某氏から勧められていた末木文美士『仏教vs.倫理』をやっと読む。
仏教と倫理の関係からさまざまな問題提起されている。
あれこれと考えました。
釈尊の悟りの内容には「教えを説く」「衆生を救う」ということは含まれていないと末木文美士は言う。
悟りと、衆生を救いたいという慈悲とは別だというわけである。
大乗仏教では自利(悟り)利他(慈悲)円満だから、悟りと慈悲は一つの体系である。
そして、小乗は自己の悟りしか考えていないと、大乗仏教は批判した。
しかし、釈尊の教えは自己の悟り(成仏)が目的だから、利他がないと批判するのはおかしいことになる。
しかも、大乗仏教によって仏になったものがいるのか(自利)、衆生を済度しているのか(利他)。
その問題を宮元啓一『ブッダ』にはあけすけに書かれてある。
部派仏教では、仏にはなれないけれども阿羅漢にはなれる。(略)それにくらべて、大乗仏教では、仏どころか涅槃も不可能なのである。大乗仏教の、「仏教」としての存在意義は、いったいどこにあるのだろうか、筆者の疑念は尽きるところを知らない。
たしかにそうだと思う。
そして、末木文美士はこう書いている。
救うべき菩薩から救われるべき衆生へ、という展開である。
しかし、目の前に苦しんでいる人がいたらどうすべきか、ということは大問題である。
末木文美士によると、大乗仏教にも2つの立場がある。
即身成仏・仏性説の立場 利他の実践を自らが成仏して以後の問題として先送りする。
法相宗の立場 仏になるというのは先の話であり、今は菩薩として衆生済度の行を実践すべき。
前者の立場である鎌倉新仏教は社会的実践を軽視し、後者の立場である旧仏教は社会救済事業に尽くしたのは事実である。
法相宗は利他行は往相で実践すべきと説く。
日本仏教の流れは仏性説が主流となっている。
こういうふうに末木文美士は整理しているが、社会(他者)との関わりという点から考えるならば、上座部仏教や法相宗に軍配を上げたくなる。
今月号の「真宗」に「お坊さんはどうして社会問題に疎いのでしょう」という言葉があったが、ほんと、そのとおり。
本覚思想について
仏性について
ところで、ここで注意を要するのは、仏性の平等ということは、現実の不平等を少しも解消しないということである。むしろ現実の不平等を隠蔽する理論として用いられる可能性も大きい。最終的には同じように成仏するのだから、現世の不平等は我慢しなさい、という論法は容易に成り立つ。
本覚思想も仏性説も、単純に現実を肯定してしまうおそれがあるということである。
苦の衆生の救済を説きながら、苦や差別をそのまま是認してしまう教えに陥ってしまうという矛盾。
何もしなくてもいいんだということになり、さらには、何かしようとすること自体がはからいだとして否定してしまう。
この問題を考える糸口として、末木文美士は他者の問題を取り上げている。
菩薩であることの根拠は自己の中にではなく、他者との関わりの中にあるのである。
釈尊も永遠に衆生と関わり続ける限り、どこまでも菩薩である。その際重要なことは、菩薩の菩薩たるゆえんはあくまで他者との関わりの中にあり、仏性とか如来蔵のように、実在的な基盤があるわけではない、ということである。
「他者」とは単なる他人ではないそうだが、難しいことは私にはわからない。
だけども、救いは他との関わりの中でしかあり得ない、と思っている。
出家遁世型から、世俗にまみれたお坊さんが増えたけど、世俗で根っこを張っている。。。ネットワークを持っているお坊さんが少ない。どこかに、奢りがあるのでしょうね。自分の手柄が欲しいというのか。。。自分たちでできないことは、外注すればいいのになあと思います。
広くネットを張ってどこかに引っかかってくれればいい。。。自分が助けられなくても、他のところで引っかかればいいというスタンスじゃない。で、その網の中で、例えば葬儀を受け持つ。。。ということでもいいんじゃないでしょうか。
その方から、怪しい宗教法人がカンボジアNGOを作って活動しているが、いろんな問題があると聞きました。
これは大げさに言えば、日本とカンボジアの友好関係にも関わる問題です。
だったら、本願寺とか教務所とかが何かできるんじゃないか、カンボジアに学校を作るとかできると思うんですよ。
じゃ、お前がやれ、という話になるわけですけどね。
実際、最初は個人で活動されている方はおられるわけです。
だけど、何かしたいけれど、自分一人で何かする行動力はない、とはいっても、どうすればいいかわからない人(坊さんも含めて)はたくさんいると思います。
ネットワークと言われますが、自分で作るとなると難しい。
「ボーズ・ビー・アンビシャス」につづく
そして、こういった「自然」についてだけ縁起を語るのではなく、「ここに一人の娼婦がいます。この娼婦は。。。」と社会的存在である人間についても考察を深めます。
で、井筒さんのプレ分節、無分節、ポスト分節のようなお話も、山とか海とか花鳥風月の話にだけに終わらせなければ、神秘主義とかスピリチュアリティに陥らずに済むと思うんですが。
そして、自分の「迷い」が自分を苦しめているのだけではなくて、他人を苦しめていたのだという「気付き(悟り)」を得ることがなぜいけないことなのでしょうね。
まあ、確かにうっとうしい話、重たい話ですよね、社会問題というのは。で、往々にして「知らない事は罪だ!」とか「○○という経験をしていない者は未熟者だ!」という脅しというのか、語り口を社会派は流布させてしまうのですね。。。
井筒俊彦「意識と本質」はわらからないながらも、知的好奇心をくすぐられました。
わからない者がわかった気になって読むわけですから、本質がどこかにあって、それこそが一大事!なんて思ってしまいました。
こういう話は今でも好きですが、書斎の暇人ですよね。
で、社会問題。
結局のところ、みんな感情論のところでグチャグチャ言っているように感じます。
だから片寄っている。
もうちょっとバランスよくできないものかと思いますし、好きだからやっているんだ、面白いよ、これ、というとこでいいのではないか、とも思います。
ホームレスの話も面白かったですよ!
ありがとうございます。まあ、アハハと笑う面白さではなくて、興味深いという意味ですね。
で、コメントが交錯して申し訳ないのですが。「悟り」を開かれたお坊さんたちが交わす会話の中で有り得ないことのたとえとして「石女」が出てくるわけですが。
http://blog.livedoor.jp/kiraido/archives/50116173.html
これ、人間の滑稽さ(愚かさ)を皮肉るような句を続けて、有り得ないことの例えとすればブラック・ジョークとなってガハハと笑えて面白いと思うのですが。お坊さんは、噺家じゃあないか。
兎の角とか亀の毛とかはともかく、石女という言葉自体が無神経ですからね。
ま、落語も障害者差別と受け取れる笑いもありまして、一概にダメだとは言いたくはありませんが。
笑いというのは時には毒ですね。
西本願寺では、「信心の社会性」ということばがあるそうですが。社会の問題に取り組む。。。というと何か大上段にものを構えて、そこには「売名行為」というのか功名心、優越感、縄張り意識。。。といったものがからまってくるといわれるのですが。
http://www2.big.or.jp/~yba/QandA/02_04_16.html
けど、まあ聖典の学習会をやっていても、「ずいぶん賢くなったなあ。こういうことを知らない世間の人らは。。。」なんて気持ちも起こりますし、「帰謬論証派はああだ、こおだ。それに比べてわが○○派はどうたらこうたら」なんていう住吉会系ばりのセクト主義がアタマをもたげたり。。。社会派という人々に投影している人間(自分)のいやらしさも充分、味わえるなあと思うのですがねえ。。。
笑いと毒というのは、私にとって長年のテーマです(笑)。露の新治さんが、この分野では先駆的なお仕事をされてますね。
http://park1.aeonnet.ne.jp/~sinjikai/jinken34.html
「社会的使命」ということ、使命なんて重々しくて何だかいやですね。
おっしゃることはわかるつもりですが、真面目すぎる気がするし。
何にせよバランスでして、お経は読めるが、何が書いてあるかわからないというは困るし、真宗聖典を丸暗記していても、お勤めがいい加減じゃ坊さん失格だし。
>露の新治さんが、この分野では先駆的なお仕事をされてますね。
露の新治さんという方、分類すれば社会派ですね。
笑いというのは人をバカにして笑うという要素があります。
風刺にしてもそうです。
人の不幸、苦しみを笑う。
権力に対しての笑いやまるっきりのナンセンスならともかく、人を笑いものにする笑いを笑う自分を恥じないとね。
文学作品のトータルな内容も無視し、あるいは会話の前後の文脈も何もかも関係なく、ある言葉をぜったい使ってはならないというもの。
また逆に自主規制なんていうのもありますね。そういうややこしい指摘を受ける前に、いっさいある言葉を使わないこと。
落語の中にも、障害者が出てくるネタがあります。極端な人は、障害者が出てくること自体を禁止するようなことを言う方もいます。でも内容だと思うのですが。
視覚障害者を扱った代表的なネタに「景清」と「心眼」があります。江戸の「景清」は人情噺ですが、上方のそれはギャグ満載のものです。
http://senjiyose.cocolog-nifty.com/fullface/2004/11/post_21.html
http://homepage3.nifty.com/rakugo/kamigata/rakug171.htm
http://senjiyose.cocolog-nifty.com/fullface/2005/08/post_c179.html
私は、「心眼」というネタが好きです。ここでも、「醜女しこめ」が出てきて、不快感を抱かれる女性もおられるかも知れませんが。ネタの前半で描かれる夫婦の細かい情のやりとりが、オチを救うと思っています。
誰にでも思い当たるような、そういう「人間の愚かしさ」を笑う。。。そのウラにはある種の哀しみを伴っているような、そんなネタ、芸を私は好みますが。
しかし、目の見えない人が「めくら」という言葉がいやだと感じられるなら、やはり使うべきではないとも考えます。
落語の場合、何を笑っているのか、がポイントでしょうね。
障害者を笑っているのか、差別する健常者を笑っているのか(与太郎のように)。
言葉狩りは嫌いですが、今まで見過ごしてきたことが実は問題だったんだ、ということが差別語という指摘でわかってきたということはありますね。