佐々木閑「自死・自殺を仏教の視点から考える」は、仏教は自殺を禁じていないとします。
釈迦が「この我々の肉体は汚れたものである」と説き示したため、これを誤解した弟子たちが、「それなら死にましょう」と言って、自殺したり、互いを殺し合ったり、他人に自分を殺すよう頼んだりしたという逸話です。これを機に、釈迦は「人を殺してはいけない」という規則を制定したといわれます。物語の中で記されている「自分で死ぬ」という言い回しから、あたかも自殺が禁止されているかのように理解する方がいますが、そうではありません。律のどこにも、自分で自分を殺すこと、すなわち、自殺が罪に問われるとは記されていないのです。(略)
『サマンタパーサーディカー』という律の注釈書は、この物語の中では相手を殺したり、お互いに殺し合ったりすることだけが罪であって、自ら命を絶つこと、自分を殺してほしいと頼むことは罪に問われないと明記しているのです。
https://shimbun.kosei-shuppan.co.jp/kouenroku/12782/
佐々木閑「仏教からみた持続的組織論」は、僧侶が抗議のために焼身自殺することを取り上げています。
https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/192433/1/LCS_4_10.pdf
なるほど、ベトナム戦争を抗議して僧侶が焼身自殺をしたことがあります。
ですが、佐々木閑さんはその前の個所で、仏教は命を絶つ行為を禁じていると語っています。
いまの日本では、脳死がどうだ、安楽死がどうだと、死に理屈をつけて考えようとします。しかし、法治主義の仏教は、どんな理屈があろうと人の命を絶つ行為に関われば、殺人者として排除します。戦争は、場合によっては殺人を正当化します。死刑も殺人を正当化します。社会的な状況が変えるのですが、仏教は社会的な状況とは無縁の法律に基づいていますから、人の死に関われば殺人になります。お坊さんを裁判員にして殺人事件を扱わせたら、お坊さんはどんな事件であろうが死刑判決に賛成しません。賛成した瞬間に僧団から永久追放になるからです。
仏教のお坊さんは、この律があるおかげで、どんなことがあっても殺人に加担しません。「人に手を上げてはいけない」とも書いてあって、いっさいの暴力が法律違反なのです。
『パーリ律』の「いかなる比丘も故意に人体の生命を断じ」の「人体」とは自分の体を含まないということでしょうか。
自殺自体はかまわないが、人に自殺を手伝ってもらうのはダメというのも変な話です。
厭世観、もしくは病苦から死を選ぶ比丘がいたために釈尊は殺人戒を定めたわけですから、自殺を禁じていると思うのですが。
木村文輝「「自殺」を是認する仏教の立場」は、仏教は安楽死や自殺を容認するという立場です。
http://ur2.link/3VpX
釈尊は、不殺生を基本理念とし、基本的には自殺を認めていない。
しかし、自ら死を選択する行為をする比丘がいたが、釈尊は彼らの自殺を非難していない。
安楽死はその選択が周囲の人々に認められていることと、安楽死を願う者に死期が迫っていること、安楽死を願う者が耐え難い苦しみにさいなまれており、それを取り除くためには安楽死以外の他の代替手段が存在しないこと、及び、安楽死を願う者が自らの人生において為すべきことを為し終えたという充足感を抱いていることという4つの条件が満たされている場合に限り、是認され得るように思われる。
木村文輝さんは釈尊は自殺したと書いています。
私は同意しがたいです。