身」は梵ではないということをはっきりさせないと、仏教は梵我一如を目指す教えとなってしまう。

疑問に思ったところ。

仏陀が発見した永遠不変の真理を覚れば誰でも仏になることができる。

という講義を陳腐と、袴谷憲昭氏は評している。
そして、信心をも否定する。

仏の出世と不出世にかかわりなく実在している永遠不変の真理だから、信仰には無関係なのである。もし、真理は仏とは関係がないと主張しつつ、仏を信ぜよと真剣に叫んでいるとしたら、笑止千万というほかはあるまい。

宗教は客観的真実ではなく、主体的真実だからこそ信心は不可欠だと思うのだが。

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青草民人「たばこ」

2004年12月03日 | 青草民人のコラム

道ばたに転がっている吸い殻をよく見ると、たいてい同じ場所に何本も種類の違ったたばこが落ちている。たいがいが側溝の細いすき間のあるふたか、ガードレールの植え込みの近くだ。無造作に捨てられている吸い殻を見ると、日本人のモラルの低さをひしひしと感じる。

私は禁煙を始めて、ようやく一年がたとうとしている。以前は煙の香りがすると、自分もポケットのたばこに火をつけて、煙をまき散らしながら、側溝にポイ捨てしていた。

しかし、自分がやめてしまうと、これほど嫌なものはない。今までいい香りだと思っていたあの煙のにおいが、遠くからにおってきても鼻につく。前を歩くおじさんが歩きたばこをしていると、速度をあげて追い抜きにかかる。最近では、たばこのにおいのする場所を避けるようにもなってきた。

禁煙としては大成功であろう。何で今まであんなものを口にしていたのか。たばこの麻薬性とでもいうのだろうか。副流煙が他人の健康に影響をおよぼすと指摘され、喫煙者は半ば犯罪者のように次第に隅に追いやられている。

人間とは勝手なもので、自分の都合で必要なものと不必要なものを選んで使っているが、たばこを吸う吸わないにかかわる考えや感じ方は、まさにそうだろう。

最近、近くのタバコ屋のおばさんがよそよそしくなった。販売機でたばこを買わなくなったのに気がついたのか。何となく遠慮しながら朝のあいさつをして通る。清々しい朝の空気をいっぱい吸い込んで。

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映画館の将来は・・・

2004年12月01日 | 映画

イオセリアーニ映画祭というのがあり、4本見たが、観客は一人(つまり私だけ)が一回、二人が二回。
シネコンができたためか、ビデオ屋があるためか、どの映画館でも似たような状況である。

トム・クルーズの『コテラクル』、山田洋次の『隠し剣鬼の爪』といった、ヒットしているらしい映画もガラガラだった。
もっとも、私が映画を見に行くのは平日の昼間ということもあるが。

『ポーラー・エクスプレス』を見に行ったら、私一人なので、うふふと思ってたら、予告編の時にカップルが入ってきた。
『Mr.インクレディブル』もまたまた私一人なので、今日こそはと思ってたら、始まる直前にカップルが入ってきた。
一人で映画を見るのは難しい。

以前だったら、一つの映画は1館でしか上映しなかったのに、シネコンができてからは複数の映画館で上映するようになった。
『Mr.インクレディブル』は6館である。
スクリーン数はそれ以上。
これではつぶれる映画館が出てくるのも当然の成り行きである。
一人で映画を見るのは気持ちがいいものではあるが、しかし映画館がシネコンだけになるのだけは勘弁してほしい。

ということで、映画館がつぶれないようにと、私はせっせと映画を見に行っているわけです。

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