普通、我々は神さまとか天国というと高いところをイメージし、神さまが上から人間の世界に下ってくださり、私たちを救い上げてくださると考えがちである。
ところが、本田哲郎『釜ヶ崎と福音』はそれはまやかしだと言う。
神の子は上から下にへりくだった方だという根本的な解釈ミスがすべてに影響を及ぼしている。
イエスは低みに生まれ、低みに立ちつづけ、低みに死んだ。
だから、神さまも下からすべてを支え上げるはたらきをしておられるのではないか。
ゴミとホコリが降りつもるような、低い低い、社会の低み、そこに天の御父のはたらきの場があり、そこからいつも天と地のすべてを見ておられる。
ところが、いつのまにかキリストの教えが宗教という枠組みをとるようになり、上から下にという権威主義的な発想にずれ込んできた。
持っている人が持っていない人に、強い人が弱い人に恩恵をほどこすのを良しとする風潮になっていく。
だったら、病気で、貧しくて、年老いていたら、みんなのお荷物になり、哀れみとほどこしの対象で終わりなのか。
そうではない。
かといって、イエスは私たちに「貧しく小さくなれ」といっているのではない。
小さくなる競争とか、貧しさごっこ、あるいは英雄気取りの発想は傲慢以外のなにものでもない。
曽我量深師の「信に死し、願に生きよ」という言葉を、竹中智秀師は『阿弥陀の国か、天皇の国か』で、このように指摘している。
では、どう生きることが願に生きることになるのか。
大事なのは、人の痛み、苦しみ、さびしさ、悔しさ、怒りをしっかり受け止め、いましんどい思いをしているその人がいちばん願っていることをいっしょに実現させることです。
相手の立場に立って考えようとするのではなく、相手の立場には金輪際立てないというところから発想しなおす。
ただ大事なのは、自分よりも多くの苦労をし、痛みを知っている先輩たちの方が、はるかにゆたかな感性を持っていることを認めて協力することです。そして少しずつ少しずつ、いつも何かを教えてもらおうという気持ちで関わること。(略)
いちばん貧しく、小さくされがちな仲間たちに対して、尊重し尊敬の念をもって関わりなさいといっているのです。
『阿弥陀の国か、天皇の国か』に、和辻哲郎のこんなエピソードが紹介されている。
和辻哲郎の父親がなくなり、葬式をすることになった。
その地方の風習として、葬式を出した家の者たちは会葬者が帰っていく時、土下座して礼を述べることになっている。
東京大学教授の和辻哲郎は「このようないなかの人々にどうして土下座などできようか」と思った。
しかし、やむを得ず土下座をし、会葬者の足音を聞き、わらじを見ていると、大地の心とでもいうべきものがよみがえってくる。
自分は一人で生きてきて、一人でえらくなったと思っていたが、大衆に支えられてきた。
その大衆に唾を吐きかけていたことに、土下座をして初めてわかった。
竹中智秀師はこのあとに諸仏供養について話す。
聖書に出てくる愛(アガペー)とは、神の人間に対する愛のことである。
そして、神が人間を愛するように、人間もお互い愛し合いなさいということである。
本田神父の言っていることは竹中智秀師の話と通じるように思う。
ほんとうにだれかの支えが欲しいとき、助けてもらいたいとき、ただ明るい人、喜びいっぱいの人というのは何の役にもたちません。痛みを知っている人こそが、力を与えてくれるのです。
「慰める」ということの本来の意味は「痛みを共感、共有する」ことなんだそうだ。
中立の立場をかなぐりすてて、今しいたげられ、苦しんでいるその人の側にしっかりと立ち、抑圧を取りのぞいて苦しみから解放すること。
頭で考えておしまいではなく、具体的に行動する。
現代世界の貧困は、たまたま出現したというものではなく、作り出されたものです。富と権力の恩恵に浴しつづけたい人たちによる政治と経済政策によって、意図的に作り出されたものであることに気づくのです。(略)
わたしたちの怒りの矛先は、こういう社会や制度の責任あるリーダーたち、権力の座にいる者たちに向かうでしょう。洋の東西を問わず、アジアでもアフリカでも、富と権力の座にある者たちこそ諸悪の根源だと思えてくるものです。
世界を変えることなどできそうもないと思うが、江川紹子『名張毒ぶどう酒殺人事件・6人目の犠牲者』に、取材や執筆の動機を書いてあるそうだ。
「目の前でうめき声をあげている人の発見」でもある。
なるほど、こういうことかと思った。
お釈迦さんは、檀越に有力者がいたから長生きし、教団も続いたのでしょうね。親鸞さんも長生きしました。イエスはその点、有力者がパトロンになってくれなかったから、若くして磔にされてしまったのでしょう。
倉田百三の『出家とその弟子』はキリスト教の話しかいな?とよく言われたようですね。逆に遠藤周作は、カトリックではなく浄土真宗だと陰口をたたかれてましたね。以前に紹介した井上洋治神父(遠藤さんと交流が深かった)は、若いころ法然上人の選択集の言葉にふれていたらキリスト教徒にはならなかったであろうとまで言い切られてました。
プロテスタントの神学者・カールバルトは、親鸞とプロテスタントの近似性を指摘してましたが、最後の最後で「イエス・キリスト」の名がそこには決定的に欠けている。。。とセクト主義的な発言をしてました。
http://www.eonet.ne.jp/~sansuian/com/takizawa.html
なむあみだぶつ。。。という力強い声があまりお寺から聞こえなくなって久しく。。。私は、経文の一つも引用されずともその生き様をもって証しされている人たちの中にお念仏の響きを聞くことが多いといういやみ(笑)をずっと書いてきましたが。
信の回復が、宗門から起こることはあるのでしょうか。宗門に少しでもかかわると、宗門政治に明け暮れている。。。といううんざり感で疲労困憊します。
日蓮さんは佐渡に流される前と後とでは教えがかなり違っているそうですし、年をとるとまた違ってきたかもしれませんね。
親鸞さんが50代で死んでいたら、本願寺教団はないだろうし、これまた歴史が変わっていたでしょう。
イエスさんの場合、十字架で死なずに老衰でなくなっていたら、贖いや復活もなくなってしまうわけで、どういう教えになっていたか興味深いですね。
北森嘉蔵という神学者の方に増谷文雄氏は、あなたは浄土真宗だ、と対談で言われています。
罪や悲痛などの問題はなるほどと教えられます。
だけど、「イエス・キリスト」の名がそこには決定的に欠けている、ということはやはり大きな違いなのかもしれません。
さて宗教数々あれど、信仰するのは一つ。。。ではないのが多くの日本人?
竹中師のお話しの中にお念仏は「いつでもどこでもだれにでも」という言葉があるのですが、その後に「あてはまる(教え)」というのが来るとちょっとコワイ。
うちの教えは普遍的だけど、それを受け入れない人々がいる。。。になりかねない。だから私は「いつでもどこでもだれにでも開かれている(教え)」というのがイイのじゃないかなあと思います。
イエスの名を知らずに死んだ人は地獄行き。。。みたいなニュアンスが否定できないから、私は教会に行ったものの洗礼を受けるには至りませんでした。信徒さんにとっては、「私はイエスを救い主(メシア)と信じる」という告白があるからクリスチャンといえるのでしょうけど。人類すべてがイエスをメシアとして受け入れるべき。。。になりがちなのですね。
背教者は地獄行きというのは、党(人民)を裏切ったやつは死をもって償うべきに通じる発想なのではないかと思います。
でも、真実には普遍性があるわけで、だれにでもあてはまらないと真実とは言えないのでは。
ただ、「あてはまる」が型にはめるということだと困りますが。
>私は教会に行ったものの洗礼を受けるには至りませんでした。
本田神父は洗礼を受けたいと言う人に「洗礼は受けない方がいいんじゃない。信者みたいなもん、ならん方がいいよ」と洗礼を勧めないと言うそうですね。
洗礼を受けた人の中に、かつての野宿仲間を「あいつら」と見下げる人が少なくないからとのこと。
となると、帰敬式実践運動は何だろか、と思ってしまいました。
http://www.ebisunews.com/iceblog/2007/06/post_b00e.html
ホームレス支援の団体が全国ネットワークをつくりました。この中には、カトリック系もあれば、プロテスタント系のグループ、おお仏教系のグループもあります。
政党のイロがない団体がいちばん多いようですが、それでも誰が見ても民○党、共○党支持とみられる団体もあり、さらに民族右派団体が出自のもあります。この団体の加入をめぐってひと悶着あったそうですが、社会から排除された人を支援する活動をやってるのに、自分たちが排除してどうするねんみたいなことで、一件落着したようです。
ま、もちろんお声のかからないところ、はじめから拒否している団体もあるようですが。ごった煮のなかなか楽しみな会です。
ネットワークという言葉、はやりですね。
仕切る人がいない、自然発生的ネットワークがいいのでしょうが、上部組織があって、トップダウン式の運動になったらいやですね。
障害者支援をしている人がNPOは維持していくのが難しいと言われてましたが、ホームレス支援団体はどうなのでしょうか。
むかしむかし、一遍上人は賦算という念仏札を受け取らない人(あなたとは違う教えを信じていますという人)に出会い、その答えを熊野神宮の夢のお告げに聞いたそうですが。
http://www2s.biglobe.ne.jp/~kitanok/dokusho2/ippen.html
でもまあ、もらった方は捨てるに捨てられず困るのじゃないですかねえ。欲しいという人にはあげればいいし、仲間に入れて欲しいという人は仲間に入れてあげればいいのですが。
本田神父は、ミサの中で聖餐式を行いますが。「洗礼を受けてない人でもパンを受け取れます。いらない人はもちろん断って下さい」。これはいいですねえ。
そういう人もいたでしょうが、本山は違っていました。
「皇国宗教としての浄土真宗」を内外に明示せんがために、
「戦時教学」なるものを構築して、「大麻は大神宮を拝するための神札
である」、「真宗教徒も日本国民たる以上当然進んで奉受し敬礼するべ
きものである」と、大麻拝受をすすめました。
http://www.za.ztv.ne.jp/nsidbxhe/nomorwor1.htm
これは西本願寺ですが、東本願寺だって似たり寄ったりですよ。
前にも書きましたが、帰敬式を受けようと受けまいと、本山に分骨しようとしまいと、そう大した問題ではないですよね。
ただ、妙な迷信じみた考えで拒否されるのは困ったもんだなとは思います。
http://www.bun.kyoto-u.ac.jp/christ/tolerance_newsletter16.html
なかなか興味深い考察です。「保守派」の方が案外、労働者・野宿者ときわめて近いところにいたりして。
現代思想という雑誌にホームレス特集号があって読んでいると書き手がみんな知り合いだったりしますが(笑)。
http://plaza.rakuten.co.jp/artlabovagoods/diary/200612020001/
ホームレス自立支援法には「都市公園、河川、道路、駅舎、その他の施設をゆえなく起居の場所とし」という一節があるのですが、多くは「やむなく」だと思われます。けれど中には「好き好んで」(笑)あえてやっている人もいます。
この日本で路上で亡くなる人がいる。。。ということに衝撃を受け自分もまた某国立大学を辞めてある公園にテントを張った人も書いているのですが。
でもどうなんでしょう。彼は行政のやり方に反対するため、もっと公園にテントを増やすことで対抗する。。。とか書いてましたが。何かちょっと方向がずれてないかい?と私は感じます。
だけど、頭の中がすっきりはせず、ますますこんぐらがりました。
保守派は心の問題に矮小化しているように思うし、リベラルはドン・キホーテのように無駄な闘いをしているように感じますし。
貧乏白人はKKKやファンダメンダリズムにはまっているというイメージが私にはあって、釜ヶ崎のホームレスが保守に流れるのも、何となく納得。
これも偏見の一種でしょうか。