小松左京のエッセイに、ハードボイルドは一人称で語られ、心理描写をしない文学形式だ、とあった。
心理描写をしないのだから、文章は乾いた感じになる。
桐野夏生の小説はハードボイルドである。
主人公の行動が固ゆで卵、乾いている。
『グロテスク』の中に、「何かを捨てた人」という言葉が出てくるが、桐野夏生の主人公たちはあっさりと捨てる。
家庭があっても、夫や子供を捨てることに躊躇しない。
桐野夏生の魅力は、捨てたいものがありながら、捨てることのできない人間にとって、何もかも捨てて一人で生きることのできる人間を描いているところだ。
『グロテスク』も最初のうちはハードボイルドだなと思った。
けど、「わたし」はそうじゃない。
「わたし」は悪意をふりまく。
悪意というのは悪意を抱いた対象にこだわりを持つから生じるのであって、その対象を捨ててしまえば悪意などは起こさない。
「わたし」は妹へのこだわり、美しいものへの愛着を捨てることができない。
街娼をして殺される妹がハードボイルド、すなわち真の主人公ということか。
ハードボイルド小説といっても、非情なものばかりではない。
関係ないとクールなふりをしながら、忘れられない、絆を断ち切れない、引きずっている、捨てきれない。
そんな主人公のハードボイルドは泣かせるんですよ。
矢作俊彦『ららら科學の子』もその一つ。
泣かせるハードボイルドは犬や小さな女の子をうまく使っているのだが、『ららら科學の子』では主人公の妹(8歳)が魅力的。
サリンジャーの『ライ麦畑でつかまえて』ですね。
私としては、サリンジャーだったら『九つの物語』の中の「エズミに捧ぐ」のほうがいいですけど。
『ららら科學の子』の主人公は全共闘なんですね。
1969年、大学生の時に中国に亡命し、30年ぶりに日本に密航して帰ってくるという設定がたまりません。
1970年前後というのは特別な時代という感じがするが、それは私が1970年に中3だったからで、中学、高校のころは誰だって時代社会の影響を受けやすいから、そう思い込んでいるにすぎないのかもしれないと思っていた。
そしたら、坪内祐三が『一九七二』にこんなことが書いている。
やっぱりそうかと、何となくうれしくなった。
もっとも、坪内祐三は1958年生まれだから、あまり客観的な意見とは言えないかもしれないけど。
しかし、高度成長が終わり、佐藤栄作長期政権からから田中角栄へと政権交代したわけだし、学生運動も実質的には終わっている。
アイドルや性表現、その他いろんなことも大きな変化をしていると、坪内祐三は言っていて、なるほどと思う。
矢作俊彦『ららら科學の子』にしても、1969年以降に生まれた人の感想はどうなんだのだろうか。
驚いたのが、1972年では14歳の犯罪が問題となっている。
犯罪の低年齢化は昨今の話題ではないわけだ。
そして、親の子殺しと子供による殺人。
育児ノイローゼによる子殺し、育児放棄による殺人がニュースとなっているのだが、なんと4歳の子供が赤ん坊を殺しているのである。
へえ~、と思ったが、昔はよかった、なのに今は、と過去を美化しがちであるが、犯罪についても同様で、昔より現在のほうが治安はいいんですよ。