三日坊主日記

本を読んだり、映画を見たり、宗教を考えたり、死刑や厳罰化を危惧したり。

『ユダの福音書』

2007年08月29日 | 

アーヴィング・ウォーレス『「新聖書」発行作戦』は、今まで知られていなかった福音書が発見されたという話。
あざとくて好きになれないが、アメリカ人のキリスト教や聖書への思い入れの深さがわかる。

ハーバート・クロスニー『ユダの福音書を追え』は、名前だけが知られていた『ユダの福音書』が1970年代にエジプトで発見され、2001年に研究者の手に渡るまでを描いたノンフィクション。
『ユダの福音書』とは、2世紀ごろに書かれたとされるグノーシス主義の文献である。
ユダは金のためにイエスを売ったのではなく、イエスの指示に従っただけだということが書かれてあるそうだ。

『ユダの福音書』では、ユダはイエスが言いつけたことだけを行い、イエスの言葉に耳を傾け、最後までイエスに忠実だった。イスカリオテのユダは、イエスに愛された弟子であり、かけがえのない親友だったのだ。


『ユダの福音書を追え』には「従来のユダ解釈を一八〇度くつがえすものだ」とあるし、米国ナショナル ジオグラフィック協会は「歴史を覆す大発見」なんて言っている。
しかし、聖書研究家やグノーシス主義者ならともかく、キリスト教正統派が『ユダの福音書』を読んでも、信仰は揺るがないのではないかと思う。

ジェイムズ・D・テイバー『イエスの王朝』は、イエスは人間であり、人間の父と母がいた、つまりイエスの神性を否定している。
ジェイムズ・D・テイバーはノース・カロライナ大学宗教学研究所所長であり、シカゴ大学で聖書学の博士号を取得しているというのだから、怪しい人物ではないと思う。

母マリアは家どうしの取り決めによって、かなり年上のヨセフと結婚することになっていたが、婚前に別の男性によって妊娠させられた可能性が高い。その後マリアは、夫ヨセフかその兄弟クロバとのあいだに、男四人と女ふたりの六人の子をもうけた。
また、メシア運動のそもそもの創始者はイエスというよりも洗礼者ヨハネであり、この運動がのちにキリスト教に発展した。イエスは親族でもあったヨハネに最大の敬意を払っていた。ヨハネを預言者とも師とも、また「神の国」を招き入れる人物とも呼んでいた。
イエスはヨハネがはじめた運動に加わり、ヨハネの洗礼を受け、ともにメシア運動を推し進めていった。こうして洗礼者ヨハネとイエスは、彼らの時代にふたりのメシアが出現するというユダヤ民族の期待に応えることになった。ひとりはアロンの子孫で「祭司としてのメシア」、もうひとりはダビデの子孫で「王としてのメシア」である。


イエスの死後、イエスの弟ヤコブが教団を継ぎ、ヤコブの死後は弟のシモンが継承した。

ヨハネとイエスの教えは単純そのものである。彼らが告げたのは、神の国がまもなく到来すること、それゆえ、すべての人は罪を悔い改めなさいということだ。

神の国とは神が約束した地上の国のことである。

イエスが待望したのは「地上における神の国」だったが、パウロがイエスの教えを変えてしまった。

パウロにとっての神の国は霊的な王国だった。神の国は天にあり、地上のものではなかった。(略)
パウロが伝えたことは、天上のキリストに対面するという彼自身が見た幻に基づくものだった。だが、ほどなく正統的なキリスト教教義の基礎になったのは、パウロの主張のほうだった。


マリアが死ぬまで処女のままだったなんて、普通ならあり得ないし、プロテスタントではイエスに弟や妹がいたとするし、ユダヤ独立運動とイエスが関係あると言われれば、そうかなと思う。

どうしてイエスの生涯や教えについての異説、異端が次々と登場するのだろうか。
イエス=神という考えから無理が生じてくるのではないかと思う。
宗教的真実と歴史的事実は異なる。
たとえば、釈尊は生まれる前に兜率天にいたとか、母親の左脇腹から産まれたとか、誕生してすぐに七歩歩いたとか、それらは歴史的事実ではない。
しかし、偉人、特に教祖は神格化されやすい。
高僧伝やキリスト教の聖人伝など奇跡、奇瑞が大量に書かれてある。
空海、親鸞、日蓮などの宗祖も同じ。
人間は歴史そのものより神話のほうが好きなんだと思う。

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湯浅顕人『ウィニー』

2007年08月26日 | 

先日の新聞に、ウィニーで個人情報が流出したという記事があった。
これだけ問題になっているのに、相変わらずウィニーを使う人がいるのはなぜか、どのようにして個人情報が外部に漏れるのか、そこらがよくわからなかった。

湯浅顕人『ウィニー』を読んで、ウィニーとはどういうソフトなのか、どんな危険性があるのか、ようやく理解した。
ウィニー悪用ウィルスによってどういうことになるのか。

・使用中のデスクトップ画面が画像となって流出
自分が今パソコンで見ているものが画像となる。
メール、作成中の文書、閲覧しているホームページ、ネットショッピングする時に入力するクレジットカード番号etcといった画面が画像ファイルになる。

・オフィスで作った文書、メールとアドレス帳がアップロード用フォルダにコピー
オフィス文書やメールが誰でも見れるようになる。

・ハードディスク全体をホームページとして閲覧できるようにする
ウィニーをつかったことのない人でも、他人からもらったファイルで感染すれば、自分のパソコン内のすべてのファイルが流出するウイルスもあるそうだ。

思ったのが、ハードディスクは人の心みたいなものではないか。
誰もが他人には知られたくない、心に秘めていることがある。
それは人には見せたくない部分であるし、自分自身ですら気づいていないことかもしれない。
その秘められた部分をウィニーは他人にさらけだしてしまう。
しかも私の知らないうちに。
いつ裸の王様になるかわからない。

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ユニセフ 「母の願い」

2007年08月23日 | 日記

臓器移植をしないと助からない病気の子供が、外国に行って臓器移植するために支援をする「救う会」がいくつもある。
「救う会」のHPをあれこれと見ると、募金目標額は1億円以上のようである。
ユニセフのHPに「母の願い」というページがある。
https://www.unicef.or.jp/campaign/0412/c07.htm
画像を載せればいいのだが、やり方がわからないので。

かぜをこじらせて、あるいははしかなどの感染症から肺炎になり、命を失う乳幼児は年間250万人に達します。もし、薬(抗生物質)があれば、多くの幼い命が救われます。
肺炎に効く抗生物質は1人5日分で約30円
もし、3000円のご支援があれば、100人の子どもに5日間抗生物質を投与することができます。

不衛生な水などが原因で下痢になり、脱水症で命を失う子どもは年間160万人もいます。しかしORS(経口補水塩)というスポーツドリンクの素のようなものを安全な水に溶かして飲ませるだけで、身体への水分補給を劇的に助け、大勢の子どもの命を救うことができます。
ORSは1袋(1リットル分)で約7円
もし、5000円のご支援があれば、ORS681袋を提供することができます

感染症の中でも、はしかだけで年間55万人の幼い命が奪われています。予防接種さえできていれば、救えたはずの命です。
8種類(はしか、結核、百日ぜき、ジフテリア、破傷風、ポリオ予防接種、黄熱、B型肝炎)の予防接種用のワクチンのコストは1人あたり約60円
もし、10000円のご支援があれば、166人分の予防接種用ワクチン(8種類)を用意することができます

栄養不良は、子どもから体力や免疫力を奪い、かぜや下痢などのありふれた病気で命を奪う大きな原因となっています。
衰弱した子どもの体力を回復させる栄養補助食ユニミックスは、1食分で約15円
もし、30000円のご支援があれば、2083食分の乳幼児用ユニミックスを提供することができます

出産前後のケアを改善することで、多くの赤ちゃんの命を守ることができます。
1人の母親の出産に必要な清潔で安全な器具、消毒液、医薬品一式は、約1580円
もし、50000円のご支援があれば、31人の母親の清潔で安全な出産を手助けすることができます

ユニセフのHPには、「たとえば・・・皆様の募金で可能な支援例」というのもある。

3000円のご支援で 
 0人の子どもにスケッチブックと8色のクレヨンセットを提供することができます。

5000円のご支援で
 マラリアを防ぐ蚊帳を7張り提供することができます。

8000円のご支援で
 保健員が遠くの村へ予防接種のワクチンを運ぶための保冷ボックスを8箱調達することができます。

15000円のご支援で
 はしかのワクチン903回分を調達することができます。

30000円のご支援で
 1錠4~5リットルの水を浄化できる浄水剤を21551錠、提供することができます。

50000円のご支援で
 緊急時にも学校を開くことができる緊急教材セット(80人の生徒と1人の先生用)を、2クラス分提供することできます。


これまたユニセフのHPから。

1年間に5歳の誕生日を迎える前に亡くなる子どもの数が1100万人にもなっています。この数は1日にしたら3万人、時間にすると3秒にひとりの割合です。


寄付したお金のすべてが医療や教育に使われるかどうかはわからない。
ユニセフの職員の人件費や広報費などにも使われるだろう。
だけど、何もしないよりずっといい。

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産経抄

2007年08月16日 | 戦争

産経新聞8月15日の「産経抄」にこういうことが書かれてある。

▼なんといっても情けないのは、終戦記念日のきょう、靖国神社に参拝しようという気骨ある大臣がいないことだ。確かに靖国参拝を政治的に利用しようという動きは厳に慎まねばならない。だが、過去半世紀で初めて誰も大臣が参拝しないというのは、異常な事態だ。
▼心ならずも散華した幾百万の先人に真っ先に頭を垂れるべき防衛大臣にとって、九段の杜は、ワシントンのアーリントン墓地よりも遠いらしい。山本有二金融担当相に至っては「公的参拝は歴史的経緯からアジアの政治的安定を害する」と妄言を吐いている。


「過去半世紀で初めて誰も大臣が参拝しないというのは、異常な事態だ」とあるが、8月16日の毎日新聞によると、それは間違い。

靖国神社刊行の『百年史』で、80年より前に閣僚が「8・15」した記録は、63年の賀屋興宣法相(元日本遺族会会長)ら2人だけだ。

「異常な事態」でも何でもない。

もう一つ気になるのが、「心ならずも散華した幾百万の先人に真っ先に頭を垂れるべき防衛大臣にとって、九段の杜は、ワシントンのアーリントン墓地よりも遠いらしい」ということ。
どうして靖国神社でなければならないのか。

そして、「心ならずも散華した」とあるが、「心ならずも」とは「本意ではない。しかたなく。やむをえず」という意味である。
戦死者は「お国のために」死んだのではないということになる。

「散華」は本来は仏教語だが、「戦死を美化していう語」として使われることが多い。
「心ならずも散華した」とは「不本意ではあるが、戦死を美化した」ということになる。
これが産経抄の本意なのか。

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暑さ自慢

2007年08月14日 | 日記

毎日暑い。
千葉に住んでいる姉が帰省して、「東京はもっと暑い。広島は涼しい」と言ったのには、ええっと思った。
こんなに暑くてヒーヒー言ってるのに。

姉は自慢をしているわけではなく、率直な感想なわけだが、私の大学時代にした暑さ自慢を思いだした。
九州の人間が「九州は暑い」と言えば、「京都の暑さは違う」と反論する奴がいて、しかし北陸や東北の人間も負けてはいない。

大学のころにはつまらぬお国自慢をいろいろしたもんだ。
名産物が何かとか、住んでいるところが都会だとか、今から考えるとしょうもないことを、恥ずかしげもなくお互いに言い合っていた。
香川の人間が「香川は人口は少ないが、人口密度が高い」と自慢した時には驚いたが、私だって「広島はいい酒があって」と、酒の味もわからないくせに通ぶって自慢してた。

どういう形であっても人より上に立ちたい、人を見下したいという慢はいまだに消えない。
今は病気自慢、薬自慢、不幸自慢である。

話は変わるが、私がパソコンをカチャカチャしている横で、妻がクイズ番組を見ている。
アイドルたちがアホな答えをするのをみんなが大笑いするクイズ番組である。
妻も「そんな~」とケラケラ笑っている。
それくらい私でもわかるのにという優越感だと、私は冷ややかに見る。
私が妻に「こんなことも知らないのか」と言うと、必ず不機嫌になるのに。

東大や京大出身が解答者のクイズ番組もある。
難問をあっさり答えると、「さすが東大」となるのだが、答えられない問題もある。
そんな時、妻は何やらホッとするらしい。
東大の卒業生が知らないんだな、私と同じという安心か。
と、私は妻を馬鹿にしているわけだ。

話は戻って、姉に「広島は涼しい」と言われて「えっ」と思ったのは、「あんたの苦しみは大したことじゃない」と言われたような気がしたからだと思う。
自分のしんどさをわかってもらいたいということである。
「大変だったですねえ」とか「苦労しましたねえ」と言われると、思わずニッコリする。
これも慢の一種かもしれない。

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想田和弘『選挙』

2007年08月11日 | 映画

想田和弘『選挙』は、2005年秋、川崎市議会補欠選挙に自民党公認で立候補した山内和彦(40歳)の選挙運動奮闘記。

山内和彦は知り合いから誘われて公募に応募したのだが、公募といっても出来レースらしい。
東京で切手コイン商を営む山内和彦は川崎市に引っ越して、選挙運動を始める。

選挙に負ければ市議会与党の座を奪われる自民党としては、何としても勝たなければならないというので、国会議員、県会議員、市会議員も応援する。
山内和彦はまったくの素人だし、自民党丸抱えだから、みんなの言いなりになるしかない。
みんなに怒られている山内和彦がかわいそうになる。
三浦博史・前田和男『選挙の裏側ってこんなに面白いんだ!スペシャル』によると、落下傘候補に対し「地元議員はあまりあたたかく迎えてくれない」そうだ。

選挙が公示される前、山内和彦は駅前で、誰も聞いていないのに演説する。
演説といっても、「小泉自民党の山内です」「改革に取り組んでいきます」としか言わない。

『選挙の裏側ってこんなに面白いんだ!スペシャル』に、「駅前や街頭で一人果敢に政策を訴え、ビラをなど配る」辻立ちやドブ板選挙は大切なんだとある。
野田聖子は初めて県議会に立候補した時、1日100軒、選挙までに1万人と会い、そうして14,908票取って当選。
衆議院選では野田本人は7万軒、両親が1万軒ずつ歩き、95,734票で当選。
つまり、まわった家の数だけ得票したことになる。

山内和彦は国会議員、県議、市議たちと一緒に、保育園の運動会でラジオ体操をし、祭りの御輿をかつぎ、農協の会合に出席。
改革を言うのなら、まずこういうところから改めてほしいが、それじゃ当選はできないわけだ。

1000票という僅差で民主党候補に勝った山内和彦は市会議員になる。
でも、応援してくれた市会議員は次の選挙ではライバルだから応援を期待できない。
当選しても、次の選挙でどうなるかわからないのだから厳しい。

現在の川崎市議会議員名簿に山内和彦の名前はない。
次の選挙には立候補しなかったそうだ。
山内和彦の選挙費用はほとんどが自腹だそうで、1年ちょっとの任期では赤字ではないだろうか。

状況が違っていたら国会議員の公募に山内和彦が応じ、杉村太蔵の代わりに国会議員になっていたかもしれない。
山内和彦のほうが期待できそうな気がする。

もっとも、自民党という組織の中で新米の議員に何ができるのかとも思う。
親の七光りで議員になった二世三世議員がほどんど。
国会質疑では下を向いて原稿を棒読みする大臣ばかり。
それなのに失言を繰り返すんだからどうしようもない。
あれなら誰が議員になっても変わらないと思う。
大学の偏差値と仕事ができるかどうかと人間性は関係ないことを教えてくれている。

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田部戒自『広島市の山を歩く』

2007年08月08日 | 

田部戒自『広島市の山を歩く』は、山歩きのガイドブックとしてかなりのスグレモノである。

その1 広島市のすべての山を網羅している
「広島市域の全81山、ほぼ全コースを上・下巻の2冊に分けて紹介しています」
登山道があろうとなかろうと書いてあるところがすごい。

その2 ほとんどすべての道(藪こぎを含む)が載っている
山にはいろんな道があるが、通常のガイドブックには一つのコースしか書かれていない。
ところが、「広島市の山を歩く」にはあらゆる道を踏破している。
「コースは道の良い特定のコースに限って紹介するのでなく、道のないコースも含めてすべてのコースを紹介しました」

その3 すごく丁寧
住宅地や道路から登山道へのは入り口は案外とわかりにくい。
まして山の中だと、なおさら迷いやすい。
そこを丁寧に説明してある。
しかし、私はそれでもなおかつ道に迷うんだからどうしようもない。

もう一つ思ったのは、ガイドブックのコースタイムは実際より長めに設定されている。
私はいつもせかせかと歩くが、『広島市の山を歩く』のコースタイムより早く歩くのはしんどい。
紹介されている山を田部戒自さんが歩いたのは66歳から68歳の時だそうだ。
大したもんだ。

上巻は中国新聞からの発行だが、下巻は自費出版らしい。
これだけの本をどうして中国新聞は出さなかったのか不思議である。
もっとも、私だって図書館で借りたわけで、田部戒自さんに申し訳ない。

『広島市の山を歩く』を片手に歩いていると、「広島市の山を歩く G」などと書かれた白いテープをあちこちで見かける。
アルファベットは『広島市の山を歩く』所載の地図に書かれてある記号。
読者がしているのか、それとも田部戒自さんだろうか。
ありがたいことである。

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『イソップ寓話集』

2007年08月05日 | 問題のある考え

本を読む時、何かに使えないかと思いながら読むことがあり、不純だと自分でも思う。
岩波文庫版の『イソップ寓話集』は話のタネに使えそうなものがたくさんある。

「守銭奴」
守銭奴が全財産を金に換え、金塊を買って、それを城壁の前に埋めると、しょっ中出かけて行っては検分していた。近くに住む職人が男の足繁く通うことに気づき、事の次第を推し量って、男が立ち去った後に金を盗みとった。
男は次にやって来ると、そこが空っぽになっているので、泣きわめき髪をむしった。身も世もあらず嘆いているのを人が見て、訳を知って言うには、
「お前さん、悲しむことはない。同じ場所に石を埋め、金だと思うことだ。有る時にも使わなかったんだから」
使わなければ持っていても意味がない、ということをこの話は説き明かしている。

金塊とは何か、いろんな話に使えそうである。
最後の教訓はしらける。
「使わなければ持っていても意味がない」というのではね。
『ナルニア国物語』の作者C・S・ルイスの『キリスト教の精髄』にある次の言葉のほうが気が利いている。

あなたが捨てなかったものは何にせよ、ほんとうにあなたのものとなることはできない。


ある人から「細木数子が、先祖供養をきちんとしないと何らかの因果が来ると言っている」と聞いた。
昔から細木数子のような人間がいることが、『イソップ寓話集』を読むとわかる。

「女魔法使」
魔法使の女が神様の怒りを解く呪文やお祓いを売り物にして、またそれがよく当たり、それで相当なお金をためこんでいた。ところが、人々はこの女を宗教の改革を企てる者だとして告発し、裁判を受けさせ、罪状を挙げて死刑判決を下した。女が裁判所から引き出されるのを見た者が言うには、
「おい、お前は神様の怒りを遠ざけると公言するくせに、どうして人間の説得ができなかったんだ」
大それたことを約束しながら、普通のことが出来ずに襤褸を出す詐欺女にこの話は適用できる。


人を脅して不安にさせ、金儲けする人に詐欺罪が適用できないのはおかしいと思うし、細木数子のたわごとを流しているテレビ局は許せんなと思う。

「占い師」
占い師が広場に陣取って、見料を稼いでいた。突然一人の男がやって来て、占い師の家の戸が破られ、中のものがみな持ち出されていた、と告げたので、大いに慌てて、跳び上がり嘆き声を発すると、事件を確かめるために駆けて行った。居合わせた一人がこれを見て言うには、
「やい、お前は他人のことはとうから分かると吹聴するくせに、自分のことは占ってみなかったのか」
自分の生活を満足に律せないくせに、赤の他人のことで気をまわす連中に、この話は適用できる。


イソップは宗教で金儲けする輩や占い師が嫌いなんだと思う。

「鍬をなくした農夫」
農夫が葡萄畑に溝を掘っているうちに鍬がなくなったので、一緒にいた作男の誰かが盗んだのではないかと、調べてみた。誰も取ったと言わないので、どうしてよいか分からず、誓約して言わせるため、全員を町へ連れて行くことにした。田舎に住む神々はぼんやりだが、城壁の中の神々は誤ることなく、すべてお見通しだ、と言われていたからである。
城門をくぐり、小物袋は横に置いて、泉で足を洗っていると、町の触れ役が大声で、神殿から盗まれたもののありかを教えたら、賞金千ドラクメ出すぞ、と叫んでいる。農夫はこれを聞いて言うには、
「やって来たのも無駄だったわい。自分のものを盗み出した犯人が分からず、知っている者はないかと賞金を出して探すような神様に、どうしてよその家の泥棒が分かるもんか」


最後にもう一つご紹介。

「神像売り」
ある男が木彫りのヘルメス像をこしらえて、市場へ売りに行った。さっぱり買い手がつかないので、人寄せをしようと、商売繁盛の福の神はいらんかね、と大声を張りあげた。すると、その場に居あわせた男が、
「おい、そんなにありがたいものをどうして売るのだ。自分でそのご利益にあずかればいいのに」と野次るので、答えて言うには、
「俺には手っとり早いご利益が必要なのに、この神様はゆっくりとしか儲けを授けて下さらないからさ」
恥ずべき儲けを追い、神々をも顧みない男にこの話はぴったりだ。
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