アーヴィング・ウォーレス『「新聖書」発行作戦』は、今まで知られていなかった福音書が発見されたという話。
あざとくて好きになれないが、アメリカ人のキリスト教や聖書への思い入れの深さがわかる。
ハーバート・クロスニー『ユダの福音書を追え』は、名前だけが知られていた『ユダの福音書』が1970年代にエジプトで発見され、2001年に研究者の手に渡るまでを描いたノンフィクション。
『ユダの福音書』とは、2世紀ごろに書かれたとされるグノーシス主義の文献である。
ユダは金のためにイエスを売ったのではなく、イエスの指示に従っただけだということが書かれてあるそうだ。
『ユダの福音書を追え』には「従来のユダ解釈を一八〇度くつがえすものだ」とあるし、米国ナショナル ジオグラフィック協会は「歴史を覆す大発見」なんて言っている。
しかし、聖書研究家やグノーシス主義者ならともかく、キリスト教正統派が『ユダの福音書』を読んでも、信仰は揺るがないのではないかと思う。
ジェイムズ・D・テイバー『イエスの王朝』は、イエスは人間であり、人間の父と母がいた、つまりイエスの神性を否定している。
ジェイムズ・D・テイバーはノース・カロライナ大学宗教学研究所所長であり、シカゴ大学で聖書学の博士号を取得しているというのだから、怪しい人物ではないと思う。
また、メシア運動のそもそもの創始者はイエスというよりも洗礼者ヨハネであり、この運動がのちにキリスト教に発展した。イエスは親族でもあったヨハネに最大の敬意を払っていた。ヨハネを預言者とも師とも、また「神の国」を招き入れる人物とも呼んでいた。
イエスはヨハネがはじめた運動に加わり、ヨハネの洗礼を受け、ともにメシア運動を推し進めていった。こうして洗礼者ヨハネとイエスは、彼らの時代にふたりのメシアが出現するというユダヤ民族の期待に応えることになった。ひとりはアロンの子孫で「祭司としてのメシア」、もうひとりはダビデの子孫で「王としてのメシア」である。
イエスの死後、イエスの弟ヤコブが教団を継ぎ、ヤコブの死後は弟のシモンが継承した。
神の国とは神が約束した地上の国のことである。
イエスが待望したのは「地上における神の国」だったが、パウロがイエスの教えを変えてしまった。
パウロが伝えたことは、天上のキリストに対面するという彼自身が見た幻に基づくものだった。だが、ほどなく正統的なキリスト教教義の基礎になったのは、パウロの主張のほうだった。
マリアが死ぬまで処女のままだったなんて、普通ならあり得ないし、プロテスタントではイエスに弟や妹がいたとするし、ユダヤ独立運動とイエスが関係あると言われれば、そうかなと思う。
どうしてイエスの生涯や教えについての異説、異端が次々と登場するのだろうか。
イエス=神という考えから無理が生じてくるのではないかと思う。
宗教的真実と歴史的事実は異なる。
たとえば、釈尊は生まれる前に兜率天にいたとか、母親の左脇腹から産まれたとか、誕生してすぐに七歩歩いたとか、それらは歴史的事実ではない。
しかし、偉人、特に教祖は神格化されやすい。
高僧伝やキリスト教の聖人伝など奇跡、奇瑞が大量に書かれてある。
空海、親鸞、日蓮などの宗祖も同じ。
人間は歴史そのものより神話のほうが好きなんだと思う。