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三日坊主日記

本を読んだり、映画を見たり、宗教を考えたり、死刑や厳罰化を危惧したり。

キネマ旬報ベストテン大予想

2009年12月31日 | 映画

今年もキネマ旬報ベストテンを予想しました。(私好みのベストテンではありません)
まずは日本映画。

『ディア・ドクター』(素人でも医者ができるのだろうか)
『愛のむきだし』(悪趣味なとこがいい)
『ヴィヨンの妻』(さすが根岸監督そつない)
『空気人形』(好きではない)
『劔岳 点の記』(家庭の部分がなければよかった)
『風が強く吹いている』(あの状態で入賞するなんて)
『南極料理人』(ほんとに南極でロケをしたのかと思った)
『沈まぬ太陽』(この手の作品はベストテンに入るものです)
『大阪ハムレット』(これはよかった)
『サマーウォーズ』(『時をかける少女』と比べてしまう)

ベストテン候補は
『誰も守ってくれない』(私としてはベストテンに入れたい)
『重力ピエロ』(父親があんな告白をするものだろうか)
『のんちゃんのり弁』(弁当が15個ぐらいでは儲けにならないと思う)
『ウルトラミラクルラブストーリー』(セリフが理解できないとこがいい)
『ハルフウェイ』(女がジコチュウ)
『パンドラの匣』
『精神』
といったところ。(ベストテンと言いながらけなしてばかりいる私は性格が悪いと思う)
主演男優賞は堺雅人、主演女優賞は松たか子、助演男優賞は渡部篤郎、助演女優賞は安藤さくら(この二人は私の好み)、新人賞は岡田将生あたりでしょうか。

外国映画です。
『グラン・トリノ』
『チェンジリング』
『母なる証明』
『スラムドッグ$ミリオネア』(原作はもっといい)
『レスラー』(泣ける映画です)
『イングロリアス・バスターズ』
『愛をよむ人』(これも原作を読んでるので)
『チェイサー』
『アバター』
『戦場でワルツを』

ベストテン候補はやたらとありまして、
『あの日、欲望の大地で』
『ミルク』
『アンナと過ごした4日間』
『フロスト×ニクソン』
『扉をたたく人』
『カティンの森』
『ずっとあなたを愛してる』
『それでも恋するバルセロナ』
『アニエスの浜辺』
『ウェディング・ベルを鳴らせ!』
などなど、未見の映画が多いとりあえずの候補10本。

その他にも『レボリューショナリー・ロード』はサム・メンデスの監督作品だし、『牛の鈴音』は品田雄吉氏が五つ星にしてるし、『スペル』もひょっとしたらひょっとするかもしれないし、『キャピタリズム〜マネーは踊る〜』はマイケル・ムーア作品ならそこそこ期待できるし、『チェ』二部作だって悪くなかったし、『サンシャイン・クリーニング』(エイミー・アダムズが結婚の相手ではなく、寝るだけの女と思われるなんて信じられない)もオススメだし、マイケル・ジャクソンが死んだとなると『マイケル・ジャクソン THIS IS IT』は上位にきそうだしと、あげればきりがない。

私のベストファイブは
『ウォッチメン』
「見たことのない映像」という言葉はこの映画のためにある。何だかわけのわからないが。
『ダイアナの選択』
「衝撃のラスト」という言葉はこの映画のためにある。
と思ってたら、『縞模様のパジャマの少年』(イギリスの話かと思った)のラストも衝撃でした。
『エレジー』
悲惨だけどうやらましい。
『カールじいさんの空飛ぶ家』
冒頭の数分にはうるうるした。

『ゼロの焦点』が日本アカデミー賞の優秀作品賞に選ばれたとのこと。
うげげ、見とけばよかった。

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戦争で人を殺すということ 2

2009年12月28日 | 戦争

デーヴ・グロスマン『「戦争」の心理学』は「陸軍や海兵隊は世界各国の安定化のために派遣されている。米軍が配備されるまで、たいていの人が名前すら聞いたことのなかった場所で、平和維持活動に従事しているのだ」と言うけれども、ジョシュア・キー『イラク 米軍脱走兵、真実の告発』を読むと、デーヴ・グロスマンの言ってることはきれい事だと感じる。

『イラク 米軍脱走兵、真実の告発』は、イラクに派遣され、一時帰国でアメリカに帰り、そのまま軍隊には戻らず脱走し、カナダに亡命したアメリカ陸軍元兵士ジョシュア・キーの話をまとめたものである。
ジョシュア・キーは1978年にオクラホマ州の田舎町に生まれ、寝室2つのトレーラーハウスで育った。
3歳の時に大酒飲みの父親は蒸発、3人の継父はいずれもアル中の暴力男である。
高校を卒業して結婚し、3人の子どもが生まれるが、時給7、8ドルの仕事にしかつけない。
仕方なく24歳の時に陸軍に入る。
テストを受けに行くと30人ほどの若い男女がおり、満点は90点で、合格点は30点なのにもかかわらず、ジョシュア・キー(49点)以外の全員が不合格だった。
軍隊を志願するのはジョシュア・キーのように貧しくて仕事がない、そして教育をまともに受けていない人が多い。
海外に派遣されない任務を望むと、非戦闘配置対象の基地に配属されることになったが、それは嘘だった。

新兵訓練所では「アメリカ人は地球で唯一の優秀な国民であり、すべてのイスラム教徒とテロリストは死に値する」とたたき込まれる。
「ぼくが信じろと教えられたのは、イラク人は市民ではないということだ。いや、彼らは人間ですらない」
「ぼくが戦争をしに海外へ送られる頃には、イスラム教徒はみんなテロリストで、テロリストはみんなイスラム教徒で、唯一の解決法はできる限り多くのイラク人を殺すことだと思い込むようになっていた」

ある時、練兵担当軍曹から訓練から脱落したり、命令に従わなかったりした新兵を殴れと命令される。
「軍曹が訓練兵を殴ることは許されていなかった。だから、彼らはぼくにその汚い仕事をやらせたのだ。しかしぼくは、愚かなことに、命令どおりやることを名誉なことだと思い込んでいた」
そして、ジョシュア・キーは2人の訓練兵を暴行する。

2003年4月、イラクへ行く。
衝動のままに市民を殴ったりけったりすることは日常的だし、家宅捜査の際に金、宝石などがあれば遠慮なく盗んだ。
ジョシュア・キーはいやになって、市民を殴ることや市民から盗むことをやめたが、他の者がすることは黙って見ているしかない。
4人の将校が女性たちを強姦するのにも何も言えない。
「これというはっきりした敵がいないので、われわれは、無力で抵抗できない市民に、攻撃の矛先を向けたのだ」
「イラクへ来てまだ6週間しかたっていなかったが、戦場のアメリカ兵にとって、銃撃したり殺したりすることがなんでもない軽い仕事になっていることがよくわかった」

国への土産に人間の耳や腕を持ち帰ろうとする兵士がいるように、兵士たちは感覚が鈍ってしまう。

ある時、こういう出来事を目にする。
「頭が切断された死体が4体あった。なんと2人の兵士が、切断された頭部を笑いながらけ飛ばしていた。彼らはおもしろがってやっているのは明らかだった」
このことでジョシュア・キーは国家に対する信頼の糸を断ち切り、戦場で持つべき信念を打ち砕く。

生き延びるためには一般人を殺してしまうこともあるが、それも慣れてしまう。
兵士に撃たれて死んだ10歳ぐらいの少女の遺体を親戚が引き取りに来た時、ジョシュア・キーの目から涙があふれ、恥ずかしさと罪悪感を感じた。
ところが、ジョシュア・キーは泣いたことで将官に怒られてしまう。

「まず撃て、考えるのは後だ、と言って、上官は部下に暗黙の承認を与えていた」
「もし兵士が誰かを叩きのめしたり、撃ったりしても、こう言いさえすればよかった―危険が迫っていたから」

「こうして、われわれの戦場での行動は、まったく野放し状態だった」

軍隊による殺人、暴行、略奪、強姦は日本軍だけがやったわけではないのある。
デーヴ・グロスマンが讃える戦士たちだったらイラクでどういう行動を取るだろうかと思う。
デーヴ・グロスマンは「ソビエト連邦とワルシャワ条約が消滅してからは、民主主義を守り育てることが世界中の民主主義国の目標となった。いったん民主主義国になれば予防接種を受けたも同然で、その国はほかの同種の国と戦争を始めることはなくなるからである」と言っていることは、イラクやアフガニスタンの現状を考えるとはかない希望でしかないと思う。

で、デーヴ・グロスマンは映画などで作られたヒーロー像批判をしていて、ここらは面白い。
「『カサブランカ』や『風と共に去りぬ』などの映画は、犯罪者は報われず、暴力や違法行為はつねに罰せられ、犯罪者はけっしてヒーローにならないという規制のもとに製作された。この規則は1960年代末にすたれ、かくして作られたのが『ダーティ・ハリー』であり、チャールズ・ブロンソンの『狼よさらば』シリーズであり、リチャード・ラウンドトゥリーの『黒いジャガー』だ」
「ヒーローばかりがやみくもに復讐を果たそうとするのを延々と見せられることになる。結末では、だいたいにおいて悪役のほうがルールにのっとって行動する人間として描かれ、逆にヒーローは復讐の鬼と化している。そこに至るまでに復讐のために道徳も法も踏みにじっているのだ」

たしかに悪役をやっつけるために一般人が巻き添えになってしまい、ええっと思う映画は珍しくないです。

「われわれに反対する者、それどころか憎む者でも、人間ではないように思うのはやめよう。われわれを憎む者と戦うために、憎悪に燃える必要はないし、またそれは生産的なことでもない」
とデーヴ・グロスマンと言っているのはもっともだ。
だけど、イラクで戦う兵士たちは憎悪という感情すら持てなくなっているような気がする。

ポール・ハギス『告発のとき』は実話を元にした映画。
イラク帰還兵が仲間の兵士に殺され、そして焼かれてしまう。
彼らは腹が空いたというので、その後に焼いたチキンを食べに行くのである。
肉の焼ける臭いにも無感覚になっている。
どこまで実際にあったことなのかわからないが、彼らは心のどこかが壊れてしまっているのだろう。

『「戦争」の心理学』でどうかなと思ったのは、暴力的なコンピュータゲーム、テレビや映画などのメディアの暴力表現は犯罪と関係があるとデーヴ・グロスマンが主張するとこ。
CNNの創設者テッド・ターナーの「テレビの暴力表現は、アメリカの暴力事件を増加させる最大の要因だ」という言葉を引用している。
10代の少年少女を対象にした調査で、脳スキャン画像の比較研究から研究者は次のような結論を出しているそうだ。
「最も驚くべき結果は、正常な子供であっても、メディアの暴力に頻繁に接していると、脳の論理的な部分の活動が減少するということです。これは、破壊性行動障害の子供たちの脳によく似ています」
ゲーム脳とは違うのだろうか。

デーヴ・グロスマンは、メディアやコンピュータゲームの暴力表現を問題にし、これらのものを子供に見せるべきではないと言っている。
だったら銃の規制も取りあげてほしいとこだが、しかし銃の規制についてデーヴ・グロスマンはまったく触れない。
人間であるためには、正当な理由はあるとしても殺人を認め、罪の意識を持たないようにするのではなく、敵を殺すことにためらいを感じ、罪責感を持つことは大切だと思う。
だけど、
それは甘いのだろう。

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戦争で人を殺すということ 1

2009年12月25日 | 戦争

以前に紹介したデーヴ・グロスマン『戦争における「人殺し」の心理学』は、人間は人を殺すことに抵抗を感じることを実例や統計によって証明した本である。
「ほとんどの人間の内部には、同類たる人間を殺すことに強烈な抵抗感が存在する」
「戦場に出た大多数の男たちは敵を殺そうとしなかったのだ。自分自身の生命、あるいは仲間の生命を救うためにすら」
「ごくまれな例外を除いて、戦闘で殺人に関わった者はすべて罪悪感という苦い果実を収穫する」


そのデーヴ・グロスマンの『「戦争」の心理学』は、戦士(軍人だけではなく、警察官や消防士など、そしてユナイテッド93便の乗客たちも含む)がためらわずに殺すことができ、良心がとがめたり後悔しないようにするためにはどうしたらいいかが書かれてある。
「私たちの目標は、戦闘を理解したいと望む心やさしい戦士の気持ちを傷つけることなく、戦闘におもむく人の精神を鍛えるのに役立ちたいということだ」
具体例(読者からの来信など)を語りながら、兵士や警官等の命に関わる仕事をしている人たちが、実際に人間に向けて銃を発砲しないといけないとき、逆に相手から発砲されるときにどのような反応を取るのか、戦闘中・戦闘後の生理的反応、知覚のゆがみ、戦闘の代償(PTSD)などについて説明する。

「第一次世界大戦、第二次世界大戦、朝鮮戦争という大戦争においては、戦闘のさいに命を落とした兵士よりも、精神的外傷のために前線を離脱した兵士のほうが多かった」
戦士が人を殺しても、心に傷を受けて苦しんだり悩んだりしないようにするには「精神的に備えをすませておくことだ」というので、どうすればいいのか、どうしたらいけないのかをデーヴ・グロスマンは処方する。
すごく自信たっぷりなので説得力がある。

とはいえ、
「敵に降伏しようという気を起こさせる一番の方法は、その仲間や上官をじゅうぶんな数だけ殺すことである。敵を殺さなくてはならないという事実を、あなたは受け入れなくてはならない」
「必要ならば人を殺すことができるように、前もって心構えをするのに少しでも力になれるなら、私としてはこれにまさる喜びはない」
「正当な戦闘のさなかに人を殺したことで精神を病む、あるいは心に傷を負うと考えるのは、だいたいにおいて20世紀という時代の気取りであり、現代という時代がみずから好んでつけた心の傷である」
こんなことをあっさりと言われるとぎょっとするけれども。

人を殺さざるを得ない局面はあるわけで、訳者あとがきに「警察官にせよ兵士にせよ、国のため社会のために人を殺さざるをえない人々を、そのゆえに指弾するのはまちがっている、任務や職務で人を殺した苦しみから戦士を守り、救うのは社会の義務だということだ」とあるのはそのとおりなんだけど、そこまで言うかと思ってしまう。

デーヴ・グロスマンは他国に軍事介入するアメリカの正義を信じ、戦士たちをほめたたえることにも抵抗を感じる。
「アフガニスタンでいま着手していることを、世界中の全体主義国家や専制国家に対して実行することになるかもしれない」
「ひとつの文明にとって、これ以上に重要な、あるいは高貴な仕事はほかにない」

だけど、「ペシャワール会報」No101にはこういうことが書いてある。
アフガン人のジア・ウル・ラフマンさんとヌール・ザマーンさんは「米国がアフガニスタンの文化伝統の基本である宗教をはじめこの国の全てを破壊する意図を以って攻撃していることは、世界中の誰の目にも明らかです」と言う。
そして、現地ワーカーとして働いていた紺野道寛氏はこういう経験をしている。
診療所に装甲車四台に囲まれてアフガン人と米軍がやってきた。
「正直、米軍と懇意にしていると思われるのは、住民の誤解を生むため、一刻も早く彼らには立ち去って欲しかった」
彼らは薬を配っていると言うが、紺野氏らは薬をもらうことは断った。
「後から聞いたところ、「もし米軍を受け入れていたら、住民は敵と見なしてたよ」とのこと、冷汗が流れました。実際、同じように米軍が薬を配った診療所が、地元住民から米軍の仲間と思われて襲撃されたと聞きました」
地元住民から信頼されているペシャワール会の診療所でもこういう状況なのである。

それなのにデーヴ・グロスマンは「騎士は滅びた。その騎士が数世紀ぶりに復活したのだ。軍でも法執行機関でも、かれらは毎日防護服をまとい、盾を身に帯び、武器を吊して善行をなしている」と戦士を賛美するわけで、私としては突っ込みを入れたくなるわけです。

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クリスマスとサンタクロース

2009年12月23日 | キリスト教

ある人に「クリスマスケーキを食べるんですか」と聞かれ、「クリスマスケーキは食べませんが、ケーキはほいほい食べます」と答えた。
どうしてクリスマスにケーキなんだ。
私がクリスマス嫌いのせいかもしれないけど、クリスマスとかサンタクロースの映画はあれこれあるが、何か善意の押しつけみたいな感じがしていやだなと思うものが多い。
たとえば、子供にこびているとしか思えない『34丁目の奇跡』
(本物のサンタクロースだと自称する男をめぐる物語)とか。
クリスマスだからみんなが仲良くするというのは偽善ぽい。

町山智浩『アメリカ人の半分はニューヨークの場所を知らない』によると、クリスマス・ツリーはクリスマスと関係ないそうだ。
「イスラエルには樅の木は存在しない。ツリーは本来、北欧ゲルマン民族の「ユール」という冬至の祭りで飾られたのだ。だからイギリスからアメリカに来た清教徒たちはツリーを知らなかった」
「ツリーはドイツからの移民によってアメリカにもたらされたが、最初、清教徒はツリーを異教のものとして禁じていたのだ」
「さらに言えば、キリストの誕生日はいつかわからない。古代ローマ人はキリスト教化された時、太陽神ミトラスを祭る日だった冬至をキリストの誕生日とした」

サンタクロースだって聖ニコラウスのことだから、イエスの誕生日とされるクリスマスとは無関係である。

「サンタクロースもオランダ移民によってアメリカに輸入されたが、白い縁取りのある真っ赤な服という衣装は'30年代にアメリカで作られ、コカ・コーラの広告で一般的に認知された。赤と白ってコカ・コーラのシンボルカラーでしょ?」
知りませんでした。

クリスマスは異教と商業主義によって育てられた、100年も歴史のない祭りなのだとの
ことです。
釈尊の誕生を祝う花まつりのほうがよっぽど伝統のある行事なのに、花まつりケーキを食べる人は少ないのはなぜでしょう。

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またまたまた

2009年12月20日 | 日記
突然、電源を入れてもパソコンが立ち上がらなくなってしまった。
で、またまたまた(三度目なので)修理に出した。
マザーボードを交換したとのこと。
だけど、半年前にもマザーボードを交換しているわけで、どこか別のところが悪いのではないか。
買って一年半で三度の修理。
ひょっとして私のパソコンの使い方が悪いのかと思ったりして、いらん悩みが増えてしまったのでした。
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「人間・罪を生きる~「死刑」と「裁判員制度」を考える~」2

2009年12月11日 | 死刑

しつこく死刑問題です。
冤罪と死刑廃止について大谷昭宏氏はこう言っている。
「冤罪の危険性というのが、必ずしも排除はできない。なぜ冤罪を生み出している温床に対してもっと声をあげないのか。そういうことを放置しておいて、なぜ先に死刑の存置を論議するのか」
どっちが先という問題ではないと思うのだが。
取調の全面可視化などによって冤罪を減らすよう主張することと平行して、なぜ死刑を廃止すべきなのかを論じてもいいではないか。
冤罪をなくすことは不可能だと思うし、仮に冤罪がいつの日にかなくなるとして、その日まで死刑存置を議論するのを待ちましょうというのはおかしい。
それまでに冤罪で死刑になった人はどうしたらいいのか。

冤罪を心配するなら刑罰自体をなくせばいいという意見があるが、森達也氏は「危険な人は排除すべきです。罪を犯したならば相応の罰は受けるべきです。あとはバランスを考えるだけだと思います」と言っている。
「当然ながら、悪いことをした人に対して、いろいろな罰を与えるべきです。ただ、そこで決して遡及性のない、取り戻しができない死刑という制度を与えることが妥当であるかどうかということを問題にしているわけで、「許せ」と言っているわけではないですね」

許しや償いということだが、森達也氏はこう語る。
「人を殺したら、何をもってしても償えない。償いができないから、人が人を殺してはいけない。いのちは戻らないのです。それは事件であれ、死刑であれ、全部一緒です。いのちは絶対に損なってはいけない。まず、それを大前提にして考えていきたいと思っています」
「罪を犯した人が、例えば、刑務所のなかで、有期刑で贖罪して、更生したとしても、それが遺族に伝わらないことには意味がないですよね。伝えることが一番大事な償いだと思う。
ということは、殺めたいのちは戻らないという意味での「償い」はないけれども、できることは遺族に対して、どうケアができるのか。自分の反省の思いを伝えられるのか。それによって遺族が癒されるかどうか。場合によっては癒されない遺族もいると思う。それはケース・バイ・ケースだと思います。やはり一口で「償い」とは言えないですね。その人によって、その事件によって、犯した人が考えて、模索して、泣きながら手探りでやっていくしかないでしょうし、そのなかで「償い」というのが、もしかしたら出てくるのではないかと思っています」

被害者と加害者との関わりということで言えば、安田好弘弁護士が「加害者が人間らしい心を取り戻し、被害者は加害者の人間らしさを見ることにより、加害者と被害者の間につながりができてくる。加害者が変わることによって被害者が次第に苦しみから癒されていく。そのためには、加害者はたとえ憎まれても、恨まれても、あるいは怒りをぶつけられたとしても、自分の一生をかけてご遺族の方と向き合う努力をし続けていくことが大切なんじゃないか。そのためにも加害者と被害者側との回路を誰がどう作るかです」と語っていることと通じる。

大谷昭宏氏は厳罰が犯罪を抑止すると言ってることも間違いだと思う。
「飲酒運転を見てください。厳罰化によってどれだけ減ったことか。厳罰化しなければ、人間は飲酒運転をするのですよ。「これだけの刑罰を受ける」ということによって抑止できることと、「なぜ人間は愚かにもいのちを奪うのだろうか。そして、私たちはそれに対してなぜいのちを奪わなければいけないのか」ということを、ごちゃごちゃにして論議をなさる方がかなりいらっしゃるのですね。死刑というものを厳罰化の行く末としてあるものととらえることは、私は間違えていると思うのです」
厳罰が犯罪を抑止する(これは間違い)ということと死刑存廃問題と関係ないという理屈がよくわからない。
厳罰化によって飲酒運転が減るということだが、罰則の強化でかえって
ひき逃げが増えている。


大谷昭宏氏の話を受け一楽真氏はこう言う。
「大谷さんは人間が劣化してきたというようなことを本に書いておられました。今の話で言えば、厳罰化しないと、そのことの大きさに気がつけない。それもある意味では劣化の一つなのでしょうね。自覚的にそのことを抑制できずに、罰を与えられないと自分の行動を抑制できないという一つの劣化のかたちなのでしょうか」
厳罰化しないと人間の劣化に気づけないということ、根拠があるのだろうか。
昔は良かったというのは昔からあるが、人間の劣化論はそれとどう違うのかと思う。
一楽真氏に答えて大谷昭宏氏は「この国というのは大きく劣化しているわけで、そこを正したうえで、この一番人間の尊厳に関わる死刑制度も論議しましょう」と言う。
またまた死刑論議を後回しにして日本の劣化を正しましょうという話になる。
大谷昭宏氏の著書を読んだことがないので、どこが劣化したのかわからないが、「さっさと吊せ」とか「リンチしろ」というネットの書き込みを見ると、死刑制度があることによって人間の劣化に寄与しているように感じる。

今の日本は、という話になると、国の管理統制を強化しましょうということになりがちである。
森達也氏は「管理統制をみんなが待ち望んでいるのです。つまり罰です。危機管理意識があがって、他者が怖くなってしまったのです。であれば、大きなものに守ってほしい、イコール管理してほしい、統制してほしい。これは日本人の習性ととてもよく合います。その部分が今とても暴走しています。ということは、逆に権力の弾圧というのは、最初からあったわけではない。僕らがそれを望んでいるから来るわけです。それによって統治されながら、何か統治されることの不自由さも感じ、たまに愚痴っている。それは自分たちが望んだ結果である。要するに民意です」と言う。
自由からの逃走ですね。

で、大谷昭宏氏は「私は死刑を存置と言い続けているわけですが、これは国家と言うより、私たちの社会の共有の権利として持つべきだと思うのですね」と言うわけです。
これはひどい。
私は死刑を権利として持ちたくないし、他の人にもそんな権利を認めたくない。
死刑とは正当な理由があれば人を殺してもいいという制度だが、正当な理由があれば殺人は権利だとすれば、戦争だろうが復讐だろうがテロだろうがなんだろうが、正義という名の下にすべてOKになる。
東本願寺はもうちょっとましな人を呼べなかったのかと思う。

正義の殺人について森達也氏はこう言う。
「恨みとか欲望とか利益という私怨ではなくて、善意、正義、大義、これが念慮になったら、人は人を際限なく殺します。摩擦がはたらかないのです、戦争、虐殺もそうです。だから、むしろ悪意は、摩擦がはたらきますから、ある意味で止めやすい。でも、善意の場合は暴走してしまう。気づいてみたら累々としかばねが横たわっているということは、歴史的に人間は何度も重ねてきているわけでせす」
「被虐と加虐は簡単に連鎖します。簡単に転換します。だからこそ、被虐を考えることも大事だけれども、加虐する側についても思いを馳せねばならない。被虐だけで、つまり被害者意識だけで固まってしまっては、絶対に報復に連鎖します」
これは市民感覚という正義感と同じことなわけで、森達也氏は「メディアによって今、十分に市民感覚が入っています。全国が傍聴席になっているのです。これ以上市民感覚を、つまり情感を法廷に入れてどうするのだろう。その必要はまったくないと、僕は思います」と裁判員制度を批判しているが、裁判員裁判は戦争ともつながってくるのである。

『梵網経』の菩薩戒に
「仏がおっしゃるには、仏子よ、自ら殺し、人に教えて殺さしめ、殺すことを賛嘆し、殺人を行なうのを見て随喜し、あるいは、呪詛して殺すならば、殺の因、殺の縁、殺の法、殺の業がある。一切の命あるものは、故意に殺してはならない」
とあるそうだ。
原文はどうなっているのか知らないが、殺人はむろんのこと、死刑、戦争その他、あらゆる殺人を仏教は否定しているのだと思う。
そりゃ菩薩の話だと言われたらそれまでですが。

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「人間・罪を生きる~「死刑」と「裁判員制度」を考える~」1

2009年12月08日 | 死刑

「真宗」10月号に、「人間・罪を生きる~「死刑」と「裁判員制度」を考える~」をテーマに行われたシンポジウムの抄録が載っている。
パネリストは大谷昭宏氏(死刑存置派)、森達也氏(死刑廃止派)、一楽真氏。
なぜ死刑が必要か、大谷昭宏氏の主張は被害者が死刑を求めるからというもので、同じことのくり返しになるし、あらためて取りあげるまでもないと思いつつ、せっかくなので。

大谷昭宏氏は足利事件の菅家利和氏と食事をしながら話をしているにもかかわらず、
「冤罪の可能性があるから、死刑という制度をまったく廃止してしまっていいのだろうかということも、あらためて考えてみるべきだと思うのです」とまず言う。
その理由は被害者が死刑を望むから、という一点である。
そして、国民の多数が死刑制度に賛成していること、刑罰は教育刑ではなく応報刑であるべきこと、犯罪抑止といったことも。

「どうしても死刑制度の廃止ということには踏み切れない。あるいは踏み切ってはならないのではないかという思いがあります」
というのは、名古屋闇サイト殺人事件の被害者の母親Aさん。
「私たちはAさんに対して、死刑を望むべきではないということが言い切れるだろうか」
「私は四十年間、大勢の被害者と出会ってきました。子どもを殺された親で、死刑でなくてもいいとおっしゃった方は今まで一人もいません」
そして、大谷昭宏氏は闇サイトで呼びかけた張本人に面会している。
「彼は、まったく反省していないのです。「名古屋市の人口が一人減っただけではないか」とまで言っているのです。
そういうなかで、今私たちが国民の七割、あるいは八割が残してくれと言っているこの死刑制度を、なぜなくさなければならないのか」

たしかに被害者の死刑を望む声を聞き、主犯がけろっとしているように見えたら、こんな奴は死刑だ!という気持ちになる。

だけど、大谷昭宏氏は「公訴のなかでこの死刑制度はなくしますと言う権利が、はたして私訴を認めない国家にあるのだろうかということからすると、到底この制度を廃止することは許されない」とも言う。
どういうことかよくわからないのだが、「私訴」とは私人訴追ということで、国家訴追主義だから死刑を廃止することは許されないとはどういう意味か。
国が私人に代わって死刑という形で復讐を認めるべきだという意味だとしたら間違いだと思う。

森達也氏の主張は大谷昭宏氏への反論として聞くことができる。
まず被害者の気持ちについて、森達也氏は「もし仮に被害者遺族になった場合、特に自分の身内が強く応報感情を持っているときは、きっと僕はその応報感情を和らげようとすると思うのです。なぜならば、人が死ぬことを願う人生は、やはりどこか内側から、その人を蝕むと思うのです。その人にとってもつらい人生だと思う」と言う。
これはその通りだと思う。
被害者が極刑を求めるのは当然だとしても、報復感情を持ちつづけることは本人のためにならないのではないかと思う。

そして、当事者ではない人が被害者感情を振りかざして死刑を主張することについて。
「「被害者の気持ちを知れ」とか、「遺族の気持ちを知れ」とか言う方もいます。
でも、やはり、同じことを突き返したい。「本当に遺族の気持ち、被害者の気持ちをあなたはわかっているのですか。想像できるのですか」と。おそらく想像できないと思います」

死刑賛成論者は被害者の気持ちがわかったつもりになって、死刑にしろと言い、しかし被害者の気持ちを想像できていないから、死刑になったら一件落着ですませてしまう。
「深い悲しみ、つらさを共有できていません。表層にある応報感情だけを共有しています」
「つらさや苦しさを共有できていない多くの人たちが、表層的な応報感情だけに共鳴して、「早く処刑してしまえ」と声をあげている。ですから、そういう応報感情を持つことは、あたりまえだけれども、できれば、やはり違う視点も持ってほしい」

という森達也氏の意見にはまたまたなるほどと思った。
私には死刑廃止派の森達也氏のほうが被害者のことを考えているように感じる。

第三者の厳罰を求める声が大きいことについて、大谷昭宏氏は「ペナル・ポピュリズム」には問題があると一応は言う。
「大衆は常に厳罰を望むということです。その流れは私たちメディアがつくり出している部分が確かにあろうかと思うのです。それを私は現にメディアを含めて慎むべきこと、やってはならないことと考えています」
だけど、
「被害者に応報感情を抑えなさいということが、はたして適切なことなのでしょうか」と、また被害者を持ち出してくる。
被害者感情で裁くことは罪刑法定主義(ある特定の罪に対して決まった罰を与える主義)の立場をとる近代司法を否定することになる。
森達也氏が「応報感情を根拠にすることは近代司法国家としてはあってはならない」と言ってることが正論だと思う。

大谷昭宏氏の意見はわかりにくいのだが、教育刑批判はその最たるもの。
「その揚々たる人生を断ち切られ、それでもなお、自分の意思でいのちを奪った人のいのちを奪ってはいけないというのであれば、あまりにも不平等ではないか。
刑罰とは、まさに「因果応報」です。「目には目を」はいけないという論理ももちろんあると思いますが、私は刑罰というのは応報刑であっていい。それ以上であっても、それ以下であってもならないと思います。
本来、刑罰とは教育刑で、人を立ち直らせるものであり、更生させるものである。あたかもそれは美辞麗句のように語り継がれていますけれども、例えば、俺は大統領になりたいだとか、この首相の考え方は違うのだとか、俺はこういう主張に基づいて犯罪を犯すものに教育刑を持ち込むのであれば、それは戦前と同じではないですか。
そうではなくて私は本来、刑罰というのは、人のこころのなかにまで入るべきものではないと思っています。それは応報の刑罰によって支えるものであって、国家が人間の考え方を変えるという方がよほど残酷であり、本来民主主義国家のなかであってはならないことだと思います。
だから、私は応報刑でいいと思います」
犯罪を犯した人が社会復帰できるよう刑務所で教育する必要はないということなのか。
厳罰に賛成する人は犯罪者は懲らしめればいいという発想しかない気がする。
刑務所で矯正教育を行なうことがどうして戦前と同じことになるのか、大谷昭宏氏には教育刑とは『時計じかけのオレンジ』みたいなもんだというイメージがあるのかなと思ったりしました。

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日本犯罪社会学会編『グローバル化する厳罰化とポピュリズム』2

2009年12月05日 | 厳罰化

日本ではどうなのか。
「犯罪被害そのものは減少している。しかし、その一方で警察への通報率は増加している。つまり、この時期に警察の暴力犯罪の認知件数が増加したのは、こうした犯罪の警察への通報率が増加したためで、犯罪被害が増加したためではない」
有罪確定人員は1997年の110万人近くから、2006年の74万人弱まで減少している。
それに対して、無期懲役は1997年に32人、2003年117人、2006年135人と増加。
「高裁は、無罪の過半数で原判決を覆したり、控訴された事件の過半数で刑を引き上げたりしている」
まず求刑の厳罰化があり、裁判官も2000年前後に厳格化し始めたわけである。
「先進国で死刑制度を運用しているのは日本とアメリカだけである。中国やアメリカでも死刑の執行数が減少傾向にあり、東アジアでは韓国や台湾において死刑の執行が停止されているなど、世界のすう勢としては死刑を廃止する方向にある。この中で、死刑の執行数と刑務所人口の増加という二つの側面で厳罰化傾向を強めているのは、世界でもっとも治安の安定している日本だけである」

トム・エリス氏と浜井浩一氏は、日本では検察官が厳罰化を主導していると言う。
厳罰化を求める世論を検察が利用し、厳罰化を推進することによって検察の権限を拡大している。

しかし、宮沢節生教授は「日本の厳罰化には、全国犯罪被害者の会(NAVS[あすの会])の運動が大きな役割を果たしている」と指摘している。
NAVSは日本の犯罪被害者運動に質的変化をもたらした。
①殺人にたいする死刑
②刑罰の全体的引き上げ(新たな犯罪類型の創設を含む)
③刑事手続による民事損害賠償
④刑事手続きへの能動的メンバーとしての参加
これらの要求に政府と国会は一連の立法と政策で応え、裁判所もNAVSが代表する世論にすべての審級で応じた。

「NAVSの代表幹事は、日本を代表する弁護士の一人であり、自民党の主要メンバーに対して直接アクセスすることが可能であった。そして、その影響力を行使することで、自民党や国会での政策形成に関与するのみならず、法務省の法制審議会の委員に任命され、法制審議会に直接参加することで政策決定に関与するようになった」
「2007年には、刑事訴訟法改正によって犯罪被害者やその遺族が公判に直接参加する制度を実現させ、それによって裁判所と検察庁をチェックしうる地位を得た」
「メディアが、NAVSとその会員の活動を詳細にフォローすることで、NAVSは、世論を代表する地位も獲得した」
「マスメディアをチェックする地位も獲得した」
こうして被害者運動の特定のグループが世論を代表するようになった。
政治家はそのような世論に迅速に応じる。
その政策を支持する学者と法曹のグループが形成され、裁判所もその流れに従う。

NAVSの立場はどのようなものかというと、会の顧問で常磐大学の諸澤英道氏は「(法廷が)報復の場になって何がいけないのですか? 法の本質からすれば、誰も犯罪被害者から報復の権利を奪うことはできない。現代国家は暴力による報復を禁じている。しかし、法に従った報復は許されるべきだ」とThe Japan Taimes誌の記事で述べているそうだ。
諸澤英道氏は被害者学の中心的人物とのことで、報復感情が被害者学の根本にあるわけか。
報復感情が世論を動かしているとしたら困ったことです。

被害者意識ということだが、ダルクの開設に反対する地域住民への説明会に行ってきました。
私はすみっこに座ってやりとりを聞いただけだが、いやはや圧倒されて小心者の私はびびってしまったのでした。
まず「事故が起きたらどうするんだ。どう責任を取るんだ」という質問というか、攻撃。
ヤク中は恐い、何をするかわからない、という先入観があるのだろう。
クスリで頭がおかしくなって、包丁を振りまわすヤク中というイメージか。
ダルクができるというだけで被害者意識を持ってしまうのである。
だけど、ダルクができて20年、全国52ヵ所に施設があるが、問題が起きたことは今までないそうだ。
なのに、「これからも事故が起きない保証はあるのか」「絶対に安心と言えるのか」とさらに突っ込まれる。
そんなこと誰にもわからない。
たとえば、私の家族が死に、友引に葬式をしようとして、近所の人が「友引に葬式をして誰かが死んだらどうしてくれるんだ。責任とれるのか。別の日に葬式をしろ」と詰め寄られるようなものである。
「ダルクが必要なのはわかる。だけど、どうしてこの地域なんだ。よそに作ればいいじゃないか」と何人かが言われてた。
だったら、よそで反対運動が起きたときにはダルクは必要だと説得してくれるかとか、家に帰ってからあれこれと反論を思いついたが、だけど妻や子どもにも言い負かされてしまってキレてしまう私ですから、まあ負け犬の遠吠えです。

もしも地域に総合病院ができるとして、「病院ができると病人が来る。病気がうつったらどうしてくれるんだ」などと反対運動をする人はいないと思う。
なぜなら自分もいつ病気になるかわからないから。
薬物依存だって同じことで、覚醒剤の乱用者は全国に100万から260万人いると言われている。
薬物依存は覚醒剤やシンナーだけでなく、病院の処方薬でもなることがある。
自分の家族や親戚、友人、知人が薬物依存になるかもしれない。
で、そんな時にダルクのような相談窓口があればどんなに心強いか。
他人事ではないのだが、自分が加害者側になるかもしれないとは思いもせず、ただ排除すればいいというのが被害者意識である。
正義感がそれに加わるから、自分のしていることに疑問を持つことはない。
被差別やハンセン病者を怖れ、嫌い、石を投げるのはこういう被害者意識なんだなと思った。
ダルク開設に反対している人が特に問題だと言ってるのではない。
根拠のない被害者意識を持つことで不安を抱き、排除、攻撃するという風潮が蔓延しているように思う。
それがPenal Populism(刑罰のポピュリズム)につながっているのではないだろうか。

では、Penal Populismをどうしたら防ぐことができるか。
先進国の中でもカナダやフィンランドなどのスカンジナビア諸国のように、市民からの厳罰化要求に政府が抵抗し、刑務所人口の増加を最小限に抑えている国もある。
それはどんな国かというと、
「おおざっぱにいえば、格差が少なく、人と政府が信頼され、お互い様の精神が生き、現実を客観しできる社会ほど「Penal Populism」に対する抵抗力が強いといわれている」
フィンランドのラッピ=ゼッパーラ博士はこのように言う。
「受刑者率と所得格差や福祉予算等を比較して、「犯罪との戦い」よりも「貧困との闘い」を重視する福祉的国家ほど犯罪者に対して寛容であり、受刑者率が低い」ことを確認している。
「福祉的国家に共通な要素として、連帯(共生の精神)を基本としてリスクを個人の自己責任ではなく、みんなで負う、何かあってもお互い助け合う社会であること、つまり、犯罪者も仲間の一人としてとらえ排除しない社会であり、政府や人に対する信頼感が高く、結果として、不安の少ない社会である」
「刑務所ではなく、学校、ソーシャル・ワーク、家族といったものに対してより多くのお金を投資することによってこそ、社会はうまくいく」

ウィンストン・チャーチルは1910年にこう述べたそうだ。
「犯罪と犯罪者の扱いに関する国民感情というものは、どの国でも絶えずつきまとう試練の一つである。被告人の権利、有罪判決を受けた犯罪者にさえある権利を冷静に、感情を排して認識すること、矯正や更生の過程を見いだすためにたゆみなく努力すること、どんな人間の心の中にも、見つけ出すことさえできれば、宝があるのだと常に信じること。これらは、犯罪と犯罪者の扱いに関し、蓄積された一国の力が示され、評価される象徴であり、国の中に息づいている徳のしるしと証しなのだ」
ということです。

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日本犯罪社会学会編『グローバル化する厳罰化とポピュリズム』1

2009年12月02日 | 厳罰化

『グローバル化する厳罰化とポピュリズム』は『犯罪社会学研究』33号に収録された論文を翻訳したものである。

責任編集の浜井浩一氏は「Penal Populism」(刑罰のポピュリズム)についてこう説明する。
「マスコミが劇場的な犯罪報道を繰り返すことで(治安悪化キャンペーン)、事実とは関係なく、治安が悪化したと多くの市民が不安感を持つようになる。それが犯罪に対する不安、犯罪者に対する怒りや憎しみといった情緒的な反応を市民の中に生みだす。その怒りは、次第に刑事司法制度にも向けられるようになり、裁判所等が犯罪者に対して甘すぎるといった批判が巻き起こる。その結果、専門家による解説や統計的な事実が軽視されるようになり、政治家も巻き込んで、法と秩序キャンペーンが巻き起こり、力による犯罪対策、つまり、警察力の増強や厳罰化といった分かりやすい対策が選択されるようになる」
犯罪学者、司法実務家や専門家などの複雑な議論よりも、市民団体、被害者支援活動家やメディアのわかりやすい主張が多くの人々に受け入れられて世論となり、そして世論に迎合しようとする政治家が厳罰化政策を打ち出しているわけである。

これは日本の話かと思ってしまう。
「最近話題となったある殺人事件をめぐる裁判では、マスコミによって裁判の過程が被害者遺族(正義)対加害者の弁護団(悪)という構図で描かれた。そして、無期刑判決が覆され死刑判決が言い渡された際には、裁判所前で裁判の結果を待っていた関係者から拍手と歓声が起きたという。死刑という人を殺す決定に歓声がおきる。まさに、市民にとって正義が勝利した瞬間であったのかもしれない。この光景は、刑罰のポピュリズム化の象徴のようにも見える」
ところが、大衆迎合主義に基づく厳罰化は日本だけではなく、先進国に共通してみられる現象だという。

2006/2007年の拘禁率(人口10万人あたりの被拘禁者)は、アメリカがダントツに多くて751人、次いでロシアの632人。
少ない国はアイスランド36人、デンマーク66人、フィンランド68人など。
1992年に比べると、オランダ139%増、イギリス62%増、アメリカ49%増など、欧米20ヵ国のうち13ヵ国が20%以上増えている。
減っているのはカナダ12%減、アイスランド8%減、イタリア7%減など。
犯罪が増えたから拘禁率が高くなるのなら理解できるのだが、拘禁率と犯罪率とは関係がないそうだ。
多くの先進国では殺人など犯罪の増減と無関係に厳罰化が進行していて、その過程は多かれ少なかれ「Penal Populism」的な要素をもっている。

日本でも「1990年代の後半から軽微な犯罪においても犯罪被害実態そのものが増加していないどころか、一部に減少傾向すら認められる」にもかかわらず、拘禁率は1992年36人、2007年63人と先進国の中でもっとも低いが、64%も増えている。
日本は東・南・東南アジアのなかで「死刑および拘禁刑の両者において厳罰化がより進んでいる唯一の国」なのである。

ニュージーランドでも厳罰化が進んでいる。(拘禁率は1992年129人、2007年197人)
ニュージーランドでは母親が暴行された男性が被害者の中でカリスマ的指導者になったという。
「残虐な犯罪によって傷つけられた何の落ち度もない無力な母親を被害者とする息子がカリスマ的な被害者代表となり、国民に対して、「自分の母親があのように無残に傷つけられるということは、他の誰もが同様に犠牲者になる可能性があるということである。彼女は、我々の上にいつ降りかかってくるかわからない危険な犯罪の生きた証である」というメッセージを投げかけた」
「彼の母親は、全く非がなく、か弱くもあり、自己防衛の手段をもたない「完全な被害者」というシンボルとなった。この事件は、犯罪に対する日常的な危険についてのわかりやすい根拠として使われた。そして、この事件は、刑事司法というものが罪なき国民を守ることができない無力なシステムであると喧伝し、国民の怒りや憤りを引き出した。また一方で、国民投票制の過程は、この国民の怒りを権力に変える手段であった」

光市事件をめぐる一連の出来事とそっくりである。
「(光市事件)被害者の遺族がカリスマ的な存在となり、事件や公判の様子は、この被害者遺族の言葉を通して様々なメディアで報道され、世論の強い支持を背景に、検察官の控訴、上告によって、無期懲役刑判決が破棄され、差し戻し控訴審において死刑判決が下された。この間、治安対策や刑事政策の分野でも、警察官の増員、監視カメラの設置や厳罰化が次々と打ち出された」
事件や裁判は遺族の目を通して報道され、遺族の発言が我々の意見となったという指摘なわけで、あらためて納得しました。

プラット教授はニュージーランドの特徴として、
「犯罪や刑罰の議論において、社会科学における研究成果よりも、むしろ、個人的な体験、常識や逸話(体験談)といったものが重視されるようになり、人々は、複雑な問題に対して、分かりやすく常識的な言葉で解決策を語る者に対する信頼感を高めていく」と指摘している。
裁判員制度の実態を示唆しているように思う。

犯罪は減っているのに不安感は増大している。
そして、被害者への同調が犯罪不安を過剰なものにする。
そして、その怒りを加害者だけでなく、司法にも向ける(刑期が短い、拘禁環境が手ぬるい、すぐに仮釈放で出るetc)。
そして、世論は厳罰化を求める。
しかし、厳罰化・長期化によって刑務所は過剰収容となり、刑務所増設が必要となる。
しかし、刑務所の建設費が財政を圧迫する。
結局、厳罰化は自分は犯罪とは無縁だと考える国民にも負担を強いるものになってしまうのである。
よその国の話ではないと思う。

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