日蓮宗には霊断師会という会がある。
霊断師は、さまざまな悩み事の相談に、こうしなさいと解決法を与える。
なぜそういうことができるかと言えば、九識霊断法によってである。
九識霊断法とは、南無妙法蓮華経のお題目の神秘と、人間が誰でも持っている九識によって我々の運命を予知する秘法です。 この霊断により、困ったとき、迷ったとき、決めかねているときなど、人生のいろいろな場面で遭遇する運命の真相を知り、その運命を好転させることができるのです。
唯識では無意識の深いところがアラヤ識で第八識だが、さらにその下に第九識があり、その第九識はすべての存在と通底しているから、霊断師は第九識によって過去や未来、人の気持ちまですべてわかる。
すでに死んだ人や、これから生まれる人の心も、すべてわかる。
そういうことで、すべてのことをぴたりぴたりと当て、悩み事の解決法をすぱーと言うわけです。
正直なところ、私はアホらしいと思っていたのだが、ところが、ある先生(大谷派)が観世音菩薩の名前について、こういう話をされたのには驚いた。
観世音菩薩はすべての人々の心の悩み苦しみを取り除こうとするが、悩み苦しみの声を聞かないとわからないということじゃない。声を聞いて助けようとするんじゃなくて、世間の人が言いたいことが見たらわかる。
これは実際に起こりうることらしい。唯識のほうでは面倒なことではないらしい。よく起こることらしい。
つまり、九識か深層意識か知らないが、意識のレベルをそこまで下げれば、他人の心がわかるわけで、九識霊断法はありうるということになる。
そして、さらにこんな話をされた。
ヨーロッパの精神医学のお医者さんが唯識の構造を気にしている。だけど、意識でもって深層意識を説明しようとするから、これは初めから無理だ。
大体、唯識とは瑜伽唯識である。瑜伽というのはヨーガ、だからヨーガという具体的な行の中でひらめいてくる直感によって意識の構造を認識していこうというわけだ。ところが、唯識を勉強している人は瑜伽の行をやっていない。
ヨーガか瞑想か、そういうことをすることによって、本来意識できない無意識をも直感で意識できるということなんでしょう。
ウーン、こういうことを言われるとねえ、仏教とは神秘思想なのかいなと信仰が失せてしまう気がします。
小川一乗『大乗仏教の根本思想』に、波と大海のたとえが書かれている。
波は私たち一人一人です。波がどうして起こっているかというと、海があるからです。海がなかったら、波は起こりません。海は無量寿の世界です。無量寿としての命が海です。その海が波を起こしているのです。ところが、波は一瞬にして消えていきます。それが私たちなのです。では波が消えたら、どうなるのでしょうか。波はただ海に帰るだけです。ですから私たちは、大海が今、波となっているように、無量寿の命がただいまの私という命になっているということなのです。そして波は消えて海に帰る。それと同じように、無量寿からもらった命は、無量寿に帰るのです。
しかし、大海というたとえを出してしまうと、なにか大海というような実体的なものを考えてしまいますから、危険なたとえなので、注意が必要ですが、大海という実体、つまり命の世界という実体があるということではありません。
無量寿という実体があるとしたら、それは九識のようなものである。
しかし小川一乗先生は、大海=無量寿の命、を実体化しては間違いだ、とおさえている。
そこが仏教とニューエイジの違いだろうと思う。
ニューエイジでは、我々の認識できない世界、科学ではまだ知ることのできない世界がある、体験(神秘体験など)を通して、その世界が実在すると説く。
我々に認識できないものを、さも目に見えるように語ることが、どうしてできるのかと、私なんかは不思議に思うんですけどね。
「親鸞仏教センター通信」第14号に、伊東恵深氏が飼い猫の死からこういうことを感じたと書いている。
この経験(猫の死)を通して、ひとつ気づかされたことがある。それは、たとえ「死」によって大切な存在を失ったとしても、いのちの根源において互いにつながっているという感覚によって、本来のつながりは失われていない、ということであった。
「いのちの根源における本来のつながり」とは何か。
九識みたいなものか。
「つながり」を実体化すると、テレパシーもあり得るということになる。
言葉尻をとらえて文句をつけているようだが、しかし実際、そういう趣旨のことを言う人がいるのだから。
たとえば、「親鸞仏教センター通信」第14号には、青木新門さんのお話を要約したものも掲載されている。
現代は、光顔巍巍とか不可思議光というスピリチュアリティ(霊性)の世界をあまりにも排除しているのではないでしょうか。スピリチュアリティというのは実存的体験です。
スピリチュアリティをどういう意味で使っているのかということがあるが、「実存的体験」と言われると、どうもあやしいように感じる。
青木新門さんは、光をたとえとしてではなく、実際に感知できる光という意味で話されているように思う。
「いのちの根源」と「スピリチュアリティ」を同じ意味だとすると、「つながり」は実体的にある、ということになる。
子供を亡くした親の会の「ちいさな風の会」の若林一美さんのお話。
亡き人によって私たちが導かれている。亡き人によって示された道を私たちは歩いているんじゃないか。そんな思いすら抱くことがあります。
人というのは、人を思う心の中で生かされている。そして、その思うことによって、私たちは亡き人を生かすことができるかもしれないし、私たちもまた、そういう思いの中で、生きていく。
そんなことをご遺族の方の言葉から常々感じています。
伊東恵深氏が言おうとされたのはこういうことだろうが、若林さんの話はスッと入ってくる。
「無量寿の命=阿弥陀のいのち」を実体化したら、真宗のニューエイジ化になる。
何かを実体化せずにはおれない我々の感覚を、迷いと言うのかもしれない。
(追記)
青木新門『納棺夫日記』について書きました。
やっぱりちょっと違うなと思います。
http://blog.goo.ne.jp/a1214/e/2116cf54cb26c1d8ab3c7bb67300be79