三日坊主日記

本を読んだり、映画を見たり、宗教を考えたり、死刑や厳罰化を危惧したり。

桐野夏生『グロテスク』・矢作俊彦『ららら科學の子』・坪内祐三『一九七二』

2004年10月25日 | 

小松左京のエッセイに、ハードボイルドは一人称で語られ、心理描写をしない文学形式だ、とあった。
心理描写をしないのだから、文章は乾いた感じになる。

桐野夏生の小説はハードボイルドである。
主人公の行動が固ゆで卵、乾いている。
『グロテスク』の中に、「何かを捨てた人」という言葉が出てくるが、桐野夏生の主人公たちはあっさりと捨てる。
家庭があっても、夫や子供を捨てることに躊躇しない。
桐野夏生の魅力は、捨てたいものがありながら、捨てることのできない人間にとって、何もかも捨てて一人で生きることのできる人間を描いているところだ。

『グロテスク』も最初のうちはハードボイルドだなと思った。
けど、「わたし」はそうじゃない。
「わたし」は悪意をふりまく。
悪意というのは悪意を抱いた対象にこだわりを持つから生じるのであって、その対象を捨ててしまえば悪意などは起こさない。
「わたし」は妹へのこだわり、美しいものへの愛着を捨てることができない。
街娼をして殺される妹がハードボイルド、すなわち真の主人公ということか。

ハードボイルド小説といっても、非情なものばかりではない。
関係ないとクールなふりをしながら、忘れられない、絆を断ち切れない、引きずっている、捨てきれない。
そんな主人公のハードボイルドは泣かせるんですよ。
矢作俊彦『ららら科學の子』もその一つ。

泣かせるハードボイルドは犬や小さな女の子をうまく使っているのだが、『ららら科學の子』では主人公の妹(8歳)が魅力的。
サリンジャーの『ライ麦畑でつかまえて』ですね。
私としては、サリンジャーだったら『九つの物語』の中の「エズミに捧ぐ」のほうがいいですけど。

『ららら科學の子』の主人公は全共闘なんですね。
1969年、大学生の時に中国に亡命し、30年ぶりに日本に密航して帰ってくるという設定がたまりません。
1970年前後というのは特別な時代という感じがするが、それは私が1970年に中3だったからで、中学、高校のころは誰だって時代社会の影響を受けやすいから、そう思い込んでいるにすぎないのかもしれないと思っていた。

そしたら、坪内祐三が『一九七二』にこんなことが書いている。

1944年から1972年に至る28年は、その間に幾つかの大きな転換点があり、あまりにも長かった。それに対して1978年から2002年に至る24年、基本的に一つの色合いで、続いている。

 

1972年以前に生まれた人となら、たぶん歴史意識を共有出来る気がする。だが、それよりあとに生まれた人たちとは、歴史に対する断絶がある。たぶん。

やっぱりそうかと、何となくうれしくなった。
もっとも、坪内祐三は1958年生まれだから、あまり客観的な意見とは言えないかもしれないけど。

しかし、高度成長が終わり、佐藤栄作長期政権からから田中角栄へと政権交代したわけだし、学生運動も実質的には終わっている。
アイドルや性表現、その他いろんなことも大きな変化をしていると、坪内祐三は言っていて、なるほどと思う。
矢作俊彦『ららら科學の子』にしても、1969年以降に生まれた人の感想はどうなんだのだろうか。

驚いたのが、1972年では14歳の犯罪が問題となっている。
犯罪の低年齢化は昨今の話題ではないわけだ。
そして、親の子殺しと子供による殺人。
育児ノイローゼによる子殺し、育児放棄による殺人がニュースとなっているのだが、なんと4歳の子供が赤ん坊を殺しているのである。

へえ~、と思ったが、昔はよかった、なのに今は、と過去を美化しがちであるが、犯罪についても同様で、昔より現在のほうが治安はいいんですよ。 

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スーパーマンのメガネ

2004年10月23日 | 日記

スーパーマンとクラーク・ケント、誰が見たって同一人物だとわかりそうなものだが、なぜかみんな気づかない。
その秘密はクラーク・ケントのかけているメガネにある。
メガネからは催眠波が放射されており、クラーク・ケントとスーパーマンが似ていると気づかれない。

物事を実際とは違ったふうに見えさせるスーパーマンのメガネを大がかりにしたのが『マトリックス』で、我々の生活はコンピューターが見せていた夢にすぎなかったというお話。
高校のころ、ブルーバックスから出ている都筑卓司さんの本を何冊か読んだが、そのどれかにこんなことが書いてあった。
他の人たちはひょっとしたらみんな精巧にできたロボットかもしれない。
いや、自分自身だって、私の記憶を与えられたロボットではないという保証はない。

このP・K・ディック的な問いに都筑卓司さんがどう答えているかは忘れたが、そうした疑問を私が持つということが、私が人間であることの証拠だ、みたいな答えだった気がする。
しかし、P・K・ディック『ブレードランナー』では、レプリカントが悩んでましたね、「私は人間なんだろうか」と。

ここまで大げさな話でなくても、何が現実で、何が虚構なのか、『荘子』の胡蝶の夢じゃないが、わからないと思う。
けど、蝶はレプリカントと違ってそんなことは考えもしない、たぶん。
荘子は人間だからこそ、「ふふ、いいたとえを思いついた」とほくそ笑んだことだろう。

亀井勝一郎『愛の無常について』の中にこんな文章があるそうだ。

人間は考える力を持っている。何を考えるか。
私はこれでよいのかと考える。
そして疑う力を持っている。迷う力を持っている。
これは本当の教えなのかと疑う、あるいは迷う、そういう力を持っている。

 

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「ビッグイシュー日本版」とひきこもり

2004年10月15日 | 問題のある考え

某氏より「THE BIG ISSUE JAPAN」という雑誌をいただいた。
「ビッグイシュー」はホームレスだけが販売できるというもので、この雑誌を売ったお金でホームレスが自立することを目指している。
ピアース・ブロスナンのインタビューがあるなど、バラエティに富んだ内容だが、ひきこもりの特集には教えられた。

私はひきこもりというのは「甘えている」とか「怠けているだけだ」と思っていたが、それは全くの誤解だった。
私は人づきあいがだめで、ひきこもっていてもおかしくない人間なのに、そういう偏見の目で見てしまう。

ひきこもりはただ怠けているだけかのように見える。しかし実際は想像以上のがんばりを必要とするのがひきこもりだ。

元ひきこもりの人はこう語っている。

何をしようと思ってもできない。クラッチのない車に乗って、思いっきりアクセルを踏み込んでいるような状態


芹沢俊介さんと斎藤環さんへのインタビューも「ビッグイシュー」に載っている。
芹沢俊介さんは「自分らしさの傷つきを修復する期間である滞在期をしっかりくぐれば、自然に元気になるんです」と語り、精神科医がひきこもりを治療の対象としてとらえてきたことを批判する。

精神科医の斎藤環さんは「医師として、そのままずっとひきこもっていればいいアドバイスすることだけはできない」と言い、そして「ひきこもりはいずれ自力で抜け出せるもの、素晴らしい収穫をもたらすもの…という言説は非常に恣意的で、信用するに足りないものだと思います」と指摘する。

私には斎藤環さんのほうに説得力を感じた。
ひきこもりというのは、1年か2年ひきこもったら自然に外に出るというような甘いものではないらしい。
芹沢俊介さんという人、わかっていますよというふりをしながら、ピントがずれている気がする。

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浅井昭衛「日蓮大聖人に背く日本は必ず亡ぶ」

2004年10月12日 | 問題のある考え

たま~に宗教関係の本やパンフが送られてきたり、郵便受けに入っていることがある。
顕正会会長の浅井昭衛という人の「日蓮大聖人に背く日本は必ず亡ぶ」もその一つ。
顕正会は日蓮正宗の信者の団体で、創価学会を目の敵にしていることは知っていたが、終末論を説いているとは知らなんだ。

表紙にこう書いてある。

まもなく起こる巨大地震の連発を号鐘として、国家破産・異常気象・食糧危機・大疫病等が続発し、そののち他国侵逼の大難がこの国を襲うであろう。

日本人が日蓮(というか日蓮正宗)の教えに従うならば、そういう災厄をまぬがれ、世界の指導者となるというわけだ。
これはインチキ宗教や詐欺商法がよくやるアメとムチです。
脅しておいて、この教えを信じたらユートピアになりますよとアメを与える。

脅しの一つが世界の終末である。
終末思想について、高橋紳吾先生のお話から。

終末思想と言って、やがてこの世は天地がひっくり返ってなくなっちゃう、しかもこの世の終わりはすぐに来るんだと説く教えです。
そうした教えでは、終末が来ると言うだけではなくて、その後にユートピアが来るんだと必ず説きます。
そのユートピアに来るかといえば、自分たちの教えを信じてる人たちだけになんだ、このユートピアに行けるのはその教団のメンバーだけだと教えることで、メンバーは優越感を持つわけです。
たとえば、アメリカのヘブンズ・ゲート(天国の門)という教団は、睡眠薬とアルコールで集団自殺をしました。これは、地球がリサイクル期に入っているから、地球に接近していたヘール・ボップ彗星の陰に隠れているUFOに魂となって乗り込んで、地球が破滅する前に飛び出そうという教えでした。これはカルトの持っている不条理性を表しています。

でもまあ、私はこういうトンデモ系のホラ話は好きなので、「日蓮大聖人に背く日本は必ず亡ぶ」を楽しませていただきました。

ところが後半、創価学会・日蓮正宗批判となると、申し訳ないけど退屈なんですね。
近親憎悪なのかもしれないが、いささかしつこくて。
それでですね、表紙の裏に浅井さんの写真が載っているんですよ。
これが池田大作氏となんとなく似ていて、うーむとうなってしまった。
兄弟と言ってもいいくらい。
なるほどと、妙に納得しました。

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アフガニスタンとブルカと映画

2004年10月10日 | 映画

ブルカといって、頭からすっぽり全身をおおう、イスラムの女性が着ている服がある。
『カンダハール』『アフガン零年』といったアフガニスタンを舞台とした映画を見ると、ブルカは抑圧の象徴として描かれている。

男装して工事現場で働く少女が主人公の『少女の髪どめ』でも、映画のラストで少女がブルカをかぶる。
他者との関わりを断つように。
でも実際はそうじゃないらしい。

某氏より中村哲「絶望から希望へ」という冊子をいただいた。
中村哲氏は20年間パキスタン、アフガニスタンで医療に従事しながら、井戸や用水を作り、人々が自分の住んでいるところで暮らせるように働いておられる。
「絶望から希望へ」を読むと目からウロコがたくさんあるのだが、ブルカについてこういうことを話されている。

タリバーン政権が倒れてカーブル解放、ブルカを脱ぐ女性たちという映像が流されて、世界中が騙された。
たしかにいろんなものが解放されました。それは何が解放されたかというと、麻薬を作る自由。さらに貧乏人が自由になる自由、金持ちがますます金持ちになる自由、これが解放されたわけです。
女性も解放された。しかし、ブルカを脱ぐ女性はほとんどいない。いますけれども、知識層や富裕層の女性です。もともとブルカは現地の伝統的外出着にすぎない。
女性が解放されたというけれど、それは売春をする自由、戦争未亡人になる自由、乞食になる自由です。

ブルカを脱ぐことが自由の象徴というイメージは知識人のものなんですね。

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血液型による性格判断とかはよくないぞ

2004年10月08日 | 問題のある考え

娘が「O型は体臭があまりないが、A型は体臭がきつい」と言うので、どこで聞いたのかと尋ねると、昨日の「スパスパなんとか」というテレビでやっていたという。
で、新聞を見ると「血液型によるダイエットの方法」とかいう特集だった。
血液型による性格とか相性とか、そういうのは遊びだと思っていた。
しかし、臭いとなるとこりゃ問題である。
差別だ。

体臭が気になるという人は結構いると思うし、体臭ノイローゼの人だっている。
そういう人の血液型がA型だったら、やっぱりと思って、ますます落ち込むんじゃなかろうか。
遊びではすまない。

A型は日本人では約40%いるわけで、5千万人弱。
それだけの人に体臭が気になるようにさせて、防臭デオドラントを買わそうという魂胆なのだろうか。

そしたら新聞を見ると、血液型による性格判断を扱うテレビ番組が増えているが、特定の血液型を「いい加減な性格」「二重人格」などと決めつける内容なので、抗議が寄せられている、という記事があった。
だけども、その日にも「血液型男と女の相性ランキング」というアホな番組があり、おまけに妻や子供は熱心に見ている。
いやはや。

血液型による性格や相性の診断がはやるのは、血液型が4種類しかないから覚えやすいということがあると思う。
男女の相性でも4×4で16通り。
しかし、占星術だと星座は12あるから、名前を覚えるだけでも一苦労である。
相性となると12×12だから144。
とてもじゃないけど、私には覚えられない。

市川伸一『考えることの科学 推論の認知心理学への招待』には、人はどのように推論するのか、どこで間違った推論をしてしまうのか、そうしたことが書かれてある。
この本を読んで気づいたことは、血液型による性格診断は帰納法によるが、そこには論理の飛躍がある。そして、それをつい信じてしまうのは、前提が間違っているにもかかわらず、演繹法によって思い込んでしまう。
そういうことなんですね。

帰納法による推論とは、個々の特殊な事実から共通するものを取り出し、一般的な法則を導き出すことである。

B型のA君は自分勝手である
B型のB君は自分勝手である
B型のC君は自分勝手である
  ・
  ・
  ・
したがって、B型の人は自分勝手である

論理の飛躍である。

演繹法とは一般的な原理から論理的な手続きを踏んで個々の事実を推論することであり、代表的なものが三段論法である。

A君はB型である
B型の人は自分勝手である
したがって、A君は自分勝手である

前提が間違っている。

血液型信者は「論理の飛躍ではない。確率的、統計的にそうなるんだ」と言うことだろう。
では、『考えることの科学』からこんな例を紹介しましょう。

ある国では、男性1000人に1人の割合で、ある病気に感染している。
検査薬によって、感染していれば0・98の確率で陽性反応が出る。
ただし、感染していない場合にも、0・01の確率で陽性反応が出る。
さて、一人の男性に陽性反応が出たとして、この男性が感染者である確率はどれだけか。

感染者である確率はなんとたったの8・9%である。
直観は当てにならない、ということである。
統計学の教科書ではかならず注意書きとして出ているのは、
「相関関係から短絡的に因果関係を推測してはいけない」ということだそうだ。
迷信が作られ、信じるようになる構造、実はこれなんですね。

ちなみに男女の相性が一番いいのは、O型男とA型女。
これはウソである。
なぜなら私たち夫婦がその血液型だからです。

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EGO-WRAPPIN' とジャニス・ジョプリン

2004年10月06日 | 日記

 
EGO-WRAPPIN'の「色彩のブルース」を初めて聞いたのは、横川シネマで小沼勝特集をしていた時。
中田秀夫『サディスティック&マゾヒスティック』の主題歌のためか、休憩時間にずうっと流していた。

これだけ無理矢理聞かされていたら普通はいやになるものだが、なぜか飽きなくて、今まで映画を見たあとにCDなんか買ったこともないのに、とうとう小沼勝特集の3日目ぐらいに買ってしまった。

EGO-WRAPPIN' の他のCDもほしくなって、「満ち汐のロマンス」を買ったのはいいけど、かわいさ余って憎さ百倍、もう聞くもんかとずっと奥深くにしまっていた。
ところが久~しぶりに聞くと、悪くない。

以前、EGO-WRAPPIN'のライブがあるから行きませんかと誘われたが、たまたま都合が悪くて行けなかった。
惜しいことをした。
で、ネットで調べてみると、11月にコンサートがある。
息子(そのころ大学生でした)に一緒に行ってくれ、と頼んだら断られた。
そりゃ当たり前だけど、やはり寂しい。

で思ったわけですが、EGO-WRAPPIN'がジャニス・ジョプリンのカバーを歌ってくれないものだろうか。
そしてさらに妄想をふくらませば、ジャニス・ジョプリンをモデルにした1980年公開の『ローズ』という映画の日本版を誰か作ってくれないかということ。
「白鳥の歌」の解説は田川律さんだったか、ジャニス・ジョプリンへの愛情があふれていて、涙ものでした。

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是枝裕和『誰も知らない』

2004年10月05日 | 映画

是枝裕和『誰も知らない』は、母親に置き去りにされた4人の子供たちの物語である。

親から捨てられた子供と言えば永山則夫を連想するが、末っ子だった彼は兄や姉から猛烈な虐待を受けている。
『誰も知らない』のモデルになった事件でも、一番下の2歳の女の子が殺されているそうだ。

もしもこの映画が現実をそのままなぞるストーリー展開だったら、当然のことながら後味が極めて重たいものになっていただろう。
しかし、映画では美しく物語が語られ、健気な子供たちに涙が出てきた。
育児放棄を美しく描くこと、それはどうなのだろうか。

もちろん映画は虚構である。
だからといって、細部がきちんと描かれていないと嘘っぽくなる。
たとえば、長男以外の兄弟は部屋から出ることが禁じられているから、ずうっと家に閉じこもっている。

家に監禁された子供といえば、サミラ・マフマルバフ『りんご』である。
このイラン映画は、父親が二人の娘を家に閉じこめていたという事件をモデルにしている。
もっとも子供を虐待していたのではなく、老齢であり障害者の両親が、娘を外に出して何かあったらと心配して、出さなかったわけであるが。

女の子たちが初めて外に出る。
歩き方が何となくおかしいんですよね。
生まれてからずっと家の中にいたらこうなんだな、と思わせる歩き方。
すごい演技だと感心してたら、なんとモデルとなった一家がそのまま出演しているとのこと。
これには驚いた。

『誰も知らない』だが、4人の子供たちが公園に遊びに行くシーンがある。
みんな飛び跳ね、走りまわっている。
しかし、一日中部屋でゴロゴロしていた子供たちが、である。
おまけに長男は学校に行ってないのに、自転車に乗り、野球をしてヒットを打つ。
そんなこといつ練習したんだと、突っ込みたくなった。

親から捨てられた子供の現実は言うまでもなく厳しい。
成人してもその傷は大きく残る。
美しく描くのは優しさのつもりかもしれないが、間違いだと思う。
キネマ旬報ベスト1になったが、私は好きになれない映画だった。

(追記)
是枝裕和監督作品は脚本がうまいと思う。
だけど、あざといところがある。
『そして父になる』にしてもそうで、福山雅治演じる主人公が悪い父親とは私には思えない。
仕事が忙しい父親は珍しくない。
食事をしているときに箸の持ち方を注意するのは当然だと思う。

その一方、リリー・フランキーと真木よう子の夫婦が子供にとっていい親として描かれている。
だけど、夫婦ゲンカをしたり、子供をどなったりもすることだってあるはずだ。
でも、子供たちが笑っている楽しい場面しか描かれない。

そして最後のシーン。
『誰も知らない』と同じように、美しく、中途半端に終わる。
と、悪口ばかり書きましたが、今年のキネ旬ベスト1になるのでは、と予想しています。

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お引っ越し

2004年10月02日 | 日記

某氏よりブログというものがあることを教えていただいた。
いろんなブログをあれこれ見てみると、なんと面白そうではないか。
いやはや、世の中にはいろんな世界があるものだ。

今までHPに日記を書いていた。
それをこちらに引っ越しすればいいわけで、それなら簡単。
ということで、勇気を奮い起こして新規登録した。
いつまで続くかわからないが、ぼちぼちと日記を書いてみましょう。

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