三日坊主日記

本を読んだり、映画を見たり、宗教を考えたり、死刑や厳罰化を危惧したり。

浜井浩一、芹沢一也『犯罪不安社会』(1)

2007年10月31日 | 厳罰化

犯罪が増えていないのに、どうして治安が悪化していると不安に思う人が多いのか。
浜井浩一、芹沢一也『犯罪不安社会』を読むと、犯罪に対する不安がいたずらに高まっている社会の問題点がよくわかる。

 1章「犯罪統計はどのように読むべきか」 浜井浩一
犯罪は増えているか。
認知件数は増えているが、警察の統計を正しく理解するためには、それぞれの時期に警察がどのような方針で被害や事件処理に当たっているか、重大な方針変更はなかったかを知ることが不可欠。

2000年から認知件数が増加したのは、桶川ストーカー事件や栃木リンチ殺人事件など、警察に相談したのに警察が動かなかったことが判明したり、民事不介入だった闇金融の取り立て、夫婦間のトラブルなどを警察が対応するようになったこと、そして被害者が積極的に届けるようになったことなどが原因である。

2001年の警察庁長官の訓示の中に、「暴行・傷害等の粗暴犯は、認知、検挙ともに激増しております。国民のこの種事案に対する検挙要望が強くなり、積極的に届出をするようになってきたことが増加の原因として考えられます」とある。

実態はどうかというと、人口動態統計の「加害に基づく傷害および死亡人員の推移」「年齢別加害に基づく傷害および死亡人員の推移」を見ると、他殺によって死亡する人は減少傾向にある。
また、5歳未満、5歳以上10歳未満のいずれにおいても、他からの加害によって傷害および死亡する子どもの数も減少傾向にある。
他の犯罪も同様で、客観的統計からは治安悪化はまったく認められない。

治安が悪化していないにもかかわらず、治安が急激に悪化しているという意識・不安が作り出され、それが維持されているのはなぜなのか。

通常なら、事件が起きても、時間が経過するにしたがってマスコミの熱は冷めるし、マスコミが報道しなくなると、我々も事件のことを忘れてしまう。
マスコミが不安を煽ることである種のパニックは発生するが、パニックに実態がともなっていない場合には、時間経過とともに沈静化し、忘れられるのが常態である。

ところが、マスコミ報道によって作られたパニックが、市民運動家(支援者など)、行政・政治家、専門家の参加によって恒久的な社会問題として定着していく。
これを「鉄の四重奏」と言う。

① マスコミの影響
マスコミや警察が、最近の犯罪の凶悪化、それに対応することの困難さ、警察の検挙率の低下等を喧伝することが、人々の安全感を低下させ、犯罪不安を煽る。

「2年前と比較して犯罪が増えたと思いますか?」という質問(2006年実施)
     とても増えた  やや増えた 同じくらい やや減った とても減った
日本全体   49.8%  40.8%    7.8%     1.2%     0.2%
居住地域   3.8%  23.2%      64.2%    5.1%    1.3%

多くの人が、「自分の周りでは治安はそれほど悪化していないが、日本のどこかでは治安が悪化している」と感じている。
治安の実態は悪化していないのに、体感治安が悪化しているということである。

体感治安が悪化している理由。
・犯罪報道が90年代に入って増加傾向にあること
・「凶悪」というキーワードが付される記事が増加していること
・「警察だけでは対応できない」といったメッセージを流し続けるなどのマスコミ報道の影響

どういう犯罪が凶悪かというと、「凶悪犯罪」という言葉は英語にはない。

② 行政の対応
現在、マスコミや政治における治安対策の議論、行政の多くの施策が治安悪化を前提に動いている。
そして、マスコミに後押しされて行政が対応して制度変更を行うことで、治安悪化という実態なきイメージが固定化してしまった。

③ 犯罪被害者支援
犯罪被害者は当事者でありながら忘れられた存在だったが、1990年代後半から被害者対策がなされるようになり、被害者支援組織が立ち上がった。
被害者の思いが人々の心に響き、治安に対する危機意識を喚起する可能性がある。
犯罪被害者支援が報道と行政を変えた。

問題は、治安悪化神話が事実なき「神話」であるにもかかわらず、さまざまな行政の施策に取り込まれ、人々の自由を制限し、コストを増大させる根拠となっていること。

しかも、対策の中身が犯罪を力で封じ込めるための厳罰化、警察力低下を補強するための警察官増員、および防犯カメラの導入といった短絡的なものとなっている。

厳罰化に犯罪抑止効果のないことは、最先端の犯罪学では常識になりつつある。
厳罰化によって職や家族を失い、ホームレスや犯罪者になる危険性のほうがずっと大きいのである。社会にとって、かえってリスクが高まる結果となるのだ。


治安悪化神話を解消するためにはどうすればいいのか。
犯罪被害者に対する支援は強化した上で、マスコミ、市民活動家、行政・政治家、専門家の「鉄の四重奏」の絡みを一つ一つほどいていく必要がある。

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トルーマン・カポーティ『冷血』と死刑(2)

2007年10月28日 | 死刑

トルーマン・カポーティ『冷血』の中で、クラター一家殺し犯人の母ヒコック夫人が婦人記者にこう打ち明ける。

あたしが思っていることをお話しできる人がおりませんのよ。といっても、みなさんが、近所の方やいろんな方が、親切でなかったというのじゃございません。
それに、見ず知らずの人たちもですよ―そういう人たちはお手紙をくださって、あたしがどんなにかつらい思いをしていることだろう、お気のどくにたえません、などといってくださいますの。うちの人にも、あたしにも、ひどいことをいってくる者は誰一人おりませんでした。きっとそんな目にあうだろうと思っていたのに。
こちら(裁判を行っている市)にまいっても、それがなかったんですのよ。こちらでは、みなさんがわざわざあたしどものところに来て、何かとやさしくしてくださいます。
あたしどもが食事をとっている店のウェートレスまでが、パイの上にアイス・クリームをのせてくれて、そのお金を取りませんのよ。やめてちょうだい、食べられませんから、とあたしがいいましてもですね、それでもあの人はそれをのせてくれるんです。あたしにやさしくしてやろうと思ってですね。
その人はシーラという名前なんですが、彼女は、ああいうことになったのは、何もあたしたちの罪ではないといってくれるんですよ。


これには驚いた。
日本だったら非難囂々、いやがらせの手紙や脅迫電話が殺到するに違いない。

『年報・死刑廃止2007あなたも死刑判決を書かされる』に、森達也がこんな話をしている。

98年ぐらいですか、少年法が改正されるときにこれを整合化する要素としてよく引き合いにされたのが、ちょうどあの頃、アメリカの高校で乱射事件とかあって、あの少年たちの顔写真がアメリカのメディアではかなり流通したんですね。もちろんアメリににも少年法があるのですが、これほどに凶悪な犯罪であれば、顔写真やプロフィールを公開して当たり前だという世論が形成されたようです。だから少年法改定を主張する人たちの多くは、アメリカでもやっているじゃないか、見直すべきだって声だったんです。
そのころに、この乱射事件の加害少年の母親のインタビューを日本のテレビニュースで見ました。顔写真などが公開された後に、全米中から彼女のもとに手紙が来たそうです。そしてその内容が、……彼女は100%と言いましたけど、全部励ましなんだそうです。「がんばれ」とか「今、あなたは一番辛い時期だけど、いずれ息子は更生する」とか、そういった内容なんですよ。

加害者の家族にアメリカ社会は非常に寛容的なのだろうか。

その一方で、被害者遺族が厳罰を求めることを社会が期待している。
息子を殺されたルブラン氏は、

社会の大半の人は「ゆるす」というのは弱さの表れだと考えるようだ。「息子を殺した人をゆるすなんて、親として愛情が足りないんじゃないか」と言う人もいる。でも、そんなことは全然ない。自分の息子を殺したその行為、その罪をゆるすということではない。息子を失ったことを自分たちは悲しみ、苦しんできた。

と語り、娘を殺されたマリエタさんも、

本当に娘さんのことを愛していたのなら、犯人の死刑を望むことこそ、その愛情の証ではないか。

と言われたと、シスター・プレジャンは書いている。

期待される被害者像というのがあり、それは厳罰を求める被害者だというわけだ。
極刑を望む被害者遺族はマスコミに取り上げられるが、そうではない被害者の声はあまり伝えられないのは、そのあたりに原因があると思う。

シスター・プレジャンが、

被害者に対して警察が「殺されたご家族の命が無駄にならないように、犯人の死刑を絶対に勝ち取ります」と言われたら「ぜひそうしてください」と答えるだろうし、遺族がテレビカメラの前で「犯人を死刑にしてほしい」と訴えることもある。それこそが亡くなった人を大切にする気持の証だと。社会の期待でもある。
そういう時の遺族は、心が傷ついていて、混乱していて、大変な苦しみの中にいて、憎しみを抑えられない心理状態にある。社会が「死刑にしてほしいですか」と聞けば「はい」と答えるに決まっている。

と話しているように、厳罰を求める被害者は社会が作りあげた被害者像であり、被害者一人ひとりの気持ちは違っているはずだ。

「罪を憎んで人を憎まず」という言葉がある。
浜井浩一、芹沢一也『犯罪不安社会』によると、「故意のない犯罪は罰しない」という中国のことわざが、江戸時代に「犯した罪は憎んで罰しても、罪を犯した人まで憎んではならない」と日本風にアレンジされたそうだ。

ルブラン氏が「息子を殺した人をゆるす」と言い、「自分の息子を殺したその行為、その罪をゆるすということではない」と言っているのは、まさに「罪を憎んで人を憎まず」である。
「罪を憎んで人を憎まず」という言葉を生み出した日本人にはルブラン氏の気持ちは理解できるはずだ。

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トルーマン・カポーティ『冷血』と死刑

2007年10月25日 | 死刑

トルーマン・カポーティ『冷血』は、1959年、アメリカのカンザス州でクラター家の4人が惨殺された事件を取材したノンフィクション・ノベルである。
事件が起こる前から、ペリー・スミスとディック・ヒコックが逮捕され、死刑になるまでが描かれている。

カポーティは死刑に関心があったのか、死刑に対する言及があちこちに見られる。
記者たちのこういう会話がある。

A「ああまで痛烈にやっつけることはないよ。あれじゃ不公平というもんだ」
B「何が不公平なんだ」
A「裁判全体がだ。この連中には立つ瀬がないよ」
B「じゃ、ナンシー・クラター(殺された次女17歳)には立つ瀬があったというのかね?」
A「ペリー・スミス(4人を殺した実行犯)って、かわいそうなやつだ。やつの一生はさんざんだった」

そして、Aはこう言う。

A「あいつを絞首刑にするってのはどうかね? それだって、まったく冷血なことだぜ」

この会話はカポーティの死刑に対する考えを記者の会話に託していると思う。
「冷血」とは4人を殺した犯人を指すだけでなく、絞首刑も意味しているわけだ。

保守的な中西部で起きた事件だし、実行犯のペリーはインディアンの血をひいている。
だから、みんなが死刑を望んでいるのかと思ったら、そうではない。

弁護人は被告にこう言う。

キャンザス州のどこで裁判が行われようと、大した問題じゃないんです。人々の気持は、州のどこへ行っても同じです。われわれにはガーデン・シティーのほうが都合がいいんですよ。ここは宗教的な社会だから。人口一万一千人に対して、二十二も教会がありますよ。そして牧師の大部分が死刑には反対で、それは不道徳で、キリスト教的ではないというんです。クラター家の牧師で、その家族とは親しい友人であるカウアン師ですら、この事件そのものにおいても、死刑には反対の説教をしてきております。

犠牲者が通っていた教会の牧師が、信者が惨殺されたにもかかわらず、加害者を死刑にすべきではないと説教するとは。

そして、クラター夫人の兄(被害者遺族)は手紙でこう書いている。

この町(つまり、ガーデン・シティー)には、今怒りの渦が巻いております。犯人を逮捕したら、犯行現場にいちばん近い立木で首吊りにすべきだ、というご意見を私は一度ならず耳にしました。しかし、そんなふうに考えないでいただきたいのです。もうすんでしまったことですし、犯人を殺しても元どおりになるわけではありません。そのかわり、神の御心に従って犯人を許してやりたいのです。私たちが心に恨みを抱くのは正しいことではありません。殺人を犯した犯人はかならずや自分の良心との葛藤に苦しむでありましょう。彼の唯一の心の平和は、彼が神の前に許しを乞うとき訪れるのです。それを邪魔だてすることなく、彼が心の平和を見出すよう祈ってやってください。


アメリカでは、死刑反対を訴える犯罪被害者遺族が少なからずいるが、その人たちの死刑反対の理由にはキリスト教の影響が大きいように感じる。
神父や牧師が常々、死刑には反対だと説教しているのかもしれない。
さらに言うと、生活と信仰が別のものではなく、生活に生きた教えとなっているから、いざという時に怒りや恨みといった感情を乗り越えようとするのではないか。

シスター・プレジャンは25年前から死刑囚や殺人事件の被害者家族と交流し、支える活動をされている。
最初に文通し、面会した死刑囚は10代のカップルを殺している。
被害者の親たちに会いに行きたいとシスター・プレジャンは思ったが、犯人の相談相手をつとめている者が会いに行けば、親たちは怒りを感じたり、苦しむことになるだろうと考えて、親たちとは接触しなかった。

ところが、二人の犠牲者の親に会った時、少年の父親ロイド・ルブラン氏からこういうことを言われる。

シスター、あなたは二人の犯人とは何度も接見して、お話ししているのに、私たちのところには、ずっと長い間、一度も会いに来てくれなかったじゃないですか。なぜ来てくれなかったのですか。私たちは犯人が処刑されるかもしれないので、とても苦しんでいたのです。


そうして、ルブラン氏はこのように話す。

かれらは息子を殺した。私にはもちろん、復讐心、非常につらい憎しみ、怨み、苦々しい気持が強くあった。その気持に負けそうな時もあったが、考えてみると自分は昔から人には優しく接してきたし、いつも他の人を助けようとしてきた愛情の深い人間だったと思う。たしかにかれらは息子を殺した人たちだけれども、この憎しみの感情にここまま押し流されてしまえば私も殺されてしまう。自分は昔のままの、人に優しい、愛情深い人間でいたいので、私はイエスのように人をゆるす道を歩むことにする。自分が殺されなくてもすむように。

被害者や遺族がキリスト教に救いを求めるということは、キリスト教がアメリカ人の生活の中に生きているからだと思う。

興味深いのが、クラター家の父親は次女ナンシーが恋人バビーとの交際を絶ち、頻繁に会うのをやめるべきだと主張していたこと。
交際に反対した理由は、クラター家がメソジストであるのに、バビーの家はカトリックだから、「二人が将来結婚できるとはとうてい考えられない」ということである。
信仰があるからといって、すべてに寛容になれるとは限らないのか。

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死刑の残酷さ

2007年10月22日 | 死刑
余録:死刑執行
中国、イラン、パキスタン、イラク、スーダン、米国。この国々には意外な共通項がある。昨年、死刑を執行した件数の上位6カ国だ(アムネスティ・インターナショナル調べ)。だが3350人の死刑囚がいる米国で、先月から執行の直前中止が相次いでいる▲致死薬物の注射で処刑する方法の合憲性を連邦最高裁が審理すると決めた。憲法が禁止する「残酷かつ異常な刑罰」に当たるか、最高裁が判断を下すまで事実上の死刑中止が続きそうだ▲このニュースを読んで、01年に訪れたオクラホマシティーを思い出した。168人が死亡した連邦ビル爆破テロ事件の死刑囚の処刑が迫っていた。立ち会いを求める遺族・被害者が多く、抽選で10人が選ばれた。その一人に聞くと「直接、この目で彼を見たい」という▲抽選にはずれた232人は執行の日、政府施設に集まった。4分間の注射でゆっくり死んでいく生中継の映像を見るためだ。一方、バド・ウェルチさんも忘れられない。23歳の娘を殺されたが、死刑廃止運動に取り組むようになった。「復讐の思いを乗り越えるのに1年かかった。報復に喜びはない。怒りで人間は破壊される」▲米国は執行日を発表し、遺族や記者、さらに死刑囚の家族らに公開する。死刑囚本人への取材も認める。最後の食事、最後のことば、死の瞬間が報道される。愛する家族を殺した人間が国家によって殺されるのを見たい人がいる。許す人もいる。その思いも記事となる▲昨年の死刑執行国は25カ国だけだ。日本は処刑した死刑囚の氏名すら公表しない。死刑は「回復不能な極刑を執行し人の命を奪う大変重大なこと」(鳩山邦夫法相)だ。だからこそ、執行にかかわる具体的な事実を私たちが知った上で考えたい。(毎日新聞2007年10月211日)


薬物注射による死刑が「残酷かつ異常な刑罰」だったら、絞首刑はもっと「残酷」だと思う。
絞首刑は窒息死ではなく、首の骨が折れて即死というタテマエだが、心臓が停止するまで12分から15分かかるらしい。
それに大小便を失禁するし、眼球が飛び出し、鼻血が噴き出すこともあるそうだ。

薬物注射の場合、死刑囚は眠るようにして死ぬ。
25年前から死刑囚と交流を持ち、6人の処刑に立ち会ったシスター・プレジャンはこう言っている。

薬物で死刑を執行する場合、最初の薬は死に至らしめる薬、二番目に注入する薬は身体を完全にマヒさせ、何も感じなくさせるための薬です。ですから、死刑囚が身体をよじったり、叫んだりして苦しむ姿は見られない。死刑囚は指一本動かさずに亡くなるわけです。

見た目だけなら「残酷」ではないと思う。

しかし、なぜ死刑囚をマヒさせなければいけないのか。
シスター・プレジャンは「それは苦しむ姿を見なくてすむようにするためです」と言い、死刑囚の苦しむ姿を見せないだけではなく、「死刑本来のあり方を見えなくしている」とも言う。

アメリカでも死刑執行は少数の人たちだけで秘密裏に行われる。

死刑が本当に犯罪の抑止力となるのであれば、人々に公開して、抑止力としての効果を高めるべきです。(略)
なぜ見えなくしているのか。見るに堪えないからです。死刑のおぞましさを、私たちは顔をあげて、目を見開いて、正視することができないからです。

このように、アメリカでは死刑は「非常に秘密的な儀式」だとシスター・プレジャンは言うが、執行日を前もって発表し、執行を公開している。

ところが日本の場合、死刑囚ですら執行の当日になるまで知らされない。
だから、死刑囚は毎日おびえながら暮らさなければならない。
死刑囚の家族には執行の後に通知がある。
日本のほうがずっと「残酷」だと思う。

死刑の賛否を問うアンケートでは死刑に賛成の人が多いが、それは死刑についての情報があまりにも少ないので、死刑のことを知らないこと、そしてそもそも死刑について特に考えたことのない人がほとんどだからだと思う。

シスター・プレジャンが、

アメリカでも公開処刑にすれば、死刑はすぐにでも廃止されるでしょう。見えないからこそ、人々は「死刑によって正義が全うされた」と言えるのです。死刑がより身近になれば、それだけ早く死刑は廃止されると思います。

と言うように、死刑囚がどういう生活をしているか、死刑はどのように執行されるのか、死刑を執行する刑務官どう考えているのか、こうしたことを知るならば、「死刑に賛成」とは簡単に言い切れなくなると思う。

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格差社会 日本

2007年10月20日 | 

知り合いの知り合いである72歳の女性は、国民年金だけでは生活できないので、病院の掃除婦として朝の7時から昼の4時まで働いて、時給750円。
日本の格差はどうなのかと思い、毎日新聞社社会部『縦並び社会』を読む。

OECD加盟各国の貧困率(所得が全国民の所得の中央値の半分以下の人の割合)は、日本は5番目の高さで、世界でも格差の大きな国なのである。
1位メキシコ 2位アメリカ 3位トルコ 4位アイルランド 5位日本
貯蓄ゼロの世帯は1987年に3.3%、2003年には21.8%。

年20万円の保険料を払えないので保険証を使えない無保険者が、2004年に30万世帯以上に達している。
横浜は70万世帯のうち31592世帯、名古屋は43万世帯のうち15世帯だから、行政の対応の仕方によって大きく違ってくる。

母子世帯の2005年の平均就労年収は171万円で、児童扶養手当や生活保護費などすべての収入を加えた平均年収は213万円。
その児童扶養手当制度が改悪され、手当が引き下げられた。

格差拡大の大きな要因が規制緩和である。
規制緩和で参入が増えたため、トラック、バス、タクシーの運転手は労働条件が厳しくなっているのに、給料は逆に減っている。
2004年のタクシー運転手の平均収入は大都市部で308万円で、5年前より40万円下がった。

派遣社員はかなりピンハネされており、月90万円を仕事先の会社は支払っているが、本人は手取りで20万円を切ることもある。
正社員との給料の格差は大きく、年金、保険などは自腹。
財界の圧力で過労死などの規制が骨抜きになっている。
30~34歳の男性が5年以内に結婚する割合は、正社員が35.5%、フリーターは17.5%。
少子化が問題になっているが、収入が少なく労働時間が長いと、子供は無理。

派遣会社員(39)「派遣先では当初の時給が900円だったが、3年過ぎて派遣先から信頼を得ている今でも1000円だ。社員よりも給与が安いのに同等の業務をさせられ、時間外労働は無制限。労働基準法も労働者派遣法も私の派遣先では通用しない。今の状況は「ヒトを使い捨てにする時代だ」とつくづく感じる」


大店法の廃止されて大型店が次々とできたことによって商店街がダメになり、小売店がどんどん廃業している。
ところが、フランスやドイツでは大規模店の出店を規制している。
大店法の廃止はアメリカの圧力のため。

外圧を利用して規制緩和し、うまい汁を吸ってるのが宮内義彦や竹中平蔵たちである。

石原信雄元官房副長官「規制緩和自体は悪いことではないが、敗者は切り捨てご免になっている」

ある病院長「経済効率だけを考えれば切り捨てられる医療が必ず出てくる」


小林由美『超・格差社会 アメリカの真実』はこのように批判する。

アメリカにとって最大の問題であるはずの貧富の格差拡大や社会階層の固定化、教育の質の低下や職業訓練化、株価の上昇を最優先する経営すらも、まるで社会の活性化と変革への処方箋であり、アメリカから武器を買って軍隊を作ることが、国家の発言力を強めてステータスを高める方法であるかのような論調さえ、最近の日本では見受けられる。(略)
日本でも貧富の格差が拡大して階層化が進むことは、本当に経済活性化につながるのだろうか? 軍事力は本当に国家の発言力を強め、ステータスを高めるのだろうか?

教育制度、医療制度などを公教育が破綻し、保険を持たない人が多い格差社会アメリカをどうして見習うのか。

格差拡大によって利益を得る人たちは、格差は問題ではないと言う。

小嶌典明(規制改革・民間開放推進会議専門委員、大阪大学教授)「成果主義には評価の厳しさがつきまとうが、仕事の重要度や能力で差をつけなければ、労働意欲は高まらない。日本の企業は単純労働に高級を払いすぎている。米国は単純労働の給与を抑える代わり、キャリアを磨いて職や企業を渡り歩き、給与・待遇を向上させる自由度が日本よりはるかに高い」

高橋宏(首都大学東京理事長)「原材料(学生)を仕入れ、加工して製品に仕上げ、卒業証書という保証書をつけ企業へ出す。これが産学連携だ」

人をモノ扱いして平気な人が大学の理事長をしているのである。

なぜ自己責任容認派が増えるのか。

香山リカ「問題なのは、格差の下とされる若い人たちが、甘んじて受け入れてしまっていること。自分探しや身近な幸せは考えるが、社会のあり方については考えようとせず、声もあげない。一方、格差の上とされる人たちは同情や共感が乏しく、他者に厳しい視線を向ける」

小泉元首相の「格差は当然です」という発言に、下にいる人が支持するわけだ。

格差を生み出す一番の要因は、働いてお金を手に入れるよりも、株の売買などのほうが多くの収入を得ることができるという仕組みである。

神野直彦(東京大学教授)「株式などの金融資産にちゃんと課税できていないことを問題にすべきでしょう。(略)
勤労所得と合算したうえで所得の高さに応じて税率を上げていく総合課税方式が望ましいでしょう」


株式譲渡益と配当所得への課税は一律10%、そして働いて稼いだ所得と合算する総合課税ではない分離課税である。
給与所得で最高税率50%を負担している人は全納税者の0.5%、本当の金持ちは株によって高収入を得ている。
アメリカでは株主への配当が最優先され、会社の利益や長期的展望、社員の福利を考えないそうだが、日本も同じ状況らしい。

神野直彦(東京大学教授)「消費税の増税は格差が拡大している中で弱者への負担を重くします。法人税や所得税など、高額所得者に高い税率がかかるようにした方が、不公平は是正されます」

北野弘久(日本大学名誉教授)「税金は、国民から等しく能力に応じて徴収すべきであって、逆に言えば、取るべきところから取らなかったら憲法違反になる」。(ベンジャミン・フルフォード『イケダ先生の世界』)

それでも消費税は引きあげられると思う。

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格差社会アメリカ(2)

2007年10月14日 | 

不思議なのは、アメリカ人は他の階層の人たちにあまり関心を持たないということ。
小林由美『超・格差社会 アメリカの真実』にこうある。

これがいかにもアメリカらしいのだが―どの階層に属している人も、自分よりも下は無能か怠け者だから貧しく、上は金持ちの家に生まれたから金持ちなのだ、と思っている。


豊かな人の多くは高等教育を受けているのだから、格差拡大の原因が何か、格差を減らすにはどうすべきかに関心を持ってもよさそうなものだが、これまた興味がない。

なぜアメリカの人々はもっと大きな社会の仕組みのあり方に疑問を持たないのか?
おかしな仕組みを直そうとはしないで、毎日奮闘している理由はどこにあるのか?

アメリカ人は自分に関係のないことには本当に無関心で、身のまわりのことだけにしか関心を持たない。
バーバラ・エーレンライクが『ニッケル・アンド・ダイムド』に書いているが、同僚のウエイトレスたちに、実は自分は博士号を持っているんだと告白しても、誰も驚かないことにエーレンライクは驚く。

なぜ他の階層の人に関心を持たないかというと、普段接することがあまりないから。
小林由美は「アメリカ型の競争社会は、階層社会の徹底化と、相互の隔離によって維持され得る」と言う。

アメリカ国内で貧富の差が拡大しても、特権層は隔離された世界に暮らしているから、貧困層の問題は身に迫る深刻な問題とは感じない。

今のアメリカには、階層ごとに地域的な住み分けがある。だから個人は自分の所得水準に合わせて住む場所を選ぶ。明確に住み分けることによって暴力的な犯罪は貧困地域に囲い込み、落ちこぼれそうと接触しなければ、それなりに安全で快適な住環境を作り出せるということだ。


教育や医療などにも格差がある。
たとえば、金持ちは子供を公立学校ではなく、金がかかる私立に行かせる。
低所得家庭に生まれ、低水準の公共教育しか受けられなかった人は、その後の人生を通して衣食住全ての日常生活で大きなハンディキャップを背負うことになる。

笑ったのがこれ。

大学の中には、生徒にダンスを教え、ラスベガスのカジノにストリップ・ダンサーを供給しているところさえある。

自由の根底には、経済的な成功が必要なのである。

アメリカ社会では、いくら自由で何をしてもいいとはいえ、経済的に自立しなければ落ちこぼれる。

落ちこぼれは代々落ちこぼれてしまい、金持ちはますます豊かになるわけである。

ウエイトレスや掃除婦といった定収入の仕事はどういうものなのか。
バーバラ・エーレンライクは「単純労働など楽勝だと思われるかもしれない。だが、それは違っていた」と『ニッケル・アンド・ダイムド』に書いている。

仕事はすべて肉体的に厳しいものばかりで、何ヵ月も続ければ体をこわしそうなものもあった。(略)
仕事を始めるときにはあまり気づかないことだが、自分の時間を切り売りするつもりでいたのに、実際に切り売りするのは、自分の生活であり、人生そのものだったのである。


それだけ働いても、報われることはほとんど、あるいはまったくない。
仕事を完璧にこなしても、誰もほめてくれるわけではないし、給料は上がらない。
だから、貧困から抜け出すことは容易ではない。

私は、「一生懸命働くこと」が成功の秘訣だと、耳にタコができるほど繰り返し聞かされて育った。「一生懸命働けば成功する」「われわれが今日あるのは一生懸命働いたおかげだ」と。一生懸命働いても、そんなに働けると思っていなかったほど頑張って働いても、それでも貧苦と借金の泥沼にますますはまっていくことがあるなどと、誰も言いはしなかった。


「他人の子供の世話をするために、自分の子供の世話をおろそかにする。自分は標準以下の家に住んで、人さまの家を完璧に磨き上げる」ワーキングプアは「ひたすら与えるばかりの人たちなのだ」と、バーバラ・エーレンライクは書く。

賃金の面でも人に認められるという面でも、あれほど報われることの少ない仕事に、みんなが誇りを持っていることに驚かされ、ときには悲しくなるほどだった。


エーレンライクの言葉は実に厳しい。

私たちが持つべき正しい感情は、恥だ。今では私たち自身が、ほかの人の低賃金労働に依存していることを、恥じる心を持つべきなのだ。誰かが生活できないほどの低賃金で働いているとしたら、たとえば、あなたがもっと安くもっと便利に食べることができるためにその人が飢えているとしたら、その人はあなたのために大きな犠牲を払っていることになる。


『ニッケル・アンド・ダイムド』を読んで、鎌田慧が季節工として自動車工場の生産ラインで働いたルポである『自動車絶望工場』(1972年刊)を思いだした。
ベルトコンベアでの作業がこんなにきつい仕事なのかと驚いたものだ。

しかし、この自動車工場で働いていた人たちは、今は苦しくとも、まじめに働いていればいつかは報われると、将来設計を立てることができた。
貯金をし、結婚し、家を買い、子供を大学に行かせるという夢を持っていただろうし、その夢を実現させることができたと思う。

今はどうか。
考えてみれば、鎌田慧と一緒に働いた20代の人は現在50代である。
リストラでクビを切られたかもしれない。
アメリカの状況は他人事ではない。

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格差社会アメリカ(1)

2007年10月11日 | 

小林由美『超・格差社会 アメリカの真実』によると、格差社会であるアメリカは「特権階級」「プロフェッショナル階級」「貧困層」「落ちこぼれ」という4つの階層に分かれた社会である。

「特権階級」「プロフェッショナル階級」の上位二階層を合わせた500万世帯前後、総世帯の5%未満に、全米の60%の富が集中しており、トップ20%が84.4%の富を握っている。
経済的に安心して暮らしていけるのは、5%の〝金持ち〟だけ。

アメリカ国民の60~70%を占める中産階級は「プロフェッショナル階級」と「貧困層」に二分化している。
1980年以降、すなわちレーガン政権により、アメリカの所得分布は大きく方向を転換し、所得格差が猛烈に拡大し始めた。

アメリカ社会の最下層にいるのが、貧困ライン(4人家族で年間所得約280万円)に満たない世帯や、スラムの黒人やヒスパニック、保留区のネイティブ・アメリカン、難民や違法移民の大半で、人口の25~30%前後を占めている。

貯金が全くない世帯は25%。
人口の15.7%、4500万人は医療保険が全くない。
必要な医療も受けられない彼らは、病状が悪化してどうにもならず、止むを得ず病院へ行けば、返済できないほどの多額の借金を抱え込むことになる。

「落ちこぼれ」はどういう生活をしているのだろうか。
バーバラ・エーレンライク『ニッケル・アンド・ダイムド』は、「福祉改革によって労働市場に送り込まれようとしているおよそ400万ともいわれる女性たちは、時給6ドルや7ドルでいったいどうやって生きていくというのだろう」と考えた著者が現場に飛び込んで、身をもって体験した体験記である。

バーバラ・エーレンライクは1941年生、博士号を持ち、文筆業。
1998~2000年にかけて、フロリダ州でウェイトレス、メイン州で掃除婦と老人介護、ミネソタ州でウォルマートの店員をした。

一番の問題は住居らしい。
全国平均で、ワンベッドルームのアパートを借りるためには時給8ドル89セントが必要。
にもかかわらず、全労働人口のほぼ30%が時給8ドル以下で働いている。

では、どういうところに寝泊まりしているのか。
フロリダ州でウエイトレスをしていた時の同僚たちの住まい。
・ボーイフレンドと週170ドルのトレーラーハウス
・ルームメイトと週250ドルの簡易宿泊所
・夫と1泊60ドルのモーテル
・ショッピングセンターにヴァンを駐車

適当な値段のアパートがなかなか見つからないこともあるが、アパートを借りるために必要な1ヵ月分の家賃と敷金が彼らにはない。

一つの仕事だけではやっていけないので、別の仕事をせざるを得ない。
当然、身体にはこたえるが、健康保険に入るためのお金もないし、貯金もない。
だから、病気をしても休まないし(病気欠勤の手当が出ない)、病院には行かない。
1998年までは「トイレ休憩の権利」すらなかった。

自分の家の掃除を業者に任せる人がいる一方で、身体の具合が悪くても仕事をこなしていかないと生活できない人もいる。

「彼女たちのようにぎりぎりどうにかやっている人たちがいっぱいいるというのに、一方で、こういう持てる人間がいることをどう思うのか」という疑問を持ったバーバラ・エーレンライクは、掃除婦をやめる時に、同僚たちに「客たちのことをどう思っているのか」と尋ねる。

その質問に対して、深刻な椎間板の故障を抱え、8000ドルのカードローンを抱える24歳はこう答える。

わあ、こんなの私もいつか欲しいなってことだけよ。だから仕事の意欲もわくし、恨みとか、怒りとかは全然感じない。だって、ほら、いつかはああなりたいっていうのが私の目標だもの。


2人の子を持つシングルマザーの返答。

私は全然気にならないわ。きっと人間が単純なのね。あの人たちが持っているものを欲しいとは思わない。私にはどうでもいいことだわ。ただ、ときどき、どうしても休まなきゃならないときは一日仕事を休むことができたらいいなと思うだけ。休んでも、明日の食べ物が買えればいいなと思うだけ。


なぜ格差は広がるのか。
小林由美はその原因を、金持ちは損になることをしたくないからだと言う。

富の集中は、アメリカの税政策や金融政策に深長な意味を持っている。なぜなら、民主国家の政策を決めるのは選挙に当選した大統領や議員であり、選挙で勝つための最大の武器は選挙資金だからだ。(略)
候補者の目がどこに向くかは言うまでもない。


ワーキング・クラスからの徴税を大幅に増やし、投資収入で生きるトップクラスの税負担を減らすことが、連邦準備制度理事会議長グリーンスパンがレーガン大統領のために考案した〝減税策〟だった。
このトリックを大々的に報道するマスメディアはアメリカにはいない。

ついでだが、イラク侵攻の最大の理由の一つは、ドルの対ユーロ防衛なんだそうだ。
フセイン大統領は2000年の11月に、石油の輸出価格をドル建てからユーロ建てに換え、同時に国連への預託金100億ドルもユーロに換えた。

石油価格がユーロ建てになり、ユーロで取引されるようになったら、ドルは単独基軸通貨としての地位を失う。そうなったらどの国もドルを売ってユーロを買うから、ドルは大暴落し、世界中が混乱する。もちろん、アメリカ、とりわけウォール街も決定的なダメージを受ける。
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理性と感情

2007年10月08日 | 日記

光市事件の弁護団に懲戒請求するよう煽った橋下弁護士に対して、4人の弁護人が損害賠償を求めた。
橋下弁護士を支持する弁護士はほとんどいないらしい。
弁護士でなくても、橋下弁護士の言ってることはおかしいと思う。

「○○の神様」というブログに、「たかじんのそこまで言って委員会」(9月10日)で行われた討論での橋下弁護士への質問と弁明が書き起こされている。
http://darksome.cocolog-nifty.com/blog/2007/09/post_4dd5.html
明らかに返答に窮しているのがよくわかる。

ところが、橋下弁護士を擁護し、弁護士一般を批判する人がネット上では多い。
専門的な事柄については、まずは専門家の意見に耳を傾けるべきだと思うが、反発する人が多い。
橋下弁護士を支持する人たちは、裁判とは何か、弁護とは何かといったことを理解できない、というか、理解したくないと思ってるように感じる。
こういう人たちが裁判員になったらどうなるのか心配になる。

医師から「今の生活を続けてたら死んでしまいますよ」と注意を受けても従わない人はそういないと思うが、弁護士のアドバイスには敵意をむき出しにする。
なぜか。

小林由美『超・格差社会 アメリカの真実』にこんなことが書いてある。

アメリカの大半の地域では、高等教育を受けた人に対する反感は一方で未だに根強い。本から得た知識や、理屈を捏ね回して出てきた結論よりも、原始的で直感的な判断の方が正しいという感覚や信念が強く、こうした直観的な判断力は、人工的な教育を受けた人ではなく、自然を教師にして素朴に育った純粋な人間の方が優れている、という暗黙の前提がある。だから、人々の感情に訴える現象は、大きな反響を呼ぶ。


光市事件などマスコミで騒がれている事件への言説の多くは、「原始的で直感的な判断の方が正しいという感覚や信念」であり、弁護士に対する反感も反知性主義で説明できると思う。

小林由美は続けて次のように書いている。

その背後にあるのは、開拓時代に普及したエヴァンジェリカル(福音主義。アメリカでは、カソリックに対する宗教改革派の総称)の教えだ。
エヴァンジェリカルの基本思想は、聖書を神の言葉とし、キリストを信じることによって、人々は聖職者というミドルマンを介在しなくても神と直結でき、救われるというものだ。そして神が人間に授けた基本的な知恵は、強い信仰によって強化され、強い信仰をもって優れたキャラクター(人格)に成長した人は、正しい判断が下せる。だから知識や教育よりも信仰の方が遙かに大切である。人工的な教育は信仰を弱め、神が人間に与えた本来の知恵を壊し、優れたキャラクターを作るうえで逆効果である。したがって高等教育を受けた人間は信用できない―、とつながるわけだ。(略)
だから大統領選挙になると、候補者は大統領たるにふさわしいキャラクターであることを強調し、決して学歴を宣伝しない。

キリスト教福音主義は反知性主義と結びついているわけだ。

ところが、日本では福音主義の影響はほとんどない。
だいたい日本人は権威に弱く、先生とよばれる人には従う傾向がある。
それなのに弁護士に対する反感、理性を嫌い、感情でしか語らない風潮はどこから生まれたのか。

いとうせいこうが毎日新聞の「中島岳志的アジア対談」で日本の右傾化について次のように語っている。

彼らは自分たちを代表しないものを支持している。ナショナリズムは支持されるほど彼らを圧迫するのに。レプレゼント(代表)の意味内容を問わないままに言語だけ、外形だけが変に熱を帯びているんです。
これは、カウンターカルチャーの変質という問題でもある。普通は自分たちを抑圧する権力へのカウンターなんだけど、今は権力がよく見えない。それで、理性へのカウンターになっちゃっている。なぜなら、理性が彼らに利益をなさないからでしょう。(略)
自分たちの主張が聞いてもらえない、自分たちは偉くもなれないという不満が全部、ここに流れたんですね。


なぜ理性へのカウンターなのかというと、「権力がよく見えないから」「理性は利益ももたらさないから」というわけだ。

「自分たちは偉くもなれない」という不満は、小熊英二の「現在のナショナリズムの背景には、グローバリゼーション下の社会不安がはっきりと大きな影響を与えている」ということにつながる。
不満や不安を抱えていても、それをどこにぶつけていいかわからない、だから何となく落ち着かない。
感情第一主義はそんな現在の不透明さ、先行きの見通しのなさに通じている。

そんな落ち着きのない感じが弁護士への攻撃になったり、厳罰を求めたり、ナショナリズムにはまったりするのではないか、というのは風と桶屋の関係かしらん。

追記(10月11日)
理性や論理よりも感情論が幅をきかせている背景には格差の問題があると思っていたが、隆蓮房。さんのコメントを読むと、そうとばかりは言い切れないようだ。
そこで思いつきをいくつか考えた。

まず第一に、考えることをしないということがある。
あることについて詳しく知ろうとは思わない。
ザッピングしながらテレビを見てて、次々と起こる事件は消費されていくだけである。

テレビや新聞、雑誌は信用できないと言いながら、本当のことだと思いこむ。
殺人事件は感情に強く訴えるから、被害者の悲痛に共感し、加害者に怒りを持つ。
それは感情であって、理性ではない。

そこで、「実はこうなんだ」と否定されると、気を悪くするのは仕方ない。
だけど、それからだと思う。
たとえば、弁護士への懲戒請求は安易にすべきではないと、データを示されて説明されたら、感情的には納得いかなくても、そうかもしれないと思うのではないか。
それなのに「一般人の感覚とは違う」と耳を傾けないのはなぜなのか。
感情に対して反論することは容易ではない。

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署名運動

2007年10月05日 | 死刑
愛知・女性拉致殺害:死刑求める署名10万人
 名古屋市千種区で今年8月、派遣社員、磯谷利恵さん(31)が携帯電話のサイトで知り合った男3人に拉致され、殺害された事件で、強盗殺人などの疑いで逮捕された男3人への死刑を求める署名が10万人を超えたことが3日、分かった。遺族はさらに協力を呼び掛けた上、署名簿を名古屋地裁に提出する。
 利恵さんの母親の富美子さん(56)らが先月22日、ホームページ(HP)を開設し、逮捕された3容疑者への死刑適用を求める署名を呼び掛けた。HPの中で富美子さんは「(被害者1人で死刑は難しいという)司法の壁に阻まれ苦悩しています」と強調。1日現在で10万2422人の署名が集まったという。(毎日新聞10月3日)

署名が10万人を超えるというのは、日本人の千人に1人が署名したことになる。

死刑を求める遺族の気持ちは当然だし、署名をする人の気持ちもわかる。
しかし、署名が判決に影響するとしたら、これは大問題である。
法律によって裁かれなければならないのに、世論の声が大きければ刑が重くなるとしたら公平な裁判だとはいえない。

それに、裁判も始まっていないのに死刑はだと断言していいものかとも思う。
我々はマスコミを通してしか事件のことを知ることはできない。
そのマスコミ報道は警察の発表そのままを流している。

冤罪事件を考えればわかるように、警察発表が100%正しいとは限らない。
また、自白をしたといっても、それが事実そのままかどうかはわからない。
殺人事件の加害者の中には、事件を起こしたことの罪の意識から自分を責め、事実関係を争わないことがある。

名古屋女子大生誘拐殺人事件の犯人は、誘拐してすぐに殺したと自供した。
ところが実際は、被害者のお母さんが亡くなっていることを知って、自分と同じ境遇の人を誘拐してしまったことに驚愕した犯人は、被害者を解放しようと思ったが、被害者が助けを求めて大声を出したために、もみ合っているうちに殺してしまった。
「誘拐後すぐに殺した」と言ったのは、強姦目的という疑いを晴らすためだった。

磯谷さんが立ち上げたHPを「きっこの日記」が紹介し、こう書いている。

法律は、被害者を救済するためにあるんじゃないのか? どうして、残虐に殺された被害者やそのご遺族を救わずに、凶悪な犯罪者を救おうとするのか?(略)
だけど、今の裁判は、どこかおかしい。被害者の無念を考えたら、ご遺族の心の痛みを考えたら、死刑だって足りないのに、それが、無責任な死刑廃止論者に裁判を利用され、無意味に長引かせられ、その間、ご遺族は、何年間も苦しみ続けなきゃならない。愛する家族を殺されただけでも、これ以上の悲劇はないほどの苦しみなのに、これじゃあ、よってたかってご遺族にさらなる苦しみを与えてるだけでしかない。

怒る気持ちはわかるが、あまりにも感情的だ。
「法律は、被害者を救済するため」だけにあるのではない。

「無責任な死刑廃止論者に裁判を利用され、無意味に長引かせられ」という部分は光市事件裁判について言っているのだろうが、これは間違いである。
光市事件について語るのなら、大阪弁護士会で行われた光市母子殺害事件弁護団緊急報告集会の記録と、今枝仁弁護士のコメントを読んでほしい。
http://image01.wiki.livedoor.jp/k/n/keiben/89c1e590775cb728.pdf
http://t-m-lawyer.cocolog-nifty.com/blog/2007/09/post_8957.html
マスコミが弁護団の主張をいかに伝えていないかがよくわかる。

「綿井健陽のちくちくPRESS」に「みんなで「処刑」という記事がある。

「いずれにせよ、こんな連中はさっさと死刑にすべきです」
例の名古屋での拉致殺害事件の容疑者に対して、テレビのコメンテーターはこんな発言をしていた。まだ逮捕された段階で、テレビスタジオの中では「裁判」どころか、もうすでに「判決」がいい渡されているというところか。光市裁判関係のニュースだけでなく、ほかの事件や裁判でも、最近は実に軽く「死刑」という言葉がさらっと出てくる。キャスター、コメンテーター、芸能人まで、テレビスタジオの中ではもはや珍しくもなくなった。捜査段階での容疑者の「自白」「供述」なるものが、この国では今も昔も絶対的な「証拠」「動機」「事実」のようだ。
警察や検察の取調べは必ず正しいのか?メディアで「 」つきで出てくる容疑者や被告の言葉は、本当に彼らが「 」通り話したことなのか? そうした警察や検察が出してくる「証拠」「動機」「事実」の信憑性をもう一度調べなおすのが弁護士の仕事だし、それらをすべて客観的に、様々な角度から比べて法的に判断するのが裁判所の役割じゃないのか?

https://watai.blog.ss-blog.jp/2007-08-31
その通りだと思う。

事実がどうだったかは裁判で明らかにしなければいけない。
今の時点で「死刑だ」とメディアが言い切るのはおかしい。

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消えゆくことば

2007年10月02日 | 

石見弁が心地よい山下敦弘『天然コケッコー』。
子供らがみなうまい。
特にさっちゃん。
島根出身かと思ったら違ってた。

気になったのが、今どきの中学生が「そがあな」と言うこと。
「~してくれんさらんかのう」が石見では普通に使われているのだろうか。

私は子供たちが東京弁をしゃべらないよう教え込んだが、子供たちは「~しとる」とは言わずに「~してる」だし、「こうた」ではなく「買った」である。
そして、当たり前のように「じゃん」とか「しちゃって」と言う。

遠からず方言は消えるかもしれない。
日本語が全国一律になるのは気持ち悪いが、日本語そのものも危ないと思う。
というのも、カタカナ語が増えている。
英語を使えないと生活できなくなるかもしれない。
もっとも外来語の動詞は少ないし、主語・目的語・動詞という日本語としての構文は崩れていないので、当分は大丈夫な気もするが。

英語が侵入しているのはどこの国でも似たり寄ったりらしい。
ドイツ銀行の役員会では英語のみが用いられる。
ドイツ語になった英単語が増えており、名詞ばかりではなく、動詞も目につくそうだ。
ロシアやフランスなどヨーロッパ諸国も事情は同じようなものとのこと。
まして開発途上国となると、公用語として英語が使われているし、経済的、社会的に上昇するには英語を使えないと話にならない。

マーク・エイブリー『「消えゆくことば」の地を訪ねて』によると、「世界中のエリートの共通語は英語」なんだそうだ。
少数言語にとっては厳しい状況である。

和崎洋一『スワヒリの世界にて』という本は1977年の出版。
和崎氏が社会人類学の現地調査のため、1963年からタンザニアのマンゴーラ村に滞在した記録である。

タンザニアには127部族がいて、そのうち23部族がマンゴーラ村に住んでいる。
それぞれ部族語を話し、部族意識を持って生活している。
村と言っても、滋賀県の広さに約千世帯が住んでいるというのだから、日本とはちょっと感じが違う。

『「消えゆくことば」の地を訪ねて』によると、地球上には約6000種の言語がある。
そのうち、ニューギニアは1100種の言語(方言ではない)がある。
つまり、世界中の言語の6分の1がニューギニアにあることになる。
タンザニアの部族語は方言なのだろうか。

それはともかく、今世紀の終わりには多くても3000種に減り、安泰なのは600種以下という説もあるそうだ。

オーストラリアのアボリジニの言語は270種、多くの言語は話し手が千人以下で、中には流暢に話す人が数人しかいないという言語もある。
オーストラリアのキンバリーには語族が5系統あり、それが少なくとも30種の言語に分かれているが、30種の言語のうち、今も子供が話しているのは3種にすぎない。
世代が変われば、多くの言語が消滅してしまうことになる。

こうした事情は北米のインディアンの言語でも同様である。
親同士は自分の属する言語を使うが、子供に対してはその土地の有力な言葉で話す。
だから、子供たちは聞いて理解することはできるが、自分では話せない。

言葉に関しては、親よりもテレビやラジオなどの影響のほうが大きいから、言語の多様性について前途は暗いと思う。

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