仏教で説く苦しみに四苦八苦という言葉があります。
困ったことに翻弄されることを「四苦八苦する」と言いますが、その四苦八苦とは、生老病死という人間が避けて通れない人生の歩みそのものを四苦、さらに人生で出会う四つの苦しみを四苦とします。
愛別離苦、怨憎会苦、五蘊盛苦、そして求不得苦です。
愛別離苦は、愛する人と別れる苦しみ、怨憎会苦は、会いたくない人に出会う苦しみ、五蘊盛苦は、自分の心身が思うようにならない苦しみをいいます。
さて、求不得苦ですが、これは、求めている物事が得られない苦しみをいいます。
人間の煩悩を三毒と云いますが、貪瞋痴(むさぼり、いかり、まよい)の状態をつねに私たちは抱えて生きています。
その根本には、欲望とか欲求というものが存在しています。
例えば、生まれながらにして、人間には、生理的欲求が備えられています。
食欲、睡眠欲、性欲、これらは生物学的に人間だけでなく生命に与えられた自然的な欲求です。
しかし、人間はこれらの欲求に付加価値を付けて、衣食住の欲求、経済的な欲求、社会的な欲求、政治的な欲求など、満たされたいという欲求を欲望として、無限に拡大させていきます。
求めても得られない苦しみというのは、ざるで水を汲むようなものです。
水に浸したざるの中には、水(ほしいもの)が豊富に入っています。
しかし、それを汲み上げて、自分のものにしようとすると、水はざるの目から逃げてしまいます。
餓鬼という言葉があります。
ものを食べようとしたり、水を飲もうとしたりすると、それが火炎に変わり、空腹や渇きを満たせないという戒めの姿です。
子どものことを悪口でガキといいますが、子どもは分別なくものをほしがることから、そのような悪口ができたのでしょう。
求不得苦を超えた境地が知足、足ることを知るということです。
満足するということも入るのでしょうが。
私たちには本当の意味での知足の境地にはなかなかたどり着けません。
おいしいものをたらふく食べて、満たされたと感じても、また腹は減ります。
では、いつ知足という境地に達するのでしょうか。
私はある時、こう思いました。
おいしいものをたらふく食べて、満足したのも束の間、急におなかが痛くなりました。
慌ててトイレに駆け込み、脂汗をかいて、あんなに食べなきゃよかったと後悔をします。
自分の欲のせいで痛みを感じて自分の愚かさを省みた時、そこに知足という言葉のもつ本当の意味が見えてくるのではないかと。
求めることが大きければ大きいほど、それを得られないことの苦しみも、痛みも大きくなるように思います。
また、人間には、痛みを感じないと得られないこともあるようです。
世の中が騒がしくなってきて、求不得苦のはけ口を探して、右往左往しているように思います。
大きな痛みとならないことを祈ります。
私の大変尊敬する先生が、この春、お浄土に帰られました。厳しくもあり、やさしくもあった先生でした。私はその先生から多くの教えをいただき、また私生活でも親しくさせていただきました。
忙しいという言葉を口実に、ご機嫌伺いもせず、半年が経ちました。年始に年賀状が来ないので心配していたところ、先輩の校長先生から「入院しているからお見舞いに行ってあげて」と言われました。これは大変だと思っていましたが、またもや忙しいという言葉を口実に、行かなければと思いつつ、だらだらと日を送ってしまい、ついに訃報を聞くことになってしまいました。
一期一会という言葉があります。茶道の言葉で、一生に一度しか会えないという気持ちでお客様をおもてなししなさいという意味だと聞いたことがあります。大切な人とのお別れも一生に一回だということを改めて感じました。
一期一別、後悔先に立たず、でした。葬儀には出席できても、もう一度お言葉を聞くことできません。
以前、友を癌で亡くした時は、言葉こそ交わせませんでしたが、生前に会うことができ、心静かにお見送りすることができました。
父を送った時は、心筋梗塞だったので、言葉を交わす間もなく、やはり、普段からもっと話をしておくべきだったと後悔しました。
忙しいと自分の都合を優先させて、大切な人との別れの時を失してしまうことは、無念なことだと思い知りました。父の葬儀の時、叔父が言った言葉を思い出しました。「死んでからいくら立派な葬式を出しても何にもならない。その人が生きているときに、何をしてあげたか、それが大切だ」と。
人の死は、残された私たちに多くの示唆を与えてくれます。故人を偲ぶということは、別れを惜しむという意味もありますが、その方の死から何を学ぶかということであると知らされます。
愛別離苦、愛しい人といつか別れなければいけない日が来ます。自分が先かもしれないし、相手が先かもしれません。一期一会、一期一別なのです。葬儀での恩師の遺影から、言葉にならない最後の教えをいただきました。
先生、ありがとうございました。
有名な囲碁や将棋の名人が人工知能(AI)に負けてしまったり、手術に関する指示が人間の経験よりAIの選択のほうが優れていたりというニュースを聞いた。先日の毎日新聞の記事に、49パーセントの職種が、今後10年から20年のうちに、AIやロボットに代替可能になると書かれていた。
少子高齢化に伴い、日本の生産人口は2060年には4418万人と、ピーク時の1995年の8716万人の半減となると予想されている。生産人口の減少と高齢者の増加を補う意味では、AIやロボットがその代替をすることでバランスがとれるというメリットがある。
しかし、単純作業を含む仕事の多くがAIやロボットに奪われることで、失業を余儀なくされる人たちが出てくることは大いに考えられるとともに、現実的に二極化しつつある貧富の差をさらに助長することにもつながることが予想される。
機械の指示や命令に従って、間違いのない作業を行うという仕事に創造性は見出せない。また、人間の活動そのものがAIやロボットに依存する生活になってしまうことも、自らの人間性を破綻させることにつながってしまう。
すでに、仮想体験と現実が交錯したキャラクターゲームが世に送り出され、空前のブームになっている中で、正常な人間の生活リズムすら狂わされてしまっている。AIによる自動運転を可能にする自動車の販売も開始され、大切な人命をマシンに委ねる時代も来た。
未来の生活を描いた漫画や映画の世界が、少しずつ現実化している。
人工知能(AI)の発達は、職種を減らすばかりではなく、人間の生活そのものの変化に影響を与えている。
学校の学習においても、単純に知識を暗記する活動は、すでにITC機器の出現によって、いつでもどこでも必要な知識が引き出せるようになることで無用になる。学校でこれから学ばなければならないことは、広範な知識を覚えることではなく、こうした知識を自分なりに再構成する思考力や判断力、そしてそれを効果的に活用するために表現する力(表現力)である。AIにはできない創造性のある資質や能力を高めること、豊かな感性を持つことが、これからの教育には求められる。
便利で快適な生活のために、効率化や省力化ばかりに目が向けられ、創造性や人間性を見失っては、人間の尊厳そのものが見失われてしまう。以前、「デジタルとアナログ」という題で書いたことがあるが、まさにアナログ的な人間の資質や能力が、これからの時代社会を生き抜くために、再び脚光を浴びる時が来たように思う。人間は考える葦であることを再認識したい。
夢という文字に「イ」をつけると儚いという言葉になると、以前、書いたことがあります。人がみる夢というのは、儚いものであるというと、何だか世智辛く、それこそ夢も希望もないという暗澹たる思いがします。
新しい社会人を目指して、世間の荒波に飛び込もうという若者たちが就活を始める時期となりました。しかし、その実態は、ブラックだの、派遣だのと、自分の夢どころではなく、それこそ生活をしていくためだけで精一杯。仕事を選んでいる場合ではないと右往左往している若者たちがたくさんいます。
夢は、いつから儚いものになってしまったのでしょう。「念ずれば花開く」と詩人坂村真民はいいました。夢は叶うものではなく、実力で勝ち取るものとなりました。そして、そこには、勝ち組、負け組という言葉が生まれ、ニートや引きこもりといった若者の生き様が見え隠れするようになってきたのです。
最近のデータでは、いじめの件数は減ってきましたが、不登校の児童や生徒が増えているというデータがみられます。若年層の理由のはっきりしない自殺も増加傾向にあります。
あまりに現実化したこの社会の中で、若者たちが熱く語れる夢がもてる社会の実現がいま求められていると思います。
夢をもつといえば、若者だけの問題とも言えません。長年社会に尽くしてきた高齢者の方々の老後の問題も夢の実現という意味では、儚い状況にあります。唯一の頼みの綱である年金制度への不安。伴侶を失った後の孤独死の問題。認知症や病気への不安など、ことさら夢の実現とは程遠い状況が目の前の現実として現れています。
私たちは、夢をもつということを理想の生活や理想の生き方に近づくことだと思っています。しかし、頭の片隅では、その夢がかなうとは信じていない自分もいます。宝くじを買うのと同じで、夢はもつものであって、叶うものではないと内心思っているのでしょう。
昔の教え子の卒業文集の寄せ書きに何かを書いてほしいといわれて、「夢を目標に」と書いた覚えがあります。何気なく書いて、私自身も半信半疑だったのですが、その言葉を胸に刻んで、本当に夢を叶えた子がいました。「サッカー選手になる」という夢のような話ですが、その夢を目標にして、努力して、本当にフットサルの選手になった教え子がいました。私が一番驚きましたが、念ずれば花開くのです。
儚い夢であっても、夢を目標にし、目標を努力に変えて、努力を楽しみながら生きていきましょう。
親鸞聖人は、『唯信鈔文意』において「屠沽の下類」(とこのげるい)といわれた当時さげすまされていた猟師や商人のような庶民階級層に対して、「いし、かわら、つぶてのごとくなるわれらなり」と呼びかけておられます。いし、かわら、つぶてとは、取るに足りないものという意味であり、親鸞聖人はこうした人々と共に歩むものとして、「われらなり」という宣言をされています。
『唯信鈔文意』のこの件は、「能令瓦礫変成金」と書かれた部分で、こうした、いし、かわら、つぶてのように扱われている人々であっても、阿弥陀仏の本願によって、念仏申せば、仏になれるということを、金に例えて、いし、かわら、つぶてを金に変えるおはたらきが、阿弥陀仏の本願なのだと説明している部分です。
さて、今回この「いし、かわら、つぶてのごとくなるわれらなり」という言葉を引用したのは、阿弥陀仏の本願の功徳を説くためではありません。どちらかというと、親鸞聖人がこうした人々のことを「われらなり」とお呼びになられたことを取り上げたかったのです。
長年同じ仕事をしてきて、ある程度の年齢になると、職歴もあり、また、職務上の地位や高額な報酬も得られるようになるかもしれません。しかし、一人の人間としての自分の評価が高まったかというと、必ずしもそうだとは言えません。部下や同僚は、その職階による上下関係や利害関係で、従ったり、敬ったりしているだけなのかもしれません。
しかし、うっかりするとそのことに気づかず、自分が偉い人間なのだと勘違いしてしまうことがあります。人が傅くのは、役職であって、その人物だとは限りません。
一休さんの話に、次のような話があります。
あるお金持ちの家で法事を頼まれたとき、経を読みに行った一休さんは、汚れた黒衣で訪れたら門前で追い返され、高価な衣で来たら丁重に迎えられたので、用事があるのは私ではなく、この衣ですねと言って、その衣を脱いで帰ったという話です。
私たちは、知らず知らずのうちに、調子に乗って、何枚もの衣を着て、人を色眼鏡で見るようになってしまいます。しかし、その衣を失えば、だれしも、いし、かわら、つぶてのごとくなるわれらなのです。そして、そんなわれらにも阿弥陀仏の光が当てられています。
子どもにかかわる仕事をしていると、いろいろな事情を抱えたご家庭に出会います。子どもの目線に立って、朋に出遭う自分でありたいと思います。とても難しいことですが。
先日、朝会で話す機会を校長先生からいただき、「備えあれば憂いなし」という防災の話をさせていただきました。
1月17日は、阪神淡路大震災から、21年目、満20周年を迎えた日です。
その時に校長先生から、話をするときは、文字を書いて話したほうがいいとアドバイスをいただきました。それは、言葉だけでは聞こえの悪い子には理解できない、ということもあると聞いたからです。
私はさっそく筆を借り、「備える」という文字を書きました。そして「憂」という文字を書き、そのとなりに「にんべん」を添えて、見えないように折っておきました。話のあらかたはこんなことです。
「備えあれば憂いなし」ということわざを知っていますか。1月17日は阪神淡路大震災という大きな地震があってから、満20年を迎えた日です。
普段から避難訓練をしているのはどうしてでしょう。それは、雪が降った日に長靴がないと大騒ぎするように、普段から災害が起きたときに備えていないと、いざというときには、心配なことがたくさん起きてしまうということです。それを憂いといいます。
いつもまさかの時のことを考えていろいろなものを備えておくことが大切です。
(備の文字を示す)
そして、もう一つの備えは、憂いが起こらないように普段から周りの人と助け合うことです。人と人とが助け合うと憂いは優しさに変わります。
(ここで憂いの横に「にんべん」を付けました)
憂いという文字に人が着くと「優しい」という文字になるのです。
自分でも話していて、なるほどと思いましたが、漢字というのはよく考えられているものです。
備えるという文字も、調べたら、「にんべん」に矢を入れるえびらというものを象形した「つくり」でできていました。つまり、敵に備えて矢を担いだ姿を表している文字なのです。
後で、校長先生からお話についてご指導していただきました。話そのものについては、まずまずということでほっとしました。
その後、校長先生からこう言われました。
「そういえば、「夢」に「にんべん」がつくと「儚い」という文字になるね」と。
「あー」と思わず声が出ました。それを聞いたとき、人間のもつ夢とは、儚いものなのかなと思いました。
子どもたちには夢をもちなさいと励ますのですが、夢をもつことは大切なことであるけれど、大金持ちになりたいだの、人より偉くなりたいだの、長生きしたいだのといった、貪欲に近い夢は、やはり煩悩でしかないのかなと思いました。
「にんべん」恐るべしです。
昨年の秋のことで恐縮ではありますが、落ち葉の季節になりまして、学校の校庭の木の落ち葉が大変気になることがあります。
校庭の中ですと、主事さんたちがきれいに掃除してくださいますが、近隣の路上にも落ち葉が散らかります。主事さんも気にしてはいてはくれますが、木枯らしが吹くと手が回りません。ご近所の方々から苦情が来ないかと、毎年頭を悩まします。
以前いた学校でも、近隣の方から落ち葉の始末が悪いと苦情をいただいたことがあり、私自身トラウマになっていました。
そんなある日、朝、学校に出勤すると校門の近くにお住まいの方が、家の門前で、明らかに学校のものである落ち葉を掃いておられました。
私は申し訳ないという気持ちでいっぱいになり、苦情覚悟で、「申し訳ありません。学校の落ち葉でご迷惑をおかけしています」とお声をかけました。
すると、そのご近所のご婦人は、こうおっしゃいました。
「いえいえ、こちらこそ、毎年楽しませていただいています」と。
私は、その言葉を聞いたとき、驚くとともに、すばらしい方だなと感じました。
どういう意味でそうお答えになったのかはわかりませんが、私は、自然の摂理にしたがって毎年落ちてくる落ち葉を、今年もこうして健康で掃き掃除することができて幸せですとおっしゃったのではないかと受けとめさせていただきました。
モンスターペアレンツだの、言ったもの勝ちだのと、ことさら自分の主張を他者に押しつけるような物言いが多い中、面倒なことも自分の身に引き替えてお答えになったそのお言葉に、仏の心を聞いた思いがいたしました。
私どもは、何かにつけて自分の都合のよい解釈をするものです。自然の摂理にしたがって落ちる木々の葉も、空から降ってくる雨や雪も、時と場合によっては迷惑千万なものに違いはありませんが、こちらの受け止め方一つで「ありがたい」ものにもなるのです。
真宗の教えの言葉に「自然法爾(じねんほうに)」という言葉があります。これは、私たちも含め、あらゆるものは自然の摂理にしたがって、あるがままに存在しているという意味です。
ですが、私たち衆生には煩悩があり、我が身というものを通して、身の回りのものを見て、判断し、行動してしまうのです。「邪見憍慢悪衆生」と正信偈にありますが、まさに邪な見方をし、驕慢な心で判断し、行動してしまう悪衆生なのです。
しかし、この方のものの見方は、真に仏の見方、正見だったのです。
仏教の教えは、難しい経典の中にあるのではありません。身近なところに仏様はいらっしゃるのですね。
高校の同級生が危篤だと友だちからメールが届いた。一昨年ほど前から胃がんで闘病をしていた。半年ほど前に集まった同窓会のメンバーで寄せ書きをし、メールを送って励ましてきた。抗がん剤の治療に専念すると覚悟して彼はそれを続けてきた。
突然の危篤の報に接し、取り急ぎ何人かに連絡を取り、会いに行くことにした。あまりにも急なことであり心の整理はつかない、会って何と声をかけたらいいのか、そもそも死を目前にした彼にまともに目が向けられるのか。不安は皆同じだった。
その日は仕事を早く切り上げさせてもらい、友人3人で彼の自宅に向かった。彼は既に病院から自宅に帰っていた。
彼は母親との二人暮らし。多忙な仕事に追われ、結婚の機会も逸してしまった。自分の家族をもつこともなく、父を失った後は、献身的に母親の暮らしを支えてきた。
彼の誠実さは職場でも重宝されたであろう。いつも朝早くから、夜遅くまで仕事に没頭していたという。時には部下や同僚の分の仕事も進んで買って出ていたという。そんな日は、遅くまで仕事し、深夜まで飲んでタクシーで帰るような日々もあったらしい。
無理が病魔を呼び、胃がんになったが、仕事を理由に健康診断を先延ばしにしたことが、手遅れにつながった。発見が早かったら、打つ手はあったらしい。若いだけにその先延ばしをした分、進行し、気がついたときには手が付けられない状態だったという。
呼び鈴を押すとお母さんが出てきた。普通なら気が動転して、友だちを迎え入れるような気にならないはずなのだが、普段から高校時代の思い出を母親に語っていたらしく、お母さんも快く迎えてくれた。
ベッドで横たわる彼の姿は、全くの別人だった。痩せた黄疸で黄色くなった顔つきにはすでにあの当時の面影はなかった。意識ももうほとんどなく、モルヒネで痛みを癒やしてはいたが、時折、薬の作用で痒くなるのか、血が出るほど首の辺りをかきむしっていた。
声をかけるが、反応はない。時折、薄く目を開けるようなことがあったので、反応しているのかと思って、思わず「がんばれ」と言ってしまった。これ以上、何を彼にがんばれというのか。自分でも混乱していた。
お母さんの話では、あと二日だという。最近では医者の計算で死の時期もわかるという。何とも言いようのない思いを抱いて彼の家を後にした。二日後、友人の携帯のメールが届いた。内容は読まなくてもわかった。
前日の夜来の雷雨が嘘のような晴天の日だった。志半ばで逝ってしまった友。彼の死をどう受け止めて生きるか大きな課題を与えられた。
今年の報恩講で、講師の伊藤元先生(日豊教区 徳蓮寺前住職)から「良いことをしたから、良いことがあるとは限らない」という話がありました。
たしかに「良いことをしよう」という心の底には、「良いことをすればきっと良いことが起きるにちがいない」という考えが浮かぶことが多々あります。
逆に、「悪いことをしたから、ばちがあたったんだ」という言い方もしますが、これも似たような意味かもしれません。悪いことをしたから必ずしも悪いことが起きるというわけでもないのでしょう。(道徳的には認められない考え方ですが)
私たちは、そんなつもりじゃないと思っていても、結果によって自分の行動を価値づけることがあります。また、結果を期待して自分の行動を方向づけることもあります。こうしたことは、「はからい」という人間の深層にある欲望の現れかもしれません。
伊藤先生は「これまでが、これからを決めるのではありません。これからがこれまでを決めるのです」とお話しされました。
人間は、過去の結果から未来を価値づけることが多い生き物です。因果応報的なものの見方、考え方をするものなのでしょう。
しかし、これからの新しき道を開く教えや人に出遭うことで、過去の自分自身を凌駕することができるのです。
浄土真宗は、厳しい修行に身を置き、精神を清浄にし、仏の悟りを得るといった仏道ではありません。ひたすら聞法することが、その行となります。人の話を聞くこと、聞法の場に身を置き、話を聞いて自分を省みるのです。
「はからい」は、独りよがりの自分勝手な解釈です。人の話を聞くということは、時に自分の浅はかさを否定されたり、自分の欲望をあからさまにされたりすることにつながります。
裸の自分をさらけ出すことで、もう一人の自分の存在に気づかされる瞬間があります。はたと気付くということが、誰しもあると思います。
世間の様子を見ていると、人の話を聞かない一部の人たちによって、「はからい」だらけの欲望の渦巻く社会が作られようとしているように思います。「これからが、これまでを決める」という教えは、人の話を聞くという行の上に成り立つものです。
目先の利益に目を奪われて、未来に禍根を残すようなことがたくさんあります。戦争や震災の経験が全く意に反されていない現実に、これからの日本に不安を抱くのは私だけでしょうか。時代に逆行するだけで、先に進めない日本の行く末がとても心配です。
東日本大震災による福島第一原発の放射能事故では、想定外の津波によって、大きな被害が出たといわれました。各地の津波被害についても、想定外の津波の高さだったと報じられています。
まだ記憶に新しい各地で起こった天変地異の数々。長野、広島の土石流による災害。御嶽山の噴火による災害。これらのすべては、想定外の災害による大惨事であったとされています。しかし、本当に想定外という言葉で片付けていいものなのか、ということは誰しも思うところではないでしょうか。
日本は、世界でも有数な火山国であり、地震国であります。さらに、山がちな地形で平野部が少なく、日本の河川は、中国やヨーロッパ、アメリカ大陸等の巨大河川と比べたら、多くの河川が流域面積の狭い急流だといわれています。中国の長江や黄河に比べれば、日本の河川は滝のようです。山地の急斜面を縫うように河川が流れ、土石流を防ぐために、砂防ダムが至る所にあるのが日本の河川です。この事は、小学生でも社会科の授業で習っています。
都市の住宅問題の解消のために、山地が宅地化され、森林が伐採されると、その土地自体は、水を貯めて少しずつ流すダムのはたらきを失います。山に降った雨は、一気に地表を流れ、一部は地下水となって、地盤を軟化させます。土石流や地滑りが頻繁に起こるようになるのです。これは、すでに開発が決まった時点である程度は想定されていたはずです。
また、火山の噴火に対しても、御嶽山が活火山である以上、噴火は想定されていたはずです。予知することは難しくても、監視の目を強化することや噴火に際しての避難小屋を増やすことはできたのではないでしょうか。
想定外とは、被害の大きさに対して想定外だということであり、被害が出ることはある程度想定はされていてして、それを最小限に考えて、開発や観光、原発の設置等が計画されているのでしょう。どんなことを行うにも、確かにリスクというものは伴います。それをはるかに超えるメリットがあれば、最大公約数的な幸せの共有という考え方から計画は実行へとうごきだすのではないでしょうか。「虎穴に入らずんば、虎児を得ず」危険というデメリットを最小限のリスクとして受け入れることで、より大きなリターン(利益)を得ようとする社会そのものの闇がそこにあると思います。
しかし、環境の変化や天変地異の現実は、私たちが想定できるようなものではありません。いつ何が起きるかわからない、朝には紅顔あって、夕べには白骨となれる身という自覚を常に肝に銘じなければと思います。