犯罪者は我々一般人とは違う種類の人間だと思いがちである。
あいつら、どうしようもない、と。
専門家でも同じらしくて、浜井浩一氏は「犯罪者を見る目が、警察官、検察官、裁判官、刑務官と法務教官、保護観察官で全然違うことに気づきます」と言う。
「立ち直る姿を見る機会があるかどうかというのが一番大きいのかもしれない」
日々再犯者と接する検察官、裁判官、刑務官は更生できなかった人にしか再び会うことがないので、犯罪者というのは懲りない、再犯を繰り返す、更生しないと思うようになるそうだ。
「しかし、それは錯覚である」、「実際には立ち直る人が本当は多い」と浜井浩一氏は言う。
では、再犯率はどれくらいなのか。
全犯罪の60%を再犯者が起こしていて、犯罪に占める再犯者の割合は非常に高い。
そう言われると、6割が再犯すると思いがちだが、そうではない。
罰金刑以上の刑を受けた人が再び罰金刑以上の刑を受ける人は29%、約3割。
平成19年版犯罪白書によれば、殺人で有罪になった者の再犯率は約17%であるが、再犯したといっても、殺人で有罪になった者のうち、再び殺人事件を起こした者は0.9%で、多くは万引きや無免許などだそうだ。
殺人などで長期間受刑すると浦島太郎になってしまい、社会復帰が難しくなる。
「強盗、強姦、放火といった警察が凶悪犯罪と分類しているものについては、殺人と同じように同種再犯は少ない。凶悪犯罪は、窃盗や覚せい剤といった数の多い犯罪と比較すると、比較的繰り返されることの少ない犯罪なのである」
では、再犯を防ぐにはどうしたらいいか。
平成11年「犯罪者予防更正法」が「更生保護法」に改正された。
「犯罪者予防更正法」は犯罪したものの改善、更生を助けることが再犯防止につながるという考えであるが、「更生保護法」は再犯防止が目的である。
改善更生と再犯防止とは違うそうだ。
改善更生とは本人が主体で、立ち直ろうとする本人を支援するのが改善更生である。
犯罪を犯した人が立ち直ろうという意欲を持たせることが大切なのだが、再犯防止が改善更生につながるかは疑問だと、保護観察官の話にあった。
再犯防止とは、守られるべきは本人ではなくて社会であるから、非行少年や犯罪者はどうでもよく、社会を守るためには彼らを排除してもいい。
「究極の再犯防止は理論的には、本人たちの抹殺、つまり死刑に行き着きます」と浜井浩一氏は言う。
よく「犯罪のない社会を」と言うが、再犯防止が強調されすぎると、改善更生が吹き飛んでしまうことになりかねないそうだ。
たとえば、再犯を防ぐためには犯罪者には厳しくしなければいけない、監視を強化すべきだという意見がある。
しかし、監視による行動規制、厳罰という再犯防止では改善更生に結びつかず、監視を強化することでかえって再犯率が上がってしまう。
性犯罪者にGPS付きの腕輪をさせることがいい例である。
大阪府も性犯罪前歴者GPS検討…橋下知事指示
2010年の強制わいせつ事件の認知件数が8年ぶりに全国最悪となった大阪府が、性犯罪の前歴者らに全地球測位システム(GPS)端末の携帯を義務づける条例制定を検討していることがわかった。
宮城県がすでに同様の条例化を検討している。ただ、人権的な配慮などから慎重な対応を求める意見も多く、論議を呼びそうだ。
府によると、橋下徹知事が検討を指示。知事は宮城県の構想について、「加害者の存在におびえる被害者への対策が特に重要。被害者の視点に立った方策を独自に検討する姿勢は評価できる」と賛同の意向を示しているという。府は今後、府警と条例化に向けた協議を始める方針。
宮城県の構想では、女性や13歳未満の子どもへの強姦などの前歴者らに、出所後、GPSの携帯を義務づけ、従わない場合は罰金を科す。3月末までに条例化できるかを判断する。(読売新聞3月2日)
浜井浩一氏によると「保護観察対象者などに対するGPSによる監視の強化については、否定的な研究が多く、再犯防止に有効だとする研究が少ない。GPSについては、監視の強化によって些細な問題行動の摘発を増やすだけで、更生を阻害するため、再犯率はかえって悪化してしまう危険性が高いとする研究がほとんどである」
というのも、生活に支障が生じて定職に就けなかったりして、安定した生活が送れなくなるからである。
また、プログラム処遇や社会奉仕作業などが義務づけられても、そのために仕事を休むことは難しいから、保護観察が終わるまで定職に就けないことになる。
監視や威嚇による処遇は効果がないのである。
こうした方法は欧米はすでに失敗しているのに、なぜか日本の刑事司法機関の専門家には人気があるという。
厳罰は意味がないどころか、かえって犯罪を増やすことになりかねないことは死刑にも当てはまる。
「英米の犯罪学会においては、死刑の犯罪抑止効果は、科学的に確認できていない(将来にも確認できる見込みも乏しい)というのが合意事項となっている」
死刑に抑止効果があるという研究もあるが、「殺人に大きな影響を与える可能性の高い経済要因などが意図的に解析から外されている」など、問題がある場合がほとんどだそうだ。
抑止効果がないどころか、死刑の抑止効果を肯定している経済学者も「死刑には暴力を促進する効果がある」と認めているという。
それとか、監視カメラに犯人が映っていたので、すぐに捕まったという話を聞いて、監視カメラや防犯カメラには効果があると私は思っていたが、浜井浩一氏は否定する。
「監視カメラには通常二つの目的がある。防犯と犯人検挙である。当然のことであるが、防犯と犯人検挙では目的が異なるため効果的なカメラの設置方法も異なる。防犯のためであれば、カメラは一目でわかる場所に目立つように設置する必要がある。他方、検挙のためであれば、目立たない方がいい」
なるほど。
「暴力犯罪の多くは、飲食店、自宅、職場、学校などで何らかの人間関係のトラブルや飲酒をきっかけに発生する。しかも、衝動的な犯行がほとんどだ。監視カメラの効果はあまり期待できない」
監視カメラの効果を検証した研究によると、「監視カメラは、駐車場での車上狙いなどの防止にはある程度の効果が認められるが、それ以外の路上や公共交通機関などの場所や暴力犯罪に対しては、ほとんど効果が認められない」そうだ。
監視カメラよりも、街灯を明るくすることには窃盗系の犯罪を中心に防犯効果がある。
もっとも、街灯の効果も暴力犯罪には否定的だということである。
ということで、監視の強化は犯罪防止には意味がないというわけでした。
刑務所で増えているのは社会的弱者である高齢者や障害者である。
60歳以上の受刑者は15.7%、10,333人で、寝たきりや認知症の受刑者もいるという。
刑務所の老人ホーム化ということが言われているが、ある人の話だと以下のような状態だそうだ。
「近年では新たな試みとして、高齢受刑者に計算、文字なぞり、パズル等を行わせたり、高齢受刑者向けのスポーツプログラムなどを準備して、知的・身体的機能の維持、回復を図るなどの取組みを行っている施設もあります。(略)
居住内に手すりを設けたり、エレベーターを設置するなどバリアフリー対策を講じるなどして、高齢受刑者に対応できる建物を整備するなどの配慮をしているところであります」
デイサービスの説明かと思うが、刑務所の話です。
少子高齢化で高齢者が増えている以上に、高齢犯罪者が増加しているそうだ。
年齢層別で検挙人員を見ると、若い層は検挙人員が横ばいか減少傾向なのに、全体としては減っていないのは、本来犯罪をしないはずの50、60代の人の検挙人員が増えているからだと、浜井浩一氏は話している。
「今、日本で問題なのは高齢者の窃盗です。ただ、これも余り深刻な窃盗はなくて、自転車盗であったり万引きであったりするわけです」
万引きは少年の犯罪だった。
1980年代には、万引きによる検挙人員の50%以上を少年が占め、60歳以上の高齢者は10%に満たなかった。
ところが、2006年から逆転して、高齢者の割合は30%を超え、少年の割合を超えた。
今や万引きは高齢者の犯罪なのである。
殺人についても同じ。
「1960年ぐらいから検挙人員(認知件数も同じ傾向)が下降傾向にあるが、その減少に最も貢献しているのは10~20代の若年層である。つまり、最近の殺人の大きな特徴は、若者が人を殺さなくなってきたことにある。その半面、最近、殺人件数の低下傾向が足踏み状態にあるが、これは60代の検挙人員が増加しているためである。つまり、お年寄りが人を殺すようになってきたのである」
人口比で見ると、殺人で検挙される人がもっとも多い世代は1936~45年生まれなんだそうだ。
「皮肉なことに、「最近の若者」を最も憂いている団塊の世代より上の世代が、最も人を殺しているのである」
ちなみに、「狙われる高齢者」と思われがちだが、これも誤解だ、と浜井浩一氏は言う。
実は高齢者ほど犯罪被害に遭いにくく、被害も増加傾向にない。
「どちらかというと若くて活動的な20代が最も犯罪被害に遭いやすい」
亀の甲より年の功、である。
次は知的障害者。
刑務所に入ると知能指数の検査を受ける。
IQが70未満の受刑者は22.3%。
「ただテスト不能の認知症の人がいますので、知的障害の疑いのある人が大体四分の一と思っていただければいいかと思います」
知的障害者は人口の2%ぐらいだと言われているので、日本では250万人の知的障害者がいる計算になるが、厚労省は55万人を知的障害者と認定している。
つまり、知的障害者の多くは療育手帳を持っていないから行政の支援を受けることができないのである。
刑務所にいる知的障害者となると、療育手帳を持っているのは数%にすぎない。
療育手帳を持っていたら刑務所に入らずにすんだかもしれない人が大勢いるわけである。
また、冤罪も多いように思う。
秋山賢三『裁判官はなぜ誤るのか』に、「被告人がした公判の供述よりも供述調書の方を信用してしまい、そのために事実認定を誤ることがある。被告人と実際に面会してみると、検察官と警察官が調書に記載している事柄がいかに真実とかけ離れ、その内容が被告人の知的水準ともかけ離れているか、などがよく分かるものである。被告人が調書に書いてあるようなことを実際にしゃべれる能力を有しているかどうかは、被告人と話してみれば実によく分かる」と書かれてあり、知的障害者や自閉症、発達障害の人などの場合、調書が作文されるケースは結構あるんだと思う。
社会福祉が進んでいる国では高齢犯罪者は非常に少なく、浜井浩一氏によると「ヨーロッパで深刻な高齢受刑者の問題を抱えている国は、少なくとも私の調べた限りほとんどありません」とのことである。
ノルウェーでは49歳以降は検挙される人の数ががくんと減る。
日本でも、1973年には60歳以上の人はほとんど刑罰を受けていなかったのに、最近の日本では中高年で刑罰を受ける人が増えている。
なぜ高齢者が犯罪を繰り返すのか。
浜井浩一氏はトラビス・ハーシー教授の社会的絆理論から、どんな人が犯罪を犯すか、四点をあげている。
①家族や学校から見捨てられ、何の愛着も持っていない
②仕事や趣味といった建設的な活動には一切参加せず、ぶらぶら過ごす
③自己投資をまったくせず、周囲からの評判も気にかけない
④規則なんて守るに値しない
このように考えている人が犯罪を起こしやすいそうだ。
高齢者は就労が難しいので、収入が不足しがちだし、社会から孤立しやすい。
「絆が弱まった高齢者は犯罪に走るのである」
高齢者の殺人にしても、被害者の親族率が配偶者を筆頭に6割近く(非高齢者では3割弱)、動機は「将来を悲観」「介護疲れ」が多い。
「日本において家族殺は、全体の約4割を占める伝統的な殺人の形態であり、その実数が大きく増加しているという事実はない」
死刑には反対だと言うと、「だったら自分の子どもが殺されても死刑廃止と言えるのか」と突っ込まれることがあり、それに対しては「自分の子どもが加害者になったら、と想像してほしい」と答えていたのだが、これからは「殺人の4割は家族が加害者だ。被害者遺族の4割は加害者家族でもある。それでも死刑に賛成ですか」と反論しましょう。
それはともかく、浜井浩一氏は「家族内殺人は、心理学的には自殺と同じような心理機制をを持っているとも言われている。ある種の拡大自殺である」と指摘する。
「家族内殺人が、もし、増加するとすれば、それはモラルの低下や家族制度の崩壊ではなく、家族を支える社会のセイフティーネットが弱まり、社会的に孤立する家族が増えたためである」
犯罪者を厳しく罰すれば犯罪が減るというものではないわけである。
ノルウェーで日本の刑務所の高齢化のことを浜井浩一氏が話すと、高齢者を刑務所に入れると予算的に高くつくのに、政治家や市民はどうして許すのかという反応だったという。
ノルウェーの場合、「刑務所の中に福祉が自然に入り込んできているのです。刑務所に入っていようが、どんな立場にあっても、福祉の対象から外れるということはあり得ない」、つまり福祉が逃げないのである。
障害者が刑務所にいるなんてことはノルウェーでは考えられないと思う。
日本では、受刑者一人当たりにかかる費用は年間280万円ぐらいで、人件費を除くと大体年間50万円だが、生活保護費は年間百数十万円。
「高齢者や障害者らに対する手当を手厚くすれば、当然そういう人たちが軽微な犯罪を繰り返すという状況はなくなっていくわけです」
収入格差の大きい国ほど刑務所にたくさん入れ、社会保障費率が高い国ほど拘禁率が低くなっている。
格差が少なく、福祉が充実し、人と政府が信頼され、「お互い様」の精神が生き、現実を客観視できる社会は受刑者が少ない。
行政のどこが高齢者の面倒を見ているかという話で、福祉からこぼれてしまった人でも、刑務所だけは拒めないので、高齢者や障害者の受刑者が増えるというわけである。
「経済力を失い(貧困)、社会的に孤立した人が、犯罪を起こし、実刑となるのが日本の刑罰の現実である。刑務所人口が増加するということは、すなわち、福祉がセイフティーネットとして十分に機能していない証拠でもある」
犯罪は心の問題ではないと、浜井浩一氏は言う。。
「さまざまな問題を心の問題にしてしまうのはとても簡単であるし、政治家にとっても都合がいい。心の問題は、個人の問題、つまり自己責任に還元できるからである。しかし、心の問題の背後で、より大きな社会の問題が隠されてしまいがちである」
受刑者の多くは地域の中で生きていけなくなった人たちである。
「刑務所が最後の居場所(セイフティーネット)とならないような社会をどのようにして構築すべきなのか、私たち一人ひとりが考えていかなくてはならない。
そのためには、受刑者が私たちと異質なモンスターではないこと、私たち自身も仕事や家族・友人を失えば、同じような境遇になりうること、つまり、社会が人々を犯罪や刑務所へ追いやっている現実を、自分たちの問題として考えられるようになることが必要だろう」
以前は、犯罪は貧困のせいだから豊かになれば犯罪はなくなると言われていたが、豊かになっても犯罪はなくなっていない、ということをどこかで読んで、なるほどと思ったことがある。
しかし、高度成長に合わせて犯罪が減っていることは事実だし、犯罪と貧困は現在でも大いに関係がある。
治安の悪化を心配するなら、格差の拡大によって貧困層が増えていることに危機感を持つべきだと思う。
犯罪が増えているわけでもないのに、なぜ受刑者が増加したのか。
それは浜井浩一氏によると、体感治安の悪化が判決に影響して厳罰化になったこと、そして仮釈放が減ったことが大きい。
体感治安の悪化ということだが、こんな記事を見つけた。
少年の非行「増えたと感じる」75% 実際は犯罪減少
内閣府は29日、「少年非行に関する世論調査」の結果を発表した。犯罪や喫煙、飲酒などの不良行為を含めた非行が「増えている」と感じる人が75.6%にのぼった。実際には少年犯罪などは減少傾向にあり、実感とのずれが生じていることがわかった。
おおむね5年前と比べての比較で、「かなり増えている」「ある程度増えている」がともに37.8%。「減っている」は3%にとどまった。
少年非行を助長しかねない社会風潮について、複数回答で選んでもらったところ、「携帯電話の普及により、簡単に見知らぬ人と出会える環境にある」(63.4%)が最も多かった。
「携帯電話やインターネットの普及により、簡単に暴力や性、自殺に関する情報を手に入れられる」(47.3%)との回答も目立ち、少年非行にインターネットが影響しているとみている人々が多い実態が浮き彫りになった。
少年非行の防止に大きな役割を果たしているのは何かとの質問には、「家族」が76.4%で最多。一方、「学校」は3.7%だった。行政に対する要望としては「インターネット上の有害な環境を浄化する活動を強化する」が51.7%で、違法なサイトの規制などを求める声が強いことがわかった。(日本経済新聞1月29日)
イギリスでは「国全体で犯罪が増えている」と考えている人が40%で、「自分の住んでいる地域で犯罪が増えている」と感じている人は30%と、ほぼ同じである。
日本では実態と関係なく、犯罪不安だけが高まっているわけである。
「自分の住んでいない日本のどこかで犯罪が増えていることになります。おそらくそれはメディアの中なのでしょう」
最近の子どもは、ということだが、某先生がこういう話をしていた。
中村博志日本女子大教授が小学生389人、中学生1407人、高校生101人、計1897人に「死ぬとどうなるか、どうなると思うか」と質問したところ、「生き返る」という回答を選んだ子は173人、「生き返ることもある」が240人、合わせて21.9%、「生き返らない」「わからない」はともに3割弱という結果が出た(中日新聞2004年12月12日)。
中村教授は「生まれ変わりとの混同が含まれるにしても多すぎる。死の認識の低さが最近の子どもによる事件や問題行動につながっているんではないか」と分析し、某先生は「無理もないですよね」と話している。
しかし、子どもたちが本当に「死んでも生き返る」と考えているかどうかはともかく、それと「最近の子どもによる事件や問題行動」とを単純に結びつけるのは短兵急だと思う。
昔の子どものほうがより多く事件を起こしているのだから。
浜井浩一氏の本がベストセラーになれば治安の悪化という誤解はなくなるのにと思うが、事はそんな簡単な話ではないようだ。
法務省が作っている「犯罪白書」は約10年に一回、少年非行を特集している。
「そのはしがきだけを読むと、いずれの特集でも少年非行の凶悪化と低年齢化を憂いている」
ところが、実際には少年による殺人は減少し、非行のピークは14歳から16歳に上がっている。
法務省も体感治安の悪化のお手伝いをしているのだからどうしようもない。
それと、少年非行とインターネットや有害図書、アダルトビデオなど性情報の氾濫とは関連性がないそうだ。
昭和30年代に強姦事件で検挙される少年の数は現在の10倍以上。
強姦は親告罪なので、被害者が訴えないと起訴できない。
被害者が泣き寝入りをするケースは昭和30年代は今よりもっと多かったはずだから、実際の被害は10倍どころではないと思う。
次に、厳罰化ということ。
殺人件数は減っているのに、無期懲役の受刑者は1772人と増えつづけている。
有期の懲役の平均刑期も延びていて、平均刑期は1996年は24.4月だったのが、2005年は29.5月になっている。
「一人当たりの平均刑期が数ヵ月延びると、中程度の刑務所を一個必要とするぐらい刑務所人口が増えます。逆に言えば、仮釈放を推進すれば過剰収容を緩和させることができます」
仮釈放で出る人よりも、満期で出所する人のほうが再犯率が高い。
だから、仮釈放が増えれば、収容者と再犯者が減って一挙両得なわけなのだが、仮釈放率は昭和49年の57.1%だが、平成21年は49.2%になっているように、その仮釈放もだんだんと減っている。
それは仮釈放の審査が厳しくなったこともあるが、引受人がいないから仮釈放にならないということがある。
仮釈放を申請する人は、帰る家があり、待ってくれる人がいるが、刑務所を出ても行くところがない、仕事がない、お金がない、そんな人は仮釈放を申請せずに満期で刑務所を出ることになるから、行き場がなくて刑務所に戻ることになる。
このことは受刑者の高齢化とも関係ある。
高齢者は再犯率が高い。
「高齢者の場合、仮釈放にさえなれば、つまり引受人さえいれば、ほかの人たちと比べて再犯率が高いわけではありません。ところが、満期釈放の場合、つまり引受人のいない場合は、70%を超える人がかなり短期間で刑務所に帰ってくるということです」
浜井浩一氏はこんなことを言っている。
「治安が悪化したと感じたり、厳罰化を行いたいと思っていたりする人は、同時に、若者が嫌いであるという共通点を持っている」
外国人嫌いの人をこれに加えてもいいと思う。
死刑に賛成する人も同じような人らしい。
どんな人が死刑を支持するのか、浜井浩一氏によると次のとおり。
・格差社会を肯定し、ホームレスは自業自得だと考える人
・治安の悪化を憂い、犯罪不安の強い人
・刑罰の抑止効果を信じている人
・裁判所や選挙で選ばれた議員に対して不信感を持っている人
・防犯のためにはプライバシーの犠牲はやむを得ないと思っている人
こういう人が死刑を支持しやすく、その逆の人が死刑は廃止すべきと考える傾向にあるそうだ。
「もし、日本の世論を死刑廃止に向かわせたいのであれば、政府や人に対する信頼感を強め、社会保障を信頼できるものに改革して、国民の生活不安を取り除き、科学的な思考をしっかり教えることが必要なのかもしれない」
死刑に賛成する人が8割いるということは、政府への信頼が薄く、社会保障は頼りないので、生活に不安を感じている人が多いということになる。
「なぜ略奪ないの?」=被災地の秩序、驚きと称賛―米
東日本大震災の被害や福島第1原発事故が連日、トップニュースで伝えられている米国で、被災者の忍耐強さと秩序立った様子に驚きと称賛の声が上がっている。「なぜ日本では略奪が起きないのか」―。米メディアは相次いで、議論のテーマに取り上げている。
CNNテレビは、2005年に米国で起きたハリケーン・カトリーナ災害や10年のハイチ大地震を例に「災害に付き物の略奪と無法状態が日本で見られないのはなぜか」として意見を募集。視聴者からは「敬意と品格に基づく文化だから」「愛国的な誇り」との分析や、「自立のチャンスを最大限に活用する人々で、進んで助けたくなる」とのエールも寄せられた。(時事通信3月16日)
答えは、もともと日本は治安のいい国だからである。
先日の夜、港の待合室に行ったら、「東日本震災義援金」と書かれた透明なプラスチックの樽(?)が置かれてあった。
直径50cmぐらいの樽には20~30cmの高さまでお金が入っている。
ほとんどは硬貨だが、千円札が何枚も混じっていた。
フタはないし、見張っている人もいないので、お金を入れるふりをして千円札を盗もうと思えば簡単に盗れる。
外国の人が見たら驚くのではないだろうか。
では、どうして日本は犯罪が少ないのか。
浜井浩一「日本の犯罪・犯罪者処遇の何が問題なのか・・・犯罪学の知見から」という講演録をもらったのだが、そこに「来年、国際犯罪学会が神戸で開催されますが、そこのメインシンポの一つも日本の犯罪発生率はなぜ低いのかというということです。政治家が、日本の治安の回復、世界一の治安の復活をと言っていますけれども、日本はまだ依然として世界一なので復活する必要はありません」とある。
専門家でもよくわからないわけです。
この講演録がはなはだ興味深かったので、浜井浩一『2円で刑務所、5億で執行猶予』を読んだ。
他の人の話や文章と合わせてご紹介を。
昭和49年ごろ刑務所の収容人員は4万5千人ぐらいだったが、だんだんと増加し、平成19年がピークで、受刑者だけで7万2千人、未決と合わせて8万1千人を超えた。(なぜ昭和49年かというと、この話をした人が法務省に入省した年だから)
平成21年の一日平均収容人員は76,109人と減っている。
アメリカでは2006年末で約150万人が刑務所に入っている。
これは連邦と州の刑務所で、カウンティにジェイルというのがあり、短期刑などはそこに入れるのだが、70数万人は入っているらしい。
日本で受刑者が増えたといっても、人口比ではアメリカの10分の1である。
刑務所の収容人員が増えたからといって、以前に比べて犯罪が増加したわけではない。
犯罪認知件数が2000年ごろから急に増加したのだが、それは犯罪が増えたためではない。
警察の取り締まりや人々の意識(犯罪に対する許容度や価値観)、被害申告率などによって、犯罪認知件数は実態とは無関係に増えることがあるそうだ。
犯罪の中身だが、一般刑法犯(交通関係などを除く刑法犯)の8割が窃盗で、そのうち自転車盗の割合は四分の一、そして万引き、自転車盗、バイク盗、自動販売機荒らし、車上ねらいなどの軽犯罪。
これらの犯罪は以前にはほとんどなかった。
というのも、コンビニやスーパーがないので万引きするところがないし、盗もうにも自転車やバイクは少なく、自動販売機やゲームセンターは存在しない。
暴走族もバイクが手に入らなければやりようがない。
「昔からある伝統的な犯罪というのは実は減っているのが実態です」
殺人と傷害致死で死亡している人は少なくなり、2007年は515人ぐらいと、一日2人を切っている。
「日本は他殺で見ると世界でもっとも安全な国です。これほど他殺の少ない国は先進国の中ではありません」
しかし、自殺は一日平均90人。
「他殺の五十倍とか百倍近い数の方が亡くなっている場合があるということです。そういう意味で、日本が人を殺さない国なのかと言われると、微妙なところがないわけではありません」
こういうところが浜井浩一氏の話術のうまさである。
少年犯罪も減っていて、どうしてかというと、浜井浩一氏は「少子高齢化なので数が減っているのが大きいですね」と言う。
ええっという話だが、通常は犯罪のピークは20歳ぐらいで、年齢を経るごとに人は犯罪をしなくなっていく。
「当然のことですけれども、犯罪を最もしやすい二十歳前後の人がどんどん減っていくと犯罪の総量としては減っていくことになります」
外国人の犯罪が増えていると思われがちだが、これも間違い。
「たしかに外国人の犯罪件数は一時期増えたが、全体から見れば、ほとんどが不法入国・滞在などの入国管理法違反と窃盗といった軽微な犯罪である」
検挙率はあまり変わっておらず、高い率を保っている。
検挙率が下がった時期があったが、それは警察が忙しいと、賽銭泥棒で百件ぐらいの余罪があっても、調書を取ったのは5件だけにすることがあって、残りの95件は統計上は未解決の事件となる。
そうすると検挙率が下がる。
「これはちょうど1999年から2000年ぐらいにかけて日本の検挙率が世界最低になったとか言われた時代の検挙率の低下の一つのからくりです」
刑務所での保安事故も驚くほど少ない。
刑務所からの脱走は昭和49年が6件6人だが、平成19年に拘置支所からの逃走以来、逃走事故は発生していない。
昭和49年の6件6名にしても、明治23年以降の最低だそうだ。
少年院の逃走も昭和49年は38件64人、平成21年は2件2名。
受刑者同士や受刑者による職員への殺傷事件も少ない。
日本は刑務所の中も安全なのである。
というように、日本は犯罪が少なく、極めて治安のいい国なわけです。
最近は凶悪犯罪が増えた、親が子どもを殺し、子どもが親を殺すなんてことは昔はなかった、世の中がおかしくなっている、と言う人がいるが、それは自虐的日本観である。
山口県、原発建設工事の中断を申し入れ
山口県の二井関成知事は14日、福島第一原発の爆発事故を受け、中国電力が進める上関原子力発電所について、建設工事の中断を同社に申し入れたことを明らかにした。
同社の松井三生副社長と13日に会談した西村亘副知事が、上関原発が福島第一原発と同じ沸騰水型であることに触れ、「国と東京電力の対応を見極め、必要な措置を講じてほしい」と、工事中断を求めた。松井副社長は「申し出の趣旨は重く受け止める」と答えたという。
中電によると、上関原発はマグニチュード(M)8・6の地震を想定し、4・6メートルの津波に耐えられる護岸を整備する計画。
二井知事は「今回、上関原発で想定する規模を超す地震(M9・0)が発生し、事故が起きたのだから、国や中電は今後どうするかを考えることになるだろう。工事を中断して対応してほしい」と述べた。(読売新聞3月15日)
堤防や護岸の工事をすればいいという問題ではないと思うのだが。
「祝島島民の会blog」には、山口県や上関町と中国電力とのやりとりが詳しく書かれてある。
以下、引用。
13日
山口県の西村副知事が中国電力の松井副社長と面会、上関原発建設準備工事(埋立て工事含む)に対して「きわめて慎重に対応」することを要請。
中電側は「趣旨は重く受け止める」と返答。
上関町の柏原町長も「今後の事態の推移を見きわめながら、慎重に対応するよう中国電力に要請した」とのコメントを発表。
14日
中国電力はこの日も朝から予定地で工事を続行も、抗議でこの日の作業を中止。
住民からの問い合わせに中国電力の地元事務所は「作業のことは把握していない」と回答。
また「福島は福島。上関は上関で粛々と進めていく」、「今進めている作業は福島とは関係ない」と社員が答えた、という人も。
山口県の二井知事が記者会見。
13日の中電への要請を明らかにし、「具体的なことは言わなくても、中国電力はしかるべき対応をしてくれると理解している」とコメント。
マスコミは「県知事が作業の一時中断を中国電力に要請」と報じるが、ネット上では中国電力は一般の方からの問い合わせに対して「慎重な対応を、と言われただけ。陸上の作業を慎重に進めている」と答えたとの報告も。
この日の夕方には、柏原町長があらためて工事の一時中断を中国電力に要請したとのこと。
15日
午前、上関原発の立地プロジェクトリーダーでもある中国電力の山下社長が作業の一時中断を決め、「東北関東大震災による福島第一原子力発電所等での事象を踏まえた対応について」を発表。
作業の一時中断とは言うものの、現地での発破作業など、不十分な詳細調査によって現在も行っている追加調査などは続けるとのこと。
中国電力は建設を中止するつもりはないらしいし、まして脱原発などは考えてもいないように思う。
ある会で、非核非戦と反戦反核とはどう違うのかという話になり、私もあれこれ考えたのだが、どうもよくわからなかった。
たまたまウィキペディアを見てたら、「非戦論」にこのように説明されている。
非戦論とは、戦争および武力による威嚇や武力の行使を否認し、戦争ではない手段・方法によって問題を解決し、目的を達成しようという主張、社会運動である。
なるほど、非戦とは戦に非ざるあり方、すなわち、ただ戦争に反対する(反戦)ことにとどまらず、戦争のように武力で問題を解決するのではない、別の解決法を求めることなのである。
非核も、核兵器を廃絶しましょうということだけではなく、核の平和利用(原発など)をも含めた非核、つまり核によらない生活とは何かを求めていくことだと思う。
具体的には地熱発電、風力発電といったことしか、私のぼんくらな脳みそでは思い浮かばないけれども。
大地震で被災された人に何ができるだろうかと、二、三の人と話したのだが、資格や経験のない我々は、下手なことをしても邪魔するだけになる、寄付することぐらいしかできないのではないか、という話になった。
ある人は、ささやかだが電気や石油を使う量を減らしていると言ってた。
買い占め、買いだめに走らないことも非ざるあり方だと思う。
「大震災は天罰」「津波で我欲洗い落とせ」石原都知事
石原慎太郎・東京都知事は14日、東日本大震災に関して、「日本人のアイデンティティーは我欲。この津波をうまく利用して我欲を1回洗い落とす必要がある。やっぱり天罰だと思う」と述べた。都内で報道陣に、大震災への国民の対応について感想を問われて答えた。
発言の中で石原知事は「アメリカのアイデンティティーは自由。フランスは自由と博愛と平等。日本はそんなものはない。我欲だよ。物欲、金銭欲」と指摘した上で、「我欲に縛られて政治もポピュリズムでやっている。それを(津波で)一気に押し流す必要がある。積年たまった日本人の心のあかを」と話した。一方で「被災者の方々はかわいそうですよ」とも述べた。(朝日新聞3月14日)
相変わらずわけのわからないことを言っているが、これはカルマの清算という意味だろうか。
麻原彰晃は『トワイライトゾーン』昭和60年10月号で、「2006年には、核戦争の第一段階は終わっているでしょう。日本も死の灰の影響を受けているはずです。核戦争は、浄化の手段ですね。だから、私は『ノアの箱船』も信じられます。選りすぐったレベルの高い遺伝子だけを伝えるんです。だけど、人が『自分の分け前をさいて人に与えよう』というように考えない限り、『浄化』はなくならないんですね」と述べているそうだ。
日本は我欲にまみれている、津波で押し流せ、というのと同じ発想のように思う。
こうした日本はダメだという発言は、右派お得意の自虐論である。
こういう人が都知事に再選されることこそ憂えなければならないと思う。
一方で、海外メディアは日本を讃えている。
人民日報「日本国民が混乱せず、整然と震災に対応していることに感銘を受けた。地震の防災や救助の面における日本政府と国民の優れた面は、中国が見習う価値がある」
ウォール・ストリート・ジャーナル「大自然からの打撃に遭っても生き延びる備えを、日本人がどれほどきちんとしているか指摘せずにいられない」
ニューヨーク・タイムズ「日本の人々には真に高貴な忍耐力と克己心がある」
韓国・中央日報「凍り付くような恐怖の前で日本人は冷静な国民性を遺憾なく発揮している。われわれは日本から学ぶことが多い」
タス通信「ほかの国ならこうした状況下で簡単に起こり得る混乱や暴力、略奪などの報道がいまだに一件もない」
阪神大震災の時にも、商店の掠奪、支援物資の奪い合いなどが起こらないどころか、コンビニで整然と並ぶ人たちの姿を各国のメディアは驚きとともに賞賛していた。
日本以外の国ではおそらくあり得ないだろうと思う。
いろんな団体が支援活動を始めている。
しかし、支援物資はいつでも発送できるそうだが、車止めとガソリン不足で足止め状態だそうだ。
東京のスーパーやコンビニでは食料品、乾電池、トイレットペーパーなどが売り切れ状態だという。
都知事としては我欲を言うのなら、買い占めが行われていないかとか、救援活動をどうしたらいいかといったことの対応をきちんとしてほしい。
と思っていたら、石原都知事は発言撤回、謝罪した。
東日本大震災:石原都知事、「天罰」発言撤回 会見し謝罪
東京都の石原慎太郎知事は15日午後、記者会見し、東日本大震災を14日に「天罰」と表現したことに対し、「発言を撤回し、深くおわびいたします」と謝罪した。(毎日新聞3月15日)
千年に一度の地震だという。
新潟県上越市に住む知人のメールによると、上越市でも震度4で、船酔いしてるみたいな揺れ方だった、12日の余震は強烈で震度5強、今も余震が続いている、とあった。
千葉に住む姉の家では、瓦が落ち、法面が崩れたので家が傾いたそうだ。
通常なら震度5でも大ニュースなのだが、しかし被災地を映し出すテレビの映像を見ると、それだけかと、不謹慎ではあるが思ってしまう。
クリント・イーストウッド『ヒア・アフター』の冒頭シーンはリゾート地を襲う津波である。
2004年のスマトラ沖地震による津波をリサーチしたものだと思う。
突然、海の水が陸地に入ってきて、人々をなぎ倒し、家をつぶしていく。
CGにしても、どうやって撮ったのかと思うリアルな映像だった。
しかし、今回の津波に比べたらきれいごとにすぎない。
一面、瓦礫と泥と水面のテレビ画面を見て、つい前日まで、一時間前まで日常の生活が営まれていたことなど想像できない。
伊坂幸太郎『重力ピエロ』に「大事なのは陳腐でありふれたものなんだよ。カルシウムとか、ビタミンとか、そういうつまらないものが人生には必要なんだ」とある。
そうした、陳腐でありふれた、しかし人生にとって必要なことが一瞬にして崩れ去ってしまう怖さ。
認知症の私の父は一日中テレビを見ているが、大地震があったことを理解していないらしい。
でも、安全なところで高みの見物をしている私だって同じことで、被災者の痛みをどれだけ想像できているか。
被災者の方や身近な人の安否を気づかっている人たちとは、同じ映像を見ていても受け取り方が全然違うんだろうなと思う。
今年は阪神大震災の十七回忌にあたり、神戸で行われた法要に行った。
神戸の街は震災の跡はなく、完全に復興しているように見える。
しかし、被災した人は16年たっても少しも変わらないと言われていた。
今回の地震も何年かたてば被災地は復旧して、そういうこともあったという話に世間ではなるだろう。
しかし、被災して多くのものを失った人たちは過去のお話になることは決してない。
それにしても、日本の原子力発電所は安全だと言ってきた電力会社や御用学者はどんな弁解をするのだろうか。
想定外だったと言い逃れするんだろうけど。
「爆発的事象」というような奇妙な日本語で説明されると、そうやってごまかしているのではないか、原発の状況をきちんと伝えていないのではという気になる。
チェルノブイリは今でも半径30kmは立ち入り禁止だという。
福島原発の近隣に住む人が家に戻れたらいいのだが。
「第3回親鸞フォーラム」での香山リカ氏の発言。
「私の病院に、稀に先天性の障害を持っている人が診察に来られます。けれども、親も面倒が見られず、すぐ施設に入れられます。ほとんど自分で意思を全うしたりもできず、ただ寝たきりで世話をされている人です。そのような人たちが、少しにこっと笑ったりすると、ケアする側の人たちが「ケアしてよかった、喜びが与えられている」と言う人もいるけれども、私にはとてもそうは思えません。
では、そのような人たちは生きている価値はないのかと言えば、私はただ生まれただけで生きている、誰の役にも立っていなくても、人から迷惑だと思われていても、生まれたからには生きていく権利、価値があるのだと思わないと、このような人たちのことを説明できないと思うのです」
率直な意見ではあるが、香山リカ氏はこういうふうに思っているのかと、ちょっとがっかり。
だけども、香山リカ氏の言ってることは、素朴なだけに大切な問題提起である。
以下、知的障害者の施設で働くA氏から聞いた話。
重度の障害者(40代)が透析を受けなければいけないことになったのだが、後見人(両親はすでになくなっている)は「透析しなくていい」と言っている。
いくらなんでもひどいというので、施設の人が透析の付き添いボランティアを募集しているという。
A氏の話だと、認知症や知的障害の人には透析をしない場合がけっこうあるそうだ。
何もできない障害者をわざわざ透析させてまで延命させる必要があるのかと考える人もいるだろうが、それなら、私は透析してまで長生きする意義があるのかということになる。
B氏からエーリッヒ・フリードのこんな詩を教えてもらった。
対策
なまけ者を殺す 世の中は勤勉になる
醜いものを殺す 世の中は美しくなる
おろか者を殺す 世の中は賢くなる
病人を殺す 世の中は健康になる
悲しんでいる者を殺す 世の中は愉快になる
年寄りを殺す 世の中は若返る
敵を殺す 世の中は友だちばかりになる
悪者を殺す 世の中はよくなる
「敵を殺す」は戦争だし、「悪人を殺す」は死刑。
知的障害者には透析しないのは「おろか者を殺す」だし、尊厳死や延命措置をしないというのは、「病人を殺す」「年寄りを殺す」こと。
「殺す」というのはなんだけど、「私の目の前からいなくなればいい」に置き換えたらどうか。
たとえば、「なまけ者(アル中やホームレス、ニート)がいなくなればいい」とか「犯罪者をどこかに閉じ込めて、私から遠ざけてほしい」とか。
あるいは「障害者が私の目の前にいなければいい」ということ。
以前、C氏がこんなことを言ってた。
日曜日にデパートに行ったら、脳性マヒの人が車椅子に乗って来ていた、日曜日みたいな混む日にわざわざ来なくてもいいのに。
なんてことを言うんだとその時は思ったけど、認知症や寝たきりの老人養護施設へ見舞いに行くのは、正直、気が重いわけで、人のことは言えない。
それとか、死別の悲しみを話したくても、「いつまでもクヨクヨしないで」とか言われて、話をなかなか聞いてもらえない。
「悲しんでいる者を見たくない」である。
いやなことが目の前からなくなると安心できて幸せになれる。
死刑というと自分とは関係ないと思いがちだが、死んでもいい人がいるということでは戦争や障害者や尊厳死と通じるし、自分と無関係な存在にして安心したいということではホームレスや依存症者、そして身近な人をなくして悲しむ人を遠ざけることとつながってくる。
「第3回親鸞フォーラム」を読む。
シンポジウムを文章化したもの。
パネリスト3人と司会のやりとりがどうもかみ合っていないように感じる。
たとえば、香山リカ氏が「「長幼の序」を持たなければいけないというのは、それは自分を世話してくれた親や社会のためにいろいろしてくれた人だからです。例えば、ずっと悪いことばかりをしてきて、おじいさんになった人に対してはどうでしょうか」
「「悪人」とまでは言わないにしろ、自分に対してよくしてくれなかった人でも、年寄りになったというだけで敬うべきなのでしょうか」と問う。
これを受けて宮崎哲弥氏は、「お年寄りならば、悪行を重ねてきた人であっても敬わなければならないのか」という問題を悪人正機の視点からどう考えるかと尋ね、司会の武田定光氏がそれに答えた中で、こんなことを言っている。
「かつて、オウム真理教の事件で、「麻原彰晃は浄土にいけるのか、いけないのか」という問いに、「いけるに違いない」と答えた方がいました。けれども、あれは言い過ぎで、本当にいけるかどうかは、如来が決めることで、我々が決めることではない」
ここらが話がかみ合っていないと感じるところで、悪人とは誰のことか、浄土往生とはどういうことか、といったことがパネリストに共有されていないと思う。
香山リカ氏は、社会のためにならない人、そして自分に対してよくしてくれなかった人が悪人であるし、宮崎哲弥氏にとっての悪人は悪行を重ねてきた人である。
悪人の定義が三つも言われているのだから、話がかみ合うはずはない。
五木寛之『親鸞』に出てくる極悪人の黒面法師が「十悪五逆のかぎりをつくすわたしでさえも、念仏すれば救われるのか。どうだ。答えてみろ」と、親鸞に問いただす。
香山リカ氏と同じ問いである。
それに対して、親鸞は「十悪五逆の悪人といえども、至心に懺悔し、一心に念仏すれば必ず救われる」は答える。
この答えで香山リカ氏は納得するだろうか。
また、「麻原彰晃は浄土往生できるか」という問いにしても、浄土往生はいつなのかということが人によって考えが違う。
普通は、麻原彰晃は死んで浄土(いいところ)に生まれるか、という問いだと理解すると思う。
西本願寺の正式の教義では往生は死後だと聞いた。
親鸞の手紙、『歎異抄』、『御文』などを読むと、たしかに死んでから往生するとしか読めないとこがある。
しかし、『今、ここに生きる仏教』での大谷光真西本願寺門主の次の発言は、死後の浄土の否定と受けとれる。
「たしかに「浄土で会いましょう」とか、「今この世で別れても、またあの世で会いましょう」と言うときに、この世に生きている今の私たちが目にしたり手で感じるような形や色がそのまま死後にもあってそこで再会できる、という考え方はできないと思います」
あるいは、
「このつらい人生のあとに、またつらい人生というのではね。やはり安らかな浄土に生まれたいとごく素朴に感じて、お念仏しておられた方もたくさんいらっしゃったと思います。それを一概には否定できない。それはそれで、私は大事な生き方だったと思うんですけれども、現代人はそれだけではちょっと物足りないのではないかと思います」
私はその通りだと思うのだが、親鸞会あたりが非難しそうです。
それはともかく、「浄土にいけるのか、いけないのか」ということは、救いとは何か、どうなることが救いなのかという問題である。
そこらをまずはっきりさせないと、いくら論じ合っても話はかみ合わないと思う。
それと思うのは、親鸞フォーラムは対費用効果を考えているのかと思う。
笑ってしまったのが、『今、ここに生きる仏教』で上田紀行氏が「伝統仏教界を見ていると、誰も読まない刷り物を刷ったり、そういうのがお得意で(笑)」と話していること。
大谷派で史明、芹沢俊介、上田紀行の三氏が対談をし、それが本になったそうだ。
上田紀行氏と大谷派職員とのやりとり。
「これは当然、一般の人も読めるんですよね」
「もちろん読めます。京都の二つの書店に置いていただくことになっていますので、一般の方がちゃんと手に取れるようになっています」
「えっ! 全国で二つの本屋さんですか。あとはどうなるんですか」
「末寺に一冊ずつ送ります」
「それって、誰も読まないということですよね」
笑い話ではないのだけれども、まあ、こんな催しや事業ばかりしていると感じる昨今である。
『宗教と現代がわかる本2010』に「2009年海外ニュース」というのがあり、ちょっと興味深いものをご紹介。
9月12日 ダーウィンの映画、米で配給拒否
進化論を唱えた英国の博物学者ダーウィンを描いた映画『クリエーション』について、米国の複数の配給会社が配給を拒否したため、上映見送りとなる可能性が高いことが、英紙『フィナンシャル・タイムズ』の報道で明らかになった。(略)進化論への拒否感の強さを理由に配給を拒否された。2月のギャラップ社の調査では、進化論を信じる米国人は39%にすぎない。
アメリカはイスラム諸国のことをあれこれ言えないガチガチのキリスト教国家なわけだが、一方イギリスではこんなニュースが。
1月6日 英国で「無神論」バス広告キャンペーン
「神はおそらく存在しない。悩まないで人生を楽しもう」という広告を付けた路線バス約800台が英国各地で4週間の予定で運行を開始した。劇作家アリアン・シェリン氏のアイデアに、無神論を主張する英国ヒューマニスト協会と動物行動学者のリチャード・ドーキンス氏などが協力し、広告費を集めるため賛同者から1口5ポンドを募ったところ、約14万ポンド(約1900円)が集まり、実現した。
ネットで調べたら、発端はバスを使ったキリスト教団体の広告だそうだ。
「劇作家アリアン・シェリンさんがその広告主のサイトを見たら「キリスト教徒でなければ永遠に地獄で苦しむ」
カチンと来て反撃広告のアイデアを新聞のコラムに書いたところ、無神論者のグループなどが同調」
こうして、無神論バス広告が実現したというわけである。
ネットでこんなニュースも見つけた。
「AFP通信によると、英国ではキリスト教の信仰を捨てるため、ここ最近で10万人以上がインターネット上で「洗礼破棄証明書」をダウンロードしているということです」
まあ、どれほど真面目な気持ちでダウンロードしているかわからないが。
では、イギリスではキリスト教の信者はどれくらいいるのか。
「(英国国教会の)教会の選挙人名簿(熱心な会員名簿)を見ると、07年は117万3000人と前年比3%減となっています。ちなみに07年半ばの英国の総人口は5110万人と推定されています」
日本のキリスト教信者は約100万人だそうで、それから考えても英国国教会の117万人というのは少ない。
イギリスの宗教離れ、教会離れは日本の比ではないらしい。
では、このニュースはどう考えたらいいのか。
4月13日英国人の4割、幽霊の存在を信じる
英国の神学シンクタンク「セオス」が、2060人を対象に行った調査で、英国人の55%が天国を信じ、39%が幽霊の存在を信じ、27%が輪廻転生を信じていることがわかったと発表した。1951年のギャラップ社の調査では、幽霊の存在を信じる人は10%にすぎず、この半世紀で人々の意識が大きく変化したことがわかった。
これもネットで調べると、この記事はさらに以下のように続く。
「星占いを信じる人は22%、占いやタロットを信じる人も15%でした。
1950年のギャラップ社調査では、幽霊の存在を信じると答えたのは10%、幽霊を見たことがあると答えたのは2%で、51年にはカード占いを信じる人は僅か7%、星占いは6%だったことから、「セオス」は半世紀の間で人々の意識が著しく変化したことに着目しています。
1998年の調査では、カード占い18%、星占い38%、幽霊40%、幽霊と接触した人15%、また2004年では幽霊を信じる人が若干増え42%。
「セオス」のポール・ウーリー代表は「科学の力ですべての説明を済ませようとする動きはもはや過去のものとなった。今回の調査結果は、人々がより多様かつ、型にはまらない信仰を持つようになったことを示している。この10年間で見ると、超自然的なものへの懐疑が僅かながら強まっている」と語りました」
まっとうなキリスト教信者が減る代わりに、怪しげなことを信じる人が増えているわけで、おそらくキリスト教の信者数と幽霊や占いを信じる人の割合は反比例するのではないかと思う。
となると、宗教=迷信なのではなく、宗教を信じない合理主義者こそ迷信(疑似科学を含む)に迷うということになる。
こういうニュースもある。
3月25日 米司教会議、レイキは「非科学的」
米国のカトリック司教会議は、「レイキ(霊気)」療法は迷信に相当し、キリスト教の信仰面からも自然科学の観点からも妥当性を欠くとする指針を発表した。
こういう指針を発表するということは、アメリカではレイキをやってるカトリック信者が多いんだと思う。
進化論を信じないのは創造論という疑似科学(迷信)を信じているからで、だからレイキという疑似科学にはまる、というのは間違った三段論法です。
ちなみに、花粉症に効くというレメディを飲んでいるが、やっぱりクシャミは出るは、目はかゆいはで、効果はない。
ま、ホメオパシー信者はレメディを服用しているから症状が軽くてすんでいるんだと言うんだろうけど。
もう一つ、こんなニュースを。
4月5日 メッカのモスク、礼拝方向を誤って建設
イスラームの聖地、サウジアラビアのメッカにある約200のモスクで、カーバ神殿の方角を示す「キブラ」が誤っていたことがサウジアラビアの『サウジ・ガゼット』紙で報じられた。
間違った方角に礼拝することはイスラム教徒としての務めを果たしていないことになるのだろうか。
そうだとしたら、長年の礼拝が意味のないことになって天国に行けないことになる。
もっとも、メッカでそれなんだから、遠方の地方だったらキブラの示すメッカの方向はもう滅茶苦茶なんだろうけど。