三日坊主日記

本を読んだり、映画を見たり、宗教を考えたり、死刑や厳罰化を危惧したり。

輪廻と不殺生と差別

2006年04月29日 | 仏教

ジャン・ジャック・アノー『セブン・イヤーズ・イン・チベット』は、チベットに亡命したドイツ人の話で、ダライラマのために映画館を作る場面がある。
映画館の建設工事が始まったが、チベット人たちは地中にいるミミズを殺せない(「前世で母親だったかもしれないから」と言うのだ)ので、時間がかかる。

今枝由郎『ブータン仏教から見た日本仏教』にも、ブータン人がネズミやハエを殺さない(「お前の爺さんだったかもしれないからな」)というエピソードが出てくる。

輪廻という、生命の連続性を認識したうえで、いかなるかたちをとっているにせよ、生きものを殺してはならない、という立場である。


かつては日本でも、輪廻が道徳的規制としてはたらいていた。
私も子供のころ、地獄極楽の幻灯を見て、本当にゾゾッとしたものだ。
しかし、悲しいかな人間は、それでも悪を作ってしまうんですよ。

前に書いた気もするが、マリオ・プーヅォ『ゴッドファーザー』にこんな場面がある。
ドン・コルレオーネの右腕だった男がガンで余命幾ばくもない。
見舞いに行くと、男はこのように嘆願する。
「お願いです。私を助けて下さい。肉は焼け、頭の中にはうじ虫がたかっています。ゴッドファーザー、お救い下さい。幼なじみの私が、罪の深さにかくも死を恐れている私が死ぬことを、コルレオーネともあろうお人が黙って見過ごされるのですか?」
地獄を恐れているのならマフィアなんかにならなければいいのにと思うが、まあ、元気な時はそんなことは考えないもんです。

考えてみると、母親がミミズになったり、爺さんがネズミやハエになっているかもしれないと考えるということは、マフィアのボスたちのような悪業を積み重ねているから、ひょっとしてと思うわけだろうか。
これは死者に対して失礼な話だと思う。

『ブータン仏教から見た日本仏教』に、ロポン・ペマラという高僧は体調が優れない時にはいつも念仏三昧だと書かれている。
ロポン・ペマラ師によると、

病気には三つのタイプがあると言う。一つは、本当の病気で、これには医学的な治療がある。もう一つは、悪霊の祟りであり、これは占いと法要によって対処できる。最後は、過去世の業の結果であり、自分がいま体調が優れないのは、このタイプである。だから、薬も、法要も役にたたず、唯一の対処策は善業を積むことである。だから、自分は念仏を唱えているのである。


しかし、私は前世の業によって病気になるとか、そういう教えは嫌いである。
なぜなら、差別や不幸、災難をその人の責任だとしてしまうからである。
輪廻は現在の境遇は過去世の業の結果であると、現状を単純に肯定してしまう教えともなる。
たとえば差別である。
苦しい思いをしているのは前世の報いだから甘んじておとなしくしなさい、そうすれば来世では少しはいいとこに生まれるかもしれないぞ、というわけである。

今の子供に「悪いことをしたら地獄に堕ちるぞ」と脅しても、怖がらないだろうと思うが、カルマの法則だと説いたら、そうかもしれないと考える人は結構いるのではないか。
困った傾向です。 

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A・スマナサーラ『死後はどうなるの?』(2)

2006年04月27日 | 問題のある考え

A・スマナサーラ『死後はどうなるの?』のつづきです。

来世ではどこに転生するのか。
こころの状態がどうなっているのかが、次に生まれるところを決めるポイントになる。

生命が犯した罪の強弱、回数、そして罪を正当化すること、罪の意識がないことなどの諸条件によって、その生命が次に生まれるところは自動的に定まります。


死ぬ時の状態を見れば、次に何に転生するかがわかる。

私たちはよく死にかけている人に会います。だいたい人を見たら、その人が来世でどこに行くかわかるものです。だから死の床についた人と会うときは、その人の意識に語りかけて、死ぬときには明るいこころをもつようにしてあげるのです。

スリランカでも「死ぬ時に穏やかだった」「死に顔が生きているようだ」というふうに、死に際の善し悪しを言うのかと、いささか驚きました。
死に際を気にするのは、その人の一生を死に際が表わしている、あるいは死に際が悪ければいいところに行けない、こういう気持ちがあるからで、これは日本人も輪廻を信じているという証拠かもしれない。

ある雑誌に看護師が次のようなことを書いている。

患者さんの最期に立ち会う機会を何度か経験しました。ご家族に見守られながら安らかに亡くなる方もいれば、一人寂しく亡くなる方もいらっしゃいました。危篤状態だと家族に連絡しても、誰も来ないこともありました。私は、人の最期にその人の生き方が現れるのだなあと思い、「人は生きたようにしか死ねないんだ」とつくづく感じました。

いらんお世話である。
死に方によってその人の一生がこうだったと決めつけるのは、亡くなっていく人に対して失礼である。
ましてや死に際と死後を結びつけるべきではない。

業について。

善悪行為のエネルギーは簡単には消えません。ポテンシャル(潜在力・業)として蓄積されます。しかし業(カルマ)はエネルギーですから、悪いエネルギーと強い善いエネルギーで抑えることは可能なのです。

供養について。

仏教の勧める供養とは、自分自身が精神的に徳を積んで清らかなこころの波動をつくって、その波動の影響をほかの生命に与えてあげることです。仏教用語で「回向」ということばを使っています。


遺族は善行為をして功徳を積みます。功徳を積むことで、遺族は清らかなこころを持ちます。その善行為が自分のために行われた供養だと知った故人は喜びます。喜ぶことで、故人に清らかなこころの波動が生まれます。清らかなこころの波動は善い業となります。その業の力によって、先祖は餓鬼道から抜けられるのです。

 解脱について。

事実が見えれば見えるほど、輪廻がとことん嫌になるのです。くたくたに惨めに感じて、最後にものすごい恐怖感が生まれます。しかし、その次の瞬間に、こころがカチンと落ち着くのです。落ち着いたときには、もう真理がわかっています。「輪廻にはひとつもいいことがない」と。落ち着いたら、次に悟りのこころが生まれます。

悟りとは輪廻しなくなる、すなわち死んだらおしまいになることなのかと思ったら、そうではないらしい。

輪廻を解脱した生命は、存在の周波数が変わってしまうのです。


それにしても、40劫という無限とも言える時間を転生しても解脱できないとなると、スマナサーラ師の方法では解脱は無理ではないかと思ってしまう。

『死後はどうなるの?』には、「業はエネルギー」「こころの波動」「存在の周波数」などといった、ニューエイジャーあたりがよく使う、いかにも意味ありげだが日本語としておかしいし、仏教語でもない、そんな言葉が散見する。
そんなこともあり、私はスマナサーラ師の言っていることはまったく信じられないが、こういうのが好きそうな信奉者がいることは理解できる。
スマナサーラ師の考えはスリランカや上座部仏教では一般常識なのか、それともトンデモなのか、誰か教えてもらえないものでしょうか。

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A・スマナサーラ『死後はどうなるの?』(1)

2006年04月19日 | 問題のある考え

『死後はどうなるの?』の著者スマナサーラ師はスリランカの高僧である。
上座部仏教では死んだらどうなると考えているのか、興味があったので読んでみた。

スマナサーラ師は、輪廻転生はある、という考えである。
その輪廻とは、たとえだとか、六道とは心の状態を表わしているという解釈ではない。
人間が人間に生まれ変わる、だから死んでも死なない、というお気楽な生まれ変わり論でもない。

スマナサーラ師の説く輪廻とは、実際に霊魂が六道を生まれ変わりする。
天に生まれるか、畜生や地獄に堕ちるかわからないから、輪廻は苦しみである。

死んだら輪廻することが事実だという証拠をスマナサーラ師は2つあげている。
1,修行によって過去世を知ることができる人がいること
2,過去世を覚えている子供がいること
なあ~んだと思いました。

過去世を覚えているということについて。

インドではこころを集中して、時空関係を超えてさまざまなものを認識できる能力を獲得した人が大勢いました。(略)居ながらにしてその場所にないものを見たり聞いたりする能力を開発して、認識の次元を伸ばしたのです。現代風に言えば超能力です


修行することによってこうした超能力を得た人々が、人間は死んでもそれで終わるのではないと、自分の体験にもとづいて語っている。

その宗教家の人々は自分の過去を四十劫年まで見るのだと。だいたい過去を見られる長さはそれぐらいまでのようです。


スマナサーラ師の説明だと、一劫とは一つの宇宙ができあがって消える間である。
ビッグバンは130億年前とのことだから、その40倍の約5000億年間の記憶があることになる。

みんなすさまじい修行をして、いろいろな体験を得た人々でした。過去世の話も、単なる思い込みではなく、超越的な体験から発見されたそれなりの証拠に基づいたものであった。

だったら、ビッグバン以前の宇宙はどんなだったのか、恐竜はどうして滅びたのか、未解決の殺人事件の犯人だとか、そういったことはスマナサーラ師のように真剣に修行して超能力をえた宗教家に聞けば教えてもらえるんだろうか。

釈尊が輪廻は苦だと説いているのは超越的な体験をもとにしている。

お釈迦さまは、とことんイヤになったのです。どんな境遇に生まれ変わっても苦しみだけはなくならない。どこまで過去を思い出してみても、輪廻転生はただ苦難の連続だったのです。


催眠術で過去世を思い出す、生まれ変わりしながら霊性の修行をすると主張する飯田史彦氏たちスピリチュアル信者は、そういう修行はしていないだろうから、やはりインチキなのだろうか。

では、何が輪廻するのか、それはこころだ、とスマナサーラ師は言われます。
エネルギー不滅の法則が示すように、物質は消えない。

物質は形が変わったとしても消すことはできません。だから、私が死んでも、この身体は遺体として残る。灰になるなりして、この地球に残るのです。

こころにもエネルギー不滅の法則が当てはまる。
こころは瞬間的に変化していく巨大エネルギーである。

もしこころのエネルギーが地球に留まったら、そのへんにある物質を掴まえて形をとります。私たちのこころのエネルギーが天国に行ったならば天国にあるそれなりの物質を掴まえるのです。犬の身体に入ったならば、その物質をもらって犬になる。死という瞬間にこころが消えたら、どこかで新しいこころが生まれる。必要な物質はその生まれる場所からもらうのです。


「こころから波動を出している」とか「こころのエネルギー」、あるいは量子力学への言及など、どうもニューエイジめいています。

神々について。

経典では、世界にはいろいろ次元があって、人間に認識できない次元にも生命がいると説かれています。神々というのは、そういった異次元に住む生命の一種です。


天の神々も食べ物をとるが、その食べ物は物質ではない。

神々という生命は、あまり物質的エネルギーを摂取しないからです。それよりは主に精神的なエネルギーを摂取して生きているのです。


中国で気功の訓練をする人のなかには、食べることをやめてしまう人々がいる。

そういう人々は物質とは違う形で栄養を摂取しているのです。水ぐらいは飲むのですが、食事をとらなくても身体は痩せないし、体脂肪も減ることもなく、そのままで生きていられる。何もご飯を食べないから、身体も美しくきれいになるのです。食べ物をとると、必然的に物質が体内で腐って汚れを生むのです。

何も食べない人がいるということを本気で信じているとしたら、スマナサーラ師は騙されやすい人だと思う。

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借金財政

2006年04月15日 | 日記

広島市にはシャレオという地下街がある。
よその市には地下街があるのに広島にないのはかっこわるい、というので作ったんだろうが、地下深くて不便だし、店は若い人向けのものばかりだし、どうしてあんなものを作ったのかとすこぶる評判が悪い。

某氏よりいただいた「市民生活」Vol.26の、瀧恭岳「第三セクター経営の無責任―地下街・シャレオ」によると、地下街建設に486億円ものお金が投入されている。
その地下街を経営する第三セクターは64億円の債務超過があって、倒産するおそれがある。

広島市がまとめた支援策は、200億円に近い長期借入金のうち、地元銀行などから借りている48億円の金利を引き下げてもらい、新たに76億円の追加融資を頼む、広島市が貸し付けている67億円の金利を引き下げる、など。

そもそもこの会社は広島市・広島県、そして民間会社数十社が資金を出し合って作られている。
それなのに広島市だけが四苦八苦しており、他の出資者である民間会社は責任を広島市に押しつけているようだ。

広島市という株主には税金という安定収入があるから、それを担保に金を借り入れ、経営のてこ入れをすればいいじゃないかと、たかをくくっているように見えるのだ。


この地下街は、昭和63年に広島銀行の橋口会長を委員長にした地下街構想推進委員会が発足したのが始まりである。
民間が働きかけをして行政がそれに乗ったという形で地下街は作られた。
そして、長期借入金48億円のうち、19億円が広島銀行からの借り入れである。

シャレオがこの先どうなるのか、行く末を彼(広島銀行宇田会長)は彼なりに考えているのかもしれない。しかし確実に金利が入ってくることも紛れもない事実なのである。


広島駅前にあるエールエールも倒産寸前だが、やはり広島駅南口開発株式会社という第三セクターが経営している。
同じ構造なんでしょうね。

山口氏康「第十二回アジア競技大会と財政負担」も放漫財政について書かれてある。
1994年に広島でアジア大会が行われ、膨大な市財政の負担と借金ができた。
アジア大会にかかった経費は、新交通システムや起債を含めて、約4000億円。
広島市の借金は、アジア大会が行われた前年の1993年に9773億円で、毎年返さないといけない借金が一般会計だけで502億円。
広島市民が一年間に納める税金が約2000億円。

アジア大会誘致当時は平岡市長である。

平岡市長が市長選に初出馬のとき、推薦したのは、地元の大企業と金融機関でした。市はこの金融機関から借金し、利息は私たちの税金で返し、余った金はすべてこの銀行に貯金するのですから、金融機関関係が儲かるはずです。


アジア大会の経費がすべて無駄づかいだとは思わない。
しかし、アジア大会にしても、本四連絡橋や高速道路などでも、赤字になるのはわかっていて、それでも銀行から巨額の借金をして作り、そして現実に赤字になる。
銀行としては国、県や市が倒産することはないから、お金を借りてくれることはありがたいからいくらでも貸す。
銀行が日本財政赤字の諸悪の根元と言ったらあまりにも単純すぎるが、しかしねえ、と思った次第です。

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スコット・デリクソン『エミリー・ローズ』

2006年04月13日 | 問題のある考え

『エミリー・ローズ』は、悪魔祓いによって19歳の女性エミリーを死なせたとして、神父が過失致死罪で起訴されるという法廷劇の映画。
『エクソシスト』の二番煎じかと思っていたら、かなり怖かった。
拾いものである。

1976年にドイツで実際に起きた事件をもとにしている。
実際の事件では、てんかんの発作を悪魔憑きと信じた女性が悪魔祓いをしてもらい、結局は栄養失調で死亡、神父と両親が裁判にかけられ有罪となった。
また、裁判の直前に彼女の墓を掘り起こしたところ、彼女の遺体は腐敗していなかったという尼僧の証言があり、今では彼女のお墓は、熱心なクリスチャンらの巡礼地になっていると、あるサイトにあった。

悪魔の存在をまじめくさって肯定する映画は好きではない。
アメリカ人の60%が悪魔の実在を信じているのだから、まずいのではないか。
映画では、エミリーが悪魔に取り憑かれて苦しむシーンが描かれているので、観客は神父らの証言はウソではないと思うだろう。
しかし、実際の裁判では証人の話を聞くだけで、その証言が正しいかどうかはわからないはずだ。
これは映画のウソである。

さらにまずいと思うのは、神の存在を証明するためにエミリーに悪魔が取り憑いた、ということである。
エミリーも家族も熱心なクリスチャンなのに、なぜ悪魔に取り憑かれたのか、なぜ神は助けようとしなかったのか。
裁判でそのことを弁護士から問われた神父は、エミリーは聖人となるだろうと言い、エミリーからの手紙を読む。
エミリーの前に現れた聖母マリアにエミリーは、どうしてこんな目に遭わなければいけないのか、と尋ねる。
するとマリアは、神は死んだと言われている、霊界の存在を人々に知らせるためだ、もしもいやなら私と一緒に天国に行ってもいい、と答える。
エミリーはこのまま苦しむことを選ぶ。
エミリーは神の存在を証明するための犠牲となり、そして自分の信仰を証明するために死んだ。

しかしですね、神の実在を証明するためなら、一時的でもいいから戦争や飢餓や疾病をなくすとかいった方法のほうが効果的だと思う。
実際、エミリーが苦しみながら死んだことによって、霊界の存在を信じる人がどれだけ増えたのか。

犠牲を強い、苦しめる神というのは私は嫌いである。
アブラハムやヨブにしてもそうだが、どうして苦しめて試す必要があるのだろうか。

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尊厳死

2006年04月11日 | 日記

富山県の病院で、医師がガンなどで意識不明の末期患者7人の人工呼吸器をはずしたという事件があった。
これに関連して先日の毎日新聞に3人の方が尊厳死について考えを書かれている。

井形昭弘氏(日本尊厳死協会理事長)

延命措置が患者にかえって苦しみを強制し、尊厳なる生を冒す場面が多くみられるようになっている。(略)当協会の立場からみて、外科部長は恐らく末期患者の苦しみを見るに堪えず、慈悲心をもって取り外しを行ったものと察せられる。(略)苦しみを救うのが医師の使命ならば延命措置で患者に延々と苦しみを強制することは許されまい。(略)
尊厳死の容認は尊厳なる生を目指しており、命が軽視されるとの理解は全くの誤解である。



山崎章郎氏(日本ホスピス緩和ケア協会会長)

患者さんたちが、もはや人間としての尊厳が失われたと感じ、これ以上生きる意味はないと考えるようになるのは、死までの時間の長短よりも、病状進行の結果として、排泄、食事、入浴などの基本的な日常生活が、自力では出来なくなり、いやおうなしに他者に依存せざるを得なくなった時が多い。(略)人間の尊厳は身体にではなく心にある。
延命治療の是非や尊厳死を論じても、それは死ぬ間際の、目に見える形だけを論じているにすぎない。



川口有美子氏(筋萎縮性側索硬化症の母の看病をする)

患者が先に諦めてしまう。これ以上、家族に苦労させられないと。(略)家族はまず医師に助言を求めるから、結局は医師の人生観に左右されることになる。(略)医療も介護もろくに受けられない人たちがいるのに、どうして死なせるためのルールを先に考えるのだろうか。


私は尊厳死の考えにうさんくさいものを感じており、井形昭弘氏の意見にもひっかかるものがある。

○苦痛について
昨年、私の伯父(88歳)が肺炎で入院、一ヵ月後になくなった。
見舞いに行くと、非常に苦しそうにしている。
酸素マスクをはずすので、「そういうことしちゃいけんじゃないか」と言うと、「苦しいから早く死にたい」と伯父はしんどそうに言う。
食べれないので点滴をしていたのだが、そのチューブもはずそうとする。
痛み止めをしても、なにせ呼吸ができないので、しばらくするとまた苦しみ出す。
伯父の場合は意識はちゃんとあり、自分で呼吸をするし、話すこともできる。
しかし、誰が見ても助からないのはわかっているし、本人も死にたいと望んでいる。
こういう場合は尊厳死賛成の人はどうするのだろうか。
人工呼吸器を止めてしまえば、呼吸ができなくなり、窒息してしまうから、これは苦しいのではないだろうか。
だったら尊厳死よりも、薬物を注射する安楽死のほうが苦しみから救うことになるのではないか。
尊厳死というのは、人の苦しみを見たくないだけで、偽善っぽいように感じる。

○尊厳について
7年間寝たきりだった人だが、死ぬ前の日に「ご飯が食べたい、便所に行きたい、お風呂に入りたい」と言い、これが最後の言葉だったそうだ。
その人の尊厳は7年間傷つけられていたわけだ。
意識のないまま身体中にチューブをつけて寝ている姿を見るのは、正直なところいいものではない。
患者本人の気持ち、患者本人が苦しんでいるかどうかよりも、まわりの人が不快なものを見るのがいやだから、これじゃ患者の尊厳がない、延命措置をしても苦しめるだけだ、生の尊厳がどうのこうのと言ってるんじゃなかろうか。

○生者の都合
胃ガンだった叔父(67歳)は、酸素マスク、痛み止め、腹水や尿を出すためのチューブ、栄養の点滴などのチューブを身体中につけたスパゲティ状態で亡くなった。
それらチューブを一つでもはずすと、叔父は苦しみながら死ぬことになる。
医者から「あと二、三日」と言われ、心臓が強いものだから、それから十日ばかり保った。
死ぬのをただ待つだけの十日間だった。
そういう時、自分の都合を考えてしまう。
この日は用があるから死んでもらっては困る、どうせなら葬式はこの日がいいとか、医療費、そして介護のこと。
もしも尊厳死が当たり前となったら、生者の都合に合わせるようになることは間違いない。

(追記)
日本尊厳死協会についてはこちらを。
http://blog.goo.ne.jp/a1214/e/b7634a94e5bfede31ae3b512b3d11dc9
尊厳死については児玉真美『死の自己決定権のゆくえ』が参考になります。
http://blog.goo.ne.jp/a1214/s/%BB%F9%B6%CC%BF%BF%C8%FE%A1%D8%BB%E0%A4%CE%BC%AB%B8%CA%B7%E8%C4%EA%B8%A2%A4%CE%A4%E6%A4%AF%A4%A8%A1%A1
川口有美子氏については別のところでも書いています。
http://blog.goo.ne.jp/a1214/e/69bc4cc0d0bac2bd358a6706166b907c

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絶望の天才

2006年04月09日 | 仏教

人は自分のことをよく思いがちだという例を、ロルフ・デーケン『フロイト先生のウソ』はいくつかあげている。
・90パーセントが自分は平均以上のドライバーだと答える
・70%の学生は自分には平均以上の指導力があると思っている
・85%が他人より社交的だと考えている
などなど。

人は、成功や好成績は自分の手柄だと思い、失敗は環境や他人のせいにする傾向がある。
なぜかという説明がおもしろい。
精神の病に苦しむ人々の自己認識は間違っているというよりは正しすぎることのほうが多い。
ウツ病患者はこうした錯覚とは無縁であり、ウツ病の人のほうが現実を正しく把握し、希望的観測に曇らされないクリアな目で将来を予測する。
ところが、自己欺瞞度の高い人ほど精神的に安定しており、自分のことがわからないほうが精神的にはいい。
しかし、健康人も内面に注意を集中させていると、ウツ病患者の状態に近くなる。
そこで人間は、ウツでない状態を保つために現実をポジティブな方向にねじ曲げる。
幻想や粉飾された自己認識が精神の健康にとって不可欠な要素であり、自分のことがわからないほうが健康的なのである。

自分のことをきちんと知ることで病気になるのと、うぬぼれて健全な社会生活を送るのと、はたしてどっちがいいのか。
ウツ病患者が暴力犯罪を起こした事例は皆無と言っていいほどなのに対して、高い自尊意識がしばしば暴力的傾向を助長することがあり、復讐に駆り立てられるのも、高い自尊意識の持ち主(自信家、うぬぼれの強い人)のほうらしい。
となると、ウツ体質の人が多いほうが世の中が穏やかになるわけです。

もう一つ、不愉快な経験は気にしないのが一番だそうです。
たとえば死別。

身近な人と死別した人の生活と健康状態を数年にわたって追跡調査した。
悲しみから目を逸らし、悲しみをほとんど外に表わさないタイプの人のほうが、心身の健康状態は良好だったのである。



なるほどね、苦しまないためには、イヤなことを忘れて考えないようにするのが一番だということです。
何も考えず、疑問に思わずに生きていくことは楽ではあるが、それでは人間としてどうなのかとは思う。
でも、人間らしく生きるためにはウツ状態でなくてはいけないというのも困った話です。

悩まずに楽しく暮らすことを選ぶか、苦悩の中で何かを見出そうとするか、これは性格的なものが大きいと思う。
真継伸彦が「宗教的天才は絶望の天才だ」というようなことを書いていた。
たとえば釈尊である。

なぜ家族や地位や財産やらを捨てて出家したかというと、老人・病人・葬式を見たからという伝説がある。

ほとんどの人は、老人・病人・葬式を見たからといって、一時的に落ち込むことはあっても、自分とは関係がないものとして考えないようにするから、そこまでは悩まない。
年に一万人以上が交通事故で死亡するが、自分もやばいと思ってたら運転などできないし、霊柩車を見るたびにウツになる人はほとんどいないと思う。
他人事だと思っているから、まあ、何とか生きていけるわけで、明日は我が身と真剣に悩んでいたら、ノイローゼになることは間違いない。
たいていの人はいろんな悩み事はあっても、「人生なんてそんなもんだ」と自分に納得させて、ほどほどのところで考えるのをやめる。

だけど、釈尊はそこにこだわり続けたわけだ。
釈尊は徹底したマイナス思考の、後ろ向きの性格だったんだと思う。
最終的には「自分はこういう道を見つけることができた」と説いている。

嫌な思い出が時々、意識の表面にぷかぷかと浮いて出てくる私としては、マイナス思考でグジグチと悩んでしまう釈尊が見つけた道を歩むしかないなあと思っている。

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ロルフ・デーケン『フロイト先生のウソ』

2006年04月05日 | 問題のある考え

ロルフ・デーケン『フロイト先生のウソ』はフロイト批判の本かと思ったら、心理学の常識のウソについて書かれた本でした。
なるほどもっともと感じたことから、ええっ、ほんと? ということまでいろいろ。

・フロイトの説く、抑圧、投影、昇華、エディプスコンプレックス、あるいはフロイトが定義する無意識などはない。
さらには、心理療法はまるっきり意味がないし、クライアントの大部分は、いわゆる「病気なのではと気に病む健康人」にすぎない。
セラピストを必要とする人がセラピストになっているとロルフ・デーケンは言っていますが、私の知っているカウンセラーはそんな人が多いと思います。
大学の先生の話だと、臨床心理士を目指す学生は自分自身が虐待、イジメ、不登校などの経験者なのでナーバスな子が多い、だけど人の痛みがわかっているので、本当に寄り添えるカウンセラーになる子もいる、とのことでした。

・人格形成に教育は関係ない。
別々に育てられた一卵性双生児(100%遺伝子を共有しているが環境条件は全く違う)の性格は極めて似ていると研究結果があり、人格形成に遺伝と環境が果たす割合はフィフティ・フィフティとされる。
私の子育ての経験からして、その子に持って生まれた性格や能力を大きく変えることはできない、しつけというのはあまり意味がないのではないかという気がします。

・胎教にモーツアルトがいいわけではない。
「男の子らしさ」「女の子らしさ」は教育によって作られるわけではない。
先天的なものということでしょうか。


・病は気から、気持ちの持ちようで、ということはウソ。
多くの病気が精神的原因よって起こる、というのは正しくない。
心筋梗塞になりやすい性格、ガンになりやすい性格というのはない。
胃潰瘍の原因は100%ストレスだというのは間違い。
ストレスで免疫力が弱まるということはない。
疑似科学信奉者は認めないでしょうね。


・瞑想はその効果から言ってうたた寝と大差なく、お風呂にゆったりつかるのと同じこと。
瞑想をすればリラックスし、ストレスに強い体質になる、瞑想が脳波や生理的現象(呼吸数や心拍数など)に変化を引き起こす、というのもウソだそうです。

・幼児期の体験が人生のなかで特別重要な意味を持つわけではない。
心理学の専門家が信じ込ませようとしているほど、人間の心はヤワではない。
子供時代の重大なトラウマはその人の一生を台無しにしてしまうわけではない。
子供のとき親から虐待を受けたからといって、自分も子どもを虐待するわけではないし、親の離婚は子どものトラウマになるわけではない。
高橋秀実『トラウマの国』を読んで思ったのですが、都合なことは何もかも幼少時のトラウマのせいにしてしまう風潮があり、それはたしかにおかしいです。

・長男タイプ、次男タイプがあるわけではない。
これはあると思うのですが。

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また会う日まで

2006年04月03日 | 日記

息子が大阪の予備校(大学ならいいのだが)に入るために出かけていった。
これからは年にせいぜい数回しか会えなくなるだろう。
今までは毎日当たり前のように会っていたのが、突然会うことができなくなったわけで、考えると不思議なもんです。
これから先、死ぬまでに100回ぐらいは会えるかな、などと考えるとわびしくなる。
まあ息子と会ったからといって、話すこともないのだが。

これからの人生、出会いよりも別れのほうが多くなることは間違いない。
小此木啓吾『対象喪失』によると、喪失体験とは死別だけではなく、失恋、引っ越し、退職などいろいろある。

いささか驚いたのだが、息子は本やCD、ゲームのソフトをフタバ図書に売りに行き、あっさりと処分した。
本に対する思い入れはないかと不思議になった。
私など、中学から大学にかけて買った本をかなり古本屋に売ったが、それでも捨てきれずにいくらかは残してある。
おそらくこれから先、誰も読むことはなく、ホコリにまみれるだけだが、捨てる気にはなれない。

そういえば、そのころの少年はたいていそうだったが、私も小学校から中学校にかけて切手を集めるのが趣味で、今でも集めた切手がひき出しにしまってある。
売ったとしても二束三文なのはわかっているが、これも処分しきれない。
子供のころのものを捨てることは、子供時代をないものにしてしまうような気がする。
息子にとってそうした思い入れはないのだろうかと不思議になった。

野田正彰『喪の途上にて』は、日航機墜落事故の遺族に気持ちを聞いて、悲哀について書かれた本。
息子(31歳)妻(31歳)娘(3歳)を亡くした母の話。

事故の後からずっと、息子たちのマンションに寝泊まりしている。あの子たちがいたそのままに、何も動かしていない。息子がつけていた腕時計がまだ動いている。毎日、六時半になると、アラームの音が鳴る。いつ止まるか、いつ止まるかと思いながら、もう三年たってしまった。息子がいつ電池交換したのかわからないが、デジタルだから電池がきれたらパッと消えてしまう。止まったらそのままにしておいたほうがいいのか、電池を取り替えて、もう三年なり五年なり、安心してこの音を聞いているほうが精神衛生上いいのか、どちらでしょう。
 あまり度々、親が墓参りに行くと、「行く所へ行けない」と言われて、この二、三か月はお墓参りは月命日だけにしている。「また来てね」と言った孫の声が忘れられない。でも、これだけ思っているのに、ちっとも夢に出てきてくれない。
 この頃、いつまでここ(息子一家が住んでいたマンション)に住むのもどうかなあと思い始めている。こんな思いを引きずって、あと何年、私の命が続くのか。忘れられるもんなら忘れたい。命があるだけ、起きて、寝て、食べて、ただ成り行きまかせに日を送っていくのかなぁ、と思って。


この方は息子とは同居していなかったわけだから、盆と正月に会うぐらいだったろうと思う。
息子の不在が普通の状態なのに、死んだということがそれほどのショックになるとはどうしてだろうと、そのときは不思議に思ったものです。
どこかで生きているということが、自分の支えになっているんですね。
そして、死後の世界での再会が未来への希望となって生きていく力が与えられるのかもしれないと感じた。 

コメント (4)
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